Dec 31, 2006

大晦日

 今年も残りわずか。皆様よいお年をお迎えください。
   一昨日診察の日、年金の更新に必要な「障害状況確認届」(診断書)を持っていった。これで、次期の年金の等級が決まるようだ。何級になるかお金のことなので気になる。先生に日常生活能力のことを話し、先生は目の前で、いくつかの項目を書いてくれた。来月誕生月なので提出。次回診察までに書いていただくことに。診断書代はけっこうする。
 昨日、友達がチケットが余ったというので、門真のなみはやドームに「メダリスト・オン・アイス」というアイスショーを見に行ってきた。テレビで見るのと実際はちがう。単に上手下手でみるのではなく、雰囲気と云うものがとても楽しめる。僕は中野選手がとても可憐で、地味なのだが、いいなと思った。ジャンプは、全体の中の一要素であると同時に、特にハイレベルで競技している選手にとって、大事なものだとわかった。安藤選手は、怪我で出れず。
 今日は大掃除。窓拭きやベランダの掃除などをする。午後には彼女の家の犬に会いに行く。彼女が外出するとそればっかり気にしてあまり、ぼくと遊んでくれなかったので、げんきんな奴だなあと思った。
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Dec 30, 2006

六ヶ所村ラプソディー

 第七藝術劇場で上映されている『六ヶ所村ラプソディー』はとても面白かった。面白いというと変かもしれないが、頭の中に悪い意味での?が浮かばなかった映画だ。
 六ヶ所という土地、場所というか、そこに生きる人と、「生命」というもののリンクを思った。けして簡単ではないその関係性を、見事に切り取っていく。ドキュメンタリー。現実にあるということを強く思う。しかも、いろんな人が、その個性のまんま撮られている。かわいい犬達。おいしそうなトマト。うたうおばあちゃん。雪かきをするおじいさん。津軽三味線がいい。賛成派も反対派も、子ども達の未来と云うのを考えているが、その方向がまるでちがうまま、別の大きな力が作用して、稼動しようとしている不気味な施設。日本の行く先を見ているようで、確実に他所事ではない。このままでは、やはりおかしい。そこで、声をあげる難しさもこの映画はきちんと撮っていた。
 今日ふと思ったのだが、僕は、これから現実を生きようとしている。へんな言い方だが、そう思った。プラグマティストの鶴見俊輔の本を手に取ったのは故あることかもしれない。
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Dec 28, 2006

今日の言葉

 「己(おれ)は人間でないのだ。人間の中に交ってきた。それがまちがいだったんだ。」
 肺腑をつかれる思いだった。これは、鶴見俊輔『詩と自由』の中に引かれた、あの中井英夫の言葉。(最近の自分は何かぬるい言葉を吐いているのではないかと感じた)解説はしない。焼酎の久米仙を少し飲んだ。今は酔っていない。
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Dec 27, 2006

超能力はわからないとして思うこと

 相棒が旅行に行っているのでひとりです。だから、昨日はだらだら酒を飲んだり、ぼーっとテレビを見ていました。みなさんに「くだらない」と笑われるかもしれないのですが、恐いもの見たさに、単なる野次馬根性から、江原啓之の「天国からの手紙」と「FBI超能力捜査官」を見ました。死後の世界も超能力もよくわからない私ですが、多くの人が「この世を超えたもの」に惹かれているのでしょう。それはやはり何か現実は辛いのでというのがあるのでしょうか。
 両者ともうさんくさいのは、抜きにして見ていたら、重大事件の犯罪被害者遺族の方が、出ていました。被害者家族救済というのが進んでいない中で、わらをもすがる気持ちで、出ていたのでしょうか。江原さんの方は大阪の姉妹殺人放火事件で、FBIのほうはライブドアの堀江元社長の昔の側近の怪死でした。
 僕は、切ないものを感じていました。例え法があったとしても、大きな悲惨の当事者ともなると、身近な死、それも殺人ですね、きわめて痛ましい。怪死事件の方も、自殺として、いくつかの不審点があるにもかかわらず、片付けられたのですから。僕たちは、というか、マスコミは、時がたてば、片付けてしまいます。片付けられていないのにです。しかも、他人の僕たちも、日々いろんなことがあるので、当事者に共感し続けるというのはなかなか難しい。外から気づかうことくらいしかできないかもしれません。
 彼らがたとえ、エンターテイメントとして扱われてしまうとしても、出たというのは切実なものがあったということ。見過ごせません。そのことが気になって、何か真剣に見ていました。超能力はわからないとしてもです。他の多くの身近な人が亡くなったことにしても、様々な生を見るのでした。それはそれとして、テレビは死をもネタにするということを忘れてはいけないでしょう。しかし、身につまされることばかりです。生きている間は、僕たちは、誰かを常に見送っているわけですから。
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NHKを見ていたら

 角野卓造さんが出ていた。『サイドマンブルース』という番組でラサール石井が司会だった。この人は小劇場出身なのだということを初めて知った。僕の好きな北村和夫さんがVTRで出演していて、角野さんに、「ちょっと真面目すぎる。もっとレールをはみ出すような初めてのような芝居をやってほしい」と云っていたのがとても印象深く、愛情の深い人同士のようで、いいなと思った。何かにひたむきに取り組む人に僕は憧れる。きっと愛情が深くなっていくと、どんどんひたむきになり、北村さんくらいになると、自由というものを考えるのだと思った。きれいなおじいさんだな。
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Dec 25, 2006

イブは合評会

 私のホームページが1周年です。8000アクセスを超えました。細々と日記を書いていても、読んでくださる方々がいて、大変あたたかい気持ちになります。ありがとうございます。
 イブは何をしていたかというと合評会でした。イブにもかかわらず、いつもより多くの方が参加していて、ありがたい気持ちでした。マイミクの方を誘ったら、参加してくれました。いい作品を書いてきてくれて、とてもうれしかったです。ありがとうございます。詩を書くというのはむずかしいことですが、何も肩の力を入れて書かなくてもいいと自作を振り返って思いました。
 帰って、ささやかなクリスマス会をしました。シャツをプレゼントしてもらって、早速着たりしていました。元憂歌団の木村充揮のCDがすごくピッタリでした。
 今日は買い物に行って掃除して、年賀状を出しました。ちなみに今年のベストCDに一番聴いたスガシカオの〝PARADE〟を入れたいと思います。2位くらいです。紅白で、どんなステージをするのかなあ。
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Dec 22, 2006

今年のベストCD・本

 CDは、ジルベルト・ジルの〝ジル・ルミノーゾ〟です。ボサノバとジャンル分けする以前に、僕は、この曲たちから、音楽そのものの、可能性の追求をとても感じた1枚でした。8曲目が、痛快で、どこへ連れて行かれるのかと感じました。世界に対する強い何かが表現されていると思います。7~8曲目が節目になっていい流れを作っています。このようにうたいたいと思いました。巧みの技です。詩の哲学性はすごいものがあります。和訳で読むだけでポルトガル語はできないのですが地球の裏側にはとんでもないうたうたいがいます。
 今年出たのではないCDではムーンライダーズの〝マニア・マニエラ〟、THE BOOM〝ノーコントロール〟、コールドプレイの〝パラシューツ〟が良かったです。チャレンジしているものが多いでしょうか。
 本は永井均『西田幾多郎』かな。といっても、いろんな意味で僕が揺るがされたのは、このブログでも何度か取り上げましたが、小泉義之『病いの哲学』です。批判めいたことを書きましたが、何か、僕の中の何かがこの本に強い反応を起こしたのだと思います。何かよそ事とは思えなさ過ぎるというか…僕の文章にお見苦しい点やてんてこ舞いな部分があらわれているのは、やはりその反応のゆえだと思います。けっこう舞い上がりました。かっこ悪いなあ…
 詩の先輩である方々が、強い関心をこの本にもっていることを見聞きして、力のある本なのだと改めて認識しました。
 もともと専門でもないのに哲学的な事柄に惹かれます。それでよく頭がこんがらがっています。冗談ではなしに、来年もさらに、頭をもつれさせてやりたいです。まだもつれ方が足りません。いくつかの主題をからめあい、エッセンスが星のようになれば、何かの星座ができるかもしれません。そうすると何かがはっきりするように思うのです。咳がひどくなってきたので、この辺で終わり。  
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Dec 21, 2006

「元気」を気ままに考える

 病気を治すには、寝ることと起きることが大事であると思う。こういうと当たり前かもしれないが、私は病気になってから、ふたつのバランスが当たり前にとれなくなることが大変深刻なことだと知った。今はだいぶマシになっているけれど、それでも、薬がないといい睡眠はとれない。試しに抜いてみると、悪夢、眠りが浅い、夜中目が覚めてしまうなどなど。
 カウンセリングの先生に「元気ですか?」と聞かれた。先生はある人に「元気ですかと聞かれてどう答えていいかわかりません」と云われたと打ち明けた。「元気」、むずかしい言葉ですねと。私はアランの話を出した。うろ覚えだが、「ご機嫌いかが?と聞いても機嫌はもともと悪いのが当たり前だ。それにいいですよと答えるのが礼儀」とか何とか。字は違うが、両者とも「気」について尋ねている。ニーチェは東洋の哲学を尊敬していたが、「気」という言葉を知っていたら、あんなに力んで「力」という必要はなかったのではないか。
 先生と「元気」の「元」は何だろうかと云う話をする。私は「はじまり」と「根源」の意味があると思いますと答えた。もともとあるもので、常にはじまりであるようなもの。「病気は気が病むことでしょうか?」と先生が尋ねるから、私は想像で、病気も元気の中にふくまれていて、病気は元気の或る状態ではないでしょうか、と答えた。こう考えると「病気」と「健康」をつつむ「元気」という状態があると仮定できるだろう。「病いの哲学」もこの「元の気」=生命のことを云っているのかもしれないと思った。私たちは大きな生命=元気の中を沈んだり浮かんだり(斉藤和義の「劇的な瞬間」の歌詞みたいだな)しているのかもしれない。そう考えると、ニーチェが病気の中でも「私は健康だ」と云っていた意味がわかる気がする。
 私はふたつの声を今年は聞いてきた。一方は「がんばれ」で、もう一方は「がんばるな」である。そのふたつの間で私は平衡状態を保ってきた。これが養生というものである。はじめの起きると寝るもそのことだ。何とかある平衡状態を保てたので、これからはもっと自分らしさを出していこうと思う。私の持つ欠如や葛藤に新たな形で向かい合いたい。
 憲法について何か書きたいが、なかなか書けない。書かないかもしれないな。気が向いたら書くかも。約束はできません。
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「僕の歩く道」のちょっと辛口な感想

 クサナギくんのドラマが一昨日終わった。以前「僕の生きる道」というクサナギくん主演のドラマがあって、こちらの方が訴えてくるものがあった。だけど「歩く道」のほうもけっこうマメに見ていた。
 次々と、困難をクリアしていく辺りが、私には解せなかった。もちろん、自閉症の人が何もできないわけではなく、私の介護職時代の経験でも、彼らは、その人にとって難しいことをクリアしていくことが度々あり、うれしくなったものだ。私はグループホームにいたから、夜寝れなかった人が落ち着いて眠れるようになったり、今まで家族と一緒にいた人が、親と離れても過ごせるようになったり。
 だから否定はしないけども、あまりにもご都合主義的であった。できること、できないことを静かに見つめるドラマであってほしかった。
 それと、自閉症の人が人を好きになるというのは、あると思う。だけど、このドラマのように、それを両者が「恋愛」として受け入れる事態がどれくらいあるのだろうか。私はこのドラマほど楽観的になれない。もちろん、自閉症といっても、様々な人がいるわけだが、私の職場経験からは「恋愛」という形で成就できる人はあまりいなかった。逆に私は彼らの気持ちがきわめてストレートというか、気に入った人を見つけるセンサーはあると思うのだった。(だから、その点ではこのドラマはおかしくないかもしれない)それが私に伝わってくると、私はしょうがねえなあと思いながら、とてもうれしかった。そういう関係の機微みたいなものがあって、そういうのを出してくれないかなあと思った。全体に私は奇蹟的なエピソードを作り上げてしまうということに反発をもったので、実は奇蹟というのは、いつも起こりつづけていて、それを丁寧に描写してほしいのだが看板ドラマではできないか…。蛇足だが、主題歌が「ありがとう」だからといって、クサナギくんのロードレースのゼッケンを39にすることや、グループホームの名を「ありがとう」とするのは勘弁してほしかった。
 浅野和之さんはとてもかっこいいと思った。本仮屋ユイナちゃんはかわいかった。MEGUMIもちゃんとお芝居していた。他にもしっかり芝居できる人が多くてそれはよかった。だから脚本の持つ思想というのがもったいない。
 昨日は仕事しながら、合間に職場の職員さんと話していてとても楽しかった。憲法のことも話した。このことは、また考えたいと思っている。けっこう危機感をもっている。というか本格的な「憲法改正」というのは、生まれて初めてだ。解釈改憲というのはなんぼでもあったけど、安部さんは戦後初めてが売りなのかなあ。支持率低下といわれているがこれは復党問題のせいだけではなく、結局、この人に色んなことをたくせるかという懸念がでてきたことが大きいだろう。だから普通になってきたのである。小泉さんがお祭り政治みたいなのをやりすぎたので、その反動と云う面では不利だろうが。政治は本当はすごく地味な仕事だと思う。
 最後に亀田勝ったなあ。なんかほっとしたのが自分でも変な感じだった。亀田は相手のことをきちんと勉強しているように感じた。ランダエタは前の亀田のとおりやれば勝てると踏んでいたのだろうか。
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Dec 18, 2006

アップしました

詩のページに「昼下がりのテーブル」という詩をアップしました。
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昼下がりのテーブル

コーヒーカップの横に、本がある。
『「待つ」ということ』 そう本がささやいている。
私の心に問われた。私は何を待っているのか?
コーヒーをかきまぜてみる。
耳が頭がカラダがざわざわしている。



ある日
バスを待っていた
私はバスに待たれていない
単純な事実
ぼんやりと立っている
運転手は時間を追いかける
乗客には用があり
私も学校に行くだけだ
雨のふる日
さむい朝



思い出すあいだ、私はわからないくらいの速度で、年をとる。
小さく小さく年をとる。
バスを待っていた私は、あんなに赤い頬をしていたのに。



それから
あの人の言葉を待っていたことがあった
言葉ではなく心だったのかもしれない
すごく天気がよくて
仕事が休みの日に
あの人と公園にいき
あの人はブランコに乗り
私は背を押した
ぶうーん
ぶうーん
ゆれるのは視界も同じで
加速がつきはじめて
あふれそうになり
小さな背を押しながら
私はあの人の言葉を待っていた



今、私はそんなに用事がなく、せきたてられていないのに、あせる時がなぜかある。
何か大きな山のようなものが、待っているのかもしれないと思う。
そして私はその山に待たれている。小さな緊張が、波となって、よせてはかえす。
なにかはわからないものの前に、立ち、少しずつ生きている。

コーヒーが冷めはじめている





    *鷲田清一『「待つ」ということ』角川選書
    ※初出「かたつむりずむ」1号
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石川武志のデジタルライブペインティングを見に行く

 昨日、弟やいろんな人が企画したデジタルアートイベント(WHITE COME COME)を見に行ってきた。心斎橋のAPPLE STOREへ。驚いた。あのパソコンのMacを売っているところではないか。色々営業大変だったろうなー。私は第三部の弟のデジタルライブペインティングを見た。行ったら弟が手を振っていた。以前天保山でのライブを見に行ったのだが、あれから、非常に発展していた。スクリーンにMacの画面が映し出されるのは同じで音楽がついているのは同じなのだが、音楽と絵のセッションの緊張感がはるかに楽しめたのだ。次々に、色を塗り、図形を描いていき、絵が反転し、色が一気に変わる。そこに、ギター、ドラム、デジタルサウンドのインプロビゼーションが「次、どうなるんだろう」と云うドキドキ感を演出する。弟も云っていたが、絵が生成していく場面に立ち会っている感じがする。完成する時間もちょうど見飽きないくらいで、盛況だった。最後のMCで、弟がギャグかまして「ぼくのために来てくれてありがとう」と云っていたのが面白かった。ある種、何かの興行としてみられるかもしれないが、絵の楽しさをずっと絵を描いてない私も味わったのだった。帰りは非常に寒かった。御堂筋にイチョウの葉がいっぱい落ちてた。 applest01
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Dec 17, 2006

回転寿司

 昨日あきんどという回転寿司屋がマグロ祭りだという広告が入っていたので昼行った。全品100円なのだが、マグロ祭りで、中トロも100円だった。うまかったなあ。マグロも漁獲高が減り、高くなっているのにすごいなあ。本物かなあ。近所だったので彼女と自転車で行く。思ったより混んでいなかった。でも夜買い物で近くを通ったら混んでいた。回転寿司という文化は不思議である。寿司の民主化と呼べるのかどうか。安いのはいいけどね。(でも結構値段をとるところもできてきて、函館市場とかそういうのも人気だ。安いだけじゃ…という人もいるだろう。それもよくわかる)すっかり日本の風景になってしまった。昔は寿司といえばちゃんとしたカウンターの店に親父がたまーに連れて行ってくれる感じだったなあ。家族サービスはわりかししてくれた。おいしいので食いすぎて気持ち悪くなった事もあったなあ。そんなときも店の親父さんがやさしく「食べ過ぎだよ」といってくれたなあ。夜はキムチ鍋、野菜をいっぱい入れるとおいしい。えのきが好き。今日は弟のデジタルライブペインティングに行きます。
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Dec 15, 2006

「生か死か」か?;小泉義之『病いの哲学』にふれて思い出したこと

 今日、日本の医療現場のレポートのような番組をやっていた。tPAという血栓溶解剤の話が紹介されていた。小泉義之の本を読んだ私は、何かとても複雑に感じた。小泉は「生か死か」という問いは愚かだというのだが、そしてこれを引用しだすとキリがないくらいなのだが、私は彼の云う「陰気な」議論を別にしたいとは思わないのだけど。tPAについて読売ON LINEの記事を引用する。



「国内の治験では、脳梗塞の発症後3時間以内にtPA治療を行うと、3か月後に、ほとんど後遺症なく社会復帰できた割合は37%だった。米国での治験もほぼ同じで、社会復帰の割合は処置しない場合より5割高かった。
 全員に効果があるわけではないうえ、副作用もある。tPAの早期承認を訴えてきた日本脳卒中学会理事で札幌医大名誉教授の端(はし)和夫さんも「血栓を溶かすtPAは、脳出血を起こしやすくする。使用の際、医師は細心の注意が必要だ」と指摘する。
 発症から長時間たった後にこの薬を使うと、脳出血の恐れが高まり、効果も乏しくなる。そこで、治療の対象は▽発症後3時間以内▽CT(コンピューター断層撮影)検査で、脳出血の危険性が低いことを確認――などの場合に限られている。
 患者・家族にとって重要なのは「脳梗塞を起こしたら、3時間以内に病院で治療を受ける」ことだ。だが、国立循環器病センターの調べでは、発症後3時間以内に受診した患者は19%しかいない。脳梗塞と気づくのが遅れた、救急車を呼ばず自力で来院した、などが原因だった。」引用元=こちら



 テレビでは一刻も争う、つまり、父が脳梗塞で倒れ、息子が、いち早く、「ハイリスク=ハイリターン」の治療を選択するかどうかという風に流れていた。幸い薬が効いたということだった。
 私は様々な文脈に反応する小泉氏の議論に正直うまくついていけなかった。(これが知的レベルの問題なのか実感の問題なのかわからない)生命の倫理に貢献したい彼の意図はわかるのだが。そして、医療の現場に立たされる素人としての自分の感覚を思うのだった。(いくら知恵をつけても、やはり素人である。小泉氏の言うとおり、それは情報開示などではうまらない非対称性なのだ。)それは、現在の私でもあるし、2~3年前の私でもあるし、小学校のとき、盲腸の腹膜炎で、腹に管を入れて何日か過ごした私の姿だった。
 腹膜炎は手術をしないと、腹膜がやられ、普通の言い方でいうが死に至る可能性は高いのだった。だから、手術という医療技術しかなかった。その前の病院でひどい誤診があって、盲腸でなく下痢と思われていたので、盲腸が裂けて腹の中に膿がでてしまったのだ。私はさらに子どもだったので無力だったかもしれない。しかし、誤診がわかった時の医師の奇妙にニヤニヤした顔を覚えている。恨んではいないが、覚えている。幸い次の病院に救急車で運ばれて、手術を受けて、大事な夏休みがほとんど、つぶれてしまった。退院の前日御巣鷹山に日航機が墜落した。いわく「金属疲労」。
 私は何か云いたいというよりも、小泉氏の述べることをある意味で理解できるのだった。私は、子どもや女の人が入る病棟にいたのだが、病人同士で話すというのも独特の雰囲気で、おばあさんから旦那さんの霊を見た話をされたり、色々摩訶不思議なことがあるのだった。これは山口昌男の言葉だが「負の祝祭性」ともよべるものだ。今無くなりつつある病院の喫煙室で、お見舞いに行ったときなどタバコを吸うときもいろんな人が点滴をぶら下げたりして、包帯を巻かれたり、色んな形で存在するのだった。私が倉田さんの『風について』という詩集を読んだときも感じたことだった。同時に子どもの私にとって、入院というのは、ストレスフルでもあって、舌が回りにくくなったりした。仲のよかった隣りの子もそうなっていたので、なるほどなと感じた。医療現場にはある「祝祭」と、いうも言われぬストレスがあって、私なりに小泉氏の議論を敷衍すると、「祝祭」の側面を解放したいということではないかと思う。しかし、裏腹のように、高度な医療技術や閉鎖性があるのは、単に、みんなが深刻ぶっているからではないと感じる。
 私は低次元の議論を批判し、「低次元」といわれている生を肯定するといっている小泉氏の気持ちがある程度わかる気もするが、現場には精一杯やっている人もいて、そうでない人もいて、tPAの話のようにそこにたどり着く人もつけない人も、存在して、そういう多様性があるような気がしてならないのだ。小泉氏の要求するレベルの医療あるいは医療批判というものがあるとして、小学校のときの私は、やはりその次元に立っていないという記憶が残っている。そしてそれはそれで歴史だと思うのである。こういう積み重ねの上に今がある。私はなぜか、その時医者になりたいと思った。理数系がダメで、無気力であった私は医者になるという夢をわすれた時期もあった。そしてふらふらと福祉の道に入った。夢はダメな医療を受けた反動であろうか、しかし、その医療に助けられもしたのだった。私は、先生がおなかの傷口を見て、「大きくなったら、手術できれいにできるかもね」といったことをよく覚えている。しかし、おなかの下のほうだし、目立たないので整形はしていない。管は三本はいっていたので、三箇所、長い一箇所は10センチには満たないケロイドの傷跡である。大きな傷だったらどう思っただろう。「陰気な」思い出話になっただろうか?そもそもこれは小泉氏への答えになっているだろうか?昨日書いた記事も私の思いであり、さらに思ったので書いた。
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『病いの哲学』を読んでいて

 トルストイが引用されていたが、『イワン・イリッチの死』を思い出した。使用人に足を洗ってもらい、主人公が心を開くところが泣ける。もし興味があったら、読んでみてほしい。私は大学のレポートで読んで、感銘を受けた。黒澤明が『生きる』をつくるときにヒントになった小説らしい。映画は見ていない。
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Dec 14, 2006

感想;小泉義之『病いの哲学』

 「死」というラインを、絶対化し、特権化し、そこから語ろうとする哲学を「死に淫する哲学」と呼んで、それを批判し、死に瀕する生の、つまりは病(小泉氏の論ではこれがイコールになっているようで、少し違和を覚えた。精神疾患はどうなるのだろう?)の生のあり方に強いエールを送ろうとする書と要約してもいいだろうか。恐らく、小泉氏の頭の中では、延命処置を断る考え方(惨めなさまをさらすのは嫌だというような)へのある違和感みたいなものがあって、あくまで生き延びるということを肯定しようとしたのだろう。私はこの意見に対してのコメントはできないと感じる。その時私のできることを精一杯やるしかないと思う。できないこともたくさんある。たぶん、小泉氏は実際に何かあったのかもしれない。彼の考えを知って、私は固定観念からは解放された。それが大事なのかもしれない。
  私には、フーコーについての章がとてもいいと思った。逆に言えばそこから話をはじめてもいいのではないかと感じた。それくらいビビッドな引用。というのは、病による生体の変化を緻密に追っているフーコーの臨死の眼のようなものが光っていて、そこに焦点をあてる小泉氏に熱いものを感じた。彼もまた病むものの前に立ったのだろうそのときの感覚が感じられる。パーソンズの病人の役割の議論も病人の私には新鮮であった。
 不満は、批判から議論をたちあげていること。もちろん批判はいいのだが、自分の考えや話をきちんと書くことがそのまま、何かへの肯定や批判につながる理路は見出せなかっただろうか。仮想敵を作りたがるものは私は最近苦手である。が勉強になった。
 全体に隠されているのは、死にゆく者への感覚の震え、命を感じ取ろうとする振動のようなものではないだろうか。それを私は信じる。  
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Dec 11, 2006

ペチカ6号が出ました

 佐々本果歩さん編集の詩誌、ペチカの6号が出ました!豪華執筆陣の中に弱輩の私もまぜていただいています。今号は、デザイン、中身さらにパワーアップしていると思いました。執筆者の紹介です。

執筆者一覧(敬称略します)

大村浩一
ぬくみりゑ
イシダユーリ
服部剛
どぶねずみ男。
鈴木もとこ
藤井五月
犬飼愛生
石川和広
有邑空玖
佐々本果歩

表紙:あいまいみー

責任編集:佐々本果歩

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魔法の塩

 今日、味噌とショウガというあったまる材料をだしにした鍋を食べた。味付けは薄くした。鍋が終わって、塩を一つまみして、ご飯投入。すごくうまい雑炊!しょうがの味を引き立たせる魔法の塩だった。
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感想;鷲田清一『「待つ」ということ』

 この本は数ヶ月間かけて、折を見ては開き、味わった本。どうしても積読にはならなかった。順調と思われるだろう私の最近の精神生活だが、やはり時折じわじわ、こたえることや、感じることがあり、その度に少しずつ読んだ。
 「期待を捨てて待つこと」をめぐるテーマにうならされることがあったし、期待、希望を置いて、時の流れに飛び込んでいくことが、最後に説得的に前向きに感じられたのは、やはり『ゴドーを待ちながら』の論が充分に「ただ待っている」というポーズにすぎないことの有様を示したからだろう。
 私は「恋愛論」として、この本が読めた。これまでの経験からだろうか。恋愛はままならぬ相手(この意味で恋人は時間の化身なのかもしれない)とどうつきあうかだからだ。その中で「待つ」という要素はとても大きい。ケータイがあろうが同じことである。もちろん「待てない社会」批判としても、子育て論としても、高齢者介護論としても、様々な、その人にあった読み方ができる。色んな文脈に引っ張れる。読みようによってはロマンティックに感じられることがあるだろう。最後にあとがきより引用。これは鷲田の言葉ではなく編集者の今野哲男さんの言葉。「覚悟」とはこういうことだろうか。

 「決心するにも『する』のではなく、『待つ』一面があるのかもしれません。何事かを捨てて空虚な場所を作り、水が満ちてくるように何かがやってくるのを『待つ』とでもいうか」(P196)
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Dec 10, 2006

戦争出前噺

 今日は、こないだテレビで特集されていた、本多立太郎(ほんだりゅうたろう)さんの講演を聴くために、JR宝塚駅前のソリオホールに行ってきた。思ったより、全く暗くなく、元気をもらえるお話だった。その名を「戦争出前噺」という。
 本多さんは3時間しゃべるつもりできたらしい。どうも、打ち合わせに手違いがあったみたいで、もう少し早く終わったが、姿勢良く、声もいやみがなく、ハリがあって、人間は年関係なく、前向きな人は前向きなのかと思われた。彼の講演の見事さは、1150回という回数で、慣れてしまうというものではない。もちろんイデオロギー的には、色々あるだろう。きちんと人を殺したという罪責感を話している。感情を固い話という枠にはめこまれずそのとき感じた実感を手放さない。例えば、田中という兵士の話。田中と同じ汽車に乗って出征した彼は、田中のお母さんと妹が見送りをするときに、彼女らは、取り乱し、追いかけて柵を突破して、田中の名を叫ぶ。彼女らは憲兵らにすぐ取り押さえられて、ぼこぼこに。しかし、兵士は声を出してならない。田中はしばらく呆然とした後、母と妹に向かって、涙を流しながら敬礼したという。本多さんは、それを見て、自分の母代わりのおばあさんが、取り乱すのではないか、どうしようと不安になる。本多さんの郷里(小樽)にたどり着いたとき、おばあさんと父が出迎えに来ていて、本多さんは一生懸命笑顔を作ったという。それを見たおばあさんも答えるように、ニコニコし続けて見送ったという。するとほっとしたと同時に、おばあさんはなぜニコニコ笑うのだろう、育ての親とはそんなものか、なぜ泣いてくれないのかと悲しくなる。
 しばらくして、出征地先に父から手紙が届く。実はおばあさんは、あの後ショックのあまり、ご飯が食べれなくなり、何日か寝込んだ。おばあちゃんは精一杯笑ったのだ。おばあちゃんは心のなかで泣いていたのだ。そのことに感謝せよという内容だった。それを読んで本多さんは泣いたという。発言が封じられている戦禍の中の話だと思った。
 こんな感じが私のようにしどろもどろではなく、感情をこめて話される。ここには、生きている人間がいる。そう思うのだった。数々の反戦教育の中では感じられなかったものだ。私はたぶん私の亡くなった母方のおじいちゃんと同い年くらいの本多さんを見て、同じく兵士だったおじいちゃんを思い出した。祖父も間一髪で生き残ったのだった。
 加害者の話というのは、なかなか話されることがないので(ゆきゆきて神軍は少し違うがそういう部分もあったと思う)貴重である。けして正当化することなく、孫のためというプライベートな動機が彼を支えている。きちんと議論してきたのが、中国の大学生で、大学生は本多さんの恋の話を聞いて「あなたの思い出話を聞きに来たのではない。戦争の話をしてくれ」といったそうだ。本多さんは肯いて「好きな人と別れなければならない。別れというのは戦争を生きる人の大事な要素だ」と答えたという。
 私はここ最近元気がなくて、元気をもらったことは事実だった。それだけでも大きい。人間から伝わってくるエネルギーのようなものを感じた。ところで、本多さんに河上肇をよませたお父さんとは何者だったのだろう?子どもをどう育てたかったのだろうか。
 竹内浩三『戦死やあわれ』や鶴見俊輔の『戦争が遺したもの』が再び読みたくなってきた。(鶴見さんの本は途中までしか読んでなかった。すいません)本多さんは吉野源三郎『君たちはどう生きるか』、日高六郎『戦後思想を考える』、鶴見俊輔『教育の再定義の試み』をあげておられた。いずれもアマゾンの中古で安く買えるようだ。『戦後思想を考える』はなんと1円から!いいのだろうか…
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Dec 09, 2006

昔の同僚と

 私は、ある障害者施設で、働いていたのだが、そこの同僚だった二人と、鶴橋で飲みました。お椀いっぱいのマッコリが出てきたのでびっくりした。「働いている」というのは、すごいことだと思った。私はまだ、少ししか働いていないので、やはり働くのは、ふたつの意味でえらいと思うのだった。「えらい」というのは関西弁で「大変だ」という意味もある。その都度、選択をせまられているのだった。一人の人は、「石川さんはまだですよ」と云っていたのだった。めでたい飲み会だった。ひとりの人の子どもが生まれたので、彼は父親になる。彼にTHE BOOMの『百景』というCDをプレゼントした。めでたい感じのCDである。子を育てるというのは大変なこともあるけれど、親も一緒に大きくなっていくのだと(えらそうに云うと)思うのだった。もうひとりの人とは、顔をあわせて話すという機会が今まであまりなかったので、とてもいい機会になったと思う。きちんと明確に色んなことを考えることができる感じの人だったので、すばらしいと感じた。人と会うと色んなことを思う。とっさには、うまく返答できなかったこともあってすみませんと思ったけど、詩も渡せたし、改めてお二人に「ありがとう。またね。」と云いたいのであった。
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Dec 08, 2006

とりとめもなく

 最近調子はいまひとつである。
 今日、THE BOOMの〝砂の岬〟を聴いていた。久しぶりだ。名曲である。名曲といえば、ジルベルト・ジルの『ジル・ルミノーゾ』はボサノバなのだが、名曲揃いである。これをこないだタワーレコードで見つけたとき、やったーと思った。おススメである。
 昨夜は、TV大阪で、クリント・イーストウッドの『ミリオンダラーベイビー』を見た。不器用な愛の物語。尊厳死については何ともコメントできないが、見ごたえのあるいい映画だと思う。黒人/白人、障害者、女性、色々濃淡があって、でもシンプル。猫月亭さんのおススメがあったところだったので見られてよかった。
 今日ニュースで、『戦争出前話』というのをやっている本多立太郎さんという方が出ていた。92歳なので引退しようと思ったが、安部政権が改憲を掲げているというので、このままではいかんと出前話を続けることにしたらしい。一回見てみたい。    
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Dec 04, 2006

パプリカ

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  昨日、テアトル梅田に今敏監督の『パプリカ』を見に行ってきました。寒さが強くなってきたと感じた日でした。感想はというと、前半はふーん、そうか。後半はまずいなあという感じでした。特に黒幕が出てきて、ゴチャゴチャになるあたりが中途半端という感じでした。ちょっと厳しいかもしれませんが、そんな感じです。
 ものをつくるというのは、どこかに「問いかけ」というものがないといけないのではないかという気がしました。『パプリカ』は、男と女、夢と現実という既存の前提を疑うことなく描かれている気がします。もちろん、疑わなくても、優れた作品はできます。ただ、アニメだからといって、「人間」を描くことを忘れてはいけないような気がします。『アキラ』や宮崎作品を、つまり先行した作品をあまり工夫もなくなぞっている部分も気になりました。もちろん、なぞったって、いいわけですが、そこに今さんなら今さんの(別にシリアスにならなくてもいいです。シリアスでなくても、すぐれた批評性は発揮できるわけですから)人間や世界に対する、独自の視点というか問いかけが介在していなくてはちょっとまずいのではと思いました。これらは全て老婆心ですが、「ものをつくる」というのは他人事ではないので、心していかなくてはと個人的には感じました。たぶん、純粋な鑑賞者の意見とは異なるので、それはわかっています。
 今日『ファイトクラブ』をDVDで見ました。『パプリカ』と同じ夢というか、ある種の無意識が露呈してくるという意味では似た感じなのですが、ひねりを感じました。どっちが優れているという問題ではなく、私はこちらの方が、好みかもしれません。
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Dec 03, 2006

宮沢トシの恋

 朝日新聞の昨日の折込に、土日になると入るのだが、be on Saturdayという小新聞みたいのがあって、その中の「愛の旅人」という連載が面白い。ここのところ、文学者についての「恋愛沙汰」について書かれているのだ。前回の深田久彌が「日本百名山」で売れる前、妻も小説家で、かなりの部分を、彼女に書かせていたということが載っていて、小林秀雄や川端康成は「パクリ」を見抜いていたそうなのだ。深田久彌は、その後離婚して、初恋の人と結婚している。これもびっくりしたが、今回のはかなりびっくりした。
 宮沢賢治の妹トシは、賢治が愛していたのは世によく知られているだろう。そのトシは花巻高等女学校時代に初恋をした。その学校の先生で、バイオリンを習っていたという。そこまではいいとして、実はその先生に、もう一人の学生も恋していて、その方とは両思いだったという。トシは、ラブレターを書いたまま、出すかどうか迷っていたが、そのラブレターが同級生にばれて、学校中のうわさに。それどころか、当時の新聞「岩手民報」に、二人の女学生と先生の関係として、載ってしまったのだという。
 それで、大騒ぎになって、トシは、故郷にいられなくなって、東京の大学にいったというのだ。トシは、秀才だったという。しかも、東京に出てから、ある宗教にはまって、それが、排他的な宗教とはちょっとちがうみたいで、彼女の信仰が(記事には「排他的な法華経信仰」の賢治と書かれているが)賢治の心を動揺させていたみたいなのだ。トシは病に倒れて故郷で先生になるが程なく亡くなってしまった。
 トシのスキャンダル(?)を知った、山根知子さんという研究者は、このことを発表していいか、墓前まで報告に行ったそうだ。
 賢治とトシ、少し似たもの同士だなと感じたり、賢治の感じていた妹、賢治の宗教観についても少し再考を促される気がした。
 矛盾を抱えた人間達の像がリアルに迫ってくるようだ。賢治の伝記的事実では浮かび上がってこない何かがあるような気がする。
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金時鐘さんの今日の夕刊の記事

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 モーガン・フリーマンという役者さんは、年老いて、さらにかっこよい人だと思うのだが、私は金時鐘さんという詩人を拝見したことがあって、この人かっこいいなあと思っていたのだけど、今日の朝日新聞の夕刊の文化欄の記事(小野十三郎賞の記念講演)は、彼女に勧められて読んだのだが、とても元気をもらった。私はまだまだの人間なのですが、肩をたたかれたような、そんな強い気持ちが伝わってきた。
 以前彼の講演で、「詩は身銭を切って書くものです。まさに身を切って書くのです」と熱い言葉を聞いて、そのときの感じをよく覚えている。すかんぽという文学学校の近くの飲み屋さんに彼の姿を見たとき、ここに詩人がいる、生きている詩人がいると思ったものだ。とてもやさしそうで元気な感じで、なんといっていいか、立ち姿がいい。何かの折に彼の詩を読んだとき、その場から動けなくなったことがある。体系的にテクストに接したことはないけれど(ごめんなさい)、印象に残る方だ。驚くべきことに、今、印象に残る生きたフレーズを私たちは、口にできているだろうか。

 記事から、いくつか引用する。「光に映えるところほど、裏の暗がりは深いのです。だから詩は、誠実に素朴に生きている側にあるべきものなのです。それを疎外する一切のものとは当然向き合わざるを得なくなります。ですので詩というのはけだし、言葉だけの創作に限りはしません。そのように生きようとする意志力のなかにこそ、そう(日常になれあってしまうこと;石川註)であってはならないことへの批評が息づいています。そのこと自体がもはや詩といっていいものですが、その批評を言葉に発露できる人が詩人ですので、詩は好もうと好むまいと、現実認識における革命なのです。」

 安部政権の「美しい国」という言葉を書き換えるように彼はこうも云っている。

 「見過ごされ、打ち過ごされていることに目がいき、馴れ合っていることが気になってならない人。私にはそのような人が詩人なのですが、その詩人が満遍なく点在している国、路地の長屋や、村里や、学校や職場に、それとなく点在している国こそ、私には美しい国です。」

 「見過ごされ、打ち過ごされている」というのは、自由のことだと思う。左翼的なことに限らず、抵抗の初志というのを忘れないということだと思う。何気ない違和感を大切にすること、ひっかかりを言語化すること、勇気のいることで、しかし、そうでないと生きているということが枯れてしまう。彼は枯れていない詩人である。何より「点在」というのがいい

 最後にK-1で、ボンヤスキーがキンテキ攻撃に耐えて勝った。しかし、次のラウンドに進めなかった。代わりに、出てきたピーター・アーツが負けはしたが、決勝で見事な戦いをした。 
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Dec 02, 2006

セブン

永井均『西田幾多郎』読了。西田には詳しくないが、ぐいぐい読めた。少ない分量で、力技で、西田を論じていることに、いろんな意味ですごいと思った。本を書く上での戦略という意味で勉強になる。あらっぽいけど。
 矢部史郎+山の手緑『愛と暴力の現代思想』をふと拾い読みして、この本がいいかは別として、デビッド・フィンチャーの『セブン』という映画のことが書いてあり、偶然ツタヤも半額だったので、『セブン』と『ファイトクラブ』を借りる。『セブン』を見た。彼女が恐がっていた。矢部は、警察権力のもつ正義が、犯人の手によってもたらされ、犯人と警察が逆転するさまを面白がっていたが、私は、モーガン・フリーマン(かっこいい)が演じる刑事の過去に子どもをおろさせたということがポイントでないかと思った。いわく「こんな腐敗した世界に子を産み落としていいのか悩んだ」と。このような感覚に内在している暴力への誘惑には考えさせられるものがある。男の身勝手といえば、それまでだ。普通にはいいにくいことが云われている。ある意味では、宗教的に清潔すぎる論理なのだと思う。清潔さの逆説だ    
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Nov 30, 2006

紅白

 年末年始の番組は、とりわけ変なので、あまり見ない。スガシカオが紅白に出るというではないか。何か変な気分だが、ちゃんと違和感をただよわせていただきたい。順調に、記者会見に欠席しているようだ。見るのかな?
 他に様々なことを考えた。アマゾンから、メールが来ていて、『ウェブ進化論』という本が宣伝されていた。今年、私は何度も本屋に行ったけど、買っていない。理由は知らない。ただ、レビューを読んでいると、なぜか180件近くレビューがあり、なぜか虚ろな気分になってしまった。本屋が好きだった。でも近所の旭屋は、リニューアルされてダメになった気がする。市場主義にやられていて悲しい。アマゾンは見かけなくなった本も置かれているところがすばらしいとは思うけど、そうではなくて、シブいコレクションの本屋とか、たまに見かけると何かいい感じと思う。でも、別にそういう本屋ばかり行くわけではないけど。図書館は無産階級のユートピアではないかと思ったころもあった。
 大学の恩師は、本は新刊を買いなさいと云っていた。ある意味、罪な教えだ。
 知らないままにずっと考え続けている。何を考えていると対象化はできないけれど。くだらないことでも、考えているというのは、ひとつの仕事だ。考えるというのは、人を個別化させるし、とんでもなく普遍化させる。こんな言い方じゃないけれど、ハンナ・アレントもそういっていたように思う。思い出しました。
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Nov 29, 2006

朝日新聞を読んでいて

 今日は掃除。これから診察です。
 朝日新聞で、「いじめている君へ」、「いじめられている君へ」という著名人にメッセージを書かせる連載が続いて、キャンペーンをはっている。こういうのを書くのは難しいだろうなあ。大体、しょうもない内容で終わってしまうのであった。鴻上尚司や宮本亜門はひどかったなあ。(意外にも久保純子がよかった。留学のときの日本人差別、帰ってきてからのいじめにはリアリティがあった)大体「大人に相談しなさい」みたいに終わらせてみたいなお約束があるような気がする。それはそうかもしれないが、どうなんだろう。
 まず、現場で何が起こっているか、綿密なレポートがあるべきだが、そういうのは外部に漏らせないのかな。でも、そこからしか始まらないような気がする。「何が起こっているか」、その複雑さを考えた上で、これなら云える、という感じのほうがいいのではないか。また、自分の実感、実体験を手放さないことが必要だろう。その上で届かないかもしれないと思いながら書くことはできないだろうか。
 何人か、試しによさそうな人を挙げてみる。なだいなだ、中井久夫、別役実、糸井重里、高見盛、俳優の佐々木蔵之助などなど、でも、大体断られそうな気がする。
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Nov 24, 2006

非時代的音楽感想

 今日は昨日レンタルで借りてきたCDについて書こうと思う。よかった順に挙げていく。5枚借りました。ジャンル等バラバラなのは気にしないでね。
 ムーンライダーズ『マニア・マニエラ』。これは、25年前にもかかわらず、古くなっていない。CD屋にこれとベスト盤がもろもろあったのだが、猫月亭さんのカキコミから、これを聴いてみようと思った。猫月亭さんによるとカセットブックで発売されたそうで、若干、売れない危惧があったものらしい。にもかかわらず、私は、この試みと心地よい裏切りはいいと思うのです。打楽器の使い方、詞の配置、どれも、前衛的で、しかも民族音楽のような暖かみがある。わざとはずす感じがあざとくない。この種のものはあざとくなりがちなのだが、そうなっていない。知的刺激を受ける。
 シガー・ロス『アゲイティス・ビリュン』。アイスランドの不思議なバンド。童話的で一見癒し系のアンビエントに聞こえるが、意外とちゃんとロック魂があるのでは?と思わせる。職員さんはレディオヘッドと同じくらいいいと云っていたが、似ているけど、どうなのかなあと思った。これを聞きながら詩が一本書けた。頭を落ち着かせながらもいい感じにドライブさせる効果があるようだ。
 バービーボーイズ『バービーボーイズ』。ベスト盤。これは意外と古くなっていない。悪くはない。でも何度も聞くのは辛い。フレーズを焼き付ける力はある。80年代後半~90年代初頭に青春を過ごしていたものには、ああ流れていたなあという感じではないだろうか。へんな言い方だがまっすぐな「不良の音楽」である。文化祭で、Xの真似する奴とか、バービーボーイズの真似をするのがいて、へたくそで失笑した。私はその当時、恥ずかしいが、PSY・Sとユニコーンが好きだった。ちょっと痛い高校生かもしれない。
 フー・ファイターズ『ワン・バイ・ワン』、U2『ボーイ』。両方とも、あまり印象に残らなかった。U2は、初期では、私が聞いていたのは『オクトーバー』だが、こっちのほうが、アイルランドという感じがして断然いいと私は思う。U2はけっこう聴く方なので、あえてカライ採点。これはいまいちかなあと思った。フー・ファイターズはザ・フーに名前が似ているので借りてみた。でも、パッションが前に出てない気がする。ニルヴァーナの元メンバーが作ったバンドらしいが、もうちょっとがんばってという感じです。書いてみて、思い出とか自分のドメスティックな感性を思い知らされた。御免。
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Nov 23, 2006

king of pain

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 昨日、詩ができたので、コールサックに送った。それで、仕事。うたた寝して、あやうく、遅刻しそうになる。なぜか昨日は、めずらしく、昼から缶チューハイを一本飲んでいたのだ。いかんなあ。それで、仕事に行くと、職員さんと私だけで、他の人は諸々所用。いつもの同僚さんがいなくてさびしかったし、心配になった。しかし、職員さんは洋楽好きなので、ジョン・メイヤーのことを聞いたりする。知っていたが、あまりお好み(アメリカンな感じなので、そこが苦手だそうだが、私はそこがいいと思ったりする。好みは人それぞれである)ではなかったようで、ブライト・アイズというアメリカの歌い手と、Sigur Rosというアイスランドのバンドを紹介してくれた。帰ってネットで試聴してみると、うーん部分しか試聴できないとわからん。Sigur Rosは、レディオヘッドみたいな感じもしたが、全部聞いてみないとわからんな。帰ってから、彼女と食べに行く。休み前なので、どこも結構混んでいた。tabを送ったら、敬愛する詩人の方から、お手紙が来たのでうれしい。スティングがかっこいいというのでは意見が一致したので、帰って聞いていた。ポリス時代の曲が聞きたくなった。〝king of pain〟が大好きだ。今日はどんなふうに過ごそう。
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Nov 22, 2006

訃報が続いている

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 あのクイズダービーに出ていた漫画家のはらたいらさんが亡くなった。ああ、あの人がという人が次々亡くなっている。よく見ていたなあ。篠沢教授とか。この人はロラン・バルトの翻訳者だったが、はらさんの葬儀に出席したとか。
 写真の俳優の仲谷昇さんが亡くなった。テレビで、小沢昭一さんが同期だということで、しゃべっていた。同期の写真の中には、フランキー堺さんも、写っていた。最晩年は、奥さんがいたが、何度か結婚し、別れ、そのたびに、孤独を増していたような気がしていた。晩年はからだを壊し、浅香光代の舞台も、車椅子で見に行っていたと浅香さんが語っていた。仲谷さんの奥さんは、浅香さんのファンで、そこで知り合ったらしい。すごく、ある時代の香りがする人たちの名前が並んだなあ。
 斉藤茂太さんが亡くなった。あまり手にとって読まなかったし、ちょっと、人生論の本を書きすぎな気がしたが、なぜかというと、何となく、自分の病気と合うのかなという気がして避けていた。でも、きっと大切な人を亡くしたのだと思う。
 今日はJOHN MAYERの〝ROOM FOR SQUARES〟を聞いていた。JOHN MAYERにはまりつつある。タイトルは直訳すると「生真面目な人たちのための部屋」というべきか。    
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Nov 16, 2006

おんがくのかんそう…ジョン・メイヤー「コンティニュアム」

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 私は、洋楽には、うといのだが、試聴して選んだ。ムーンライダースを買いにいって、なぜジョン・メイヤーなのだろうか?そんなことは、どうでもいい。(ムーンライダースの探してたのはCD屋になかった 泣)声がいいなあ。演奏やアレンジはシンプルだけど、かなり凝っている。ただ器用だという人もいるみたいだが。聞いていて疲れない。これは重要なことだ。そして、小さな波というかひっかかりがちゃんとあって、おっと思わせる。一見、情熱が感じられないように見えるが、大抵の「情熱」的なものというのは、情熱の演技だ。もし、この音が演技だとしても、上級のものにちがいない。気持ちにぐっとくるなあ。今の私の気分にあう。他のアルバムも聴きたくなった。
 ※mixiレビューに加筆
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Nov 15, 2006

いじめ自殺連鎖?

