Oct 10, 2006

 お昼寝をした。それから、郵便局に行き、冊子小包を送った。そして、コーヒー豆を買いにいった。マイルドブレンドを200g。本屋により、何冊か本を買う。次に書くネタを探しているのだ。レヴィナスのことが、頭にあったり、ニーチェだったり、色々浮かぶのだが、何しろ、独学なのと浅学なので、もっとちがう切り口も考えてみたり。
 ニーチェは今の人間存在を「超人」へと至る「橋」つまり過渡的なものと規定していただろうか。うろおぼえだが、たぶんそうだったと思う。これはカフカの「橋」という短編と符号するのではないかと考えたりする。「ぼくは硬直し冷たかった。ぼくは一個の橋だった。ぼくは深淵の上にかかっていた」。存在するということ。それは過渡的であること。深淵の上にかかることではないか。このことをもしかしたら、掘り下げることができるかもしれない。
 SMAPのクサナギ(字が出ない。御免)くん主演の「僕の歩く道」は自閉症の人が主人公のドラマだ。自閉症の描き方よりも、彼を取り巻く様々な人の描き方がいいなと思った。障害とは関係性の中で、現れてくるし、その中で、どうつきあっていくかということだ。そういう意味で関係性ということを捨象して、独立の「自閉」というものを想定すると、途端に理解不能になってしまう。偏見のない状態というものはない。あったら、それは不自然な社会だろう。ある種の弾圧がある社会はそうかもしれない。自由な社会は、それぞれの偏りを認める。その中でどうしていくかだと思う。今、啓蒙されたり、想定されたりしているより、わたしたちはより多様な付き合い方を障害を持つ人たちとできるのではないかと思い描いてみたりする。政府の政策的な歪みにもかかわらず、そうできるかもしれないと私は思ったりする。
Posted at 23:46 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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