Aug 04, 2006
「夜と霧」を手に取った
昨日は1時半に寝て、6時に目が覚めた。いつもよりも早い起床である。
〆切で詩を書いた。いつも読んでくれる彼女はいない。部屋をうろうろしたりしながら、出てくるのを待った。待つというのは難しいものだと思う。でも来るべきものが来ないと、すっきりしないので、待つ。待った意味はあったと思う。荒削りだけど、今日集まりに行ったら、「出し尽くす」という姿勢を評価してくださった方がいた。まだうまくはできないのだけれどありがたい。
何人かで集まっての会合。ぼくにとっては、落ち着いて参加できてよかったのではないだろうか。色んな個のゆるやかな集まりであるが、静かな熱のようなものを感じた。
帰って、急にフランクルの名著「夜と霧」(新版のほうです)が読みたくなった。まだ読んでいなかったのだ。(なんてこった!)しばらく前に買ったものである。「夜と霧」は、心理学者がナチス強制収容所に収容された経験を独自の人間哲学にまで高めた歴史的な本。と要約できるのかはわからないが、ぱらぱら読んでみるに、過酷な状況に陥っても、最低の人間になるかならないかは、その人の「決断」次第だというようなことが書かれていて、これは収容所に入らなくても、どこで生きようといえることなのかもしれないと思った。これが学説というよりも実感だったのだろう。自由はやはり自分から勝ち取る必要があるだろう。けして強い人間になれといっているわけではないんだろう。がんばれソングでもない。しかし、これには若干の補助線が必要である。それは弱いものを助けるというか身を挺する心というものがないといけないという点かもしれない。それが読むほうにとって、躓きの元かもしれない。中原中也のいう「奉仕」ではないだろうか。同じ収容所体験をもつレヴィナスは、身を捧げるといっているが、ぎりぎりそういう線から読む必要がある気がする。だから、嫌いな人はすごく嫌いだと思う。ぼくも何となく敬遠してきた。ぼくはあきらめの悪い人間だから、そして自分に甘いので、恐れていたのかもしれないし、平和ボケで何が悪いとも思っているからだ。そういう生も、身を処すということは、いつでもしていることである。だからというわけでもなく、不意に読みたくなった。読めるかな?
あと、やっぱり書くことは体にいいのか悪いのかわからないけど、自分を変えていくものだと思う。
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