Jul 26, 2006

正直に書くということ

 ぼくの親父が、ガンバ大阪の試合のチケットを手に入れたのだけど、親父はその日、地域の盆踊りの仕度をしないといけないので、ぼくにチケットをくれました。サッカーを見るのは初めてなのだけど、なんだか楽しみです。最近、外へ出ることが少しずつ増えてきて、暑いのは、かなわんけど、いい傾向かなと思っています。
 今日は井上義夫というD・H・ロレンスの研究者が書いた「村上春樹と日本の「記憶」」という何年か前に出た本をぱらぱらめくっていました。いくつか目を引いたのは、村上春樹にとって「記憶」というのが人のアイデンティティーを形作る大切なものだという当たり前の指摘がなされていたことです。春樹氏は、あまり、そういうストレートな読みがされていないので、新鮮です。もし記憶がなくなったとしても、自分を裏切らないで、生きのびていくということも書かれていたような気がします。
 村上春樹氏は「完璧な文章などありえない」という言葉から「風の歌を聴け」を書き始めていますが、そこで、強く感じられていることはかなり倫理的なことのような気がします。その言葉を知って、春樹氏は安堵を覚えるわけですが、ものを書くということが、「正直」に書くことを願う、何度、できない、失語する、暗い闇がおそってきても、なるべく正直たらんとするということの大切さが感じられます。「書けない」ということは存在論的にいえば、「なぜ無が在るのか」という問いに直面することで、その感触をたどるように、無から「在る」を生み出すわけですが、それは虚構になります。書くことは虚構をつくるという宿命があります。そして、虚構に誠実に向き合えるか、その中の「本当」というものに向き合えるか、大切です。
 あまり、春樹氏はそういうまっとうな作家としてとらえられていないので、井上氏の観点には、何か大事なものがあると思います。日本文学の、大事な核の、その何分の一かでも春樹氏は分け持っているかもしれませんから。そうでないという意見もありますし、それに対して、そうだと思うこともあります。春樹氏を擁護しようとするわけではありません。ただ、書くことは実存との勝負でもあるわけで、そういう観点から、流行作家だといってかたずけるのではなく、見るのは大切かなと思います。その核にこの国の姿の一端があるというのは少しいいすぎな気もするし、井上氏が過大評価している面もなくはないと思いますが。
 今日は掃除の日でした。やはり汗をかくと気持ちいい。このまま順調にいければいいなと、一緒に働いている人や友達と確認しました。
Posted at 22:57 in nikki | WriteBacks (4) | Edit
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