Dec 22, 2007
ちゃんこ、あるいは藤井氏の講演会
昨日は親父が家に来てくれたので、一緒にちゃんこ鍋を食べた。そのちゃんこやの天井には関取衆の手形がいっぱいあった。(そうすると、相撲部屋のリンチ殺人のことも思ったりする。死亡との因果関係は捜査中だろうけれど、どのような事情であれ、一人のものを大人数で、虐待、暴行するようなことは私は単純に嫌いである)なぜか格闘家佐竹雅昭の提燈もあった。ちゃんこの味つけは、さっぱりしている。胡麻をすって、そこにおつゆをいれるとツケダシの完成。親父はレモン酢をどばどば入れていた。酸っぱいものが好きなのだ。親父はいつものようにたくさん自慢話をして帰った。小学校の校門の前で子どもに挨拶するボランティアをやっているから、その話をしていた。立派な話をするのだけど、あれこれ毎回聞いているので、「そんなに正義の人なら政治家になったら」と皮肉をいってみる。すると、「そんなんしたら、お母さんが怒って別れるわ」と笑っていた。今日は、立命館大学で、13時より藤井貞和氏の講演会があるので、行ってきます。
Dec 20, 2007
グニャグニャな年末
最近は、いくつか仕上げないといけないことがあるのだが、いっこうに進んでいないのです。その一番は学校のレポートで四つ出題されています。明けの十日前くらいには提出しないといけない。やらなあと思うんですが、ぱっと手が出ません。ヤル気が出ればと思うし、いつもヤル気が出たら(ギリギリですが)やるのですが、正月早々レポートに苦しめられるのは嫌なので、ある程度まで片をつけておきたいのです。しかし、なかなか億劫であります。グニャグニャです。最近の出来事といえば、こないだ実習に必要なので、健康診断を受けました。幸い異常はなかったのですが、背が2cm伸びました。まあ、計測器の誤差なのだろうと思いますが、30過ぎても背がのびるというのは、慶賀なことなのだろうか。あと、昨日寝ていたら、突然鼻血が流れ出して枕を汚しました。鼻血は、もう何年も出ていないので、背といい鼻血といい、僕の体は何かありあまっているのでしょう。
ありあまっているといえば、最近ドストエフスキーの小説『白痴』を読んでいるのです。純文学に抵抗のある方や、長編が嫌いな方は抵抗があるかもしれません。また、通というのが適当かわからないけれど、詳しい方は、『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』、果ては『永遠の夫』あたりをすすめるかもしれません。
なぜ、『白痴』なのか?勘なのです。この小説はまだ第一編までしか読んでませんけれど、主人公のムイシュキンがどんどん事件に巻き込まれていくのです。いや、すすんで修羅場に出向いていって、さらに話をややこしく、過激に進行させる車輪になっているのです。これは、難しい小説が嫌いな方でも面白いと思います。ドキドキなんです。
ムイシュキンは不思議な人物。知らないところや招待されていないところへいっても、奇妙なやわらかい雰囲気と、なにをいいたいかわからないんだけど、誠実な感じの物言いでうけいれられていくのです。しかし、一方で「白痴」ともいわれてうさんくさがられます。僕ももしやムイシュキンは、悪人ではないのかと思っています。実は、悪人と善人はそれほど隔たりのないものかもしれません。善も悪も何らかの価値を前提にしているわけで、そういうものをグニャグニャにしてしまう何かがある。もしかしたら、悪っていうのは、みなが前提にして、さらにそのことすら忘れている価値を根底から、ぐにゃぐにゃにするものなのかもしれません。そんな風にも思います。
ありあまっているといえば、ムイシュキンだけでなく、出てくる人みんなが濃い上によく話します。どんどんしゃべる。しゃべることによって、秘密まで話して、また事態が展開して、どんどん、物事が思わぬ方向に転がっていく。これも、物事の筋をへし折るグニャグニャの醍醐味です。
ムイシュキンは、みんなが普段言わないことを話させる雰囲気の持ち主なので、ムイシュキンが聴いたことをまたしゃべったりしてしまうことで、どんどんおかしな方向に行く。その結果、いろんな事情があけぴろげになって、これからどうなるんだろうという感じです。
他聞に漏れず、僕もうっかり口をすべらしたり、感情をあらわにしてしまう方です。実はそうではないのかもしれませんが、わりかた言ってしまうほうなのです。なぜなら、云わないことにより後悔したくないからです。けれど、云ってしまって後悔することも多く厄介です。
昨日、田中宏輔さんより、新しく出た2冊の詩集(一冊は詩論集として読める。The Wasteless Land.ⅡとⅢ)が届きました。宏輔さんありがとうございます。美しい装丁です。昨日いろんなものが「咳」をしだす詩を読んだり、ページをくって、ちょこちょこ眺めていました。以前、宏輔さんとぽえざるで会った時、僕の「ふたつのキ」という詩をみて、「木と気を使って僕も詩を書いたことがある」と仰ってました。それに該当するだろう部分を見つけて、あの時仰っていたものはこれかなと思っていました。年末から1月は忙しいですが、じかんを見つけて少しずつ読んでいこう。
Dec 13, 2007
読中感想メモ『詩的分析』
藤井貞和氏の『詩的分析』を読んでいる。「複屈折修辞」の節を読み終えて、「万葉本文論」に入ったところ。「複屈折修辞」について。そもそも「複屈折修辞」という言葉を知らなかった。掛詞などが一つの歌の中で、一筋縄ではいかない意味作用と余韻の効果をもたらすもの?だろうか。無知なせいもあって説明が難しい。縷々書いて行く。掛詞などについて、僕の受けた古典の授業ではある種の「シャレ」として説明されているにすぎなかったが、藤井氏は、詩の生成に関する重大なヒントとダイナミズムをここに感じている。その記述や歌の現代語訳が誠にダイナミックかつ精妙なので、古典文学に関して不明の私もひたすら心動かされて読むことができた。
きみにけさあしたの霜の起きていなばこひしきごとに消えやわたらむ(仮名序)
藤井氏の解説を引用する。
「霜が置くことと、起きて辞去することとのあいだに、懸け橋として、同音(あるいは類音)と、朝であることとがあるだけで、ひらいた懸隔は、消えいる思いと、霜の消えることとのあいだで、ふたたび交錯する。しかし意味上、表裏二つがかさなるということはなく、あえて言うなら、表と裏とがもう一度いれかわるという感覚だろう。霜が置く、消えるという、自然な現象をまさに懸け、焦点にしたところに古代の詩があり、そこから心情にも物象にもひろがる。」(『詩的分析』228㌻)
表裏の次元の移動や、心情と物象の交感について注意したい。後学のため自分なりに反芻してみる。「起きていなば=愛人の出立」と「霜を置くこと」が同音であることで朝の情景という広がりを描く。しかし「いなば」というように仮定だから、そうなったらどうしようと思っているのだ。そのようなことになったとき、やがて昼になり霜が消えていくように、自分の気持ちも消え入るような(心細い)気持ちになって行くとしたらと。心は古い言葉で「うら=裏」という。別れのときの気持ちを想像する「うら=こころ」は、霜のように寒い朝だけにあらわれる実在(表)であると同時に消え入りそうな不確かさを持っている。(なんだかまちがっているかもしれない。)
さらに藤井氏の解説をさらに自分に引き寄せてみる。「愛してくれているだろうか」「私の気持ちは確かなものだろうか」という誰もが感じたことのある何かに、確かにアクセスしてくるものがある。このアクセス性は重要だろう。
藤井氏は述べる。
「どう受けとるか、どんな民俗や感情を盛りこんで読者が納得するかには、個人差があるものの、懸けたことばなら誰もが納得できるのではないか。」(先の引用部続き)
心理的になるかもしれないが、私なりのアクセスを試みる。この歌は全体が心の産毛のようなもので出来ていて、それを「文=綾、彩」と呼ぶのかもしれない。その産毛が私に触れることによって、私の中の心の産毛がそよぐようにも思えるのだ。私も恋をしたことがあるから、この人の気持ちはどうなんだろうとか、そう思う私は相手を本当のところで信じているのだろうかと悶々とすることがある。よく考えてみれば、産毛と霜はどちらも細く頼りないものだ。この歌に出てくる人は、「あの人が出て行ったとき、わたしの心はどうなるのだろうか」という仮定の形で、相手にたいする気持ち、関係について、それらが自分をどこに連れ去るのか思いをめぐらしている。そのときの揺れる感じや次々と浮かぶ想念は、「霜」のように頼りなく儚い。自分がふとふわふわして、しかし奥底では醒めているのだ。(霜のように)しかし、光と風と土と水と大気(朝=自然)というその大きなものに照らされて、ささやかな思いがどういう未来を迎えるのか。そのような遠景からの巨大な視点もあるのだ。とてつもなく様々な魂の面に触れてくる奇妙にありありとした幻のような時間だ。それに触発されて私は、その確かさと不確かさの間を思い出す。それはもしかしたら別れがくるかもしれないという事実性を持った恋心の時間である。霜のように信と不信という対立ほどでもない何かが繰り返し朝の光のように反射(リフレクト)しつづける。もうあなたとの時間に入っているが「決定不可能」な心の瞬間を描く。その限りない反射が私をふるわせる。藤井氏の文と歌の感動からこういう感想を抱いた。そしてこれは虚実の交錯する表現空間の謎の一端ではないかと。
たしかにひとつの「文」がこのような心の原初への働きを示すことを、藤井氏が語っているとすれば、(たぶんに私の想像も入っているが)それはまさに詩だといえるように思う。まだ途中なのだが、言葉と人が触れ合うとき一体何が起こるのかは、まさに文学の全身の問題であろうと思った。
※無知な上につい興奮しておおげさなところが見られますが、ご容赦ください。
※「心の産毛」という表現は精神医学者中井久夫氏が精神疾患患者(おもに統合失調症)の心の働きのデリケートさについて語ったとき使った言葉です。
※アイヌ神謡の四人称の問題も面白かったです。誰が語っているか という問題はどこの世界でも確かに見落とされがちでした。大江氏が一時ナラティブの問題について語って小説を書いていましたが少しわからないところもあったのです。
Dec 07, 2007
近況、麦朝夫氏の近作
きのう、友達と待ち合わせして、大阪の地下街「ディアモール」に行ってきた。FM大阪の公開録音があったのだ。Salyuという女性シンガーがゲストの回であった。地下街の真ん中にステージがあって、前には百人ほどあつまり、DJとトークしている。ジョニ・ミッチェルをカバーしているようでうれしくなった。その後に、堂島のジュンク堂に行った。編集工房ノアの本が特設の棚においてあて、天野忠さんの詩集が何冊か置いてあり、欲しくなったが今月は出費が多いので泣く泣く今度来ようと思った。
なぜ出費が多いかというと、ひとつはレポートのひとつが不合格になり再提出しなくてはいけない。これについては、友達や、色んな人に愚痴を云った。そのひとつの理由に再提出に2000円かかるということがある。
次に、来月実習なので、健康診断を受けないといけない。老人ホームに行くのでO157やサルモネラ菌を持ち込むとお年寄りの生命に関わるからだ。これは致しかたないけれど。
今回のtabについて送っている方から、感想のおはがきが時々届いてそれが助けになっている。僕の今回の詩は「戦争」について書いているので、戦中に学校教育を受けた大阪の詩人麦朝夫さんから温かいお手紙が届いた。さらに近作を送ってくださった。叢生という詩誌の151号より「えらいおがってたなあ」より後半部を引用。
ニホンが焼けて 中学生になったらまた先頭で
マエヘーススメッ とおがったら
号令はいかん ハヨイケイケ
と担任がハエでも追うように手を振った 広い空
またドッと傾く世やけど あとは母を見送るだけやと
ヒヤーッと笑う
いちめんの 静かな いてへん者(もん)眺めたら
隣の部屋か 床の下や 誰か
おがって おがって おがって 寝られへんねん!
(麦朝夫「えらいおがってたなあ」より)
感想として軽妙なアイロニカルな感じの大阪弁で、麦さんが生きて
叩き込まれた矛盾が語られている。
麦さんは短い詩をよく書いておられるが
このような形でコンパクトに伝えることも
彼のひとつの切実さのあり方だと思った。
>いちめんの 静かな いてへん者(もん)眺めたら
ここに非常に打たれる。
次の連は生きているものの声(よがり声?)なのか
死んだものの声かわからないけれど
その間にはさまれて
麦さんの魂は、休むことができないのだ。
僕はベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」を思い出した。
麦さんの中にも過去の廃墟が生きており
もうすぐ自分は死ぬとしても
何かを語り伝えたいという風が廃墟から吹いていて
彼を語らしめているのだと思う。
Nov 30, 2007
David
今日NHKを見てたら、David BowieのPVが流れていた。 "Heroes"という曲。全訳までやってくれているのだった。何かと思ったら英会話の番組。番組に出ている人の動きは何かしょうもないのだが、佐藤良明という研究者がかなりの音楽好きで、けっこう勉強になった。
僕はDavid Bowieはまるで詳しくありません。この曲は77年で、自分は3才だったから、リアルタイムでは知らない。"Heroes"は、ベルリンで作ったそうな。壁のある分断された街で作ったんだね。「みんなバラバラ」みたいな歌詞があったり、「銃が向けられている」といったような言葉もあり、何となく人々を分ける壁を想起させると解説の人はいう。 そこで、抱き合うことで「僕らは一日だけヒーローになれる」というんだね。この「一日だけ」というのがシビアで刹那的でちゃんと緊張感があると僕も感じた。
ある瞬間、自分が何かの真ん中にいられるという感覚。僕は真ん中にいたということはあまりない人生だけれど、これは「誰かから見た」真ん中ではないんだろう。この曲を知れてよかった。でも、冷戦ってもうだいぶ古い言葉になってしまった。歴史を感じます。
僕のはじめて見たDavidBowieは「戦場のメリークリスマス」に出ている人。子どもの頃あの映画には脳天をガツンとどつかれてしまった。子どもがなんでガツンとなるかわからないのだけれど、たぶん、あの映画に描かれていた兄弟の様子にやられたのだ。
David Bowie扮する青年は寄宿学校に入っていた。彼には弟がいた。弟は背が大きくならない病気で声変わりもしない。美しい少年の声で歌うことができる。そのことで、ある日校内の庭でひどいいじめに遭うのだ。David Bowie扮する兄はそれを窓からじっと見ている。そういうシーンがあった。
やがて兵士になったDavid Bowieは、その罪悪感に苦しめられることになるが、僕の実際の兄弟関係とはまるでちがうのに、不思議だ。 これも"Heroes"と実はそんなに遠くないんだと思う。舞台は日本軍の捕虜収容所もそうだし、弟のこともそうだけれど、人の中にある「隔たり」だと思うんだ。物理的にもそうだけれど、人の仕組みや心の中に「うまく近づきあえない」何かがある。David Bowieは、弟への果たせなかった愛が促して、何とか他者に近づこうと収容所でいろいろやらかして、最後には首だけ出して「生き埋め」の刑にされてしまう。
簡単にわかりあうことができたら、生きているってそんなに面白くないんだろうと思う。「一日だけ」っていうのは、そういう甘くなさが言い当てられているような気がするし、けれど少しでも近づくことができたらなという声もあるんだと思う。
かくいう僕もDavid Bowieのことをこれまであまり意識していなかったし、なんだか気味の悪い人だなあと思っていた。(化粧とか)けれど、まあ聴いてみないと本当のことはわからないわけで、ちょっと聴いてみようかなと思ったんだ。(もう60歳らしい)
Nov 09, 2007
風塵
けっこうそれは近いのだもし呪いだとしたら
あまりにも空白であり
ところで私は充たされているのだ
あまりにも空白であり
公園の側の枯れた並木を通る
あまりにも空白であり
ところで私は充たされているのだ
死を見たと
空の姿
その思い
電線の、看板の看板
すきまの空は空気ではないだろう
物理的宇宙を滅却して
ものは現われを過ぎこして
あまりにもここにありすぎる
建物の
茶色の建物の
ところで私は充たされているのだ
それは空白であり
そこにいるようであり
すばらしい幼児のフードつきの
母親のかげろうの、幼児の叫ぶ声の
あまりにも見ることができる
知ることのない
あなた、かなたであり
知らないうちに
ポカンと
切り抜かれたあなたが
街頭をどんどん光らせていくようで
寒くなっていく
けっこうそれは近いのだ
もし呪いだとしたら
あまりにも空白であり
ところで私は充たされているのだ
それが根源的な罪であり
そして街頭はまぶしい
見ることができる
この世界にあらわれる全てのもの
霧になり夜風になり
私は歩いた
ここにいて、歩いた
見つけて見つけて
ひきとめることのできない
遅さの中で
ひとつひとつの光が
どうしても星になれず
それが喜びのように
満ち足りたように
あなたを感じることができた
という
ささらさら
あまりにも
無闇で
どこまでも光で
静かに
それは息苦しかった
大きく息を吐いた
木々がざわめいた
いつまでも無からさらに無へ移行して
風が波になり光が風になり波がおりかえして
ゆるやかな人影をつくり
また会うことができるように
大きく微笑んでいた
とうとう実習通知が…
ここ何日か朝起きると、ちょっとだけ胸が苦しい感じがします。もしかして、また病気(心の)かな?と思ったんですが病気がひどかったときはもう苦しいなんて次元ではなかった。だから季節的にも物憂い時期なんだろうかと思って様子見てます。ここしばらく更新していなかったんですがそれは夜すぐ寝てしまうからです。別に疲れるようなことはあんまりしていないので、身体が現実逃避しているのか、単に眠いだけなのか?