 マスコミというのは、良くも悪くも、現代社会ではある。けっこう、歯がゆいこともあるが、これはいかんなあと思うこともあり、結果としてだが、結果として、ある意味、事実が伝わってくるときがある。それは事実の影のようなものだけど。自分に関わりのあることないことが、流されているなあ。
 私は、いじめというものを受けたことがあるが、だから、「葬式ごっこ」事件のことなどは、よく覚えていて、身に沁みたものである。別役実さんが、卓抜な分析をされているのを読んだり、ルポルタージュも何冊か読んだ。
 なんか、その当時より、報道がユルイなあと思うのである。だから、それに悪乗りしてくる輩も出てくるんではないか。今日ニュースゼロという番組がかなりユルカッタので、これはいかんなあと感じている。
 いじめと一口に云っても、実際は、一人の人間がいて、それを取り巻いて、いろんな人がいるわけだ。それぞれの現場で、それぞれの事情があるにちがいない。それが人の思惑、口の端を伝わっていく。語られざるものもあるにちがいない。そういう複雑なあやを解いていかないと、かいくぐっていかないと事実の重さというのは、本質的に伝わらないだろう。いろんなことがひどく陰影を欠いて描かれているように思えるのだ。
 私には、前からマスコミというのはそんなにいいと思わないけど、まともな人が何人かいるだろうと思うけど。
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Nov 14, 2006

お知らせ…新詩誌発刊

倉田良成さん編集の詩誌「tab」の1号が出ました。1号執筆者は、後藤美和子、高野五韻、木村和史、倉田良成、石川和広です。和田 彰氏が装画を描いています。ご希望の方は私宛て(コメント欄に宛先の入った名前を書きました)にメールください。住所記載ください。以下、倉田良成さんの発刊のことばを引用します。

 「tab」発刊について

 新しい詩と散文の表現媒体、まあ雑誌といっていいが、それをよんどころのない事情も手伝って立ち上げることにした。編集責任は倉田がつとめる。同人制というのではなく、もっとゆるやかに考えて、とりあえずこの媒体の解纜にさいし、最初に同乗する五人はいわば常連というか連衆というか。
 経費を最小限に抑えるため、とったやり方はそれぞれの作物はメールに貼り付け、まず倉田に電送する。倉田は受け取ったそれらを自分ところのキカイで編集し一本化していわば雑誌の原形を作り、それをプリントアウトしたいわば版下の紙(綴じていない紙片だが)を各人に郵送、各人は受け取ったそれを必要な数だけコピーして、自分の送りたいところへまた郵送する、というシステムである。それぞれの負担はコピー代と郵送費と、一応、通信電気代ということになる。紙媒体ということに、あくまでこだわりたい。
 「tab」とはご存じのとおり、キーボードで行うある桁から異なる桁へ「飛ぶ」操作なのだけれども、何かを吊したり引っ張り出したりするためのつまみの意もある。最初の連衆の一人である石川和広が、その「ウィトゲンシュタイン・ノート覚書」で書いていたけれど、あるディメンションから異なるディメンションへ、有から無へ、語りうることから語りえぬことへ、メビウスの環を行くように辿り、飛ぶ。そのなかで、今まで形を見せなかった何物か・何事かを引っ張り出すよすがとなれば、と思う。
                       2006年10月5日 倉田良成記

 あざみ書房のホームページに紹介されています。
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今日は少し曇っている

 ぼんやり外を見る。ここも宇宙だ。
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ひとりごと

 宇宙に向かって私の足元は時々つつぬけだ。
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Nov 13, 2006

寝ていました

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 何だか疲れが出て、ここ3日くらい寝ていました。今日はわりかたすっきりしています。SMAPというのは、不思議だと思いました。今日ぼ-っと、テレビを見ていたら、私と年が変わらない人たちがアイドルとして、テレビに出ていて、いつまで、これが続くんだろうと思いました。悪いとか、そういう意味ではなくて。藤田まことがクサナギくんと香取くんにキスをしていて、びっくりしました。藤田さんは、喜劇役者であったのだと思いました。
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Nov 09, 2006

ポロポロ

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 表題においたのは、小説のタイトルである。今日、仕事先の職員さんが、「おススメの本は何ですか?」と聞いたので、田中小実昌(写真左の人)の『ポロポロ』ですと答えた。この本は大事な本である。私は、学生の頃、この本の存在を知り、何度も読んだ。繰り返し読んだ。ちょっと感想とか、そんな段階ではない。今読んだら、どうなのかはわからないけど、頭のどこかにしまわれている。変な言い方だが、私が詩を書くのに、この本は今でも暗に影響を与えているかもしれない。<語る>とは、一体全体どういうことなんだと思っていた私には、魂がもとめていた本といえるかもしれない。その本の名が今日ひさしぶりに口からポロリと出た。どういうことなのだろうか。そういう日だった。もし読みたいと思う人がいたら、是非にと思う。河出文庫から再版されている。(中公文庫のときの装丁はよかった)梶井基次郎もいつか紹介できたらと思う。
 介護職をやっていた時からの私の大好きな友人の子が生まれた。私はすぐメールを返信した。彼は父になる。この妙てこりんな世界に、新しい子が生まれ出た。そうなのだ。やはりめでたい。めでたい。
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Nov 08, 2006

クレヨン、秋の空

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 私のプロフィールが、ご好意により、コールサック社のホームページの「日本の詩人」欄に掲載されました。→こちら。コールサックに掲載した『白い息』という作品も読むことができます。関係者の皆様方ありがとうございました。
 今日は美しい空だと思いました。その一方で、昨日、北海道で竜巻が起こり、犠牲者がでるということがありました。ご冥福をお祈りします。自然とは、非情で、しかも美しい。でも、やっぱり、ここ何年かで気候が変になっているような気がして仕方ありません。それが肌に感じられるようになりました。何十年単位の大きな、地球にとってはそれでも小さな変化といえるのかもしれません。果たして、どこまで環境破壊のせいなのか、私はうとくてよくわからないけれど。
 私は花鳥風月にうといほうかもしれません。しかし、最近、詩に<自然>が時々出てくるようになりました。<反季節>と思った時期もあったりしたのですが、不思議なものです。
 私は絵を描くのが好きだったと今日思い出しました。私がデイケアで使っているコップは、絵の具の絵柄で、それで思い出しました。今日『ファイン』という絵描きの青年のマンガの一巻を発見して、私は<表現>というのをどう考えているのだろうと思いました。でも、はっきりわかりません。なぜか、しりあがり寿の『マンガ入門』を読んだりしていました。マンガと詩になんか関係があるのだろうか?ないかもしれません。読者ということでいえば、詩とマンガは対極です。マンガは読者にとって、つまらなければ、打ち切られます。逆にいえば、それだけお客さんがいます。私は、自分の詩をほめられたら、ニコニコします。でも、ほめた人が、ふだん詩に接していない人であると、なぜか、とてもうれしいです。なぜかなあ?<表現>というのは、私があること自体が神秘であるのが、なぜか(本当になぜかです。理由は色々あるとしてもなぜかなので、芸術は面白いのかもしれません。すぐれたマーケティングをもつ、しりあがりさんの本をもう少し読む必要があるかな)不意に人の心をつかまえることがあって、その瞬間がとても大事だと思います。宗教とはまたちがうのかもしれないし、似た部分もあるかもしれないし、よくわからないです。
 関係ないかもしれませんが、ミスチルの『シフクノオト』は音楽もメッセージもポップス(?)が持ちうるいいものをもっている気がしました。個人的な感じなのですが、今日すんなり入ってきました。『タガタメ』のような切実なものも含めて。アートワークもいいです。クレヨンで書かれたようなジャケットで、結構好きです。
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Nov 07, 2006

木枯らし

 今日、木枯らしみたいのが一日中、吹いていて、一気に寒くなりおった。少し驚いている。からだも、びっくりする。鍋を食べた。郵便が届く。その中身は、また、整理してお伝えします。少なくとも自分にとってはうれしいお知らせができるかと思います。

 自分の思っていることは、必ずいい意味でも悪い意味でも、どこか伝わってしまうし、伝わるものだと最近思う。統合失調症では「つつぬけ体験」というのがあるらしいが、私は、それを常に感じているわけではない。けれども、どこかで、味わっている。では、他者というのはいないのかというと、他者はいる。いるけれども、どこかで、「私」が底抜けになっている感じが私にはある。それは恐いことでもあるし、世界を感じることだ。
 私は、私が存在することに、いつも恐れを抱いてきた。それは、ずっとそうで、みなさんも、そう感じておられるかもしれないが、私はずっと恐かった。今では、それを感じにくくなっているけれど、それでも感じる。そして、それは、人前では言い訳にならない。そのこともとても恐かった。そして、今でも恐い。

 『ガーネット』の50号を知り合いに読ませていただいた。とても、力がこもっている特集で、すべての書き手が、どこかで読ませる。大橋政人さんの「命座」という詩。私の「白い息」という詩と発想が近いような気がして、ずっと先輩ながら、親近感を覚えた。「るなぱあくが正しかった」はすばらしい論文である。高階さんとの面白いコンビネーションである。神尾和寿さんの「現在詩」の特集の文章、私もずっと考えていたことで、お手紙したくなったくらいだった。全ての掲載作に触れるとネタばれになってしまうので、全てについては書かないが、私は楽しく読んだのでした。景色の見える詩が多くていい。
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Nov 06, 2006

器量の小ささ

  自分の器量を超えたことをやろうとするのは、立派で、しかし、時に、見苦しく見えるときがあることに注意したい。現政権がやろうとしている、諸々の重大な戦後体制の変更は、そういうものだと私は思う。戦後体制がもうだいぶ年をとっているのは、事実なのだが、ただ、ジジイだから変えようというのは変だ。私たちの生活にとって、何が切実かという点から、問いが立てられるべきなのに、そうなっていない。問うのが、大事なのに、きちんと問われていない、そういうことが多すぎると思う。
 話はかわって、権威主義も醜いが、時折、自分が権威を手にできないから、既存の権威を批判するものがいるような気がする。どちらも、私の心の中にあると感じるときがある。そういうのを感じると、自分の小ささというものを感じる。
 ここ半年近くフォーラムで投稿していない。うむむ。でも元気にやっています。ちょこちょこ詩も書いてます。
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Nov 05, 2006

広島に行ってきた

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 昨日、大学時代の友人の結婚式に、広島に行ってきた。なかなか、いい結婚式だった。おめでとう!で、帰りに別の友人と平和公園を散歩した。ここが廃墟だったのかと幻視する。イデオロギーとかは抜きで。広島、長崎の原爆については、子どもの頃、人権教育で、映画とかが授業で、やっていて、映画を見たあと、こわくて、給食が食べられなくなったことを覚えている。連休もあって、たくさんの人が平和公園に来ていたのが、印象的だった。修学旅行生も来ていた。カップルもいた。道のすぐそばにあった。なんか、ふつうの景色の中に、痕があるというのがすごいとおもう。何よりカップルがデートしていたり、真面目に見に来ている人がいたり、いろんな人が来ているというのがいい。そういうのが大事だとのんきな11月の暑い日に思うのだった。結婚式帰りなので、白いネクタイははずしたが礼服のまんまだった。
 帰りの電車で昨日紹介した森毅の『ぼくはいくじなしと、ここに宣言する』を読む。すばらしい。『ファイン』という若いアーティストのマンガを読む。これも面白い。
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Nov 04, 2006

ぼくはいくじなしと、ここに宣言する

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  昨日はちょっと調子悪かったが、CDを返しに行ったり、ベルトを買ったりする。他はほとんど寝ていた。河島英五の『元気だしてゆこう』はこういうとき励まされる。他は森毅の新刊を久々に買う。森さんも、昔勇気づけられた一人だ。タイトル、装丁ともにいい。タイトルは『ぼくはいくじなしと、ここに宣言する』である。少し前は弱虫系の本も流行っていたけど、最近はマッチョな言説も多い中、彼の時代に流されなさを感じた。今日は知り合いの結婚式なので、その広島行きの電車の中で読もうかな。
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Nov 02, 2006

流れる雲

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 朝からカウンセリング。今日は、先生がカウンセリングをどこで終えるかということを話された。私はびっくりしなかった。前夜、河合隼雄と鷲田清一の「臨床とことば」を読んでいて、カウンセリングを終えるタイミングみたいなものについて、話されたことが、頭にひっかかっていて、符号みたいなものを感じたからだ。だいぶ自分なりに利用できているので、ひと段落したら、どこかで、ぽつりと終わりがくるかもしれないですねと話した。この世界には、多くの苦悩を持つ方がおられて、先生は、そういう人のために仕事をしているのだった。私は安定してきている。そう遠くない未来に終わりが来ると思うとせつない気持ちになるけれど。
 帰って、はっぴいえんどの「風街ろまん」(やはりかっこいい)、河島英五のCDを聴く(このベスト盤は、代表曲がダブって入っていて、そこはレコード会社がせこいと思う)。河島英五は十代の頃から好きだった。「だれかが風の中で」は大きいうた。痛みがありながら、生きている。かっこいい!勇気づけられる。そして「流れる雲」は代表曲ではなく、いい意味で小さな小さなうた。とても沁みる。自分の未来に思いをはせ、この小さなうたが、そっと、大きな大事なものを、感じさせてくれる気がした。こういう歌うたいはもう出ない気がして、それが切ない。
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Nov 01, 2006

お久しぶりに

 ちょっと更新します。最近は原稿をこりこり書いておりました。先週の土曜日は、猫月亭さんが、石川さん、見に行きました?といわれて、すっかり忘れてた映画「太陽」を見に行きました。たぶん、悲喜劇というのでしょうが、わりかた天皇に好意的に、ときにひややかに描かれていて、私はイッセーさんの演技が、何かものまねともネタとも何ともいえない感じで笑ってしまいました。結構笑いが起こってました。でも、昭和天皇がいわゆる「人間宣言」(本来は神格を否定しただけ)をしたからといって、一瞬でもあんなふうに喜んだとも思えません。草稿を準備した人が自殺したという、悲劇をつけていますが、私はもっと昭和天皇は現実的な人だったと思います。少しかわいい人にしすぎだと思います。第七藝術劇場はけっこう社会派ものが多いようで、三池炭鉱や平壌や、六ヶ所村など、深い題材の映画が上映されているようで、三池のやつは並んでました。帰りベトナム料理を食べました。夜見たドラマの「弁護士灰島秀樹」あまり何も考えなくてよくて、八嶋さんもよくて楽しかったです。
 日曜は忙しかったです。ふたつの詩の集まりに出ました。
 月曜は疲れが出たのか、寝てました。ソフトバンクがなにやら「予想外割」で問題を起こしているようで、云わんこっちゃないなと思いました。焦りすぎ、ソフトバンク。
 昨日は診察に行きました。私がお礼状をすっかり忘れて、冷や汗を書いたと言うと、そういうのもSST(社会的技術訓練)ですよ、学習したのだから今後に行かせばいいですよ、今は社会に慣れていく段階ですと云ってくれて助かりました。で、原稿もできました。
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Oct 27, 2006

こわれもの

 なんだか、疲れていた。その疲れ加減が、何か悩ましい。不器用。そんな言葉が頭に浮かぶ。私は不器用といえるのか。この世界には、私とは質的にちがった不器用さをもっている人がいるという感じがした。そして何が不器用で、何が器用なのか、はてしなく考えて、気が遠くなる思いがした。その他に、なぜ私は他の人の生きている様子を見て「つまらない」と思う権利があるのだろうかなども考えたりする。主観にすぎないのだが、主観というのは色んな意味で、こわい、つわものである。それと同時にほとんどどうしようもなくもろい気もしたり。
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Oct 25, 2006

巣鴨の地主

  安達哲「バカ姉弟」1~3巻を仕事が終わって帰ってから、読了。マンガ。姉弟は地主の子であることが、じょじょにわかってくる。どこか不思議なパワーをもった子どもたち。地主という設定が、非近代的で、超時代的である。しかも名前まで「地主」なのである(笑)設定は巣鴨だが、巣鴨というのは行った事ないので、どんな感じかわからない。どんな町だろう?だけど、知らないのに「ふーん、巣鴨なんだな」と妙に納得してしまう不思議さがある。懐かしいけど、どこか乾いていて、そこに味がある。この著者、やはりただものではないようだ。4巻まで出ているようだが、しかも大人編まであるというではないか。いい短編を読んだような読後感がある。
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Oct 24, 2006

道ならぬ恋

 今日、買い物に行ったついでに、すごく久しぶりに、文芸誌を手に取りました。一時期、図書館などで、読んでいたことはあるのですが、大変疲れるのでやめていました。ひとつの論考(加藤典洋「太宰と井伏」)とエッセイを読んだだけです。論考のほうは、何か、この人にしては、調べものがちゃんとしていないなと思いました。もちろん批評家は考証史家ではないのですが、種本が猪瀬直樹にほとんど限られているというのはいただけません。でも、加藤には、独特の倫理的主題があって、思う人は、「ああ、まだ戦前と戦後の対比やってんの」という感じかもしれませんが、太宰がなぜ、死んだのか、ということに、今までにない取り組みをしている点では興味深い。最初に離婚した女性や、戦争の死者に対して心痛めて彼が自殺したのではないかというのは、事実との整合性は別にして、新たな視点だと思った。少し、加藤の倫理のためにされている点はあるのだけど。そこがいつもひっかかるけれど。
 あとびっくりしたのは車谷長吉のエッセイで、エッセイなのに「上述の愛人と「道ならぬ恋」をするようになったのだった」と書かれており、それが最後の行で、太宰の話の後だったので、びっくり。エッセイで、こんな終わり方はすごいなあ。連載なのだろうか?
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Oct 23, 2006

おばあちゃんの様子

 今日は雨の中をカフェに行ってきました。カフェで腹ごしらえをして帰ったら、詩誌の感想のはがきが届いていました。
 ネットでは足立和夫さんや、木村和史さんが灰皿町に感想を書いてくれています。お便り、メールを送っていただいた方、感想うれしいです。ありがとうございます。
 父が昼にこっちにきて、お米と鯖のきずしをくれました。夜にぎりにして早速食べました。あぶらがのっていて、おいしかったです。
 〆切が近く、一作、詩を書きましたが、できは充分とは云えず、もう少し直さねばと思います。
 父がおばから、聞いた話によると、母方のおばあちゃんは、胃にチューブをいれる手術が成功したそうです。少しずつ、呼びかけに大して反応がかえってくるようになって、チューブを通す前より、少し状態がよくなったようです。
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おばあちゃんの様子

  雨です。雨の中をカフェに行ってきました。
 腹ごしらえして、日記を書いています。詩誌を送ったところ、けっこう好評で、ウェブでは、足立和夫さん、木村和史さんが灰皿町で感想を書いてくれています。お便り、メールなども、来てありがとうございます。
 今度、詩誌に参加するので、何を書こうかなと思っていますが、詩は一作書けましたが、まだもうちょっと直したいです。プリンターの用紙を買ってこないと。
 母方のおばあちゃんは、無事胃にチューブをいれる手術が成功したそうです。おばの話によると、呼びかけにこたえたり、少しずつ元気になっているようです。
 昼一人というのはけっこうさびしいなあ。
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Oct 22, 2006

バカ姉弟

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  今日はドードーの公開合評会に行ってきました。楽しかったです。様々な方とスムーズに話せてる気がしました。私が、古谷実のマンガが面白いというと、「バカ姉弟」というマンガが面白いといってくれた方がいました。それから帰ってきて、「容疑者室井慎次」を見ました。これは去年ふらりと見に行ったのを覚えています。
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Oct 20, 2006

おいしい食卓

 晩飯は、とろろ入りオムレツを作りました。たまごに擦った山芋をいれて、塩、コショウ、砂糖で味付けします。お好みでいいのですが、甘すぎず辛すぎずがいいみたいです。それをかきまぜておきます。切ったしいたけを軽くゆでます。適当な大きさに切ってください。あと納豆も用意してください。フライパンを熱し、サラダ油をたらします。そこにとろろ卵を流しいれてください。そして、しいたけと納豆をまんなかに入れてください。あとは、オムレツを焼く要領でやってください。けっこうやわらかいので、型崩れに注意してください。焼きあがったら、お皿にのせて、お好みなのですが、軽くしょうゆをたらして、マヨネーズをかけてください。かけるのはお好みです。お好み焼きとも、オムレツともちがう面白い食感が味わえます。具も私はヘルシー風にしました。これもお好みで。
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Oct 19, 2006

元気ですか。

 今日カウンセリングから帰る道すがら、電車に乗っていて、布施あたりだろうか、乗ってきた女の子は、ゴスロリ系の黒い服を着ていた。河合隼雄の「対話で探る「新しい科学」」は少し古いけど、読んでいて、とても面白い対話集なのだけど、その女の子の服は胸もとが結構開いており、驚いた。私はこういうファッションの女の子をあまり見ない、地味な生活を送っており、でも、ゴスロリの娘も、そうなのかなと思ったり。少し、エロい格好をしているわけだけど、本人の意識はちがうかもしれない。何云ってんだろう、私。
 元気ってなんだろうと考えていて、カウンセリングで自分のからだが活性化してきているという話をしていた。ただ話をした後は必ず疲れがくるので、昨日仕事をしたのもあって、帰ってからけっこう疲れがきました。で、野口晴哉の「整体入門」を気晴らしにパラパラめくっていたら、火事場のバカ力の話が出てきて、野口さんは、そういう力はもともと人間にあるもので、普段出してないだけなんですみたいなことをいっていて、元気とは自然に出るもんだ、でもそれが抑圧されとるみたいなことをいっていて、こういう文章を素直に読めるようになるだけ、全体的には、元気のなさがマシになってきたのかなと感じた。あまりにも元気がないと、素直に読めないもんです。
 「対話で探る新しい「科学」」の鶴見和子さんの、南方熊楠の使う「縁起」という言葉の説明が面白かった。縁起の「起」は何かと何かが出会って、それをきっかけに何かがちがう方向にいくことをさすことらしい。例えば子どもの頃友達と寄り道なんて、そうですよね。ちがうかな。元気は変化を生むのですね。文脈を変える力というか。
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Oct 18, 2006

上野樹里

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 ドラマ「のだめカンタービレ」に出ている娘は、荻原浩原作ドラマ「僕たちの戦争」に出ていたひとだったのか!上野樹里さん。うーん、どっかで見たことあると思ったけど映画もたくさん出てるのね。演技がうまいなあ。
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「僕の歩く道」2話を見る

 どこまで、リアリティを求めるかみたいなことになってくると思います。設定、人物像全てです。見る人によって、求めるリアリティの計りが変わってきます。障害者を描くのは、難しい、という感覚があります。なぜ難しいのかな。それは、見るものだけでなく、作り手もそうだけど、その人と障害者の関係性にあるのではないでしょうか。しかし、それはどんな対象を描くときもいえるでしょう。そしたら、何がということになります。ひとことで「偏見」と云いますが、本当に様々な立場があると思います。私は成人の、クサナギくんがやっているような感じとは少しちがう、何人かの自閉症の人の主に生活面でのお手伝いというのをやっていました。だから、就労のほうは何ともいえないのですが…もっと、全身で表現するのではないかと思ったりします。仕事で辛くて寝れないシーンがあるのですが、何度もトイレに立ったり、声を出したりしないのかなと思ったりしました。でも、あるいはそういう人もいるのかもしれません。私の情報も限られています。色んな家庭があるので、なんともいえませんが、お金がありそうです。そういうことは、とても大事で、私も仕事のときは、なるべくご家族がどんな感じか知りたいと思いました。家族だけが知っている情報があるからです。私は結構お母様方と話すほうだったと思いますが、本当に目からウロコだったり、そうでなかったり、色々です。いずれにしても、大切な情報でした。ご家族の状態というのは本当に当人にとってかなり大事です。
 クサナギくんは相当勉強したと思いますが、もっと、意外なことが、そしてつまらないことがあっても、いいような気がします。自閉症の人は単なる規則遵守の人ではないと思いますから。
 ドラマは、状況をドラマなりにデフォルメしまして事実の感触を伝えます。一番の理解者のマジメな幼馴染が趣味の悪い人と不倫してたり、お兄さんの意見がわりと即している感じとか、いろいろ嫁姑が大変とかは結構うまく描けているんじゃないかなと思います。
 なんだかまとまりのない話になりましたが、少しだけ、これからも行く先を見て、このドラマの志しがどう伝えられるのか見ようと思います。単なるショーに終わってもそれは仕方ないかもしれません。でも、飼育係で働くことになったので、作り手はより困難な道を歩くでしょう。 
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Oct 17, 2006

レヴィナス入門

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 昨日は何か少し悩みモードになっていた。朝になった。そういうときは、不思議にうれしいお便りが届き、私を勇気づけてくれる。詩誌が届いたという感想のお便りだった。何か不思議な力で人はつながっているのだろうか?
 スガシカオばかり聴き、熊野純彦「レヴィナス入門」を読了。熊野氏の、ひたむきな、粘り強い論述にはげまされて、わりかたスムーズに読み終える。とはいえ、いくつかの点で、少し不満もあったが。それはさておき、「実存から実存者へ」は読んで、生きることそのものの「疲れ」に心ざわめいて、震撼された思い出がある。レヴィナス自体の本は、なかなか晦渋なのだけど、この本を読み終えてから「存在の彼方へ」(「存在するとはべつのしかたで」という訳し方があって、こっちのほうが好きだ)のパッセージをいくつか読むと、すっかり見通しがよくなっていたりする。
 ハイデガーが不安とよんでいたことがらを、痛みや苦しみ、さらによろこびでさえも、その身に引き受け、引き寄せられ、その事柄から遅れて、感じるだけしかない「感受性」と呼んでいることがレヴィナスの肝のように思った。「感受性」はどこまでも受け身なもの(受動)であるから、どこまでも他者に遅れる。私には受難、受苦という言葉が浮かんだ。レヴィナスの「責任」というのも、たぶんに「受け身」な概念であって、声高に正義を語るというのとは全然ちがうと思った。むしろ何かに全身で苦しむこと、呼びかけにたえずさらされている感覚、自分は何も悪いことしていないのに、それでも、それだからこそ、心に迫ってくる感覚、その描写はリアルというほかない。そこには「他」があらわれているのだ。「顔」についてはこないだおばあちゃんに会ったので心に迫ってくるものがあった。老いの哲学でもあったのだ。弱さが弱さに出会うことなのだ。
 レヴィナスのいう「感受性」は私がいじめを受けていた昔の感覚に近いものかなと思った。ある種の災厄に出会って、語りがたい感じ。そんな甘いもんじゃないかもしれないけど。また、「責任」はよせてはかえす強迫観念に描写が近いと思われた。実際「強迫」という言葉を調べたら使っていた。レヴィナス自体は健康な哲学者なのだが、生を悲劇であり、しかし悲劇でなくという感じでよじれていく感じは、20世紀の精神と思えたし、そうでもなく超時代的であり、超個人的とも思えた。
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Oct 15, 2006

帰ってきました

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 昨日の晩帰ってきました。で、今日は寝ていました。そんなにしんどくはないのですが、やはり少し疲れたようでした。
 母方のおじいちゃんは亡くなっているのですが、玄関にこんな風に、帽子がかかっています。おじいちゃんの懐かしい歩く姿がしのばれるようです。
 おいしいもの、たくさん食べました。鮎や、さんまのお寿司や、お好み焼き(金時豆が入っています!)、うまかったなあ。
 空もきれいでした。夜って、ちゃんと暗いもんなんだなあ。当たり前か。それが当たり前でもなかったりしますね。
 母方のおばあちゃんに会いました。おばあちゃんは病気ではなくて、別に痛いとかはないみたいです。でも、意識というか認識というか、そういうものは少し遠くなっていて、うつらうつらしていました。しじゅう口をもぐもぐしていて、少し痩せて小さくなっていて、もう85才なのですが、私は切なくいとおしく、その姿を感じました。けして、上手に生きていけるタイプではなく、ひとの気持ちを逆なでするような、物言いもありました。だから、いろんな人に嫌な気持ちをさせた人かもしれません。私はそのようなおばあちゃんを子どもの頃から、なんか素直な人じゃないなとか思ったりしたこともありました。こうして、会ってみて、おばあちゃんなりに、おじいちゃんが亡くなってから、さびしかったんだなとも感じました。しかし、苦しそうではありません。それで、とても安心しました。大変だろうけど、また会おうねと思いました。私が手を握ると、少し目が大きくなって、こっちを見てくれたんだなと思いました。これからが大変かもしれません。そういうことが私にはきちんとわかっていないかもしれない、そう思いながらも、会えてよかったと思うのでした。
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Oct 12, 2006

おばあちゃんに会いに行く

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 仕事でした。ちょっと、暑かったです。ノドが乾いたな。
 明日から、母方のおばあちゃんに会いに行くので、2、3日くらい留守します。メールの返信等遅れるかもしれないので、あらかじめ報告しておきます。なぜか、今日、帰ってきてから、スガシカオの歌う”夜空のムコウ”を聴いていたら、ぐっと来ました。なんでかな?もともとは、このアルバム(↑写真)では”ぬれた靴”がとても好きだ。そんなこんなで、いってきます。
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拾い読み「小林秀雄対話集」

 今日は仕事でした。明日も仕事です。
 なんかですね、久しぶりに、「小林秀雄対話集」を開いておりました。帯には「近代日本の最高の知性が語る美の真実と人生の妙味」と書いているのですが、中にあるのは、今の文芸雑誌にはのらないような、全然気取りのない対談だと思います。私はしかと小林秀雄さんの全貌というか、なにがしかを把握しているとはとてもいえない立場にいるのですが、ハスに構えてないですね。論理の運びこそ、何だかアイロニカルというか、モダーンな感じなのですが、「そうかな?」とか「そうかね」といっている感じが、やっぱり文学者も生きているなあと思うのです。坂口安吾をいなしている感じとか、なんか正しいとか間違っているとかそういうレベルを超えとります。ぱらぱらしか読んでいないのですが、正宗白鳥がすごいですね。脳がぐらぐらしてきます。以下括弧内は引用です。

 正宗「文学って、それは何か知らんけどな、僕はまあ、ヤソなんかに入ったこともあったが、僕は文学なんかどうでもいい。人間の生きる悩み、どうして生きるか。この世に人類というものが発生した苦労だな。そういうようなところに、いつも惹かれるんだな(中略)」
 「どうでもいい」ってすごいな。また、こんなのも。
小林「藤村という人はまずいですか」
正宗「まずいな。それは徳田秋声なんかの小説よりまずいですよ。(中略)(「破戒」、「東方の門」「夜明け前」は:石川註)自分の呟きをネチネチ、ネチネチ書いとるな。」
 そしてこんなことも。「あれはヘタなところがいいんだな。下手でこつこつ苦労してたんだな。あの女の関係だってそうだ(中略)」

 キリがないのでやめときますが、今の時代には見られない、率直な感覚があります。大きな感覚で藤村に対しています。「人間の生きる悩み」も藤村に対する感受です。文学って、こんなんだったんだなあ。深沢七郎とのつきあいでも思いましたが、白鳥さん、すごいです。小林さんの「まずいですか」というツッコミもいいですね。

 *「小林秀雄対話集」講談社文芸文庫2005より引用
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Oct 10, 2006

 お昼寝をした。それから、郵便局に行き、冊子小包を送った。そして、コーヒー豆を買いにいった。マイルドブレンドを200g。本屋により、何冊か本を買う。次に書くネタを探しているのだ。レヴィナスのことが、頭にあったり、ニーチェだったり、色々浮かぶのだが、何しろ、独学なのと浅学なので、もっとちがう切り口も考えてみたり。
 ニーチェは今の人間存在を「超人」へと至る「橋」つまり過渡的なものと規定していただろうか。うろおぼえだが、たぶんそうだったと思う。これはカフカの「橋」という短編と符号するのではないかと考えたりする。「ぼくは硬直し冷たかった。ぼくは一個の橋だった。ぼくは深淵の上にかかっていた」。存在するということ。それは過渡的であること。深淵の上にかかることではないか。このことをもしかしたら、掘り下げることができるかもしれない。
 SMAPのクサナギ(字が出ない。御免)くん主演の「僕の歩く道」は自閉症の人が主人公のドラマだ。自閉症の描き方よりも、彼を取り巻く様々な人の描き方がいいなと思った。障害とは関係性の中で、現れてくるし、その中で、どうつきあっていくかということだ。そういう意味で関係性ということを捨象して、独立の「自閉」というものを想定すると、途端に理解不能になってしまう。偏見のない状態というものはない。あったら、それは不自然な社会だろう。ある種の弾圧がある社会はそうかもしれない。自由な社会は、それぞれの偏りを認める。その中でどうしていくかだと思う。今、啓蒙されたり、想定されたりしているより、わたしたちはより多様な付き合い方を障害を持つ人たちとできるのではないかと思い描いてみたりする。政府の政策的な歪みにもかかわらず、そうできるかもしれないと私は思ったりする。
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隣り合わせ

今日はあまり何もしていない。空が雲が美しい、そんな日であった。まさしく秋、秋である。昼は私が焼きそばを作った。何だかおなかが減るのだが、ここは我慢。夜は西京焼きと豚汁を食べる。それから、古畑任三郎を見る。SMAPと共演した再放送だが、けっこう古びてなくて面白い。知人からメール。体調を崩されているようで心配。人はつねに病と隣り合わせだな、などと、当たり前のことなんだが、感じる。
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Oct 08, 2006

犬の散歩、ぽえざる

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 昨日は、彼女の実家の犬と遊んでいた。ひざに初めて乗ってくれて、うれしかった。たくさん、かわいいかわいいした。
 そして今日はぽえざるの日だった。前の晩に薬を飲まないで寝てしまったので、ぼんやりしたまま、参加する。われらが「かたつむりずむ」は好調な売れ行きであった。現代詩フォーラムの人たちの何人かとは(大覚さん、六崎さん、清野くん、窪さん、佐々さん、麻村くん)会えたが、ミチヨさんとは、すれちがってしまったようだった。残念!お友達ともしゃべる。(木谷さん、果歩ちゃん、河上さん、湊さん、りっとさん、佐々木さん、イジー、藤井五月さんなどなど)犬飼愛生さんから新詩集をいただいた。私のブログに来てくださる高野五韻さんと会うことができた。うれしかった。ちょっとしんどかったので、2次会はパスした。今日、様々なご縁でお会いできた皆さまありがとうございました。会えなかった方、すいませんでした。
 田中宏輔さんとお話できたことがとてもうれしかった。宏輔さんはかっこいい。だいぶお痩せになっていて、ちょっと心配になったりもしたけども。
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Oct 06, 2006

湧いてくる

 今日、デイケアに行った。午前は習字で、午後は、自主活動。私は読書することにした。昼休みは何かだるくて少し横になったりしていた。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」をちびちび読みながら、色んな音が聞こえてくる。(「世界の終わり」の「私」は35歳なのだ。自分が35歳になったら、何か大きな変化の前か後にいるかもしれないという予感がした。)話し声、窓の外の音、ビル・エバンスのJAZZ。途中、職員さんにmixiのことを説明したりする。あるメンバーさんが、ロックについて、語っているのを遠くで聞いて、私はなぜかポップスが聴きたくなってしまった。なぜか、わからない。それで、好きな曲を歌っていた歌手の名前を必死に思い出していた。そんなこんなで、デイケアはお掃除をして終了して、私は帰り道、名前がフィル・コリンズだったことを思い出した。中古屋に行き、フィル・コリンズのアルバムを安く買った。私の好きな曲が入っていた。Another Day In Paradiseだった。今、フィル・コリンズを聴く人は少なかろうと思っていたら、mixiのコミュに彼のファンのコミュがあって結構な人数だったので、驚いた。それから、ポップであることはどういうことかとか考えながら、ビーチボーイズのジャンルを超越した”ペットサウンズ”を聞いたりもしていた。いくつか考えが湧いてきて音楽はいいなと思うのであった。思考の触媒となることがある。  
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Oct 05, 2006

おばあちゃんの現実

  私の母方のおばあちゃんは、自力で、ものを食べられなくなったそうで、管を通す手術をして、そこから、栄養をとることになったと何日か前に父から聞いた。最後まで、自分で食べさせてあげたいと私は思ったけど、それは、あるいは私の身勝手な考えかもしれない。どこまで、現実が進行しているか、私は、今度、親とおばあちゃんのもとに行って、その一端を目の当たりにすることになるだろう。母方のおばあちゃんはけして、性格のいい人ではないけど、私の今生きている、たったひとりのおばあちゃんです。今年の5月におばあちゃんのいたグループホームに会いに行ったときは、半分眠っていたけど、私のほうを見てくれたことを覚えている。今度、会ってどう感じたかを書くかどうかはわからない。
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Oct 03, 2006

先生が笑った

 今日も少し疲れが残っていたようで、診察に行って血圧を測ると、上が100を少しきっていた。先生に最近の様子を伝えて、私の詩が掲載された詩誌「索」を見せた。私の詩を読みながら「発想が面白いなあ」とニコニコしておられたので、あまりお世辞を云うような先生ではないので、うれしく、安心した。以前友達にも見せたが、「野原のデッサン」より元気になってますねと言う。「商品になりますよ」と言ってくださる方もいる。
 電車の行き帰りは、時間がかかるので、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読む。「ハードボイルドワンダーランド」のほうで、計算士の頭の中に「世界の終わり」がインプットされているというくだりが面白かった。何か自分の宿命が意にならないという感覚とでも云おうか、ある種の決定論のようだった。そこから、どうぬけだすのかということなんだろうかと思いながら読んでいる。
 詩の先輩と電話した。
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木村和史さんの小説「ふたつの流れ」感想

木村和史「ふたつの流れ」感想

                           石川和広

 はじめて、木村さんの作品を読ませていただいてから、安易に感想は書けないなと思って間を置いて何度か読んでみました。
 私も3年間、知的障害者と関わったことがあったので、はじめは、主人公の障害者とのかかわりや仕事ぶりといったものに目が行きがちでした。そう読むのも、題材からして無理からぬ面があるような気がします。むずかしいことですから、色々そういう意味で意見のある方も読者の中にはおられると思います。しかし、仔細に眺めてみると、いくつか感じられることがあります。
 仕事をすることは、世界や人にある仕方でかかわることです。かかわる中で、その人が世界や人をどうみているかということがあらわになっていきます。知らず知らずの間に、固定観念を自分の中に作ってしまい、それに無意識のうちに縛られていくという事があると思います。この小説の中では、「自閉症やダウン症の人」の気持ちがわからない、また、相手も主人公の気持ちをわからないだろうと感じる形で、あらわれてきています。主人公はそうでない健常者に対しても、少し壁を感じているようです。
 私は、障害者に対する壁というのは、ある程度解体できるのではないかと思っていますが、それは、「もっと障害者を理解しよう」ということではありません。いくら障害者に対する壁が解体されたとしても、何かまだ残るものがあると思います。両者に対する主人公の持っている壁というものは、生きている中で、健常者/障害者という枠をこえて、その人が獲得した傾向なのではないかと思います。それは善悪という評価を超えたものであって、私は木村さんが「通じあえなさ」とか「どうしようもなさ」を描こうとして、主人公にそれを託したのではないか、そう思うのです。そこにこの小説のミソがあるのではないか。
 この主題はもっともっと引延ばすことができると思います。私の職業的勘からは、修さんが段差をとびこえてきてくれたとしても、そこに安んじたままではいられないと思います。その意味でこの小説は大きな流れの中のあるプロセスだと思います。木村さんも、もしかしたら、同じようなことを感じておられるのかもしれないなと思います。
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ぽえざる出店します

 10月8日ポエムバザールに友人たちと「かたつむりずむ」という詩誌で出店いたします。近くにお立ち寄りの際はぜひ。
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Oct 02, 2006

スガシカオと槇原敬之を歌う

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 今日も疲れが出ているなと思う日であった。うとうとしたりしながら、時を過ごす。本もあまり読まなかった。少し元気を出そうとカラオケに行った。スガシカオをたくさん歌った。槇原敬之も歌った。スガの詩には毒がある。しかも歌うのは難しい。その点、槇原の歌は、毒がきれいに抜かれて純情可憐な歌になっていて、素直な気持ちで歌いやすい。これは全て個人的感想だ。しかし、スガのアンバランスなバランス感はすぐれていると思うのである。毒と言うのはスパイスとして、とても大事で、あまり歌われないだけに趣がある。槇原はとびぬけているところがあって、あまりファン以外には理解されていないのだが、大切なシーンを取り入れて、すっと胸に入ってくるのである。両者とも、技術的にとても高いミュージシャンだと思っているが、両者とも生き方という点でとても不器用なところがいい。この二人が両方とも好きな人というのは、あまりいないのだが、言葉を届ける人としてすばらしい。これもあくまで個人的感想です。歌ってて歌詞が入ってくるのです。調べてみると槇原の愛犬が亡くなったらしい。
 両者の好きな詩人の違いも面白い。スガシカオは荒地派の鮎川信夫が好きで、槇原敬之は四季派の立原道造が好きだ。何となくわかる感じでしょ。
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Oct 01, 2006

戦争が遺したもの

 今日は疲れていて家でじっとしていた。アマゾンからメールが届いて、住所の記載が不十分だったようで、ペリカン便に連絡した。しばらくして、2冊の本が届く。藤井貞和「物語理論講義」と、鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二「戦争が遺したもの」。「物語理論講義」のほうはじっくり読むとして、先に「戦争が遺したもの」を読むことにした。これがけっこう面白い取り合わせで、鶴見にずばずば聞いている。小気味よい。だけど、心臓の悪い鶴見には堪えたものも、あるだろうけど、死ぬ前に言い尽くしておくように鶴見は語っているようで、凄まじいものが流れていると思った。3者に対して私は好き嫌いもあるのだが、それは置いといてよい縣談になっていると感じた。がんばって読もう。「物語理論講義」も楽しみだ。
 小説の感想を書いたと、書いたが、その方からメールが来た。喜んでいただけたようでよかった。木村和史さんの小説についてであった。
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親になる準備

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 今日Mくんと飲んだ。彼は、今年結婚して、奥さんが妊娠している。高槻で飲んで、話をした。昔、職場が同じで、仲良くなった。彼は保育士をしているのだが、親の虐待があるそうで、心を痛めていた。そんな親が時々あるのだという。自分は何ができるだろうと彼は云っていた。プライヴェートまで、立ち入る事はできないからだ。彼は子どもが本当に好きだ。その彼に子どもができる。でも、未熟児で産まれる可能性が高いようで、奥さんはNICUのある病院に転院した。奥さんは実家に帰っているようで、さみしそうだった。もしかしたら、危険な状態で、子どもが生まれるかもしれないという可能性と不安を彼は話していた。
私はまだ親にはなっていないけど、お互い時には冗談を言いながら、彼に「今、心が父親になる準備をしているんだろう」と言った。色々ナイーブになっているのは、そのためで、不安になったり考えたりすることはわるくないと。今度また会う約束をして別れた。楽しかった。自分はどれだけのことを聞けたかわからないし、大口を叩いていたのかもしれないが、彼の力に少しでもなれたのなら、それでいいと思う。
 「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んでいる。100ページをこえて少しずついい感じになっている。
ある人の小説の感想を書いてメールした。気持ちが届いているとうれしい。
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Sep 29, 2006

弟の個展

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今日デイケアから帰ってきて、しばらく彼女の帰りを待っていたら、小さな疲れがやってきた。ここ3日くらいずっと、仕事や何かで外に出ていたので、気の疲れが出ていたようだ。風呂から上がって、今現在は、マシになっている。それで今日は私の弟の個展を見に、谷町6丁目のギャラリーそらに行ってきた。題して「いしかわたけしごと」。いつもうまい題名をつけるなあと感心してしまう。
 それはともかく、私は「本性」という2分連作(写真はそのうちの一つ)に引きつけられた。本性を隠しているようにもみえる顔の絵なのだが、本人の顔なのだろうか、好きな人の顔だろうか、嫌いな人の顔だろうか。もっと普遍的なものを感じた。それでいて、たぶん誰かではあるのだ。顔だけ描くというのは不思議な行為に思えてくる。弟の作風はどんどん変化するのだが、ここ数年は淡いタッチで、悲しみや、もっと深い感情を描いていた。今回は鋭い線が強く出ている。しかし、いずれにしてもポップといえるだろう。「顔って不思議やね」と話しかけたくなる。それでいて、突き放す強さを持っている。顔はいつだって両義的なものだと物語っているようだ。私たちは顔を見るだけではなく、顔を誰かや何かにさしむけている。見られ、感じられている。そして、顔は暴露し、隠す。隠すことで何かを訴えている。描くことで、それに近づいては遠ざかる。そうだ。それが「描く仕事」であり、「隠し事」であるかのように。「いしかわたけしごと」は小さな個展でありながら彼のまる「ごと」も少しは覗けるのではないか。作品とはそういうものかも。彼はどんどん大人になっているが、何かを覗いている少年のようだ。個展は明日で終わりです。
 猫月亭さんと話していたら、村上春樹の話になり、これまで、彼の小説はほとんど読んでいたのだけれど、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」をこれまで読むきっかけがつかめなかったと私は云った。いい機会なので読んでみようかな。  
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電話

 昨日、今日と仕事。今日は一人お休みされていたのだが、にもかかわらず、スムーズにはかどる。作業が滑らかに進む感じがする。私の仕事は2時間ばかりの建物内のトイレ掃除や、部屋の掃除だったりして、使うものもデッキブラシとか、モップなど古典的な道具が活躍するのだが、そういうものはリアルに磨り減っていくので、「してる」感が大きいのである。同僚の方と話していて、同僚の方は早く眠くというかだるくなってしまうので、少し困っているという話をされていた。私は薬の力で寝ているが、薬を飲まないと、どうなるかというと、眠りがとても浅く、次の日がだるく半日ぼんやりしてしまう。夢は十本立ての映画を見るようで、面白いどころか疲れるのである。寝言もひどいらしい。たぶん、ある種の力のコントロールが出来ないのである。薬を飲むと夢は普通に二本立てとかですむし、起きたり寝たりということもない。
 詩の先輩と初めて電話する。私はドキドキしていたが、気さくに話してくださっていたのでありがたい。私はずっと関西の人間なので、関東の言葉使いは不思議に聞こえる。楽しかった。しばらくウキウキしていた。でも、生駒山の方向を聞かれて、どっちだったけとわからなかったので、私が天然なのが、ばれたと思います。
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Sep 28, 2006

モノガタリ

  基本的に、調子は普通なのであるが、時々もの思いにふけっていることがあり、これは何だろうなと思うのです。秋だから?うーん、ちがう気がする。時々あたまのネジを巻きなおしてやらないといけません。むかしっから、ぼんやりして一人考えに走りやすいので。
 自分は、どんくさい人間だと思うのですが、賢いことを書いたり、云ったりしたくなることがあります。そうしないと、昔はバカにされるような気がしてたから。負けたくなかったので(何と戦ってたのかはわかりませんが)本を読みました。本を読むとどんどん一人になっていきました。それで、それではいかんと、からだを使う仕事に急に方向転換したりしたのですが、介護の仕事をしたりしてガンガン勝負していったわけなのですが、病に倒れてしまいました。いろんな人に助けられて今はかなり大丈夫になってきているが、何ごとも恐る恐るです。ちょうど自信のない状態に戻った。無知の知にはまだまだで、何を知らないか、まだわからない点があります。何を語ってもモノガタリになってしまいます。明日も仕事です。
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Sep 26, 2006

武田泰淳の本についていくつか。それからお知らせです。

 昨日武田泰淳について、佐々木さんから書き込みがあった。それで、武田泰淳について思い出したことについて書いてみたいと思う。忘れていることもあるので、そのあたりはご容赦ください。実家に本の大部分を置いていて、今、手元に泰淳の本があまりない。残念である。記憶を頼りに書いて見ようと思う。読んだ事実より覚えていることが大事だから。私は彼の全仕事に通暁しているわけではないのだが岩波文庫で出た、彼の評論集「滅亡について」が印象に残っている。中でも、三島由紀夫への追悼文は、これは驚くべきもので、三島がドン・キホーテだとすると、武田はサンチョ・パンサに感じられる。武田は三島の運命、その姿というものがよく骨身に沁みていて、文章から悲しみやユーモアすら感じる、壮絶なエッセーなのである。凡百の三島論はどうでもよくなってしまう。そんなことをよく覚えている。さすが僧。生死をまたぐ線というのが彼には実感されている。近代理性、世界、日本、自分、めくるめくものを見つめながら、真摯に一介の俗にまみれた僧であることはどういうことであるか。そんな私が書くということはどんな意味をもつだろう。彼は地べたから考え続けた。
 彼の中に、「滅亡」ということが、マクロにも、ミクロにもあって、これが彼の思想に脱構築的印象を与えている。「滅亡」は具体であると共に抽象であるのである。彼の独自の歴史思想はもっと注目されてよいと思う。「司馬遷」、小説では、倒れてからの、「目まいのする散歩」を読んだ。「目まいのする散歩」は細部が恐ろしく緻密で最後まで粘り強く生きた彼の姿を思わせる。この本は口述筆記で、その書いた人が百合子さんだということを知った。
 というわけで、記憶を頼りに書いてみた。武田泰淳を語る上で、外せないのが、百合子さんの存在である。彼女との出会いは泰淳 にとって大きかった。一緒にいる写真の顔がいい。彼女については「遊覧日記」(武田花さんの写真が入っていて二度おいしい。いとおしくなる景色である)「犬が星見た」とあと何冊かしか読んでいないのだが、冷徹なほど眼のいい人でありながら、暖かいのである。観察者でありながら生きている。泰淳と竹内好が一緒に飲んでいるところが書いてあって、その見つめる眼がすばらしかった。そして、この泰淳との関係は、孤立しがちな竹内にとって何よりのものではなかったかと思わざるを得ない。
 お知らせです。笠間書院のホームページのブログに倉田さんの本に関する私の拙文が紹介されました。日記にもアップされていますがリンクします。→こちら。倉田さん、笠間書院の方にお礼申し上げます。
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べしみ

