Mar 26, 2006
◎田村隆一の「腐敗性物質」について少しー初期の田村の詩世界
*講談社文芸文庫版「腐敗性物質」は田村隆一の自選詩集で、「四千の日と夜」、「言葉のない世界」、「腐敗性物質」、「恐怖の研究」、「緑の思想」が抜粋で入っていて、「奴隷の喜び」が 全編収録されている。
田村隆一をはじめてみたのは、NHKの特集だった。パジャマ姿で、晩年だったが、寝そべって語る。その語り口が面白かった。あと雑誌で、人生相談をやっていた。それから「宝島社」の「おじいちゃんにもセックスを」のポスターで、コート姿で出ていたのがかっこよかった。
僕は、田村ではなく、親交の深かった北村太郎から詩に入ったので、田村の詩世界から、ちょっとずれた位置から入った。とはいえ、「荒地派」である。両者とも、スマートな表現者だが、北村のほうが哲学を感じる。でも両者とも生き方の美学を形象化した点では同じだ。
挫折という視点から読むと、北村のほうが、実生活は深刻だった気がする。妻や子の死。しかし、文明論的に、みれば、田村のほうが、深刻に大戦の影を、斜めからではなく、正面から受け止めているように思う。あくまで、「文明論としての大戦」だが。そういう構えのようなもの、概念性は堅固だ。また鮎川を入れると別なのだろうけど。 詩を挫折という視点から眺めたくなったのは、自分がここ数年挫折の連続だったからだ。田村は、僕はキーワードでいうと、「叫び」、「心」、「部屋のない窓」というのが気になった。戦争で「人間的なもの」が壊れたときに、どう人間の自由の領域を守るか、というのがテーゼになっているように思う。いわば文明の挫折を一身に引き受けた。「四千の日と夜」はゲルニカを思わせる絵のような詩だと思う。一大絵巻のような。ゲルニカが絵画として、戦争に対するテーゼとして、両者から興味深いように、田村の詩も、芸術としても、文明論としても、両者から、味わえる広さを持っている。
で、谷川俊太郎(「旅」における)との共通点が、詩と詩でないものの分割線が、明瞭に引かれていること。けど、俊太郎は詩を超えるものとして、自然がポジとして描かれているけど、田村の場合、「ネガ」(見えないもの、聞こえないもの)として、「叫び」や「心」が描かれている点だ。これは、巨大な危機に対する反応だったと思う。ヴィトゲンシュタインがそうであるように、主体の届かない「沈黙」の領域を残したのだ。この点で、両者の対比は興味深い。田村の詩の外部性は、大きな影としての「人間」「声」だったろう。
田村の場合、詩は「部屋のない窓」、つまり内部のない入り口としてあって、詩の世界を克明に描かず、空白として描く。これは、田村が「世界」を守ろうとする気持ちから、とられた手法だろうと思う。どちらかといえば「情」で書いていた人だと思う。知的に処理していって、仕切れないものをぎりぎりのところで書いている。それが記号としての「言葉」の拒否につながっていると思う。やわらかな「情」が、硬い形式を選んでいった気がする。そこから「自然」への愛が出てくると思う。女性へのナイーブさも現れていると思う。思ったより素直な表現だと思った。「死体」という表現も出てくるが、否定の、さらに否定の核に、柔らかな肯定があると思う。戦争から離脱して読めるという意見があり、そうだろうと思った。実際の戦争体験は思ったよりないし、表現も独立して読める。それでも、戦争がなければ田村は書く必然を覚えなかっただろうと思う。危機があるから、独立した表現空間を作ろうとした。そして、戦争詩という枠を超えて残った。そういうことだろうと思っている。戦争は危機に瀕しているという表象であり、それが表現を要請したし、表現が危機に瀕しているという表象を必要とした。そういう感がある。オリジナルに危機を彫りつけ自由な表現というものをきたえようとした。そう思う。
◎気に入った詩―「四千の日と夜」では「叫び」、「Nu」。「声」の領域を残すような書き方。叙情的な詩がいいと思った。「言葉のない世界」では「見えない木」「言葉のない世界」対照的だけどどちらも世界に対して熱いと思った。それが素直に表れたり、(見えない木)激しく表れたりしている。「緑の思想」では「水」「枯葉」などが素直でいいなと思った。
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