Oct 17, 2006
レヴィナス入門
昨日は何か少し悩みモードになっていた。朝になった。そういうときは、不思議にうれしいお便りが届き、私を勇気づけてくれる。詩誌が届いたという感想のお便りだった。何か不思議な力で人はつながっているのだろうか?
スガシカオばかり聴き、熊野純彦「レヴィナス入門」を読了。熊野氏の、ひたむきな、粘り強い論述にはげまされて、わりかたスムーズに読み終える。とはいえ、いくつかの点で、少し不満もあったが。それはさておき、「実存から実存者へ」は読んで、生きることそのものの「疲れ」に心ざわめいて、震撼された思い出がある。レヴィナス自体の本は、なかなか晦渋なのだけど、この本を読み終えてから「存在の彼方へ」(「存在するとはべつのしかたで」という訳し方があって、こっちのほうが好きだ)のパッセージをいくつか読むと、すっかり見通しがよくなっていたりする。
ハイデガーが不安とよんでいたことがらを、痛みや苦しみ、さらによろこびでさえも、その身に引き受け、引き寄せられ、その事柄から遅れて、感じるだけしかない「感受性」と呼んでいることがレヴィナスの肝のように思った。「感受性」はどこまでも受け身なもの(受動)であるから、どこまでも他者に遅れる。私には受難、受苦という言葉が浮かんだ。レヴィナスの「責任」というのも、たぶんに「受け身」な概念であって、声高に正義を語るというのとは全然ちがうと思った。むしろ何かに全身で苦しむこと、呼びかけにたえずさらされている感覚、自分は何も悪いことしていないのに、それでも、それだからこそ、心に迫ってくる感覚、その描写はリアルというほかない。そこには「他」があらわれているのだ。「顔」についてはこないだおばあちゃんに会ったので心に迫ってくるものがあった。老いの哲学でもあったのだ。弱さが弱さに出会うことなのだ。
レヴィナスのいう「感受性」は私がいじめを受けていた昔の感覚に近いものかなと思った。ある種の災厄に出会って、語りがたい感じ。そんな甘いもんじゃないかもしれないけど。また、「責任」はよせてはかえす強迫観念に描写が近いと思われた。実際「強迫」という言葉を調べたら使っていた。レヴィナス自体は健康な哲学者なのだが、生を悲劇であり、しかし悲劇でなくという感じでよじれていく感じは、20世紀の精神と思えたし、そうでもなく超時代的であり、超個人的とも思えた。
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