 林達夫、花田清輝、竹内好(武田泰淳はどうしよう)と並べてみたが、私はこの3人の書くものは、私が言わなくても、すばらしいのだけど、何か非知、非言葉というものを心の中に置いていた人たちだと云ってしまいたい。日本のポストモダンというのを潜り抜けても残ってほしい時間軸の人たちである。こういう人たちがいて、三島や深沢七郎がいるという風景は風情がある。3人は「抵抗」ということを深く考えた人たちである。花田清輝は吉本隆明にぼろぼろにやられたとはいえ、また、あのスターリン礼賛は困ったものだとはいえ、中世を日本のルネサンスとした上で、網野史学の先駆といえるかもしれないし、それより、歴史だって嘘ばっかりかもしれないというデタラメ主義的なことを、フーコーみたいに大掛かりではなくやろうとしたので、網野よりも、注目されなかった分、よかったかもしれないし、岡本太郎と芸術運動をすすめながら、岡本太郎より花田清輝のほうがよほど変な人だったと私は思っているのである。
 抵抗とは何か?一つには「言葉」に対する抵抗だろうと思う。賢そうな言葉にだまされまいとする精神はみな一貫している。今、養老孟司がオピニオンの分野で活躍しているが、あの人の批評性もきっと、言葉に向けられているだろう。理系、東大でありながら、それが批評になっているのである。花田みたいに唯物論まで飛躍する必要は全くないが、竹内は「中国」の中に、林はデカルトの中にだって、賢そうな言葉に対する警戒心があったといっているのです。武田にとっても中国の歴史というもののどこか「混沌」というものに「天」に対する何かを嗅ぎ取っていたのではないか。林は理性文明の突端で「愚者」の沈黙の巨大さを発見するのかもしれない。
 歴史というものの大きさとしょうもなさをよくわかっていたのが、この3人だと思う。この3人は、世界史的な嵐の中で、主体が分裂をせまられるさまを書きとめた日本人である。背景に巨大な世界史がある。
 話はかわって、先ほど養老孟司をあげたけど、彼が「無思想の発見」の中で語っていることは大事だと思いつつも、加藤典洋の「日本の無思想」に対して、うまくない読みがされているのは、見過ごせない。というのは、養老は加藤を「思想は言葉にしないと思想ではない」といっている人として槍玉にあげて、自分の「無思想」の発見をさも新しいことのように語っているが、加藤は最後のほうで多田道太郎のこんな文章をあげている。
 「面の連想でいえばべしみというふしぎな面がある。べしみは口をぎゅっとつぐみ、眉をしかめ、断じてもの言わぬという表情をしている。べしみという字は唖に通じるので、何を言われても返事はしないという精神の表現である。責任(リスポンシビリティ)ということばがあるが、責任とはリスポンドする(返事する)ことである。問いに対してまともに答えることである。しかし、権威と圧力とが支配している世の中で、まともに答えることは圧力に服することにつながっていく。そこで、むかしの征服され、圧服された神々は、一切新しい神の威力にとりあわぬことにした。それがべしみの起源である」
 沈黙というのがどれほど苦しくて大変でも情けなくても私たちはそれを生きる。そこから生まれるのが文学だと思う。  
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Sep 25, 2006

読めなくなっていた間に

 今日は、大森望・豊崎由美「文学賞メッタ斬り!リターンズ」を読了した。最近の文学事情に疎かったので、というか立ち読みしてて面白かったので、昨日買った。ゲストに島田雅彦を迎えている。2004から今年にかけて、文学賞の体質、作品についてわりかた徹底的にそしてわがままに検証しているが、わがままと矛盾するようだが、こういうものは謙虚な読みというものがないと成立しない。自分の無知といったものは、あったとしても、楽しんで読むということを最近ずっとしてないなと痛感する。私の中では阿部和重あたりから、進化しているのは、数人だろうという実感しかない。そして、だいたいその通りだったのである。数人の例外を除いては。つくづく、現代文学のまともな読者ではないといわざるをえない。でも、笙野頼子さんが「レストレス・ドリーム」とか「二百回忌」なんかを出していたときは興奮した。あの人は命がけという感じがしたが。というか、何かが進歩していくという流れに私はついていけなくなった。私はどこかで立ち止まらざるを得なくて、いろんな意味で阿呆になったりしていた。良い子だったので、反動が来たのである。人間はどっかあほの部分がないと生きていけないのである。感覚が冴えている人ですら、そうだと思う。三島由紀夫は秀才だったが、彼には自分の背中が見えていなかった。そしてそれでいいのである。しかし、本物の文学というのは、どこへいってしまったのだろう。あるのかもしれないけど、この人が巨人ですといえる人はすごく少ない。そして、それでいいのかもしれないが、実際それでいいのだろうか。わからないことが多すぎるので、追っかけるのを止めたのである。というかほんまに本が読めなくなってしまっていたのである。で、こういう本でちょっとのぞいてみるんだが。島田雅彦はみんなが思っているより素敵な作家だ(だった?)と思う。「預言者の名前」とか「彼岸先生」とか帝国ものとかけっこう冴えていたのではないかと思う。みんな覚えているのだろうか?島田さんはけっこう読ませていただきました。
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Sep 24, 2006

特命係長只野仁

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 「特命係長只野仁スペシャル」をテレビでやっていたので見た。
 なんかの番組(NHKゆるナビ?)でか、井川遥が出ていて、親に「人の痛みがわかる人になりなさい」といわれたことがあるそうで、それをよく覚えているそうな。私はそんなの覚えてない。っていうかそんなご立派なこと(笑)いわれなかった。そんなんじゃなくて、ご飯を食べてるとき、私が遠くのお皿に箸を伸ばすと、「近くによせてとりなさい」とよく言われていたのであった。しかし、まったく治っていない。今でもおつゆをこぼしたりしてしまうのである。そういうのは覚えているよ、リアルだから。
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Sep 22, 2006

自主活動、吾妻ひでお

 デイケアに行きました。昼は職員さんと仕事の話を1時間くらいしました。午後から自主活動だったので(自主活動というのは、音楽鑑賞とか自分でメニューを決めて時間を過ごすのです)、なぜか、勘で橋本治「これで古典がよくわかる」を持ってきていまして、読書することにしました。家より、なぜか集中できました。橋本治も難しい理屈を云ってない。というか中高生が読む感じ。「ひらがな日本美術史」みたいな感じ。学校で教え込まれたごちゃごちゃした歴史をぽんと再整理される感じでよかった。なぜ和漢混交文が生まれたかとか、ただ教えられたことではわからない結構な難問についてさらさら書いています。また暇なときに続きを読もうと思いました。職員さんが私の薦めたジョアン・ジルベルトを聴いたとのことでなによりでした。
 帰り本屋によって、吾妻ひでおの「うつうつひでお日記」と奥田英朗「イン・ザ・プール」を購入。吾妻さんのは「失踪日記」が面白かったので、買いました。文庫「イン・ザ・プール」もう六刷もいっているのですね。吾妻さんが「イン・ザ・プール」面白いと本に書いていたので、面白ければいいのですが。吾妻さんのはごろごろしながら、読むのに丁度いい。残念ながら彼の他の作品の多くを読んでいません。内容は寝れなくて、夜中に寝てちょっと働いて、笑っていいとも見てアイス食って、昼寝して、仕事があまりなくて、散歩して本屋行って、帰って寝てテレビ見ての延々と繰り返しなのですが、必ず一日一冊本は読んでます。だるーい日常が他人事に思えなくて、しかもなぜかその繰り返しの不条理にちょっと笑えて。すごいっすね。読了しました。最近笑いに飢えてます。奥田さんのもなんか笑えそうな予感がします。予感ですが。
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よくあること

 国民健康保険料の8月分の督促状が来た。しかし、その前に納付書が私の家に届いていない。どうやって払えというのだ。事実関係を確認したが、原因不明。納付書が再発行された。しかし、これで5~12期分まで一括納付できるのかわからないので、また市役所に問い合わせてみよう。土日明けになるな。面倒だが、よくあることか。
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Sep 21, 2006

倉田さんの芸術論集の覚書、いくつか書き直しました

 朝に読んでいただいた方がいると思うのですが、思い浮かんだ事があり、夕方にはじめの方を直しました。原稿を倉田さんにメールしたら、喜んでいただいて大変うれしく思っているところです。あくまで覚書です。私はウィトゲンシュタインの研究者ではありません。しかし、新しい論点もいくつかあるのではないかと思ったりもします。
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 影のウィトゲンシュタイン、言葉にしなかった彼の巨大さを思う。
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倉田良成芸術論集を読みながらー「世界の内と外 ウィトゲンシュタイン・ノート」覚書

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 不意にいつか読んだ本の内容が自分にシンクロしてくる事があります。それが大事なときだと思います。ウィトゲンシュタインについては詳しくない僕ですが、純粋に覚書として書きます。

   倉田良成さんが「倉田良成芸術論集」所収の「ウィトゲンシュタイン・ノート」で書いておられたのですが人には心というものがありますね。
心があるというのは神秘なんですね。
ウィトゲンシュタインは「人は死を経験しない」と書いています。それなのに死を悲しみ、死者を大切に思っている心は確かにあります。なぜでしょう。それだけではなく、まだまだ私もわかっていないことも多いと思うのですが死は色んなものを私たちに教えてくれるような気がしきりにしています。私たちは経験していませんが、語りえないところで死者は私たちに光を与えてくれるのではないでしょうか。それは、ウィトゲンシュタインのいうように「現在を生きる」ということではないでしょうか。逆に言えば、死について、思いをいたさないということは生をなおざりにすることに等しいのではないか。彼が第一次大戦の中従軍している間に『論考』が準備されたというのは、戦争の死者に向けてということもあったかもしれません。私たちは、どこでも、どんな形でも祈ることができると思います。記憶が遠くなれば思っているということは 少しずつ減っていくかもしれません。それでも、どこかで祈っているのだと思います。「方便の構造」かもしれませんが何かの「お陰」で生は輝いているのだと思います。祈るということ。親鸞においては 「南無阿弥陀仏」でしたが、そうでなくても、そうであっても。それが宗教という名で呼ばれなくても。
倉田さんの芸術論集をどう読んだらいいか 色々考えたりしていたんですが、単なる芸術についての鑑賞よりも積極的なものを感じました。「ウィトゲンシュタイン・ノート」を読んでこれは自分にとって大事なことが書かれているな、自分に不意に浮かび上がってきたのでした。
 それで、心があるというのは神秘なのですが、そして言葉がありますね。ウィトゲンシュタインは、彼の心というものから自分が言葉にできること、できないことについて丁寧に考えていたんですね。彼がこれは「梯子」だといっているように、在ることから無いことへのプロセスでもあり、そこで私たちは言葉を吟味しなければならないといっているようなのです。倉田さんの読みからは「論考」が重要な表現論だし、祈りの書だとわかりました。
 「人は死を経験しない」と。「現在を生きる」のだと。 ウィトゲンシュタインは倫理的な人だったと、マルコムや色んな解説書程度の知識しかない僕ですが そう思うので、死について厳粛な、それでいてそれが外部から 生を裏づけていると感じていたかなと思うわけです。
 永井均さんが書いていましたが「『論考』の世界は、この私の存在という(世界内の偶然とは次元のちがう) もう一つの偶然によって支えられているのだ」(ウィトゲンシュタイン入門)ということ。ここから、何か「生まれる」ということを想起します。そして『論考』は彼の全身で書かれた芸術ではないか。きちんと『論考』を読んでいないのでなんともいえませんが過去に「ウィトゲンシュタインセレクション」などを読んだ限りではそう思うわけです。世界には彼の言うようにたくさんの事実があって、そこから、世界とは独立した私というものが表現というのを欲するのではないか、そう思ったりするわけです。僕は論理学は苦手なのですが、彼なりの世界の描写で、それは彼のみならずいろんな人の 現実の「逃れがたさ」とその表現なのだ、そして、そこから離陸していく言語世界があるのだと思います。「この私」という奇跡的な存在があって、それは世界と言葉の潜り抜けられるふたつの間の通路であるということが示されています。倉田さんが「身体が裏返らされる」というのはその不思議さに驚かされる感覚ではないでしょうか?在ることから無いことへ、無いことから在ることへ、メビウスのように繰り返される通行というものではないでしょうか?それは生きている中で僕も直に感じたことがあるような感もあるのです。

覚書として書いておきます。
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Sep 19, 2006

チョリ君の特集

 毎日放送の一昨日の夜中、「映像’06」が流れていて昨日ビデオにとったのを見た。choriくんは、21才にして、詩の世界で様々な活動をしている。そのがんばっている姿が映されていた。たぶん低予算の番組だろうと思ったけど、丁寧に撮ってあった。すなわち、いいとこもダメなとこも撮っていたという事だ。もちろん厳密に言えばフィクションではあるのだが、ショーの世界から見た彼の位置、姿というのはわかる。(マネージャーのとこなど驚いた。志願してchoriくんのマネージャーになったという人がいたのだ)
 マイミクの窪さんが出ていた。chori君が清野君にあいさつのラップで呼びかけていた。それはともかく、この番組で圧巻なのは、狂言師「茂山童司さん」とのコラボで、茂山さんが「ちゃんと身銭切ってやるのがプロなんだ」といっていた。茂山さんは、choriくんと同じ伝統芸能の生まれだが、茂山さんは継いだ。choriくんはつがなかった。ダメだしをする茂山さんはやさしく誠実な人だと思った。一緒にやるからには最高のものをという気概が伝わってきた。彼は看板を背負っている。その辺とのちがいがchoriくんの選択にはあるのだけれど、choriくんなりにプロとして張り合うというのはまだまだ大変なようだった。彼自身まだ途上にあることはよくわかっているだろう。それと、やはり何を目指しているかがきっちりと問われているんだろう。私はchoriくんのような位置に立っていないし、まだまだ詩かきとして、未熟なわたしはchoriくんの「k」という詩が彼の資質を伝えていていいなと思った。死者のことを書くとき、すごくやさしく書くことができていて、それは稀有だと思った。
 角川版「時をかける少女」を見る。何かねっとりしていて、アニメ版のほうはさらっとしていたので新鮮だと思った。レトロなSFは迫力あるなと思った。原田知世が白いブルマをはいていた。
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うたと喪の時間についてースガシカオ「PARADE」

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 スガシカオ「PARADE」を聴いている。なんかすごくさらっとしている。明るくなっていて一瞬戸惑った。以前「プロフェッショナルー仕事の流儀」に彼が出ていて、ここ何年間か、父や親友が亡くなってきつかったと言っていたのを思い出した。そういうことは歌われていないが、彼が時間というものについて、かなり考えて、そこから抜け出したんだなと思った。(前のアルバムはTIME)新しい境地を手にした感じだ。というのは「タイムマシーン」という歌でうたわれているが、僕もタイムマシーンなんてなくてもいいと最近思ったのでシンクロした。過去のことがよみがえってきて、私たちは苦しめられる。やり直したいと思う。しかし、「タイムマシーン」があったって、救いがない。彼はこう歌う。"あの夜死んでしまった あいつに会いたいけど/もう一度死ぬとこなんて見たくもない"これにはユーモアすら感じる。彼は死者を大切に思っている。それと時間を飛び越えてもう一度会うことは、ちがうのだ。起こったことの大切な一回性を奪ってしまう。僕がアニメ版「時をかける少女」を見て思った感じとよく似ているのだが、「時かけ」よりも、深く考えられている。というのは、本当に帰ってこないということが歌われていて、それが瞬間、出会いを大事にするというメッセージにつながっているからだ。喪の時間を過ごしたからこそ出てくる言葉がある。”死んでしまった奴より 生きたいと願え”(Hop Step Dive)これほど倫理として強い言葉がスガから出てきたことに驚いている。深い気持ちからだ。「Progress」はNHK版よりいい気がした。彼は深い闇の中から一歩光のほうへ踏み出そうとしている。"世界中にあふれているため息と/君とぼくの甘酸っぱい挫折に捧ぐ…”あと一歩だけ、前に進もう”"
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Sep 17, 2006

ETV特集

 で、けま喜楽苑での取り組みというか、じいちゃんばあちゃんのありようというか、非常に丁寧に取材されていた。見た方はわかると思うが、けま喜楽苑は特別養護老人ホームである。ユニットケアの先駆けで、個室も多い。とてもゆったりした空間で、あんまりオシッコの匂いがしなさそうである。みんなメイクもばっちりである。僕のヘルパー実習に行ったある特養は、くさかったし、ぎすぎすしていて、ばあさんたちが「姥捨て山みたいや」というのであった。
 いくら丁寧といっても、みんな仕事でやっている。とはいえ取材が来たから大慌てで用意しましたみたいな顔を職員がしていなかったので、相当なレベルである。すごく丁寧なケアがされているのだが、実家に帰った認知症の夫婦はニコニコしていた。娘さんもがんばっていた。夫婦の奥さんはしっかりしてたり、そうでなかったりの落差が激しそうだった。
 ふるさとへ帰れば過去の記憶が戻ると考えられていたおばあちゃんは、「(思い出したのは)半々くらい」と美談の展開を裏切る見事なリアルだった。でも情の深そうな人で、記憶が薄れても大切な感覚が残っているなと思った。おばあちゃんに育てられた弟さんはさびしそうではあったが。
 とはいってもテレビはテレビであって、現場の本当のところというのは行ってみないとわかんないだろう。人間はバカにできないのであって、仔細に実際に見れば、ここは親父を入れたいかとか切実に考えるのだろう。親が嫌いな人は「姥捨て山」にということもあるかもしれないが、喜楽苑のようなところは人気がありそうだからなかなか入れないのではないかとも思うのだった。    
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ミスチルを熱唱

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 しました。この間、デイでカラオケ行ったときはThe BOOMの低めの声の歌を歌ったりして、ノドを調整していました。でも今日は声が出たので、ミスチルの”花”や”and I love you”を歌いました。歌うとすごく高揚感があって、”花”は詩が素敵というか、まさに等身大の歌だと32にもなって、感心したり同調したりしていました。その当時は通り過ぎた歌だったりしたのですが、気持ちと声の高ぶる曲線の軌跡が同じで、胸が震えます。上手いか下手かは置いといて。病気がひどかったときは本当に声が出なかったです。
 ジャンカラなので昼は安いけど、連休の初日なのでじょじょに混んでいくようでした。
 「マイボス・マイヒーロー」が最終回でした。面白かったぜコノヤロウ!!担任の先生役かわいいなあ。誰だっけ?
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Sep 16, 2006

焼酎のほうが日本酒よりカロリーが高いらしい

 だそうだ。焼酎はなんとなく健康的な気もしていた。W先生によると。日本酒お銚子一本でだいたいご飯一杯分くらいらしいのだが、そのカロリー量を焼酎は日本酒1に対して3分の2で超えるらしい。だからチューハイも痩せるためにはちょっとまずいのである。今日は恐怖を抑えて体重計に乗った。やっぱ70超えとった。まず目標は60台である。今日は外食だったが、みんなが肉食べてるけど、がんばって魚を食べた。定食屋に魚とかお野菜系のメニューがあればと思った。食べ方とかに対して、少し意識が変わってきた。眺めてみると世の中は肥満を作るマシーンみたいだ。そういう見方が自分の中にできて、みんななんであんな健康番組が好きなのかうすうすわかったが、ジャンクなものもないとさびしい。そんで、もっと野菜も取れるようになってないと環境が。
 二日続けて仕事して、大丈夫かと思ったけど、朝はパッチリ目覚めた。それでも緊張は残っていて、デイケアに行ったが、しばらく気分が落ち着かなかった。たぶん慣れの問題だと思う。W先生もそうおっしゃっていた。午後には落ち着いた。
 ある人に「淀川さんと横尾さん」を読んでもらった。楽しそうに読んでいたので、うれしかった。あの本は人を幸せにすると思う。
 今日は頭の中を宮沢和史のPerfect Loveという曲が流れていて、なんかロマンチックしていた。
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「アルケミスト」読了。鷲田清一の本へ

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 「アルケミスト」読了。オチはナンダコリャと思った。あれはまずい気がする。クリニックに行く電車の中でずりおちそうになった。とはいえ、スピリチュアル。極端な宿命論。これはお話だなという感じがしすぎる。いいお話にはちと遠い。しかし、その論理の強引さが、いい感じになっているところを発見した。少年が砂漠をピラミッドに向かっていく時、砂漠の中で不安にさいなまれた少年が自分の「心」の声に耳を傾けるよう錬金術師からアドバイスされる。そこで、どんなネガティブな「心」の声の時も、それをただ徹底して聴く、それは少年にどんな状況になっているか知らせているというところだ。認知療法より身に沁みる。ありがちな処世ではあるけど、なかなか自分に都合の悪いこと、かっこ悪いことは、つまり自分の弱音は聞きたくないものだ。ここには客観性がある。それから、大事な予兆は、それとなく待っていて、それに集中しないと訪れないことも教訓といえばいえる。教訓くさいのが難点だ。というか教訓のすし詰め状態。主観に流されがちで、展開も強引だが、ありがちなお宝や何かを求めるというのは人を引きつけるのだろう。ロマンって奴かな。
 鷲田清一『「待つ」ということ』(角川選書)が新しい示唆を与えてくれそうな気がする。大事なもの、運命をうけいれる。そういうものを「待つことなく待つ」といってる点、個人的に注目大だ。引かれる例も面白い。鷲田さん、文章がすごく硬くもなくやわらかすぎずいい感じ。いつのまにか阪大の副学長になってるし。これは読めそうかな。関西人という感じがする。
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Sep 15, 2006

詩「白い息」アップしました☆

 詩誌「コールサック55号」に掲載された「白い息」をアップしました。よろしくです。→こちら
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白い息

背がとまってしまってから
もう何年もたって
ぼくはますます自分の存在の小ささを感じるのです
空を見れば、もっと
闇につつまれて、さらに
優しい人に会うと、うーんと
ぼくはこの小さな存在で
かろうじて息づいていることを感じます
まるで小さなかえるになったように

小さな葦がゆれている河原に立てば
とおくにゴミ処理場の煙突が白い煙を上げていますが
がんばって星をみるのです
星は大きいけど
目に見えるのは小さい光の粒
それらがつながって大きな家族をつくっているようです
星は魂と同じだから
ぼくが宇宙の絶対的孤独の中で
すごく小さな星になったら
大切な人や知らない人と抱きしめあって
星座になるのです
とてつもなく孤独だからこそ家族になれる
そんなことをけっこう本気で信じているのです

全ては幻だとしても
はかないことだとしても
そう思っていることは
ぼくにとって安心です

葦の河原から瞬間移動して
土の匂いがしてきます
生駒山がみえて
田んぼが並んでいて
ぼくのおじさんの小さな町工場がみえます
おじさんはもうおばさんとねむっているのでしょうか
不思議にこのあたりはなつかしく
星がさらにつよくざわめくようなのです

ぼくはそんなにからだの小さな男でも
大きい男でもありません
まあ中くらいです
中くらいで弟に背は負けるけれど
そんなぼくは根源的に小さな存在なのだと感じた今
色んなものが
やっと当たり前の大きさを取りもどしはじめて
ぼくはベットで目をつむりながら
ぼくに与えられた光と闇のことを
素直に感じます

小さい頃遊んだ冬の公園がみえてきました
人工的な沢があり
百舌が鋭く鳴いています
まだ人気のない朝
父親と歩いていて
ぼくは底知れず肩を落としたり
弟とじゃれあったりしています
そして
そこを走るぼくの白い息は
今ぼくのところまで届くようなのです





*COAL SACK55号 2006.9.15発行に縦書きにて掲載。
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Sep 14, 2006

昨日、脚立が便器にまたがっていた

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 昨日はマジメなことを書いたけど、自作が活字になって本当にうれしい。今日も昨日に続いて仕事だった。キツイかと思ったが何とかやりこなせた気がしている。昨日脚立が掃除をする一階のトイレに、立っていたので、脚立が本当に便器にまたがっていたので、そっとしておいて、掃除しなかった。今日は清掃途中に工事の人が来ていて、なにやら作業していたが、ほどなく帰っていった。脚立もいなくなっていた。職員の方と仕事したので作業スピードについていけるかと思ったが、大丈夫だった。
 帰りCD屋により、かねて気になっていた「ゲッツ/ジルベルト」を手にする。時々CDをまとめ買いするのだが、今日は気分が落ち着いていたので気持ちよく買い物ができた。食材を買って帰宅。家に電気がついていたので、彼女がいるのかと思ったら、忘れて外出したようだ。風呂に入ってメシ食って、「ゲッツ/ジルベルト」を聴く。何よりジョアンの声が若い。演奏はしびれるというか、すごいので言葉が出ない、でも気持ちいいという感じがした。両者がそれぞれに持てる力を出しながら見事なコンビネーションだった。他の演奏者もすばらしい。色んな才能の類まれな出会いで成り立っている、ある種の祝祭のように思えた。宮沢和史の「MIYAZAWA・SICK」もよいと思った。こういうスタンスでがんばっている人は日本には少ない。彼女は帰ってきて仕事をしていたが、どうもパソコンの調子がおかしいようだ。私のマシンは健康なのだが。
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Sep 13, 2006

活字になってみて

 仕事から帰って、郵便箱をのぞいたら、詩誌「コールサック55号」が届いていました。私の作品が掲載されています。初秋の雨の中をやってきました。コールサック55号では、原爆の詩「リトルボーイ」のことが詳しく紹介されシンポジウムが開かれた様子が克明に書かれていました。
 自分の詩が活字になるとなんだか不思議な感じもします。自分は幼い詩を書いているなと思いました。未熟ということもありますが、いとおしくもあります。なぜなら自分の感じたことを何かの形で残せればいいのですが、あきらめてしまったり、薄く切り取るだけみたいになったりすることがあるからです。うまく形に出来ないのは残念なものです。べつに形になるのが最高だとばかり思っているわけではありませんが。だけども、大事なことは、何か形になればと思います。他の人がどうでもいいといってもです。これは、詩のことだけではありません。がんばるのは苦手ですが、なにごとも精進というしかないです。自分をごまかしたくないです。
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Sep 12, 2006

ジョアンな夜

 ジョアン・ジルベルトの「声とギター」を聴いています。私が持っている唯一のボサノバのCDですが、確実にいきます。名盤です。極楽の音楽であり、一人の男の歌でもあります。声、声、声…渋い!!今年日本にくるみたい。糸井重里がジョアンについてエッセイ書いてます。
 思索と暖かさが、思いの強さがじんわりと空間に広がります。秋の夜にはぴったりではないでしょうか。確か、スタン・ゲッツとコラボやってたような…
 買い物に行ったら偶然、友人に会いました。良いタイミングで会ったと思います。NHKの「サラリーマンNEO」が面白い。生瀬さん、いいです。私の好きな平泉成さんも出ています。
 ここ最近寝てばっかだったんですが、今日は部屋の片づけをしました。↓写真=日本公演時のジョアン 115_1594
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Sep 10, 2006

わにとかげぎす1のレビュウ

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今日外出の帰りうれしくて買っちゃいました。
確保です。

主人公男32才です。ぼくと同い年だ!

この人の書くものはマンガでありながら、今小説家があまり書かないプロレタリヤものだと思う。つねに今に向けられている。
それから、青春小説だと思う。
ドストエフスキーの「地下室の手記」ほどやばくはないが、つねに自分に問い、ひとを求める心が響いてくる。
「わからない」といえる強さを持っている人が必ず出てくる。
そしてエンターテイメントだ。
いろんな意味でぼくのこれまでにシンクロしてきた。コンビニで買える所が良い。
この物語は出だし「グリーンヒル」や「シガテラ」に近い路線だ。
しかし「ヒミズ」のような決め方もないとはいえない。
いろんな意味で予断を許さない。コメディのような気配は濃厚だが。
これからなので☆5つにはしない。

mixiレビューより転載。
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訳あり風のお父さんが何度も何度も謝っていた日

 まずはうれしいことがあったよ。古谷実の新刊が発売されて外出の帰りにコンビニで買った。良質なマンガがコンビニで買えるのがすばらしい。プロレタリヤバンザイ(笑)  それで外出というのがここんとこ出てる詩の集まりで、詩を気に入ってくれた方が御一人いた!もうね、ひとりだろうが喜んでいただけると心がかよったようでうれしくなってしまう。いろんな人によろこばれたらと思ったりもするけど、五感をフルに使って、脱力系に書いたから、悔いはあんまりない。私の支えになっている人たちに感謝です。
 それでね、行ったコンビニで子連れの訳あり風のお父さんがいて、あたふたしながら、買い物済まして、5才くらいの子どもを連れて出た。私も後で出たら、近くの信号が赤で、子どもが飛び出して、バスが走って来てて、ぶつからなかったけど、さっきの訳あり風のお父さんがバスに向かって何度も何度も謝っていた。運転手が「そんなに謝らなくてもいいよ」という風に黙礼して走り去った。きっと大変なのだ。だけど生きているのだ。事情はわからんが。その帰り片言の日本語で「パチンコがね生活費がね」と話している二人組みも見かけた。なんか胸騒ぎがしたけど、大丈夫。みんな一生懸命。当たり前なんだけどね。それも普通に生きてたら忘れそうになる。今日は旅の話をたくさん聞いた。旅になかなか出ない私なのだが、というか旅というものを病気してからほとんどしてない。旅という概念をあやうく忘れかけていた自分に気づいた。古谷のマンガもそうだけど将来何があるかわからん。毎日が旅だとも思うのであった。
 他の人のブログに出てきたシュルレアリスト占いというのをやってみたら、私はマックス・エルンストだった。好きな人でよかった。彼の鳥が「ロプロプ」というのを初めて知った。佐々本果歩さんの詩集のタイトルはそこから来てるのかな?
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Sep 09, 2006

どこまでも反省するというのはまるで反省してないようにも見える

 さっき、ベランダでタバコを吸っていたら、下の階から、咳払いがして、男のものだった。怒られているような気がした。今日は夜、感想文をこりこり書いていたのだが、あんまり出来がよくない。文章が楽しそうじゃないのだ。そんなこんなで、虚しい気持ちになっていたところだった。だから何というわけではない。でも、無理にマジメモードになったって仕方ないじゃないかと思う。もう一回書いてみようかな?
 昨日、「年賀状に好きだと書いてしまうこと」を書いたが、別にかいたっていいじゃないかという気がしてきた。ぶっ放してしまうのも、もちろん普通に考えれば世間知らずなのだが、それでいい。私は反省が苦手なのだ。なぜなら反省というのがきりがないタチなのだ。中学時代「反省しない!」と強く思ったことがある。反省で頭が変になりそうになったのだ。そんなに悪いことした記憶はないのに。どこまでも反省するというのはまるで反省してないようにも見える。外からは内的な過程というものがわからないからだ。全然見当違いになってバツの悪い思いをする。キリの良い反省というのがあったらいいけど、それも変だし、それよりも、別のことをして答えを出すほうがそこに何かがあらわれているとすればそれでいいことなのだ。小泉さんは反省してない態度がお気に入りだがああいうのも何かちがう。あれはある種の反動でそうなっていると思う。
 昨日から、大槻ケンヂの「リンダリンダリンダラバーソウル」を読んでいた。読了。何か急に詩はヒップホップに近いんじゃなくてロックじゃないかと思ったりする。バンドブームの頃のお話。読みやすい。同時に今さらみたいだが「アルケミスト」も読んでいる。どうも翻訳がよくない気がする。いい意味でも悪い意味でも強引な物語運びだ。
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Sep 08, 2006

年賀状に好きだと書いてしまうこと

 自分の運命って何なのかな、あまり考えない日もあり、考えるときもあり、今日というか最近はまた考えるようになってきたような気がする。自分探しってことかもしれないけど、そういってしまうとありがたみが減る。生まれるということはシオランの言うように「生誕の災厄」と思ってた節があって、今も肯定できているか怪しい。かといって、呪ってはいない。呪っている時期もあったけど。そういう中途半端という感じ。
 例えば自分のしたいこと、欲望、願望とは別に、わりかた冷静に徹底して事実だけ見てる自分がいる。これも誰でもそうかもしれない。昔、高校のとき、女の子に年賀状を出したとき、あろうことか「好きだ」と書いてしまった。普通書くか?書かない。でも暴走するときがある。もちろん、その子は冬休み明けから二度と口をきいてくれなかった。思いを伝えねばとなると歯止めがかからない時期がずいぶんとあったものだ。今はそんなでもない感じ。割り方、冷静な自分もいる。だから自分の思い込みだけでは行動しない。
 かわって、葛藤が増えるようになった。複眼的に見るので、色んな事情とか、境目とかがわかるようになってきて、対立する自分の気持ちというものがうまく出せない事がある。でも、ぼくの彼女にも、ぼくの、彼女に対する気持ちが、実はバレバレなんじゃないかと思うことがある。これ、恋愛のことだけではないよ。自分のしたいこと、おおげさにいえば、運命というもの、そういうものに対して、もごもごしつつ目の前のことを何とかやろうとしている。
 なんでも宿題になってしまうと辛い。未来にもごもごしながら向かっていくのだ。きっと色々あるだろうよ。
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Sep 07, 2006

 座ってパソコンに向かっていると、テレビをつけているような音が聞こえ、あれ?テレビつけてないんだけどなと思いながら、部屋を出ると、ちょっとこわくなった。どうも外からだなと感じたら雨の音がして、人がどうやら会話しているみたいだなと思いながら、窓の外をのぞくと駐車場でだれかとだれかがが話してるようで、しばらくすると聞こえなくなった。
 雷が時々ぴかぴかしているが、私は人の声のほうが怖いのだと思った。もちろん時間も時間だけど、人の声は何か私の皮膜をつきやぶってくるようで、恐いときがある。こわいけど聞きたい、むしろこわいから聞きたいと感じるのだと思う。
 じぶんの気持ちの形によって、相手の声がすごく響いたり、相手の思いというか思念が強く伝わるときがある。怒られてるときなんかはわりとわかりやすいけど、日々、粛々と、真実が伝わってくる。自分の、他人の、自分と人の混ざったみたいなもの。そういうのが積み重なると何となくその人の地みたいなものが出来てくる。
 病気になったときは、自分の輪郭がおかしくなっていた。センサーだけが鋭くなっていた。  
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Sep 05, 2006

豚汁

 曇り空。まだ、高専の殺人の容疑者は身柄確保されていない。
 少し肌寒いような気もするがクーラーをつけてしまった。まだなんか眠い。今日は豚汁を飲む。昨日は秋刀魚の塩焼きだったので、秋である。ぼくは秋から冬にかけての季節が好きだ。
 だいたい僕は身の回りの小さなことしか書かないので、これでいいのかなあと時々思うが、まあいいかと思う。今日は阪神かちそう。たけしの「本当はこわい家庭の医学」を見てしまった。口臭の特集だったのだが、あんなおどさなくてもといつも思う。東京歯科大学の口臭外来の宣伝のようにも見えた。
 明日は仕事である。涼しくなってきたので、少し楽かな?
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Sep 04, 2006

月夜

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 「メディスン・コンピレーション」を聞いていると月だと思った。「ハニームーン」という名曲がある。
今日の月夜です。
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メディスン・コンピレーション

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 今週は暑いようである。ここ2~3日はやる気が出ず、寝て過ごしていた。夏の疲れだろうか。
 食べ物を気にしている。これ食べたらどれくらいカロリーあるんだろうかと思う。それで油ものはなるべく避けようかと思っている。計算したら一日大体1700~2200kcalで充分なようだ。彼女が夜散歩に出ればいいといっているのだが、だらだらしている。さんまを食べた。今年初です。
 今日の音楽は細野晴臣「メディスン・コンピレーション」。アンビエント。93年。BOOMの宮沢和史が昔紹介してて、何年か前に中古屋で買った。写真のがそれ。
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Sep 01, 2006

書評ー「淀川さんと横尾さん」

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 友人と話していて、思い出した名著。Uさん、実家に帰ったらありました。今度会ったらお見せしますね。
 相手を好きになるというのが、嫌味にもならず、こんなにストレートに出ている対談というのはないのではないか?
 ふたりがどんどん仲良くなって、人生、映画、美術、死生観、なんでも、淀川さんが受けて立ち、横尾さんが素直にいられるというすばらしい空間。
 淀川さんは、魂で話すのだと思った。そこに横尾さんもいて、難しい言葉はほとんど出てこない。これ、本当に大切なことだと思う。
アートを愛するということがどういうことか教えられる。批評としてもレベルは高い。
「二人でヨの字」も対談中に決まったタイトル。

 自然をめぐって二人の感性がどんどん高まっていく光景は圧巻。7年ぶりの再読。久々に読んでます。
 あんまり新刊では手に入りにくいみたい。(mixiレビューに若干加筆)
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血液検査の結果

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 9月です。精神科では、半年に一回くらい、血液検査をやる。昨日結果を聞いてきた。尿酸値が少し高い。ぼくはビールは晩酌に軽く一杯なのだが、なぜか高かった。ビールは少し控えめにということのようだ。また、GOTやGPTが少し高い。肝臓に脂肪がつき始めている証拠らしく、体重が増えているとそうなるらしいのだ。コレステロール、中性脂肪も少し高め。ゆえに、ダイエットということになるのだが、ぼくはダイエット苦手というかやったことがないのです。少しずつやろうと思います。というか出来たらいいなとちょっと弱気。でもおなかが出てきて気になってます。去年は数値は悪くありませんでした。
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Aug 31, 2006

初給料日

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 昨日、掃除の仕事でした。だいぶ涼しくなっています。昨日は同僚の人がしんどそうだったので、がんばりました。初給料日でした。給料何年ぶりだろう。やったー!コーラスで「少年時代」歌うことができました。名曲です。人と話していて、淀川長治と横尾忠則の対談を思い出していました。ずっと淀川さんが、横尾さんのことをかわいいねえといっていました。
 今日は、批評文の清書。時間がかかるが楽しい。曇り。診察に行ってきます。
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Aug 29, 2006

季節はずれの「さくら」

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 今日は集まりでカラオケに行った。
 ユニコーン”雪の降る町”、山崎まさよし”One more time ,one more chance”、宮沢和史”抜殻”、森山直太朗”さくら(独唱)”、安全地帯”ワインレッドの心”、SMAP”夜空ノムコウ”を歌う。
 一応曲順に紹介。あんまりマニアックにならずに、でも自分の好きな人の歌を歌う。斉藤和義も歌いたかったけど。バラード系がうまいといわれる。「さくら(独唱)」がほめられた。うたうと気持ち良い。ほとんど夏の歌を歌っていない。「少年時代」を入れようとしたが時間切れ。
 晩は風呂入って、ビーフシチューをたべる。うまかった。もうすぐ秋だ。ぼくはサラダを作った。
 今度仲間と出すものに入れる批評文の手直しをする。他の件で個人的にあといくつか書いていない文章がある。
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Aug 28, 2006

介護者から利用者になったものの介護の見方メモ

 こないだ、考えていて、ぼくは昔は介護者だったのだが、いまは利用者である。昔介護者だったとき、なかなか頼りにくそうにしてる人がいた。どうしてだろうと思った。遠慮や色んな思い、障害を認めるのが難しい等いろいろある。自分が利用者になってみて、いまは頼る・甘えるというのも一種の技術だと思うようになった。気持ちよく過ごしている人は、関係性というものをよくわかって、どこまで頼るか、ここは自分でやると、どんなに重度でもわかってくるし、世話する側も、わかってくる。目的がはっきりすれば、どう職員を利用というと変だが、そうするかというのがわかるようになる。何を相談していいのかわからないこともある。ある意味で、相談できるようになれば、その人は自立しかけているとさえいえるだろう。最初はぼくもどう話していいか、どこまで話していいかわからなかった。何を相談して良いかわからないが、とにかく苦しいということでも、もちろん職員は助けてくれる。そうしてくれない施設は終わっているともいえる。介護、利用者両者にそれぞれに思いがあり、精一杯生きているという認識が大前提。
 昔介護で働いているとき、なるべく、その人が自分を受け入れてくれればいいな、できることはやっていただく、それ以外は支援するというふうに思っていた。今、掃除の仕事で職員がついていてくれているが、ぼくらが慣れてくると、少しずつ、距離を取ってくれるようになる。じぶんもかつてそうして、できることはやっていただくということをしていたので、逆の立場から「支援」ということが見えてくるようだ。生きるという事は難しい。そう思えば思うほど、色んなものがドライに見えたり、いとおしく見える。客観的になれてきているような気がする。
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書評-爆笑問題の太田と中沢新一の対談

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 昨日は合評会で、即興詩大会をした。みな思ったより良い作品が出来て、ぼくも良い作品が出来た。うれしかった。居酒屋では24時間TVをやっていた。やっぱりあの番組はいやだ。
 爆笑問題の太田と中沢新一の対談読了。好きな二人である。タイトルがいまいちだ。中沢新一、ついに憲法に言及という感慨があったし、後半は面白いとはいえない。宮沢賢治が田中智学に寄り添った時期がありながら、辞めて童話や詩を書いたこと、理想社会を追い求める危うさ。にもかかわらず、憲法は不思議な形で(逆説的な形で)理想を描いている。そういうところは面白かった。正直論理の流れを追いきれないところもあった。中沢新一が「護憲」的立場をとらざるをえないほど、何かが危機的なのだろうと感じた。最近中沢新一は確かに文明批判の色を濃くしている。現憲法には、アメリカ思想の淵源である「先住民の知恵」が影響を与えているなど、刺激的な面もあった。しかし太田の語りが固すぎる。中のエッセイは面白かったけど。
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Aug 26, 2006

ソクーロフ「太陽」が見たい

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 イッセー尾形が昭和天皇を演ずる「太陽」を見てみたいが、大阪ではまだやっていないようだ。いつやるのかなあ。ぼくは天皇という存在はいつも不思議だと思っているので、どう撮られているか見てみたいのだ。イッセーさんのファンだし。
 一昨日は杭全酒場という居酒屋にいってきた。最寄り駅はJRの東部市場前。酒場というから、どんな雰囲気かなと思っていたが、ふつうの居酒屋だった。ぐるナビクーポンを使うと15%OFFだった。
 昨日はデイケア。わりとのんびり過ごした。
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Aug 24, 2006

ドジョウすくい

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 朝夕の風が一昨日の夕立あたりから、気持ちよく感じられるようになった。もうすぐ秋か。それで、今日の朝、空の写真を撮ってみたのである。
 昨日は仕事だった。職員の方とも、同僚の方ともおしゃべりがだいぶできるようになってきた。
 職員の方の作業所が、お祭りに出店するらしく出し物は「スーパーボールすくい」らしい。ぼくが「金魚すくいの要領でやるんですか?」と聞こうとして、まちがえて「ドジョウすくい」といってしまった。思わずうけてしまった。天然である。
 で職員の方が、寝言の話をしていて、学生時代、同じクラブの合宿で寝ていて、突然「いってきます!」と寝言をいう人がいたらしい。それでみんなザワザワしていたら、しばらくして、今度は「ただいま!」といったらしい。次の朝確認すると、確かに出かける夢を見ていたそうだ。
 ゆうべは、NHKで「プロフェッショナル」の再放送を見た。スガがテーマを歌っていて「中島みゆきさんの「地上の星」を超えるようなものを書いてください」といわれ、なかなか書けなかったらしい。デヴューまでの苦労は知っていたが、ご飯に胃薬かけたほどとは知らなかった。それより、3年前に父や友人が亡くなってスランプになったという話が重く響いた。でもトークは面白い。
 ポアンカレ予想を解決した数学者は賞を辞退したが、お母さんの年金で暮らしていて仕事もないらしい。
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Aug 22, 2006

時をかける少女、星野道夫展

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 昨日はテアトル梅田に、「時をかける少女」を見に行ってきた。時間移動の話なのだが、細部を徹底して論理的につめて欲しかった。絵はいいと思います。猫月亭さんの情報で早めに整理券をもらったほうがいいということだったので、早めに行きました。猫月亭さん、ありがとう。やはり混んでいました。
 ご飯を食べたりして、とても梅田の駅前などは暑い暑い。それで、大丸で「星野道夫展」をやっていたので、ちょっと涼しい気分になるかなと思って、行った。素人なので、写真の出来はわからないが、数多くの人が来ていて、彼のアラスカでの生き様を詳しく知るわけではないが、感銘を受ける方も多いのではないか。もう亡くなって10年たつのである。熊との距離が近そうなのでこわくなかったのかなと思いました。また、道夫さんのポートレイトがあるんだけど、誰が撮ったのかなと思いました。
 今日はぼんやり過ごす。夕立の雷鳴の後は嘘のように夕暮れになっています。明日は仕事です。
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Aug 20, 2006

犬の水浴び、あるいは語り得ぬものは沈黙しなければならない

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 暑い暑い夏が続きます。今日は犬の水浴びを手伝ってきました。載せてるのは、洗う前の写真です。動き回るので、なかなか撮れなかった。人を見分けて愛想を使ったりもする、ちょっとずるいけど憎めないやつです。ちなみに僕が飼っているのではありません。毛がさらさらになって、なでると気持ちよかった。おさえるのが大変。水は嫌がりません。でも、ぬくい水でベランダでやるので、こっちは暑くてかないませんでした。スイカをその場で頂いて帰ってきました。
 今日は詩が一本書けました。大幅に、ラストを削って出来上がりました。こんなのは、初めてです。後々某所で発表予定です。書いた後ヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものは沈黙しなければならない」という言葉を思い出しました。ヴィトゲンシュタインは事実を語っていると実感できます。好きな言葉です。
 彼女と「夜と霧」についてしゃべりました。フランクルの使っている「人間」という言葉は、ある危うさを持っているかもしれないけど、この言葉を胸にフランクルは生きたのだなと思いました。
 NHKスペシャル「論文捏造」を見ました。結構こわい話です。韓国では、なぜ実験用の人の卵子が手に入りやすいのかなと思いました。
 マジメな日だったかもしれません。
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Aug 19, 2006

ここ何日かの予定

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 今日は、「時をかける少女」の上映館を調べていたが、とても少なく回数もあまりない。でも月曜あたりに行けば、あまり混んでないだろう。明日は、彼女の実家で犬を水浴びさせる。  何冊か本を読んでいる。加藤典洋「僕が批評家になったわけ」を再読。小澤勲の痴呆論(岩波新書)。多木浩二の「戦争論」も読もうかなあ、といいながら積ん読。でも本の匂いをかぐだけでも気分がいいのは久しぶりだ。  今日のテーマ曲the pillows 「Fool on the planet」
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つじあやのをちょっと聞く

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 車で聞くにはとてもいい、つじあやの「恋する眼鏡」である。
 さわやかで、ちょっとエッチである。くせがない。それがいい。眼鏡好きなひと必聴。今日は天気がいいので似合う。
 
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Aug 16, 2006

「神童」読了

 昨日は終戦記念日。髪を切る。散髪屋で、小泉首相、靖国参拝という新聞を見かける。色々思うが、ノーコメント。ただ、相手は死者であり、そのお参りであるから、深く考える必要がある。小泉首相も色々考えたんだろうけど、外国のことをどうこう言う前に、まだまだ考える余地がある。焼肉を食べに行く。彼女と戦争の話をする。詩の話もする。グッとこないと書けないという結論に落ち着く。朝は朝日新聞を読んで、大江健三郎のエッセイに何か書かれてないかと普段は読まないのに読んでみる。別に反戦のメッセージが読みたかったわけではない。特に面白いことは書いていなかった。特別なことをあえて書かないという戦略なのか。渡辺一夫(フランス文学、大江の師匠)と南原繁(政治学者)と公演したときの逸話を書いていた。もう40年以上前の不戦の集会。渡辺が南原に大江を紹介するときに「公演で、大江君は若いので、素っ頓狂なことをいうかもしれません」と笑った話。大江はその年、「個人的な体験」と「ヒロシマノート」を書く。ある種の昔話といえなくもないが、イデオロギーはともかくとして、何か印象に残った。さそうあきらのマンガ「神童」をフジコ・ヘミングのピアノ曲を聴きながら読む。「神童」はピアノの話だが偶然だった。「私が音楽だから」というせりふ、興味深い。ドラマとはこういうものか。「ゲド戦記」を見てもやもやしていたが吹き飛んだ。フジコの音楽も、技術的には素人の私が聞いても、すごくうまいわけではないんだろうけど、聴く者を受け入れる良い間がある。
 今日は掃除。お盆過ぎだが、寺が近いので、人出は多い。風が強かった。
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Aug 14, 2006

東久留米のうた、発見しました

 「東久留米のうた」の音源を発見しました。ボーカルは下手だけど笑えます。バックの映像も素敵です。いろんな音源を聞けます。Youtubeでも聞けるみたいです。今日はデイケアで料理を作りました。
 「ゲド戦記」の感想、まだもやもやしています。宮崎駿アニメに11才くらいに出会って、衝撃を受けた私としては、やはり気になりました。怒る気はしませんけど。きれいに流れていきません。
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テルーのうたならぬ、東久留米の歌

 どうもTV神奈川で、「みんなで歌おうZ」という番組があるらしく、プロデューサが神奈川などの地域の名にちなんで歌をつくっているらしい。
 今日は「東久留米の歌」であった。なぜか関西でも流れていた。「踏み切り開けば人がわたる」みたいな当たり前のことがさびに出てくる。わりかしロックないい曲だった。本当に「テルーのうたみたいにしたんですよ」といっていた。全てうろ覚えと勘による情報。知っている人がいたら教えてくださると助かります。
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Aug 13, 2006

ゲド戦記

 昨日見に行ってきた。うまく感想は云えないが、やはり駿さんと比べてしまうと、絵のセンスが圧倒的に違う。絵が動いてドラマが展開していくときのスムーズさ、快感がない。展開はなく、ぶつぎり。これほどまでにと思った。何か事情があるとしか思えない。非常に居心地が悪かった。
ストーリーや事情は様々なレビューで憶測が飛んでいるし、自分も推理してみたが色んなファクターがあると思う。真の名のテーマは「千と千尋」だったりもするし。ああここが書けてないんだなあというとこもたくさんある。それだけ駿さんとちがってサービスがない。
 Yahooのレビューで酷評されている。まあ当然の反応だろう。ぼくには作品は拙いなりに、何かはあると思ったりもするのである。あまり自分が怒らなくなったせいもある。しかしプロデューサのやり方はおかしい気もする。
 なにしろ第一作なので、あまり贅沢はいえないだろうが、ストーリー自体も、「ゲド」戦記ではない。ゲドが農作業をやっている姿は好きだけど。ストーリーは原作を読んでいないとぴんと来ないシーンも多いような気がする。しかし私は第5巻を読んだ事があるけど、背景がわからなくても、それなりに完成してた。
 ラストに近いところの「クモ」の姿が変だった。なんか変な鼻歌歌ってたし。でも、ある意味斬新ともいえなくない。宮崎駿アニメには意志のある人しか出てこないから、それはそれで、少しいびつと言えなくもないし。なんか、これはすごいニヒリズム映画である。
 個人的には、いろんな製作の苦渋が表れている映画だと思った。父の描き方は、実際の親子関係を暗示していると思った。いろんな思惑がからんで映画は作られるので、それも親子、第一作、ジブリブランドとなるとなおさらだろうと思った。しかし、レベルを維持するのなら、きちんとした絵を見せてもらわないと困る。ただジブリというだけで、これまで皆見てきたわけじゃないと思う。
 世界の均衡は回復しないし、命を大切にするというスローガンが、クモの扱い方で破綻している。これは絶望の映画なのだ。そうきちんと云う必要があったと思う。影との戦いはいい。  
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Aug 09, 2006