昨日、掃除の仕事から帰ってきたら、郵便受けに通信教育の学校から手紙が来てました。透けて見えるんですね。そこには「実習通知」という文字が…。昨日、家で実習そろそろかなーといっていた矢先。予知能力だろうか。
開けてみたら来年の1月半ばから2週間。特養で。ガーンですね。昨日は愚痴の嵐でした。なんでガーンとなるのかという疑問があるだろうけれど、私、こういうの非常に緊張します。常日頃レポート書いているだけでも、「なんで社会福祉士の通信教育を受けたんだろう」と泣いていますから。けれどレポート終わった後は今回もいい勉強になったなあとケロっとしているんですが。
通信の三本柱は、レポート提出。スクーリング。実習です。これを一年半で、何とか修了したら社会福祉士の国家試験の受験資格が得られる。だからこれは修行というか福祉職のトレーニング期間です。資格がなくとも働けるわけですが現今では大変。
学校で勉強して更に受験ってメンドクセーって感じる方もいるかもしれない。私もそう思ったりもする。けれども、私の個人的な例ですが、試験の結果はともかくとして、これくらいはやり遂げないととてもこれから世の中の厳しい荒波に立ちむかえないんじゃないかと思っています。それでなくとも怠け症なので、少しは自分を追い込まないと。
あと、働いていたときに「制度の勉強しなさい」と上司にいわれたことがあって、その時そんなの知らねと思ってたんですが、やっぱりそのあたりの勉強は大事かと。これはいやでもレポート書くうち思いました。自立支援法とか冗談じゃねえなと。
あと、これが一番大きい。自分の中で正直福祉やりたいかどうか、定まってないところがある。この受講期間にダメだと思ったらそれは向いてなかったんだと。だから自分との賭けです。だから冷静に書いているのだけど心臓バクバクなんですよ。
レポートでは、自分の主張ばっかり書いてしまっています。優等生作文を書こうと思ったのですが、それだと気が狂いそうになったので。なるべくテーマ内でおさめていますが「もうちょっと客観的に書いて」という講評もあります。その講評も私が意見を書くことは肯定していただいているので、ありがたいです。
昨日はレポートに要るので岩波新書の『児童虐待』という本を買いに行きました。地元の本屋はどこも売り切れで(誰か買い占めてる?)梅田の清風堂に行きました。ここは、左翼っぽいラインナップですが、面白そうな本がいっぱいあって、我慢して『児童虐待』だけ買いました。
日曜日は、松尾スズキ作『クワイエットルームにようこそ』という映画を見ました。うまく感想はいえないけれど、主演の内田有紀さんも脇役も皆さんイキイキとしていて、ただ単純に明るい映画なわけではないけれど、良いなあと思いました。この映画について馴染めないもの(精神病院の話なので。当事者なんでなかなか冷静に見られない)も感じた部分も少しありましたが、松尾スズキは人を動かす何かをもっているから人気があるんだろうなあと。内田さんはこんなにいい役者さんなんだって再認識しました。庵野秀明や、ハリセンボンの細い方の方もいい味出している。(実はファンです。この映画では精神科の患者さんの役でした。この人のほうが『自虐の詩』の原作キャラに似ているような気が)宮藤官九郎さんも快心の演技でした。
Oct 27, 2007
村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』の感想など
昨日は京都ポエトリカンジャムの日だった。マイミクのはに丸さんや、tabのお仲間の鈴川さんも出場するということで見に行こうと思っていた。でも、朝から頭痛が激しく体調が悪かったので行けなかった。さらに大阪は強い雨が降りしきり止めを刺された。残念です。 今日も頭痛は治まったもののお腹の具合がよくない。でも、昨日よりはマシかな。最近はエリック・クラプトンの『レプタイル』を聴いている。これは愛する伯父にささげられているようだ。村上春樹がその著書『走ることについて語るときに僕の語ること』の中でジョギングしながら聴いているとしっくりくるし、聴けば聴くほどいいと書いていたのだ。影響を受けやすい僕はツタヤでレンタルしてMDに入れた。ただし僕はジョギングはしない。というか走るのがまるっきり苦手なのである。春樹さんは長編とか骨太の小説を書くには肉体的な持続力が大事だから走っていると書いていた。それ以前に春樹さんは「一人でコツコツ」やる内省的な作業が好きなようなのだ。春樹さんにとって「走ること」と「長い小説を書くこと」は近い作業のようなのだ。体の状態やモチベーションを徐々にその作業に馴らしていくことや、最初苦しいのもある地点を過ぎると、とても気持ちよくなることや、その結果この作業が止められないような麻薬性をもつことなどである。
この本も、『レプタイル』も、別にランナーでなくてもいいと感じられる。僕は学生時代、通知表に「いつもコツコツやっています」と書かれていたのだが実は非常に飽きっぽい。また春樹さんのように「自分に向き合う」のが実は苦手で誰かと一緒の方が安心する。どうしようもなく淋しがりやの人間なのである。 しかし春樹さんの言うこともよくわかる。たぶん自分の人生に起こる出来事や、自分の生きているこの世界のことに何らかのこだわりみたいなものがあって人は書くことに向かう。驚きとか怒りとか悦びとかとっかかりは何でもいいのだが、それを何とか形にできないか、保存しておくことはできないかと思うから創作に向かうのである。 けれども、世界はたえず流転し、私の存在もかよわいウタカタのものである。たちまち流されてしまいかねない。 だから自分のスタイルを作る。春樹さんのこの本はそのスタイルの一例を語っているように思われる。ここで引用。
生まれつき才能に恵まれた小説家は、何をしなくても(あるいは何をしても)自由自在に小説を書くことができる。泉からこんこんと湧き出すように、文章が自然に湧き出し、作品ができあがっていく。努力をする必要なんてない。そういう人がたまにいる。しかし残念ながら僕はそういうタイプではない。自慢するわけではないが、まわりをどれだけ見わたしても、泉なんて見あたらない。鑿を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと、創作の水源にたどり着くことができない。小説を書くためには、体力を酷使し、時間と手間をかけなくてはならない。作品を書こうとするたびに、いちいち新たに深い穴をあけていかなくてはならない。しかしそのような生活を長い歳月にわたって続けているうちに、新たな水脈を探り当て、固い岩盤に穴をあけていくことが、技術的にも体力的にもけっこう効率よくできるようになっていく。だからひとつの水源が乏しくなってきたと感じたら、思い切ってすぐに次に移ることができる。自然の水源にだけ頼ってきた人は、急にそれをやろうと思っても、そうすんなりとはできないかもしれない。 人生は基本的に不公平である。それは間違いのないところだ。しかしたとえ不公平な場所にあっても、そこにある種の「公正さ」を希求することは可能であるように思う。
(村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』p65)
まあ村上春樹も成功者だからちょっと嫌味かもしれないがその辺は仕方ない。あるいは詩はまたちがうかもしれないが、この「水源」にたどり着くのに途方もない時間と粘り強さが必要なのはどのような事業でも同じ。けっこう肉体的なものなのかもしれない。少なくとも村上春樹はフィジカルに「書くこと」を捉えている。 走ることはたえざる持続である。毎日あるペースでやらないと体がなまってしまう。書くこともそう。春樹さんは別に「毎日書け」と云っているわけではない。そうではなくて、書くことも毎回新しい動機があるのだから、それをいかに持ちこたえることができるのか。一般的な方法論があるわけではないので、自分なりのスタイルを作った方がいいと言っているみたい。そのスタイルは不変ではない。世界も自分も変わって行くからだ。春樹さんは「老化」を語っているが新しい「呼吸法」を見つけていくことは「走る」のにも「書く」のにも大事な事なんだろう。 新鮮な呼吸が体にとってフィードバックであるように書くことも自分と世界との対話であるだろう。
クラプトンはブルースを白人の側から再解釈したと言われているが、どうなんだろう。もしかしたら黒人のものを収奪したといえるのかな。黒人のミュージシャンは成功している人も多いけど、貧しい人はその何百倍もいる。安易に人種だけで貧困の問題は語れないんだろうけれども。本物の黒人音楽って何だろうと思った。こないだ森進一が歌う「ラブイズオーバー」を聴いて、これはソウルミュージックかもしれないと思った。こぶしを利かすのではなく一言一言切るように切り裂くように語りかけてくるその様子は素晴らしかった。
Oct 21, 2007
日曜日
今日作品が書けました。自分としてはわりと硬派な感じ。祖父の戦争体験と今のことをつなげてみたかった。それを先週買った複合機にて印刷。エプソンの型がちょっと古くて安い奴。最新型は性能はいいんだけど大きかったり高かったりでうまくない。だけどこいつは、まずまずの速度で、いろんなコピー類の手間が少しマシになるかなと思う。
最近はUKのロックバンド「トラヴィス」のセカンドを聴いている。悪くない。先週の金曜は雨でデイケアでかけてみたんだけど雨が似合う。
話は戻って5時から合評会に出席。マイミクのYさんやKさんらが参加。彼らは文校つながりです。今月の京都は「京都ポエトリー月間」だそうで、KSWS(京都スポークンワーズスラム)の話なんかを聞く。Kさんが京都ポエトリカンジャムに出場するらしい。私の詩はわりかし好評でした。Kさんはポエトリカンジャムに使う朗読詩を出してました。昔のを直したそうだけどやはり自虐とユーモアのセンスがいい。ご飯を食べに行って牡蠣鍋をつつきながら恋話をみんなでしました。
最近竹熊健太郎(さるマンで有名になったマンガ編集者)のブログを見つけました。ここ十年うかばれなかった竹熊健太郎さんですが、95年に出した「私とハルマゲドン」は彼が「オタクとして培ったメンタリティ」からオウムを共感的しながらも(しかし)批判している。つまり一歩間違っていたらオウムだったかもしれんという危機感からオウムにならなかった(なれなかった)分岐点を語っている。内在的批判です。さらに各共同体間をさまよう旅人でしか自分はありえないんじゃないかと語っています。これは名著だと思いますが、なぜか手元から消えているので正確な中味を紹介できません。笑える裏エピソード満載。しかしさらに絶版状態。
竹熊健太郎さんは昨年末脳梗塞で生死の境にいたようでそのことを書いている名文がありました。http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_bba5.html さらに萩原朔太郎の面白いエッセイを紹介します。http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/2519.htmlでも、竹熊さんの文章を読んだ後では、なぜか朔太郎の文章が突っ込みの度合いがイマイチだなと思う石川でした。正岡子規について詳しくはありませんが朔太郎の書いていることになるほどと思いました。前フォーラムでそんな文章を書いたことがあります。でも朔太郎の「猫町」は大好きです。
最近は90年代後半から911くらいの時期の世相の変化ということを考えています。その補助線として梅田の再開発のこともぼんやり思ってます。
Oct 18, 2007
人からもらうエネルギー
しばらくぶりの更新です。ちょっと前の話になりますが、ぽえざるでは、様々な方にお会いできて感謝しています。一年ぶりの方も多数いて、こういう機会でしかなかなか会えない人もいますからよかったです。交流っていうのは、しょっちゅう会うということだけではなくて、時間を隔てると温まるものもあります。ただ普段それほど私は人に会う生活を送っていないので疲れるという面もあります。個人的には「会う」っていことは「意味」や「言葉」だけを交わしているわけではないと思います。形にならないエネルギーみたいなもののやり取りが大切。自分が与えるだけでなく人からも色んなエネルギーをもらっています。しばらくぶりに会うと「この人はいい感じ」とか「元気ないな」っていうのがすごく伝わってきて圧倒されることもあります。そういうのがいろんな風に自分の中で反映してなかなか整理できないっていうのも事実でした。まあ祭りの後ってそういうものかもしれません。
こないだCD「河島英五LAST LIVE」を聴きました。さっき言った人の持つ「気」とか「エネルギー」のひとつのあり方を見ました。このCDは二枚組みで①が90年代後半から亡くなる一年前(2001年)くらいまでのものです。②が大和銀行の本店の地下ホールで開かれた亡くなる2日前(2002.4)のトークライブです。①は枚方市民会館とか小さい箱でやっていて、旅から旅へローカルなものを愛した事が伝わってきます。
②では一時間くらいのライブですが話す声はよれよれです。しかし歌うと力強いものを感じます。単なる力強さではなく温かいのです。この人は色んなアジアの国を旅していたので、その話も面白い。きっと必死に話していたかもしれない。でもうれしいからなんだろうと思います。ファンのおばあちゃんが書いた詩に曲をつけたりもしているんですね。この2日後には亡くなっていて本人も死を思っていたかもしれません。そういうときには何か謎の力が伝えられるのかもしれないと思いました。これも人から送られるエネルギーです。
この前イエスの復活を論じた本を読みました。墓参りに来たマグダラのマリアに向かって復活したイエスは「私に触れるな」といったそうです。田村隆一の「立棺」も同じテーマだと思いました。私はキリスト教徒ではないのですがこの話は一見河島英五さんのエピソードと逆の「拒絶」するような感じがあるかもしれない。しかし、そうじゃないかもしれない。うまく解釈を思いつかないのですが、様々な人にとって「今だ生きている」イエス。それをイエス自身が「私の現身は無くなった」と伝えに来たのかもしれないなと思いました。復活の中でその逆の「消滅」も起こっているのかなあなんて考えたりしました。夢枕に立って亡くなったことを伝えにくるみたいな。
Oct 07, 2007
参加予定です。
10月6日は堀北真希の誕生日だったらしい。ファンなのに全然覚えてない。誕生日覚えるの苦手です。今日でやっと三つ目のレポートが書きあがり、安いしめ鯖の切り身を買って日本酒をいただく。ついでにレポート記念として、ひさしぶりにFoo Fightersの新譜を買う。聴きまくる。転調が不器用な感じで、終わりに近づくにしたがってだんだん静かになる。アメリカンロックだが時々ギターを静かに爪弾く感じも意味はあまり感じられないが気持ち良さそうでぼーっと秋の夜長に聴くのによい。愉楽である。☆☆☆☆7日はぽえざるである。JR京都駅前のキャンパスプラザで1時くらいから始まる…だったかな。詩誌「かたつむりずむ」チームに参加予定。Oct 02, 2007
芸術とくらしに関してダラダラ(長文ごめんなさい!!!)ーしんどい方は最後の最近読んだ詩と音楽だけみてもいいかも。
どんな文学作品であっても、読むときにそもそもその世界に入りたいと思うかどうかがとても大事なんだと思う。一行目、あるいは装丁を見て読者は「ああこれはどんなのかなあ」と思ってくれるかどうかがけっこう大事である。例えばそれは店に似ている。ちょっと誰かと食事をしようなんてときに、予算とか今食べたいものも大事であるが、何より店の前で感じる雰囲気が大事である。「何かこの店良さそう」という直感をバカにしてはいけない。もちろん直感はよく間違うわけでもあるが、その直感というのは何より大事である。如何に読者を引き入れるかにマーケティング的に腐心している方もおられる。しかし、いくら計算しても入りたいかどうかという、読者の直感は偶然的でもあって計算とは違う要素がたくさんあるんである。もちろんいかに詩を広めるかという議論も大事であるし、その効用は認めないわけではない。ただ詩が難しいから入りたくないとか、詩の世界が開かれていないというのだけが詩に読者が少ないように見える理由ではない。大体宮沢賢治もカフカもニーチェもまあ色んな人が生前には文学では食えなかったので、活字離れといわれながらでも、こんだけ本が売れているというのが今の消費社会特有のものといえなくもない。はたして人類は進化したとだけいえるのかな。昔、サルトルがいっていたが、何か読めるというだけで、すごく豊かなのだ。しかし、それだと豊かさ批判みたいになるな。。
いろんな人に読まれるのがよいというのもわかる。けれど細々とでも常連さんがついてくれるというのもよいのである。友達が100人、マイミクが100人出来るのも相応に大事であるが、たった一人でも友達がいる、それを大事にするという営みは人にとってなくてはならないかもしれない。人でなくても、猫でも空でももちろん素敵な事である。また美しいものや友達に囲まれていないという生活で満足している人もいないわけではない。僕はいいもの、美しいものがある生活が好きだからそうしているわけであるが、暮らしの大半は何気ないもの、意味があるかは即座にわからないものもあるのだと思う。そういう人やものの中で美しいと思うものを探したい、楽しくありたいという中で文学、芸術を選択する人がいる。これは多様化でもなんでもなくて、人類の暮らしってそういうものでないかなと思う。
僕も子どもの頃絵を書くのが好きで、絵を描くっていうのが無性に楽しかった。ラスコーの洞窟に狩りの絵を書いた人がいるけれど、生活の必要だけで描いたのではなかろう。しかし、それは生活にとってかけがえのない暇の過ごし方であったはずだ。また、かつて農作業や漁の時に歌いながら働いていたりした。仕事の中に遊びを入れていた。しかし仕事が辛いということの慰めや、みんなと共にあるという感覚のために歌があったばかりでない。歌がなければ仕事がやってられないというのもあったと思う。もしかしたら、生活の中に遊びがあったというだけでなくて、歌がなければ暮らしも成り立たなかったといえるかもしれない。だから遠山の金さんも、寄席や歌舞伎が倹約令で廃止されそうになったとき、そういう遊びがあるから、みんな仕事もがんばれるのだと反論したのかも。
うまくいえないのであるが、小林秀雄が「実生活なくして思想はない。しかし、そうして思想は実生活から離陸して行くのだ」というようなことをいったが、これはトルストイが奥さんから逃げたときに正宗白鳥に対して云った言葉だ。正宗は奥さんが恐かったからトルストイは逃げたんだというわけであるが、正宗は暮らしと芸術を即物的にわけるわけである。それもわかる。しかし暮らしは「昏し」ともいえるのであって、よくわからない暗がりや欲望やセオリーとも別のものが暮らしの中で生まれるわけであって、その「昏し」のグラデーションや味や音を(暮らしで用いるやり方とは一見違うような方法や空間や時間で、)形にしようとする衝動がある。それが芸術とよばれ、なぜか生活とちがうような次元に見えるわけであり、どこが暮らしと分かれていて、どこがくっついているのかわからないけれど、安易に暮らしと分けたり、くっつけたりすると芸術のうまみは消えてしまうと危惧している。しかし、孤高の芸術家というのもカッコいいかもしれないですけれど。永井荷風も考えてみて面白い存在である。晩年はストリップ小屋に通ってカツどん食って死んだけれど、荷風も大逆事件にショックを受けて厭世の度を深めたとも云われる。芸術と暮らし、芸術と世間、単純ではなさそう。
◎最近よかった詩
細見和之『ホッチキス』
山本泰生『声』
現代詩手帖2007年9月号須藤洋平の詩
最近洋楽ばっかり聴いている。コールドプレイ『静寂の世界』、ナインインチ、レディオヘッド『ベンズ』、ジョニ・ミッチェル『ブルー』、SAM41『チャック』、ウエザーリポート『ナイト・パッセージ』、シカゴ(何かジャズのビッグバンド風のもの)こういうのは大体知り合いに教えてもらって聴いているのでジャンルバラバラ。詩や音楽の感想も時間があったら書きたいけれどレポートを書かなきゃならんのです。
Sep 17, 2007
秋の空、夏の空気
外出先で見上げた空。とてもきれいな秋に近づく空。気温は夏に逆行するみたいに高い。今日は朝から部屋の掃除をして、ジョーシンでCDデッキをやっと購入。これでレンタルして色々聴ける。僕はダウンロードってやったことないや。まあいいか。
ジョーシンで、なぜか醤油をもらう。???それで犬のところへ遊びに行く。犬と遊ぶのは楽しいなあ。人と会うのとは違うエネルギーのもらい方をする。だいぶ、奴が何を言いたいのかわかるようになってきた。なぜかこの座るポーズが流行っているようで、お気に入りの定位置もあるようだ。今日、麻生太郎のマネをマスターした。聞きたい方は連絡ください(嘘)非常に似ていません!
さいきん、いしいしんじ、星の王子さま、天然コケッコーと「ほのぼの」路線で来たが、裏読書は計見一雄『脳と人間』、『吉本隆明歳時記』である。計見さんの本は統合失調症についての論なのだが、脳のこともよくわかるし、医者の本音もわかるし、非常に個性的で独創的な言葉の組み合わせ。中井久夫さんのように繊細でなく、春日武彦さんのようなバランス感覚でもなく、木村敏さんのように過度に哲学的でもない。計見さんは救急をやっていたからか、救急というのはプリコラージュ(器用仕事)なのだと思った。パッチワークとおんなじで発想を組み合わせていくような面白さがある。そろそろレポートの準備をしなくては。
Sep 14, 2007
天然コケッコーの感想
山あいの小さな学校に転校生がやってくる話。なんか、この映画は見ているあいだ、ずっとニタニタしていた。最近楽しいっていうのは素敵なことだと思っているので、そういう極私的な基準でいうと良いな。作っている方が充実していることがわかるのである。それはちょっとしたセリフとセリフの間や、その撮り方からわかる。非常に厳密に撮っているからこそ、さりげないものや危うい感じもするものが非常に意味を持つ。意味を持ってくるんだけどさりげない。そのバランスはすごく微妙で、受け取る人によってまったく違う絵をこの映画は人に与えるだろう。しかし非常に肯定的な雰囲気を感じる。肯定的っていっても単なるポジティブシンキングとちがう。作っている人がとことんまで大きく深く考えているからこそ、それを上回る形で見ている側が楽しくなれるような。あるいは演じている子ども達がドキドキできるような。そのドキドキがものすごく伝わってくるのだけれど、作っている人が酸いも甘いもある程度噛みしめているんだろうな。だからちょっととぼけたようなきらきらした人たちを撮れる。非常にささやかな恋愛未満であったり、思いやりであったりするものが僕にはすごくうれしかった。きっと作っている人が愛があるんだろうな。と思ったら僕より年下の監督でこりゃ参りました。ストーリーやいろいろは見てのお楽しみ。日曜に見たのに頭がもやもやし、しばらく感想が書けなかった。御免。Sep 08, 2007
天然コケッコーを
見に行く予定です。mixiでの知人、友人の評判がいいっていうのもさることながらスタッフがいい。「リンダ リンダ リンダ」を撮った山下敦弘監督。あの映画は静かなシーン(夜)がいいし、すごく心に残って後からしみじみいいなーって気持ちになった。それから脚本が「ジョゼと虎と魚たち」の渡辺さん。「ジョゼ」も僕は好きです。主題歌も「ジョゼ」のくるり。「ジョゼ」のあの曲…「ハイウェイ」も、胸に迫ってきました。全体の音楽はレイ・ハラカミさん。うお、豪華だ!!
