Dec 14, 2006
感想;小泉義之『病いの哲学』
「死」というラインを、絶対化し、特権化し、そこから語ろうとする哲学を「死に淫する哲学」と呼んで、それを批判し、死に瀕する生の、つまりは病(小泉氏の論ではこれがイコールになっているようで、少し違和を覚えた。精神疾患はどうなるのだろう?)の生のあり方に強いエールを送ろうとする書と要約してもいいだろうか。恐らく、小泉氏の頭の中では、延命処置を断る考え方(惨めなさまをさらすのは嫌だというような)へのある違和感みたいなものがあって、あくまで生き延びるということを肯定しようとしたのだろう。私はこの意見に対してのコメントはできないと感じる。その時私のできることを精一杯やるしかないと思う。できないこともたくさんある。たぶん、小泉氏は実際に何かあったのかもしれない。彼の考えを知って、私は固定観念からは解放された。それが大事なのかもしれない。私には、フーコーについての章がとてもいいと思った。逆に言えばそこから話をはじめてもいいのではないかと感じた。それくらいビビッドな引用。というのは、病による生体の変化を緻密に追っているフーコーの臨死の眼のようなものが光っていて、そこに焦点をあてる小泉氏に熱いものを感じた。彼もまた病むものの前に立ったのだろうそのときの感覚が感じられる。パーソンズの病人の役割の議論も病人の私には新鮮であった。
不満は、批判から議論をたちあげていること。もちろん批判はいいのだが、自分の考えや話をきちんと書くことがそのまま、何かへの肯定や批判につながる理路は見出せなかっただろうか。仮想敵を作りたがるものは私は最近苦手である。が勉強になった。
全体に隠されているのは、死にゆく者への感覚の震え、命を感じ取ろうとする振動のようなものではないだろうか。それを私は信じる。
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