Jan 27, 2006

石垣りんとさそうあきら

今日は一人で家の掃除をした。風呂掃除もした。それから、明日読書会なので「ハルキ文庫」の「石垣りん」を読んだ。

石垣りん。若干の印象を書きたい。
高度成長を静かに、批判的に、見届けた人だと思った。戦後、経済が優先される中、彼女は銀行で働きながら、社会と個人、いいや世界と個人のかかわりを見つめた人であると思った。これは、稀有なことではないか?詩人として。
原爆を扱った詩に「25万のやけただれのひとつ」と言う言葉がでてくる。死者を数字に還元するのは、抵抗があるだろう。しかし、彼女はしている。そこに「顔」があらわれてくる、不思議な詩である。顔とは、その人に固有のものだが、それが数字と同居している逆説がある。数字でしか語られない悲しみというものがここには、あって、彼女は醒めている。
その一方で、「眠り」が深く描かれている。この辺りに詩的な生命力の強さが、ある。眠りをも深く見つめている、覚醒した眼がそこにある。
彼女は「仲間」という詩で、「行きたい所のある人、/行くあてのある人、/行かなければならない所のある人。/それはしあわせです。」と書いている。彼女には深い孤独があった。それを生きた。「藁」では、「子守唄のようなものがゆらめき出すと/私の心はさめる。/なぜかそわそわ落ち着かなくなる。」と書く。どこかで、眠ってはいられない。ずっと醒めていけなければならないという感覚かもしれない。それは「表札」という詩に現れている。自分の居場所を守る感覚であり、居場所は、ずっと具体的な「忘れない」という記憶であり、それは、日本が負けたというところではないだろうか?そこで、「人間の暮らし」というものが、薄れてしまったと言う感覚ではないか。「洗剤のある風景」から、そんな感覚を受け取り、せつない。どこか生きる現場が失われたという感覚が彼女にはあるきがする。その中で、どんなものにもごまかされず醒めているという過酷な位置に彼女は置かれた。ユーモラスな詩もあるが、きわめて骨太である。こういう詩人がいたと言うのは、今の我々には大事な事ではないかと思う。感想はこれにとどまらない。もっと多角的に読めると思う。とりあえず覚書として。読書会で、いろんな人の意見を聞いたら修正されるところもあるだろう。ただ、生活が失われていくという危機感は「家族の桎梏」への複雑な感覚を超えて、現代の危機を予見していた。そこに普遍性があると思う。「人間」の叫びなのだ。

さそうあきらの漫画「コドモのコドモ」を読んだ。小学生が妊娠する話だが、こういう話を重くも軽くもなく書けるのが、さそうあきらのすごいとこではないかなあと思ったりする。
Posted at 21:26 in nikki | WriteBacks (6) | Edit
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