Jul 22, 2006
球宴、伊藤比呂美
藤川球児の球はすごい。江夏とか、伝説の投手はあんな球を投げていたのではないだろうか?久々に出てきた本物という気がする。でも、球児という名前で野球が下手だったら、本人はすごい落ち込んだだろうな。「ハウルの動く城」を見る。ちょっとずつ見たので、あんなストーリーだったけと思う。何かうまくいきすぎ。
昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を示したとされるメモが見つかったらしいが、昭和天皇だって、あの戦争に責任があるはずだし、その人の意に流れるというのはどうかと思う。なんでも個人的な信仰の問題にしてしまって、自分の公の考えを示さない小泉首相もどうかと思うし。こういう問題に万人が納得する考えがあるかどうか疑問だが、どんな魂であれ、安らかに眠っていただくということと、生者の政治的な都合というものの整合できる点を見出さないといけない。国内外問わずである。
テレビを見たあと、伊藤比呂美の初期詩集(思潮社現代詩文庫)を読む。先入観よりはグロくないし、破壊的でもない。そういう装置が機能しなくなったというのもあるし、それ以外の部分でも読めると感じた。最初のほうの散文体の詩が優れているものが多い。この人はとても目がいい。物と物、人と人の関係が的確に描かれる描写力に驚く。あくまで主観を離れないのだが、あらかじめ心地よい客観が内在している。サービスがあり、それが嫌味になっていない。差別(先入観)は明らかにしていて、差別(先入観)が少ない。これほどの描写力をもった現在生きている詩人は少ないのではないか。読んでて気持ちいいし、書き手として羨望する。本人は好き嫌いが激しいというが、いろんなものが立体的に描かれる。小説家の目ではないだろうか。小説と詩の違いってなんだろうと思った。(梶井など、小説となっているが詩か小説かわからない。すぐれた文章は、その違いを超えるのかもしれない)じっさい伊藤比呂美は小説もエッセイも書いている。
それとこの人の本領はエロス(ある種の風潮に流された)よりも、死を見つめる目にあるのではないかと思う。エロスと死はこの人の場合まったく対極ではない。実際死を扱った作品が出てくるが、それは何かを悼むとかいうよりも、なによりも、生き物の死を観察する目だ。そこには厳粛な倫理が働いていると、「アウシュビッツミーハー」という作品を見て思った。自分が死に対して第三者にしかなれないという感覚を描いている。子が生まれてからは、子を殺してしまうかもしれないという子と言う他者との二者関係の死の問題への移行が見られる。そこで詩が変わっていったような気がする。差別の根源には産む/産まないということがあるのを見てから、何かがかわってしまったかな。たぶん、何かに中立でいられなくなったのかもしれない。子を産んでから、子育てや家族に詩が侵食されて、いくつか面白いけども大変だなと思った。詩らしい詩は、散文体にくらべ迫力が少ない。また欠点はエロスが観念的に現れる時があるということである。ぼくは、何冊かのエッセイを読んだことがあるが、それは面白かった記憶がある。
全てを見てそこから書くことのできる、文章家と思う。ただし谷川らが書くような空とか宇宙の詩はない。たぶん、「気持ちよさ」(書きつくすことの=産むことの)と「死」が彼女のキーワードではないだろうか。それらは言葉を駆動させる本質に近いものであると思う。
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