Apr 25, 2006
負け続ける
今日、鶴見俊輔らの「日米交換船」を読んでいた。鶴見はハーバードへ留学していたのだが、太平洋戦争開戦直前、日本に帰るかとアメリカ当局から聞かれ、はっきりとした理由はないけど、日本は負けると思っていて、負ける側にいたいという「ぼんやりとした」気持ちで、「日本に帰る」と決断したそうだ。鶴見はハーバードで、クワインについて、記号論理学をやっていた。論理的に完璧なもの、説明できるものに対して、当時は、それを学んでいたが、そういうものに疑いがさして来た。説明できない、論理的でない「ぼんやりとした」ものが決断の元になる。なんか気持ちがわかる。ぼくはハーバードにはいけないけど。鶴見はぼくの好きな批評家の花田清輝をいろんな意味で負ける側にい続けた人だと評している。ぼくは、そういう、はっきりとした決断の場面はないけど、どこか敗北者、挫折者の側に、い続けることになるかもしれないなと思っている。人生は勝ち負けじゃない、でも、生きている位相というものがある。いやだけど、負け続けるだろうと思っている。そこにも幸せはあるだろう。知的障害者の介護をやっていたときも、これは、負けることに、粘り強くならなければ、仕事にならないだろうと思った。
どういうとき、敗北を感じるかというと、過去を思い出したときだ。人間関係がねじれて、切れそうになって、多くは切れてしまった、そういう過去。もうどうすることもできない。それでも、誰かに手紙を書いて、急にあやまりたくなることがある。というか、過去を何とか変えたいと思う。こうならなければ自分は汚れずにすんだと思いたいのと罪悪感というのだろうか。どこか潔くない虫が騒ぎ出す。負け戦をする覚悟が出来ていないのだろう。そういう虫を飼いつづけながら、ぐずぐず生きていくだろう。それが負けじ魂か。
たぶんそういうときに手紙を書いても自他共にろくなことない。これは病気の気持ちだ。それは経験でわかっている。
先週、あるところから合評会のお誘いがあった。うれしい。
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