May 26, 2006
自分との戦い
昨日は診察で、デイケアは、どうしたらいいですかと相談した。行くのが億劫になっていたので、ちょっと相談してみた。そしたら、デイケアは、そこで一日過ごしてプログラムを行い、日々のペース作りにするものだといわれた。「友達をつくるのは?」と聞くと、結果的に友達ができたり、できなかったりするもので、それがメインじゃないんですよと先生は、いっていた。
PSWの勉強はまだ少し早いといわれました。
日々をまだ無為に過ごしてしまいがちで、なかなか、ガッツが出てこない。彼女と過ごしたりできるが、一人で行動するのは、まだ恐いみたいだ。悩みは、そんなにない。昔から、そんなところがあった。自分の性格との戦いになると思う。
今日は、西武の松坂がすばらしい投球をしていた。力がためられて、すばらしい回転で、ミットに納まる。14三振。すごい。阪神は手が出ない
K田さんからメール。本をくださるということで、ありがたい。
高野五韻さんが今日現代詩フォーラムで、すばらしい散文を発表していた。ぼくも、詩の世界について、発言できればなあと思った。しかし、自分が納得のいく作品を書く積み重ねの中から、既成の権威などを批判するスタンスが固まってくるだろうなと思った。というよりも、詩にたずさわる人が、それは、どんな人でもいいのだし、それが当然なのだが、言葉との関係をどのように作っているかなのだと思う。
資本主義では、何にお金をかけるかが大事で、それと時間、それを割いて、いろんなものが形作られ、優先順位が決まる。それは、仕方の無いことだが、小熊秀雄賞がつぶれたり、そういうとこにお金がまわせないという感じになっているところもあると思う。
それから、たずさわる人も限られている。
別に資本主義に抵抗すると息巻く必要はないが、詩は、お金との関係が、もっとも、とりにくい分野になったのだと思う。一方でぼくらは、ただで、たくさん発表できるようになった。これも資本の力で、ITに資本が集まらないとそういう環境は生まれなかった。
お金に変えられないものを守るというのではなくて、なんといえばいいか、抵抗の姿勢を守りながら、というか、資本の論理にさらされているということに自覚的になったほうがいいんじゃないか。その上で、文化は自分たちが作るもので、そこには一定の排他性があることもわきまえて、変にイベント化するのではなく、地道に書いたり読んだりするほうがいいんじゃないか。
気になるのはこういう議論をするとき、結局、うわついてる感じがすることだ。高野さんのは浮ついてなかった。それがよかった。
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