今年の夏は暑いのと勉強と詩で、映画からは離れとりました。というか、ずいぶんご無沙汰してました。実は「夕凪の街 桜の国」もまだ見ていない…。たしか、まだやっているところがあったので、これも見に行きたいと思います。
なぜか今、侯孝賢の「非情城市」を思い出しました。あの映画、静かな映画だったな。激動の話なんだけど。僕はいつも余計なことをしゃべっているような気がしますが、優れた芸術というのはどれだけにぎやかでも「(事柄以上に)しゃべりすぎていない」気がします。だからその佇まいに耳を傾けようとするのかなと思います。「天然コケッコー」もそうであればいいなと思います。
Sep 07, 2007
何か面白いものがあったはずだし、あるかもしれない
19世紀ヨーロッパの画家の間で評判になった浮世絵っていうのは、どう日本から伝わったかっていう話を聞いたことがあります。赤瀬川原平さんの「名画読本」で知りました。ゴミだったんですね。伝わった浮世絵っていうのは。どういうことかっていうと、日本から陶器なんかを送る。陶器って言うのは割れ物です。だから、箱の中になんか詰め物をしなきゃいけない。で、もう流行を過ぎた浮世絵を丸めたり、ちぎったりして、詰めた。それで、フランス人とかびっくり!になったわけです。
この話がほんまかどうかということは、わかりません。赤瀬川さんは、尾辻克彦といって小説家でもありますから、よく出来たお話かもしれませんね。だけど、想像力を刺激します。
江戸時代には、相当な商品経済の発達があって、まあお金がある人しか買えませんけど、諸国で浮世絵を売っていた。アイドルのポスターみたいに流行の役者や、美人を画家達は腕を競って描いた。そしてどんどん刷る。この辺は消費経済で、今とあんまり変わらないかも。さらにすごいのは、流行らなくなると詰め物にしちゃうと。この辺の節操のなさというか移ろいのやすさも現代的です。今だったらお宝になるかもしれんからとっておこうとなるかもしれません。
いいのは、日本でゴミだとしても、ヨーロッパの人にはゴミに見えなかった。色だって、構図だって、新鮮。最初に発見した人はパズルみたいに必死につなぎ合わせていたかもしれません。僕は現代アートには詳しくないんで、あまり突っ込みませんが、ゴミだって芸術っていうのは、まあアリですね。便器を美術館において、芸術だって言った人はいますが、これなんかも、場所が変われば価値が変わるということかもしれません。でも、これは、あまりいい例ではないですね。一回、捨てられたものが甦るっていうドラマが僕なんかの心をくすぐります。
僕らの毎日は、何かの形でいろんなものを捨てて行きます。捨てるっていうのは、深い行為です。喜捨っていう言葉は喜んで捨てると書きますが、面白い言葉です。単に移動させてゴミ箱に入れるだけじゃなくて、自分の世界から次元を変えてしまう感じもします。
脳だって、当面必要のない情報は処理して、保存するか、どれくらい置いておくか、「忘れる」ことにするか決めます。だけど、捨てなきゃ良かったなあとか思うこともある。でも、もうゴミ収集車が持っていってる。浮世絵の場合、まさに「捨てる神あれば拾う神あり」。この場合の神っていうのは価値を与えるものって意味でしょうか。
でも、同時に誰にも拾われないまま消えていったものっていうのの、せめて痕跡だけでも大事にしたいと僕は思うことがあります。僕も忘れちゃうんですけどね。だけど、何か、あれよかったかもっていう感覚は持っていたらいいんじゃないか。どっかで聞いたのですがフーコーが、云ってました。キリスト教をつくらなかったけど、そういう発想をもって何もいわず死んでいった人がいるかもしれない、日本だったら、俳句をつくらずに放浪して野垂れ死んだ芭蕉みたいな人とか。ちょっと変わった発想ですけど。フーコーの場合は価値の土俵にさえ上っていない人ですが、いずれにしても、何か面白いものがあったはずだし、あるかもしれないっていう感覚をもつっていうのがいいかなと。そうすると歴史だって人だってものすごく、深く、面白く感じられるかもしれないから。目の前にあるものがもちろん大事なわけですが。
Sep 05, 2007
詩と思想9月号の詩誌評
海埜今日子さんが担当しておられる詩誌評欄にて、拙作がその中に紹介されていました。詩誌「索」終刊号に掲載されたものです。海埜さんは、4月号でも拙作に触れてくださっていました。索も終刊したので、終刊号に掲載された『台風の夜』を全文掲載します。自分では評価がなかなか難しい作品です。台風の夜
石川和広
人の話し声、車の音、美しいものもあるかもしれない、この町で。
空は晴れている。小さい雲が流れる。やっと春が来たようだ。
人のいない家には、人のいない匂いがして、ここに人がいないことを感じる。無を感じるというのだろうか。からだはこの部屋にいるのだが、死んだおじいさんとおばあさんの住んでいた家にお邪魔する。しばらく、本当の体はからっぽになる。留守にして、留守にお邪魔する。庭に木が植わっている。生垣が見える。ここがおじいさんがいた茶の間だ。悲しいというのではない。あそこには、おばあさんがぶつぶついいながら、家事をしていた。夏であり、台風が来ていた。こわかった。ドキドキした。おじいさんが、パッチ姿で、風呂から上がってきた。おじいさんの兵隊に行ったときの写真。美しい馬のようだ。限りなく限りなく夜は続いていくように思える。雨戸ががたがたする。わたしは弟と、お父さんの間で布団に入っていた。おじいさんは早く寝て、おじいさんと同じ空気を吸っているのだと思うと安心した。居間で母がテレビを見ている。風の音が鳴り、いやな気持ちになり、しばらく目を開けて天井の模様を見ていた。やがて眠った。
からだが半分くらい戻ってきてタバコを吸った。
このブログのコメントの仕方がちょっと変わりました。スパムコメント対策のため詳しくいえませんが、書いてくださる方はこれから、ちょっとご注意ください。追記として…無事、ふたつの〆切もなんとかクリアできました。8月は忙しかったので今は放心状態。いしいしんじさんの『ぶらんこ乗り』はひさしぶりにドキドキ読んだ小説でした。いしいさんの『トリツカレ男』も読んでみましたが、『ぶらんこ乗り』の方が僕は好みです。
Aug 29, 2007
『こころの病を生きる』
ひさしぶりに更新っす。レポートやってたもんで、ちょっと大変でした。この間、いろんなことは…なかったです(笑)ミスチルの『シフクノオト』を聴いていました。30代の憂鬱というか疲れと希望が歌われていて、いいなと思いました。中には、道徳的なテーマもあるのですがそんなに気になりません。でも、ミスチルの詩に感心しすぎると自分の詩が書けなくなりそうと思ったです。そこは、線を引いとこう。しかし、暑さには参ります。尋常ではありませんが、これもこれからの私たちの生活になっていくのでしょう。こないだ、佐野卓志・三好典彦『こころの病を生きる』を再読しました。買った当初はふーんって言う感じだったのだが、今回はすーっと入ってきました。佐野さんは統合失調症で、三好さんは佐野さんの主治医です。この本は往復書簡なので、難しくないです。二人で、病気と人生のことを、オープンに語り合っています。こんなにプライベートをさらしていいのとも思いますが、すごくいい雰囲気で、いいにくいこともしっかり話しているので、すばらしい。「共同研究」といっています。佐野さんは、当事者の作業所を作っていてPSWの資格もとっているので、憧れます。といってもすごく苦労があるんですよ。彼は、ネットで電気ショック療法の是非をめぐって、激しく議論して、疲労困憊し、一ヶ月寝たきりになってしまったというのが、現代的。そこをしっかりフォローしてアドバイスされている三好さんも立派だなあと思いました。人間関係やネットで調子を悪化させている方も多いと思いますから。これは、ひろく関心のある方にお勧めできます。調子の悪いときや再発についてよく触れられているので、そのときの対処について、病気の方やご家族、医師にも参考になるのではないでしょうか。もちろん、僕のようなほかの精神疾患の人にも参考になります。
それで、精神科救急の計見さんの『脳と人間』という精神科の本を買ってしまいました。あと、いしいしんじさんの『ブランコ乗り』、丹生谷貴志『ドゥルーズ・映画・フーコー』も読もうと思っています。丹生谷さんは、独特の文体とダウナーな展開でくせのあるひとですが、ちょっと好きです。フーコーは『言葉と物』を読んだ記憶があるのですが、中味はほとんど覚えていません。エリボンのフーコー伝は好きです。フーコー自身の猫を抱いてスキンヘッドの写真がナイスでした。どうしても悪い人に思えないんですが気のせいかな。それにしても丹生谷さんの本もそうだけど読めるかな。書名はいかついですが、クリント・イーストウッドについて、けっこうみっちり書いています。詩のネタにならないかな。
詩の〆切が近づいています。月末にふたつあります。しかし、なかなか書けません。過去のことではなく今のこと、これからのことについて書きたいと思うのですが難しいですね。
Aug 19, 2007
「天国で見守っていましょう」
某所の合評に参加。不調というか、書くことに迷いを感じながらも、何とか詩をひとつ提出できた。思ったより早く解散になったので、家で食事。24時間テレビがやっていた。不意にチャンネルを合わせてしまったのだ。特に、あのマラソンは苦手で、心が苦しい。見なければいいのだが、萩本欽一が走るので、坂上二郎さんが応援に来ていた。僕は萩本さんは苦手だが、二郎さんの風変わりな人柄がなんとなく好きなので、そこはじっと見た。脳梗塞で、数年前に倒れて、回復された後、NHKのスタジオパークという番組で見たことがある。そのときは、自然のあるところに移って暮らしておられるのを、少し滑舌が悪い気もしたが、快活に話しておられた。リハビリのことも話していて正直勉強になった。しかしである。萩本さんがスタートラインに立ち、いろんな人が応援に来る。最後に二郎さんが登場。しかし、二郎さんはこわばった顔で、「イヒヒ」と笑いつづけるのが精一杯なのだ。萩本さんが「なんかしゃべれよ」と2、3度つっこんでも、ほとんど話さない。
とうとう、そのまま萩本さんがスタートすることになった。レポーターに「一緒に見守りましょう」と云われた二郎さんは、こういった。「天国で見守っていましょう」と。
当然、レポーターは何言っているんですかとつっこんでいたが、二郎さんは相方のことが心配だったのではないだろうか。なんでこんなことをしなきゃいけないのという気持ちも僕はその発言に読み込んだ。二郎さんは死線をくぐっている。コンビと云っても老人二人である。色んな気持ちがあるだろう。それに奇妙な雰囲気。二郎さんの戸惑いや、悲しみや、まあ、単なるギャグかもしれないが、そんなものが伝わってきた。二郎さんを悲しませないでほしいと思った。そして、皮肉というか本音が言える二郎さんはやっぱりエライ人だと思った。
その後、レポートを書かねばならないので、ビールを間に挟みながら勉強した。小澤勲『認知症とは何か』を読む。あまり、直に認知症の方に接していないので、レポートを書けるか心配というか忸怩たるものもある。しかし、小澤勲の本は、入門書としては非常に丁寧で、おまけに小説の話も出てくる。だから、売れているようだ。小澤勲さんをNHKで見たとき、何となく、自分の好きなタイプの人ではないと思った。小澤勲さんは、末期の癌を患っている。岩波の前著でそのことを書いてから、5年近くは経っているのではないだろうか。人間の生命はかなり不思議なものだと思う。
そのあと、ラストサムライを見た。公開当時感動したが、今日は普通に見た。僕は恐い映画が好きなのかなあと思うが、どうも「あきらめずに戦う」姿に惚れていたようである。マラソンに感動する人と何がちがうのか少し悩んだ。あきらめずに戦うというのも、大事なことだが、がんばる老人を無理に作り上げるのは好きではない。ああいうのを見ると「好きなように生きる」ってそもそも難しいなあと思う。好きなようにというか自由に生きるというか。
Aug 18, 2007
サーバーダウン
きのう、おとといくらい、現代詩フォーラムが開けなくなっていた。今は復旧している。最近は、投稿しておらず、ログインしては眺めているという利用方法でした…Tさんの詩がけっこういいなと思いました。Aug 16, 2007
白梅学徒隊
この酷暑の中で、久々に清掃の仕事に行った。汗が全身から、噴き出して、気分が悪くなるほどだった。口の中がねばねばして気持ち悪く、お茶を飲んでもなかなか治まらない。職員さんとこんなとき「炭酸が飲みたいよねー」と云っていた。帰り、CCレモンを買った。家でシャワーを浴びて、ごくごくと飲む。やっと、すっとした。この酷暑で、熱射病になったりして、亡くなったひとはいないかと心配になる。最近、夜ご飯を食べたらすぐ寝てしまい、なかなかレポートが進まず。一昨日は、デイケアでエアロビクス。夏バテしないように昨日は焼肉「平和」に食べに行った。敗戦記念日に「平和」とは、なんとも不思議である。横では、小人のようなおっちゃんやおばちゃんのグループがスープの味に文句をつけたりしていた。なのに、焼肉をタッパーかなんかに詰めて、おみやげにしていた。こんな暑いのに、焼いているとはいえ、腐ってしまわないのかと思う。まず、翌朝には腐っているので、晩、あれだけ食べたのに、さらにおみやげ?誰か待っているんだろうな。
昨日、関西テレビのアンカーで、沖縄戦で6人が亡くなった白梅学徒隊の特集をやっていた。有名な「ひめゆり」とちがい、お参りするものもほとんどいないという。ひめゆりは有名だが、女子学徒隊は、他に6部隊あったと聞いた。白梅の死者の遺骨の引き取り手は無かった。どれが、自分の娘の骨かわからなかったからだ。だから慰霊塔のうらに遺骨がしまわれていたという。国もきちんとした追悼施設をつくらず、そうなっていたというのだ。それが、20数年前の出来事らしい。今でも自決した壕や、学徒隊が派遣されていた病院であった壕は残っている。最近、どちらかの壕の上に、公園が作られたという。なんと、壕の中に、工事で出た土砂を捨てていたという。弔われていない、大切にされていない死者の数は恐ろしいほど多いのだと、悲しくなった。
白梅学徒隊は、女学校生で、16歳くらいの少女が大半だったという。看護の手が足りないので野戦病院に派遣された。病院といっても、岩場に掘られている壕であり、手術室にベットはひとつ。薬品も物資もほとんどなく、毎日、負傷兵が運び込まれ、手足を切断するような手術が行われていたという。女学生達は、負傷者の排泄の後始末や、世話に日夜追われた。ショックと疲労のため、ほとんどの女学生達は生理がなくなったという。そんなとき、病院は物資が底につき、病院としての機能が果たせなくなったので解散ということになった。女学生達は突如、戦場に放りだされることになった。彼女達は、逃げ惑う人たちに混じって、逃げるが、爆撃もある。海岸方面に逃げた人たちは命を失わなかったが、戦闘が最も激しかった国吉方面に逃げた数名が、壕に逃げ込んだところへアメリカ軍が侵攻し、日本兵と共に自決したという。(この辺り、教科書でも話題になっている記述の部分かもしれない)いろいろ、思うことはあるのだが、それはうまく言葉にならないので、聞いたことだけ、書きとめておく。
Aug 12, 2007
金曜日でスクーリングを終えて
夜ご飯を食べると、すぐ眠ってしまいます。夜中目が覚めて、お薬を飲んでいるような感じです。やはり疲れたのでしょうね。しかし、みなさまのご声援もあって、今年の分は無事終わりました。来年もスクーリングがある。実習もまだ日程は決まっていませんが、ひかえています。レポートも、二ヶ月に一回はあるし、今月の後半に期限のあるものもあります。大変ですが、スクーリングを受けたことで、何を勉強しなければならないかが、うすぼんやりとですが、見えた気もします。そんなに自信はないのですが。日々、労働現場は、福祉もそうですが、生き残りをかけて、サバイバルゲームが行われています。そんな中で、一生懸命生きる、自分の生活を大事にすることは当然だと思うのです。しかし、保育士の子と話していて、また教育現場等において、親御さんも、子どもの何%かも、他者を思いやることよりも、あるいはお互い様と思うよりも、自己中になっているような気もするのです。私も、自己中なのですが、別にいい子になるというわけではなく、社会はお互い様で出来ているということを忘れたくないです。すぐには、自分に還ってくるような、数量に換算できるようなものが、還ってくるわけではないのが社会です。もちろん、今の、社会の賃金格差は目に余るもので、是正していかなくてはなりませんが、お互い様ということを忘れたくないです。自分の生活を守るというだけでは私たちの社会はジリ貧になっていくように危惧を覚えています。
今書いたようなことは勉強をしているときに、思ったことです。かつての職場で、「制度について勉強しなければならない」といっていた上司がいました。そのときは何のことかわからなかった。でも、この社会が、どのように成り立ち、どのような価値観や法の下に、社会が生成しているかを知らないと、ずいぶん悔しい思いをすると思うようになりました。なぜなら自分だけの問題ではないという感性が無くなって、なんとなく悲劇の人になってしまうのです。個々の運命と共にそういうことも感じておいた方がいいかなと思うようになりました。
たとえば、今の社会は「できる」という基準で社会が作られ、そのように人を見るのです。労働現場がそうですが、労働現場でも、正社員のうつ病が増えているように、「できる」で人を見、残していった結果、大量のパートの人と、少数の正規で組み立てられ、パートが苦しむだけでなく、正規の人だって、少ない数で責任を持たされるようになったのです。誰もが苦しくなってあまりいいことはありません。
私が、スクーリングを受講して不満だったのは、老人のことが圧倒的に多かったことです。人は誰しも年を取るし、高齢社会だし、介護保険はかなりがんばって作ったシステムなのですが、「できない」として排除されているのはそれだけではないと思いました。「できない」と括られている世界には、人間の成り立ちの不可思議をもうひとつの側面から見れる、深淵があると思います。
当たり前とされていることが難しいのは、人間の老いの場面だけでなく、発達の過程や、様々な過程で繰り返し起こることです。精神障害福祉が立ち遅れているのは何も、差別だけでなく、人生の様々な過程で起こる難しさに目を向けてこなかった。人間存在をトータルに見ず、様々な形で輪切りし細分化し、消費の対象としてみてきたからではないかと思います。
Aug 10, 2007
最終日
やっと今日でスクーリング最終日です。でも、結構早かったなあ。この間忙しかったので、連絡等滞りがありましたらすいません。今日一日がんばります。一昨日は、以前の職場の後輩で、今は保育士としてがんばっているMくんと、ご飯食べました。楽しかったです。Aug 06, 2007
ちゃんと学生しています!
