May 09, 2006
つながりについて
今日は診察であった。3時間待ちなので、実家(クリニックの隣町にある)に昼ごはんを食べに行く。そのとき、美しく咲くツツジを撮影。父は、ボランティアを増やすようだ。どこまでいい人なんだかと思う。元気が一番とも思う。
終わって梅田の旭屋に行き、市村弘正・杉田敦「社会の喪失」などを買う。市村は硬派な思想家で、藤田省三などの流れをくむ人。それに杉田がばんばんツッコミを入れていく対談本。市村も応戦する。その元には、市村の「標識としての記録」という本から出してきたテキストが使われている。一粒で二度おいしい本なのである。
対話というのは、自分の云いたいことを、徐々に明確にしあうプロセスなんだなということが実感される本だった。(まだ途中だが)云いたいことを明確にしあうということは、相手との違いと同一性をみることになる。非常に当たり前の作業だが、なかなか知的だけでなく感覚に訴える対談というのは少ないので、当たり前の作業は実は当たり前になっていない。それほどまでにマジなやり取りが続く。
市村は「国家に抗する社会」と云っているように、社会というものの中に、ぎりぎりのところでは国家とは異なる連帯の可能性を夢見ている節がある。杉田は、社会の中にも、様々な境界線がひかれて、権力がはらまれている、それに注意せよという立場だった。でもこの二つの立場は、対立し合うものではなくて、事の両面のように思う。わたしたちは、どこかでつながりというものを関係が希薄な社会でも求めるし、また、それぞれの立ち位置、テリトリーというものに敏感でなくてはいられないという事実がそれだ。あるいは出会いと別れ、日々不断に、営まれて、わたしたちを悩まし喜ばす。たぶん、この本は現代人の根底にある関係性がテーマの予感がする。
今日医者に、悩みながらも、なんとかやっていますというと、「それがいいんですよ。基本的なことです。悩みがないから元気ですというのは弱いでしょう」と云われた。確かに、そうやって、苦しみながらも、日々を送っているのだった。それは弱ることばかりだけど、そうやって弱りながら日々をつなぐことも健康さのあらわれかもしれない。
関係ないが、自閉症研究で「心の理論」という言葉がある。我流に解釈すると、自閉症の人は(とひとくくりにできにくい)「心の理論」つまり、他者を想定したり認識に繰りこんだりする働きが障害されていると言われる。しかし、今までそうなのかなあ?と疑問に思ってきた。
自閉症の人は、とても苦しいなりに、その独自の感覚世界を生きている。それを、一緒にいると、ああこういうときは気分が良いんだなと推測できる。つまり「心の理論」で、補い、ぼくも、自閉症の人になんだか補われているような、気分いいなと感じることがある。こういう感覚をどういえばいいのか、それを単純に「つながり」と呼べるかなあ。なんだかよんでいいような気もする。
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