Dec 21, 2006
「元気」を気ままに考える
病気を治すには、寝ることと起きることが大事であると思う。こういうと当たり前かもしれないが、私は病気になってから、ふたつのバランスが当たり前にとれなくなることが大変深刻なことだと知った。今はだいぶマシになっているけれど、それでも、薬がないといい睡眠はとれない。試しに抜いてみると、悪夢、眠りが浅い、夜中目が覚めてしまうなどなど。カウンセリングの先生に「元気ですか?」と聞かれた。先生はある人に「元気ですかと聞かれてどう答えていいかわかりません」と云われたと打ち明けた。「元気」、むずかしい言葉ですねと。私はアランの話を出した。うろ覚えだが、「ご機嫌いかが?と聞いても機嫌はもともと悪いのが当たり前だ。それにいいですよと答えるのが礼儀」とか何とか。字は違うが、両者とも「気」について尋ねている。ニーチェは東洋の哲学を尊敬していたが、「気」という言葉を知っていたら、あんなに力んで「力」という必要はなかったのではないか。
先生と「元気」の「元」は何だろうかと云う話をする。私は「はじまり」と「根源」の意味があると思いますと答えた。もともとあるもので、常にはじまりであるようなもの。「病気は気が病むことでしょうか?」と先生が尋ねるから、私は想像で、病気も元気の中にふくまれていて、病気は元気の或る状態ではないでしょうか、と答えた。こう考えると「病気」と「健康」をつつむ「元気」という状態があると仮定できるだろう。「病いの哲学」もこの「元の気」=生命のことを云っているのかもしれないと思った。私たちは大きな生命=元気の中を沈んだり浮かんだり(斉藤和義の「劇的な瞬間」の歌詞みたいだな)しているのかもしれない。そう考えると、ニーチェが病気の中でも「私は健康だ」と云っていた意味がわかる気がする。
私はふたつの声を今年は聞いてきた。一方は「がんばれ」で、もう一方は「がんばるな」である。そのふたつの間で私は平衡状態を保ってきた。これが養生というものである。はじめの起きると寝るもそのことだ。何とかある平衡状態を保てたので、これからはもっと自分らしさを出していこうと思う。私の持つ欠如や葛藤に新たな形で向かい合いたい。
憲法について何か書きたいが、なかなか書けない。書かないかもしれないな。気が向いたら書くかも。約束はできません。
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