Dec 11, 2006
感想;鷲田清一『「待つ」ということ』
この本は数ヶ月間かけて、折を見ては開き、味わった本。どうしても積読にはならなかった。順調と思われるだろう私の最近の精神生活だが、やはり時折じわじわ、こたえることや、感じることがあり、その度に少しずつ読んだ。「期待を捨てて待つこと」をめぐるテーマにうならされることがあったし、期待、希望を置いて、時の流れに飛び込んでいくことが、最後に説得的に前向きに感じられたのは、やはり『ゴドーを待ちながら』の論が充分に「ただ待っている」というポーズにすぎないことの有様を示したからだろう。
私は「恋愛論」として、この本が読めた。これまでの経験からだろうか。恋愛はままならぬ相手(この意味で恋人は時間の化身なのかもしれない)とどうつきあうかだからだ。その中で「待つ」という要素はとても大きい。ケータイがあろうが同じことである。もちろん「待てない社会」批判としても、子育て論としても、高齢者介護論としても、様々な、その人にあった読み方ができる。色んな文脈に引っ張れる。読みようによってはロマンティックに感じられることがあるだろう。最後にあとがきより引用。これは鷲田の言葉ではなく編集者の今野哲男さんの言葉。「覚悟」とはこういうことだろうか。
「決心するにも『する』のではなく、『待つ』一面があるのかもしれません。何事かを捨てて空虚な場所を作り、水が満ちてくるように何かがやってくるのを『待つ』とでもいうか」(P196)
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