昨日の韓国出身の李先生の『社会福祉原論』は、ユニークな授業であった。国家試験で最難関とも呼べる、この科目。李先生は、精緻なレジュメを作っていた。知識はいやでも、国家試験に向けて覚えなければならない。だから、李先生はそこは、後で勉強するであろうからと考えているのか、福祉理論や制度の背景にある、宗教や価値理念をとうとうと、マギー司郎のような口調で語っていた。キリスト教の「隣人愛」、仏教の「慈悲」、儒教の「仁」。知識を生かすものは、そのような見えない知恵や叡智であることを先生は語っていた。また、価値観同士の否定のしあいが、行き過ぎているといっていた。この意味で、先生はご自身が述べるように相対主義的である。その識見は、自然法思想を源泉としているようだ。「教養」もよく口にし、マックス・ウェーバー、トマス・モアと社会思想の古典を読むように進めていた。古典的な社会学徒であり、社会福祉思想家の中でも、日本で20世紀中盤に活躍した諸先生方に師事していたようだった。だからといって、難しい感じは、まったくしない。リラックスに謎の気孔を紹介する等、つめこみよりも、福祉の何たるかを楽しく教えようとしていて、気分良かった。そのあと、学生交流会に参加するが、すぐ酔っ払い、早々に帰った。無職には、仕事している皆様がまぶしい。今日は、『障害者福祉論』。障害者自立支援法に対する、バランスのとれた、危惧を述べていた。先生は、障害者福祉の分野で相談支援が日本では手薄だといっていたが、私もそう思う。参院厚生労働委員会「障害者自立支援法案に対する付帯決議」という資料をもらったが、政治家が、官僚がバカだから、悪政がまかりとおるといった批判は一面的であると思った。そうなのだが、真面目に仕事している人もいる。だがまさに支えあう社会がいかに構築されるか、実現段階でつまずいてばかりなのだ。なぜなのか。私は先生に反して、やはり、お上が現場の事をどれくらい知っているだろうかと不安である。短めのビデオを二本見せてくれたり、工夫されている。バリアフリーや障害について、語るとき、先生自身が足がお悪く、体験的な話で説得力があった。
学生気分で思ったより、脳が活性化し調子がいい。お二人とも、ベテランの教員であり、そして元気である。必ずしも、考えが私と一致するわけではないが、私は色んな考えを聞き、頭が活性化している。今まで見た先生は、世界や日本の現状に強い危機感を持っていて、わりかた良心的であると思った。ちゃんと大学だと思った。
Aug 05, 2007
二日目へ突入
昨日が一日目。開校式のあと、社会福祉援助技術論。話が抽象的で、理念的。さらに、授業の速度が速く、ノート取るのに必死。最後に小テストまであった。ぷぎゃー。今日は、どんなだろうか。社会福祉原論です。Aug 04, 2007
Aug 02, 2007
浴衣にお花
そんなわけで、もはや8月。スクーリングが目前に迫り、じりじりする感じ。気力、体力が持つよう祈ろう。昨日は、家族の誕生日だった。留守電にメッセージを入れた。酔っ払っていたので、いい加減なコメントだったような気もする。留守電は難しい。言葉がつながらなくなるので、棒読みになる。棒読みだと変なので、がんばるとますます変になる。そして、誰に向けて話しているのかわからなくなったりする。
昨日は飲んでいたのだが、窓際の席で駅の改札が見える店だった。改札を見ていると、やけに浴衣の女の子が多い。たしか、花火があったはず。それにしても、浴衣の着方がまずい人も多く、髪も浴衣にあっていなかったりする。さらに妙なのは、みんな、頭にお花をつけていること。みんなお花が頭に咲いている。流行なのか?みんな、事前に打ち合わせしたみたいにつけている。これも浴衣に似合わない。まれに、お花が頭に咲いていなくて、浴衣もくずれていないと(というか姿勢がいい)ほっとした。なぜか、今、吉田拓郎の”浴衣の君は~”だっけ、それが脳内音楽である。俺はいったいいくつなのか。
最近ビールをジョッキ一杯飲むと、急に、頭の中が、ハッピーになり、ニヤニヤしてくる。前はこんな酔い方をしなかった。そんで、芋焼酎の水割りを飲むと、急に深閑とした気持ちになり、その後ぽかぽかしてくる。薬理作用はどうなってるのか興味がある。
知人に『夕凪の街 桜の国』を読んでもらう。知人も中途半端といっていた。知人は恋がきちんと描けていればいいのにといっていた。どこを伝えたいか描きたいか焦点があいまいである。原爆を表現にするのは、難しい。帯にみなもと太郎が、多くの記録文学を凌ぐと云っているが、そうすると、『黒い雨』はどうなんだ?とか思ったりする僕はひねくれているのだろうか。映画の方が面白かったりして。
Jul 31, 2007
立ち読み『智恵子抄』
大阪は、何日か猛暑で、そのあと急に、涼しくなったので、気温の変化になかなかついていけない。なんとなく、朝、体がだるいような感じがした。それにも関わらず、人恋しさもあってか、デイケアに行った。そのあと、買い物を思い出した。スクーリングで使う社会福祉六法を買いに行った。いくつかの書店に行って、やっと買えた。色んな本が気になるが、なぜか、高村光太郎の『智恵子抄』を立ち読みした。小生、恥ずかしながら、レモン哀歌を教科書で習った以外、ちゃんと読んでいなかった。『智恵子抄』は、少し読んだだけでも、高村光太郎の「あなたが好きだ!!」ということが、惜しげもなく書いてあって、中てられた。これは、もう少し元気なときにきちんと読もうと思った。しかし、これだけ読み継がれているのは、きっと何かがあるにちがいない。立ち読みだけでも、とてつもない力を感じた。それはいまどきの時代では、宣伝文句にしか使われない「真心」というものかもしれないという予感がしている。(ただし、智恵子抄とて、作品だから、フィクションではあるし、高村光太郎や智恵子が、史実上どんな人間かということは、ここではひとまず置く)真心って「純粋」とかとは、語感がちがう。何かに対して全身で生きるということだ。(これは、ちょっと恐いことでもあるが)智恵子にそれを託している。こういう表現に流行り廃りはないのかもしれないと思った。一定の人間が、それを求めている。それに励まされるときが誰しもあるのだろう。私にも。他にも色々本を偵察し、やはりなんだかくたびれました。帰ってからも用事をし、時間が過ぎてしまった。それにしても活字中毒復活だー
袖のボタン
丸谷才一『袖のボタン』を読む。今日読み始めて、3分の2くらい読んだ。最近、政治のことばかり、書いて少々疲れたので、骨休めになるエッセイ。でも、中身は濃厚。折口信夫の命名の謎や、なぜ天皇は恋歌を歌わなくなったかや、野球、景観について、赤塚不二夫へのオマージュと多彩。反時代的で、同時代的。短くコンパクトなのに優れた批評として、読み応えあり。丸谷才一は確かジョイスの『若き芸術家の肖像』を訳していて、読んだ事を覚えている。僕は丸谷才一に対して、偏見を持っていたが、80にして、これほど頭が柔らかいとは、恐れ入った。しかも芯がぶれない。特に大岡昇平の『野火』を高く評価していて、僕も野火が好きなのでうれしくなった。ハイテンションでブログを書く日が続いたので、今日はこれくらい。Jul 30, 2007
敗因
昨晩は、雷が鳴ったし、雨が降ったので、朝ひんやりとしていた。すごしやすいが、冷えが心配なので、早朝風呂に入る。それから、シーツなどを洗濯する。天気が良いので、よく乾きそうだ。(何か曇って来たが。あ、天気予報見てなかった。主婦失格である。)そしたら、今夜、日なたのにおいのするシーツで眠れるよ。明日はデイケアに行く予定だ。厳しいスクーリングに備えて、活動できる体にしておかねば。で、皆さんには申し訳ないと思っているんですけど、また政治の話題です。ただでさえ、暑苦しい文章を書きがちなのですが、ご勘弁を。
安倍さんは、辞めないっていってますね。でも、青木さんも辞めるし、片山虎之助さんも、落ちましたし、どう議会運営するつもりなんでしょうね。参院が民主の城になったら、自民の法案は、ほとんどブロックされますね。僕は、前々からの安倍さんの議会運営のまずさっていうのは、けっこう大きい敗因だと思っています。
そりゃ、政治資金問題、失言、年金、数えていけばきりがないです。そういう点で、みんな、ムードとして、ダメだと思ったというのがひとつあります。ふたつ目は、旧自民党支持者も、ここ数年自民に翻弄されて、町村合併、地域格差などのことで、もう嫌気がさして、誰か何とかしてくれっていうのも、あります。
でも、重要なのは、果たして、安倍さんが議会制民主主義って言うのをわかっているのかということなんです。あまりにも、強行採決が多すぎます。安倍さんの自信のなさがあらわれています。余裕があるなら、ごり押しする必要はないですからね。昔の自民党みたいに、相手(野党や、派閥)を懐柔、根回ししながら、ポンポン通しちゃうというのは、良くないにしてもひとつの方法です。それも(能力上?)できない。小泉さんみたいに、国民の支持をバックに、それに反する人たちを抵抗勢力と名づけて、人気で郵政民営化しちゃうとか。あと、答弁では、まともに受けないで、はぐらかし、論点のすり替えをやってしまう。これもなめた話ですが人気があるからできたことです。そういうポピュリズム的な手法もとれない。
安倍さんは、たぶん、真面目な人なんだろうとは思います。それはいいのですが、正しければ自分の信念は通ると思っている。実現には過程が必要だということがわかっていない。これは、驕りに他なりません。こういう人は私も含めて多いかもしれませんが。
政治というのは、泥臭い作業です。自分の考えとちがう相手や嫌な相手とも話をしていかなければ、自分の思っていることは実現できません。そう、議会制民主主義は、対話なしにはなりたたないんですね。
しかも、安倍さんは、憲法改正を掲げていますし、教育基本法を改正しました。この辺りは、イデオロギー的に微妙な領域なのです。国民の大多数が、Yesと云っているわけではなくて、色んな考えがある領域なのです。変えたいといっている人たちばかりに安倍さんは会っているのでしょうが、別に左翼的な考えを持っていなくても、もう少しよく考えないとなと思っている人も多いはずですし、そもそも私たちはこの辺りの問題についての難しさというのは、普通の人であれば感覚的に大体わかっています。アメリカもあまり好きでないけれど、自衛隊の方もがんばっているけど、戦争に参加できるようになるのは、やっぱりまずいなあと思っている人も多いはずです。逆に、アメリカ従属を捨てて、軍にしたいという人もかなりいて、まとまらない。それが当然だと思います。その辺りの民意の錯綜を安倍さんは軽く見ているのではないか。これは「戦後レジームの脱却」といくら口で言ったって、だめです。リアルに国際的な日本の位置を見て、国内の民意の状況を見て、何が必要かを訴えた上で議論するというのなら、わかります。安倍さんの考えにもそれなりに支持はあるのですから、大いに議論しましょうとなるでしょう。しかし、そういうお膳立てをして、きちんと対話するということを安倍さんは忘れています。
あるいは、意図的にそうしているかもしれません。公務員改革、政治資金規正法あたりは、ざるですね。本当に官僚をコントロールして、政治の力を復権させるという覚悟がない。これも、よく状況を見て、いろんな人と話をしてという対話の前提を忘れています。とりあぜず、改革のポーズを取りたいがために、急いでいるようにしか見えません。小泉さんは、とにかく国民の支持をとりつけるためにあらゆるパフォーマンスをやった。小泉改革は負の遺産を残す事確実ですが、小泉さんには、とりあえず是が非でも国民を味方につけないと、政治なんて無力だという醒めた認識があったのだろうと思います。それもない。守旧派的方法は通じない。じゃあ、強行採決。
古い人も、小泉さんも偏っているかもしれませんが、それなりにニーズを把握していたから、それに答えていたわけです。それは、必ずしも国民の総意ではありませんが、何かには答えようとしていた。よしあしを別にすればリアリストだったわけです。安倍さんは、夢があるだけです。ニーズを的確に把握して、それに答える。考え方のちがう人とも話す。こういう地道なことをおこたっていると、敵だけでなく味方からもなめられます。要はちゃんと喧嘩もできない。喧嘩できたら、相手も本気になるし、政治は活性化して、異質な意見もどんどん入っていくことが出来ます。それが政治だと思います。権力者ですから、権力を使うのはかまいません。でも、それが国民のためになっているか、みんな見ているわけだし、その中で、ただ不正をしている味方をかばう。逆ギレするなんてことをやっているから、政治家の胆力のない奴として、見捨てられて仕方ないと思います。でも、日本の政治家は、議会なんて信じていないと思います。小泉さんも、守旧派も、野党も、どこかちがう方を向いている感じがします。しかし、年金問題は、長妻議員の委員会質疑の中からあぶりだされた。やはり議会は大事なのかもしれませんね。とりあえず、ちゃんとやれよということです。
『夕凪の街 桜の国』は、『はだしのゲン』とワンセットで読んだ方がいいような。
こうの史代『夕凪の街 桜の国』を読みました。うーむ、映画、どうしようかなあ。このマンガと『はだしのゲン』を比べてみると、原爆ものとしての持ち味の違いがわかるような気がします。あまり内容をちゃんと覚えていませんが『はだしのゲン』にあったものが、『夕凪の街 桜の国』にはない感じがするんですね。それは、怒りというのでしょうか。苦しめられ、奪われ、蝕まれていくことへのつらさが、怒りに変わってゆく。そこに、切なさを感じるのです。被害を受けた人間としてのまっとうな何かがある。『はだしのゲン』が時代遅れになっているというような言説があるようなのですが、私はそうは思いません。そこには、人間の宿命の何たるかが、ユーモアさえまじえて描かれていた気がするんですね。
それと、内面描写が非常によくできていると思い感心しましたが、トラウマをめぐる精神医学的な良心的な記述のようにも思いました。でも、このセリフはなかなか書けないとも思いました。精神医学から、人間の声の方に向かっているのです。すぐれたセリフ、カットはたくさんあります。構成も卓抜です。一部引用します。
誰もあの事をいわない。
いまだにわけがわからないのだ。
わかっているのは「死ねばいい」と
誰かに思われたということ。
思われたのに生き延びているということ。
そして一番怖いのは
あれ以来
本当にそう思われても仕方のない
人間に自分がなってしまったことに
自分で時々
気づいてしまう
ことだ
このような深淵があるということ。怒りとして表出されない何かがあること。そこに、冷たい風がとおっているようです。それは、ぬくもりがあるからです。生きているからです。生きているから苦しい。それをも受けとめる広がりと、行き止まりがあります。ここは、はだしのゲンとはちがう形で優れている。
「桜の国」に入って、二世、三世がどう自分の来歴を見つめていくか。しかし「このふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ」というセリフが私にはひっかかってしまった。感慨は湧きます。でも、そうでもいいんだけど、もうちょっと何か、それに至るまでに、何かないとと思いました。波乱万丈でもなんでもなくていいんですが。
つまり、既視感が強い。
自分がすごくいじわるな読者に思えてきたんですが、(好評な作品なので、袋叩きに会いそうでこわいです)全体から感じるのは、要するに、こう書けば間違いないという道のようなものが先にあるような気がするのです。でも、芸術って、最初に道をつくって、それをなぞっていくんだったら、面白くないんじゃないか。良心的で、原爆に関するある種の啓蒙書、入門書としてはいいような気がしました。非常に優れた技量の上に成り立った作品であるだけに、「収まりきらないもの」も必要だと思いました。その片鱗は充分あります。それだけにもっとと思うのです。『はだしのゲン』と比べたのは、そのためです。
あれは、やりすぎかもしれませんが、残酷描写にきちんと感情や必然があって、どうにも収まりきらない感触がありました。その分えげつない。そういうやり方に食傷気味の方は多いかもしれませんが、あちらを忘れたらさびしいなと思いました。ゲンと、『夕凪の街 桜の国』は、両方あって、それがお互いを補うという感じがいいのかなと思います。片方だけを読むと原爆を追体験するには足りないように思います。もっと読んでみます。
Jul 28, 2007
終わりのない始まり
夕方、帰ってきて、ちょっとくらいはいいかと思って、クーラーをつけて、今日は5時半に起きてちょっと疲れたなと思って、横になった。気がつくと、外が真っ暗で、唖然とした。8時半くらいになっていた。クーラーつけたら、あかんと朝のブログで云いながら、つけるとすやすや眠ってしまったのである。ちょっとヤボ用があったのになと思いつつ、焼きソバを作って、チューハイ飲んで、ルパン三世を見る。しかし、オリジナルシリーズとちがうし、話の出来は、つまらないタイムマシーンもので、テレビを切った。そして、何かないかしらと思って、「カーヴァーズ・ダズン」を読み始めたのだった。これは村上春樹が訳して、セレクトしたもので、前から持っていたのだが、読んでいなかった。学生時代、カーヴァーの春樹訳の文庫を読んだ事があって、それらが手に入りにくくなったから、こういう形になったようだ。
気の向くまま、「でぶ」、「夏にじます」、「使い走り」、それから詩の「レモネード」、「おしまいの断片」を読んだ。詩人であったことに驚いた。全集あたりを開けば載っているのだろうか。機会があれば、詩集も読んでみたい。
短編では、「使い走り」が心を打たれた。いい小説を読んだ。文体はしまっており、抑制されているが、真実があふれだすような感じがした。カーヴァーの最期の短編のようで、チェーホフの死がテーマ。 よくぞここまで、書いたというほど細部まで見事。臨終の直前の床、ホテルの一室で、医師がチェーホフと、チェーホフの妻とシャンパンを飲む。夜中にシャンパンを持ってこさせる医師もすごいと思う。シャンパンは注意深く医師の手によって、パーティーのようにならないようにコルクが開けられ締められる。医師が去って、妻とチェーホフの亡骸が二人きりになると、コルクが飛ぶというシーンがあるが、この演出は、全然嫌味ではなく、気取っているようで、全然そうじゃない。すばらしい。
入院中の面会謝絶の中を迷惑を顧みず、トルストイが尋ねてくるというシーンがある。トルストイの大物振りがちょっと滑稽な感じがするのだが、僕は、トルストイの『イワン・イリッチの死』(他はきちんとよんでいない、御免)という小役人が不治の病にかかって、自らを振り返るという短編が好きだ。しかし、どんなにささやかに書いたとしてもトルストイだなあと思わせてしまう、損なところがある。対して、チェーホフは、これはカーヴァー自らと重ね合わせているのだろうが、何か大きな価値が揺らいだとしてもぶれないものを書いていると、(これも数編を読んだ限りでは)思う。それは、人が、生涯の中で、持てる関係の範囲であり、その中にある無限だと思う。僕は、阿倍昭や梶井基次郎が好きなのだが、短編は小の中にある無限を書いているような気がする。気のせいかもしれないが。短編と詩のちがいはなんだろうと遠い気持ちになる。そんなに違いはないかもしれないし、あるかもしれない。
「レモネード」(詩)から引用。
子供は川岸に並んだ捜索隊の人たちの頭上を通り越していった。その両手はだらんと広げられ、水滴をまわりに飛び散らせていた。子供はもう一度人々の頭上を通過した。前よりもっと近いところを。そしてほどなく子供は父親の前に運ばれ、その足元にこの上なく優しくそっと置かれた。息子の死体が金属製のはさみみたいなもので川からつまみ上げられ、樹上でぐるぐると回転させられるところを一部始終目にしたばかりの、いまは死ぬ以外に何も望まぬ男の、その足元に。(レイモンド・カーヴァー「レモネード」)
この「優しく」という感覚は、どこかで感じたことがある。通ていするものを感じる。北村太郎の「終わりのない始まり」の一節。僕は詩をたくさんは読んでいないが、かつてこの詩を読んだときのことは忘れられない。以下引用。
たしかにこれで終わりです。百舌が高い樹のうえから
生きのこったものの心臓を
裂きました。そよかぜがコスモスの
草むらをなでてゆきました。遠くから
