Feb 04, 2006

他者感覚

今日はデイケアに行ってきました。
習字と卓球だった。習字では、まどみちおさんの詩を、ずっとノートに写していた。まどさんの詩は、なんか透明なようでいて、まどさんはずっと考えていて、そのずっと考えてる事が提示される仕方が、時間を感じさせる。そんな詩のような気がする。どこか瞑想しているみたい。視点は現代詩なのだけど、提示の仕方が違うような気がする。
実は、全然簡単な詩じゃない気がする。ぼくはこういうのは書けないなと当たり前ながら、感じる。生命に対する視点だろうか。けっこう科学と宗教の境にいる人のような気がする。
それで思い出したのだけど、今、小泉義之のドゥルーズの哲学を読んでいて、生命について書いてあって、生命は、その発現、生老病死を通して、問いを「問題」に変換して、「解」を出そうとしているという記述に出会った。小泉のいうドゥルーズ。生命といっても、あらゆる無機物も含めた総体の中で、胚細胞、遺伝子をもったものを指すのだが、いまいち、有機物と無機物の区別がわからないところがある。まどさんの「湯のみ」に、地球を感じる視点のほうが明確かもしれない。

それにしても答えじゃなくて、「解」というのが面白い。どこか一つ一つの生命が「問題」を解いている姿は、どっか勉強みたいだが、生きている現場は、無数の解で満ち溢れているのかもしれない。僕は生きていて、何らかの解を出しているのかなと思う。それは、どっかで、他人に見えているのだと思う。答えの出ない問いを、式にして何か「解」を出そうとしている姿が、見られているという感じがする。だから、ごまかしはきかないし、そんなものは、存在できないのだと思う。ずるそうに見える人がいても、それはその人の「解」なのかもしれない。でも、どうしてもそう思えないときもあって、けっこう辛い。
それ以上に、他者と言う巨大な解が迫ってくる感じが、僕にはあって、他人というものは、けして侮れない。というか、自分が無限に小さく感じられるというか。だからいつも不安だ。今はデイケアに行きだしなので、余計そういう感覚がよみがえっているのかもしれない。昔はそういう感覚がもっと強かった。どこかで違いを感じる時もある。どっか辛い。でも、他者が大きいという感覚が僕にはあって、ついいらない虚勢をはってしまうこともあるのだ。そういう姿が態度が大きいと映るのかもしれない。態度が大きいというのは、臆病の裏返しなのだ。でも、いつも、他者の大きさとはなんだろうかと思っている。その中で、無限の視線の交錯があるのだと思う。みんな、どっかから見られている感じを手放せないのかもしれない。それをも繰り込んで生きている人の姿をみると、すごいなあと思う。どっかで僕はびくびくしているのだから。それは「畏怖」に近い。柄谷行人に「畏怖する人間」というのがあってよく読んだ。他者とは「生命」なのかもしれないと思う。だから、僕は狭い意味での人の好き嫌いはないと思う。どっかで、ぼやけているのか何だか知らないが、好き嫌いという感覚が育ってないのかもしれない。でも信用できるかという点で見ているのかもしれない。

今日はドラマ「夜王」を見た。少しずつ面白くなっている。松岡君は主役なんだけど、あんまり表に出ずに脇を立たせればいいのかなと思う。心とかは胡散臭い台詞だけど、どっか、こういう普通のドラマにも、生きている人が作っているのだなあと思う。
Posted at 00:03 in nikki | WriteBacks (2) | Edit
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