Sep 26, 2006
べしみ
林達夫、花田清輝、竹内好(武田泰淳はどうしよう)と並べてみたが、私はこの3人の書くものは、私が言わなくても、すばらしいのだけど、何か非知、非言葉というものを心の中に置いていた人たちだと云ってしまいたい。日本のポストモダンというのを潜り抜けても残ってほしい時間軸の人たちである。こういう人たちがいて、三島や深沢七郎がいるという風景は風情がある。3人は「抵抗」ということを深く考えた人たちである。花田清輝は吉本隆明にぼろぼろにやられたとはいえ、また、あのスターリン礼賛は困ったものだとはいえ、中世を日本のルネサンスとした上で、網野史学の先駆といえるかもしれないし、それより、歴史だって嘘ばっかりかもしれないというデタラメ主義的なことを、フーコーみたいに大掛かりではなくやろうとしたので、網野よりも、注目されなかった分、よかったかもしれないし、岡本太郎と芸術運動をすすめながら、岡本太郎より花田清輝のほうがよほど変な人だったと私は思っているのである。抵抗とは何か?一つには「言葉」に対する抵抗だろうと思う。賢そうな言葉にだまされまいとする精神はみな一貫している。今、養老孟司がオピニオンの分野で活躍しているが、あの人の批評性もきっと、言葉に向けられているだろう。理系、東大でありながら、それが批評になっているのである。花田みたいに唯物論まで飛躍する必要は全くないが、竹内は「中国」の中に、林はデカルトの中にだって、賢そうな言葉に対する警戒心があったといっているのです。武田にとっても中国の歴史というもののどこか「混沌」というものに「天」に対する何かを嗅ぎ取っていたのではないか。林は理性文明の突端で「愚者」の沈黙の巨大さを発見するのかもしれない。
歴史というものの大きさとしょうもなさをよくわかっていたのが、この3人だと思う。この3人は、世界史的な嵐の中で、主体が分裂をせまられるさまを書きとめた日本人である。背景に巨大な世界史がある。
話はかわって、先ほど養老孟司をあげたけど、彼が「無思想の発見」の中で語っていることは大事だと思いつつも、加藤典洋の「日本の無思想」に対して、うまくない読みがされているのは、見過ごせない。というのは、養老は加藤を「思想は言葉にしないと思想ではない」といっている人として槍玉にあげて、自分の「無思想」の発見をさも新しいことのように語っているが、加藤は最後のほうで多田道太郎のこんな文章をあげている。
「面の連想でいえばべしみというふしぎな面がある。べしみは口をぎゅっとつぐみ、眉をしかめ、断じてもの言わぬという表情をしている。べしみという字は唖に通じるので、何を言われても返事はしないという精神の表現である。責任(リスポンシビリティ)ということばがあるが、責任とはリスポンドする(返事する)ことである。問いに対してまともに答えることである。しかし、権威と圧力とが支配している世の中で、まともに答えることは圧力に服することにつながっていく。そこで、むかしの征服され、圧服された神々は、一切新しい神の威力にとりあわぬことにした。それがべしみの起源である」
沈黙というのがどれほど苦しくて大変でも情けなくても私たちはそれを生きる。そこから生まれるのが文学だと思う。
WriteBacks
武田泰淳が読まれなくなれば、世界中の人間もだめになる。
武田泰淳を書きつがなければ、また、然り。
僕の文学創作上の最大の夢であり、目標です。
Posted by 佐々木浩 at 2006/09/26 (Tue) 06:38:53
ふと
ふと武田百合子さんのことが思い出されてきました。
彼女の本の中に武田泰淳と竹内好の交流の場面がありましたね。
武田泰淳の仕事は巨大ですね。すごく詳しいというわけではないんですが。
Posted by 石川和広 at 2006/09/26 (Tue) 16:04:06
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