電車の走る音が聞こえます。たしかにこれで終わりました。(北村太郎「終わりのない始まり」)
カーヴァーの詩では、親が息子の死を見ている。北村の詩では、妻と子の埋葬の場面だ。見ている視点はちがうし、さまざまにちがう点を指摘できると思うが、何か、同じ普遍的な光景を描いているように感じる。死者にとってこの世界はどんな世界か僕にはわからないが、「終わりのない始まり」をわたしたちは生きる。そして、わたしたちもいつか消えるのだろう。その繰り返しの営みの結節点がある。しかも、これは一回きりだし、ちがう意味では一回きりではない。
Jul 27, 2007
夏の朝
夏の朝って、小さい頃、世界が広がるような感じがした。無限?みたいな。夏休みがあったからかな。写真はベランダの朝顔。朝顔って遣唐使が薬として持ち帰ってきたものだそうな。朝顔、夕顔、昼顔、いろいろあって、花に顔ってなづけるのがいいなあと今思った。そのくせ、どれも、主張していないような。顔って、深く考えると静かに語っているのかもしれません。人の顔も。
今日は5時半くらいに目が覚めた。昨日寝たのが、11時半なので、こんなものか。うちは、クーラーをかけずに窓を開けて寝ている。地球温暖化防止のためでもないが、実を言うと体のためであるかもしれない。夏に風邪をひくのは辛いっていうのもある。精神の病気になったときに、自律神経のバランスがうまくいかなくて、冷え性だったり大変だったので、体は、冷やさない方がいいと思っている。そんなんいうて、タオルケット蹴って寝たりしてますが、何しろ、冷えというのはしんどい。元気もなくなる。食欲もよくなくなる。いろいろ体に悪そうである。冷えは女の人だけに起こるものではないのである。体には、自動調節機能(ホメオスタシス?)みたいなもんがあって、自分なりに、環界に対応している。帰ってきたら、クーラーをかけないで、軽くシャワーを浴びるようにしている。これでも、かなり不快指数は減る。まあ、よほど、暑かったらクーラーかけるので、これからはどうかわからんけども。
セミが鳴いていて、ほんまに夏やなあと感じる。実は夏は苦手で、だから、夏の健康話みたいなのをしたのです。
Jul 26, 2007
音楽抜きで
梅雨も終わって、本格的に夏到来のようだ。掃除のお仕事をやっていると、たまらない。作業中、汗が、どんどん出てきて、けっこう辛い。よく一年も続いてるものだ。CDデッキも壊れている。なのに、買い換えていない。かれこれ一週間になるだろうか。かつては、音楽がないと死ぬとまではいかないにしろ、ちょっとそう思っていた。別にマニアックな音楽がすきとか、オタクとか、そういうわけでもないのだが。最近は、なぜか、音楽抜きでもいける。でも、あまりにも、遠ざかるとたぶんしんどい。節約月間なので、くるりの新譜は買ってない。どんなんかなあ。
ジンメルをぽつぽつ読む。美術評論も書いていて、意味はわからないが面白い。概念操作が多いが、確かなものもとらまえているとも感じる。ただ、モダニストの限界というのも感じる。対象に対して、遠い気もする。でも、最近こういう文章は見ていないので面白い。普通なのだが面白いフレーズをひとつ。
ひとりひとりが無数の先祖の遺産をまったく予想もつかない方法で混合し、自分の中に統合しているということ、これこそ人間の本性の豊かさに他ならない。ジンメル「肖像画の美学」
『血と骨』、『抱擁家族』、『全体性と無限』に感銘を受けて、感じたことが、このフレーズにも、あらわれている。自分の血の中にある、私の中の背景性(歴史)、莫大な異種の混合。それでも、まとまりであるように見えるなにか。詩を書くときよく感じます。すいません、自分でもいまいちまとまっていないので、何いっているかわかりません。
小説では、伊坂幸太郎も気になっている。面白いのかどうか。
昨日今日と、楽しい、満たされることが多かった。友達と遊んだり、いい知らせ(これは書かないでおこう)があったり。心が開いたり、笑っていられるうちは、まだ大丈夫かもしれない。スクーリングが始まったら大変ですが。
Jul 20, 2007
道の途中でみちのく鉄砲店
昨日、役所によって、自立支援医療の継続手続きをして、当日行くのがめんどいのと出かけるかもしれないので、期日前投票までしてきた。空いているのでいいです。どこに入れたかは内緒です。ふらっと図書館に入りました。現代詩手帖が置いてあったので、ぱらぱら見ていました。藤沢周さんと城戸朱里さんってお友達だったんですね。知らなかった。
ほんで、色々見てまわって、詩集のコーナーに来たので、こないだ中也賞をとった須藤洋平『みちのく鉄砲店』を手に取った。本を手に取るって、バクチ的要素がありますね。とんでもないのをつかまされたと思うときと、当たり~って思うときと。当然、お金を出すときの方がさらに、直感とリサーチの勝負なんですが。
図書館で借りずにその場で読んだんですが、非常に読みやすかったですね。読み安すぎてまずいとも思うんですが、僕は、この方の苦労がわかっていないのかもしれません。しかし、時々ほろっとしそうになって、こんなとこで、泣いたら、あかんと思う場面もありました。人としての情に訴えかける系統の文章かな。彼が障害者だからって、特別扱いするつもりは、ありませんが、それなりの刻苦を感じて生きている感じが伝わってきました。若いなあーと思うときが多々ありますが、時々けっこうしたたかな文章って感じがしました。でも、ちょっとテキストから浮かび上がってくる人物像がいい奴過ぎる、さわやか過ぎるっていう印象も持ちました。そういうのが僕は気になってしまうんですね。実際根がいい奴なんだろうなとは思いますけども。
主人公が、お母さんを殺したいと思ってると、ハーブティーをお母さんが運んできて、こんなの飲んだことないわ、ちょっとしょっぱいねという詩がありますが、ちょっとむずがゆい感じもします。皆さんの中には、私も含めて、思春期とかに「親を殺したい」って不覚にも思った方もいらっしゃると思うんですけど。それプラス障害があるので、親に対する悲喜こもごもがあると思います。でも、その感情をこうして、処理してしまうのは、もったいない感じがします。あざとさはないんですが、なんか、ちょっといい感じで話にしたって感じがして。実際本人がそう思ったとしたら、仕方ないですけども。まあ、好みの問題かもしれませんが。
そういうホームドラマ的な展開がうまく行っているなあと思う詩もあって、おじいちゃんに、ドラッグを買ったことがばれて、思いっきり殴られて、欠けた奥歯のあとが今でも痛むみたいな詩はあるんですが、この詩は、奥歯が痛いってのが、色んな感情の流れをせき止めてないかんじがして、いいなあと思いました。やはり時間というのは大事なんですね。
他にも、まあまあいい詩や、成功していない詩もあるんですが、本人に代わって、お兄さんがあとがきを書いていました。あとがきがお兄さんってのも驚きましたが、本人は「出尽くしてしばらく書けない」みたいなことを云ったと書いてました。
僕が思いますに、渾身の力で書いたのだろうし、体調がおもわしくないのかもしれないけど、もしかしたら、しばらくしたらまた書くんじゃないかなと。ここで終わりじゃなかろうと思います。これは愛をこめていうんですが、賞を取ったって、次、本を出すとかになったら、大変。その後も鳴かず飛ばずの人だって、詩に限らず大勢いるんだから、青土社から、出て、ちゃんと著者にゆかりのない図書館に置かれてるんだから、出だしはまあいいんじゃないかと思います。
これで、自分の地肩が全部出たわけじゃないので。世の中は、障害者であろうと、そうでなかろうと、書き手として出た限りは、厳しいのは同じなので、みんな親切に、「おう!こんな詩書いたのか」って親切にいってくれる人ばかりじゃないですから。と大した作品を書いていない僕が言っても何の説得力もありませんな。
あと、障害者だからっていう理由で持ち上げている方は、まさかいないとは思うんですが、そういうのは本人のためにならないと思います。いいと思ったらいい、ダメだしも、きっちりと。もし愛せないとしたら通り過ぎよ。それが、愛情だと思います。もちろん、固有の身体の固有の苦悩とか感覚って言うのは、あるので、それは大事です。でも、「ぼくのからだが芸術なんだ」みたいなことを書いていましたが、どうしてそうなのかっていうのは書いてほしかったです。ちょっと共感できず申し訳ない。それは突き詰めたらホントに大事な問題にぶつかりますから、もっと書いてみてほしいな。そこで止めないで。
帰りに、本屋によって、入門書は野暮ったい感じだったので『ジンメルコレクション』を買いました。面白い文章ですね。俺は文学者にはなれないってうエッセイもはいっていましたけど。不思議な書き手。あと、ジャン・リュック・ナンシーの本も買いました。ナンシー関ではありません。神山睦美さんの『夏目漱石は思想家である』も気になったんですが、高くて手が出ず、図書館で借りようかな。神山さんの本は『服従という思想』がとてもよかったから。
Jul 18, 2007
初盆のこと、佐々本果歩『姉妹』の感想
14日に帰ってから、台風が来た。16日に帰宅して、それからも、地震があったりと天変地異の猛威というものに驚いています。まず、新潟県中越沖地震で、被災された方々にお見舞い申し上げます。電気は通り始めているけれど、水道はまだだとか。ライフラインがやられるというのは、直に生命の営みに関わってきますので、非常に切迫した状況だと思います。なにより、地震で、倒壊したり、破損したりして、住むところがどうにもならなくなってしまった方々は、今日、明日だけではなくて、これからの生活がとても大変だと思います。これまで、暮らしていた住処を失うのはどれほど、不安なことだろうと、自分の身に引き寄せて感じたりします。あと、原発事故について、きちんとした全容解明が望まれます。
さて、14日は風雨の中、昼ごろ、徳島に着きました。なんとか、橋が通行止めになる前に帰ることができました。その日は、地元の那賀川が危険水域に達したし、雨風も強まり、大丈夫なんだろうかと思っていました。翌朝起きたら、風は強いものの、台風は過ぎていました。九州等いくつかの地域で被害があり、無事ではなかったのですが、水不足が心配されていた、四国のダムやため池の貯水量は、通常に戻ったようです。なんと、この台風で七月一ヶ月の雨量があったのだとか。
台風一過のさわやかなお天気の中、お寺で、初盆の法要がありました。住職さんの話によると、盆の起源というのは、こうです。釈迦の十番弟子のひとり、目連尊者は神通力第一の人。あるとき、亡くなった母親の様子が気になった目連は、神通力で、お母さんの様子を見た。すると餓鬼道におちて苦しんでいた。心配になって食べ物を送ろうとすると火に変わった。目連は途方に暮れて、お釈迦様に相談した。お釈迦様は、「おまえの母親が餓鬼道に落ちたのは、自分や自分の子どもに執着していたからだ」と答えた。お釈迦様のアドバイスに従い、修行に集まっていた僧達の修行の最終日に、僧達が供養を行うと、目連の母親は、天上界に上った。だそうです。
けっこう生生しいというか、親に対する思い、関係性があらわれているような気がします。母方の祖父母の家は、真言宗なので、「南無大師遍照金剛」を唱えました。お寺から出るときれいな雲と空でした。下世話な話なのですが、お供物はお寺さんが用意してくれたため、お布施をどれくらい包むのかが難しかったようです。志しとはいいますが、その無言の按配のようなものがけっこう難しいのだと思いました。私のときは、こういうことがちゃんとできるのかなあと心配になりました。しかし、何事も色々学ばなければならないですな。
親戚の人たちとお食事していたら、祖母の祖母の話になり、祖母に結構似ていたといって、盛り上がっていました。人の生きてきた歴史の連続性のようなものを感じました。こういう話は田舎でないと、出来ないので、貴重です。この日は、近くのスパに、伯父と父と、行きました。休み中なので混んでいました。近くで硫黄の匂いがしました。
スパに行く前に、大河ドラマ「風林火山」を見ました。大河を滅多に見ませんが、これは役者が演技派が多く、感心してみていました。この日は、武田晴信の重臣、甘利、板垣が、自分の身を賭して、晴信にこの戦の危険を伝えようとして、討ち死にするのでした。甘利は、竜雷太、板垣は、千葉真一。千葉については、私は、ファンではなかったのですが、偉丈夫ぶりにすっかりファンに。なんと、この大河で引退…悲しい。せっかくファンになったばかりなのに。しかし、この日の最期の大立ち回りの動きは、鬼神のようであり、68歳にしてこの動き、本当にこんな侍がいたのでは?と思い感動していました。
月曜は早く出ました。大阪に10時半には戻りました。そしたら、今度は地震。原発からは黒煙…新潟に実家のある友人に、ご家族の安否の確認の電話を入れました。無事のようで安心しました。それから、火曜水曜は、疲れが出て、横になっていました。なので、ブログを書くのが遅れました。
●佐々本果歩『姉妹』について独りよがりな感想
佐々本果歩さんから、手づくり小詩集『姉妹』が送られてきました。ありがとうございます。まず、感じたのは、一人の女性の今が、感じ取れるということ。そして、声に出しながら、朗読して、言葉の持つ調子を感じながら読みました。文字と、声というのは、ある場合、別物です。しかし、目で追ったとしても感じられる、詩の持つリズムというものは、書いた人の生命のリズムでもあるような気がします。また、それに少しでも近づいて、感じながら、聞き取りながら、読むことは、果歩さんのテキストを理解する際にも、大事なのではないかと思いました。私は果歩さんとは、詩のイベントや合評でお会いしたり、お話したりと、その人となりの幾ばくかは、存じ上げているので、客観的な評者となりえないかもしれませんが、だからこそ、『姉妹』には、果歩さんの、これまでの詩作における格闘の痕というものが読み取れる気もするのです。
表題である『姉妹』という言葉が重要であるように思えてきました。作品にも出てきますが、「けつえん」というものが、親子、兄弟とはちがった感じで感じられます。表立っては書かれていない、血で結ばれているということが、ある。互いにとって互いが自分の分身である。その逆にそれぞれが別々の世界を有しているということを「姉妹」という言葉はあらわしているのではないでしょうか。近親に対する複雑な感情。同一性と差異というのでしょうか。
いくつかのテキストを除き、詩の中に、いくつかの話(夢?)があらわれてきます。しかも、その間の連絡や文脈の疎通というものがなかなか辿れない。どの夢も終わりがないようで、完結しない、そこを巡っているという感じがします。一見、独りよがりなのですが、どれも同じ根源から出てくる想念の変奏曲であるように感じられるのです。その根源が果歩さんの言葉を果歩さんたらしめているように思うのです。しかし、彼女は、今回は、その根源から、出てくる想念に、ただ苦しめられ、ぐるぐる歩かされているのでも、捕らわれているのでも、そこから逃げ出そうとしているわけでもないように思います。彼女は、そういう自分の根源を見つめるもう一人の自分=姉妹を獲得しかけているようにも感じ取れるのです。なぜなら1ページ目に
姉様、
ことりが
ことりが
にげんとしている
とあるからです。ここで、話者=妹という位置を新たに獲得しているように思います。話者は、内的世界に捕らわれていることりを見て、そのことを「姉様」に伝えようとしている。
苦が苦であるのは、「逃れられない=外部がない」ということだろうと思います。しかし、単に客観的な視線を獲得するだけでは、「脱出」にはならないのです。私見ですが「逃れられなさ」をとことん味わってこそ、一条の光が見えるのかもしれません。逃れられないというのは翻って云えば、自分が自分でしかありえないということだと思います。つまり、自分が取替えのきかないものであるということです。事はそう単純でないので、「自分が取替えのきかないものである」という覚知に達しただけではなぜか充分でないので(自分の唯一性をがなりたてるだけではやっぱりだめです)、ここから、それを語り伝えるために、また新たな困難に潜りこんで行く。ここに文学というものがあるのだと思います。その「語り伝え」の話者の位置を捉えたこと。それは同時に自分に相対する他者=世界の発見でもあります。「船」がよく出てくるので、これは、他者=世界に船出してゆくものにも見えます。これは、すばらしいことで、また、しんどいことだと思います。
この問題は他人事ではないのであって、私たちの時代にあって、自分の生命や、心といったものに、肉薄した言葉を手にすることの難しさを果歩さんも生きているように思えるのです。それは、マスコミのせいだけでもないし、結局は一人ひとりが納得できるまで、自分で、生きてみるより他ない問題です。ある人は、ギターを手にするであろうし、ある人はペン、ある人は、愛する人と生きること、ある人は、自分の好きなことや仕事をすること。無限にその表れがあるように思います。それらを誰に無駄といわれても、生きることによって、自分の価値や、意味を見出してゆくこと。文学もその中にあって、長らく人間の本質的なことがらを描いていくことが責務とされてきました。今は、そうでもないといわれたりもしています。しかし、どこか世界の片隅で、文学が、生成しているという感じもあります。そういう家の灯りのようなものも幽かに感じました。まずは、自分の手にしている少ない言葉より始めて、悪戦苦闘していくほかないのだと私は感じています。
ちょっと脱線したようでもありますが、果歩さんのお作の軌跡の中にも、自分の言葉を獲得していく闘争の姿が現れているように、今回、感じましたし、それは、形はちがいますが、私も、考えている事だし、それだけでなく、他の私の友人やいろんな人にも、見られるのではないかと思って書いてみました。果歩さんの文体は、これまで、どこかサブカルの影響下にあったように思いました。(この問題も単純ではありません。佐々本さんは独特な知の体系というものを持っているように思います)それは悪くないのですが、今度は、サブカルに影響されているというよりも、それで、縛られているという感じではなく、遊ぶ事が出来ていると思うようになりました。
果歩さんは、詩の中で、「悪霊」と戦っていたりします。「悪霊」と戦うことを休んでしまったら、病と倒れてしまうわけですが、そういうカルマというか己の苦との戦いに対して、少しずつ、そういうのもあるけど、それは、「バーチャル」な戦いなのかもしれないといったような冷静な認識があらわれてきているようなのです。それが乾いた(これまでとはちがった)ユーモアさえ作り出しているように思えるときもあるのです。バーチャル(もうひとつの世界)な戦いも充分切実ではありますが、単純素朴に一生懸命生きたいという願いや、様々なものを愛したいという言葉も見つけることができます。リアリティとバーチャルが不思議な具合に住み分けています。このような感じはあまり見たことはないので、面白いところです。おそらく果歩さんの中に、過剰なまでに、正しいことと間違っていることの分別というか信念(信仰?)に近いものがあるのかもしれません。おそらく、そのようなものが、自分を許さず自分の内面を引き裂いているために、言葉が真っ直ぐには出てこない(ある意味素直ではない)、独特のエクリチュールを作り出しているのだと思います。
なにはともあれ、全ては途中であり、途上であること。発展途上であること。プロセスの大切さ。詩が生きようとするとき、人も生きている。解読の難しい部分はいくつかあったのでうまくいえませんが、そのことが、ちゃんと見えるような詩集でした。それは、果歩さんのこれまでのいくつかの仕事を少しは知っているせいかもしれませんが。好きな詩は、「あとおとふ」、「内へ」、「鳥覗き」、「右の船 左に船」です。うまく紹介できませんでしたが、マンガみたいだったり、ゲーム感覚だったり時代劇みたいだったり、色んな表現の面白さもきちんとあるので、いろいろやってくれている感が伝わってきます。
※「右の船 左の船」より
ただ一人の船員が、わたしの仲間である
ただ一人の船員が、わたしのスパイである
上を見上げて合図を送ったとき
わたしは一息に、渾身の力をこめて
とびうつり、てのひらの吸盤を赤ガエル並みにする
Jul 14, 2007
Jul 13, 2007
寿退職
