Feb 15, 2006
知らない事、折り合いをつける事
ここ2~3日はデイケアに行きだして一ヶ月くらい経ち、疲れが出ていた。人に会って、決まったことをやるというのを、ここ2~3年できなかったので、慣れないことは疲れが出るみたいだ。今日はプーシキン美術館展に行ってきた。人が多くて疲れたが、ふだんあまり絵を見ないから、よかった。人とも話せた。昔は絵を描いていた。弟は絵描きになった。弟の絵を見るくらいだ。
友達が、生きている事は実験だと書いていて、内田樹は「何を知らないか」を知るのが教養だと書いてあった。今、僕は生きていて、それは、いろんな経験をつんでも初体験で、わからなくて、恥ずかしいなと思う事がいっぱいある。と同時に、知らなくたっていいかもという思いもある。
デイケアにいくと、いろんな人と話す。そうすると、まだあまりつきあいはないけど、この人は、今どんな気持ちなんだろうとか考える。それで、耳を傾ける。タバコを吸う時なんかよく思う。吸いながら話していると、自分のことを聞いてくれる。「昔介護職でした」という。そっから、星座、血液型は?となって、「山羊座のA型です」と答えると、慎重派やねといってくれる。当たっているのだ。(無謀なところ、一人で考えて結論を出すところもある)そんな感じで話す。
ああ、この人は、こういう話し方するんだとか、まだ距離が近くないから、逆に気を使ってくれてるのかとか、やさしいなあとか。以前は気に入られたいとかもあって、今もあるのだけれど。手探りで話していき、また考えてを繰り返す。ありきたりだけど、やってみないとわからない。だから、人との付き合いも、新しい関係を生み出す「実験」。それがちょっと素直に新鮮だったりする。最初は新しい事ではなく、慎重に今までのやり方で。そこに手が加えられていく。このとき落ち着いてるように見られるが内心はどきどきである。いくつになっても、実験だ。試されている。でもどこかで人は抱きとめてくれてるのかもしれない。
カウンセリングの時に「世界と折り合いをつける」という言葉が出てきた。年をとると、なんか「知らないこと」に対して、まあ知らなくてもいいやと思うときがある。というよりも、ここ何年かが感情の激動だったので、今は平らな感じで、安定を味わっていたい。どこか置いておきたい。でも、知らないことは、どんどん増えていく。ちょっと怖い。mixiとかいろんな人がつながっている。輪に入りたいというのと、しんどいと言うのが両方ある。自分の今のキャパシティがわかるのだ。でも、どこか、適度なところで「折り合い」をつけるというのが大事かと思う。ネットはネットという可能性であり、同時に限界である。でも、そこで確かに、社会がある。
自分は「何を知らないか」を知ること。これは、大事だ。謙虚でいることだ。知っていることを述べるのが、しんどくなった。知っている事はある。だけど、未知のことが(他の人には既知でも)あって、それを新しく知りなおすのだ。
マルクスじゃないけど、「世界をいかに解釈するかではなく、変えるかだ」。少しずつ身の回りをちがう感じで見たいし、それには自分をよくみつめないといけない。そうすると世界は変わるかもしれない。
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