帰ってきました。「夜と霧」読了

 長崎原爆の日。

 気づいたら、ホームページが5000アクセスを超えた。読んでいただいてる皆様ありがとうございます。
 昨日自宅に帰ってきた。彼女が帰ってきて、ぼくが植木を枯らせてしまったのを怒っていた。水をやるのを忘れてしまったのだ!ごめんなさい。ううう。昨日の空は不思議な色をしていた。
 帰省中は、ジャズ喫茶に何回か行き、お酒を飲んだり演奏を聴いたりしていた。実家は木造なのでクーラーなしでも眠れた。
 今日は掃除だった。いらちなので、ついつい早く作業してしまう。もう少しゆっくりしよう。結構この暑さで疲れた。ぷいぷい占いによるとA型は、「人の意見をきくといい」とあった。明日はカウンセリングもあるし、素直に耳を傾けよう。
 「夜と霧」読了。すぐには感想はいえない。正直な文章だと思う。ただ、フランクルとおんなじ環境におかれて、彼のように振舞えるかというと自信ないのが正直なところ。心もどうにかなってしまうかもしれないが、体が先に壊れそうな気がする。  
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Aug 06, 2006

合評会、ちょっとだけ帰省するつもり

 原爆の日。

 昨日は合評会でした。自分の作品が丁寧に書かれてないことがわかって、落ち込みました。作品、あわてて書いたなあ。
 この会に限らず、集まりに出ると、話は聞くのが精一杯で、自分のこととか、しゃべるのがうまくできないことがある。緊張してるのかなあと思います。
 今日は地元の夏祭りなので、一人だし実家に帰ろうと思います。お泊りしてくるかもしれません。
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Aug 05, 2006

お休み

 今日は水曜でバテていたので、デイケア行こうと思って準備までしたが、休むことにした。
 友達とメールのやり取りする以外は、メシ作って、食べてごろごろしたり、テレビを見たり。報道ステーションで見たが、原爆症の認定患者は、全患者26万人に対し、2000人くらいしかいないそうだ。爆発の後、町に入って被爆したり、ちょっと遠くで被爆したりした人は認定されなくて、広島地裁で裁判があり原告(被爆者)の主張が認められたらしい。
 あと関係ないが野沢直子がテレビで出ていた。この時期は「出稼ぎ」なんだそうだ。「夢で逢えたら」は名番組だったと思う。ユニコーンも歌ってたし「働く男」。
 フランクル、がんばって読もうかなあ、読めるかなあ。大事な本だと思う。やっぱり敗戦の日が近づくと、戦争のことを思うのだろうか。  
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Aug 04, 2006

「夜と霧」を手に取った

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 昨日は1時半に寝て、6時に目が覚めた。いつもよりも早い起床である。
 〆切で詩を書いた。いつも読んでくれる彼女はいない。部屋をうろうろしたりしながら、出てくるのを待った。待つというのは難しいものだと思う。でも来るべきものが来ないと、すっきりしないので、待つ。待った意味はあったと思う。荒削りだけど、今日集まりに行ったら、「出し尽くす」という姿勢を評価してくださった方がいた。まだうまくはできないのだけれどありがたい。
 何人かで集まっての会合。ぼくにとっては、落ち着いて参加できてよかったのではないだろうか。色んな個のゆるやかな集まりであるが、静かな熱のようなものを感じた。
 帰って、急にフランクルの名著「夜と霧」(新版のほうです)が読みたくなった。まだ読んでいなかったのだ。(なんてこった!)しばらく前に買ったものである。「夜と霧」は、心理学者がナチス強制収容所に収容された経験を独自の人間哲学にまで高めた歴史的な本。と要約できるのかはわからないが、ぱらぱら読んでみるに、過酷な状況に陥っても、最低の人間になるかならないかは、その人の「決断」次第だというようなことが書かれていて、これは収容所に入らなくても、どこで生きようといえることなのかもしれないと思った。これが学説というよりも実感だったのだろう。自由はやはり自分から勝ち取る必要があるだろう。けして強い人間になれといっているわけではないんだろう。がんばれソングでもない。しかし、これには若干の補助線が必要である。それは弱いものを助けるというか身を挺する心というものがないといけないという点かもしれない。それが読むほうにとって、躓きの元かもしれない。中原中也のいう「奉仕」ではないだろうか。同じ収容所体験をもつレヴィナスは、身を捧げるといっているが、ぎりぎりそういう線から読む必要がある気がする。だから、嫌いな人はすごく嫌いだと思う。ぼくも何となく敬遠してきた。ぼくはあきらめの悪い人間だから、そして自分に甘いので、恐れていたのかもしれないし、平和ボケで何が悪いとも思っているからだ。そういう生も、身を処すということは、いつでもしていることである。だからというわけでもなく、不意に読みたくなった。読めるかな?
 あと、やっぱり書くことは体にいいのか悪いのかわからないけど、自分を変えていくものだと思う。
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Aug 02, 2006

今日は少しお疲れです

 今日彼女が旅行に行ったので、久々に独りもんの気分を味わっている石川です。
 今日の仕事は思ったより疲れました。同僚の方も云っていたのですが、少しずつでも、疲れというのはたまっていくもので、向こうの職員さんは風邪を引いてて、それがうつったという訳でもないんでしょうけど、夏場の体力仕事は、週一とはいえ、少し体に来ます。というか、やっぱ最近暑すぎます。絶対気候がおかしいな。ぼくは高槻に住んでいたので、大阪市内は暑く感じられます。
 家に帰ってきて、シャワーして、汗だらけのTシャツを洗濯したり、ご飯を作ったり、亀田のイカン試合を見たりしてたら、体が重く感じられました。熱中症ではありませんが、気をつけようと思います。幸いなことに、以前に比べて、太ったせいもあるのか新陳代謝はいいです。水分もこまめに取るようにしています。
 仕事自体は少しずつここがまだできてないとか、そういうことが少し見えてきました。もっとうまくがんばっていこうと思います。
 にしても、なかなか頭痛が取れません。〆切が近づいてきても文章が書けないと起こる現象かもしれないです。文章を書くというのは体にいいものなのか悪いものなのか謎です。タバコを吸う程度には悪いのかなあ。こういうときは素直に寝るのが一番かもしれません。
 亀田の試合は、それにしても、判定がおかしかったなあと思います。見た感じ亀田負けてたよ。でも勝った。あれなら、負けたほうが彼のためになったと思います。(もちろん負けはきびしいものですが)よくがんばったけど。KOを期待されて大変だったろうな。まあ自分で強いみたいなことをさんざん大きく云ってたのだから仕方ないかな。テレビタレントとしてはちょっとだけ面白いのになあ。試合中、普通の少年の顔に戻っていた。それが印象に残っている。
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Jul 31, 2006

一昨日のサッカー

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 一昨日、ガンバ大阪の試合を万博公園で、見てきた。結果から言うと、2-2で、同点で試合終了。少し残念だった。緑の芝生がきれいで、野球よりも近くに選手が見える感じでよかった。観衆は15000人近く。よく入っていたと思う。ただ、後ろの中学生くらいの女の子達がおしゃべりをしたり、騒がしく応援したりするのが困った。
 選手が攻めて来る感じ、あんなに広いのにゴール前まであっという間だ。来る途中はそれほどでもなかったのだが、モノレールに乗って、太陽の塔が真正面から見えて、公園東口駅について歩いていくと、すごい人だった。帰るときもすごい人だった。
 アビスパ福岡もがんばっていい試合だったと思う。ガンバは今3位だそうな。
 8月の初旬は詩の集まりが二つあるし、診察もある。彼女が旅行に行くのでしばらく一人で過ごすことになりそうだ。詩がなかなか書けない。
 埼玉の市民プールの流れるプールで、吸水口に女の子が吸い込まれて亡くなった。事故直前に柵を外したり不可解な事が多い。何かおかしい。女の子がかわいそうだ。
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Jul 29, 2006

くるり

 木曜日にカウンセリングへ行って、話すのがしんどいことがあったのだけど、話さないで置いておくという選択もあるのかなと思いました。話した後、なんだか後から疲れてしまって…。だから、そういうのもありなのかなと思いました。少し大人になった、自分です。
 CDを、何枚か買いましたPUFFY、BONNIE PINKは10周年だそうで、早いなあと思いました。PUFFYはPOPで聞かせるのだけど、ぼくはくるりのベスト盤「ザ・ベスト・オブ・くるり」がいいと思いました。しばらく聞きながら寝たりしています。ぼくはナンバーガールと双璧だと思っていました。ナンバーガールは解散し、ZAZENBOYSががんばっています。それぞれにいろんな活動形態があるのだと思います。個々のアルバムだけでは見えない、確かな叙情というか感情の流れを体験することができます。最近の曲の力をこのアルバムで、体験できたなと思いました。なにかもやもやしたものではない、芯のようなものが保たれてきたんだなと思います。とても一貫性のあるバンドだと思いました。アジカンあたりが成熟して、こうしたアルバムをだせると最高だと思いました。
 金曜日はデイケアでした。なんだか頭がぼーっとしてたときもあったのだけど、楽しむことができました。
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Jul 26, 2006

正直に書くということ

 ぼくの親父が、ガンバ大阪の試合のチケットを手に入れたのだけど、親父はその日、地域の盆踊りの仕度をしないといけないので、ぼくにチケットをくれました。サッカーを見るのは初めてなのだけど、なんだか楽しみです。最近、外へ出ることが少しずつ増えてきて、暑いのは、かなわんけど、いい傾向かなと思っています。
 今日は井上義夫というD・H・ロレンスの研究者が書いた「村上春樹と日本の「記憶」」という何年か前に出た本をぱらぱらめくっていました。いくつか目を引いたのは、村上春樹にとって「記憶」というのが人のアイデンティティーを形作る大切なものだという当たり前の指摘がなされていたことです。春樹氏は、あまり、そういうストレートな読みがされていないので、新鮮です。もし記憶がなくなったとしても、自分を裏切らないで、生きのびていくということも書かれていたような気がします。
 村上春樹氏は「完璧な文章などありえない」という言葉から「風の歌を聴け」を書き始めていますが、そこで、強く感じられていることはかなり倫理的なことのような気がします。その言葉を知って、春樹氏は安堵を覚えるわけですが、ものを書くということが、「正直」に書くことを願う、何度、できない、失語する、暗い闇がおそってきても、なるべく正直たらんとするということの大切さが感じられます。「書けない」ということは存在論的にいえば、「なぜ無が在るのか」という問いに直面することで、その感触をたどるように、無から「在る」を生み出すわけですが、それは虚構になります。書くことは虚構をつくるという宿命があります。そして、虚構に誠実に向き合えるか、その中の「本当」というものに向き合えるか、大切です。
 あまり、春樹氏はそういうまっとうな作家としてとらえられていないので、井上氏の観点には、何か大事なものがあると思います。日本文学の、大事な核の、その何分の一かでも春樹氏は分け持っているかもしれませんから。そうでないという意見もありますし、それに対して、そうだと思うこともあります。春樹氏を擁護しようとするわけではありません。ただ、書くことは実存との勝負でもあるわけで、そういう観点から、流行作家だといってかたずけるのではなく、見るのは大切かなと思います。その核にこの国の姿の一端があるというのは少しいいすぎな気もするし、井上氏が過大評価している面もなくはないと思いますが。
 今日は掃除の日でした。やはり汗をかくと気持ちいい。このまま順調にいければいいなと、一緒に働いている人や友達と確認しました。
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Jul 25, 2006

テリーギリアム

 今日は彼女とデートに行ってきました。
 梅田ガーデンシネマで、「ローズ・イン・タイドランド」を見てきました。あそこは空中庭園があるビルで、人工の滝が見えるところで食事しました。
 「ローズ・イン・タイドランド」。悲惨な話が生み出す、幻想的な物語だったが、ヤク中の家族といい、テンカンをもっている弟と死体がよみがえってくると思っている姉の兄弟といい、すごくどこにでも転がっている、壊れた家族なのかもしれないと思った。その中を指人形と話しながら、夢と現実のバランスをとって絶望もしながら、生きていく女の子の話だが、すごく突き抜けたユーモアがある。
 個人的には主人公の親父のパンクぶりや、ディキンスと主人公のやり取りが笑ってしまった。やっぱギリアムすげーという感じだった。「12モンキーズ」より錯綜していない話だと思った。また短期間でいい俳優にめぐり合えたと思う。弱者と呼ばれる人たちのちょっと悲しいお話でもあるが、たくましい想像力をみんな持っている。
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Jul 24, 2006

結婚式に行ってきました

 土曜日は気分の悪いことがあったが、それとは別に某誌に自作掲載決定!うれしい。
 さらに福島敦子さんがぼくのサイトとリンクしていただいて、とてもありがたいです。
 昨日は大学時代の友人の結婚式に行ってきました。京都で雨がぱらつく中おこなわれたのですが、何人か大学時代の友人が集まって、ちょっと同窓会気分でした。苦労人の彼は、あらたに幸せの誓いをしているようで見ていてさわやかな結婚式でした。あらためておめでとうを言いたいです。
 ここ何日か予定が続いたので、今日は寝ていました。
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Jul 22, 2006

球宴、伊藤比呂美

 藤川球児の球はすごい。江夏とか、伝説の投手はあんな球を投げていたのではないだろうか?久々に出てきた本物という気がする。でも、球児という名前で野球が下手だったら、本人はすごい落ち込んだだろうな。
 「ハウルの動く城」を見る。ちょっとずつ見たので、あんなストーリーだったけと思う。何かうまくいきすぎ。
昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を示したとされるメモが見つかったらしいが、昭和天皇だって、あの戦争に責任があるはずだし、その人の意に流れるというのはどうかと思う。なんでも個人的な信仰の問題にしてしまって、自分の公の考えを示さない小泉首相もどうかと思うし。こういう問題に万人が納得する考えがあるかどうか疑問だが、どんな魂であれ、安らかに眠っていただくということと、生者の政治的な都合というものの整合できる点を見出さないといけない。国内外問わずである。
 テレビを見たあと、伊藤比呂美の初期詩集(思潮社現代詩文庫)を読む。先入観よりはグロくないし、破壊的でもない。そういう装置が機能しなくなったというのもあるし、それ以外の部分でも読めると感じた。最初のほうの散文体の詩が優れているものが多い。この人はとても目がいい。物と物、人と人の関係が的確に描かれる描写力に驚く。あくまで主観を離れないのだが、あらかじめ心地よい客観が内在している。サービスがあり、それが嫌味になっていない。差別(先入観)は明らかにしていて、差別(先入観)が少ない。これほどの描写力をもった現在生きている詩人は少ないのではないか。読んでて気持ちいいし、書き手として羨望する。本人は好き嫌いが激しいというが、いろんなものが立体的に描かれる。小説家の目ではないだろうか。小説と詩の違いってなんだろうと思った。(梶井など、小説となっているが詩か小説かわからない。すぐれた文章は、その違いを超えるのかもしれない)じっさい伊藤比呂美は小説もエッセイも書いている。
 それとこの人の本領はエロス(ある種の風潮に流された)よりも、死を見つめる目にあるのではないかと思う。エロスと死はこの人の場合まったく対極ではない。実際死を扱った作品が出てくるが、それは何かを悼むとかいうよりも、なによりも、生き物の死を観察する目だ。そこには厳粛な倫理が働いていると、「アウシュビッツミーハー」という作品を見て思った。自分が死に対して第三者にしかなれないという感覚を描いている。子が生まれてからは、子を殺してしまうかもしれないという子と言う他者との二者関係の死の問題への移行が見られる。そこで詩が変わっていったような気がする。差別の根源には産む/産まないということがあるのを見てから、何かがかわってしまったかな。たぶん、何かに中立でいられなくなったのかもしれない。子を産んでから、子育てや家族に詩が侵食されて、いくつか面白いけども大変だなと思った。詩らしい詩は、散文体にくらべ迫力が少ない。また欠点はエロスが観念的に現れる時があるということである。ぼくは、何冊かのエッセイを読んだことがあるが、それは面白かった記憶がある。
 全てを見てそこから書くことのできる、文章家と思う。ただし谷川らが書くような空とか宇宙の詩はない。たぶん、「気持ちよさ」(書きつくすことの=産むことの)と「死」が彼女のキーワードではないだろうか。それらは言葉を駆動させる本質に近いものであると思う。
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Jul 20, 2006

子どものいる風景

 ここ一週間くらい気になることがあって、ちょっと鬱々としている。もうすぐしたら、溶けるかもしれないし、そうでないかもしれない。でも、そう深刻になっていないので、大丈夫かな。。
 というわけで、しばらく日記をつけなかった。ざっと、先週の連休から、あったことを適当に書こうと思う。
 連休中に「維新派」の舞台を見に行ってきました。しかし、いまいちでした。なんというかストーリー的にふくらみがないのに、役者だけが動き回っているのが見ててしんどかったです。あんなに動き回って、中身がもうひとつだとやりがいってあるのだろうかと思いました。あくまで個人的意見ですけど。
 テリーギリアムの新作は見に行っていません。見に行きます。それからもうすぐゲド戦記、楽しみです。今週末に予定があり、日曜には大学時代の友人の結婚式があります。礼服のズボンがちょっとサイズがきついのですが、楽しく祝ってきます。それから8月初旬に詩の集まりが二つあるので、自分的にはですがちょっといそがしいかもしれません。
 今週はよく寝ていました。仕事は、あちらの都合で休みでした。書きたい書評があるのだが、読むのも書くのもなかなか難航しています。もうひとふんばりです。大きい枠組みは見えているのですが。それと足立和夫さんより新詩集が送られてきました。うれしいです。素敵な本です。また詳しく紹介したいと思います。
 今日、夏休みに入るせいか、子どもの姿がよく見られた。雨の中(雨で被害にあわれた方お見舞い申し上げます)、病院に向かったのだがその車中で、5歳くらいの男の子をつれたおばあちゃんとお母さんが向かいにすわっていて、お母さんが「うちは泥棒はいられたら、お金ないから、みんな代わりに命取られるわ。だから泥棒に逆にお金かりなアカン」といっていて、子どもは「あほなこと言うな」みたいな顔をしてた。わかるわ。いややなあ。でもリアルかも。
 帰りラーメン屋に立ち寄って(ここは茨木で2番目においしいラーメンという暖簾がかかっているのです)けっこう混んでいて、子供連れも2組くらい来ていました。小さなラーメン屋です。ぼくがおっちゃんたちに混じって、チャーシュー麺と餃子でビールを飲んでいたら、3歳くらいの子どもがビールに興味ある顔しながら、「お父さんになったらのむねん」といっていて、かわいかった。何度も何度もいっていた。そしてニラのキムチ漬けみたいなのを欲しがってしっかりゲットしていました。六年生くらいのお兄ちゃんは特盛ラーメンを頼んでいた。お母さんも大変です。
 なんか、いろいろ考えごともあるけど、子どもを見たら、なんかうれしい。自分が子どもを持ったら大変なのだろうけれど、子どもにはなんか不思議な力がある気がする。共振する様な世界があるというか。すぐ大きくなるから、さらに不思議。いろいろ子どもをめぐる、こわいニュースがあるので、大変だ。
 
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Jul 14, 2006

漢字

 今日、魚扁のつく漢字を何個かけるかといわれて、いくつか書いてみた。すごく頭を使う。でも出てきたり出てこなかったりした。そしてこんなページを見つけた。こちら。頭が変になりそうである。アートだともいえる。
 今日友人がテリーギリアムの新作を見に行くといっていたので、ぼくもいつか見に行きたくなった。ぼくは「12モンキーズ」とか「未来世紀ブラジル」とかしか見ていないのだけど、(2作も見てるって自分的にすごいかも)ギリアムの素直だからこそ世界がねじれて見えるような作品は好きだ。
 ぼくは人と仲良くなりたいと思うとなぜか結果的にどんどん押してしまう。わがままなのだろうか、あほなのかわからん。自制しなくては。
 最近時々映画を見に行ったり、今度は維新派の芝居も見に行く。(わ!イルボンさんが詩集を出している!)ぼくは去年からしたらうそみたいに健康的だ。ポエムバザールへ向けて批評や詩を書くので、感性のリハビリになればいいと思う。今日ラストの事で悩んで悩んでmixiに「やわらかい生活」のレビューを書いた。以下に転載します。



「やわらかい生活」

ぼくははじめラストの祥さんの死に驚いてしまい、またつまずきました。
それで色々考えて一日経ったのですが、これは大人のファンタジー映画に近い作りをしているんだなと思うと何か納得できました。
祥さんのアメ車とか、格好とかある種のキャラですし、妻夫木くんのヤクザは不思議な少年という感じです。
もちろん、主人公の病については啓蒙的ともいうべき、万全な演技、役作りですし、様々ないいシーン、設定で、虚構の中のリアリティを作り上げています。
だから、ぼくはあまり人生論的に考えないことにしました。もちろん重たいテーマがあり、それは夢から覚めて生きていくという逃げ道のない過酷なものです。
まだ頭の中でぎくしゃくはありますが、完成度や総合力は高い映画だと思います。つっこみどころはいっぱいありそうで、あまりないと思います。もちろんつっこむことは出来ますが。
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ふるさとについて

 今日はカウンセリングに行ってきました。それから東京の友人から教えてもらった映画を見てきました。その前に本屋によって、鎌田慧「椎の若葉に光あれ」(岩波現代文庫)といしいひさいちのマンガ「現代思想の遭難者たち」(講談社)を買ってきました。
 カウンセリングのあとに、新しく出来たカフェみたいなところで昼食を食べました。いつもはこれも近鉄の永和の駅のそばなのですが「食楽三昧」というところで、食べます。今日はちょっと変化をつけてみました。仕事の次の日だったのですが思ったより体調がよく、カウンセリングでは、悩みごとが少なくなったのはなぜかという話をしていました。もちろん悩みがなくなったわけではありません。どちらかといえばこもる人だし、相変わらずくよくよしたり、というのはあります。
 自分の感覚のパターンみたいなものがあって、そのパターンというかモードはあまりふかく把握していないのですが、何でしょうか。自分の人との関わり方の根幹だと思います。ずーっとそれを恐れて生きてきた感があります。ある種のいたたまれない気分というのがあって、そういうパターンにはまらない余裕みたいなのが出てきたのでしょうか。はまってもある程度のところでとまって、痛手が少なくなるというか。彼女にそういったら、「暑いから余計な事考えへんねん」といわれてしまいました。だから、悪くなるときもあるかもしれませんけど。
 鎌田慧の本は私小説作家葛西善蔵の、今の言葉で言うと、「イタイ」生涯を追った伝記です。何を隠そうぼくは、大学の頃、笙野頼子さんにはまって(彼女は思えば引きこもり小説の先駆者ですが、80年代からそうやって生きてきたので、その当時は評価されませんでした)、私小説というものに目覚め戦後文学の裏街道をたどり、藤枝静男さんを読んだりしていたら、どんどんその筋にはまってしまいました。今考えたら、藤枝さんはとても真面目な生活者で、葛西善蔵も真面目すぎておかしいくらい真面目な人です。真面目をつきぬけると、こんな人になっちゃうんだというくらい小説に没頭しながらかけないかけないといっていたのが葛西です。
 私小説には、他のジャンルにはない、自分の資質つまり生きている感覚のふるさとでしょうか、そういうものに対する強いこだわりがあり、それがすぐれて突き抜けると不思議な幻想や、ユーモアをうみだします。ぼくはその距離感のない(いわゆる客観性のない)こだわりというものに自分を感じたのかもしれません。今はぼくは私小説から遠ざかっているけど、そして、私小説なるものは嫌われた時期もありましたし(それにはひつぜんもあったのですが)あまり読まれないけど、何か懐かしくなって、鎌田慧の本を手に取りました。書き出しを読んでみたけどすばらしいです。原本は94年発売で買った覚えがあります。でも内容を覚えていません。あらら。これで買って読んでない本がまた増えました。なんとかしなくては。いしいひさいちのマンガはさっと読めます。哲学者をネタに目いっぱい遊んでます。さすがです。これは現代思想の冒険者たちのおまけについていたんです。
 それで映画なのですが、「やわらかい生活」という映画です。動物園前のシネフェスタで見ました。フェスティバルゲートはジェットコースターもとまっていて、館内表示も塗りつぶされているところがあって、なんかさみしい感じです。この映画は自分の感覚のふるさとを追いかける映画だと思いました。さっきの「現代思想の遭難者たち」でも出てくるのですが蒲田という町がカラオケの発祥地ということを初めて知りました。だからカラオケの部分がノーカットで撮られています。寺島しのぶもいい味出しています。心の病(躁うつ病)と共に生きている感じがある種普遍的な感じで描かれています。やたら薬もリアルでした。町もいい感じです。ふるさとという感じです。ただ、豊川悦司演じるいとこが死んだことがなにか残念な気がしました。いとこが生きてどうなるか決着をつけることが主人公の生にもなんらかの意味を感じさせる結果になっただろうという思います。それくらい男は消えて女が残されるという映画なのです。原作はわかりませんが原作にはなんらかの意図があったのかもしれません。しかし、そうするにしても、なにかひっかかるものがありました。基本的に素敵な映画なので、余計にストーリーの決着のつけ方が気になりました。これはあくまでぼくのこだわりなのですが。
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Jul 12, 2006

掃除機

 変な天気だった。でも夕空はきれいだった。
 今日も掃除の仕事で汗を流す。週一回のことだけど、外に出て、動く大事な時間だ。こないだとは違った区域を掃除する。そうやって見取り図を作るように覚えていく。先週して、忘れていた動作もあった。今日たまたま見学に来た人に、掃除機のかけ方がなれてませんねといわれて、ぼくもそう思うけれど、掃除機ってけっこうむずかしいんだよねーと思う。ぼくは掃除機はあんまり得意じゃないです。なれていかんといかんなあ。
 トム・ヨークのアルバムをずっと聴いている。いろんなところで、いろんな評価がされているが、ぼくは洋楽の動向に詳しくないので、細かいところはよくわからない。しかし、かなり聞かせる歌であり、曲の感じがする。やっぱり、本当にいやだと消しちゃうからね。そういうことはない。ついついかけている。でもこわい音楽だなあと思う。この人の本質はこわい人なんじゃないかと思う。魔術的な音楽だ。聞いてくるとなじんでくるけど。かすかな違和はある感じかな。これがメジャーなのだから不思議な感じだ。でも引き込まれる。レディオヘッドの曲に詳しくないのでなんともいえない部分があるけど、これ本体がどうかということで、良くも悪くも引き込まれるものになっていると思う。だからトム・ヨークも掃除機かな?
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Jul 10, 2006

トム・ヨーク

113

 ここ何日か日記を書いていなかった。
 先週木曜から印象に残った事を書いていきます。

 木曜=診察で就労について報告。のちに実家で飯を食べる。ひさしぶりに親に会うというのはいい気分だった。弟のハリウッドみやげにTシャツとカリフォルニアワインをもらって帰る。
 金曜=デイケアに行く。新入りの人が何人かいる。就労、来週水曜に行く予定。職員さんがついてくれるみたいです。夜は昨日もらったカリフォルニアワインを飲みながら、七夕祭りをする。去年に続いてぼくの願いごとに彼女からダメだしが…
 土曜=詩の友達と会いました。お互い近況を話しながら合評までしました。いろんな話が出来る友達は心強いです。詩についてけっこう深い話ができたと思います。村瀬学「自閉症」(ちくま新書)を買う。知的障害を持つ人の広い行動範囲に着目していて、彼らを地誌的な広がりの中においてみるという点がいい。山下清論も新しさを感じます。
 日曜=彼女とタダ券があったので、お茶をのみに行く。自転車に空気を入れる。CD屋にいって、まずはある人にすすめられていたMUSEというバンドの試聴をする。ざんねんながら、少しぼくの好みと合わなかったが、一応頭の中に名前を入れておこうと思う。トム・ヨークの新譜を買う。いわずと知れた、レディオヘッドのフロントマン。ジャケがかっこいい。絵が折りたたまれていて、すごく詩的な雰囲気なのです。ふだん音楽をきかない彼女もジャケがよくて目が引かれたといっていた。絵が神話的です。この波を起こしている人は誰?という感じなのです。こんな詩集があればいいのになと思いました。
 音楽は普通の音楽の伝える感情とは全然違います。KID Aの時も感じましたが、どこか恐い世界に連れて行かれるようなこの世のものではないような感じは残っています。KID Aよりはポップですし非常にわかりやすく仕上がっています。また、サウンドが部屋の中を自在に飛びかう感じで、それがおもしろい。こういうアルバムは脳内麻薬的というか、脳の意外なパターンを刺激して、どんな感覚になるか実験しているみたいです。いわゆる落ち着く音楽でもないんだけど、音のパターンを踏み外して、解体して、よくわからないところへ導かれる感覚を味わうことができます。方向はまったく違うけど、ビョークの「ヴェスパタイン」に近い気もします。おススメポイントとしては5点満点中3.8点くらいでしょうか。いいんだけど、トムの試みに対して、いろんな意見があると思って。コアな感覚からは一線を引いています。でも楽しんで作っている感じがします。コアな人には物足りないでしょう。それから洋楽、全然詳しくないようというぼくのような人が聞くと新鮮です。
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Jul 02, 2006

金曜の映画、土曜の合評会

 金曜は、マイミクの猫月亭さんと映画を見てきました。なかなかいい映画でした。猫月亭さんと、どんな映画かなあといっていたのですが、よかったです。「タイヨウのうた」といいます。宣伝が少ないためか客は少なかったです。筋はこれから見る人のためにあまりいいません。主人公の女の子はXPという太陽に当たると死にいたる病気を病んでいます。その病気の進行具合も恋愛も押し付けがましくなく描かれています。いわゆる「泣けよ」映画ではありません。十分悲しい話ですし、さらりとした描き方が逆にその悲劇性をつたえていました。でも、どこかに希望があるのです。個人的には、主人公の窓から見える早朝(日にあたれないため昼夜逆転しています)の風景や、海の絵が心に届いてきました。夜というものの澄んだ空気や切なさがよく出ていると思います。空気感にやられました。また作り手の人間に対する確かな目のようなものが伝わってきます。あとからじわっときます。地味な映画ですが地味な映画の光を感じます。若さというものの痛みと輝きを残そうとするかのような。個人的にこういう話には弱いのです。うたも、よかったです。映画の後は、ご飯を食べながら、お話しました。ぼくも、映画たのしかったですが、それを素直に伝えられたか不安でした。映画をあまり見ていないので自分の感想に自信が持てなかったのです。あとからじわっと来たので感想がそのときはうまくいえませんでした。しかし、話していると、そんな感じはどこかにいきました。猫月亭さんの感想をきいていると、心が伝わってきました。猫月亭さんは、いろんなものを見に行っていて、ぼくは感心しました。ぼくは出不精なので、猫月亭さんの話を聞いて、いろんなところに見に行った気になって、よかったです。猫月亭さんのいうように、東京は文化的にまだまだ首都なのだと思いました。ぼくは東京に行きたいと思ったことはあまりないけど、芸術に頻繁にふれるならやはり東京かなと思いました。ぼくも小説家のサイン会があったら行きたいですから。また、あまりに地域格差があるのはおかしいとも思います。猫月亭さん、ありがとうございます。ぼくは友達が少ないので、とてもいい時間を過ごせてよかった。またよろしくお願いしますと思いました。
 土曜は合評会でした。人数が少なかったけど、楽しかった。自分の詩「ふたつのキ」の感想を聞きながら、深刻にとらえる人がいたり、軽いなと思う人がいたり、気と木で引っ張るのはきついと思う人がいたり、詩は読者をも映す鏡なんだなと思いました。
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Jun 30, 2006

カウンセリング

 昨日はカウンセリングに行ってきました。最近気になることはあまりないけど、ひととおり、近況報告しました。
 自分の気持ちより相手の状態などを優先させるにはどうしたら言いかと思います。想像の力ってこわいですからね。相手が何してるのかとか嫌ってないかとか、想像しがちです。だいぶマシになりましたけれど。
 斉藤和義の「俺たちのロックンロール」を買いました。かっこいい。プライマルスクリームの方はいまいちでした。
 本屋に行きました。倉田良成さんの本が置いてありすごいなあと思いました。本では村上隆「芸術起業論」を買いました。芸術には「怒り」のパワーが必要だとか、新しい芸術をつくるとしても、芸術界の既存の文脈を押さえて、そこを超えていかなければならないとか、新鮮な議論がいっぱいあります。海外で作品を認めさせなければ、生きていけないという強い思いが伝わってきます。でも詩とはちがうなあと思います。誰しも己を普遍化させたいという思いは、持つことはあります。でも、村上さんの場合、その気持ちが、なにか自分のふるさと(オタク、日本)を伝えたいという根源的な欲望であることがわかります。いろんな反論もあるだろうし、語り口もうまいとはいえませんが。岡本太郎の「青春ピカソ」がなぜつまらなかったかなんかわかりました。
 きょうはコーラスです。あと今日マイミクさんに会います。
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Jun 28, 2006

見学

 今日は、以前書いた就労の件の見学に行ってきました。
 暑い中、仕事をこなしていく方々に圧倒されました。正直、自分もやれるかなとちょっと不安になったりもしました。とにかくやってみないといろんなことがわからないとも思いました。やはり仕事というものは大変だなと思いました。あちらの担当の職員の方がレディオヘッド(イギリスのバンド)のTシャツを着ていて、「レディオヘッドですね」というと職員の方は同好の士を得たようでうれしそうでした。「なかなか身近に洋楽の話をできる人がいないんですよ」といっていました。「英語のアルバムの名前が「健忘症」という意味なんです、こんな業界で着るのはまずいですかね」といっていました。なかなかファンキーです。「なぜラジオではなくレディオなんですかね」といっていたので、徳永英明に「壊れかけのレディオ」という曲がありますよといいますと、笑っていました。余談ですが、徳永英明さんは「もやもや病」という難病にかかったことがあるそうです。今は復帰されてますが、名前とは裏腹に、脳疾患で血管が映像で見るとタバコの煙がもやもやしているように見えることからそう名づけられたそうで、大病につながりやすい病です。英語でもmoyamoya diseaseというらしいです。
 正直、仕事、夏場はやせそうです。けっこうなれるまで大変かもしれません。
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Jun 27, 2006

(ハル)

 昨日詩が書けたので、ちょっとほっとしています。まだ送っていないし、まだ載るかは、わからないのが不安ですが、がんばって乗り切っていきたいです。まだまだこれからと思うことにします。
 今日は映画「(ハル)」を見ていました。mixiの「(ハル)」のコミュニティーで知りました。パソコン通信時代の映画ですが古びていません。人と人の関係の変化をきちんととらえた映画だと思います。6月いっぱいヤフーの動画で 無料で視聴できます。 こちら
 この映画ではメールが来ないということがひとつのターニングポイントになっています。結局、相手の心を信じられるかという問いが出てくるのです。自分の深いところにも触れてきます。これはどんな通信手段でも変わりませんが、メールの場合、相手に即届くので、来ないときのドキドキは一層あると感じます。深津絵里は、ほとんどからみがなく、引いて撮られる映像に色々考えさせられたらしいです。  
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Jun 26, 2006

書けた

 ここ2~3日は詩が出来ずに悶々としておりました。で、今日いくつかのイメージが浮かんできて、どれも懐かしい光景なんですけど、近所の河原とか、星とか、伯母さんの家とか出てきて、わーっとなって、それを書きとめたら、なんか詩のようなものが出来上がりました。ちょっとすっきりしました。なんかお風呂も入らずくさかったのですが、シャワーを浴びて、一つ出来た。出来ないときは2時間くらい机に向かってました。なんかスタジオに缶詰になるとか大げさだけどちょっとそんな感じもします。こんな感じは初めてです。今までは闇雲に書いていたので。いい詩が出来るときは、本当の言葉(そんなものがあるかわからないけど)が出てきます。他の詩と違う言葉で書いてないのに、やはりなんかわかります。
 その詩は、どこかに発表できるかもしれないので、その候補に入れます。もう一作くらいかけるかなあ。
 ぼくのマイミクさんがぼくの詩集を紹介してくれました。フルショーさんです。ありがとうございます。うれしいです。
 カラオケに行きました。高田渡の曲で「生活の柄」。山之口獏さんが作詞しています。どこかねじの外れたような浮浪者のうたなのだけど、これをうたうと不思議とねじが戻ります。
 生活保護が何か変わるらしい。日本の福祉は貧しいので、ちゃんと所得保障が出来ているかも怪しいのに、しめつけが厳しくなりそうです。つまり必要な人に回るかということです。きっと保護の人が増えたので政府が大慌てなんでしょう。ひどい話だ。障害年金暮らしのぼくとしては他人事じゃありません。社会保険庁もでたらめだし。
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Jun 24, 2006

約束の十二月

 昨日NHKの「金曜かきこみTV」を見ていた。10代の性の悩みを聞いて回答するコーナーで、みうらじゅんさんらが、「童貞は想像力の源だ」とかいってて、みうらじゅんは性の伝道師だといつも思うわけだが、驚いたのは益子直美さんだ。益子さんは、バレー選手時代から好きだったのだが、今もかわいい。トップランナーの司会も大江千里は別として、好きだったのだが、驚いたのは、10代の性に歯止めをかけようとしたのか、こんな内容の発言だった。要約すると、「わたしは40が近くなったが、若いときのセックスよりも、今のほうがいい」というものだ。おいおいNHKですごいこといってるなあ。益子さんがいうと(そんなこと云いそうにないだけに)妙にリアルじゃないか。というより、なぜみうら氏はつっこまないんだ。でも益子さん、まじめに話したんだろうなあ。発言の目的より、ぼくにとってはビックニュースだった。
 今日は掃除したあと、斉藤和義の「約束の十二月」を聞く。これぞ斉藤和義という感じのさらっとした、でも深みのあるいい曲だ。胸が熱くなる。カップリングの曲で「ひとり暮らしにも飽きた」というフレーズが出てくる。リアル。ますます斉藤が聞きたくなる。益子さんと斉藤和義は同い年であった。宇多田ヒカルも楽しみです。今日はたぶんスパを食べた後、犬と遊ぶ予定。詩を書こう。
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Jun 22, 2006

どこまでいけるか

 一日中雨である。ごろごろする。病院行く。それで終わった一日。 いつもどおりの10分診療(10分かかるかな?もう少し短いかな。他の方はどうなんだろう?)であるが、最近はいい感じになっているし、近況報告という感じになっている。それがいい距離感だ。詩についても、就労についてもあたたかく質問してくださる。詩について話せるのはいい。今日は、「ダメな詩というのは自分で書いててわかるの?」というもので、わかりますと答えた。やはりなんかうまくいってないなというのはわかる。(わからないときやいいといいたくなってしまうこともある)彼女にそのダメな詩を見せてしまうのだから、ぼくも迷惑な奴だ。それで、詩を書かなきゃいかんのだが、なかなか書けず。プライマルスクリームのCDが欲しい。
 果歩さんから、手作り詩集が届く。実家には届いていたのだが、こちらにはまだだった。「うみべ」というタイトル。ぱらぱらめくるが、葛藤が、クールな筆致で切り抜かれていく印象がある。なにか幽明界をただよっているような印象もある。しかし、この詩たちはまちがいなく生きている。もう少し読み込もうと思う。
 詩を書くにしても、何をするにしても、課題というものがあると思う昨今だ。書くたびに新しい景色が現れてきて、そこへ、自分をひっぱっていく。自分の未消化なところや、詰めの甘いところがあらわになっていく。紙媒体を意識し始めたら、ネットとはやや違った形での、誰かが見ているところに出すという感覚が出てきた。正直どこまで行けるか不安だが、書いていこうと思う。
 奈良で自宅に火をつけたのは少年だった。あえて何も書かない。
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Jun 21, 2006

性格

 デイケアの食事会に難波に行ってきました。
 たくさんの人が来ていました。いろんな人と話できたのがよかったです。もう何日か前のことだけど、彼女が福井の温泉に行ってきて、名前占いをおみやげに持ってかえってきたのだけど、その内容がぼくと正反対の明るく社交的な人になっていた。心配性のぼくにも、誰かがぼくの詩集について「向日性」と評していたけど、そういう一面もあるかもしれないと思ったりした。ぼくの父はすごく明るい人です。
 ある悩んでいた人にメールで答えていたら、その人にほめられた。慢心してはいけないのだけど、ちょっとだけいいことした気がして、うれしかった。
 もうすぐ、詩を某所に発表できるかもしれないです。うれしいな。
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Jun 18, 2006

宇多田ヒカル

 今日は、彼女が旅行中。
 NHKの「トップランナー」で、宇多田ヒカルが出ているのを見る。最新アルバムの宣伝なのだろうけれど、よかった。べつに彼女をとくにチェックしてるわけではないのだが、色んなアクが抜けていた。一見年取ったなあと思ったが、8年前にブレイクして、駆け抜けてきて結婚もし、いわゆる「スター」のオーラとはちがうものを放っていた。早くに有名になって、あとで苦労する人は多いが、彼女なりの理性で、様々な葛藤を乗り越えてきた感がある。デビューした頃は、確かに才能がすごかったが、騒がれている部分が大きかった。そこで身につけてきたしんどさというものから、吹っ切れた感じで、なんかさわやかであった。一ミュージシャンとして見れるだろう。砂漠が好きというのが印象的だった。そこに彼女の宇宙みたいなものがあるのだろうと思う。
 楽天。ノムさんの采配が今日もすばらしい。一昨日投げた有銘をワンポイントで使う等、安定しだしたチームだ。
 倉田さんから同人誌をいただいた。うれしいです。こないだ現代詩フォーラムに発表した詩は「ふたつのキ」といいます。ご一読下さると幸いです。こちら
 今日はサッカー日本戦だ。
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Jun 16, 2006

銃声のような音

 昨晩彼女とちょっともめる。でもすぐ仲直りした。
 デイケアに行く。習字。ぼちぼちできた。しゃべりたかった人とも話せた。よかったです。今日は暑くなりました。昼はノリ弁を食べた。午後は普通に過ごす。
 グループ就労の説明があった。担当の方とお会いする。少しシステムの話が難しい話だったが、なんとか理解する。グループ就労というのは、ひとつの制度の利用で、メインは、働く体験だ。もう一人の人と、説明を受けるが、もう一人の人は、すぐには飲み込めないようだった。一瞬、ぼくと一緒なのがいやなんかなあと思うが、考えすぎ。慎重になるのが普通だと思う。ぼくも慎重になりたい。しかし、いいチャンスだ。来週、ちゃんと詰めていきたい。
 夜、今日はひとりなので、レトルトカレーを食べて、阪神戦を見たり、ホストやホステスを特集する番組をみる。人間は、働くのがやっとの人間やそれもしんどい人間もいれば、毎晩たくさんお酒飲んで、客のお相手をして暮らしてる人もいる。そういう夜がある。今日、人と話してて、薬を飲むようになってから、深夜時間帯に起きていることはなくなったことを思う。規則正しくなったわけだが、深夜に読売テレビの「シネマ大好き」で、マイナーな映画を見てた頃が懐かしい。今は亡き相米監督の作品とか見ていたなあ。そんなことを話してて思い出した。
 阪神今日は勝つだろう。

(追記)ブログを書いて、ベランダに出てタバコを吸っていたら、3~4回銃声のような音が聞こえた。物騒だなあ。花火とかだといいのだが、まだ、パトカーの音は聞こえないので、大丈夫かと思うが、パンクの音とも違う。何だろう?今日も話していたが、やっぱり大阪って物騒な街なのかな。
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Jun 15, 2006

気になることとのつきあい方

 一日中、雨。じっとりと暑い。とうとう梅雨本番です。みなさん、いかがお過ごしでしょうか?たぶん全国的に雨なんですよね。まあ、そういうこととは関係なく、今日はカウンセリング行ってきました。
 メールの返事がかえってこないというのは誰にとっても今の時代、不安なのでしょうか。ぼくは気にかかるほうなので、先生に相談してみました。詳しい話は除くとして、これでも、だいぶ気にかからなくなってきました。病的な不安というのは薄れています。でも、メールは便利だけど、電話や手紙や直接会っての頃の心の決着のつけ方とはちがう時間の流れ方があるんじゃないかと思います。ずーっとつながっているから、つまりONだから、逆につながらないときに、なんでやろうと思うのかもしれません。いらん推測しちゃったりとか。こないだそれを詩にしてみました。手紙だったり、電話といえば、歌のテーマになったりしますよね。そういうのとメールは違う。いい歌やドラマみたいなものは、まだ生まれてないんじゃないかと思います。
 でも、だいぶ置いてきぼりになるような感じとか、嫌われてるんじゃないかとか、少なくなってきました。気にかかることがありつつも、生活が送れている感じです。以前強迫神経症になったことがあって、それに生活が支配されたことがありましたが、それも、少なくなりました。
 人は、気になることをかかえながら、生きていくのが、普通なのかもしれません。しかし、自分の思いみたいなものにとらわれて、周りが見えなくなってくると、生活が苦しくなります。なったことはないけど、社長をやっている人は、気になることだらけですよね。日々の売り上げとか、得意先とのつきあいとか、部下の面倒とか。で、社長じゃない人も、自分の人生というか生活をある種の事業と考えれば、友達のこと、家族のこと、そういう人がいなかったら、自分のこと、専念しなきゃいけないことでいっぱいで、気になることもいっぱいです。そうして、生きているのが、病気であるかに関わりなく、健康じゃないでしょうか。以前は雑念を消してしまいたかったけど、雑念がなくなるというのは、普通じゃ出来ません。ある程度いろんなことに意識が脅かされない程度に分散しながら、集中する事かもしれません。もうすぐ、精神障害者向けのちょっとした就労プログラムにつくので、忙しくて、メールどころじゃなくなるかもしれません。もちろん、メールいただけると非常にうれしいこともあるのですけど。
 以前は、ある種勘違いして詩を書いていました。でも、そういうパワーでかける時期というのは、過ぎていく感じです。自分は特別じゃないという地点、つまり当たり前の地点から、書いていくというのは案外難しいと思います。いまでも勘違いしてるかもしれないけど、どこか遊離した地点からは書けなくなりました。かくごとに、それは嘘じゃないのとすぐツッコミが入りながら、書くのですから、一歩一歩が試行錯誤です。
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Jun 13, 2006

ハミングバード

 昨日の日本戦、動きも固かったし、なぜ柳沢を小野に変えたのかわからなかった。ボールをキープして、走るということが大事なのに。今日は楽天ー阪神戦を見て、トーゴー韓国戦を見ている。トーゴ面白い、野生の動きだ。
 昼に外へ。ながらく行ってなくて、お金だけ払っていたジムを辞めた。ちょっとすっきりする。森毅の名著「まちがったっていいじゃないか」を買う。学生時代、森先生には助けられた。彼は元祖脱力系だが、骨があることがわかる。それは戦争に対してつちかわれた、負けの哲学だろう。斉藤和義の新曲「ハミングバード」を買う。いい感じの曲。枯れ具合がいい。斉藤はいい曲を書く。彼も挫折をソフトに歌うことができる。
 出版社からメール。詩集の在庫を置いておくのにもお金がかかる事がわかる。流通側はコストの問題から、裁断をすすめているが、それはまずいということで、引き取りをすすめるメールを送ってくれた。タダだし、ぼくの手元にあまり詩集が残っていないので引き取ることにする。
 今日も深津絵里を見ることが出来た。やっぱりなごむ。彼女が出ている戯曲「あわれ彼女は娼婦」を見たいが、チケットはもう完売している。しかし来月には別の劇団「維新派」の舞台を見に行く予定がある。
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Jun 12, 2006

道元の顔

 朝地震があったようですね。大きい地震だったみたいで驚きました。少し被害があったようで大変です。
 今日はデイケアに行きました。ぼくが提案したソーセージとアスパラガスのピリ辛たまご炒めでした。まずたまごを半熟まで焼き、別の容器に置いておき、アスパラガスとソーセージをソーセージに焼き色がつくまで炒め、作っておいたチリソース(豆板醤、ケチャップ、砂糖、酒、鳥がらスープのもと、塩、コショウなど)をからめて、最後に、卵を入れて終わりです。
 で、ぼくの顔が「道元に似ている」という方がいて、何だかありがたかったです。ありがたや。
 今夜ワールドカップ、日本対オーストラリア、ビール片手に見ます。日本勝てるかなあ。あんまりなめてたらやられるかもしれない。イングランドを見てたら初戦はむずかしいし、暑さによる体力の消耗が心配です。
 弟はハリウッドに研修に行くようです。すごい!弟の絵のある店がニュースに映っていました。チラッと。
 ドラマ「スローダンス」の再放送が関テレで、夕方やっているのを発見しました。去年ももちろん見ていました。深津絵里さんはドラマ「彼女たちの時代」もよかったけど、これはぐっとくるところがファンとしてあります。ばっちり女です。女を演じています。さわやかですが、だからこそ、ふたりの(妻夫木くんとの)関係が近づいていくときの、どきどきというかお互いじょじょに惹かれあっていくときの目とか表情がすばらしい!!ういういしい!!深津絵里さんの年齢を超えたういういしさを妻夫木くんが巧フォローしています。うれしくて見入ってしまいました。去年の放映していた去年のたのしかったひと時を思い出します。あれは夏でした。  
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Jun 11, 2006

合評会

 今日は合評会でした。やはり友人の詩は冴えています。
 自分の詩は独り言の詩かなあと思いました。友人が「気楽に」といっていたので、気楽に書きたいです。もう一人の友人はしんどくて来れなくて心配です。
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これから

 友人との合評会に行きます。詩が二つ書けて、いままでとは違う感じです。もうひとり友人は来れないみたいです。
 掃除をしました。お風呂とトイレ。よく使うとこですから、やっぱり汚れています。例によって、気にする病が発病し、彼女に怒られました。でも、おやつは仲良く手作りパフェを食べました。
 最近阪神は負けています。なんかさみしいです。
 詩は最近ノートに書いていたんですが、パソコンのワードで直に打ってみました。「ふたつのキ」というタイトルで、気と木をかけてみました。色々気になってしまい頭にこびりついてしまうので、その治療に、虚構をまぜて、いい距離感でかけました。本当に自分の気になってる核を書くと、そこから、どんどん世界が広がっていきます。
 グループ就労に温かい言葉をもらいました。じっくりやりたいです。でも終わったらあっという間かもしれません。
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Jun 09, 2006