デイケアの女性の職員さんが結婚で退職なのである。もちろんおめでたいことであるが、ちょっとさみしくもある。めでたくもあり、さみしくもあり。頭のいい人であった。昨日、友人に電話して、そのことを話していた。通信の『社会学』の第一回レポートの添削結果が返ってきた。おおお、素敵な講評である!教科書にはあまり載っていないフーコーのことをちょこっと書いたら、「その辺もっと展開してみてください」とのこと。おお、勉強しているって感じだ!どっかの誰かさんとはエライ違いである。成績もA判定である。うれしい。通信の先生も当たりはずれがあるとつくづく思った。通信はレポートとスクーリング以外、先生のお言葉を聞く機会はないため、先生の質というものは特に大事だと思う。通信を受ける方、この辺りにはくれぐれもご注意を。
社会学は、けっこう興味はあるが、あまりちゃんと勉強してない。最近、気になった本では、入門書だが、良書らしい『ジンメル・つながりの哲学』、ホルクハイマー=アドルノ『啓蒙の弁証法』。ユダヤ人つながりである。
ここからは、オタクによる、知ったかぶりの独り言なので適当に聞き流してほしいが、昔、マーティン・ジェイのアドルノ論を読んで、「プリズム」とか挑戦したが難しかった。
ハイデッガー批判の本は皮肉全開で面白かった。どんなに難しくても、遠まわしのようで実は直接的に批判している、それも、アドルノもハイデッガーもレトリックの達人であるから、嫌味に念が入っているのである。そういうのは痛快である。ひねくれインテリの喧嘩である。
確か『本来性という隠語』という本。「本来性」というのは、カトリック由来の言葉であるらしいのだが、まあ関西弁でいえば「ほんまもんらしさ」(まともに訳すと、アイゲントリヒカイトはもともととかそういう意味になりますが敢えてこうしてます)くらいの感じか。要はアドルノは、ハイデッガーが巧妙に、これは「ほんまもん」でっせといって、「本来性」という言葉を便利に乱発して、ハクをつけようとしていおるように見えて、そのやり口に怒っているのである。そんな便利にほんまもんっていいやがって。そんなことしていたら、インチキ宗教が「これはご利益がある。本物の教祖の髪の毛です」といっているのとかわらん。あたかも「本物のゲルマン魂」とかがあるような排他的な幻想を作り出し、近代人はひっかかったというわけである。そう、オリジナルの捏造。悪質だと怒っているのである。日本でも同じ時期に同じようなことが起こっていたように思う。
このハイデッガー批判が的を射ているのかは、ハイデッガーの全貌を知らないだけに何ともいえない。ナチに加担したからわるいという批判より、そういう本質主義によるゴマカシがいやだといっているようなのだ。もし、ハイデッガーが悪者だといって、血祭りにあげるのなら、ハイデガーの「本来性」と同じように思考停止であると考えているのだろう。ハイデッガー批判の難しさだ。言葉の問題に絞っているのが、アドルノの批評眼である。批判は時として、批判者の人格の低劣さがあらわれたりもするから。この点、アドルノも言いがかりに近いのだが、それでも、ハイデッガーの負の影響を直感していたのだと思う。
まあ、私は「本来性」という言葉自体に罪はないと思うが、ハイデガーはどういっても偉大な哲学者であることは間違いないが、アドルノにとっては、ハイデガーが教祖化されて、無批判に受け取られていく事を危惧したのではないか。以上、うろ覚えですが。(アドルノに詳しい方、自己流のめちゃくちゃな要約すいません。形而上を形而下にしてしまった気もします)
でも、同輩のベンヤミンのほうが肌に合っていた。(どんどん脱線するがアレントの『人間の条件』は感動した)マニアックな話でスンマセン。アドルノは、ばりばり、音楽通で、ジャズには批判的であった。二十世紀前半の人で、古典教養バリバリだから、商業音楽はぜんぶ嫌いだったのかもしれないけど。よく知らないが頑固親父っぽい。
最近、お金を節約しているので、購入は未定。アドルノは、大学時代、徳永 恂先生の授業で出てきた。先生はフランクフルト学派研究の第一人者である。お弟子さんに細見和之さんがいる。細見さんの『アドルノ』は、ドナドナの来歴が書かれていたと覚えている。ナチによるユダヤ人狩りがあのうたのテーマなのだ。確か作者も収容所送りかと、確かに泣けるのよね、あの歌。幼心にも重いものが感じ取れたのである。
アドルノといえば、「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である。」で有名だが、この言葉には何重にも、含みがありそうなので、「プリズム」で挫折した無学の私としては、ここでは言及を控えます。こういう言葉について、すっと書けたらいいけど、あまり考えると裏読みに走ってしまうような気がするので…
Jul 09, 2007
黄燐と投げ縄
今日は、石川くんに代わって、わたしが、お出迎えします。読者の皆さま、こんにちは。今日は、石川くんとお友達が遊びに来てくれました。天気がいいので、わたしの体を洗ってくれるそうです。
えー、石川です。お友達の犬さんのところに昨日遊びに行きました。彼女は水を嫌がらないので、体洗うのが助かります。いっぱい、なめられて、ひざに抱っこしました。近頃は時々抱っこさせてくれます。彼女は乙女なので、どきどきです。ほとんど鳴かないです。風を見ることが出来ます。空を飛ぶものが大好きです。純粋ってのは、こういうのをいうんだろうなあと思います。
子どもや動物には神性が宿っていると思うことがあります。きっと不思議な世界が見えているのだろうと思います。詳しくないので申し訳ないですが、柳田國男や、折口信夫は、近代人だけど風や、土や空や海のもつ不思議な力が見えていたのかもしれません。私小説作家にもそういう感性がある人がいますね。神は、デウスやゴッドでもありますが、世界には驚くほど多彩な神の形態があることを忘れておきたくないですね。
帰り、図書館で、灰皿町にもお住まいの清水哲男さんの詩集『黄燐と投げ縄』を借りました。この本は始めの詩を読んで、吸い込まれて「借りよう」と思いました。けっこうすごい力で釣られてしまいました。はじめて清水さんの詩を拝見したのですが、あなどりがたし。
詩集の中で、詩のクオリティのでこぼこがあまりないのに、驚きました。一定のいい感じを保っています。若い詩人の方々、こういう方も、ライバル設定(しなくてもいいですが)し、乗り越えていく必要がありそうですよ。ちゃんとサービスがあります。外向的な構えをしています。そこに含みがあるので、太くて、味わいのある詩です。関東なのにおいしいうどんのような。下村康臣さんの詩は感動しましたが、この詩には別の感慨がわきます。この感じ、今の多くの詩に欠けているかもしれません。サービスなくてもいいんですが。それと、昭和の空気が保存されています。それで現代を生きる変な感じもあるわけですよ。
驚くのは王貞治の本や花の3人娘の本や星座の本まで書いているということです。まさにノンジャンル。伝聞ですが俳句もやっているそうで。びっくりです。でも、「なあんてね」みたいなスタンスで書いているのは、理解できるのですが、そこは違和感があります。きっと私は知らない苦渋とか難しさをいっぱい見ているんですね。そこから諧謔というのかな、でも、生真面目な戯れですね。落語や川柳の空気がありますね。「決起せよ」が出てくる詩も、書き出しは素晴らしいだけに、最後で何かを閉じてしまっている気がしました。別の読み方があると思いますが。何か閉塞も感じてしまうときがあるんですね。なんでしょうか。たぶんご自身もそう感じていて、静かに苛立ったり、もがいたりしているような。
値段設定とか紹介の仕方によっては、色んな読者を獲得できる気もしました。それくらい、読み物として他のジャンルに負けないというものがあります。もちろんそれとちがう詩の方向性ももちろんあります。もう少し読んでみます。
Jul 08, 2007
養護学校って名前変わってたの…
今日、朝日新聞の朝刊を読んでいたら、足立区の小学校は学力テストをするんだそうだが、ある小学校で、障害のある子が提出したテストは集計にはいれなかったのだそうだ。人によって意見はちがうだろうが、これもまずいが、まだ問題は少ない気がする。より問題なのは、区の学力テストの成績が学校のブランドに関わるため、小学生達に過去問をやらせたり、試験中に、先生が机をたたいて、答えがまちがっているよと教えていたんだそうな。その結果前年44位から第1位へ。大阪はまだだが、東京は学校選択制をしいているところが多いので、こういうことが起こるのだ。自分の学校の評判を上げようとしている。でも、区立は公立なんだから、色んな奴がいるのがいいと思うんである。勉強の出来る奴も出来ない奴もいるから、人間の勉強になるのだ。それなのに、学力テストの成績がいい学校に殺到しているという。親御さんの気持ちもわかりますよ。だって、勉強できたほうがいいもんな。やっぱ就職にも有利だし親心である。それに荒れている学校って恐いのは僕も思う。でも、自分の子どもをじっと見てやってほしい。子どもがどんな奴かしっかり見てほしい。僕は、学力という指標もひとつだと思うが、どんな人間になるか、人にしんせつできるかとか、いい奴かとかちゃんと自分の意志をもっているかとか金遣いがまともかの方が、世間に出てから役立つことが多い。要は人として信頼されるかどうか。これは鍛えられない。(頭のよしあしも実は鍛えにくいと思っている)だけど、大事なことだ。親でもないのにえらそうに言ってごめんなさい。それとこの記事の中に「特別支援」って言葉が出てくる。なんか自衛隊の活動みたいだが、ちがうらしい。養護学校の名前が変わったらしい、今年から。「特別支援学校」にかわったんだって。知らんかった…「特殊学級」とかつて呼ばれてもいたらしいが知らなかった。「特殊」はひどいかもしれないね。関西では「養護学級」と呼ぶのが多かった気がする。だから、変えるというのは一定の評価は出来る。発達障害の子をどうするかということもあるし。でもまあ、この手のきれいごとばっかりの改革っぽいが、きっとシステム構築的なことはあんまりちゃんとしてなくて、現場は人が足りないとかなんだろうな。ちょっと、文科省のページを覗いてみただけだけど。
まあ、養護学校や養護学級は、「ヨウゴ」というて、差別というか悪口を叩かれていた。文科省の狙いは何かわからんが、でも、名前をかえてどうなんだろう。けっこうイタチゴッコなんだな。精神薄弱が、「精薄」と呼ばれて、やっぱ差別されていたので、「知的障害」に変わった。でも、2ちゃんねるをみていると「池沼」(ちしょう)なる言葉が使われている。かなり多い。どうしようもない奴は一定いて、どんな手を使っても差別する。そして、その言葉を使わなくても、バカにする人はいる。むしろ、初対面だと障害者に対して、戸惑う人が多いのが普通だと思う。理解のあるフリをしている私も含めた色んな御仁もあやしいもんだ。だから、ここは、性悪説でいこうじゃないかと思ったりする。具体的には思い浮かばないが、みんなどっかで(被差別者さえ)差別者になりうる、それは絶対の悪ではない。相対のものだ。差別は人類の治らない病気だ。でも、差別しても、それは楽しくないよねという風になったらいい。差別の快楽というものがあるが、それは、あまり程度のいいものではない。怒るのも大事で大切な力になるが、怒るだけでは解決しなかったはずだ。これまでの闘争者で、伝説的な人物はしたたかだったはずだ。「特別支援学校」の未来もどうなんだろう。正直気が重い。
今日もオチビサンはおもろいのだった。「鷹の爪団」のまねをやりすぎたら怒られた。昨日おとついと寝覚めよい。涼しい。がんばって掃除した。
Jul 07, 2007
阪神タイガース・下柳投手39才で通算100勝達成おめでとう
下の画像はめずらしいシーンです。というのも、下柳投手は極度にシャイなので、ヒーローインタビューをほとんど受けません。きわめて淡々と話しているのが通好みな選手です。でもちょっと照れ笑いしてますね。大の大人にいうのもなんですがちょっとかわいい。この飄々とした感じが好きなファンも多いと思います。もちろん、ガッツのあるひとなのですが。そのギャップが面白い。下柳投手は、今までのプロ野球の中で、一番年をとって、100勝達成した人です。200勝が名球界だから、大したことないと思われる方もいるかもしれませんが、そんなことはありません。勝ちを積み重ねるためには現役を続けなければなりません。プロ野球でも毎年、報道はされていませんが、たくさん引退していっているわけです。怪我も多いです。その中で、39才まで現役を続けるのは、相当しんぼうと実力の要ることです。日ハム時代は、抑えをしたりもしていましたし、日ハムも今ほど強くはなかったので、そんなに勝ち数はない。そんな中で、阪神に来て最多勝をとったり、先発の一角としてがんばってきました。その結果の100勝です。今年は、開幕投手もつとめましたが、前半はなかなか勝てず苦労しました。今は7勝4敗なので、二桁は勝てるんじゃないでしょうか。
下柳投手は、6回くらいまでで交替する事が多いのですが、スタミナはないわけじゃなく、むしろあるほうだと思います。ここまで、プロ野球を続けてこれた秘訣は、とにかく他の選手より、よく走るということじゃないでしょうか。走ることによって、スタミナ、下半身の力をつけているんでしょう。
ピッチングは日ハム時代は、力で押していました。しかし、年をとるにつれて、抜群の投球術を編み出しました。とにかく低めで勝負する。ボールをうまく使って、くさい球で勝負する。こういうと逃げているようですが、かれのスライダーのコントロール、曲がりが素晴らしいと共に、シュートでインコースをつくという攻撃的なピッチングでメリハリをつけています。左打者はスライダーが来ると思っているとシュートがくるので、バットの根っこ辺りに当てるのが精一杯といった光景がよくあります。今の下柳は、若手の上園と苦しい先発陣を支えています。
最後にホームページがかっこいい。ブログをみると彼の素朴な人柄が伝わってきます。ラガーの部屋を見てください。下柳投手にそっくりな犬が出てきます。彼が飼い犬を愛している感じがよく伝わってきます。下柳投手はかわいいものが好きな感じがして、みた目とギャップがあります。遠征の際はどうしているのか?写真は誰が撮っているのでしょう。彼女かなあ。
Jul 05, 2007
いらいらした日
今日はカウンセリングで、東大阪へ。待合で、ケータイを鳴らす人がいて、うるさいはで、正直いらいらした。帰り、蕎麦屋により、いつものように「蕎麦弁当」を食べていると、知った人が店に入ってきた。僕が障害者施設に勤めていたとき、施設にアドバイザー的な存在できていたN先生だった。僕は何年も前にやめた一職員なので、覚えておられないだろうと思い、声をかけず弁当を食べて、帰宅。帰り本屋によって、岡田斗司夫『世界征服は可能か』を購入。かつてはアニメで定番だった悪役の世界征服について、面白く、真面目に考察。岡田は、オタク学なるものをたてている。時々するどい文明批評があって面白い。『ぼくたちの洗脳社会』も面白かった記憶がある。「死ね死ね団」のことを知れてよかった。バビル2世の悪役ヨミ様は、超能力を使うと、年をとってしまう。だから、眠って休むのだが、またバビル2世が攻撃してきて、部下は無能なので、ヨミ様は、起こされて戦わなければならない。結果、三度も過労死しているというのはわろた。切ない。。帰ったら『障害者福祉論』のレポートが採点されて戻ってきた。残念ながらC判定。ぎりぎり、一応合格。講評は短いもので、「もっと文章の練習をしなさい」等等と書いてある。そういう先生の字も読みにくくて仕方なかった。おっしゃることはわかる。文章はうまいとはいえない。が、それだけだと具体的にどこをどう勉強しなおしていいかわからない。通信では先生にあえないので、何となく不親切というか不便だと思った。
Youtubeの貼り方がわかったので、張ってみる。今日見ていいなと思ったのはふたつ。ひとつは電気グルーヴで、もうひとつはスティング。(クラプトンと共演している奴もかっこよかったが今日はこちら)スティングのうたは、911のテロの犠牲者に捧げたもの。事件直後だったはずだ。電気の方はふざけているようにみえる。しかし、両者に通じるのは悲しみではなかろうか。とくに、電気の方のPVの天久聖一のマンガは素晴らしい。音楽と一体である。この両者を並列させるのが、僕らしいということで勘弁願いたい。形のないいらいらはつづいているが、これらには助けられた。
電気グルーヴ「弾けないギターを弾くんだぜ」
STING - Tribute to WTC Victims - Fragile
Jul 04, 2007
堀北真希さん、いいともにて
雨。掃除の仕事。今日はあんまり疲れず。帰って晩飯は味噌煮込みうどんを作る。具は、大根とニンジンと、冷凍ギョーザである。冷凍ギョーザは意外な感じもするかもしれないがけっこううまい。何とか詩を書く。アマゾンを見たら、私の詩集を買ってくださった方がいたようで、ランキングが上がっていた。誰だろう。うれしい。
昨日、たまたま「笑っていいとも」を見ていたら、堀北真希さんが出ていた。ドラマがそういう役ということで、男の子の格好をしていた。堀北さんは、バラエティに対してはけっこう冷め冷めのようである。恐いものみたさで、ドラマも見てみたら、そんなにひどくなかった。ただ、小栗某という男の子があまりかっこよく思えなかった。おじさんは、それでも、堀北さんがかわいかったので、少し満足した。もっと表情がイキイキしてくるともっといいのにと思っているが。
あと気になっているのは、当時はあまり好きではなかったのだが、裕木奈江さんがあのデビット・リンチの映画に出たというのだ。裕木さんは「ポケベルが鳴らなくて」というドラマに出ていたというだけで、時代がいつくらいかわかるくらいの感じだが、今は37才ということだそうな。写真でみたが今のほうが私は好みかもしれない。
今日はイチローがリーディングヒッターになって、松井稼頭央が5打数5安打、松坂2ケタ勝利と結構すごい日だった。だからなんだというわけではないが、みんなカッコいいなあ。性格はいろいろだけどね。松井稼頭央が一番好きかな。イチローも松坂もプライド高いからね。まあ一流なので当然ですが。
今日、掃除をしていると、ひさしぶりに同じになった職員さんと話してて、海に行ったそうな。肌がひりひりするというので、6月の紫外線はキツイんですよというと驚いていた。彼はサマソニに行くらしい。うらやましい。私は8月は、通信のスクーリングなのである。彼はまだ資格を取っていないというのである意味同志?かもしれない。
Jun 29, 2007
詩集
昨日も暑くて、しかも掃除の仕事で、汗をかいてけっこう疲れる。お腹の調子もいまいちだった。帰って風呂入って、早めに寝たら、ある程度疲れは取れたようだ。2~3回目が醒めたが、6時間は寝た。昨日の夕方、倉田さんより、斉藤恵子さんの詩集『夕区』が届く。倉田さんがかしてくれたのだ。ありがとうございます。きれいなブルーの装丁で、2~3編読んだが、非常に上品な言葉遣いだ。押してこない。そっと置く感じ。グルーブがない感じでもない。最近は、若い人が(自分も若い?)どんな詩を書いているかと思って、図書館で借りた思潮社の新しい詩人シリーズを2冊ほど読んだ。もう少し他の色んなタイプの詩集を読んでみないと、やはりそれぞれの真価はわからない気がした。広い世界の中に、詩を置いてみる事。僕は、いろんな世界に対して、素人の意識が強いために、詩もそれほどの量を読んでいるといえないために、なかなか難しいが。詩に対しては、(それだけではないが)いつでもチャレンジャーの位置にいたいと思う。若い人ではないが、昔吉田文憲さんの詩にはまったことがあって、最近の詩集『六月の光、九月の椅子』も図書館で借りてみたら、言葉の夾雑物がとれて、美しくなっている反面昔の僕の好きだった生っぽい感じが減っている気もした。吉田さんでは『移動する夜』が好きです。きらきらしてて、切ない感じです。『六月の光、九月の椅子』より、気づかされた一節を引いてみる。
なにを苦しんでいたのだろうか、という問いは、なにを殺そうとしていたのだろうか、という問いと同じではないか。(吉田文憲『六月の光、九月の椅子』思潮社2006)
新しい詩人シリーズを読んだ後、続石原吉郎詩集をぱらぱらめくっていると、石原の言葉の迫力をすごく感じる。この違いは一体何なのだろうか。石原の詩と時代はちがうわけだがけっこう深刻な気もする。
Jun 27, 2007
ゴマだれうどん