グループ就労

 昨夜は、眠剤その他を飲むのを忘れて寝てしまったために、たらふく夢を見たり、うつらうつら起きてるのか寝てるのか不明な状態で、横になっていた。夢は自分で言うのもなんだが、映像作品としてかなり面白い。とはいえ、カフカのような文章力がないので、その面白さをお伝えすることが、できない。残念!
 ミクシィでは、マイミクさんが出来た。前から、もっと話してみたい人であった。映画とかすごく詳しいんである。
 で、天気は、梅雨の走りで、雨は降らず、風が強い。大気の状態が不安定な感じの日であった。風がびゅうるる云っていてなんかドキドキする。
 昨日診察があって、いくつか懸案事項を先生に伝えることができた。私は、精神科デイケアを利用しているわけだが、その先に、就労という目標がある。その前哨戦として、グループ就労なるものを受けたいということになったのである。グループ就労というのは、精神障害者が対象で、何人かのグループで、週10時間くらいで、清掃のお仕事をするのだ。先生はリハビリにいいというし、相談した人がみんないいというし、チャレンジすることになった次第である。
 7月からなのだが、あまり無理せず、取り組んでいきたい。正直、仕事というのは、しんどいことも山ほどあるもので、いやな事もあると思う。でも、何もしないというのも、しんどくなってきたし、だいぶ前向きになれてきたのである。
 詩人の倉田良成さんのご新著が笠間書院より届く。うれしい。じっくり読もうと思う。ついでにお知らせをぼくの詩集について、倉田さんが批評を書いてくださいました。リンク先を表示していなかったので→こちら。すばらしいです。是非ご一読あれ。
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Jun 08, 2006

批評の紹介

 灰皿町の倉田良成さんがぼくの詩集の批評を書いてくださいました。
 倉田さん、ありがとうございます。
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窓辺で

曇っているときは
いっぱい呼吸をして
おなかいっぱい
ぼくのからだの地図
空白でいっぱいになる
窓辺で
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Jun 07, 2006

筋肉痛、本の注文

 昨日ボーリングをしてから、歩くのは大丈夫だけど、左足の付け根からおしりくらいまでの筋肉が痛く、あぐらを組むと痛むので、大事をとって、病院に行った。そこは去年の今頃、外傷でお世話になっていたので、診察券がある。ちと待ち時間は長いが仕方ない。
 歩いて5分くらいのところ。11時くらいに到着。30分くらい待つ。最初は外科の窓口に行ったのだが、整形外科だということで、診察室に入る。「軽い肉離れ、筋肉痛、2~3日は痛みますが、10日くらいで治ります」とのこと。やはり運動不足で急に動かしたからだ。ある意味間抜けである。念のため、2階に上がって、レントゲンを撮る。普通の放射線量より少なめで撮るとのこと。ズボンを足の付け根くらいまで下ろして撮影。骨には異常はない。
 すぐ治りそうなので一安心。シップをもらって帰る。帰りによく行く食堂に行き、日替わりを食べる。冷やし中華をたべたかったのだが、やめる。そろそろそういう時期だと思うと、なんか食べたい。
 昼はゆっくり休み、ひとりのマイミクさんが休みをとるんだなあと思う。
 午後、父から電話。ちょうどスケジュールを確かめようと携帯を手に取ったときだった。近況を話す。それから、高野五韻さんが知らせてくれた水島英巳さん(蕃さん)のブログで、倉田さんの近著がとりあげられていたことを思い出し、倉田さんからもお知らせいただいていたので、笠間書院に電話。「倉田良成芸術論集」を注文する。ただいま本は出来て、出荷作業中とのこと。届くのが楽しみです。
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Jun 06, 2006

第一投目

 今日は、デイケアに行って、ボーリングをしてきました。障害者スポーツセンターに行きました。第一投目を投げたとき、軸足に痛みが走りました。やっぱり運動不足はいなめない。なんとか100に行きました。そのあと公園を散歩しました。暑い日でした。野良猫が木陰で気持ちよさそうに眠っていました。
 今日はぼくの将来にとって大事な話がありました。就労につながっていきそうな話なのですが、詳細は、いずれ書くことになると思います
 最近の悪人は子どものまま大人になったような顔をしています。しかし、彼らが本当の悪人なのかは、まだ何かひかえているのではないかと思ったりします。エレベータの事件、こわいことです。普通にあるものだから余計に恐いです。しかし、不思議に自分は巻き込まれないという感じもあります。しかし思わぬところに魔は待ち受けてるのかもしれません。
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Jun 05, 2006

肉じゃが

 今日は昨日買ったシャツを着て、デイケアに行く。肉じゃがを作った。みんなで作るのだけど、買い物は大変そうだった。なにしろ、ジャガイモ25個。材料はショウガ、豚肉、たまねぎ、新じゃがなど。新じゃがなので、薄い味付けにも関わらずおいしかった。
 村上ファンドがインサイダー取り引きを認めた。ホリエモンとちがって、早く認めている。しかし、あぶく銭は恐いもんだ。お金がなくてよかった。貧乏なのもいいことかもしれない。そういうことでもないか。一時勝ち組、負け組なる言葉が流行ったが、ぼくの収入の将来は深刻なものだ。しかし焦って考えるのもヤバイ。違反したやり方で金を稼いでいる人、使っている人が責められるのは、正しい。とはいえ、違法とそうじゃないものの間は、すれすれなのであるが。また搾取は見えない形で進行するのである。必ずしもお金という形をとらずに。心理的な面もある。どんどん情報が流れ去っていって、わからなくなるのである。どういう社会がいいか、小泉さんが辞めた後、真剣に考えてくれる人がいい。ぼくらが選べないのが残念であるが。実の子どもを殺した事件も恐ろしい。一体どうなっているのか。ぼくは子どもは好きであるから、やるせない。
 詩に深みがでない。今の平坦な暮らしでは発想が飛ばない。しかし、書く。あんまり書かなくてもいい時期というのもあるかもしれない。最近読書していない。なんとも慣らし運転の日々である。
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Jun 04, 2006

休日の過ごし方

 働いてないので、休みとそうじゃない日は区別がつきにくいのだけれど。昼は回転寿司、八尾に行く。函館市場というところ。値段もリーズナブルでおいしい。そのあと、ユニクロに行って、ポロシャツとTシャツを買う。久しぶりの服の買い物だ。デイケアの人が行っていいのを買ってきたので行ったのだ。買い物は楽しい。
 帰りに彼女の実家に行く。犬と思う存分遊ぶ。名前は公表しないけど、かわいい名前で、すごい愛嬌のある犬です。
 阪神戦を見ていたら眠くなってきてうとうとする。それで、彼女はカレーを作ってくれている。大阪市の同和行政のずさんさを糾弾するテレビをみて怒っていた。
 阪急と阪神が合体。村上ファンドはもうだめかな。
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合評会

 昨日ドードーという同人誌の合評会でした。
 いまいち緊張しているのと、詩がうまく読めなくて苦労しました。場慣れが必要です。久しぶりにNさん、Tさんに会えました。よかったです。ぼくの詩はいまいち不評でした。昔の文学学校時代を思い出しました。ちょっとへこみましたが、云ってくれるうちが花です。次で挽回したいと思います。同人誌には同人誌の固有のにおいのようなものがあります。それを感じながらになるということだと思います。
 Nさんは子供連れでした。子供はかわいかったです。Iさんとも仲良くなれそうな気がしました。
 今日は、回転寿司にいってユニクロで、服を見てこようかと思います。村上ファンド、とうとうという感じです。絵の盗作騒ぎ、なんか力が抜けます。  
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Jun 01, 2006

ライナスの毛布

 マンガ「ピーナッツ」には詳しくないのだけれど、今日カウンセリングで、詩について話してるうちに、昔は、愛着のある空気やその匂いを書きとめておかないと、すぐに死が迫ってきて、自分の存在が消えてしまうから、それを残そうとしてハタチ前後に詩を書いていた。という話をしました。つまり、かつては、詩はぼくにとってライナスの毛布だったのだと説明したら、よくわかると先生は言っていました。ネットで解説を読んでたらライナスはすごい哲学者だそうです。あとミッドナイトプレスの詩の教室で、松下育男さんが、「ピーナッツ」に触発された誰かの詩をほめていたのを思い出しました。
 その後は自分の中の狂気が前景化してきて詩を書いたりして、今は正直、自分にとっての詩というものがわかりません。やっとわからないということが発見できました。たぶんスタートの時点からわからないものだったけど、それに気づいたということでしょうか。それは大いなる虚構かもしれないけれど、大きな力を感じるものでもあります。正直気になることはちょくちょくありますが、病気自体はよくなってきたといわれる中で、知らないうちに課題がクリアされ(先生は子供の成長にたとえていましたが)新しい地平に立っているということでしょうか。詩人の福島敦子さんは、時時記のタイトルを「普通に生きる」としていましたが、その意味が少しわかります。
 詩はどんな力を持つでしょう?今の社会では詩はあまり影響力をもちません。たぶんそういう弱さに耐える、あやふやなものに耐えるところに文学の力はあるのではないか。加藤典洋の文芸時評を読んで、そんなことを考えていました。
 今日は彼女と「こがんこ」に飲みに行きました。あまりがつがつ食べずにしゃべりを楽しんでいたので、安くうきました。
 mixiで、すばらしい言葉や紹介をいただきました。うれしいです。  
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May 31, 2006

詩と生活の関係

 今日もデイケアに参加してきました。ぼくは詩を書いています。そして、今リハビリ中です。ふたつの関係は、密接に関係するところもあれば、あまり関係ないところもあります。リハビリというのは生活を律するということです。自分が、失敗したり、つまずいたりしながらも、生活をし、活動し、人と付き合うことです。ぼくなりに言い換えると、普通になることであり、普通になるという言い方に抵抗がある方ならば、我に帰るということでもいいと思います。狂気とつきあうことに、エネルギーを割かなければならないというのは、大変、しんどいものです。それを何年間かしてきました。狂気の中にも学びはあります。しかし、それによって、生活は大きく支配されてきました。
 病気がある程度よくなってきた段階で、でも、それでばっちりということではありません。何年間か自分を見失ってた分のつけがあります。その過程で色々な先鋭な(他と比較してということではなく自分の中で)詩も生まれたわけですが、そして、それには狂気をもみつめようとした気概もあったわけですが、その方法とは違う形で詩を書いていかないといけない。しかも、その方法が見つかっていません。それは普通になるレッスンという迂回路の中で、手にするしかありません。
 必ずしも、作品と生活は全部重なるわけではないですが、自分の能力、これは、生活にも詩にも配分されていくわけです。そして、その能力というものは、生きていく事自体の中にあると思います。生きていく中で新たに発見し、それを磨いていくのだと思います。どこかで、詩というものと縁が切れてしまうのではという恐れもないではありません。自分はかつて才能を過信していましたが、それはだいぶ無くなりました。これはあたらしい事態です。これから、自分にとっての詩というものが本当に始まるのではないか、そう予感しています。

 今日は職員の方と話せてよかったです。少しだけ、ホンの少しだけ楽になりました。ひとの話がだいぶ耳に入りやすくなってきました。やはり固く狭くなっていたのだと思います。今はきっとつぼみの時期なのです。もちろん、将来については、どうなるか全くわかりません。でも、少しずつ少しずつやっていくしかありません。その都度、その都度確認です。怠けやすいので、職員の方が来てなかったら二週に一回電話をいれるねと云っていました。すこし背中を押してもらうくらいのほうが、プライドは高いが小心者のぼくとしてはちょうどいいかもしれないです。
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May 30, 2006

見られることを意識する

 昨日は気弱なことを書いてしまいました。でも今日はデイケアに行って、芦原橋の球場で、ソフトボールしてきました。他のデイケアの方と合同です。暑い日でした。しかし、風が気持ちよかったです。
 デイケアの人とも、久々だったけど、ちょっとドキドキしながらも、落ち着いて話せました。これなら、行けそうかなと感じました。
 家にこもっていると思考が狭くなるのを実感しました。外に出て、人の中にいるという当たり前のことがとても大事なのだなと思いました。それで、人の視線の中にいる、緊張の中にいるという基本的なことが抜けていくと、けっこう簡単に、ダサくなってしまいます。すぐ復調というわけにはいきませんが、というよりも、やはり感覚のリハビリなのだと思います。ぼくは小さい頃、人といるとひどく敏感になってしまうことがよくありました。人の一挙手一投足にナイーブになってびくびくしていました。そういうところは、今も残っています。だから再スタートなのだと思います。
 試合は負けてぼくも投げたのですが、いっぱい打たれました。悔しかった。強いチームでした。しかし、初回いい当たりでアウト、最終回に一本ヒット打ちました。うれしかったです。あの打って抜けた時の感覚は、なんともいえません。それで、必死に走りました。何年ぶりにか本気で走りました。職員さんが感覚が戻れば、いっぱい打てますよと云ってくれました。投げてるときは、すごいしんどいなあと思いましたが、帰ってきて気分はさわやかです。
 何もかもうまく行くわけではないけれど、ほんのりうれしかったです。これで詩も書ければいいなあ。帰ってきた彼女が「ちょっと男前になったね、やっぱり人に見られるのは大事やわ。」といってくれました。
 K田さんから郵便が来ました。ありがたいです。
ミッドナイトプレスのホームページを見たら岡部淳太郎さんが詩集を出されたそうです。


 俳優の岡田眞澄さん、作家の米原万里さんが癌で亡くなったそうだ。惜しい人が亡くなった。ご冥福お祈りします。
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May 29, 2006

日々

 気がついてみると時間がたっているということはよくある。なんか、やる気が出なくて、寝てたら、時間がたってしまう。
 デイケアに今月は行っておりません。まずいなあという気がしてきます。気楽に参加するだけでいいのに、とか色々思うんだけど、時間が経てば経つほど行きにくくなっている。どこで、ボタンを掛け違えたのか。今週は職員さんに会いに行くとか何らかの形で、行けたらと思います。
 昨日は彼女の実家に行ってきました。犬と遊んだり、(むちゃくちゃかわいい。車が来るのを待っている。でも、通っても気づかなかった(笑))メロンをご馳走になってきました。荒本にある府立図書館に行った帰りです。昨日の昼ごはんは味付けを間違えてしまった。辛かった。
 なかなか一人で行動するのに勇気がでないのです。もっと勇気を! と思います。(叫んでどうする)
 倉田さんから本が届きました。「解酲子飲食」とてもいい感じの本です。うれしいです。
 デイケアの職員さんに電話しました。案の定、もうすぐ電話しようと思っていたらしいのです。2~3日中に参加してくださいね、約束ですよといっていました。
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May 27, 2006

ほどほど

 今日は朝から彼女がしんどそうでした。ぼくに朝ごはんを作って欲しがっていましたが、ぼくが寝たりして、作らなかったら、不機嫌になりました。
 それで、晩はぼくが買い物いって、作りました。つばすのさしみを買ってきて、サラダとみそ汁を作りました。夜になると彼女もだんだん元気になってきて、よかったです。
 巨人は首位転落です。やはりロッテは強い。原監督の顔も冴えない。
 昨日、現代詩フォーラムに散文を投稿しました。けっこういろんな方が読んでくれたみたいでした。10ポイントくらい入りました。散文を書いている方で、なぜポイントを入れるのかという根本的な?問いを発してる人や、谷川俊太郎をぼろくそ言ってる人もいました。ぼろくそに言うってことは、意識しているんだなと思いました。しかし、日常の中で、谷川さんを意識する時間というのは、たぶんぼくの場合ごくわずかで、一応キャリアのある詩人だと知っているけれども、意識しない時間が大半です。意識しない時間も大切なのではないでしょうか。それだけマジメな方なんだなと思います。それをなだめにかかっている人もいて、その方もマジメというか、まっすぐではないかと思います。
 ぼくもマジメなほうかもしれないけど、あまりまっすぐというのは、折れやすい気がします。つまり転向しやすいという気もします。
 ポイントはなぜ入れるのでしょうか?ぼくの場合、合評会などの場面と現代詩フォーラムのような場面は、分けて考えます。やはり目の前に書いている人がいるという場面をくぐらないとどうしても伝わらないものもあるのではないでしょうか。ネットでポイントを入れるというのは、いろんな意味でポストモダン的な場面ですから、深く考えれば考えるほどわからなくなってきます。だから、ほどほどというのは意外と大事かもしれません。入れるからには、マジメに入れてるわけです。それでも、合評会(これも文学特有ですけど)とは意識がちがいます。どちらがマジメかという比較はないです。

 認知症の方がNHKに出ていました。ふと母方のおばあちゃんを思い出しました。
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May 26, 2006

自分との戦い

 昨日は診察で、デイケアは、どうしたらいいですかと相談した。
 行くのが億劫になっていたので、ちょっと相談してみた。そしたら、デイケアは、そこで一日過ごしてプログラムを行い、日々のペース作りにするものだといわれた。「友達をつくるのは?」と聞くと、結果的に友達ができたり、できなかったりするもので、それがメインじゃないんですよと先生は、いっていた。
 PSWの勉強はまだ少し早いといわれました。
 日々をまだ無為に過ごしてしまいがちで、なかなか、ガッツが出てこない。彼女と過ごしたりできるが、一人で行動するのは、まだ恐いみたいだ。悩みは、そんなにない。昔から、そんなところがあった。自分の性格との戦いになると思う。
 今日は、西武の松坂がすばらしい投球をしていた。力がためられて、すばらしい回転で、ミットに納まる。14三振。すごい。阪神は手が出ない
 K田さんからメール。本をくださるということで、ありがたい。

 高野五韻さんが今日現代詩フォーラムで、すばらしい散文を発表していた。ぼくも、詩の世界について、発言できればなあと思った。しかし、自分が納得のいく作品を書く積み重ねの中から、既成の権威などを批判するスタンスが固まってくるだろうなと思った。というよりも、詩にたずさわる人が、それは、どんな人でもいいのだし、それが当然なのだが、言葉との関係をどのように作っているかなのだと思う。
 資本主義では、何にお金をかけるかが大事で、それと時間、それを割いて、いろんなものが形作られ、優先順位が決まる。それは、仕方の無いことだが、小熊秀雄賞がつぶれたり、そういうとこにお金がまわせないという感じになっているところもあると思う。
 それから、たずさわる人も限られている。
 別に資本主義に抵抗すると息巻く必要はないが、詩は、お金との関係が、もっとも、とりにくい分野になったのだと思う。一方でぼくらは、ただで、たくさん発表できるようになった。これも資本の力で、ITに資本が集まらないとそういう環境は生まれなかった。
 お金に変えられないものを守るというのではなくて、なんといえばいいか、抵抗の姿勢を守りながら、というか、資本の論理にさらされているということに自覚的になったほうがいいんじゃないか。その上で、文化は自分たちが作るもので、そこには一定の排他性があることもわきまえて、変にイベント化するのではなく、地道に書いたり読んだりするほうがいいんじゃないか。
 気になるのはこういう議論をするとき、結局、うわついてる感じがすることだ。高野さんのは浮ついてなかった。それがよかった。
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May 25, 2006

はじめての精神科

 今日は、じっくりブログについて考えた一日でした。ある方からのアドバイスで、私のブログは、自分にとっていいものになっているか、悪いおっぱい(依存の対象)になっていないか考えたのであった。いいアドバイスをいただいた。長い目でみて、自分の気持ちを大切に表現できるものであったらいいと思う。時には、というか、よくくよくよしているが、それが、不思議にいい方向にかわっていく。いきなりポジティブにならないが、生き難さが生きやすさにかわっていくのがいいと思う。表現は自分を十全に実現するためにあるものだという考えを私は捨てたくない。アドバイスいただいた方には再度お礼を云いたい。ありがとうございます。
 春日武彦氏をみなさんは知っているだろうか?彼は精神科医で、人の生きにくさというものに、きちんと向き合う本を書く。人はいろんなホンの些細なきっかけで、生きにくさを感じる。どうしようもなく、不器用であること、不幸にひかれていくこと、その不可思議に、ヒューマニズムとは違った愛情にも似た視線をそそぐ。
 私も小さい頃から被害感情が強く、ずいぶん生きにくい思いをしてきたし、それで、もう生きていけないという感覚も何度ももった。昔、知的障害者とつきあったことがあって、生きにくさというもので、彼らと完全に連帯できるわけではない。しかし、なんだかどうしても惹かれる、という感覚をもった。その両面から、つまり、援助者と当事者の両面から、かなり信用できる記述をしている。
 実際に患者として、今の精神科医に出会っても、いろんな不遇を背負った人に出会い続けるのをどこで支えているかとなると、現実感覚とどうしようもなくひかれていくことの絶妙なバランスから成り立っているのではないかと思う。
 「はじめての精神科」はわかりやすいが、「病んだ家族、散乱した室内」が実践の書としていいと思う。中井久夫氏の、詩的で知的なエッセイもすばらしいが、より身近に置けるのは春日氏の本かと思う。
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May 23, 2006

じぶん

 自分を厳しく見る第三の目を持たなければならない。そうしないと、どんどんだらけてしまうばかりだ。激しくみつめる時にだけ、安堵の時間はやってくるかも。せいしんてきに、けじめをつけていく必要がありそうだ。こんなこと書くとマジメな人に思われそうだが、そう言い聞かせてないと、ずるするので。基本的には腰がすわらない人だ。いつもあいまいにしているので、後であわてる。詩がもうすぐ〆切なので、自分に鞭を打つ。いくつかは出来ているのだが決定打が今ひとつ。ちょっと自作を辛く見すぎかな。他今後の進路というかやりたいことが何か、何でやりたいのか、明確にしていく必要がある。それ次第で、進む方向も、はっきりする。あああマジメな反省文みたいだ。
 ネットで出会った方が詩集を買ってくださるという。とてもうれしい。
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May 22, 2006

たまねぎ

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 親父の田舎の叔母さんにもらった、たまねぎが非常にうまい。スライスにしてもよし、お汁に入れると甘さと味わいがびっくりするほど、溶けていく。上記の写真がそれであるが、甘くて、しんなりして、芳醇な味です。
 あんまり自慢することではないが、昨日今日と、晩飯を作ったのだ。そして、たまねぎ。昨日はサラダとみそ汁に、今日は、トマトとあわせて生で食べた。
 彼女の友達がぼくのことを聞いて「女の子に生まれてくればよかったのに」と云っていたそうだ。今日はとうとう彼女に「私のお嫁さんになりなさい」と云われてしまったのである。ううう、喜んでいいのか!
 たまねぎはむいてもむいても、中味がないという例えに使われるが、たまねぎにも詩があるとすれば、それは、形のキュートさと、切った歯ごたえにあるだろう。だから、全部中味なのだ。
 昨年の今頃は、文字通り、「希死念慮」が迫っていた。(その前は躁状態その他もろもろ)死が避けられない現実のようにありありと感じられた。その力は恐ろしくて、自分は甘えてるのかもしれないけども、彼女にそれを云ったら、いつも泣いて真剣に怒ってくれた。しかし、怒られても、わかっているけど、強烈な感覚なのだ。医師にも入院を勧められた。それが数ヶ月で治り、寄せては返す波のように不安にもまれながら、過ごしてきたら、少しずつ薄皮を向くように、良くなっていった。今でも薬を飲んでいる。こういうといっぱしの闘病みたいだが、病気は総体的に見て軽いほうだと自分では思っている。
 これからは自分のやりたいこと、向いていることがやれればいいかなと思っている。やはり福祉ということになるのか。精神保健福祉士や社会福祉士の通信教育を調べたりしてみた。研修期間は1年7ヶ月くらいある。お金のこともある。やるなら、来年度ということになる。もっと簡単な形でもできることがあればいいかなと思う。長く社会から遠ざかっており、できるかなとか、まだ億劫感や虚無感は残っていて(これらは性格的なこともあると思う)、それらをこえて、なにかできるか、無理をしないかだと思う。そういいながら、怠惰なときも山ほどあるのだが。  
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May 20, 2006

バトン

ミクシィのフルショーさんから。



「指定型★バトン」

フルショーさんの指定は「詩」についてです。

◆最近思う『詩』

やはり、詩との関係は、一筋縄ではいかないということでしょうか。単に表現するのではなく、自然に生まれてくるものをどこまで大切に出来るかだと思います。
駅を歩いていたりして詩がやってきたと思っても取りこぼしています。そういうときは、少し時間を置いて、浮かんでくる言葉で、釣りで言うとかかった感じを大事にします。詩は生活の中から生まれてきます。そして生活を飛び越えていきます。
あまり多く人の詩は読めなくなっています。自分に必要なものだけということでしょうか。そんなに読むとは何か、書くとは何か、突き詰めて考えないようにしています。しんどくなるから。いつかまた考えなければならないときが来ると思います。あと、必ず彼女に読んでもらっています。よく嫌がられますが。

◆この『詩』には感動

やっぱり、何かその詩の核を達成している、あるいはプロセスが率直に書かれていて飛躍もある詩。自分でもそんなのが書けたらうれしいです。

◆直感的『詩』

なんでしょうか。空でしょうか。海でしょうか。大地でしょうか。
自分が歩いていく場所。帰る場所。

◆好きな『詩』

北村太郎。その人の生き様が表れている詩というよりは、多少ごつごつした表現の詩でしょうか。北村太郎は洗練されていますが、それでもくせ、ねじれがあります。

◆こんな『詩』は嫌だ

いやな詩は、直感的にわかります。
虚構じゃなくて自分にうそをついて書いてる詩でしょうか。

◆この世に『詩』がなかったら

もしかしたら無くても生きていけるかもしれない。
生きている事自体を詩のようにしてしまいたい。
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May 19, 2006

田舎

 火、水と親父の田舎(徳島の羽ノ浦、現阿南市)に父と父の姉と帰っておりました。
 おばあちゃんが50年も、住んだ住まい。区画整理。さみしい。たくさん写真や、手紙が出てくる。物持ちのよかった人だ。なつかしい。父が買った土地には、叔母がえんどう豆を植えている。
 食べ物はおいしい。寿司がおいしい。おばあちゃんの仏壇の魂をおじゅっさんに抜いてもらう。家を片付けて、いるものといらないものを整理する。父が布団などをリサイクルセンターに持って行く。
 ひさびさに働いたので気持ちよかったです。
 でも、思い出の品を持って帰ったら、「これどーすんの」と彼女に怒られました。確かに、ぼろぼろのものばかり。でも、なんとかわかってくれました。
 昨日はカウンセリング行ってきました。まあぼちぼち話せました。  
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May 15, 2006

明日

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  明日から、二日間父の田舎、徳島に行きます。父の実家の荷物の整理です。父方のおばあちゃんはもう亡くなっています。母方のおばあちゃんは健在です。認知症になっているから、ぼくのこと覚えているかわからないと父は云っていました。ひさびさに行きます。

 昨日は、弟の個展に行ってきました。弟の絵が少し変わっていってるような気がしました。「新しき言葉」展。何か新しいものが生まれる過渡期にさしかかっているように思いました。弟がどんどん大人になっていくような、置いてきぼりになるような、そんな気がしましたが、彼女は「そんなことない。大丈夫」といいました。自分は今自信がないのだと思いました。ふたりともそれぞれに変化の途上にある。そう思いました。弟がおなかを触って、「ダイエットしーや」と云いました。
 食べ物がたくさん出ていたので、パクパク食べていると彼女に「恥ずかしい」と云われました。
 ジャズ喫茶に行ったあと、ラーメンを食べて帰りました。上の写真が個展の絵です。
 今日は、ぼくは被害者意識がつよいなあと思いました。ものの見方がどうしても、「やられたらどうしよう」「あのときはしんどかったなあ」となってしまって、思い出すのも、自分が被害者だと思い込んでいるのです。実際はいろんな場面で加害者であったり、傍観者であったりするし、自分を守ろうとして、加害したりというのがあるかもしれません。特にネットでは、言葉に気をつけないといけないなあと思いました。思い返せばいっぱい失敗があるような気がします。「あんなことしてしまった」とか。怖いなあ。
 でもそうしながら、人に迷惑をかけたりしながら、生きていくことを恐れながらも、今いきているわけなのです。その事実は変わりません。今を生きるのがこわいのかもしれません。そういうことをテーマにした詩を一度書いてみたい。書けるかな。
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May 14, 2006

公開合評会

 昨晩は、ドードーという詩の同人誌の公開合評会に行ってきました。Kさんが誘ってくださったのです。同人誌が出来たら催されるもので、ぼくは昔も少し参加させてもらっていたのだけれど、久々で楽しかったです。自由にあたたかく詩論を戦わせる雰囲気がありました。KさんやBさんに「太ったね」といわれました。ぼくはKさんに、「昔よりおとなしくなった」といわれました。ぼくはむかし「理論派」だったというのです。そうです。ぼくはかつては、詩を熱く語っていました。今でもその思いは変わっていないけれど、表現の方法が変わったのと、久々にいろんな人に会うので少し緊張していました。Kさんも昔から優しかったのですけど、相変わらず元気そうで、発言もやさしく的確で素敵でした。丸くなっていました。
 ぼくは昔のような鋭さは確かになくなりました。病気で当意即妙とまでは行かなくなりました。のんびりです。もっといろんな人の意見を聞いて、大らかに表現から、立ち上ってくるものをゆっくりみつめたいという気持ちです。無知の知というのもあります。いろんなことが本当に理解できているのか、もっと多様な読みがあるのではないかと思うようになったかもしれない。まだまだ自分がわかっていないということがわかっていないというのもあると思う。それから、過激な発言で、別の場所で、過去に失敗したというのもある。自分だけに見えてくるものを語りたい。次回からは、自信を持って、もっと突っ込んで発言しようかと思います
 飲み会は文学学校時代よく行っていた、韓国料理屋に行きました。知らない人も多かったけれど、あまり緊張しなかった。
 なにより、同人のKさん、Bさん、Tさん、Iさん、Yさん(この方ははじめましてでした)に会えたのがよかったです。Tさんは休んでいました。
 「マチベン」、最終回録画したのを朝見た。真実を表す痛みを感じさせ、そこから人間の姿が立ち上がってくる弁護士ドラマでした。出ているキャストのあたたかいチームワークが感じられました。
 今日は弟の個展にいこうかと思います。
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May 13, 2006

もののけ姫

 昨夜、彼女が眠っていて、「もののけ姫」をテレビで見た。 たぶん10年ぶりくらいだと思う。前は映像のいまいちさやオチがきになって、いまいちだなと思ったのだが、これは、見せる映画ではなく、「伝える」映画なのだなと今回感じました。物語序盤の映像はきれいでアシタカと一緒に旅したくなります。いつ見てもオッコトヌシの最後は悲惨です。
 宮崎アニメはぼくの自意識の目覚めとかぶっている。初めて出会ったのは11歳くらいです。ハイジなど入れるとおつきあいは長い。成長しながら、時々見ていたという感じです。この映画は90年代後半という背景でしか伝わらない切迫した、破壊と再生のドラマがありました。たしか、パンフに今は亡き網野善彦氏がなにか書いていたはずです。なんで遠くの国から来たアシタカとタタラ場の人が話が通じるのか謎ですが。
 宮崎さんは頑固な偏屈な人だと思います。でもタイムリーな映画を作れるのは深いところで現代への認識がまちがっていないからでしょう。美輪さんの出番が少なくなってきました。
 ゲド戦記の予告を見ました。息子の吾朗さんがやるそうです。おやじを継ぐのは、内心いやじゃないのかなあと思いました。
 今日は知り合いの同人誌の合評会に行きます。  
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May 11, 2006

気持ちは高くもっていたい

 友達のブログを読む。うつが治ったようだ。すばらしいことである。ぼくもうれしい。
 今日の巨人ーオリックス戦は、オリックスの新人エースも好投したのだが、巨人バッテリーがすばらしかった。西村健太郎投手が、工藤のマメによる降板にひるまず、しっかり投げていた。巨人強しの試合だった。親は巨人ファンで、ぼくはちがうのだが、見ていて、いい試合だった。
 昨日K田さんからメールがあって、うれしかった。もうすぐ出版なされるということだ。こちらも楽しみだ。
 ぼくは調子は良くもなく悪くもなくという感じである。ちょっと落ち込みそうになるが、何かすると止まる。脳の中のもやもやはあるのだが、異常には気にしない。
 頭のいい人というのになるのを、もうあきらめかけている。本だって、以前みたいにサクサクは読めなくなった。元気なときに比べ、見た目もさえなくなった。まだまだ、かっこよくありたい年頃なのだが、鈍なくらいで、いくのがいいかなとも思いかけている。そして、あきらめたくはない。気持ちは高くもっていたい。
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May 09, 2006

つながりについて

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 今日は診察であった。3時間待ちなので、実家(クリニックの隣町にある)に昼ごはんを食べに行く。そのとき、美しく咲くツツジを撮影。父は、ボランティアを増やすようだ。どこまでいい人なんだかと思う。元気が一番とも思う。

 終わって梅田の旭屋に行き、市村弘正・杉田敦「社会の喪失」などを買う。市村は硬派な思想家で、藤田省三などの流れをくむ人。それに杉田がばんばんツッコミを入れていく対談本。市村も応戦する。その元には、市村の「標識としての記録」という本から出してきたテキストが使われている。一粒で二度おいしい本なのである。
 対話というのは、自分の云いたいことを、徐々に明確にしあうプロセスなんだなということが実感される本だった。(まだ途中だが)云いたいことを明確にしあうということは、相手との違いと同一性をみることになる。非常に当たり前の作業だが、なかなか知的だけでなく感覚に訴える対談というのは少ないので、当たり前の作業は実は当たり前になっていない。それほどまでにマジなやり取りが続く。
 市村は「国家に抗する社会」と云っているように、社会というものの中に、ぎりぎりのところでは国家とは異なる連帯の可能性を夢見ている節がある。杉田は、社会の中にも、様々な境界線がひかれて、権力がはらまれている、それに注意せよという立場だった。でもこの二つの立場は、対立し合うものではなくて、事の両面のように思う。わたしたちは、どこかでつながりというものを関係が希薄な社会でも求めるし、また、それぞれの立ち位置、テリトリーというものに敏感でなくてはいられないという事実がそれだ。あるいは出会いと別れ、日々不断に、営まれて、わたしたちを悩まし喜ばす。たぶん、この本は現代人の根底にある関係性がテーマの予感がする。
 今日医者に、悩みながらも、なんとかやっていますというと、「それがいいんですよ。基本的なことです。悩みがないから元気ですというのは弱いでしょう」と云われた。確かに、そうやって、苦しみながらも、日々を送っているのだった。それは弱ることばかりだけど、そうやって弱りながら日々をつなぐことも健康さのあらわれかもしれない。
 関係ないが、自閉症研究で「心の理論」という言葉がある。我流に解釈すると、自閉症の人は(とひとくくりにできにくい)「心の理論」つまり、他者を想定したり認識に繰りこんだりする働きが障害されていると言われる。しかし、今までそうなのかなあ?と疑問に思ってきた。
 自閉症の人は、とても苦しいなりに、その独自の感覚世界を生きている。それを、一緒にいると、ああこういうときは気分が良いんだなと推測できる。つまり「心の理論」で、補い、ぼくも、自閉症の人になんだか補われているような、気分いいなと感じることがある。こういう感覚をどういえばいいのか、それを単純に「つながり」と呼べるかなあ。なんだかよんでいいような気もする。
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May 08, 2006

詩を2本

 けんかは一昨日におさまりました。ご心配をかけたかもしれないので、皆様すいませんでした。ブログのカウンターが14000くらいになっていて、たくさんの人に見守られているんだなとうれしくなりました。彼女は、自分が怖いといっていました。とてもよくわかりました。ぼくも底なしみたいに、気になり続けるということがあるので、自分が怖いです。業というものだろうか。
 今日は朝シャワーをしました。気分よかったです。そのまま二度寝してしまった。灰皿町はウェブ障害になっていました。原因は調査中とのことです。昨日は雨の中図書館に行き、読まねばならない辻征夫の詩集を借りました。NHKの「マチベン」というドラマ、もう少しで終わりだけど面白いです。土曜の9時です。
 昨日と今日で詩を2本書きました。少しずつ書きためていこうと思います。すぐネットに発表せずに、ためをつくる、書くことを楽しむ。夢中になってみる感じを取り戻してみたい。ぼくの生の中心課題である魂の体験をたくさん書いて、さらにノイズがありながらも、澄んだものにしていきたい。あとそのために毎日の生活が大事。やっぱり観念と具体のバランスは大事だと思う。ぼくのような思い込みの強い人間には。
 ネットでは詩を書くこと、読むことに色んな意見が飛びかっているけど、夢中になる時間を大切にしていけば、議論をしている時間が惜しくなってくるんじゃないかなと思う。
 それから、批評を書ける人は積極的にいいと思った詩をどんどん紹介していくといいと思う。すごくシンプルな意見で申し訳ないけど、紹介することは大事だと思うのです。しかも、タイムリーな詩だとか、そういうのを度外視できる環境ができればいいな。そんなの出来そうもない気もするけど。
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May 06, 2006

けんか

 彼女と喧嘩になった。ぼくがしつこく確認を求めるので、彼女が、きれてしまった。彼女もきついこと言った。
 だいぶマシになってきたが、ぼくはどうしてこうもくどいのか、自分でもあきれる。ぼくは、あほなので、そのまま無自覚にいってしまって懲りないのである。
 お互い気まずいときなので、ちょっとずつ、話していくしかないだろう。でも、少しずつ歩み寄れてるような気がする。
 辛抱である。思いやりである。必要なのは。これも日常の中だ。適切な距離感をぼくが自覚するよいチャンスだ。
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May 05, 2006

昨日のスケート、今日の気分

 今日は、つい先日みたいに暑くもなく天気もよくさわやかです。あんまり天気は気にかけないですが、なぜかさわやかな幸せな日というのがあります。雨でも幸せな日があります。天候はからだを大きく左右します。うちの母は気圧の変動で、頭が痛くなったりします。
 朝から彼女の実家に行って車を洗い、犬と遊んだり、お母様と話したりして、昨日の疲れも吹き飛んで、めずらしくとても気分いいです。体を動かしたのがよかったんでしょうか。ただ自分が太ってきたのが気がかりです。  詩の大先輩K田さんに詩集の感想を送ったら、返事が返ってきて、感想がよかったとのことで、うれしいです。
 昨日は友達と彼女と難波にスケートに行きました。入場料1400円が障害者手帳のおかげで無料になりました。本人と付き添いはタダなのであとはそれぞれの貸し靴代ともう一人の分の入場料だけです。その入場料はワリカンにしました。浪速スポーツセンター、タダなのはたぶん、市の施設だからです。冬じゃないけど連休中なので結構人が多かったです。子供の頃は、親父がスケートによく連れて行ってくれた。ひさびさだったから、なかなか勘がつかめなかった。でも、友達も彼女も、真剣に楽しそうに滑っていて、一緒に滑れて、うれしかった。彼女は知らないおじさんに、スケートを教えてもらっていました。みんな足は疲れたけど、彼も小説のネタをつかめるかなと思いました。
 晩は難波パークスの中の食べ放題中華の店に行きました。飲み放題、食べ放題で3000円。お得です。パークスの七階にあります。みんなで、腹がはちきれんばかりに食べました。
 そのあと、友達が本屋に行きたいというので、行きました。ぼくは梅原猛「地獄の思想」とアジカンの「ゴッチ語録」を買った。友達は、小説の参考になるものをさがそうと色々見てたけど、買わなかった。ぼくは疲れたのか、かえってすぐ寝ました。途中起きて薬を飲みました。
 
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May 04, 2006

フジロック

 フジロックに加藤登紀子、木村充揮、矢野顕子が出るらしい。特に加藤登紀子はびっくりだ。ライブ見に行ったばっかりだ。やる気満々らしい。テレビが情報源。ワイドショーのスポーツ新聞を紹介するコーナー。(あれあんまり見ないけどたまたま見た)フジロック、一回でもいいから、いつか見に行ってみたいなあ。レッチリとかイースタンユース、アジカン、UA、ソニックユースも一回見てみたい。
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May 03, 2006

祝3000人来訪

 いつもありがとうございます。このホームページ来訪者3000人達成は皆さんのおかげです☆
これからもよろしくお願いします!!

 経済学者のガルブレイスが亡くなったのを知らなかった。そういえば、ボケていて作曲家の宮川泰さんが亡くなって、もうとうに経つのを知らなかった。
 連休である。明日友人とスケートに行く。17日に帰省。ほんとしばらくぶりにおばあちゃんのところへ行きたくなったのだ。20日には読書会。その日に友達の朗読会があって、どっちに行こうかなあ。今日は中古屋に散歩に行く。彼女は墓参りでまだ帰ってきてない。
 去年の今頃は障害年金の申請をしてた。家族に昔のクリニックに初診証明をとってもらったり、たくさん助けてくれた。今があるのも家族のおかげだ。去年の今頃とでは、状態は雲泥の差である。よくなってる。詩集作りでてんてこ舞いになり始めたのも今頃か。時間のたつのは早い。でも、哲学でも議論はあるけど、過去は前向きに変えられるんだと思う。変な歴史修正は別として。
 阪神タイガース、名前が変わってほしくないもんだ。近鉄が変わったとき、切なかった。名前は歴史なのである。  
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Apr 30, 2006

500円と芸術

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   昨日のこと。谷町線から中央線にのりかえて、サントリーミュージアムに到着。晴れ。アートストリーム2006。弟は、真剣に、コンピュータに向かい合い、大きな絵を描いていた。それがディスプレイに映し出される。そんな中、声をかけるけど、すごく集中していた。
そんで、出展している店を覗く。たくさんの人がいた。店はそれぞれ小物やアクセサリや絵を売っていた。似顔絵を描いていた人もいた。皆必死だ。宣伝効果が大きい。地下鉄にもポスターを張っていたので。
 屋外だったのだが、こういうイベントを見ると、ぽえざるやポエケットを思い出す。イベントは無料だが(詩のイベントと違い、後援がたくさんついているので)、美術はお金がかかるので、みんな小物でも、500円以上していた。そうするとあまり売れないのではないかと思った。500円のハードルは大きい。海遊館前で、ファイアーショウをやっていた自称「ロッキー」は、ほんまにロッキーの格好で、熱い熱いといいながら、やっていた。最後に拍手を受けたロッキーは、「交通費等実費でやっています。皆さんの気持ちを、わかりやすい形でお願いします。なるべく、折りたたみやすい奴で」と英語訛り(?)でいっていたら、本当に千円出している人がいた。やっぱ体張って、やるというのはちがうなと思った。でも、あの人どうやって生活しているんだろう?
 お茶してたら、父方のおばさんに出会う。父と会ったあと弟を見に来ていたのだ。「生きてるか?おばちゃんは生きてるで」といっていた。

 シャガール展。やっぱすごい。圧倒される。魂がちゃんと入ってる絵を見るのは快い体験だ。はっきりいってかわいいというかそこはかとなく確かな幸せみたいなものを感じる。身近なひとや思い出に囲まれて、書いていたんだろう。天使がよく出てくるが、こういう人には天使が見えているのではないかと思った。青が深い、悲しみとかしずけさにあふれているのだが、どこか神秘的な色。情が深かったのではないか。とくに奥さんとの絵はうれしそうに書いているんだなと思った。「ダフニスとクロエ」や「死せる魂」も、シャガールの手にかかれば、神秘性を失わないまま、どっか憎めない話に変わる。障害者割引で500円だった。(正規は1000円)500円でこれだけ楽しめたし疲れなかった。ついでに絵葉書や本を買うくらいだ。
 ちょうど5時になったので、弟の絵を見に行った。完成。弟にお疲れさんというとどこかほっとしているようだった。このイベントのメインだったから、すごいなと思う。しかし弟は5月はイベントが目白押しなのだ。体に気をつけてと思う。
 飲み屋にいって帰る。飲み屋が一番高い。だが出せてしまう。シャガールはすばらしい。ひさびさに目が覚めるような感じだった。

 今日は一日中ごろごろしているのである。月に一度はトイレをつまらしてしまう。強迫的に紙を使ってしまうのでした。この辺はまだ病気です。
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Apr 29, 2006

ライブペインティング

 今日、天保山のサントリーミュージアムに行きます。アートストリーム2006というイベントです。弟石川武志がライブペインティングをするのです。楽しみだなあ。でも弟は5時間やるから大変だ。ぼくは途中から見に行って完成を見届けて、飯でも食べに行こうと思う。弟を誘ったが、さすがに忙しいといっていた。
 シャガール展も見ようと思う。障害者手帳があると、ぼくと彼女とも半額になります。ブレッソン展は、無料でした。不思議だ。場所によって割引がちがうんです。
 昨日はデイケア。コーラスだった。森山直太朗の「さくら」を歌うとき、すごい熱をこめて、うたった。デイケアの人間関係は不思議である。暖かいか冷たいか微妙なのである。しんどくはない。それも慣れだと思えるようになってきたかな。デイケアによってちがうと思うけど。
 詩も書いた。詩は彼女の鋭いツッコミをうけた。知り合いの同人誌を読んだ。
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Apr 27, 2006

東野幸治、オーラの泉に出る

 今日はカウンセリングと診察の日。
最近、あまりしんどくないのだが、行くと安心する。特に医師は、自分で見つけた人なので、信頼できる。そろそろ散歩に出てみたらといわれる。そうかと思う。あまり時間があるとろくな事考えないし。
 東野幸治が「オーラの泉」に出ていたので、見た。あの番組は、ゲストが素直に聞きすぎるところがよくない。東野は、美輪、江原の猛攻撃を受けながらも、江原を「リアルドラえもん」と言い返し、江原もつっこまれるとうれしそうだった。東野は、ちゃんとバラエティにしてたから、東野の勝ちだ。
 東野は幸せそうだった。いいなあ。
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Apr 25, 2006

ウェブ展「ふたり・ジカン」のお知らせ

 セルフソーアートというウェブ上のギャラリーで、ぼくの詩と、弟石川武志の絵で「ふたり・ジカン」という展覧会をやってます。こちらから→「ふたり・ジカン」
 お気軽にアクセスください。感想お待ちしています☆
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負け続ける

 今日、鶴見俊輔らの「日米交換船」を読んでいた。鶴見はハーバードへ留学していたのだが、太平洋戦争開戦直前、日本に帰るかとアメリカ当局から聞かれ、はっきりとした理由はないけど、日本は負けると思っていて、負ける側にいたいという「ぼんやりとした」気持ちで、「日本に帰る」と決断したそうだ。鶴見はハーバードで、クワインについて、記号論理学をやっていた。論理的に完璧なもの、説明できるものに対して、当時は、それを学んでいたが、そういうものに疑いがさして来た。説明できない、論理的でない「ぼんやりとした」ものが決断の元になる。なんか気持ちがわかる。ぼくはハーバードにはいけないけど。
 鶴見はぼくの好きな批評家の花田清輝をいろんな意味で負ける側にい続けた人だと評している。ぼくは、そういう、はっきりとした決断の場面はないけど、どこか敗北者、挫折者の側に、い続けることになるかもしれないなと思っている。人生は勝ち負けじゃない、でも、生きている位相というものがある。いやだけど、負け続けるだろうと思っている。そこにも幸せはあるだろう。知的障害者の介護をやっていたときも、これは、負けることに、粘り強くならなければ、仕事にならないだろうと思った。
 どういうとき、敗北を感じるかというと、過去を思い出したときだ。人間関係がねじれて、切れそうになって、多くは切れてしまった、そういう過去。もうどうすることもできない。それでも、誰かに手紙を書いて、急にあやまりたくなることがある。というか、過去を何とか変えたいと思う。こうならなければ自分は汚れずにすんだと思いたいのと罪悪感というのだろうか。どこか潔くない虫が騒ぎ出す。負け戦をする覚悟が出来ていないのだろう。そういう虫を飼いつづけながら、ぐずぐず生きていくだろう。それが負けじ魂か。
   たぶんそういうときに手紙を書いても自他共にろくなことない。これは病気の気持ちだ。それは経験でわかっている。

 先週、あるところから合評会のお誘いがあった。うれしい。
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Apr 19, 2006

新庄引退宣言。ウェブ展にむけて

 日本ハムファイターズの新庄選手が今シーズン限りで引退するそうだ。うそだったらどうするんだろう。妙な時期の引退宣言だ。彼らしいとしかいいようがない。残念だけど彼一流の直感が働いたのかもしれない。この時期の引退宣言に批判的な見方もある。楽天の野村監督は「守る、走るは一流。でも、知性が…」見たいな事を言っていたが、新庄は、自分を裏切らず生きているのではないだろうか?球界には迷惑する人もいるだろうけど、ああいうトリックスターもいないとつまんない。でも引退宣言の後ガンガン打つのはある意味まずいだろう。ノムさんは、長嶋を見るように見ているんだろう。でも、知性の形、出方がちがうのである。ノムさんは、それを素直に認められないのが、欠点だけど、それも、選手の愛し方かもしれない。だって新庄みたいには誰でもなれないし。
 もうすぐ弟と詩と絵のコラボをやる。ウェブ上でやるのだが、昨日データが届いたので、今日推敲していた。楽しみにしていただきたい。
 引きこもりがちなぼくだが、桜も散ってきた。今日、詩の大先輩から、散文と詩が郵便で届いた。すごくうれしい。やさしさが伝わってきました。 
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Apr 17, 2006

まんまるな夕陽

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 上記、写真のとおり髪を染めました。500円のヘアカラーで、彼女に塗ってもらった。思ったより色が出たので、びっくりした。彼女は笑って「誰?」とウケていた。写真ではあんまり色が出てないかな。スマスマにタモリが出て山下洋輔との出会いを語っていた。
 その前に、散髪屋で髪も切ったのである。ぼくは外見のことはめんどくさがりなので、思い切った変化である。人から見たら、なんてことないけど。というか、なんてないことに満ちているのである。でも、髪の色を変えるのは、髪は神聖なものだから、結構大事だと思うのだ。心の変化だ。波長をかえるのだ。
 国保払いに行って、散髪に行って、本屋(茂木健一郎「脳と仮想」、美輪明宏の本を買った)に行き、帰るときに、信号があった。信号で止まっていると、「夕陽がきれいやねえ」という声が聞こえ、知らないおばあさんが立っていて、ぼくの方を見た。ぼくに話しかけているのだ。「うん、きれいですねえ」と西の空に光る夕陽を見た。確かにきれいだった。「今日はきれいやねえ」とおばあさん、「まんまるですねえ」とぼく。「バス停はどこやろなあ」「あっちです」
 ほんと、なにげに話しかけてきたのだ。本当に夕陽がまんまるだった。空は不思議にかすんでいた。風が吹いた。以前、よく駅前とかで、人に道を聞かれていたことを思い出す。普通の街で。すごいふつうだが、今日、神聖なものに出逢った気がするのはなぜだろう。
 その前に、うちの親父は、今までどうやって純朴な性格をこの俗世で、生き延びさせられたんだろうと思っていたとこなのだ。けっこう苦労したと思う。親だからといって贔屓目にいうのではない。汚されずに、あまりうそをつかずに、つけずに。(親父は天然なのでうそがつけない)自分にもそんな血が宿っているのかなあ。そうだったら、いいなあ。
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Apr 16, 2006

天王寺公園

 散歩に行ってきました。天王寺公園は障害者手帳が使えるので無料。桜が舞ってて、きれいだった。茶臼山に登った。彼女とたこ焼き食べて帰る。夜ご飯はうなぎのちらし。おいしかった。今日ミクシィで、友達ができた。
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アンリ・カルティエ・ブレッソン展、槇原敬之

 昼はスパゲッティ。彼女は買い物。散歩に行こうと思う。
 昨日は雨の中、天保山のサントリーミュージアムにアンリ・カルティエ・ブレッソンという写真家の展覧会を見に行く。天保山では三日だけ、海遊館まわりの清掃のバイトをやったことがある、思い出の地(笑)昼はお好み焼きを食べ過ぎた。
 ブレッソンの写真は、シュールレアリズムや構成主義を取り入れつつも、やさしい批評性とユーモアにあふれた作品だと思った。おばあさんのカップルとか、ごろ寝している人を撮ったりとか、なんか優しい感じがする。写真はあまり見ないのだが、写真集を買う。知り合いに出会う。
 帰り槇原敬之の2004年までのシングルの集められたアルバムを買う。高校生の頃や大学時代が思い出される。同じ高槻ということもあって、親近感があった。ふるさとを同じくする感じ。金が無くて槇原のCDはほとんど手放してしまっていたからだ。今考えるともったいない。当時から思っていたのだが、「彼女の恋人」は若さと実験性がはじけてていい。逮捕後しばらくしてからの「優しい歌は歌えない」は、詞がいい。自己欺瞞を鋭く突いてて、これは売れないだろうけどいいなと思った。マッキーの地獄も天国も成長も味わえる。初期アルバムが欲しくなったりする。とにかく粘り強い人である。初期も、今も研鑽を怠っていない。どんなものでもポップスに仕上げようとする根性が感じられる。バラードはすばらしい。魂の経験=うたごころだ。マッキーは立原道造が好きだ。そういう下地がある。NHKでやっている「マチベン」というドラマが面白い。
 昨日は頭が痛かった。今日はいい天気。治った。洗濯物が良く乾きそうだ。
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Apr 12, 2006

デイケア面接

 なんとか起きて、デイケアで職員さんと面接。中期目標(半年から一年)と長期目標を聞かれる。一応デイケアに定期的にいくことといった。そして就労へと。長期目標に「結婚」はないですかと聞かれドキッとした。働いてないからそんな甲斐性ないんだけど、今は。Sさんという職員さん、以前は緊張していたが、いい具合にユーモアが出てきたなと感じた。
 メンバーさんがクッキーを焼いてくれる。おいしかった。
 帰ってきて、何か反省。日々にハリが無さすぎる。いかんと思う。でもこれといって、興味の湧くものが出てこない。自分的に死んでいる日々だと思った。日記を見ててもそう思う。それにきづいただけでも、今日の面接と、彼女との会話は意味があった。これからどうしようか。デイケアに素直に通うか。ちがう道を見つけるか。まずは続けていくことだとも思う。しんどいけど。少しは自分を追い込んでみるとか。
 阪神中日戦を見る。これから阪神は巨人など上位と戦わなければならない。たぶん今までのような戦いではごまかしが効かないだろう。落合の采配は、ピッチャーの切り替え、交代させるかさせないかよく流れを見てるなと思った。だから打線不調でも追いついて逆転できる。
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Apr 11, 2006

寺山修司「戦後詩」

 NHK教育で、「私のこだわり人物伝」というのをやっていて、美輪明宏が、寺山修司を語っていた。目新しい情報はなかったが、寺山修司の「戦後詩」という本を思い出した。今手元にないし、内容は詳しく覚えていないのだが、スケールの大きな「戦後詩」論だったと思う。寺山の愛情のある、ざっくりした手触りの、それでいて繊細な詩論で、選詩集としても読めるよう索引がついていた。谷川俊太郎の詩を「おはようの思想」と要約してたのが印象的だった。あらゆるものに詩を見つけ、編纂していく手さばきがすばらしい。あんな個性的な、詩に対する愛情は、なかなかお目にかかれない。もっともっと寺山は大きな詩を求めていた思いがする。詩論にくわしくないものの、あの本にやられたままなのかもしれない。
 雨の降る日が続く。今日はカラオケに行かず寝ていた。明日はデイケアで職員さんとの面接だ。
 青田典子の、CDプロデュースをみた。小室哲哉が老けていた。青田典子も痛々しいながらも、真剣さはすばらしい。
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Apr 10, 2006

赤い奇跡

 今日掃除した。それから昼寝。彼女が帰ってくる。今日も怒られて、怒り返してしまった。いかんいかん。それから仲直り。今晩はゴーヤを炒めた。まずまずうまくできた。
 昨日に続いて「赤い奇跡後編」を見る。オチがなーんじゃこりゃという感じ。稲垣五郎はアーチェリーがうまい。「笑っていいともスペシャル」でやっていた。
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大阪城公園花の乱

 昨日は大阪城公園に花見に行ってきた。近鉄百貨店でおいしいごちそうとビールを買っていったのだが、花を見に来ているのか、人を見に来ているのかわからなかった。ついてすぐご飯食べて、横になって寝てしまった。彼女はトイレに40分並んでいて、それで「こんなとこ花見に来るのしんどい」と云っていた。
 しばらくして帰ってきたのだが、疲れて頭痛がする。それでも、晩飯は自分でカレーとサラダを作る。彼女が疲れて寝ていたから。
 細木数子のひどい番組をみるが、最近の細木のいじられ方はすごいものがある。コントまでやっていた。阪神の金本が904試合フルイニング出場世界新記録を達成して、まじ感動する。おめでとう。
 カレーはおいしいといってくれたのだが、鍋を焦がしてしまい、彼女は不機嫌。夜は天坑という大洞窟のNHKスペシャルや、深田恭子の、昔山口百恵がやってた「赤い奇跡」を見る。面白い。天坑は巨大な鍾乳石がありすごかった。深さは600メートルくらいある。
 でも頭痛はひどくなってきた。それから、この日はぼくが、花見で花ではなく女の子ばっかり見てたので、また、段取りが悪かったので、彼女が怒り出してしまう。なんとか勘弁してもらおうとがんばる。
 今日は雨。罪滅ぼしに掃除でもしようか。
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Apr 08, 2006

眠る日

 昨日疲れたので、今日は寝ていた。彼女は花見に行きたいといったが、風が強いので明日にすることに。美輪明宏がNHKに出ていた。村上龍とツーショットでおかしかった。
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ユナボマーと新年度

 新年度なので、彼女と飲み行って、カラオケで歌いまくりました。意外に長渕の「とんぼ」がうまく歌えたので、なんだかなあ。でも、病気が激しい頃は、歌がすごく下手になって、音程がとれなくなっていた。病気になると音痴になるのかなあ?ひさびさに歌ったのだが、だいぶ治っていた。これでデイケアのカラオケに参加できるかもなと思った。ASIAN KUNG-FU GENERATIONの「ワールドアパート」が歌えた。うれしかった
 飲みに行ったら、阪神戦をやっていて、阪神が勝つとビールが100円になるのであったが、たくさん食って、腹いっぱいになったので、出た。吾作亭というチェーン店のアベノ店。

 今日は本が届いたのであった。「ユナボマー爆弾魔の狂気」と「魂は死なない、という考え方」。ひさびさにユナボマーを読んで、民主党の代表選を見て、こういう言葉が目にとまった。今書かれても不思議ではない文章。必ずしも賛成じゃないけど、ユナボマーは「勝ち組、負け組」という言葉が出来る前から、自力で考えていたのだと思った。偏見のかたまりではあるけど、ぼくに課せられた課題ではないか、また現代の左翼に課せられた、乗り越えられるべき課題ではないか。単なる狂人のたわごとと済ますのは難しい。全編、彼の「パワープロセス」論はニーチェの「力への意志」論に似ていて、左翼批判は、深くはないがニーチェのキリスト教批判に通ずる。やったことは悪いけど。

 (引用)
 左翼は、(中略)社会に個人の問題を解決させ、面倒を見てほしいと願っているのだ。彼らには自分の問題を解決し、ニーズを満たすだけの能力に対する自信がないのである。彼らが競争社会の概念を否定するのは、心の奥底では、彼らは敗北者を自覚しているためなのだ。(「ユナボマー爆弾魔の狂気」P245より)

 たぶん自信がないから、競争社会を否定していると単純にはいえないし、ユナボマー自体も産業社会を批判している。彼は、敗北者であることをかなり自覚して、書いたのではないか。が社会主義のねじれに敏感な文章である。民主党の旧社会党勢力が小沢一郎を支援していることや、投げ落とし事件の背景にも連なる屈折感とダブると思う。この複雑な爆弾魔が見ている光景と感じている世界は。
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Apr 06, 2006

献血デキズ

 朝から電車に乗ってエッチラオッチラ、カウンセリングに行ってきたのであった。冷たいけどさわやかな春風がふく中を。春がさわやかだと思ったのは、すごく珍しいことかもしれない。先生に、今のデイケアでのぼくの気持ちを話した。先生は、前のデイケアは、農村共同体的で、いろんな年齢の人に見守られていたので、子供のようにふるまえたけど、今のデイケアには、季節がら、新入生として入っていっているドキドキ、どう仲良くしたらいいか、そういう姿が見えてくるようですといっていた。それから、ぼくは、調子の悪いときに過去を振り返っていくことも、過去の再構成につながっていくといった。先生は、ばらばらな過去の点がつながっていくかもしれないといった。失われた関係は取り戻せないけど、今、昔持っていたCDとか本を集めることで過去の再構成をやってみたりしているといった。カウンセリングは二週に一回になった。

 帰り献血に寄った。なぜかふと、したくなったのだ。天王寺ミオで。でも残念ながら出来なかった。理由は、精神科のお薬を飲んでいるためだった。なんか薬のいるカラダが寂しく悔しかった。しかし、父からかかってきた電話で、父が、人の役に立とうとした心はすばらしいといった。ちょっと照れくさかった。父はたくさん献血しているので、ちょっと面白かった。父はすごく血色がいい。それで介護の仕事の求人を検索したりしていた。弟は4月29日にライブペインティングをやるようだ。

 今日もアマゾンから商品が届いていた。天才脳外科医の福島孝徳の「ラストホープ」があった。すごい技術で世界を飛び回り難手術をたくさんやっている。高校生で同棲をして、親戚に「医者になるかヤクザになるか」といわれた人だ。藤原正彦のように声高に愛国心をいわなくてもこういうすごい日本人もいる。まだ日本の医療制度への提言は読んでない。しかしすごい手術への思い入れだ。怖い気もする。どこからこういう気持ちがでてくるんだろうか。ぼくの父の二つ上だ。後身の育成にもあたっているが、天才亡き後はどうするんだろうという気もした。でも、いろんな人が、種を拾っているかもしれない。ぼくは献身的になれることにすごい憧れをもつ。でも自分を失いたくない。ぼくは人の役に立つだろうか。自分を見失わなければそれがまたできると思う。
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Apr 05, 2006

「はじめてのやのあきこ」を聴く

 今日はデイケアの花見は中止となった。それで一日デイケアルームで過ごすことになった。花見がいけなかったのは残念だったけれど、おいしい弁当が食べられた。今度彼女と花見に行こうと思う。
 帰ってから疲れて眠って、阪神戦を見た。下柳が500試合登板を達成して、阪神が勝った。下柳はやっぱりすごい。インタビューのぶっきらぼうさもすごい。

 アマゾンから早くも商品が送られてくる。この早さだと、店に行って買うのがあほらしくなる人もいるのではないだろうか。でも、店頭にいって買う楽しみってのもあるもんだ。
  「はじめてのやのあきこ」を聴く。昔は、本当にすごい人だと思っていたが、今は、自分的には、等身大の矢野顕子が見えてきた。パッケージがとてもいい。ほとんど、他の人と共演しているミニアルバム。槇原敬之はいいところがでてなかった。小田和正は自分の世界で歌ってた。井上陽水はちょっとバケモノ度で勝ちすぎた。YUKIは矢野顕子の子供みたいなことになっていた。それぞれ自分の歌に出来るかで競っている感がある。そんな中でダントツにいいのが忌野清志郎である。この人は前は好きじゃなかったけど、「愛」を感じた。「一緒に歌おうぜ」の精神で、矢野も恋人のように楽しそうにハモッテイルのだった。こういう人が「一緒に歌う」楽しさを知っている人なんだなと清志郎を見直したのだった。矢野顕子くらいになると誰と組むか難しいのだろうし、色んなミュージシャンとコラボしているのだが、最近は民生とやったときとか、宮沢とやったときとかの新鮮さがない。たぶん矢野の勘が当たっていない。でも、清志郎とやったのは成功だったと思う。それと気鋭のジャズピアニスト上原ひろみとの演奏は成功していた。ちょっとビフォアーアフターみたいだったが、上原ひろみはスリリングな演奏をしていたと感じて、聴きたくなった。矢野顕子が同じ円の中をぐるぐる旋回しているのに対して、上原ひろみは音の波のダイナミズムを作れていた。
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Apr 04, 2006

今日は雨

 今日はデイケアに行かず、一日休んでいた。彼女が新しいスーパーに買い物に行ってくれる。昼はスパゲッティ、その後昼寝。夜はタコときのこのガーリック炒め、納豆汁(両方自分で作った)、れんこんとほうれん草の明太子マヨネーズ和え。ワインを多めに飲んだ。
 夜は細木数子の番組をみるが、いろんな意味でひどかった。でも、見てしまう。細木はいい男がお好きのようだ。ニートの特集がひどかった。夜になると雨が降ってきた。明日は花見だ。雨だったら残念。雨でも弁当は食べる。なんと1500円の弁当。楽しみだ。フランスの騒乱はやまない。当然だという気がするが、犠牲者が出ないことを祈る。明日の早起きに備えて、早く寝ることにする。
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ズッキーニのパスタ

 朝起きられたし、彼女が「目が覚めてるんだから、行ったら」ということで、花見のこともあるので、デイケアに行ってきた。今日は料理の日でズッキーニのパスタだった。色々材料をきる。なんかやわらかく皆迎えてくれる。ぼくもやわらかかった気がする。パスタは塩コショウとにんにくとシンプルな味付けなのだが、けっこうしっかり味がついておいしかった。ズッキーニも初めて食べたのだがおいしかった。かぼちゃの仲間なんだそうだ。見た目はきゅうりとナスビの合いの子みたいなのだが。他の具は、じゃこ、じゃがいも、ウインナー。今日はドキドキしなくて無事過ごせて安心したなあ。
 大阪府は、ぼくは精神障害しか知らないけど、自立支援医療費は国保に入っていると国保が自己負担分(一律10%)を持ってくれる。大阪に住んでて助かったが他の地域、社会保険、色んな障害者は、大変だと思う。直感だが、様々な差異を無視して、システムの一元化を図ろうとしたことに無理がある。財政とあわせ、もっと包括的で綿密な現場の調査に基づいた改革が必要だったのではないだろうか。ニュースをリンクさせようとしたが大阪府の国保の話はなかった。

 帰ってきたら彼女はデイケアのこと、あまり心配してなかったみたいだった。というか普通だった。ぼくを甘やかさないのがいいと思う。
 その後、ネットで昔聞いていたけど、いろんな事情で手放してしまった本やCDをたくさん買った。色んなものは出ているけど商品の変わるサイクルが早すぎる。どうしても欲しかった。アマゾンはカードがないと買えない。恥ずかしながら彼女にちゃんと代金を払って、カードを借りる。なんとかカード以外で買えないか。特に中古が買えない。カードを作れない年金生活者には厳しい。「裏切りの哲学」スチャダラパーのCD。その他もろもろ。
 夜は「ヘイヘイヘイ500回スペシャル」を見る。少し疲れが出てきたが、夜は更けていく。    
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Apr 03, 2006

見守っている                

ベランダですわって
タバコを吸っている
カラスの鳴き声が聞こえてくる
黒い羽をのばしてカラスが雨の中を横切っていく

落ちていくもの
ぼくの場合 思い出の中を
きれいできたなくて
人のいない思い出の砂嵐の中を
そして
美しく横切っていく平凡で気高い鳥

ぼくの体の中は波打ち
しかしまだ踊っていない
うなだれるにはまだ早い
ビルがたくさん立っている中を
かあかあと飛んでいく
ぼくはカラスになりたい気分だ

犬のほえる声が聞こえて
少しはっとした
生きものの声が耳打ちする
なんとかゆらゆら暮らしているが
「お前の本当の幸せは広い広い海の中にある」

だから大丈夫
苦しい思い出に苛まれていても不器用に歩いていても
大丈夫
「わたしたちが見守っているから」と

くぐもった空の中 四月の雨が少しやさしくなった
いくつかの鉢植え





(注)合評会提出作品
合評会で、一人は、「波打つ」という表現と「海」が重なって「幸せ」は自分の中にあるのかなといっていました。あと人は愛情を持って本人を「見守っている」しかできないからといっていました。親心のようなものをそのコメントから感じました。
もう一人は、前半空を見ていて、そこは狭くて犬がほえるところで、読者も一緒に世界が広がるといってました。詩空間の変化に着目してくれた感想だと思いました。

読んでくださった方よかったらコメントください。この詩に限らずでいいです。よろしくです☆
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合評会

 彼女は今日は母親とお買い物に行っていた。お母様とも会ったのだが、とても楽しそうだった。いいなと思った。
 午後6時から合評会に行く。友達が元気か心配だったのだが、スケートを見てきて元気そうだった。すごい挑戦している。ぼくも元気がもう少し出たら、介護の勉強したいと思ったりした。詩も、とてもよかった。彼独特の、苦の世界をおかしみをつけて読ませる詩だった。単独の作品の文章力では、負けたなと思った。でも伝え方がそれぞれちがうと感じた。ある人に詩集をお送りしたら、ぼくの詩は集めると詩と詩との間からささやきかけてくるという感想をいただいたことがある。もう一人の方の作品は、短いのだけれど、内なる獣性がさわやかに描かれていて、本人もどうしてこの詩がでてきたかわからないが、気に入っているといっていた。少し獣性という点では物足りないが内面を書かず、どろどろしておらず、健康な作品だと思った。不思議な空間を作れる人だ。文芸誌の巻頭にぴったりではないかという意見が出た。やわらかい空気で会をいい感じにしてくれる一人だ。

  三人で、この会のためにキープした焼酎を飲みながら、彼の最近の近況を話したり、恋愛や習い事の話をした。彼とぼくでちがうのは、親の厳しさのちがいだけど、親は厳しくても、自由の感覚を持っていなければいけないと思った。彼もたくさん話せる雰囲気でよかった。ありがとうといっていた。ぼくもだいぶ緊張というか角がとれてきたように感じた。自分が緊張していないのは相手にも伝わるなと思った。

 帰ってきてテレビ。彼女は眠そうだ。「ウルルン滞在記」では酒井美紀がタランチュラを食べていた。相田翔子が変わるそうだ。「情熱大陸」では土屋アンナという人が出ていた。モデルで歌を歌っている。正直痛々しい人だと思ったが、自分と勝負している人だと思った。タワーレコードの天下茶屋で地道に宣伝していた。素顔で写るところが素敵だ。少し興味が湧く。「かわいい」といわれるのが嫌いだそうだが、ぼくはかわいいと云われたことがないので、わからないけど、彼女の求める気持ちが伝わってきた。
 ダウンタウンの「ガキの使いやあらへんで」を久々に見る。屁を出せば寿司を食べられる。制限時間は二時間。くだらないけど、寿司はうまそうだったので、少しはまる。山崎邦正が八皿(八発)食べて、優勝してた。大トロの炙りがうまそうだった。そんな屁は出るものなのか。屁の帝王、浜田は二発しか出ずさびしかった。

 *詩をアップします。
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Apr 01, 2006

マクモニーグル

 午前中は寝ていた。彼女は買い物に行っていた。明日は合評会だ。友達は明日これそうだ。また違う友達は実家から無事引っ越したので良かった。そういう連絡があった。
 昼に家の掃除をやったけれども、僕が掃除機を柱の角とかにぶつけるので、彼女に注意された。困った。気を取り直して、掃除していると、ごみが残っていると怒られた。その通りなんだけど、認めたくなくて、僕も怒ってしまった。大人気ない。こんなんで、世の中に出られるのかと思ったけど、彼女も、掃除には神経質になるタチなので、仕方ない。あとで、仲直り。前はもっとひどくもめていたので、マシになったほう。というか、掃除になると意識の差があらわれるなあ。
 ヤクルトが開幕2連勝。なんかうれしい。高津も出ていた。男女共同参画の討論番組があったけど、今の社会を男女の二元論で、切るのには無理があるきがした。朝生をビデオに撮っていたので、見たけど、ああ働いている人のための議論だなと疎外感を覚えてしまった。
 夜見た。FBI超能力捜査官、すごいなあと思った。マクモニーグルという人が出ていて、失踪人を透視するのだけど、その地図のイラストがすごいうまいのだ。画集を出してほしいほどだった。こういうので、今会えない友達だった人とかに会ってみたい。
 関係ないが、最近アマゾンを見ると、レビューで議論が分かれているのが多くてリンクに戸惑ってしまうががんばってする。
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Mar 31, 2006

電話と「ヒゲとボイン」

 今日は何もしないで、彼女とミュージックステーションとか、セリーグ開幕戦を見ていた。彼女は午後5時まで仕事だった。
 ミュージックステーションは20年もやっている。巨人は、横浜をめためたにしていたので、チャンネルを変えた。(ヤクルトが勝ったのはすごいと思う。つーか古田がすごい。悪いやつだけど)Bzの松本はいくつだろうか?高校時代ユーミンのかかっている喫茶店で、サボってたといってた。ユニコーンが「ヒゲとボイン」を歌っていて感動した。(関係ないが和田アキ子はもっとソウルを歌うべきだと思う)自分が介護をしだしたときの歌を聴いて、ずいぶんまえだなあと感じた。変な感じだった。最近のことなのにね。
 3時ごろデイケアのスタッフから電話がかかってきた。ちょっとドキッとした。「だいぶマシになりました」と伝えた。5日にデイケアの花見にいくことにした。行けるかなあ。大丈夫かなあ。来週は、何度か外へ出なきゃいけない。まあぼちぼちと。

 当たり前のことをなぜなのか考えるのは大事だと思った。実際結構調べられていない事がある。最近勉強してないし、研究者でもないけど。それは知られていていいことだったりするのだ。でもマニアックにならないようにしなきゃとなぜか思う。それでいて普遍的なつもりが、変なところをうろついていたりする自分が見える気がする。矢部史郎がマルティチュードは「マイナー」であらねばならないみたいにいってたけど、(マルティチュードって概念も、ちょっとわからんが)マイナーってなかなかなれるもんじゃないよ。詩だってそうだ。「痛い」というのを批評的に使えば、痛くても普通が「マイナー」ではなかろうか。見る人によるが。立岩真也のサイトを見て、そんなことを思い出していた。「なぜ簡単には発展至上主義の社会じゃなくならないのか?」というのは大事な問いだと思う。みんなそういうけどそうならない。社会はまだ悪い意味で発展しようとし、その体制はアメリカから輸入され、北欧型みたいにはならない。福祉現場で北欧がいいといわれているけど、簡単にはならない。まあ、単純にはならなくていいと思うんだけど。それが日本か。
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Mar 30, 2006

外へいく

 橋龍はお金、歯科医師会からもらってんじゃないかなあ?

 自立支援法は、申請したのにまだ書類が届いていない。制度だけ先行してて、実務はどうなっとんじゃ!というわけで反対意見公式見解を両方リンクする。

 しばらく引きこもっていたけど、今日は診察。天王寺から茨木までクリニックに行く。診察待ちは7時代7番目。そのあいだに、来ると必ずいくラーメン屋で腹ごしらえ、メモ帳に今日診察で言うことを書く。

 *話したこと
 ここ二週間だいぶ精神状態はマシになってきた。外へはまだ出にくい気持ちでデイケアに行ってないけども。今は内面を見つめて、過去の記憶を整理するときか。朝眠気が残る。自立支援法は、まだ書類が届いていない。

 先生は、自立支援法は手続きが遅れていて、届いていない人もたくさんいるのだとか。眠剤は半分にして試してみてとのこと。あと、先生は、無理にデイケアに行けとはいわなかった。それで安心する。怒られるかなあと思っていたので。あくまで慎重である。家の中でやれることをやってくださいとのこと。
 帰りマクドでコーヒーを飲んで、ポテトも食べてしまう。食べすぎだ。でも、久々に外出して気持ちいい。寒かったけど。

  駅で本を売っているキオスクに入り、南淵明宏「ブラックジャックはどこにいる」という医療エッセイを買う。著者は、現役心臓外科医。僕は医療のエッセイが好きだ。ケアとキュアはまったくその技法がちがうけど、臨床の緊張感という点では通ずるものがある。プロな感じが。でも医師は人の命を直接に預かっている。心臓外科医ともなると、手術に対する恐れに率直なことが伝わってくる。謙虚さがモチベーションになっているのかもしれない。小学生の頃は医者になりたかった。理数系は全然ダメだったからやめたけど。考えてみれば僕の先生も、一日何人もの患者にアドバイスしている。すごい集中だ。あなどれない。プロだ。でもどこか余裕を作っているんだろうか。全力でやるというのが力だろうか?他、角田光代と佐内正史の本、佐藤愛子のエッセイを買う。
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Mar 29, 2006

飛行

「悩んでいます」という場所の
奇妙な安定感
むさぼる後ろ向きの安逸
それらに苛立つ
しかしそれははじまり
冷たい風がふく
ゆっくり歩いている
スタンバイする
内観する
飛行へ

からっぽがふくらんで
大きく大きく風がふいていく中を
降下していく鳥
鳥たち
わたしたち
ぼくは過去におそわれている
おそわせている
大いなる生きることの限界まで
落ちていく
ぼくは鳥
生きている
ウィルスをまきちらす
ウィルスのように広がり
繁殖し多数になること
抵抗すること
やわらかくあらがって迎え入れる空間を作ること
でも届かないかもしれない
詩人の
そしてその外へと
詩へと

とんでいく
風にもまれている
届けばいい
詩人の
詩人の
そしてその外へと
詩へと
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父との電話

 スタニスワフ・レムが亡くなった。昨日書こうと思ったんだけど、忘れていた。僕は「虚数」が好きだ。人間の知能をはるか追い越してしまったゴーレムという人工知能の傲慢かつクールな進化論が面白かった。

 姉歯元建築士の奥さんが自殺した。どんな苦しみか想像を絶する。姿をみせていない姉歯元建築士も、どこにいるのだろう。勝手に心配になる。

 彼女の旅行も三日目。楽しんで帰ってくるのだろうか?さすがにさみしくなってきた。

 詩人福島敦子さんの日記の書き方はほれぼれする。サイト「永遠狂い」の中にある日記。短く、すきっとしていて、詩人というものを相対化している。そして詩人への愛もある。女性週刊誌の記述とか、好きなCDとか共感できる。

 昨日の「踊るさんま御殿スペシャル」は面白かった。



 父から電話。田舎に帰省していたようだ。すっかり忘れていた。父方の祖母の七回忌。帰ればよかった。母方の祖母もかろうじて父の名前は覚えているものの、僕のこと覚えているかなあ。しばらく会ってないし、だいぶ弱っているらしい。父が五月に実家の整理に行くのでついていこうと思う。
 父と電話していて、久しぶりにいっぱいしゃべった。最近、過去の失敗で落ち込んでこもり気味の僕に「お父さんはそんなんすぐ切り替えるからなあ」と云っていた。それで僕は、今は「過去を整理して、そこから学ぶ、学びの時期だ」といったら、「和広、賢すぎるわ」と言われた。わかった事は

 ①僕は父によると母方の血を引いていて、すぐ内にこもりやすい。それから、しんどくなってくると、自分だけで処理しようとして、自分を追い詰めてしまう。
 ②父は昔僕が東大阪に住んでいた時、だいぶ心配してたらしい。それで、僕が全然電話しないうちにしんどくなって、仕事を辞めて(4年前)やばくなってきてから連絡がきたこと。
 ③要はやばくなる前に相談してほしいということ。

 父の言ってることは、③に尽きていると思う。僕もそうしたいのだが、ギリギリになるまで、自分でやろうとしてしまっていた。昔は、本当に家族には相談しなかった。自分で決断して失敗するのは学びだと思う。でも、失敗が重なるといろんな面で自信を失ってしまって、次が出にくいことになってしまう。



 また整理してカウンセリングで話せればと思う。でも失敗も魂にとっては学びだと思う。自分の課題を解決しようとしているのだから。自分の人生はもっと大きなものだと思うようにしよう。大きな旅だ。自分だけの。自立するまでの失敗だと思う。変な風にまとめないで、仕事辞めたことも、家族との関係、元彼女との関係、自立できなかった事、そのくせいろんな人に納得行くまで相談しなかった人間不信というより恐れ、慢心。昔の自分の限界。そういうもの全部の破綻だろう。それは新しく生まれ変わるためにあったと思える日がくればいいな。      
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Mar 27, 2006

サリン事件から11年

 今日、松本被告の控訴が東京高裁で棄却された。もう11年。おそろしいほど裁判に時間がかかるなと思った。松本氏は、拘置所の中で、オムツをしているという。何がそんなに彼を現実から遊離させているのか?この11年、彼の否定性はずっと闇の中で、そしてもうすぐ死に至るかもしれない。死刑になるかもしれない。巻き込まれた様々な人は、どんな気持ちだろうと思った。それぞれの気持ちがあるだろうけど、簡単にわかりますといったら無責任のような気がする。
 11年前、僕は、大学四回生だった。全然、就職活動どころか何も手につかなかった。だから、この11年とは、自分が社会になじめるかの繰り返しだったろう。オウムの起こした事件は、この世界を否定するという考えが、どこまで行くかを見せ付けられた。僕は、いろんな意味で、世界とのつながりを恐れ、拒否する傾向がある。だから、このようにブログで自分の考えを述べたり、詩を発表したりというのは11年前では思いもよらなかったことだ。
 自分が世界を否定しているのではなく、恐れたり、自分との不整合が原因で(自己と自己自身は一致する事はないのだが)たじろいで、つっかかっていると気づいたのは、介護体験なしに考えられないだろう。というかずっとまっすぐになれなかったのが、はじめてまっすぐになれた経験。なぜ手放してしまったのだろう。この問いから離れられない。
 それで目先のデイケアになかなか取り組めてない。自分にとって何がいいのだろうか。
 自立支援法はまだ書類とかが届いていない。どうなっているのかな。なんか、昔介護をしてたときに問題になった「支援費制度」を思い出す。名前も似ている。PSE法は事実上だめになったけど、あれは強い反対があったからか?そのほかの事は、通るとなれば、すごく強引に通っていく。
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ジャズー与世山澄子

 世界フィギアを見ていた。でも、メダルの重圧があればあるほど、いい演技はできなくて、挑戦していく人がいい結果を出していた。これで、もう春なんだなと思う。

 今日は彼女が旅行へ行って、まったく一人きりだった。さみしいとかいうよりも、いつもいる人がいないというのは、少し気楽でもあり、逆に覚束ない感じがする。それで一日中テレビばかり見ていた。
 ウルルン滞在記も面白かったし、ドラマ「輪舞曲」も風間家の骨肉の争いが興味深かったけど、「情熱大陸」が面白かった。ジャズシンガーの与世山澄子を紹介していた。歳の話をするとおかしいけど、66歳。僕の父の四つ上である。沖縄の米軍キャンプで歌ってた人で、80年代にはアメリカでアルバムを作っていたが、沖縄で喫茶とバーをやりながら、歌い続けてきた人だ。東京とかには一年に二回コンサートに行くだけらしい。最初は東京の海が「沼」みたいに見えたらしい。波がないからだ。
 僕が興味を引かれたのは、創作者として、いる場所を動かさないでも、人が集まり、作り続けられるということだった。彼女が、きっと大変な人生を歩んできたから、伝わってくるものがあるんだと思う。創作の母のような人だ。ライブも大まかに決めてやる。
 本場の、しかも命を賭けている人の前で、歌をとどかさなければいけない。それで、ベトナムとかにいって消えていく人を前に歌っていたのは計り知れない悲しみがあったんだろう。三十数年ぶりにキャンプへいく様子が映されていた。
 すごい話とか聞いてくれそうな方だなと思った。沖縄そばもおいしそうだった。ひどい方向音痴というのがなんかわかるような気がした。いつか聴いてみたい人である。  
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Mar 26, 2006

お知らせ

初期田村隆一について批評をアップしました→こちら
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◎田村隆一の「腐敗性物質」について少しー初期の田村の詩世界





*講談社文芸文庫版「腐敗性物質」は田村隆一の自選詩集で、「四千の日と夜」、「言葉のない世界」、「腐敗性物質」、「恐怖の研究」、「緑の思想」が抜粋で入っていて、「奴隷の喜び」が 全編収録されている。



 田村隆一をはじめてみたのは、NHKの特集だった。パジャマ姿で、晩年だったが、寝そべって語る。その語り口が面白かった。あと雑誌で、人生相談をやっていた。それから「宝島社」の「おじいちゃんにもセックスを」のポスターで、コート姿で出ていたのがかっこよかった。
 僕は、田村ではなく、親交の深かった北村太郎から詩に入ったので、田村の詩世界から、ちょっとずれた位置から入った。とはいえ、「荒地派」である。両者とも、スマートな表現者だが、北村のほうが哲学を感じる。でも両者とも生き方の美学を形象化した点では同じだ。
 挫折という視点から読むと、北村のほうが、実生活は深刻だった気がする。妻や子の死。しかし、文明論的に、みれば、田村のほうが、深刻に大戦の影を、斜めからではなく、正面から受け止めているように思う。あくまで、「文明論としての大戦」だが。そういう構えのようなもの、概念性は堅固だ。また鮎川を入れると別なのだろうけど。 詩を挫折という視点から眺めたくなったのは、自分がここ数年挫折の連続だったからだ。田村は、僕はキーワードでいうと、「叫び」、「心」、「部屋のない窓」というのが気になった。戦争で「人間的なもの」が壊れたときに、どう人間の自由の領域を守るか、というのがテーゼになっているように思う。いわば文明の挫折を一身に引き受けた。「四千の日と夜」はゲルニカを思わせる絵のような詩だと思う。一大絵巻のような。ゲルニカが絵画として、戦争に対するテーゼとして、両者から興味深いように、田村の詩も、芸術としても、文明論としても、両者から、味わえる広さを持っている。

 で、谷川俊太郎(「旅」における)との共通点が、詩と詩でないものの分割線が、明瞭に引かれていること。けど、俊太郎は詩を超えるものとして、自然がポジとして描かれているけど、田村の場合、「ネガ」(見えないもの、聞こえないもの)として、「叫び」や「心」が描かれている点だ。これは、巨大な危機に対する反応だったと思う。ヴィトゲンシュタインがそうであるように、主体の届かない「沈黙」の領域を残したのだ。この点で、両者の対比は興味深い。田村の詩の外部性は、大きな影としての「人間」「声」だったろう。
 田村の場合、詩は「部屋のない窓」、つまり内部のない入り口としてあって、詩の世界を克明に描かず、空白として描く。これは、田村が「世界」を守ろうとする気持ちから、とられた手法だろうと思う。どちらかといえば「情」で書いていた人だと思う。知的に処理していって、仕切れないものをぎりぎりのところで書いている。それが記号としての「言葉」の拒否につながっていると思う。やわらかな「情」が、硬い形式を選んでいった気がする。そこから「自然」への愛が出てくると思う。女性へのナイーブさも現れていると思う。思ったより素直な表現だと思った。「死体」という表現も出てくるが、否定の、さらに否定の核に、柔らかな肯定があると思う。戦争から離脱して読めるという意見があり、そうだろうと思った。実際の戦争体験は思ったよりないし、表現も独立して読める。それでも、戦争がなければ田村は書く必然を覚えなかっただろうと思う。危機があるから、独立した表現空間を作ろうとした。そして、戦争詩という枠を超えて残った。そういうことだろうと思っている。戦争は危機に瀕しているという表象であり、それが表現を要請したし、表現が危機に瀕しているという表象を必要とした。そういう感がある。オリジナルに危機を彫りつけ自由な表現というものをきたえようとした。そう思う。



◎気に入った詩―「四千の日と夜」では「叫び」、「Nu」。「声」の領域を残すような書き方。叙情的な詩がいいと思った。「言葉のない世界」では「見えない木」「言葉のない世界」対照的だけどどちらも世界に対して熱いと思った。それが素直に表れたり、(見えない木)激しく表れたりしている。「緑の思想」では「水」「枯葉」などが素直でいいなと思った。
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女王

 今日は女子フィギアの世界選手権を見た。コーエンがいいなと思ったら、1位だった。やっぱり表現する力が全然違う。ミスするかしないかとは違う次元で戦っているなと思った。

 最近、白石一文の「僕のなかの壊れていない部分」を読んでいる。最近行っていないが、デイケアの人がいいといっていたのだ。最初は主人公の言動が傲慢に思えたのだが、だんだん違ってきた。主人公は、人が犯すあやまちに寛大なのだ。そこがいいかなと思った。でも神経質だし、寛大ではない部分も大きい。この主人公に「虚無感」みたいなものを乗っけるには、キャラの器が小さすぎる。そこがすごくしんどい。文章から見ると比べるのもひけるが、村上春樹とちがい、格段に下手だと思う。そういうところで、狙いとするものと文章がつりあっていない。でもいまいちな小説を読むのも勉強である。自分が日々いまいちだし、えらそうなことはあまり言えない。小説書けないし。すぐれたものを探す能力がちょっと減ってきた気もする。精神がビビッドでないためか。

 フィギアを見たあと、さんまの「恋のから騒ぎ卒業スペシャル」を見た。なんか最近テレビばかり見ている気がする。スペシャルでは、ジャスミン(光岡)という女の人がいいなと思っていたら、彼女がMVPになった。東大の大学院で哲学を学んでいるそうだが、ちょっと空気は変なのだが、ああいう番組で品を保っている。「ニーチェはみんな踊るといったのよ」といっていたが、哲学理解も間違ってないみたいだ。で、ダンサーになりたいといって、さんまの歌にあわせて、変なダンスを踊っていた。「本をたくさん読んで、一億文字を超えると文字が躍るの」といっていた。

 今週は何を書こうか迷っていた。正直内面的なことを書こうかと思ったが、止めた。無理にまとめる必要はないなと思った。思えば、ずーっと反省しているのだった。でも反省的意識で自分をのぞいてもキリがない。やはりなぜ介護をやめたのかというのは大事な問いになりそうだ。あれだけ社交的になり、外へ向かっていた時期は稀有だった。まだ内面が追いついていない部分もあったが、内向的だからこそ、にじみ出るものがあり、それが人を見つめる目につながっていたと思う。あの時期がなかったら、詩をつづけることはできなかったと思う。挫折は生産的でもあるなと思う。もっと遠慮せず前へ進めばよかったかもと思う。

 彼女がスキーへ行く。
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Mar 23, 2006

迷惑メール

 最近、出会い系サイトから、たくさん迷惑メールが来る。困ったもんだ。大体文面も見当がつくけど、時々、名作も来たりする。克明に、日記風に書かれている。まあ、見てもあまり楽しくないというか、女性をこんだけ貶めるというのは気持ちが悪い。
 彼女が、昨日、今日お腹が痛いといっている。昨日の晩飯は僕が作ったので、僕のがダメだったかなあとか思ったりすると、すぐ良くなっている。昨日の炒め物は辛いといわれた。確かに味付けが濃かった。僕は身近な事を詩の題材にすることが多いのだけど最近あんまり書く気が起きない。長く続くと深刻だが、今は何も前向きではなく、引きこもりがちなので、仕方がない。大体この時期は毎年調子が出ない。

 友達が家にいるのが辛いらしい。大変だなあと思う。僕は家を出て、もうだいぶ経つけど、こないだ親から電話かかってきたけど、親は変わらないなあと思う。それが安心の根拠だったりもするのだが悪いほうに出ると過干渉とか、悪い意味でほったらかしとかなってしまう。いろんな親子関係の乗り越え方がある。自分は親になってないので、ずーっと子供の目線で物事を見ているのかなあとも思う。でも、そんな単純じゃなくて、人の接し方とか構えとか、案外親に似てくるのが不思議である。でも、親は親の課題を乗り越えて生きているので、僕はもっと違うレベルの課題があるんじゃないかと思う。僕はあんまり子供時代、学校とかでいい思い出はないんだけど、大事にされてたよなあと思う。それを当たり前と思っているからしんどくなる。
 WBCで、あんまり盛り上がるのもどうかなと思ったりする。野球は好きなんだけど、イチローの「屈辱的な負け」という発言。韓国に対して、ちょっとまずくないかなあ。
 もうすぐしたら、彼女がスキーに行く。
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Mar 20, 2006

子どもの詩

 ドラマ西遊記が終わった。ちょっと拍子抜けの最終回だった。今日は詩を一本書いた。先週の土曜は田村隆一の読書会だった。人数が多かった。だけど、あんまりしんどくなく過ごせてよかった。少しいい感じになりつつあるのかもしれない。色々な面で。田村については感想をアップしようか迷っている。
 以前ニートと労働について書いたので、反響のメールをいただいた。とても、貴重な文章だった。お返事をさしあげたら、「正確に読み取っていますね。読んでいただいてありがとう」とお返事をいただいて、とてもうれしい。それから高野五韻さんから、これからについて丁寧なコメントをいただいた。とてもうれしい。
 少し子どもの詩を読む機会があって読むと滅茶苦茶面白い。というか、負けてられない。その人の精一杯の感受が出ていて、それぞれに読ませる。小学4年くらいなのだが、リアリティが出来てくる大事な時期だと思った。正直こんな文章は書けないと思った。紹介できないのが残念です。
 ぼくの詩の批評を湊さんが書いてくれました。→こちら
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Mar 16, 2006

挫折を深く生きる

  一日中雨が降っていた。弱かったり強かったり、最近の僕の心境をあらわしているようだ。午前中はカウンセリングに行ってきた。夜は診察。最近焦っていた。発表の場について、もやもや考えていた。過去の失敗が思い返された。でも、今日は半ば、強いて、二つの場所に行ったので、気分転換になった。夜来たメールに泣きそうになった。内容は、いつもきついこと言ってごめんねというものだった。そのやさしさは胸にせまるものがあった。診察帰りの駅だった。
 心が硬くなっていた。本当に心というものは、ほっておくと、固まってくる。それがわかった。僕は頑なな心を持っているのだった。今日カウンセリングで、前の仕事は向いていたのになぜ辞めたのかと問われた。やはり人間関係だった。関係の持ち方といってもいいと思う。どこかほめてもらいたいとか思うのだった。今だって変わらない。でも、それ自体は変なことじゃないといわれた。どこか、自分より上の人に抱きとめてもらいたい、わかってほしいとなるのだ。前の上司との関係がそうだった。それと過大なプライドを持っている。何か身を守るため。「何を守っているの?」と問われた。わからないと答えた。何だろうか?
 診察では、人間関係はすぐどこがいけないかわかるものじゃないからゆっくりやりなさいといわれた。そうしようと思った。昔のようなすごい落ち込みではないよといわれた。安心した。
 いずれにしても時間のかかる事ばかりだ。ブログでは、全部書ききれない。でも、今日はちょっと心がほぐれた。ミクシィの人から丁寧なメールを頂いた。発表の場をどうするか相談した、その答えだった。ありがたかった。
 田村隆一は、何年か挫折した僕の視点から読めればいいなと思った。昨日はなげやりなことを書いて失礼したと思った。詩を「挫折を深く生きる」という視点から読めればいいなと思った。読みがいろんな人に対して深くなると思った。心は錯綜体だからだ。たくさんの時間がもつれている。日記もそう書ければいいなと思った。絡まる糸が見えてくる歴史みたいに軌跡が残れば良いなと思った。
Posted at 23:14 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

Mar 15, 2006

投稿から

投稿という段階を経て、次、どういうステップを踏んだらいいのだろうか?
Posted at 18:20 in nikki | WriteBacks (2) | Edit

思い返す

 ごろごろしているのである。過去の失敗を思い返しては、なんて愚直なあほなんだと自分を思うのである。そういう姿が思い返され、彼女に「ここ数年の俺は何しているんだろう?」というと、「何事にもまっすぐ立っていた」と云ってくれるのである。
 やはり外へ出たくないときがあり、近くの食堂で食べたりしている。今日は自分でチャーハンを作った。外へ出たくないときは、出たくないときの必然性があると思うのである。それは、長い流れでみれば、こういう時期もあって、もし就職したら、あんな時代もあったねという暇もないほど余計な事を考えられない日がくればいいと思うのである。ネガティブでも、思い返すというのは大事だ。でも、楽しい事は浮かんでこない。なんでかな?
 ああ、田村隆一の詩を読まねばならない。田村さんは晩年鎌倉での映像や人生相談の先生をしていたのは知っている。とても面白く、ある意味ズルイ人(キャラクターがいいので得していた?)だとも思うのである。カッコいいし。そういう人にどうなれるのか?
 今日はぬくくなりつつある。こんなだらだらしててお医者さんに怒られないか心配だ。明日は診察&カウンセリングです。
 最近詩も書いてないな。
Posted at 17:37 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

Mar 13, 2006

あの日

言葉が固いということは
からまりよりも厄介で
陸橋を渡る
空が雲をつきぬけて
彼方へとすべっていく
だから
ぼくは
うたうことを
禁じたのだ
あの日に

あの日は
診察室で
舌を透明手袋でなぜられて
大丈夫ですよと云われた日で

そんなはずではない
ぼくは舌ガンだと
強く
感じた
かたまりが
マグリットのように
夏の空をこわしたので
病院のくらい天井が
世界の全てだと
とらえられたので
ぼくは異常だった

愛を送る
あの日に

迷いながら
つま先をトントンしながら
唯物的な日々
神よ 汚してくれ

愛を送る
あの日の
ぼくに



*詩の雑誌ミッドナイトプレス31号「詩の教室」掲載
Posted at 15:42 in poem | WriteBacks (2) | Edit

自分を追い詰めない

 先週の金曜日はデイケアに行ってきた。習字教室だった。何人かの人と話した。焦らないように、しようと思う。自分を追い詰めないこと。ほっといてもしゃんとしないといけない時期がいつかくるのである。
 日曜日は「いのしか会」の会合で、梅田へ。佐々木浩さん、湊 圭史さん、河上政也さんと集まって(Izzyさんは欠席)、今後について話した。いい感じで詩を語れるあつまりになればいいと思った。というか、他の人の様々な活動の様子を聞いて、刺激を受けた。みんなありがとう。自分は、媒体への発表とか、そんなに、あせって、やろうと思うと空回りしてしまうので(過去にうまくやれなかったこともあったので、それはいえてよかった)、ゆっくりやろうと思った。詩の友達が出来たのがうれしい。チャンスはいつか来るのである。それから辻征夫さんが書いていたように一生無名でいる覚悟で、自由詩は書いていくのが本筋らしい。そんなこと云っても内心は焦っていたりするのであるが。
 ミッドナイトプレス31号の詩の教室に載った。松下育男さんがコメントしてくれたように、乗り越えるべきは過去の自分の作品なのである。要は自分との戦いである。そこから道が開けていけばいいのだが。もう投稿のレベルは超えているようだ。プレスはそう遠くなく復刊するようだ。朗報。
 やっぱり自分は気持ちばかり焦っては、動けなくなるから、無理に考えと実践をあわせていく必要はないのだと思う。焦るな自分。といいつつ今日もだらだら過ごす。時間の流れが詩を作る。その時だけ自分に厳しくあれ。僕は世界からずれている。そのことを肝に銘じて。今日は大阪は春の雪だ。

 *詩をアップしました。
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Mar 10, 2006

お知らせ

m.qyiさんのサイトマガジンに僕の詩が紹介されました。
マーガリン猫さんとチアーヌさんの文章の中に出てきます。
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Mar 09, 2006

やる気の出ない(うつ?)日々の中で、できることと「ニート」について思う事

 一昨日の日記では、前向きな事を書きすぎて上滑りしていた。よくないことである。いろんなことがいやになってるときは、正直にそう書いたほうがいい。はっきり云って、ここ半月は風邪もあったが、引きこもりがちである。デイケアもしんどくていけなかった。
 なぜか無理に前向きになろうとすると空回りしてしんどくなるのである。これは、詩にもいえる。書きたい気持ちだけだと実態がついてこないのだ。。

 朝は、ミクシィの人にメールした。マイミクになっていただくのにお手数をかけてしまった。ごめんなさい。昼は近くの食堂で、「とりから定食」を食べた。そして今日は父に電話した。どうもやる気がでないと。そうしたら、とりあえず市民税の申告書を出しに行ったらと云われた。それから、できることをひとつでもしたら、と云われた。なぜかというと、僕が暗くて、何もしないでメールが来ないとか小さなことでぶつぶつ言ってると、彼女にそんなんいやといわれて愛想をつかされそうになるのだ。それは悪循環で非常にやばい。それで、書類を作っていた。僕は障害厚生年金2級をもらっているから、非課税なのだけど、とりあえず、それを書いて、郵便で良いそうなので、出しに行った。それから、本屋に行きミッドナイトプレス31号を探したがまだ並んでいなかった。それで、大航海という雑誌を買った。「ニート」が特集だった。ああとうとう「大航海」まで。思わず買ってしまった。ああなんか踊らされている。メンタル的に余裕のない社会に。それはまた書く。それから、掃除をした。風呂とトイレと床を。また、雑誌にのめりこむ。今日はちゃんとやったよと彼女にいえそうである。家事については、僕がしんどがってやらないので、それも、あきらめられている。
 万事悪いペースにはまると、あれもこれもいやになって、そういう僕を見ている彼女も、げんなりしてしまうのでやばい。だから、どうするというわけではないが、勇気を出して掃除をやったのである。別にほめられた話ではないが、そうやって少しずつでも這い上がれたらと思う。なんかグズグズしてると家全体に、しんどいオーラをはなってしまうからだ。今日は彼女が帰ってくるのはおそくなるみたい。