掃除の仕事に行った。しこたま汗をかいたので、今日二度目のシャワーを浴びる。雨のないこの暑さはけっこう堪える。体が熱い。診察へ。待っている間に、『血と骨』上巻を読み終えてしまった。先生に診断書をお願いして、帰り、駅で、うどん屋に入る。ゴマだれうどんとおにぎり。ゴマだれうどんは350円なのだが、ざるうどんにゴマと出しのツユをつけて、食べる。薬味も何もなく、ノリがかかっているだけだが、これが滅法うまく、この値段で、すばらしいと満足。駅のうどん屋っていいよね。電車にゆられて、駅について、『血と骨』下巻を購入。今日、朝の日記から進んで、戦時下に入るのだが、相変わらず、俊平は家に帰らず、ふらふらしている。家族が増えて二代になる。奥さんの英姫さんがしっかりしているからなんとかなっているが、普通ならとっくに家庭崩壊である。日本人と、朝鮮人の家族に対する感覚はちがっているようだ。この時代の日本人も家父長制の中を生きていたわけだが(今も家父長制なのかはわからない)ふるさとを離れた朝鮮の人の結束はなかなかに固い。いい悪いは別にして。(そこを作者も繊細に描いている)上巻の最後で日本敗戦。
ひとつ気になったのは、性描写が観念的な感じがすること。性も観念かもしれないが(ちがうかもしれない)女性の感覚の側から描いて、いかに、俊平が官能の世界に引っ張り込んでいくかを描いている。しかし僕だって、女性の感覚はわからないけれど、ホンマにこんなふうな感じなのかなとちょっと思った。
でも、こういう男むさい小説を読んでいると、自分も男なんだなあ、と思えてくる。自分の男性性を意識する。昔、ヤクザ映画を見た人が、肩をいからして高倉健のまねするというあれか。ヤクザにしても、俊平にしても、元も子もない言い方をすれば、暴力で形をつけているから、ある意味かっこ悪いのだが。かっこ悪いから男はかっこつけたがるのだろうか?長年弱虫をやっている私であるが、本当にカッコいい男になるにはどうしたらいいのか。むずかしいところだ。でも、知らず知らず、自分は男で、何か、少し力がみなぎる感じが体に感じられるときがある。少し意識がシャープになり、歩いていると、人ごみの中を(人ごみはしんどいが)スムーズに歩ける感じがした。体のめぐりがもっとよくなるとそういう感じはもっと増えるかもしれない。でも今日はやっぱり疲れたなあ。
役所に行った
今日も蒸し暑いです。昨日は、精神障害者保健福祉手帳と、自立支援医療の両方が7月末で、更新なので、役所に行ってきました。昼の役所も人がたくさんいて、特に障害福祉課だといろんな方がいて、ついつい聞き耳を立ててしまうのでした。いかんですな。年金の等級で、手帳の等級も決まるので、年金証書と振込み通知書をもっていきました。あと印鑑。肝心の手帳を忘れて焦りましたが、後でコピーを郵送すればいいということで、同意書と届けを書いて、手帳のほうは手続きできました。自立支援医療のほうは、書類をもらって、今日、主治医に、書類の診断書の欄を書いてもらおうと思います。帰り、最近、ご無沙汰している喫茶店のマスターが自転車で、通ったので、挨拶しました。覚えていただいているようで、よかった。
帰って、『血と骨』上巻の続きを読みました。主人公の俊平は、やくざを半殺しして、警察と裏取引で、10日で出所。その後飲み屋のシングルマザーを気に入り、本人の意思確認もせず、結婚式を勝手に上げる。そして奥さんから金をせびって、女のところにしけこんで、たまにしか帰ってこず、本妻に子どもができて、子どもを俊平の居ないときに、不慮の事故で亡くすと、妻を責め、暴力を振るう。殺されると思った、奥さんは、子どもと逃亡するが、俊平はいどころを突き止めて、奥さんは、ボロボロになるまで逃げる。と、俊平のその凶暴さ、わがままさ、理不尽さはすごいです。DV小説として読めるのではないでしょうか。なぜ奥さんは夫から逃れられないのかなどの謎がわかるように思います。ここから先はまだわかりませんが、正直、奥さんがかわいそうで、苦しくなりました。普通に人情で読んでしまいますね。ときは世界恐慌のおりで、今よりももっと苛烈なリストラが行われ、当然、朝鮮人は先に解雇されて、抗議に行くのですが、失敗。共産主義者とのつながりを疑われ、俊平の親友の信義は、厳しい取調べを受けます。この辺り、済州島と日本を往復する船の問題と絡んでいて、動向が気になります。どこまで真実かはわからないけど、歴史の勉強になります。大阪の話なので、知っている地名も出てきます。布施はまだほとんど田んぼです。
Jun 23, 2007
桑田選手、イチロー選手から三振をとる
Youtubeより。まずこの映像を見ていただきたい。色んな感慨があるが、この変化球の曲がりはすごい。彼は一時「投げる不動産屋」といわれ、くそみそにマスコミに叩かれて、当時高校生だった僕は、なぜかそのことにとても嫌な気分になったことがある。今は、桑田選手は野球の聖人のように扱われているのだから、変な感じだ。桑田選手が、多くの後輩選手から尊敬されているのは事実だし、僕も桑田選手の活躍がうれしい。だが、桑田選手が神秘的といおうか形容しがたい個性の持ち主という感じも否めない。しかし、とにかく、この変化球には参った。素晴らしいと思った。今日、ミュージックステーションにマルーン5が出ていた。ちょっとお得な感じがした。
Jun 22, 2007
血と骨を読み始める
カウンセリングの帰りすっきりしていたので、本屋に入ってぶらぶら。梁石日『血と骨』を手にとって購入。読み始める。在日朝鮮人の物語。梁石日の実父がモデル。まだ読み始めなので、感想があまりいえないが、主人公は、強そうである。北斗の拳のラオウが頭の中に出てきた。映画化されていて、映画は見ていないが、ビートたけしがこの役をやったらしい。あるサイトをのぞくと、前田日明がよかったのではないかとか、いや赤井英和だとか、はては、河島英五がいいのではとか。確かに原作を読む限り、ビートたけしも恐い男を演じるのに、一日の長があるが、原作を読む限り、神話的な暴君、怪物という感じでむずかしい。冒頭近く、天王寺公園が出てくる。主人公が賭場から帰って、そこで追っ手を殺してしまうわけだが、戦前の天王寺公園は今のように整備されておらず、夜になるとけっこう物騒なところだったんだなあと思う。今はカラオケ通りも整備されてしまって、ある意味寂しくなってしまっているのであるが。大阪は、僕は北部に育ったが、アジア的なかんじのところがいっぱいある。
この作品は、「差別と戦って、がんばっています」というものではなく、戦中、戦後という乱世を己の力のみを信じ強引に生き抜こうとした男を描いた点が新しいのではないかと思う。マイノリティなのだが、被害者的な面ばかりを押し出すものではないようだ。まだ全部は読んでいないので楽しみだ。
まだ、拉致問題も、朝鮮総連の件も明るみに出ていない時代の作品。この作品はそういう事実が出て古くなっているかというとどうもそんな感じがしないのである 0001.bmp
Jun 17, 2007
掃除して
昨日ミュージックフェアを見た。斉藤和義はとても色気があった。男として嫉妬した。今朝は、昼から、雨が降るわけでもなく曇り。午前中に、洗面所と風呂を念入りに掃除。昼寝をちょっとして、詩を一本書いた。今日は夜、仲間と詩の集まりがある。来月の半ばに祖母の初盆がある。祖母の事をちょっと思い出している。葬式のときの光景など。
Jun 16, 2007
ラピュタみて、UAみて
梅雨入り、二日目で、雨はなし。デイケアに行った。小島信夫『抱擁家族』読了。夢中で読んだ。
帰って晩御飯を食べて、ネットを見ていたら、今日はテレビで『天空の城ラピュタ』が、再放送されるとあって、みた。20年前の映画で、僕は、ちょうど中学に上がるくらいの頃で、とてもその当時熱狂していたのを思い出す。今見ると恥ずかしい部分もあるのだが、やはり面白い。ムスカのロリコン伯爵ぶりは、迫真。ラピュタから、ビームが出て、ムスカが高笑いしながら「人がまるでゴミのようだ」というシーンもえげつないし、ある意味すごい。それにドーラばあさんはホントに強いなあと思う。ラピュタを見ていない方はなんのことかわからないかもしれませんが、ご勘弁を。
そのあとUAの出ている番組も見た。UAは、高校が僕と同じ学区だったりして、何となく親近感をもって、みている。年もたぶんあまり変わらない。自分と比べ物にならないくらい売れっ子なのだが。最近はあまり聴いていないが、テレビで歌っている新曲を聴きながら、この人はどんどん色っぽくなっていくなあと思って、感心していた。あやうく惚れそうになった。細野春臣と一緒に歌ったり、樹木希林と対談したり、なかなかシブいというかシビレル、ラインナップであった。こういうのどんどんやってほしいな。しかし、今や、UAは、色々引っ張りだこやなあ。日曜はスガシカオと斉藤和義が、出るから、これも楽しみ。明日は、診察で採血の結果が出るから、また、何か数値がオーバーしていたらいやだなあ。あと、年金のことを先生に報告しないと。
Jun 13, 2007
社保庁からの手紙
今日は曇り空で、蒸し暑い。下村康臣さんの詩集の在庫がわかった。『室蘭』、『リサ、リサたち、サキ、サキたち』の二部作は在庫切れだそうだ。『跛行するものたち』、『黄金岬』、『ハドソン河畔の男』は在庫あり。どれにしようかな?
この時期に社保庁より郵便。何かなと思っていると、私の障害者年金の通知だった。額が変更になるようで、残念ながらというか少し減額。障害の重さで等級が決まるので、元気になって、障害が軽くなったのはうれしいわけであるが、ちょいっと懐具合が痛い。節約とか、やりくりとか、また今後の就労なんかも考えつつ、やりくりしないと。まずは、デイケアのワーカーさんに相談しようっと。
最近、ニュースを見ている。メディアリテラシをきちんとしないと踊らされる。社保庁は「どんだけ~」という有様であるが、マスコミの煽りなんかもあるので、少し注意してみる必要がある。私の年代の感覚からいって、「年金ってあやしい。払ってもどうなん」とはずっと思ってて、それが庶民感情だったと思うわけだ。私は、情けないことに払ったり、払えなかったりだったので、あまり偉そうにいえないわけだが、働いていたときに、納めていたおかげで、障害年金をいただいて、ずいぶん助かった。かといって、社保庁の今の惨状は、かばうことは出来ないわけで、なんとか早急に、社保庁の闇を徹底的に暴いて、しかるのち、新しい社会保障システム(公平で多くの人に説得的であるような)、財源の設計をこれは、政治家にやってもらわないと困る。でもそんなこと日本の政治家に出来るの?一国の方針にかかわってくるわけで。そうとう大きな政治的決断が必要となる。国民の合意はいうまでもない。このまま、社保庁がだらしない対応をしていると、大変な騒ぎになるのはまちがいない。まあ皆いっているんだけど。 どこかで、ラジオの音源があって聴いていたのだが、この内容が、おおまかに本当に近いとすると、そもそも年金制度は、国民の福祉ではなく、存立趣旨から、官僚の財布だったわけで、いかんです。→TBSラジオストリーム(小西克哉司会)ニュースさかさめがね6・11、6.12、6.13
※上に掲げた写真のポスターのフリーダイヤルじゃない方は24時間対応ではないらしい。書いてあるのにねえ。
Jun 11, 2007
レポート書きあがる
社会福祉原論、障害者福祉論、社会福祉援助技術論、社会学の各第一回レポートが書きあがった。疲れました。明日、郵便にて提出。2ヵ月に一回は必ずレポート提出があるので、気が抜けない。今日も、時々パニクりながら、レポートを印刷していた。介護業界ではコムスンは昔から評判は良くなかった。かといって、それをワタミがやるようになったから、良くなるかは全く不明。急速な市場社会化と高齢化で、厚生労働行政も、バタバタだったことが年金の件でもわかる。耐震偽装だって、ホリエモンの件だって、やはり急速な市場社会化に、政府が場当たり的に対応していたから起きたようなもので、これは、やはり一連の無策の帰結というべきか。小泉前首相が、郵政民営化だけにしぼって、選挙をやったりしたのは、彼が、如何に、政府の無策を知っていて、自分の在籍中は問題を浮かび上がらせないか、腐心していたためだろう。彼は自民党をぶっ壊すといって、いかにも自民党的な腐敗から距離があるかのようにパフォーマンスしたり、非常に狡猾だった。
安部政権になって、逆に官邸の脇が甘くなり、いろんなところから、情報がリークされて、一連の不祥事のいくつかが明るみにでたわけだが、何年も潜伏していたんだろう。絶対、いつかは、表に出ないとヤバイ問題だった。年金は象徴的だが、残念なのは、与党はもちろんどの政党も根本的な対処策が出せそうもなく、それがあまりにも困ったものだ。一体、どうすればいいのか。どのような力が今の腐敗だらけの政治行政を変えられようか。
Jun 07, 2007
家族のようだなあ
楽天の田中、三勝目。いやー、田中の、マウンドでの目つきはすごい。メンチ切っているみたい。田中がいいのかなと思ったが、最近の阪神が弱いのか。今の阪神を見るのはかなり辛い。田中を援護するために、38才、山崎武がホームランを打ち、田中のあとを、40才の吉田豊彦が抑えた。田中とは、親子のような年の差のある選手や、すっかり好々爺になったようにも見えるノムさんに囲まれ、全く家族のようだなあと思うのだった。楽天、もっとがんばったら、プレーオフ出場権を手にするやも知れず、台風の目か。かなりの戦闘集団になったのは、選手個々の目つきや、動きがはつらつとしているのでもわかります。Jun 01, 2007
もう一息
もう6月である。今月最初のデイケア。人数がまあまあいたので、勉強はやめて、自主活動は、持ってきた読みかけの小島信夫の小説『抱擁家族』をちょこっと読む。けっこうドロドロした家庭崩壊劇のようだ。プチブルジョア的であるが、浮気問題など、王道の家族小説かもしれない。しかし、そんな括りでもなくて、これは、やっぱり小説というスタイルがしっくりするなあと。迫力のある文章だ。今、家庭崩壊劇を書くと、また全然違うんだろうけど。家族はとっくに崩壊しているとする人もあるが、本当なのだろうか?が、途中で十分ほどウトウトしてしまう。今日は、あまり話したことのないメンバーさんが多く、一人静かにしていたので、つい、ウトウトしてしまった。世間は、大臣の怪死や、年金記録漏れ5000万件など、どうしたらいいかわからないくらい、ドロドロであるが。政治は役人はどうなっているんだ一体という感じ。今に始まった事ではないが官僚帝国である。その異常さが表れてきていると思ったりする。
下村康臣さんの詩集に感動したので、手元に置いておきたいと思い、ワニプロダクションに電話。二部作の片方は、在庫切れだそうだ。一冊注文。下村氏の他の詩集のリストも同封してくれるようだ。
帰ってメシ食って、社会福祉原論のレポートの下書きをする。これで、今月半ば提出のレポート4つのうち2つは大体出来たことになるか。もう一息。
May 30, 2007
下村康臣さんの詩集はすごい。
勉強がはかどらなくて、家人に叱られる。そのせいばかりではないが、今日は社会福祉援助技術論のレポートの下書きをする。うまく字数内におさまりそうだ。図書館で見つけた下村康臣さんの2000年に出た二部作をこの間勉強そっちのけで読んだ。うまく感想が云えないくらい、圧巻の詩集。昔、梶井基次郎を読んだ時の熱狂を思い出したり。詩と散文の区分を越える何かがある。まちがいなく本物の文学だということはわかった。これはおススメです。『リサ、リサたち サキ、サキたち』と、『室蘭』。すいません、うまく感想が書けません。自分の中に蓄えときます。一つ、これは、重要だという言葉を引きます。
君が居なかったら、君にとって私が居なかったら
誰か他の者がいたのだよ
ぼくたちは常に別の人だ
※下村康臣『リサ、リサたち サキ、サキたち』ワニ・プロダクションP6
ここ何日か、妙な事件ばかりだ。世の中おかしなことが多すぎる。根底的に何かが腐敗している。
May 25, 2007
日々記及びリンキンパークのこと
今日は朝からバッチリ雨。デイケアに行ってきました。面談が入っていて、職員さんと、現状について、今後について、話す。最近は、ひきこもりにならないように、週2回くらいデイケアに行くようにしました。あと週2回は清掃です。何らかのメリハリをつけないと、またしんどくなってきたら、あかんので。(これは最近思いました)まあ、これは、人それぞれ、利用の仕方があるんだと思います。
人生何が起こるかわかりませんが、ここまで、ある程度、良くなってきて、悪い意味で(いろんな意味で失敗を恐れてはなりませんが)躓いてしまっては、水の泡(回復するまでのロスが大きすぎる)なので、少しずつ、自分に負荷をかけていく。社会福祉士の勉強を始めたのには、こんな理由があると思います。っていっても、「やろうかな」が先に来たんですけどね。そういう意志が出てくるとやり時です。(そのいくつか先に、働いてもいいかな?がくるのかもしれません)正直、まだ疲れやすいです。よくグターっとなっていますから。ここは、焦らないように、辛抱強く、やっていかんと。それは、やっぱり、自分のためもあります。病気になってから、培ってきたものが悪いものばかりではないですから。よくよく振り返っても流れがありますし。こういうと、とてもイイ子みたいですが、実際は、形にならない不安がいっぱいあって、けっこうしょうもないことで、いっぱいいっぱいになりがちです。でも、これは、病気かどうかだけではなく、生きるって、そういうことだろうから、仕方ないとしかいいようがないですね。もう、やり過ごせないけど、「仕方ないなあ」とか云って、時間が流れるのを待つしかありません。結果がすぐ出ることばかりではないからだと思います。場合によっては、因果関係がつかめません。個人的に精神の病気にとって、日にち薬というのは大事だと思うようになりました。これも、その人の病気によって、歩みによって、ちがうのですが。
いずれにせよ、社会は、働くとは、相当、しんどい場所になっています。精神疾患での労災認定は、最多となっているらしいと新聞で読みました。自殺する前に、自分を守るために申請する人も増えてきたのかもしれませんが、タフな状況で、多くの人が報われているといいがたい状況の中にいずれは入っていくわけです。一度病気になった身、覚悟というか心構えが必要です。そして、そういう状況の予備段階として、一つ実習というのがあります。
そろそろ、実習代を納める時期になりました。関係書類も提出しなくてはなりません。実習は、早くて、今年の9月から、遅かったら、来年の1月~7月の間です。納付書が来て、バタバタと実習要項を確認したりしてるところです。今日は、デイケアが人数が少なく静かだったし、家だったら、何か理由をつけて、ノビノビにしてしまうので、勉強しました。デイケアで勉強なんて、これまた、イイ子しているみたいですが。昨日、家で、LINKIN PARKを聴きまくっていたので、自主活動に「音楽鑑賞」をするのも、あれだなと。
LINKIN PARKの新譜ですが、巷の評判は悪いですね。ハイブリッドセオリーや、メテオラのような、カッコいい、尖ってるなあという感じではないと。U2みたいやなあと囁かれたりしていますし。それでまあ、個人的な好みから云うと、悪くないんですよ。ギターが何となくイマイチだとか、注文はつけられますが。別にLINKINをかばうわけではなくて、そこはかとない「素肌、素顔」みたいな感じがあって。これまでのような大きな作品ではなくて、小品ですが、いいものがあるなと感じました。確かに、最初に聴いた時は変わりように驚いてついていけない感じもしました。でも2~3回聴いているうちに、静かな気持ちになれるなあと思いました。
これまで世界で2000万枚とかですから。これは、ほとんど呆れた数字で、最初のアルバムはCD屋のおススメに置かれていましたが、買った一個人の僕もこんなに売れるとは思っていませんでした。何よりもLINKIN PARKの音が、これまでのファンを作り上げたのですから、そして、そのファンに支えられたのですから、ファンの気持ちと、バンドの方向性に落差が現れてしまったら、バンドはいずれにせよファンのがっかりした気持ちを、背負わなければならないのかもしれません。これは、リアルに何年後かのセールスに響いてくるわけですから。
今日は、張り切って、日記を書いて、少しくたびれたので、ここまで。
May 21, 2007
昨日、高槻で