 で、「ニート」(無職じゃだめなのか、まあ無職だと啓発できないわな)のことなのだが、(僕の偏見でいっぱいだが)関係ないが、僕も病気になる前、といっても、そのときも妄想に襲われて、がんで死ぬと思っていたのだが、派遣のバイトが長続きしなかった。あまりにキツイ職場だったが体力は半年でメキメキついた。その前は卒業間際まで、就職活動どころか、対人恐怖になって、頭もまとまらず卒論に苦しんでいた。そういう自分を7年前、知的障害者グループホームはよく雇ってくれたものだと思う。そういう個人史がある。
 それがニートとどうつながるかわからないが、「何で働かなければいけないのか」という原理的、マルクス主義的(資本主義に加担をするな)な問題にとりつかれてもいた。今でもそう思っている。こんな豊かな社会で働くって何なのか?次の課題が出てきてるのではないか。ひきこもり→ニートの変遷には、「社会参加できない」から、「しない人」をどうするかという問題の移行が見られた。それと右も左も「働け」の大合唱になりつつある。でも、それは原理的な問題「なぜ働くのか」の先送りになっているだけだと思う。ただ働くことにつくより、豊かになった社会では、やりがいみたいなものが大事である。僕の場合、よくないことに過大なプライドが邪魔している(なんとかしたい)が、今は病気療養中なので、そういう表層の議論には邪魔されたくない。もし、ニートなり、ひきこもりなりの論者が原理的な問題に立ち戻って話をし始めるのなら、耳を傾ける余地がある。
 みんな生きていることに精一杯だ。そういう尊重の感覚ではなく、みんなで「あいつはサボっている」といいあう社会の一部の風潮はどうかしている。それとは無関係に、しぶとく生きて、つながりを広げて成長している人が、金の多寡でなくいるとすれば、僕はそういう人に、敬意を持つ。友達にもいる。そういう人はいい顔している。自分がそうなれるかわからないけど、僕が介護してたときどういう顔をしてたんだろう。
 僕の場合、ブランクが長いのをどうするかだけど、今は目の前の事に目を向けようとして精一杯である。
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Mar 07, 2006

固い頭、弱ってるときはお互い様

 ひさしぶりにデイケアのスタッフのかたとお会いしてきました。
診察のとき、僕は文書を書いて先生に読んでもらって、アドバイスを受けるのですが、それを見せました。正直はなしていて、どう人付き合いのストレスをいいものに変えていけるかと思いました。
 本格的にしんどくなる前に自分の気持ちを伝えられたのが、よかったです。デイケアでは、みんなと苦しみを、そして、楽しい気持ちを分かち合えればと思うのですが、そこは大人同士のつきあいなので、自分の気持ちをどう伝え、かつ関係を良いふうに保っていくかが、課題だと思います。
 それから、将来的に、仕事を目指していくかも考えどころです。もちろん就職できれば、それに越したことはないのですが、あまり仕事、仕事と思いつめると逆効果になります。それから、詩をあくまで趣味にしていくか、一つの仕事と考えるかでも大分違ってきます。
 もちろん発表の場がまだあまりないので、これから、作れるかどうかですが、ここ4年多くのものを失ってきたので、自信があまりありません。要は持続的に人と付き合えるかだと思います。その中で、いかに自分を成長させ、人間として大きくなれるかだと思います。

 今日は松下育男さんのブログに行ってきました。カキコミをしたら、はげますレスがあり、うれしかったです。高野五韻さんのブログにも行きました。ミクシィで、詩の仲間とメールのやり取りをしました。詩にとらわれるのではなく、詩に素直に向き合えるようになりたいです。もっと。もっと。というより、生活を充実させていくこと、やわらかくあることだと思います。固い頭になりたくないです。でも、30過ぎて、人付き合いもあまりなく、青二才のままなので、少し固くなってるかな?
 絶望の淵からは這い上がってきました。まだまだこれからです。
 やわらかくいろんなことに向き合いたいけど、僕の頑なさは、もった業だと思っているので、例え世界の片隅からでも発信してゆきたいです。
 もう少し余裕が出来たら介護の勉強がまた出来ないかと思っています。

 さっき大学時代の友人から、メールが届きました。昨日も来て、移動先の職場で、悩んでいるようでした。「君なら乗り越えられるよ」と書きました。それで、「愚痴ってごめんね」と今日来ましたが、弱ってるときはお互い様です。その精神を忘れないようにしたいです。「弱ってるときはお互い様」
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Mar 06, 2006

お知らせと仲間について

 詩をアップしました。

 そう、ミッドナイトプレスが休刊して、投稿の場がなくなったような気がして、落ち込んでいます。
 でも自分だけで何か動かしていくのは、なかなか気力がいります。「場」というものは、失われてしまうと、日頃見えなかった大切さが見えてきます。
 僕は、ここ数年嵐のように病気になって、たくさんのつながりを失いました。かわって、新しいつながりが出来つつあります。
 こないだ、友達と何年かぶりに飲んだら「石川さん、全然変わってないから、大丈夫です」と云われました。そういわれて、かなり安心しました。それと、今度詩の仲間と集まりがあります。そういうのは、大切だなあと感じます。
 以前発表の機会をいただける場面で、「お金がないから」とことわったのが、堪えます。自分で選んだ事なのだけど…なんか、詩は最初は無心で書いていて、発表とか考えませんでした。それが、長く続きました。でも、評価されると、もっととなってしまうようです。自分の目標設定というかプライドが出てきたのでしょうか。だから、それは一方で困った事で一方はよいことです。他に打ち込めるものがないのかという人もいますが、自分の性質上出たら、引っ込められません。それがこまったことであり、ある意味では進歩だと思います。
 信頼できる仲間とメディアに出会いたいです。あせっても仕方ありませんが
 今見たら、今日アップした詩、現代詩フォーラムで8点になっていました。なんか、やっぱり評価される事はうれしいです。
 明日はデイケアいって、スタッフのかたと話してきます。いい感じに日常が送れたらと思います。
Posted at 18:31 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

三月

歩く すきまだらけのからだに
すぐさま
圧倒的に
言葉の貝がらが入ってきて
それは ひとのにおいがして
たいそう悲しい春先の光となる

光だけだと寒いから
あなたは空とつながって
どうか言葉の貝がらを拾ってほしい
ぼくは寝ているから
ぼくは少しの間死ぬから
嵐の後の砂漠のように
見知らぬ女の子が泣いていた

いのち みたい
それに春先の光が当たって
あなたがまだ少しだけ足りない



呆けたおじいさんは熱い湯船につかった
シルバーシートには会社員男性が
つかれてねむっている



三月
もの憂げな戦い
もうなにもないかのような
あふれる季節だろう
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Mar 04, 2006

ニュースと昨日のコンサート

 詩の雑誌ミッドナイトプレスが31号で休刊するとホームページで発表された。いい雑誌で、僕も「詩の教室」に投稿してた縁もあり、とても残念です。さみしい。岡田さんが心配である。

 風邪はだいぶマシになりました。来週はデイケアに行けるかなあ。

 昨日は加藤登紀子コンサートに行ってきた。高槻現代劇場。一時間くらいかかった。ラーメンを食べていった。一発屋といって、高槻でもおいしいラーメンをだすところ。寒かった。
 彼女がチケットを当てたのだが、いってよかった。テレビで見る以外縁のない方だと思っていたのだが、そして客層も、40以上の方が多くて戸惑ったのだが、若い頃歌っていた曲や、シャンソンがとてもよかった。最初は、声が出にくそうで心配だった。しかしさすが40年(今年で40周年らしい)歌っている方で、ステージングが落ち着いている。もっと説教臭いことをいうのかと思っていたら、ちがった。旦那さんが亡くなった後、農場をついでくれる若い人が出てきたことをさらりと喜んでいた。
 曲は詩がいい。もちろんリズムもいいのだが、心象風景を、克明に描き、それを声に出す点、詩人だなあと思った。最後は大盛り上がりで、日本酒を飲みながら四曲アンコールを歌った。最後にみんなが立ちはじめるのは、僕が行くような民生のコンサートとかと全然違う。サポートのバンドが長年やっているのか、しっかりしていた。ギターがとてもいい。そして「紅の豚」のうたは学生運動の歌だったのがびっくりした。表現者としての落ち着きは勉強になった。あんまりノレナイと思っていたのによかった。
 昨日デイケアの人に街で出会った。うれしかった。今日は昔の仕事仲間とのみに行く。
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Mar 02, 2006

カウンセリングと診察と

 ここのところ、ずっと外へ出られなかったのだが、今日は、二つイベントがあり、とても助けられました。なんか世界が灰色だったのが、マシになった感じ。体力的には、風邪なので鼻つまったり、咳したりしながら、寒かったけども、いい助言が得られた。

 朝はもそもそ起き出したけども、末木文美士「仏教VS倫理」を読みながら、近鉄電車に乗っていると、なんか本が面白かったです。著者(仏教学研究者)の師である田村先生が、戦時中、学徒出陣の時に、先生は、「法華経」信仰が篤い人だったけれど、上官から「天皇が上か法華経が上か」といわれて、「天皇が上」と答えざるを得なかった。それで、それが辛くて悔しくて研究の原点になったと書かれてあったのが興味深かった。それで田村先生を本当に信頼できると感じたと書かれてあったのがよかった。著者の問いも、仏教を疑いながら、真摯に仏教を問い直していくのでカッコいい。これは仏教への応援歌ではないかと思った。
 それでカウンセリングに行ったのだけど、やっぱり、病気中に失った友達とか人間関係の傷が、残っていると感じました。だから、デイケアも人間関係の場所なので、疲れていたんだなと思いました。長い事、面と向かって人と持続的につきあう場所から離れていると、その離れた分だけ、リハビリがいるんだなと思いました。
 それと、診察で僕が「デイケアでどこで自分を出すか抑えるかわからない」といったら、先生から云っていただいたんだけど、「他人か自分か」の発想になっていると云われました。(さっきの話じゃないけど、自分に極端な問いを突き詰めてしんどくなってた。)なんか例えなんだけど、二人で、一つの食べ物しかない時にどうするかと先生は云った。他人に全部あげちゃえば、他人を喜ばせてうれしいが、自分は食べられない、自分が全部食べちゃえば、お腹はいっぱいになるけど、相手に悲しい思いをさせて自分の気持ちもしんどくなる。そういう時どう分け合うかです。例えば半分にすれば、半分しか満腹にならないけど、相手との関係も保てて気分もいいといっていました。
 僕は、失敗や、相手を傷つけることを恐れるばかりに、ずいぶん、余計な気を使っていたけど、それは、自分か相手かになっていたんだなと思いました。緊張で目先が狭くなっていた。
 先生に「今のままでも、仕事は出来る。でも疲れる大半は、やっぱり人間関係、それがそこそこできるようになれば、大丈夫」と云っていただいた。就労を焦って考えたりしていたので、そこも助かりました。
 なんか、素直になるほどと思えた一日でした。あとは実践がついてくるかです。
 明日は彼女とコンサート行きます。リフッレシュしてきます。
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Feb 28, 2006

僕の朗読は

僕の朗読は彼女をすぐ眠らせるあきれた力がある
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介護の詩を書いて

 鼻がつまって頭がぼーっとしてます。今日は晴れたりくもったり、雨が降ったり。気分的にはあまり輪郭のない日でした。とりとめなく、考え事したり。。昨日介護をしていたときの詩を書いたので、これから、どうしようか考えたり。将来的には、きつくても、人の役にたてる仕事につきたいです。それには、足をひっぱらないように、からだを整えねばなりませんな。
 介護というと大変さばかり言われて、たしかにキツイこともあるのですが、やりがいはあります。ただ、組織ですから、いろんな人間関係が大変なのと、なんとなくやっていたんでは、もちません。未来を見据えないと流されていきます。疲れもたまります。そうして、しんどくなっていきます。もちろんなんとなくやっていたわけではないです。でも、自分の中で、自立できていないとしんどいです。割り切りと言いましょうか。だから、今度は自分の足元を見据えて仕事しないとなあと思います。これまでいってる事は自分に対してです。他人には押し付けません。まあ頭で考えてどうにかなるものでもないし。といいつつ少しは考える備えをして。。仕事につけるかどうかわからないんですが。
 今は介護するほうじゃなくて、受けるほうですから、(最近風邪でデイケア休んでるんですが)サービスを受けるほうのしんどさというのがわかります。僕は精神ですが、最後に決めるのは本人というのが、しんどいときがあります。これから、どうするかと問われると絶句してしまうし、マイペースでねといわれるとマイペースってなんだろうと思います。でも、他人を信頼できるようになりたいです。かといって、だまされてはいけないので、そこんところのバランスがとても僕にはむずかしいのです。ひとにやさしくでしょうか。
 安定を強く求めるところがあって、だから安定しない自分とつきあうというのが難しいときもあります。そういう時気軽にひとに助けを求めるのも練習がいると思います。
 詩を書いていますが、記号は安定した土台に立っていないので、絶えざる変化の中にあるので、そこにうまくのれないと、あああとなります。自分の意思が形になっていないときです。昨日の詩「それぞれの時間」でも、意外にも前半の介護のシーンはクリアできたのですが、最後で、どう今につなぐかが難しかった。書き直しました。記憶だけでは、詩は成り立たないし、描写がうまくてもダメで、どこか腹に来るエネルギーのようなものがないといけないなあと思いました。最後うまくいってるかわかりませんが、とりあえず今書けるだけは書いた印象があります。

 永田議員の謝罪会見がありました。なんか、まだ隠されている事があるように思いました。自民党にも、民主党にも。これで民主党はやばいかなあ?
 ドラマ西遊記がつまんなくなっていっています。    
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Feb 27, 2006

クラプトン、介護、詩

 少しカゼがマシになった。鼻がマシになった。葛根湯を飲んでいる。それから、クラプトンの「BALLADS」を聞きながら、詩を書いたり、日記を書いている。  今日父と電話した。3月27日に祖母の七回忌があるそうだ。もうそんなに経つんだなと思う。おばあちゃんはやさしかった。かわいい人だった。とても謙虚で素敵だった。本当にかわいかった。父もおばあちゃんは大好きなはずだ。ちゃんとはわからないけど。
 クラプトンは抵抗があったのだが、今日の気分にはあっていたようだ。介護していたときの様子を詩に書く。むずかしい。介護や臨床の場面を詩に書くというのは難しい。特にそれを生業にしていると難しいと思う。なぜだろう。たぶんまだ、未開拓な分野だと思うし、からだを使ってしかも仕事をしていく暗黙知(M.ポランニー)の場面だからだろう。障害を特別なこととして書きたくない。いかに日常として書けるかだと思う。
 だからずっと書かなかった。もうすぐ仕事を離れて4年になる。記憶が遠ざかっていく。次のステップのためにも書いておかなければと思った。
 将来のことは長期的に考えようと思う。今日は少し寒い。なぜ詩を書いているんだろう。考えながらタバコすう。
 それにしてもクラプトンのバラードがしみる。とてもやさしい。こんなにやさしかったっけ?

 鶴見俊輔の「回想の人びと」を谷川雁のとこだけ読んでみる。くわしくないのだが、共同体の夢を実現しようとした谷川雁が強がりだったと言うのは沁みた。

詩をアップしました☆
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それぞれの時間

車いすを押して歩いた
そんな日があった
Oくんはひざかけをして
「石川さん、こんにちは」と云った

「こんどな お父さんと…奈良いくねん」
寒い道だ
空が透明な血のかたまり
ぼくは夢の中を歩いている気分だ

そうなんや ええなあ
車いすの背中から
ぼくはそう云って いくつかの
曲がり角を曲がって
段差でガタンとならないよう気をつけながら
グループホームについた

ただいま
靴を脱がせる
Oくんの指先がけいれんしている
バンドをはずし 上着を脱がせ
室内用車いすにうつしかえる
ちょっと気つけてや
「わかった」
それから部屋まで押していく

ダイニングの床をとおりすぎ
同居人のHさんはテレビつけっ放しにして
ねている

Hさん 帰ったで
「Hさん何してんの」

Hさんは「いやん」と言いながら
起きて笑って近づいてくる
Hさんは40代で
仕事もしていたが挫折した人だ
酒には時々だらしないが
人間はできている人だ
度のつよいメガネをふく
スラックスにセーター
知的障害者で大卒だ

みんなでTVをみる
「まだ阪神はじまらへんの」
うん、今、冬やしな
「阪神優勝するかなあ」
「せえへん」とHさん
みんなで笑いあったり
ぼくは後から来た介護者と
米をたいたり 洗濯物を取り込んだり

Oくんが「おしっこ」という
だからぼくは「おしっこ」をとりにいく
静かな時間が流れる



流れた

もう4年もたった
どんどんわからないことが増える
みんなで過ごしたことも
その意味も確かにあるのだけれど

歯が浮くような疑問だが
障害って何だろうね
ぼくも病んだ心をもった
まっすぐに伸びる手
折れまがっていく
段差もあるけど
段差だけじゃないだろう

もう一度お話できるか考える
そのあとさきにふれる
今はこうとしか書けない
とてももどかしい

でも記憶は生きているんだ
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Feb 26, 2006

雨、かぜのひきかた

 雨だ。こういう日はスティングのアルバムSACRED LOVEを聞く。スピード感に満ちて、哀切な鎮魂で、チョイ悪なアルバムだ。スティングのいいところが出ている。美しい。雨は憂鬱なのだが、ジャジーなリズムが駆け抜けるとなんか素敵な日曜日。とはいえ、このアルバム、すごく久しぶりに聞いた。悲しみだけでは日々は進まないということを音楽は教えてくれる。

 カゼが本格化。こういうときは、辻征夫さんの詩「かぜのひきかた」を思い出す。

こころぼそい ひとはだから
まどをしめて あたたかく
していて
これはかぜを
ひいているひととおなじだから
ひとは かるく
かぜかい?
とたずねる(引用)

そうなのだ。ひとのなかにいて風邪は引っぱり出される。ひととひとの命の通路を描いたものとしてはピカイチだ。風邪の時は、誰かと一緒にいたくなる。そして一人寝床へ帰っていく。そういう営みがある。いまんところ、鼻と咳だけで、からだは大丈夫。昔インフルエンザにかかったときにもらった風邪薬を飲んでいる。「かぜのひきかた」の対極にあるように見えて、その実、共通してるのは尾崎方哉の「咳をしても一人」ではないかと思う。今、一人ぼっちですごしている。彼女は出かけている。方哉のひとりは並大抵ではなかったろうけど、思い出されてくる。辻征夫も方哉もどちらも、さみしいけど、どこか他者と深いところでつながっている。でも、描き出す方向は反対かもしれない。風邪は生命の連鎖を思い出させるもっとも身近なきっかけ。そして、自分のからだがあるということがわかるものとして。だから「咳をしても一人」

辻征夫さんの「昼の月」も好きな作品だ。

ずーっと一人で寝てて今日は悲しくないし、あんまり気にする事もない。昨日はあんなにいい天気だったのにね。春先は不思議だ。からだが慣れるまで時間がかかる。短い詩を書く。

「花」

とてもかなしいことはないけど
手をつないでいて
いつか放す日がくるとしたらかなしい
けど、いまはそんなこと考えないで
窓の外を眺めています
君はどこを眺めている
どこを歩いている
鼻水をためながら
ぼーっとしながら
君の事考える
どっちですか
みえませんよ
暗闇の中桜はまだ
あたたかい手のひらのことを考える
雨で濡れた鳥が鳴いて

辻征夫さんについて書いた批評はこちら。
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Feb 25, 2006

分煙

 彼女の実家に行って、犬と遊ぶ。今日は日当たりがいい。不思議そうに、空を眺める犬ちゃん。何を考えているんだろうなあ。その眼に吸い込まれそうになる。なぜか僕のポケットの財布をいじっていた。それで、みんな、犬に、「財布もってきて」と言っていた。はへ。
 今日は起きれた。でも、鼻と喉の調子が悪い。軽くカゼをひいたのかもしれない。寒暖の差が体に来たのかもしれない。みなさんも気をつけてください。花粉症?ノンノン。
 彼女と話して、ベランダでタバコを吸うことになり、椅子を買ってきた。前から臭いといわれていた。喉が悪くなって、タバコはいかんなあと思うのだが、買ったばかりの椅子で一服するんである。昔の文学者とか、坂口安吾の部屋の写真とか見ると、タバコどころか、アートのように物があふれている。彼はヒロポンをやっていた。覚せい剤が普通に買える時代があったのだ。そういう空気と今の空気って、物理的だけでなく、リテラシーとしてもちがう気がする。堕落論みたいなものにはお目にかかれない。堕落論も、戦後ではなく戦中に書いたら、もっとびっくりなのだが、そう考えると、太宰はもっとすごいのである。
 そういう時代は、今より生きるのが厳しかっただろうけど、ちがう厳しさが今はある。厳しい代わりにみんないろんなことで、一生懸命だったりいい加減だったりして、治安も悪かったけど、今は、皆もっとばらばらで、違う意味で一生懸命だ。食うためというのもあるけど、むなしさとの戦いが大変だ。そのあたり、安吾は勇気付けられる作家かもしれない。苦しくなったら思い出す作家の一人だ。

 ドラマを見ているのだが、いかに続けるというのがむずかしいかと思う。話をふくらませ過ぎてもいけない。金の問題が一番大きいだろう。

中也賞が決まった。残念ながら僕ではないんです。がんばります。
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Feb 23, 2006

田村隆一の「見えない木」について

 ある人が田村隆一の「言葉のない世界」の「見えない木」が好きだと言ったので、ちょっと引いてみる。「雪のうえに足跡があった」といって、それは、動物達がつけたものなのだが、それを追っていくと、「ぼくの心にはなかったもの」が想像されるという詩だ。普通に初期の田村から見れば、きわめてシンプルな世界である。田村の詩は訴えない。その力で、揺さぶりをかけてくる。しかし「見えない木」はやさしい詩である。しかし、そこで見られているものは、やさしいとかやさしくないとかじゃない、大きな広がりの世界だ。田村は、動物達の足跡を見て、本当に宇宙について考えたのではないか。それはこんな風に。

たとえば一羽の小鳥である
その声よりも透明な足跡
その生よりもするどい爪の跡
雪の斜面にきざまれた彼女の羽
ぼくの知っている恐怖は
このような単一な模様を描くことはけっしてしなかった
この羽跡のような 肉感的な 異端的な 肯定的なリズムは
ぼくの心にはなかったものだ(引用)

 ここでは足跡は言葉である。その透明さが物語っている。本当に静かな詩だが、同時に激しいのは、それが「恐怖」と名指されている事からわかる。僕も、深く深く潜っていきたい世界だが、足跡はそれを許さない。雪の表面の足跡として、その痕跡をつかの間残すだけなのだ。だから、田村は幸運だったといえる。しかし、生き物を注意深く見たら、生き物の言葉は普通に僕らにも見える。その巨大さ、単一さ、肯定を通して、働きかけてくる。
 だからこの詩はぼーっと読むといいと思う。そうすると生き物の「言葉」の世界があらわれてくる。ここで、田村は単純さを心がける事でそれをメッセージではなく現代詩たらしめているが、その底には、ちゃんとメッセージがあるのである。それは恍惚より巨大な世界である。だからこういうのだ。

ぼくは
見えない木
見えない鳥
見えない小動物
ぼくは
見えないリズムのことばかり考える(引用)

 僕もそういうリズムを聞いたことがある気がする。でもなんとなくうらやましい。僕は最近人間の言葉の端々ばかり拾っては転んでいるからである。少しの沈黙にも耐えられない。しかし、生きていくということは、見えないリズムを生きる事ではないだろうか?
生きることに静かにおののいている、とてもきれいな姿が見える詩だ。

*引用;田村隆一「腐敗性物質」講談社1997
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一週間

  ここ一週間、なかなかベットから起き上がれない日が続く。やる気が出ない。デイケアにも、プールにも行っていない。
 なぜかわからない。小さな不安だけが積もっていく。
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Feb 20, 2006

言葉、文体

 言葉は不自由なものだ。というより、自分の手持ちの言葉が少ないのだろうか?でも、未知なものは、からだの中にあり、それが言葉を出させる。言葉の置き方だろうか?そして、そこに安住できないのか、悩みは尽きない中で、なかなか自分の思うとおり言葉が出ずに日常を送っている。でも、そのとき出せた言葉がベストというか限界なんだろうと思う。
 昨日は合評会があり、大先輩と友達と詩について、というより、恋とか、宇宙とかいろんなことを話した。いい時間だった。その後飲み会にいってきた。友達は家族について悩んでいた。僕の親は、僕に頼ってきたり、きれたりしない。だから、正直難しい問題だ。でも、僕は、その友達の事を、肉体的でなく、タフだと思っているので、大丈夫と云った。普段は、うじうじすることもあるが、そのあたりは信頼している友達だ。
 とはいえ、彼の力を超えた話でもありそうなので、彼なりに切り抜けられたらいいなと思っている。ずっと詩を一緒に書いてきた仲間だから。健闘を祈っています。

 合評に出てから、冷静に話せてる自分を発見した。他人のことも少し見えるようになってきた。うつがひどいときはテレビも見られなかったし、躁のときは、きつい事ばっかり考えて、嫌がられたりもした。よく家族は耐えてくれたなあと思う。彼女も。そういうのが、信頼の力。苦しいときに支えられたという経験。だから、お返しをしなきゃと思う。働けるようになったら、何かお返しができたらなと思っている。でも、僕を支えてくれる人たちは、見返りを求めていないかもしれない。

 詩のことだが、自分の文体はまだ作れていないと思う。というか、ずっと変化の中にある。ほとんど直感で書いている。何人か評価してくれている人もいる。もちろん、あわない人もいるだろう。でも、どこかで好き嫌いを超えた、しっかりした文体を作りたい。でも、文体って何だろう?きっと、その都度、限界を乗り越えていく事。己の中にある名状しがたい力を自覚すること。まだまだだ。まだいけるはずだ。

こないだ、アジアンカンフージェネレーションの「ワールドアパート」というCDを買った。表題曲がなかなかいい。それと、コールドカットというグループの新作を買った。ぼちぼち。
 本では渋谷望「魂の労働」青土社がいい感じかもしれない。
 茨木のり子さんが亡くなった。戦後のある世代の書き手が亡くなっていく。
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Feb 17, 2006

診察、アメリカ

 昨日、診察に行ってきた。それで、先生に、適切なアドバイスをいただいた。
 以前、個人的にちょっとしたトラブルがあって、僕は納得がいかなかったことがあったので、先生は「今は目の前の現実に集中して。リハビリを終えてから、話したらいいじゃない」と言ってくれた。そうか、なるほど、長い眼でみれば、そのほうがいいなと思ったのだ。特に、「目の前の現実」という言葉が心に響いた。目先が短くなって、現実に対して、適切な距離がとれなくなることがあるのだ。
 それは、肝に銘じて事に当たりたいと思う。ついつい忘れがちな事だけど。
 それから、「強迫観念がでてきているね」ともいわれた。それは、「置いておく事、確認しつづけないこと、相手にしないこと」だと。ついつい彼女に大丈夫か確認してしまうのだけど、それも「やらないほうがいい、やるとどんどん膨らんでいくよ」とのこと。さっきの「目の前の現実に集中して」と同じ事だと思った。余計な考えにひきずられないで、前を見ていこうということだなと思った。

 今日はデイケアでコーラスだった。けっこう楽しめた。それから、人とも何人かしゃべれた。ネットや音楽の話もした。それで日米関係について話したのだけど、こういう話を人とするのも久々なのでうれしい。だから意見が違っても話せるのがうれしい。アメリカと対等に話せるかみたいな話になって、ある人はそれはできないということだった。僕は日本は日本の立場から話せればと思っていて、そう云った。じゃあ、そうじゃないよとある人は言っていた。
 今から考えたら、もう少し補足すべきだった。僕も日本とアメリカは対等じゃないと思っている。そこで、岸田秀さんは、「子分」といっているが、子分の立場であること、情けない事を見据えて、自分の立場を知って、アメリカに、ただゴマをするだけじゃないこともいえるんじゃないかな。
 ある人は、やはり、戦争に負けた屈辱感が気になっているのかなと思った。僕もそう思うから。それにアメリカは、無理な事もいっぱい言ってるし、やってるし、そう思うのも無理ない。そこから、どうはじめるかで、やはり絶望からということになるのだろう。だから、ある人と僕はそんなに立場は変わらないんじゃないかとも感じた。でも、もしかしたらもっと深い絶望があるのかもしれないし、もう少し話を聞いてみないとわからないな。
 他にいろんなことを話したけど、今日は楽しかった。嫌われるんじゃないかとかも思うこともあるけど、話せるようになったのは大きい。  
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Feb 15, 2006

知らない事、折り合いをつける事

 ここ2~3日はデイケアに行きだして一ヶ月くらい経ち、疲れが出ていた。人に会って、決まったことをやるというのを、ここ2~3年できなかったので、慣れないことは疲れが出るみたいだ。
今日はプーシキン美術館展に行ってきた。人が多くて疲れたが、ふだんあまり絵を見ないから、よかった。人とも話せた。昔は絵を描いていた。弟は絵描きになった。弟の絵を見るくらいだ。

 友達が、生きている事は実験だと書いていて、内田樹は「何を知らないか」を知るのが教養だと書いてあった。今、僕は生きていて、それは、いろんな経験をつんでも初体験で、わからなくて、恥ずかしいなと思う事がいっぱいある。と同時に、知らなくたっていいかもという思いもある。
 デイケアにいくと、いろんな人と話す。そうすると、まだあまりつきあいはないけど、この人は、今どんな気持ちなんだろうとか考える。それで、耳を傾ける。タバコを吸う時なんかよく思う。吸いながら話していると、自分のことを聞いてくれる。「昔介護職でした」という。そっから、星座、血液型は?となって、「山羊座のA型です」と答えると、慎重派やねといってくれる。当たっているのだ。(無謀なところ、一人で考えて結論を出すところもある)そんな感じで話す。
 ああ、この人は、こういう話し方するんだとか、まだ距離が近くないから、逆に気を使ってくれてるのかとか、やさしいなあとか。以前は気に入られたいとかもあって、今もあるのだけれど。手探りで話していき、また考えてを繰り返す。ありきたりだけど、やってみないとわからない。だから、人との付き合いも、新しい関係を生み出す「実験」。それがちょっと素直に新鮮だったりする。最初は新しい事ではなく、慎重に今までのやり方で。そこに手が加えられていく。このとき落ち着いてるように見られるが内心はどきどきである。いくつになっても、実験だ。試されている。でもどこかで人は抱きとめてくれてるのかもしれない。
 カウンセリングの時に「世界と折り合いをつける」という言葉が出てきた。年をとると、なんか「知らないこと」に対して、まあ知らなくてもいいやと思うときがある。というよりも、ここ何年かが感情の激動だったので、今は平らな感じで、安定を味わっていたい。どこか置いておきたい。でも、知らないことは、どんどん増えていく。ちょっと怖い。mixiとかいろんな人がつながっている。輪に入りたいというのと、しんどいと言うのが両方ある。自分の今のキャパシティがわかるのだ。でも、どこか、適度なところで「折り合い」をつけるというのが大事かと思う。ネットはネットという可能性であり、同時に限界である。でも、そこで確かに、社会がある。
 自分は「何を知らないか」を知ること。これは、大事だ。謙虚でいることだ。知っていることを述べるのが、しんどくなった。知っている事はある。だけど、未知のことが(他の人には既知でも)あって、それを新しく知りなおすのだ。
 マルクスじゃないけど、「世界をいかに解釈するかではなく、変えるかだ」。少しずつ身の回りをちがう感じで見たいし、それには自分をよくみつめないといけない。そうすると世界は変わるかもしれない。
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Feb 13, 2006

悩みかな

今日はデイケアに行かなかった。なんか寝坊してしまったのだった。
それで、だらだら過ごした。よくないとわかっているのだけど。なんか悩みがあるのだ。それが言葉にならないときは苦しいのだ。全身に、水がたまったみたいに重くなる。

社会的にいえば、療養中の身。精神障害は過渡的だ。それはプロセスである。限りなく、健常者とのグラデーションの中にある。証は、病気。病気がアイデンティティになる。べてるの家でも、病名を作って名乗る。
僕は治ってきている。だんだん、不便が少なくなっていく。それで、社会に出て行く。はじめはデイケアで。デイケアも過渡的に利用するんだと思う。でも、そこでも、人間関係がある。さけて通れない。
すごく限られた中から始めなければならない。それが苦しい。早くデイケアの人と仲良くなりたい。焦る。
今から見て、施設の限界みたいなものはあるか?なんとなく、皆、大人の付き合いである。でも、もっと色んな苦しい事とか言ったり聞きたいと思う。今は、かなりかっちりプログラムがある。そこで、耐える。耐えると疲れる。でもそれもいい意味のストレスなのかと思う。僕は全体的に狭く考えすぎだと思う。もっと流れにまかさなければ。

いくえみ稜と三谷幸喜読了。
それにしても、日本に本物の人権なんてない。まず天皇家にない。それがおかしい。人権にこだわるつもりはないが、人権外の人がいると言うのが、大問題で、そういう風土なんだと思う。昔からおかしいと思ってた。世継ぎでもめる。本当にいつの時代の話なんだ。天皇は、昔処罰されていない。処罰を免れた待遇が今みたいな感じか。
皇太子の弟はなかなか難しい問題を投げかけるなあと思う。それにしても女性はずっと犠牲だ。
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Feb 12, 2006

表面的に

昼カレー。サラダは僕が作った。
部屋でグズグズしてても、なんかくだらない事が気になってくるので、彼女が車で連れ出してくれる。
彼女と買い物に行ってきた。ニトリで、布団のシーツを買う。
それから、彼女が100円ショップに行ってるあいだ、本屋による。 池波正太郎、前から気になっていたので「男の作法」というエッセイを買う。他、上原隆のエッセイ(新潮文庫)とか、少女マンガ、いくえみ綾吉野朔実。それから三谷幸喜の短編を買う。
ケンタッキーでお茶。車を置いたまま、古本市場に行く。ストレス解消だー!というわけだ。
edeg2という2003に流行ったアメリカ音楽のコンピレーションを買う。それからスーパー銭湯の値段を見に行く。ホントは風呂に入りたかった。けちである。750円した。天気がいいので気分がいい。

帰りCDを聞く。あんまり考えなくていい。それがいい。もっと尖ってるかと思ったら日本よりまったりしている。どういうわけか。二年前だし。なんかでも、層の厚さからくる余裕なんだろうか。それと音楽の位置づけが日本と違って、なんかチルアウトできるやつが流行るんだろうか?なんかギスギスしてない。社会はそうではないからか。
といっても、僕はここ三年くらいまるで音楽シーンについていけてない。デイケアに古い洋楽を聞く人がいるが、僕はコアな音楽ファンではない。
でも、なんか刺激されて音楽を聴いてみようと思う。
それにしても2003...
最近詩については、深く考えないでいる。きっと、表現の核は、表面的なものの中にあると思う。最近はそういうモードである。
ニーチェ的に言えば、深い真理は、突っ込みすぎて、何かを見過ごして出来ている。精一杯、認識して、出てくるものは、一見平凡なものだろう。不勉強もあるが、詩を書くとき、浅くありたい。肯定を失いたくない。それが、グルーブを生み出すかもしれない。

お出かけはいい気分転換になった。今日はドラマ「輪舞曲」が楽しみだ。
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Feb 08, 2006

昨日から

つい先日mixiに入った。 昨日から 本を読んでいる。
共同作業所ピアセンターあかり編「見えない世界の物語」現代書館だ。
ええと、要するに精神障害者が精神障害者にインタビューしていくという試みなのだが、読めば読むほど、生活の苦労、現実というものが見えてきて、就労を目指している(出来れば福祉に戻りたい)僕には、なかなか苦しい内容だ。でも、皆なんとか年金をもらったり、働いたり、グループホームを利用したりやっているのだった。
「べてるの家の非援助論」のほうが、読みやすいが。。
「見えない世界の物語」はそのつくりからリアルだ。インタビューの依頼書が載っている。
僕は、もうひとつ、精神障害者になりきれてないところがあって、それは精神障害というカテゴリーがいやなんじゃなくて、どこか、僕は僕というところがあるのだろうと思う。個人主義じゃなくて。
カテゴリーに入らざるをえない事情を持った人もいるだろう。しかし、僕と同じで、必ず「普通に生きてもいるよ」という部分があるのだろう。
必ずしも差別ではなく。それが健康な部分なのだ。しかし、現実的に、どこか「カテゴリー」を作らないと、精神障害の保障は弱いし、やっていけない部分もあるだろう。本を読むと全員違う、違っていて普通なんだと思う。それが人生なんだから。
僕よりも重い人がたくさんいる。僕は、重くなる前に、助けを得たのかもしれないと思った。それでも、重いときは、病気の世界に入ってひたすら不安だった。不安をとびこえて病識のないときは、やたら躁だった。ちゃんとした先生に当たらないとちゃんと治療してもらえない。それすら、出会えない人がいる。大変だと思った。
でも、この本は「これからどうするのか」をテーマにしているように思えた。僕はぼちぼち体の声を聞きながらやっていくしかないだろうと思っている。
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Feb 06, 2006

うれしい便り

うれしい便りが来た。

詩集の感想を送ったら、お返事が来たのだ。
それは、カフカの「君と世界の戦いでは世界に支援せよ」を思い起こさせるものだった。
長らく、この言葉の意味がわからなかった。加藤典洋の同名の本を読んでもわからなかった。自分で体得するしかないものかもしれない。
どこかで、僕は「世界」を人を、疑っているのかもしれなかった。それで、自分の見ている「世界」は、穴だらけになったのだ。例えば、テレビが見れなくなった。好きな音楽も聴けなくなった。
その中で感覚は鋭くなるが、自分の足元の「世界」は、危うくなるのだった。
それでは、立ち行かなくなるまで、テレビの刺激はいやだった。どこかだまされていると思った。これはこれで、正しかったのだと思う。
でも最近になって、テレビを普通に見れている自分を発見したのだ。どこかで、世界を疑う力が、「信じる力」に転化されたのだと思う。
疑いも、それを突き詰めれば、自分の足元に及び、世界を新たに感じさせる力になるのだ。
その意味で、僕は未体験ゾーンに入りつつあるのかもしれない。

今日の「西遊記」も、どこかで、「信じる」と「疑う」がつながる話だった。親のいない子に、親のいるものは、深いところで、語りかけられないと感じる。孤独というものは、どこか親に肯定された人と、否定された人とでは、質的にちがう。そう感じるときがある。
それを親のいないゴクウが、親になって赤ちゃんを世話する姿を見せる事で語りかける、どこか強い作りになっていた。でも、ゴクウは、誰の胸の中にもいるのだと思う。僕も以前介護をして、お世話する仕事についていたときに、僕は、あまりオムツをかえる機会はなかったけど、そう感じたのだ。僕は知的障害の人の介護だった。

たぶん、疑い続ける事と、信じることは、どこかで、つながるんだと思う。僕の彼女はそう言った。

今日のデイケアは、あまり疲れなかった。とりあえず無事終了。
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Feb 05, 2006

淀川長治のいない世界

NHKをみてたら、淀川長治の在りし日の姿が写っていた。
98年になくなっていたので、ニューヨークのテロは見ていないことになる。
彼は批評は、どこかひとつでもいいところをほめる事だ、どんな映画にもいいとこはあるといっていた。
僕は、彼のいない世界を生きているとまた実感をした。
彼がテロを見ていたら、人間を愛する事を、チャップリンから学んだ彼は、どういうだろうと思った。
僕は、その世界を生きている。彼のいない世界で、「生きている」と実感する。
それが彼の力だ。
彼は「サヨナラ」を持ち味にしていたが、「サヨナラ」とは、その前に「泣き笑い」いろんなことがあったということだと言っていた。そんな今日。彼の「サヨナラ」の力を再び実感する。
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ドラマの時間

今日は、昼寝をしていた。それから、掃除して、松任谷由美のFMを聞いていた。
だいぶ、気分はマシになってきた。そのFM番組には寺尾聡が出ていたので、少し集中して聞いていた。やっぱ声のいい人はいいなあと思った。なんでもいい話に聞こえるので得だ。僕の声はくもっているので、あまり説得力がないかもしれない。
ラジオを聴いたのは、昨日、三谷幸喜の映画「ラジオの時間」をテレビで見たからかもしれない。ラジオドラマをやるのだが、主人公の書いた脚本が原形をとどめないまでに、プロデューサ、出演者の都合で変えられていって、話のつじつまがあわなくなっていく、ドタバタものだ。
ものづくりは、色んな人の思惑がからむんだなあと僕は結構納得した。また、今度、詩作品をまとめるときは、十分に気をつけようと思った。変な感想だなあ。藤村俊二とか井上純がいい味を出していた。なつかしい。子供のころの、コメディスターだった。そういうふうに設定がわざと古めに作ってある。「ラジオドラマ」からしてそんな感じだ。ジェットストリームみたい。
素直にドタバタが面白かった。「律子」が「メアリージェーン」に変わったり、海で遭難が宇宙で遭難とか、べたなのだが、脚本が崩れていくさまは、すごく計算されていると思った。ベタだけど計算されているというのが三谷幸喜的である。それが鼻につく事もあるけど。どこか密室劇の要素がたくさんある。
でも、もう9年前の映画だ。その当時は敬遠していたし、たぶん見ても面白くなかっただろう。
その当時は、自分が賢いと思っていたからだ。最近は自分は何も知らないなあと思うんである。なんか、海外文学の名前とかが知ってる人の口から出てくるとどきどきするのである。だからといって、開き直れない。今は、社会経験も減っているので、自分の現場がなくて、(こういうあり方もリアルかもしれないが)それでも大丈夫とも思えないのだ。
でも、彼女にそういったら「賢くなったのだ」と言われた。少しうれしかった。なぜかソクラテスとか思い出してしまった。賢いおしゃべりが出来なくなった。そういうのも、自分から見れば進歩かも。あるいは退歩か?

今夜は竹之内豊主演のドラマ「ロンド」を見る予定だ。このドラマは、あんまりスピード感がない。あるように工夫しているんだけど。それでも、作り手は、どんな工夫をしているか見るのが楽しい。最近普通に連ドラが見れるようになった。話の中のダメな部分も笑いながら見るとけっこう楽しいのだ。ビフォアーアフターもある。
最近はドラマの週間予定がある。月、西遊記。金、夜王。日、ロンド。というふうに、彼女と見ている。
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Feb 04, 2006

他者感覚

今日はデイケアに行ってきました。
習字と卓球だった。習字では、まどみちおさんの詩を、ずっとノートに写していた。まどさんの詩は、なんか透明なようでいて、まどさんはずっと考えていて、そのずっと考えてる事が提示される仕方が、時間を感じさせる。そんな詩のような気がする。どこか瞑想しているみたい。視点は現代詩なのだけど、提示の仕方が違うような気がする。
実は、全然簡単な詩じゃない気がする。ぼくはこういうのは書けないなと当たり前ながら、感じる。生命に対する視点だろうか。けっこう科学と宗教の境にいる人のような気がする。
それで思い出したのだけど、今、小泉義之のドゥルーズの哲学を読んでいて、生命について書いてあって、生命は、その発現、生老病死を通して、問いを「問題」に変換して、「解」を出そうとしているという記述に出会った。小泉のいうドゥルーズ。生命といっても、あらゆる無機物も含めた総体の中で、胚細胞、遺伝子をもったものを指すのだが、いまいち、有機物と無機物の区別がわからないところがある。まどさんの「湯のみ」に、地球を感じる視点のほうが明確かもしれない。

それにしても答えじゃなくて、「解」というのが面白い。どこか一つ一つの生命が「問題」を解いている姿は、どっか勉強みたいだが、生きている現場は、無数の解で満ち溢れているのかもしれない。僕は生きていて、何らかの解を出しているのかなと思う。それは、どっかで、他人に見えているのだと思う。答えの出ない問いを、式にして何か「解」を出そうとしている姿が、見られているという感じがする。だから、ごまかしはきかないし、そんなものは、存在できないのだと思う。ずるそうに見える人がいても、それはその人の「解」なのかもしれない。でも、どうしてもそう思えないときもあって、けっこう辛い。
それ以上に、他者と言う巨大な解が迫ってくる感じが、僕にはあって、他人というものは、けして侮れない。というか、自分が無限に小さく感じられるというか。だからいつも不安だ。今はデイケアに行きだしなので、余計そういう感覚がよみがえっているのかもしれない。昔はそういう感覚がもっと強かった。どこかで違いを感じる時もある。どっか辛い。でも、他者が大きいという感覚が僕にはあって、ついいらない虚勢をはってしまうこともあるのだ。そういう姿が態度が大きいと映るのかもしれない。態度が大きいというのは、臆病の裏返しなのだ。でも、いつも、他者の大きさとはなんだろうかと思っている。その中で、無限の視線の交錯があるのだと思う。みんな、どっかから見られている感じを手放せないのかもしれない。それをも繰り込んで生きている人の姿をみると、すごいなあと思う。どっかで僕はびくびくしているのだから。それは「畏怖」に近い。柄谷行人に「畏怖する人間」というのがあってよく読んだ。他者とは「生命」なのかもしれないと思う。だから、僕は狭い意味での人の好き嫌いはないと思う。どっかで、ぼやけているのか何だか知らないが、好き嫌いという感覚が育ってないのかもしれない。でも信用できるかという点で見ているのかもしれない。

今日はドラマ「夜王」を見た。少しずつ面白くなっている。松岡君は主役なんだけど、あんまり表に出ずに脇を立たせればいいのかなと思う。心とかは胡散臭い台詞だけど、どっか、こういう普通のドラマにも、生きている人が作っているのだなあと思う。
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Feb 01, 2006

憂鬱な雨

大阪は雨が降っている。急いで洗濯物を取り込んだ。

詩の世界で、うまくやっていけるんだろうかと悩んでいる。僕は、立ち回りがうまくない。いい意味でもうそがつけない。要領が悪い。自分の気持ちが素直に伝えられない。で、しんどいこともあった。人の縁とは、難しいものだ。たぶん、出会いを重ねていけば大丈夫かな?

日記を読んでいただいた方から、いい便りが来た。うれしい。つながれればと思う。

月曜日は、デイケアで料理。上手ですねといわれた。料理は家でけっこう手伝っている。でも、まだ、思ったより、人疲れして、昨日は横になっていた。その上、ジムも閉まっていた。なんかツイテナイ。 日曜は天気がよかった。四天王寺の庭園に彼女といった。いい感じだった。気持ちいいねと言い合った。六角堂があって中に入りたかった。たこ焼きを食べて帰った。 土曜は、読書会だった。いろんな視点があって、好きな詩もばらばらで、是々非々で、勉強になった。飲み会に参加して何人かと話せた。固くなっていたのだが、話せてよかった。新しい詩集を出す人がいる。すばらしい。何だか疲れやすくなっている。少し疲れた。それでも読書会はよかった。

というわけで、なんだか疲れやすく、いろんなことに関係なく、憂鬱なのだが、遠くから便りを送ってくれる人がいて、うれしかった。ありがとうございます。

詩集をなんとか出せて、今の時点では精一杯で、今まで40通くらいお手紙をいただいてうれしかった。なかなかないことだ。中原中也賞、小熊秀雄賞に応募したので、ひっかかってくれればいいのだが。

なんかはげましてほしい日です。

批評と詩をアップしました。
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遠い手紙

孤独な日には時雨る
空気が重い
わたしは一日中寝た
黒人が
国道脇を歩いていく
何人も
わたしは絶望しない
楽天でもありえない

遠き友より手紙きたりて
わたしは
寂しい夢を追い返す
外は霧
昨日は疲れた
速いくらい
人が集まってくる

わたしは集まりの中に入れない
わたしの狂気は
わたしを人の外へ
おいやろうとする

わからない顔が何度も
浮かんで
それに逆らえずに
また
うつら
うつら

うつの中に
空っぽの中に
わたしがつまっていて
遠い手紙はわたしを
勇気づける
とてもいいことだ
最高だ

古いうたが聞こえて
夕方になる
空は白

わたしは
少しいきかえる

そう
いろんなことがあったね
これからもあるね
悪いことばかりじゃないよね

黒い部屋に
昼から
電灯がぽつり
たばこ四本
缶コーヒー
時間がとまる

テレビの上の花は
正月から
枯れてない
障害者手帳

不意に句読点がくる
今日は
空が見えない
遠い手紙よ
それも空だ
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静かな海

よろよろと海岸線を歩いていると
月が見えた
タバコの煙が風に乗って流れた
ああ俺は
照らす光におびえながら立っている
それから海に向かって眼をやった
錆びた商店街が背中にあった
波は無限に近く色を変えながら
どぶ川の色で
俺とは無関係に東のほうへ流れていく
漁船が見えた
うすもやに鬼火のようにちらちらと
眼の中を光が曳いてゆく

さっき夕方まで、子どもと海辺の公園で
砂遊びをしていた
トンネルを作って子どもの手を
静かに握った
「おっちゃん、トンネルつながってるなあ」と子どもはいった
最近の時勢このままでは誘拐犯とまちがわれるなあと思いながら
それでも、遊んでくれるんで、遊んだ

そして部屋に帰って薬を飲んでテレビをつけっぱなしにしながら
眠った
いつもの海に近くない俺の部屋だった
夢だった
鷺が「死にたくないよう」と鳴いた
俺みたいな顔をしていた。
寝言で起きた
死にたくないようといったようだった
それから、夢に向かっている友達の夢を見た
そいつは、ぼくをはげましながら、みづからも世間を恐れている
いいやつかもしれないと思って
手を握ろうとしたけど、そいつは透明だった
生活が散文の羅列になり、文字が何千行浮かび上がっては消えた
もう詩が書けないと思うと、父が出てきて、母と空を飛んで
「和広ラーメンを食べなさい」といった
それから、二人は黒い鳥になって、闇の中に消えた

最後にいつもの部屋で俺は、コタツに入って
うつらうつら考え込んでいると、まぶしい光が差し込み
いやに明るいのに惑いふらふらと立ち上がると
そこは繁華街の裏の路地でコケが生えて
二人がセックスしていた
俺はつまずいてつまずいて
どこへもいけないとおもうと起きた

静かな海に入って眠ろうと思う
そうすれば仕事どうするかの答えは出るだろう
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石垣りんについて少し所感(ハルキ文庫より)

 石垣りんの詩集を読んだ。全体的に、一生懸命言葉を投げかけている印象があった。多少雑だとしても、言葉が生きるというのはこういうことかと思った。僕のおじいちゃんくらいの世代の人で、その中で、何かを代表して書き続けたように思える。戦後を批判的に、見届けた人だと思った。経済が優先される中、彼女は銀行で働きながら、暮らしをどこまでも手放さず、社会と個人、いいや世界と個人のかかわりを見つめた人であると思った。これは、稀有なことではないか?詩人として。

*「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」
 数字へのこだわりというものがある。この詩集で、個人も含めた歴史の証言の鍵になるものである。
原爆を扱った詩に「25万のやけただれのひとつ」と言う言葉がでてくる。死者を数字に還元するのは、抵抗があるだろう。しかし、彼女はしている。そこに「顔」があらわれてくる、不思議な詩である。顔とは、その人に固有のものだが、それが数字と同居している逆説がある。数字でしか語られない悲しみというものがここには、あって、彼女は醒めている。その一方で、「眠り」が深く描かれている。この辺りに詩的な生命力の強さが、ある。眠りをも深く見つめている、覚醒した眼がそこにある。「その夜」が病者の群れの中で覚醒した眼になってあらわれる。それは「顔」という詩に現れる、「その交替をあざやかにみている眼」である。この眼は、だれのものかわからない。しかし、彼女が名を上げる弱いものの眼ではないだろうか?そこからこれも珍しいが「国家」というのが、単純に左翼的ではなく、一切を奪われた「顔」「結核患者と黄変米」の側から告発されている。その元には「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」にある、女の前にある「火」が置かれている。「火」は人間が囲むものの原型だろう。
 家族に対する愛憎を含んだ眼は「きんかくし」「夫婦」に描かれているが、どこか美しいものにも、醜いものにも流れていかない、鋭い眼があって、それが平易に書かれている。
 平易さは、彼女の美点だろう。初期には、平易さが逆に奥深い空間を作り出している。
その中で、どんなものにもごまかされず醒めているという過酷な位置に彼女は置かれた。

*「表札など」以降
 初期のするどい告発は薄れている。文体としても、あまり複雑さをうかばせなくなった。
戦後の復興という奇妙な安定が彼女に作用したのか。それでも、どこか「ごまかされない」というスタンスは保ち続けているように思う。
 彼女は「仲間」という詩で、「行きたい所のある人、/行くあてのある人、/行かなければならない所のある人。/それはしあわせです。」と書いている。彼女には深い孤独があった。それを生きた結果のようなものがあらわれていたましい。あるいは自足か。「藁」では、「子守唄のようなものがゆらめき出すと/私の心はさめる。/なぜかそわそわ落ち着かなくなる。」と書く。どこかで、眠ってはいられない。ずっと醒めていけなければならないという感覚かもしれない。それは「表札」という詩に現れている。自分の居場所を守る感覚であり、居場所は、ずっと具体的な「忘れない」という記憶であり、それは、日本が負けたということと母を失いつづけたことではないだろうか?それが、あてもなくひっぱられている。どこか安住の地がないという感覚。それがばねになって強い。だからこそ、生活の匂いを記録しようとしたのではないか。「洗剤のある風景」から、そんな感覚を受け取り、せつない。どこか生きる現場が失われたという感覚が彼女にはある気がする。後期には、ひたすら喪失が嘆かれている感があって、それが単調さ、文体のネリの足りなさにつながっている。初期モチーフはあの時だけ書けたということか。あるいは、モチーフを持ち続ける事がたいへんなのか。それでも、好きな詩はいくつかある。
 初期はきわめて骨太である。こういう詩人がいたと言うのは、今の我々には大事な事ではないかと思う。ぎりぎりのところで生活を守っている感覚。今は失われつつある戦後の感覚かもしれないし、それを言葉にしている。単なる貧困がテーマではない。
感想はこれにとどまらない。もっと多角的に読めると思う。とりあえず覚書として。読書会で、いろんな人の意見を聞いたら修正されるところもあるだろう。ただ、生活が失われていくという危機感は「家族の桎梏」への複雑な感覚を超えて、現代の危機を予見していた。そこに普遍性があると思う。「人間」の叫びなのだ。そこから色んなものに語りかけている。どこかで「死」に呼びかけられ、立ち止まり、仲間を求めている。「弔詞」で、「あなたはいま、/どのような眠りを、/眠っているだろうか。/そして私はどのように、さめているというのか?」それは「夜毎」の「もどかしい場所」につながっている。
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Jan 27, 2006

石垣りんとさそうあきら

今日は一人で家の掃除をした。風呂掃除もした。それから、明日読書会なので「ハルキ文庫」の「石垣りん」を読んだ。

石垣りん。若干の印象を書きたい。
高度成長を静かに、批判的に、見届けた人だと思った。戦後、経済が優先される中、彼女は銀行で働きながら、社会と個人、いいや世界と個人のかかわりを見つめた人であると思った。これは、稀有なことではないか?詩人として。
原爆を扱った詩に「25万のやけただれのひとつ」と言う言葉がでてくる。死者を数字に還元するのは、抵抗があるだろう。しかし、彼女はしている。そこに「顔」があらわれてくる、不思議な詩である。顔とは、その人に固有のものだが、それが数字と同居している逆説がある。数字でしか語られない悲しみというものがここには、あって、彼女は醒めている。
その一方で、「眠り」が深く描かれている。この辺りに詩的な生命力の強さが、ある。眠りをも深く見つめている、覚醒した眼がそこにある。
彼女は「仲間」という詩で、「行きたい所のある人、/行くあてのある人、/行かなければならない所のある人。/それはしあわせです。」と書いている。彼女には深い孤独があった。それを生きた。「藁」では、「子守唄のようなものがゆらめき出すと/私の心はさめる。/なぜかそわそわ落ち着かなくなる。」と書く。どこかで、眠ってはいられない。ずっと醒めていけなければならないという感覚かもしれない。それは「表札」という詩に現れている。自分の居場所を守る感覚であり、居場所は、ずっと具体的な「忘れない」という記憶であり、それは、日本が負けたというところではないだろうか?そこで、「人間の暮らし」というものが、薄れてしまったと言う感覚ではないか。「洗剤のある風景」から、そんな感覚を受け取り、せつない。どこか生きる現場が失われたという感覚が彼女にはあるきがする。その中で、どんなものにもごまかされず醒めているという過酷な位置に彼女は置かれた。ユーモラスな詩もあるが、きわめて骨太である。こういう詩人がいたと言うのは、今の我々には大事な事ではないかと思う。感想はこれにとどまらない。もっと多角的に読めると思う。とりあえず覚書として。読書会で、いろんな人の意見を聞いたら修正されるところもあるだろう。ただ、生活が失われていくという危機感は「家族の桎梏」への複雑な感覚を超えて、現代の危機を予見していた。そこに普遍性があると思う。「人間」の叫びなのだ。

さそうあきらの漫画「コドモのコドモ」を読んだ。小学生が妊娠する話だが、こういう話を重くも軽くもなく書けるのが、さそうあきらのすごいとこではないかなあと思ったりする。
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Jan 26, 2006

送受信

うーん、頼まれていた批評を無事書き上げ、相手に送った。届くか、ちょっとデータが重かったので不安だったが、届いてよかった。
書き上げて、送ったら、誤字があったので、あわてて、直したのを送った。少しあわてんぼうである。その結果、届いたか心配になる。そういう病気はまだ残っている。

昨日はデイケアで全体ミーティングがあったので、二日続けていった。さすがに、まだ慣れていないし、どう振舞っていいかわからないので、帰ってからは、疲れが出てきた。それで、彼女と話して、早めに寝て、今日はカウンセリング行ってきました。
カウンセリングでは、先生に年賀状を送ったのだけど、お返事来なかったので、それをいった。ちょっと図々しいと思ったが、万事送ったものが、どう受け止められ、返事が返ってくるか不安なのだということを話した。僕にメールを送った人を困らせてるかもしれない。病気の前は、心配じゃなかった。それだけ余裕こいてた自分があったのだろう。
コミュニケーションは難しい。なにしろ、相手は、何とも思ってなくても、思っていても、なかなか眼に見えない。そこの見えなさが心配の元だろう。よく考えれば、僕が受けての側だったら、やっぱり、何の気なしに返した事でも、相手をきずつけたり、不安にさせたりは、あるわけだ。でも、自分は、いつも、思いを届ける側についつい立ってしまって、自分の「渡したい」「受け取りたい」にこだわって、相手の事が見えなくなってしまう。返ってくると安心して、また心配しての繰り返し。僕はそれを「小さな自分」といった。
でも、先生は、それは健康的なことですよといってくれた。日々返事がどう返ってくるか、人はどこかで心配しているし、返ってくるのはうれしいものだと。デイケアでは、まだ、その場にいる自分を支えるので、精一杯だ。なにしろ、彼女以外の他人と10時~3時まで、い続けるのは久しぶりの事だ。だから、まだ、名前と顔が一致していない人が大半なので、「どう返事が返ってくるか」心配する段ではないのだ。
もっと、気にしないで送れればと思う。無意識にそうしているのだから。それと、あんまり計算せず、発言できればと思う。自分が試されるだろう。それと、メッセージを出せば必ず答えがほしいという経済的な交換の論理では、大きくなれない。もちろん一つ一つのやり取りを完遂することは必要だろう。しかし贈与の論理で行きたい。見返りを求めないでいたい。必ず他者によるチェックを受ける。恋愛とは、そういうシビアな場なので鍛えられる。彼女は、ちゃんと聞いてくれて、どうでもいい部分や、しんどいときは答えを返してこない、それが僕のような人にとっては、いい。

カウンセリングで、話した事はうまく再現できないが、それでも、だいぶ書いたり、彼女に伝えたりできるようになってきた。そして、返事が返ってこないでうじうじしている自分もだいぶ彼女の前で、普通に出せるようになった。恋愛はすごいなあ。恋愛だけじゃないし、これからは、他人の前で、どう表現できるかだと思う。

昨日はミーティングで自立支援法の説明があった。自己負担は、5%だったのだが、これまでは大阪府は、国保で、32条でタダになっていた。それが10%負担になる。もちろん上限はあって、ぼくは、月5000円くらいになるのではないか。それ以上はカバーしてくれるが、今までの0から、5000円の負担になると思う。窓口でいくら払ったか覚えておかないといけない。これも、これまでふくらんできた福祉サービスの財政負担を、各障害者を一元化して、自己負担してもらわないと財政がもたないそうだが、ゼロから有料になると感覚が変わってしまう。正直、諦めと、憤りと、半々である。他の府県の方はどうなんだろうか?お年寄りのサービスの自己負担はきついのではないか?正直、成立するまでは報道があって、でも、選挙で争点にならなかった。郵政ばっかりで、福祉の自己負担はかくれてしまった

デイケアは10人くらい。で、診察を受けているクリニックとは別である。とりあえず週二日で、参加しやすいプログラムの日に参加ということになった。デイケアでは自主製品でクッキーも作っている。年代は20~30代が大半。プログラムは、スポーツのほかは、書道や料理があって、月一回お出かけがある。けっこう標準的ではなかろうか。僕は福祉職員をやっていた時期があるので、職員さんにはビビッてしまうところがある。どこかでまだ、利用者目線と職員目線の整理がつかない。そのままにしておこう。これでも職員目線はだいぶマシになった。いかに、場に居場所を作って、人のいる空間に慣れられるかというよりペースを作られるかだと思う。職員の人もそういっていた。スポーツは筋肉痛になったりミスを気にしたが勝ったときハイタッチしたのがうれしかった。体での交流は、大事である。「街場のアメリカ論」を読んでいる。
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Jan 24, 2006

緊張した

デイケアにちょっと遅刻した。どこか、半ば、避けようとしていたのか。それにしては弁当を買っていった。電話では、あまり確認をしなかったのだ。自分で、デイケアに本当に行きたいか、障害を作って、自分の気持ちを試していたんだろう。

行ってどうだったか?何しろ緊張した。しかし、デイケアの職員もいっていたが、緊張してナンボなのだ。そこをどう潜り抜けるかだ。遅刻したにしては、まずまずなんじゃないだろうか?なんか、ソフトバレーボールやったし、レシーブがうまくいかなかったけど、チームは勝ってハイタッチしたし。

今日は、それ以外は批評を書いたり直したりしていた。今日はライブドアの人が逮捕されていた。それで、怒っている人もいる。働くものを馬鹿にするなと言いたげに。でも、この国に咲いたアダ花である。そういう視点は保っておきたい。

「博士の愛した数式」は、原作にはないダークサイドの出し方に問題を感じた。素直に感動したいのだが、なれなかった。子どもは大事という博士の愛を裏付けるのに、堕胎のエピソードは、なんか持ってき方が違うと思う。もってきてもいいのだが、背景がきちんとしていないと全てがぼやける。80分しか記憶がもたないって、もっと深刻な気がする。「西遊記」はやはりいい。

「博士の愛した数式」について追記;「博士の愛した数式」見る人によって、ちがうかもしれません。 全部は悪い映画じゃないので、ひっかかってきたところを書きました。見るのもいいかと思われます。 もしかしたら原作にはない発見があるかもしれません。僕は原作読んでいません。
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Jan 22, 2006

なんばパークス、税金

20日は、自立支援法への更新手続きに高槻にいってくる。どうも、10%分の自己負担は、国保がもってくれるかもしれないということだ。

32条でのデイケアの手続きは、いらないとのこと。本当に大丈夫なのか心配になる。自己負担しないで済むだろうか。ジャズ喫茶に行って、お茶をのんでくる。いつも思うが、JKカフェはいいところだ。いった方はいるだろうか?次にギャラリーマーヤに行き、堀尾さんの個展を見に行く。そこで、父と会う。弟がギャラリーでグループ展のプロデュースをするらしい。
現代詩フォーラムの読書会は皆物知りだった。でも、最近ぼくはなんか勉強意欲がない。

21日は、なんばパークスに行ってきた。彼女が「通販生活」を読んでいて、バスマットが欲しいらしく、カタログハウスの店に行く。なんか、上品でかわいい人が多いといったら、彼女に、そんなんばっか見てといわれてしまった。そこで、「つげ義春の温泉」を買う。温泉のカットや、つげの温泉漫画、エッセイが入っている。カタログハウスから出ている。意外だがめっけものだ。
晩はNHKの「日本のこれから」を見る。増税の議論だった。谷垣財務大臣が出ていた。みんないろんなことを言うが、司会がまとめ切れていない感じがした。大臣の答えのうまさが際立っていた。人気がでるのではないだろうか?それと、単純に流したり、切り捨てたりする小泉さんとは違う印象がした。ある意味、ある程度は、手厚い福祉も、必要だとしているようだった。それから、いろんな立場やコストがあって、要はどこまで、「政府」が、面倒を見れるか。そのためには、どれくらい税が必要で、どうとるかという問題の気がした。それが、どうしても、赤字財政再建とかぶってしまい、ある種の人には、これ以上、負担をさせられてたまるかとおもっているようだった。どうも、国の失敗のツケを全部払わされている感じがするのが、重税感の正体で、それと、どの税が何のために支払っているのかわからんまま、払うのはいやだと言うものだった。谷垣は、ある程度情報開示をしているとか、立場によってそれぞれだが、国はこれくらいのことを必要とし、それをちゃんとどこかにまわすとは、小泉さんと違い、言おうとしているようだった。最低限の応答責任は果たそうとしているようだった。ちゃんと答えれば、たぶん、所得の低い僕らは、各論が必要でも、相応の税負担に国民は答えるかもしれないと思った。そういう意味で、小泉さんは、あんまり優秀なスポークスマンではないような気がする。しかし、その冷たさが心地いい人が確実にいたはずだし、現にそれが、停滞の放置と更なる中途半端な改革につながっていると思う。郵政も大事だが、本来の争点は、社会を運営するコスト負担をどれだけ政府がやって、また、富を公正に再配分する事だっただろう。小泉さんには「配分」という観点が抜けている。そこも、たくさんとりたいと思っている人には「心地よかった」のではないか?郵政と言う「民営化」議論に絞ったのが、小泉さんの「やってます」という戦略だったろうし、確かに「改革」は必要だからという急いだ視点が結果、小泉政権の先延ばしを生んだんだろう。ここ何年かで、失われた、また失われつつある社会資源と階層化は残ってしまった形で、それは見えにくいから、「政権」の責任は追及されないだろう。彼は政府の、面倒を見る範囲を小さくしたから誰も文句を言っても暖簾に腕押しの構造を作った。

これから映画「博士の愛した数式」を見に行く。
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Jan 20, 2006

自立支援法

診察に行ってきた。
通院費公費負担32条から、自立支援法というのに、四月から変わるらしく、その届けを市役所に出さなければならなくなった。制度が変わるのだが、それは知っていた。しかし、自己負担が5%から10%に変わるので、大変だ。僕のように年金から、(これも自分が払った年金がある意味戻ってきてるのだが、それでも、国のお金であることは間違いない)彼女と生活費を折半して、やっている者にとっては、少し厄介な事になった。日本の社会保障費は結構手薄なのだが、まあ、今までの誰も彼もが、公費負担できていたという状況は終わりになるのだが、というか政府がしたのだが、その是非はまあ置くとしよう。自分でも精神科だけ、なぜ医療費が、安くなるのかは謎だったが、それには歴史的な背景がある。要は、国が、精神の病気にかかった人は、医療のケアといえば、聞こえがいいが、まあ、病院にかかってくださいよと。理由はたぶん、精神の患者が、危険視されていたからだ。そのため、お金は国が払いますよという温情と治安的観点が、あったわけだ。だから、病院をやめずに通いましょうねと。
たしかに、今回の法律は「自立」だ。皆さん自分で払っていきましょうねと。もちろん一定の制限はある。所得の低いものには、自己負担の上限が定められている。いいところは、治安的観点を捨てつつある。だから、「自立」なのだ。でも、同時に温情も切り捨てられていきかねない。というか、正直、お金をとれるところから、とるというのがあるだろう。医療費がかさむから、という理由もあるだろう。もっと困っている人も、普通に医療費払ってますよと。そうですね。でも、全体的には、やはり、手をつけにくいとこから、つけたのは、えらいが、困っている人から取るというトーンは否めない。ここで、小泉さんの顔が浮かんでしまうのは僕だけだろうか?やはり、一連の改革の成果だろう。じゃあ、今の財政赤字はどうすんの?という問いもある。僕の答えは簡単で、日本はそうはいっても、全体から見たら、どんな国よりも、お金を持っていると思うというのに、尽きる。停滞を、不況と言い換えてるだけじゃないのか?だから、「耐震偽造の人」とか、ライブドアのドラえもんの人みたいな「利益優先」で、人を出し抜くような、そして、そこをいじる事に命を賭ける人が出てくるのではないかと思う。盲目的な成長という神話は、まだ生きていて、何のために成長するか、じゃなくて、成長するために、成長する、そのためなら、なんだってやるという別の病気の人をまだ、日本は作っているし、皆その水になじんでいっているような気がする。結果、なじめない人が増えて、本当に病気の人が、できあがるというわけだ。
僕は、これからデイケアに通う申請をしなければならない。その手続きは、少しばかり面倒なものとなった。法律が変わる移行期だからだ。

また、社会評論になってしまったが、元来こういうのは好きなのかもしれない。どこか硬派気取りである。いかん。いかん。

僕は、前の仕事は、見切り発車だったと自分では思うから、やめたのも、見通しがつかないまましんどくなってやめてしまった。だから、今度は慎重に行きたいというのが出てきた。というか、以前ほど無理が利かなくなったのは自分でもわかる。どこか、体が、焦るとしんどくなるようになったのだ。だから、今の社会向きではない。
それで、よく考えたら、ある人に、メールを送りながら、今までの事を振り返れた。年金を取った。その頃は精神的にしんどかったけど、やった。詩集も出した。いろんな人のお世話になった。買ってくれる人、読んでくれる人がいた。それから、ジムも、有酸素運動がいいと本で調べたのと、彼女がチラシを見なかったら思いつかなかった。はじめは、一日うちで悶々とすごすよりはいいと思ってはじめた。そして、デイ。それから、仕事という風に思っている。なんか今日はこの辺で終わり。明日と言っても今日か手続きに行こうと思う。
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Jan 18, 2006

体は正直

頭がなぜか、夜になって、もやもやしだした。
それまでは調子よかったのだが、いろんなことが、気になってとまらない。明日にはおさまってくれるとよいが。
こんなときは、どうすればいいのだろうか?知り合いの女の子にメールだしたら、ぼちぼちやっているようだ。忙しいらしいけど。今日は、デイケアに話しに行った。「石川さん、こないのかと思ってました」と言っていた。なかなか返事するのに時間がかかるのだ。行って、不安な事とかを話した。快く受け入れてくださった。いい感じである。前のデイケアに通えなくなった事が気がかりだったので、それを話す。つまり、そのときは状態が悪かったのに、週五日も通っていたのだ。病気が軽いとも、そこの先生に言われた。僕も生意気だし、過敏だったので、たくさん言い返した。だんだん不信はつのっていった。あきらかに、悪循環だった。怖い人がいて、からまれたりした。それでも、僕は、そのデイケアの雑多な感じが好きだった。病気の友達とかも出来た。しかし、人数が多かった。刺激的すぎた。へとへとになった。そうして、今の先生を見つけて今に至っていることを話した。
今度のデイケアには攻撃的なタイプの人はいないといってくれた。それから、少しの摩擦は、当然人間だから、あるかもしれないけど、それをどう自分の気持ちを、伝えるか、ある意味、練習になるといってくれた。それから、今の安定した、そして、一歩踏み出そうとする石川さんの気持ちを受け止めます。いい感じで参加していけたらいいですね、納得のいかないことがあれば、何でも言ってくださいといってくれた。

悪いことは何もなく、明日の診察で、主治医に伝えることで話は終わった。その後プールに行った。そして、ご飯を食べているときから、ある人からメールが来ていないことを気に病みだした。たぶん、デイケアといういい変化でも、どっか気を張っているので、疲れたのだろう。デイの人も、一日参加して、どれくらい疲れが残るかで参加日数を決めますといっていたのは、こういうことなんだろう。対人関係に、すごく変化を受けやすくなっている。体は正直だから、それが出る。それでも、今日一本、詩を投稿することができた。どっかで、もやもやがないと詩は書けないのかもしれない。ブログを書き出してから、投稿回数が減った。詩にいろんなことを詰め込んでいたのだと思った。デイは近いので、それがいい。
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せこい子供たちと本当に悪い子と

震災の日だった。ニュースばかり見てしまう。いかんなあ。でかい事件ばっかりだったなあというのが、今日の印象。
ただし、その中にあるのは、ある種の「せこさ」だな。皆悪い事ばれた子どもみたいになっている。ライブドアの人は、いい友達がいないのかなあと思った。でも、今の社会は、勝つのはすばらしいという論理で動いているので、あそこまで、露骨なことしてなくても、ああいう人はたくさんいるのかもと思った。だから、ばれて損というのはあるかな。というか、僕は株を買う金がないので、あまり、事情が飲み込めないのだが。。耐震偽造の人も、(「耐震偽造」が一発変換で出たが)単に、ばれてしまった人たちではないのだろうか?国は、全国の建物についても、調査をしないのかなあ。でも、金を出し渋るだろうと思う。それ以前にたくさん議員さんが関わっていそうだから、そんなことしたら、国会は滅亡してしまうのかもしれない。別に、そうなったほうが、すっきりするかもしれないが、色々と不便は覚悟しなければいけないだろう。
宮崎勤は、とうとう死刑になった。殺すのはどうかなあ。こういうこというと、袋叩きに合いそうでこわいのである。内なる狂気がゆさぶられる感じになって、怖いのだ。感じすぎかもしれない。自分に宮崎のような嗜好はない。殺すという事は、ひどいことである。でも、そこで、割り切った結論が出ると、何だかいたたまれないのである。同情はしていない。子供たちがかわいそうだ。色んな気持ちになってしまう。加害と被害の気持ちの波が、ググッと、伝わってきて、混乱する。排除とか暴力におびえてしまう。宮崎も、世間も恐ろしい。死刑は怖いものだ。人知を超えた事が、ある権力の決定で進んでいく。多くが無言でうなずく。宮崎が悪いとしても、それが怖いのだ。もっと、単純に、事件とその推移、波及全体が恐ろしい。真似する人も出てくる。僕は何も言わないでいたほうがいいのかもしれない。でも、何か刺激されてしまうのである。もっとタフになれたらという気持ちとこのままでいいという気持ちがせめぎあう。一人の人が死んでいくのである。今のところ、更生か、死刑かしか選択しはないんだろうし、そういう道しかないのも、なんだかなあと思う。人が死んでいくというのには、一種の違和感を生理的に感じる。ただ、宮崎の行動と勘を、よく研究しないと、あの手の犯罪は減らないだろう。遺族の気持ちを考えればという意見もある。そうだと思う。自分も身内を殺されたら、どんな気持ちになるかわからん。けど、死刑の時点で、全てを終わらせてはいけないと思う。というか、日本の人権思想は、腰が強くない、世間が一番えらいのだから、その線にそって進めばコストも、時間もかからないで、選べる手段は、これしかないという形で進んでいるような気がする。
その中で相撲はいい感じだ。直木賞とった東野圭吾はなんか「かってよかった」と言って、かっこよかった。芥川賞の人は、「会社いってる人が、明日も会社いきたいなあという小説を書きたい」といっていたのだった。ある意味立派だが、文学はそれでいいのかなあと思った。ここにも腰が軽い人がいるなと思った。そんなイイ子してていいのかな。僕は間違っても、芥川賞とは縁がなさそうだから、そういっておこう。うひ。

とニュースばかり、述べてきたが、友達の女の子が大変そうで、メールを出した。返事は帰ってきて、安心した。昼は、正月ぶりに、父親とご飯を食べた。それで、デイケアの話をしたのだが、明日、デイケアに行って、昔行ってたデイケアが辛かった話をしておこうと思う。今考えれば、自分もいたらないところがあった。それは、自分が被害者だと思い込みやすいところから、くるだろう。僕もどこかで、せこい子どもになってしまうときがある。病気のせいにばかりできない。

それから、ある人の詩評を書くので、その人の作品を、たくさん読んだ。まとめて読むと色んな発見がある。ネットで知り合った人なのだが、どう書いていこうか考える。
それと、トニオ・クレーゲルを読み終える。いろんな意味で、時代の風雪に耐えた作品は、不思議な、奇妙な面白さがある。トニオはある意味イカシタ奴だと思った。
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Jan 16, 2006

西遊記、顔

前の彼女から、年賀の羊羹が届いた。それで、前の彼女は結婚したので、結婚式の写真が載っていた。前みたいに動揺しなくて、普通に見れる。

ドラマ「西遊記」を見ているのだが、ぼくは深津絵里のファンだからだ。昔の夏目雅子、堺正章、岸辺シロー、西田敏行がやってた「西遊記」みたいに、空が大きくて、みんな個性が強くて、夏目雅子はありがたく美しくというのとは、だいぶちがう。今のは、正直セットも含めておもちゃみたい。昔みたいにリアルではない。そして、全員がお人よしで、だまされやすく、鈍くさい。でも、そこがいい味出していて、21世紀日本の「西遊記」だ。ふかっちゃんも、ぼけていてかわいい。全員ぼけていて、そこが安心できる。昔のシリーズの印象からして、全然物足りないという人もいるかもしれないけど、あえてチープに作って、派手な映像や、セット、衣装にしていないんだと思う。そういう作り手の、どこか強い思想を、感じさせる。リアルにやっても、とうてい個性派ぞろいの、前のシリーズに勝ち目はない。というか、あえて、弱くすることで、前のシリーズにはない「弱い前向きさ」があるのだと思う。

ぼくは、今、病気というカテゴリーにくくられる事で、ある種の責任から免除されている。年金ももらっている。しかし、そこにも、苦しさはあって、責任、つまり、他者と向かい合い自分の行動に責任を取る、その責任感からくる顔の彫の深さを、手に入れられない。ぼくの顔は仕事をしてたときより、ふやけている。彼女も、外に出て帰ってくると、他の人との違いがわかるといっていた。さっきも、顔の話をしたけど、かっこよくないのである。そして、かっこよくないことは、やはり、生きる上で、とても辛い。顔の美しさを言っているのではない。人と人とのあいだに生きていることで、出てくる張りや緊張感のことだ。そういうのが今はない。病気はよくなってきたので、元気のない顔というわけではない。やはり、少しずつ人前にさらされていくことにしよう。それは、けして楽な道ではないけど。
今日は本を買った。書名だけ挙げておく。内田樹「街場のアメリカ論」、梅原猛「親鸞の告白」、上田紀行「生きる意味」、小浜逸男「人はなぜ働かなくてはならないのか」
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Jan 15, 2006

仏、自殺

昼は寝ていた。散歩に行ってきた。四天王寺界隈。行く前はグズッていたけど、彼女に誘われて行ったらすっきりした。
ほとんどの建物は4時頃閉まる。彼女は庭園を見に行きたがってたけど、閉まってた。空は、昼の天気から曇り始めて、少し寒かったけど、それが心地よかった。じっとしてると、モヤモヤしてくるので、散歩はいい。
仏教関係の本が並ぶ四天王寺書林というのがあって、なかなかいい。途中たこ焼きを食べる。爪楊枝にて。おいしい。
ダライラマ梅原猛の本を見る。
いい気分転換になった。

昨日の晩はジェネジャンという、命をめぐる討論番組があった。自殺がテーマで、自殺をネットで呼びかける人が出てて、その人が、樹海にタクシーで行って運転手に警察呼ばれたり、一緒に、死のうとしている人が死ぬ間際泣き出して、生きてりゃいい事あるんだとか、慰める羽目になったりして、面白かった。他の人に、カウンセラーに向いている、といわれても、死にたいからと断固固持していたのが、よかった。腰が軽くない。「死んだら親は泣くとかいうけど、親や泣く人のために、いきているわけじゃない」と彼は言っていて、優れていると思った。なかなか言えないし、そこからなぜ生きるのかという問いが始まると思う。

最後はしらけた。末期がんのライターのルポが流れていた。闘病記も出していて、本屋で見たことがある。そこで、がんの人は小説を出して亡くなるのだが、皆が泣いて、今まで「死ぬ」といっていた人が、○○さんのために生きる」とか言うのだ。
僕は、なんでこんなに急に変われるのだろうと思った。「忘れるな」とか怒っている人もいた。でも、死にたいといいながら生きているのだから、そういう立場から、急に厳粛ムードになるのではなく、喋ってほしかった。でも、正直、人の生き死には、討論になじむのかな。ちょっと空々しくなる。
Tさんからメールいただいた。ホームページにお邪魔したからだ。うれしかったなあ。
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Jan 14, 2006

NIKKI

日本橋に行く。友達と。インストアライブ。琴弾いて歌う人がでてきはる。30分ほど。日本橋は久しぶりだ。雨が降っていた。
くるりのNIKKIを買う。それからミスドに入る。何年か前もミスドで会ったなと話す。
くるりのNIKKIは、僕が日記の書き方を考えているとき、少し、なんか吹っ切れた。詩が軽い、軽さがいい。きちんと音楽している。
うねるような感じがなくなって、それが退院した人みたいな顔をしてる。写真バチバチってなると白い顔が浮かぶ。彫が深くなり、何かが薄まっている。
今日彼女が悩みを言ってくれて、よかった。いってくれなくなったら、終わりだ。僕は自分にこだわりすぎて、相手の変化が、関係が見えなくなっていた。誰かに出したメールで、怒られないかという心配は吹っ飛んだ。他者がいるのは大事だと思う。
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Jan 12, 2006

自分と他人

今日はカウンセリングに行ってきた。東大阪の小さなクリニックで、週一回開いている。今年初めてだった。
カウンセリングの話をする前に、今日テレビで、千葉ロッテのボビー・バレンタイン監督を見た。とんねるずのやっている「食わず嫌い王」だった。とんねるずは嫌いだが、バレンタインは素敵なので見た。
うにのお寿司や、すき焼きなどが出たが、嫌いなのはお好み焼きだった。僕は好きなので、少しさみしかった。彼は、日本語は片言なのだが、合いの手を入れたりする間合いが、言葉はわからないはずなのに、いい感じだった。波をつかむのがとても自然なのだ。
それに、お好み焼きが嫌いそうには見えない見事な食べっぷりで、相手をだましていた。名プレイヤーだと思った。

カウンセリングは、もう三年以上になるのだが、どうしても時々こんなことしてて、いいのかなと思う時がありながら、やってきた。
時々さめてしまうのだ。カウンセリングは河合隼雄によれば、「深くて親しくない関係」なのだそうだが、そうじゃなくて、もっと違う場所で、親しい関係を作り、そこで相談すれば、というか関西風にいうと、ツッコミを入れてくれれば、いいんじゃないかと思ってしまうのだ。でも、先生はそういう話も聞いてくれる。その辺りの間口の広さがまだ通わせているのかもしれない。
そこで問い返される。僕は先生の感想だと、他人の反応を気にしながらコミュニケーションをとる人なのではないかと。僕は、他人の反応を気にするのは、当たり前だと答えたけど、僕の他人の反応に頼ったコミュニケーションのとり方を見抜かれたような気がした。
自分の意思は、実は頑としてある。ストーリーもある。そこに自分の中で、たくさんツッコミを入れながら、生きている。そこで、自分の思いが、まるまる受け入れられたいために、相手の反応を気にしているのだ。そこで、どう受け入れられるかという方法ではなく、気持ちが先走ってしまう自分がいる。
どうも、そんなところがあるみたいなのだ。先生にも言ったけど、これは、弱点にもいい点にもなる。一歩間違うと我がままに見えるし、逆に他人本位に見える。しかし、その対立の底に、自分の意思があって、深いところで、好き嫌いとか、この人と合うか合わないかを見抜いている。それは、直感みたいなものだろう。直感は他人と自分の接点だ。ここをよくみとかないと、極端に相手に頼った表現になったり、頑なに見られたりしてしまう。今年は、そういう頑なさが、どう社会の中で発揮されて、失敗もし、そこから何を学ぶかになると思う。

思えば、怒りの二年間、不安の一年間を超えて、やっとゼロ地点に立てた。そこはまっさらではない。これまでの経験の総和だ。しかし、そこからでも学べる。正直、病気になる前も、なってからも、社会でやっていく自信はないし、今の社会が自分にとって、ベストの形で立ち現れている、なんて、思った事ない。介護の現場で、障害者の人と少しは仲良くなれた気がするけれど、まだ、それは確信ではない。自信がないくらいがちょうど良いかと思うが。自分は、どっちかといえば、排除された側だという意識が、どこかで、僕の中にある。社会は肝心なとき、助けてくれないという感覚も、まだある。しかし、その前に、頑としてある社会で、どう自分の身を成長させていくか、身銭を切れるかということなのだと思う。社会の辛さは、つい自分だけのものと思うし、その感覚はある程度正しい。でも、そこで、社会なんてと投げやりになってばかりではいけないと思う。音を上げそうな時に、どういうタイミングで、助けを求めるか、甘えられるかだと思う。ひがまずに。そういうとき縁がある人が必ずやってくると思う。

もう一度いうが、まっさらなスタートではない。自分の頑なさみたいのは、どこかで間の悪さみたいな形で、出ると思う。あまりに頼ろうとしてかなえられず、すねたり、その逆に、自分でがんばりすぎて途方にくれてしまうこともあるかもしれない。その危ういライン上を、直感で、渡っていくしかない。もう他人はたくさん羨んできた。となりの芝生は青く見えるものだ。そういうのは、もういい。(といいながら、またやってしまうかもしれないけど)

ここまで、読んできてくれた方には、ありがとうをいいたい。なんだつまらん苦悩じゃないかともしかすると思う方もいるかもしれない。いささか書いていて自信ない。当たり前のことをつらねているだけかもしれない。

でもここまで来るまでに大分かかったし、本当の勝負はこれからだ。自分の根元はかわらない。しかし自分は自分でしかない。それで、勝負していかねば。

今日、実は加藤典洋の「戦後後論」(「敗戦後論」ちくま文庫2005)を読んでいて、カウンセリングに行く途中に電車を乗り過ごしてしまった。太宰に触れた以下の文章が眼にとまった。



(引用)

つまり、彼は文学を信じるのでも自分の思想を信じるのでもない。彼は逆に他者の思想のほうを信じる。それをそのまま、真に受けて、生きるすると彼に、これでは自分は生きていけない、死ぬしかない、というその不可能の形が見えてくる。彼は自分がいかに醜い存在であるかを記し、死のうとする、すると、その記したことがきがかりになり、もう少し書かなくては、と思う。彼は書く。しかし足りない。彼は書く。これでは死んでも死にきれない。彼はこれを最後とさらに書くが、こうして愚直に最後までこの道をたどると、そのどこまでも、他者の思想を信じ、しかしそれでは生きていけない、と感じることが、彼の前に嘆きの壁を作り、今度は歩いていく彼をゴムマリのように、逆に生のほうに、ころころと転がすのである。
わたしの理解をいえば、太宰にとって、文学は、やはりどのような限定の中にあっても失われることのない、そういう無限を意味している。

僕はここまで、文学を徹底しているか自身疑問だけど、思春期からこういう葛藤、そして「ゴムマリ」は経験したように思う。 僕にとって「ゴムマリ」は異物であった。それくらい自分が生きることが壊れていたのかもしれない。そして、ここまで来た。ワンサイクルだ。
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Jan 10, 2006

ふう

やっぱりジム行って泳ぐとすっきりするなあ。
やばい。体重が増えていた。今年初。胃がもたれて、体重も増えたし、頭ももやもやするので、ジムはちょうどいい。例によっておじさん、おばさんばっかりだけど。

旭屋、喜久屋などまわる。本を買う。現代詩フォーラムで読書会があるので、トーマスマンの「トニオ・クレーゲル」を買ってきた。ぱらぱら読む。出だしから主人公がプライドが高くてうじうじしてるのがいい。だって、友達を「健康的」だから好きになって、自分のコンプレックスはさらけだせない。これがロマンの内面か。

他文庫になった加藤典洋「敗戦後論」、河合隼雄・鷲田清一の「臨床とことば」を買う。敗戦後論は、昔はまった。今読んだらどうなんだろう。河合・鷲田のほうは買おうと思って買わなかったやつ。
二日前僧侶で詩人の友達とあった。楽しいといって、よく食べていた。誕生日プレゼントをくれた。ぼくは、胃がもたれていて、あまり食べなかった。
今日、京都に居る介護やっている友達と会う。大学のときの友人で、こないだ飲みに行った人と一緒だ。現場トークとかついていけるかな。無理してついていかなくていいや。聞いて近況をつたえられればいい。介護やめたいきさつとか話せればいいけど。
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Jan 08, 2006

谷口ジロー

谷口ジローの「晴れゆく空」が、今年最初に読んだ。マンガです。 過労の中年男性が若者と交通事故を起こして、若者の体内に二人の魂が同居する話。
僕は魂ってあるのかどうかわからないし、むずかしいけど、在る無しじゃなく、魂も世界を感じる位置の比喩なんだと思う。
どういうことかというと、空を見たときに、スーッと感じる空気見たいのがあって、誰かも同じ空を、同じように感じていると思うときがあるからだ
でも、魂の体験が濁ってくるというのはあると思う。昔みたいに星を感じられなくなったとか、なんか脳の状態というか元気に関わってくると思う。病気になってから、そういうのが少なくなったので、処理できない情報がいっぱい加わるとそうなると思う。
この話に仕事の過労で、自殺を考え始めた人が出てくるのは、そういう意味で象徴的だと思う。その人が魂になって「やりたいことがまだある」と思う。愛を思う。なんか追い詰められた人が世界を感じ取れなくなって、死んで魂になって、愛を確かめに行くのだ。
非科学的でもファンタジーでもなく、すごく現実の香りがする。犬が感ずくというのは非常にわかるし、谷口ジローは犬のもってき方がうまい。というかたぶん犬好き。
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Jan 07, 2006

流れ

500まで来た。自分でキリ番を踏んでしまった!

ここ何日か風呂入っていない。何かいろんなことが面倒だ。昨日は、ミッドナイトプレスに投稿した。

今日はテレビつけっぱなし。以前はこういうとき、テレビすら見なかったので進歩だ。

朝は、11時まで寝てしまったりしている。なんとかペースを立て直さねば。というか正月ムードから脱却するというか、ムードにすら入れてなかったので。そういいながらだらだらしている。

三連休でジムにいけないから、体がなまっている。

そうだ。デイケアについて、考えたりしていたが、怠け者だから、いけるのかな、というか緊張が強い。でもいってみないとわからない。他にも調べてみたが、体験に行ったところが、一番よさそう

距離が近いのがイイ。僕は、しばらく人との交流が彼女だけなので、そこんところで、他人の中に入れるか、というか居られるかがポイントだ。

どんな施設でも場所でも、限界はある。それを見切るのは簡単だが、ゆっくりと入りながら、見てみるという作業が肝心だろう。前は無理しても通ってたので辛かった。自分の限界もわかっていたほうがいい。冷静なうちにすぐ相談できればいい。

というか、自分のよりよい形に持っていければ、デイケアは本来過渡的な施設なのだから、というか、僕の中では、そこが最終目標ではないので、落ち着ければ一番いい。人の中に居てペースが作れれば、それがいい。

診察はもう少し先だが、一回先生に相談するのもいいだろう。半年前には考えられなかった事だ。休み明けにでも先生に体験の報告にでもいってみようかな。そこから、デイケアに電話して(診察の病院とデイケアのある病院はちがうので)、話を決めていこう。全ては流れだ。流れ。
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Jan 06, 2006

生まれたことを

生まれたことを
ふだんから考えているかわからないで

生まれたことにささる月影がきれいで
わたしはここにいました

犬が吠えていて
寒くて
でも
少しずつ
結晶になる世界
お母さんの顔

もうあまり
迷わなくなってきて
少しずつ
通いあうこと
通いあえないこと
あって
字がふるえて

大丈夫かもしれない
わたしは
少しずつ
何だか生きているようで

今日は誕生日だから
少し素直になろう

まずい詩も書いた今日
はじめての人にあった今日
大雪がふったらしい今日

困っている人に
愛を送れれば
でも
そこまで
まだ
行けない
から
から
わたしは祈ろう

なんとなく
大切に
つながって
切れて
みんなに
祈ろう

素敵な人を
祈ろう
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誕生日

とうとう32歳になった。一応記念に詩を書きました。現代詩フォーラムに載せてます。
今日は、デイケアに体験通所した。緊張した。五人と少なかった。だから静かだった。怖そうな人はいなかった。けっこう、職員の人も、親切だった。昔は介護やってたので、不思議な感じである。といっても、四年前だが。二年前は、大きなデイケアに行って、休まらなかった。依存症から立ち直ったすごいおっちゃんとかいたが、そして、すごく優しい人もいたのだが、先生と喧嘩したりした。そのときの先生は、僕の症状を軽いといっていた。ずーっと精神病院で、働いてえらいさんになった人で、そういう人から見たら一見病気っぽくみえなかったのだろう。こういう逆差別がある。診察時間は短かった。
今日の体験は短くて正直わからないとこは、たくさんあったけど、悪い感じではない。いきなり入っていって、おしゃべりしまくるのは、不気味だからやらないが、というかできないが、いい子になってしまう。
誕生日は彼女がケーキを買ってきてくれたが、僕がごちゃごちゃやっていて、食べるのが遅くなってしまった。でも、何か不思議な誕生日だった。デイケアに行って、生まれ変われるわけではないが、ちょっとあたらしい始まりのような気がして。
それにしても、全然整理できてない。現代詩フォーラムでは読書会をやるし、ある人の批評を頼まれた。うれしかった。でも、要領悪いです。でもがんばります。
彼女とカルタをやって、景品をもらった。それは内緒。。 それから、新潟から帰ってきた友達からメールがきて、やっぱり雪多いなあと説得力のある感慨だった。
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Jan 05, 2006

質問に答えること

現代詩フォーラムという僕も所属しているサイトで、活躍中の一日ミチルさんが、こんな質問をバトンしてくれたので答えてみる事にする

1.回してくれた方に対しての印象をドゾ☆

切ない詩を書く人です。話してみると楽しいというより、こちらが落ち着くと思う。もっともっと成熟してゆく予感がします。人としても

2.回りから見た自分はどんな子だと思われていますか?5つ述べて下さい。

がんこ、しんどい人、かわいい人、優柔不断な人、なにかんがえてるかわからん人

3.自分の好きな人間性について5つ述べて下さい。

謙虚、素直、素朴、かわいい、芯が強い

4.では反対に嫌いなタイプは?

傲慢、人の云う事を聞かない、もしかしたら、自分に似ている人、嫌いな人はあってみないとわからない

5.自分がこうなりたいと思う理想像とかありますか?(聞き上手とか?

もう少し謙虚になりたい、偽善的じゃない人、びくびくしててもいいけどそれに引きずられたくない

6.自分のことを慕ってくれる人に何か叫んで下さい!

ぼちぼちと!(叫んでない、、)

7.そんな大好きな人にバトンタッチ15名!(印象付き

すんません。ご勘弁を。

というわけなのだが、質問に答えるのは難しいのであまり深く考えずザクッと答えてみた。
ミチルさん、こんな答えでいいのかな?

ええと、正月は実家に帰っていたんです。ただいま帰りました。友達とのんだり、近くのジャズ喫茶に行ってました。でも、もう離れてしばらく経つので、あんまりやることがありません。
ううう。飲み屋で友達と話していたら、急に意識が遠くなって、貧血みたいになりました。酒は少し速いペースで飲んでいたけど、飲みすぎのしんどくなり方と違いました。昔よく倒れていて、急に周りの音が遠くなって、体が白くなって、少し気分が悪くなって、おなかが痛くなって、立ったり座ったりいられなくなるのです。耳がキーンとなります。目の前もぼやけてきてひどいときは、真っ暗になり倒れます。

なんか病気の話ばっかりだな。。
最近はならなかったのだけど、久しぶりになりました。原因はわかりません。その時だけで、後は頭痛がしたくらいで、バファリン飲んだら直りました。一回脳波しらべてもらおうかな。とにかく、そのときの友達の対応が優しくて助かりました。大学時代の友達で久しぶりで緊張していたのですが、何か自分の弱いところを出せなくて、でも倒れて、皆に優しくされて、というか弱さを見せられて、さらに打ち解けた感じになりました。
ある場合には弱さというのは、人をつなぐものかもしれないと思いました。
それと、仕事できないので、仕事をしている事に対する焦りがあったのかもしれません。それが、友達の、「きちんと直ってからのほうがいい」という言葉に助けられました。自分がベストを尽くして戦うのがいいと思いました。怠けているのではなく、後退戦からの反撃なのだと思いました。友達に感謝です。十年働くとその人の風格のようなものが見えてきだすなあと思いました。

正月は「古畑任三郎」を見ました。イチローの回でしたが、イチローのイメージとの戦いに三谷幸喜は負けてるなあと思いました。イチローがイチローを演ずるのはやはり難しい。原案通り「ハチロー」とか、そうじゃなくてもいいなと思いました。いつもの軽い皮肉が機能していませんでした。

親はやさしかったです。ふつうでした。というより、あまり僕に遠慮したりしなくなったような気がします。普通に距離のある感じです。病気になったときは、父との関係、母の疲労が大きくなっていたのが普通のバランスに戻った感じです。たぶん、僕が落ち着いたのがいちばん大きいからそう見えるのかもしれません。
明日は誕生日なので赤飯を炊いてくれたので、彼女の家に持って帰りました。30越すと誕生日はあまり嬉しくないですが、というか微妙だなと思いました。
三好春樹さんの「介護の専門性とは何か」を読んでいます。「深いぼけ」という言葉が面白いです。仕事の事を考え始めました。といってもいますぐ仕事に就くわけではないのですが。というか、もう少し自己治癒したら、具体的に現場が恋しくなるかなと思いました。
Posted at 16:21 in nikki | WriteBacks (2) | Edit

Jan 01, 2006

めでたいかな

あけましておめでとうございます。
夜は朝生をみてしまいました。
みんな暗いニュースばかりだとか、崩壊とか清算とか言ってた。
それは評論家的には「わかりやすくいえば」そうで、確かに、脱線事故や子どもの殺人や、自民党の圧勝や耐震偽造や、なんか「壊す」話ばっかりだった気もする。僕も別に危機感がないわけではないが、テレビの世界だけで、物事を語るのは、やめたい気がする。
僕が生まれたのは74年で、隠微に物事がどんどん変わっていって、それに何ら発言とか出来ない構造は変わっていなくて、そういう時代を生きてきて、今更何が壊れたのだろう。
生きていれば社会も人も変わっていく。そして、今のような社会の基礎部分での故障は、今までも、そしてこれからも人に、ダメージを与え続けるだろう。その中で、評論しているよりも、生き方自体が批評的になればいいと思う。複雑なもの、両義的なもの、二項対立でははっきりしないものを取り込んでいるし、そこから口ごもりながら生きていくのだろう。
年賀状はあまり来なかった。ここ三年のツケだ。でも旧友から電話があったり、結婚してよかったねといったこともあった。旅先から美しい湖のメールをくれた人がいた。新しい集まりのお誘いもあった。こういうつながりを大事にしながら、謙虚にリハビリに励んでいけば、きっといいつながりができるだろう。そう「つながり」なのだ。ニュースについて書きながら、思った。
初詣は四天王寺に行きました。彼女に「フォー」とか言い続けたら引かれてしまった。確かに夜中に「ふぉー」は変だなあ。
これから実家に帰ります。
Posted at 14:10 in nikki | WriteBacks (2) | Edit
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