診察に行った後、彼女と待ち合わせして、ギャラリーマーヤに、弟=石川武志の個展に行った。個人的に、このグニャリとした豚が、この先の道を思案しているうちに、首が曲がってしまって、かわいかった。ぼくらも、まさか、首が曲がらないとは思うけど、なんとなく、こういう姿勢になって、ものを見ているときがあるんじゃないかな。お気に入り。
マーヤのご主人が詩集を持っていて、さかい晃治さんという方の詩集らしい。この人は、マーヤのご主人によると、隣のゲーム屋で、子どもが、親の承諾書がないとゲームが買えないのを、さかいさんが「僕が証明するから、買わせてやって」と云ったそうな。なかなか出来るものではない。それ以来、ご主人はさかいさんをチエックしている。さかいさんの詩は、昨日見た限りでは、恋愛の詩が多かった。思いが伝えられないというのを書いていて、その表出、ことばのいいあてが、飾らないものなので、好感をもちました。ここから書けることはもしかしたら、いっぱいあるにちがいない。まだまだ、色々知ることで、力が出る人なのではないかと思いました。僭越ながら。世の中にはいろんなところに詩人がいますな。
tab4号
これから、自分はもっと広い場所に出られるような、自在に書いていいような、そんな思いがしました。これまでは、少し、自分を狭めるような書き方もあったと思うのです。まだまだ未熟ですが。このあいだ、福間健二さんの『詩は生きている』を読んでいて、亡くなった方なのですが、下村康臣さんという方の詩を知りました。福間さんの筆致も力の入ったもので、熱を受けました。ネットで、探したけど、今はなかなか手に入らないようだ。残念。
May 16, 2007
豆ご飯、オチビサン
福島敦子さんがブログで、豆攻撃のことを書いておられたんですが、僕も、田舎で、ソラマメ、スナックえんどう、新たまねぎをもらってきたので、二度、豆ご飯をしました。福島さんのように、たくさんあると大変ですが、僕もけっこうもらってきました。でも、大阪で、豆がそんなに食卓に出ることはないので、楽しんでおります。福島さんのブログでは、スナップえんどうと書いてあって、僕のスナックえんどうという呼び方は間違いかなと思って調べましたら、「スナップえんどう」は農水省統一の言葉らしく、「スナックえんどう」は、スナックのようにさくさく食べられるからとかなんとかで、こっちでも通用するようです。
朝日新聞の日曜朝刊で連載されている、安野モヨコ作「オチビサン」は毎週の楽しみです。国民投票法が出来たり、世は、これからどうなるのか、注意していかないといけませんが、どんな世の中になろうと、「笑い」は忘れたくないな。
May 13, 2007
眉山、義経
祖父の十三回忌で、徳島に行っておりました。ただいま大阪に帰ってきて、ブログを書いてます。
今度、松嶋菜々子と宮本信子が出る「眉山」という映画のタイトルにある、眉山を車窓から見ました。映画は見ていません。徳島が舞台っていうのは珍しいのではないでしょうか。眉山は地元では有名ですが、地味な山です。確かに人の眉のような形をしていました。ちなみに、宮本信子さんは、徳島の出の方なのだそうな。親戚のおばさんから聞きました。犬童一心監督作では、「ジョゼと虎と魚たち」や、今はなるみだけテレビに出ていますが、トウナイト時代に撮られた「二人が喋ってる」が好きです。実は当時トウナイトのしずかのほうを応援していました。テレビからですが。
もうひとつ、帰りに源義経のブロンズ像を見てきました。皆さん知っていましたか?徳島と、義経と一見関係ないようですが、実は、平家を追って上陸した先が、徳島の小松島市だったのです。その後、屋島の合戦で義経は勝って、次々に平家を滅ぼしたそうな。今は小高い山の上の神社に、記念のブロンズ像があります。山の下に親切に案内しているおじいさんがいました。
祖父のお葬式の日は雨でした。昨日はいい天気で、気持ちが良かった。お焼香のとき、少し長めに祖父に語りかけました。祖父に届いたかな?おじいちゃんにかわいがってもらったけど、僕もだいぶオッサンになってきましたよ。あと、父方のおばのうちに、お風呂を借りに、親父と弟で、行ったのですが、おばは、数ヶ月前に、ご主人を亡くされました。おじさんは、そんなに人付き合いもうまくなく、僕もあまり話した記憶がありません。晩年、脳梗塞で倒れて、透析もしていたので、おばが介護していたのですが、話を聞いていると夫婦の間に深い愛情があったんだなと思って、じんとしました。亡くなった人や、生きている自分たちのことにいろいろ思いをめぐらせた日でした。十三回忌って、昔の人はうまいこと考えたんだなあ。厄年に、実際に病気になりやすいというのに、ある程度、客観性があるように、人の心が干支で云うと一回りするわけで象徴的なものがあるんだろうなと思いました。
お土産に、徳島製の「金ちゃんラーメン」を買いました。玉ねぎやマメをたくさんもらいました。
祖父が小さな僕を抱いている写真もアップします。ぼやけてますが。
May 10, 2007
初の勉強日記とナインインチ
雨が降ったり止んだり。少し寒い日。今日は、ある人に引導を渡され、とうとう、通信教育のレポート作りの、準備をするためのノートを7ページ作った。当ブログ初の勉強日記です。これまでも、ちょっとは、テキストは読んでたんですよ=言い訳(泣)といっても、やる気が減退気味だったんですが…まあ、言い訳は置いといて、大体、80年代頃からの日本の福祉制度の歴史みたいなものを、障害者自立支援法の成立くらいまで、ホントにざざっとやりました。その間、ナイン・インチ・ネイルズの新譜を爆音でかけておりました。なぜか、これが集中できました。
話が脱線しますが、昨日は古本屋にいって、今日は、全然聞いてないCDをこれはブックオフに売りました。16枚くらいでしたが、どうせ一枚100円くらいだろと思ってたら、思ったより、いい値がついたので、ボーナスと思いまして。で、試聴して、わりかしずっしり来たナインインチを買ったわけであります。ブッシュ政権も落ち目でありますが、ナインインチのレズナーさんは、反ブッシュだそうな。そうだろうなあと思いました。何かこのままじゃイカンみたいな、音はけっこうカッコいいんだけど、ちゃんとまっとうなお考えもありそうな。といっても、昔は「暗黒王子」といわれるくらい内向的な音楽だったそうなんですが。今回はそうじゃないです。というか今回しか知らないんですが。
で、戻りますと勉強なのですが、助走が長かったです。もういつ、本格始動かという感じで、周りの人に聞かれても、うーん、とか唸ってたんですが、もう、とりあえず、レポートは目の前のやつから、潰していこうと。今から合格できるかとか、ほんまにやる気あるんかと考えてたら埒があかんので。とりあえず、目の前の事から、いやいやでも何でも、ひとつずつ撃破。今のところ、こういう割り切り方しかないと思いまして。
で、障害者自立支援法が出てきたもんですから、精神科受診者としては他人事ではないのです。どんな悪い官僚が作文して、福祉制度を改悪したか!ってなことは、当然、教科書ですから、ないわけです。だから、つまんないのは、覚悟しなきゃいけません。(とはいえ、つまんねえなー、何が面白いのと思いつつですが、勉強って大体そんなものだろう)
面白い事実は、どんな障害者がどこで、何のサービスを受けても必ず一割払わなきゃいけなくなったのです。福祉って、タダのイメージがあったでしょ。でも、政府も、財政のこと考えると背に腹はかえられなくなってきた様で、みーんな、一割負担。知的、身体、精神は三障害といわれるんだけど、それぞれ、別の法律で、やっていたのを強引にまとめた。これは、戦後の福祉で初の転換だと思うので、ここでも、「金払え」って云い出したってことは、(介護保険もそうなんですが障害福祉の分野でも)戦後秩序では立ち行かなくなっているんだなあと。だからって、政府のやることが、全部正しいとは思いませんが。要は色々制度を変えてますが、ほんまに現場で役に立って、わりかた、使える制度になっているのかと。つまり、障害者が社会と交わるようになるためにです。なってんのかと。なってないよね。転換期だから色々制度は変わるのは仕方ないけども。
で、レポートでは、これから、どうすればいいのか答えなさいということなんだけど、わかりませんよ、そんなこと。一ついえるのは、曲がりなりにも、障害者の社会参加っていわれていますが、働きたいと思っている障害者をどんどん企業とか社会に今の何十倍も入れる。入れるのも難しいけど…それはひとまず置くとして夢の話をします。やる気のない健常者より、やる気のある障害者は、ひとまず、戦力だと思います。最初は能力のある障害者だけが雇われてしまうと思うんですが、とにかくどんどん雇う。少子化だし、企業とか社会にもいいと思うんだけどなあ。そうすると社会の成り立ちから変わると思う。今は夢のようで、そんなのできるかよと思うけど、もしかしたらできるかもしれません。その前に、今の発展至上主義の社会が、膨張して、地球が危機に立っちゃうかもしれませんが。その前に働けそうもない感じの人の運命が僕はもっと心配です。だから、どの道筋で、順番で、社会に参加してゆくのか。でも、もうちょっとは、現実的に、いくつかのハードルをクリアすれば働けそうな人はいるし、その人が、働けないというのはおかしいというのが僕の立場です。全てはせめぎ合いです。なんで、ここまで、熱くなっているんでしょう。やっぱりこういう話好きなのかなあ。以前、働いていたときに、奇特な人扱いを、福祉職以外の方からは、されました。確かにねえ、儲からないんだよね。労働者の権利はどこへやらやなあ。というか、俺まだ勉強始めたばっかじゃないか。仕事してないじゃないか。勉強しろ!…(笑)
May 09, 2007
古本屋
今日もほぼ日中は夏日。半袖で過ごした。仕事に行って、お給料をもらい、帰ってくる。それから、古本の整理。数は正確に数えていないが、数十冊といったところ。これが、本棚をはみ出て、生活スペースを脅かしていたことになる。100冊なら、出張買取してくれるところもある。しかし数が半端なので、がんばって、近所の古本屋まで、自転車に積んでいくことにした。大きい袋三つ分で、一つは、カゴに入れたが、あと二つは、ハンドルにかけて、天秤みたいになった。ちょっと恥ずかしかった。ブックオフも近いのだが、あまりにも悲しい値段がつくので、いかない。着くと、きれいなお姉さんがカウンターに座っていて、「今、店主がいないので、後日査定して連絡することになります。お急ぎですか?」と聞かれる。そんなに急ぎではなかったので、(現金には早くk換えてほしかった気もしたが)そうすることにした。ケータイ番号と名前を控えて、帰った。さて、いくらになることやら。
学生時代などは、金もないのに本をバカみたいに買い、お小遣いがなくなると売るということをしていた。そういう時はわりかしまっとうと思われる古書店に行く事にしていた。僕にはそんな価値のある本はなかったが、町にはリーズナブルな値段をつけてくれる、気難しくない、いい古書店というのがあって、僕のような物知らずでも、がんばって入ることができた。高槻では、海月文庫とかよかったのだが、越したようで、今ではアートスペースみたいになっている。
金曜日から、祖父の十三回忌ということで、四国に行ってくる予定だ。
May 07, 2007
片付けの日
今日は暑い日だった。今年初めて半袖で過ごした。郵便局に行ったり、野暮用に出かけている以外は、片づけをしていた。レシートや、紙袋というのはけっこう溜まるもんだなと思った。財布もカード等を整理し、すっきりした。本も、売却する奴と仕分けした。いい気分転換になった。
テレビでは、GWの終盤からだが、エキスポでのジェットコースターの事故のニュースが、たくさん流れている。ご冥福を祈ります。
夕刊を読んでいたら、俳優の北村和夫さんが亡くなったそうだ。享年80才。もちろん、彼がバリバリのときは、見ていないのだが、モダンな感じのおじ様で、僕は好きでした。テレビで拝見すると、素敵な方だなあといつも思っていました。10年位前、中井英夫の『虚無への供物』がNHKのBSで、ドラマ化され放送されていたことがあった。僕は、主演の深津絵里を見たいばかりに、見ていたが、北村さんも出ていて、けっこうシブい素敵なドラマだったと覚えている。DVDは出ていないらしい。
古谷実『わにとかげぎす』3巻を読む。ネタバレするので、あまり詳しく云わないけど、僕はこの展開でもいいと思ったな。主人公が、実際孤独か孤独じゃないかは、大して大きな意味を持たないと思う。それでも、人間は描けているから。
May 03, 2007
鳥羽旅行写真館
28、29日と、難波から近鉄特急で鳥羽まで行き、菅島という島で一泊した。二日目、釣りをして(釣れませんでしたが 笑)その後島を離れ鳥羽水族館を見学して、おいしい貝やウニメシなど食べて帰ってきました。それでは、色々道中撮った写真をお見せしたいと思います。鳥羽の港や港の中にある謎の鳥人間の写真。古びていて面白いです。全然売れてないお土産屋とか。
菅島の港についてから、海岸遊歩道を歩くと、こんな絶景です。島の灯台まで歩きました。
宿の窓から見た夕暮れと朝です。
朝、菅島を出発。鳥羽水族館へ。
熱帯魚とくらげ。
?デカイ海老とチョウザメ。色んな奴がいます。
さかさまに泳ぐアザラシくん。この水槽は上からも、水面の下からもちょうど水面からも見れて、いろんなアザラシの姿やアシカ君の姿が見れて素敵です。アシカショー、若手とベテラン二匹が出演。お姉さんもサッカーボールを的確にアシカのほうに蹴るのは難しいだろうなあ。
ワニ、謎のおじさん。おじさんも放し飼いにされている(嘘)。鳥です。
ラッコくん泳いでます。この辺は鳥羽水族館名物です。下も飼育が難しいマナティー
海の生き物や淡水の生き物もたくさんいて、くるのは二度目ですが、入館料はちょっと高めですが、好きな人は満喫できます。このあと貝など食べて帰ったわけです。帰って、色々楽しんだため疲れたようで、少し休みました。
Apr 28, 2007
Apr 26, 2007
拙詩集の感想を書いてくださいました
こんばんは。拙詩集について、稲村つぐさんがブログに感想を書いてくださったので、お知らせします。こちら。稲村つぐさんは、現代詩フォーラムなどで活躍中の詩人です。つぐさんについては、以前、彼の詩集に批評文を書かせていただきました。そういう意味でも、縁がある方です。今回の彼の書評を大変ありがたく受け取っています。私の肉声が聞こえるというのは、少し照れくさいところもありますが、ありがとうございます。福島敦子さんのサイトが引っ越したようです。お知らせをいただいたので、ここにリンク貼っておきます。時々記が試験中ではなくなっていますね。
今日の阪神の試合は、阪神の投手のボーグルソンの出来では、ほとんど負け試合のようにも感じられた。しかし、ヤクルトはことごとくチャンスを潰してしまい、阪神が勝っていた。ヤクルトもがんばってくれないとペナントレースが面白くならない気もする。関係ないが、ダルビッシュは、いつかメジャーに行っちゃうんだろうかと思う。何にしても、日ハムの試合は滅多に中継はないのだが。
野球中継は、小さい頃から、親の影響があって、父親とよく見ていた。私はファンと云えるほどの、思い入れのあるチームは、時々贔屓してみるチームがあるぐらいで、あまりない。基本は面白い試合が見たいほうである。親は巨人ファンで、たぶん、巨人が滅法強かった時代から見ているからだろうかと思う。
野球はするのはうまくないが、見るほうは得意?で、学生時代は、選手名艦なども読んでけっこう色んな選手について研究?していた。しかし、最近は、あの頃に比べるとそんなに力を入れてみていない。でも、今でも見始めると思わず熱中してしまう時があるから矛盾しているな。やっぱり、野球が好きなんだろうな。惰性と呼ぶにはけっこう面白がっている気がする。また、その気になったら球場に行こうかな。甲子園は混んでいるからけっこう個人的にしんどい気もする。ので、他の球場がいい気もする。
もうなくなった藤井寺で、野茂対伊良部の試合見たことがある。懐かしいな。空いてて静かだったな。野茂最近ニュースで見ないな。どうしているのかな?と、思った。ので、調べてみたら、肘の手術をした後、まだ回復が万全ではないようで、今は、どのチームにも所属していないようだ。少し淋しいな。でも引退しているわけではないようだ。何か日本のプロ野球業界では、きちんと評価されていない感がある。メジャーに行くことが、まだ特別ではある。色々、騒がれるが、選手はどのように報いられているのであろうかと思う。アメリカのほうが、もっと生き残ることが厳しいのであるが。
Apr 21, 2007
カーペンターズ
僕はカーペンターズは、なんかつまらんなと勝手にイメージしていたんだが、今日、カーペンターズの関係者にインタビューして構成された番組がNHKでやっていて、「青春の輝き」が流れていて、あ、けっこういいなー、奥が深いなあと思いました。何となく、関係者は事の真相をいっぱい隠している感じはあったのだ。彼女と話しててボーカルのカレンさんの死因は、やっぱり「自殺」じゃなかったのだろうかと話していたんだけど。そこは、スラーと流されていく感じで。
だけど、「青春の輝き」は、そんなことを入れても抜いても、当時のカーペンターズとカレンのやるせなさや喪失みたいなものが、表れていて、正直な歌だなと思った。何でも、歌詞を書いた人と、カレンがツアー先のホテルに舞台から、夜中帰ってくるときに、色々話したんだって。ずーっと、旅先だから、精神的にも疲弊していて、ホテルのドアがずらーっと並んでいるのを見て、ホントに参ったみたいなんだな。そういうこととか、よくわかるような気がして。とにもかくにも、心を打たれたました。そういうくらーいことだけじゃなくて、何かホンマやなあと。普遍的だなあという感じがいたしました。
ちなみに、彼女は摂食障害で亡くなったとなっているのだが、自殺説は、どうも調べてみたら、ブランキージェットシティーの人も云っているみたいで、あながち変な類推じゃないなとも思いました。少なくとも「自殺的」な死への過程だったろう。きっと、自殺ってことになると、いかにも青春ポップスという商品イメージで流通しているから、不都合なのかもしれないなと。
Apr 19, 2007
日々殺されて、生き返っているようなものだと思う。
日米で、銃器による殺傷事件があったが、かたや、弱そうなヤクザがやったもので、しかも、公の人を殺しているのと、移民の韓国人で、サイコの匂いがする無辜の民を殺した者で、属性は全然ちがうものと考えられる。あるいは見方を変えれば、両容疑者とも、潜在的な弱者とすら、いいうるものかもしれない。銃を使えば、どうしようのない人も力を持つ者となるといえるかもしれない。ブッシュ大統領が、なぐさめを云っていたが、彼も、世が世なら、戦争犯罪者にちかいかもしれず、一体、何が、彼らを裁くのかと思う。暴力を裁くのは誰なのかといつも思う。人を殺すことは論を待たず、いけないことだが、いけないことが、起こりつづけているのが世というもので、私はペシミストではないが、どういう権利で、悪といえるのか、考えなきゃいかんなと思っている。
今たまたま読んでいるのがレヴィナスで、レヴィナスは、「汝殺すなかれ」について考えた人だといわれている。人には立場というものがあって、大体はそこから、発言することになるが、立場の上にたって、立場をすり抜ける形で、ことばを届かせることが大事だと考えるのだ。今の場合、僕は中性的な立場でしかないのだが、やはり、ただの人間=レヴィナスのいう享受するものとして、考えたいのだ。そうすると、意外なことに、単に眉をしかめる人ではなく、かといって、当事者のような言葉を持てるわけでもなく、どんだけ、俺がおかしくなっても、殺すとこまではいかないなと思えてくるのだが、すぐに自信が無くなってくるのだから、奇妙なものである。でも、ヒステリー的に暴力はいけないとするマスコミには、それも集団的暴力にちがいなく、どんだけ正しくてもくみできないわけである。
なんか、妙な胸騒ぎのするような、しかし、もっと、小さな、言葉の暴力が何を意味するか、身近なことを、思った。僕にとって切実なのは、小さな暴力の発芽の瞬間であり、僕たちは、日々殺されて、生き返っているようなものだと思う。これは比喩であるが。
Apr 16, 2007
百万遍知恩寺に行く
昨日は、京都に行ってきた。百万遍知恩寺。そこで、「手づくり市」というフリマみたいなことをやっていて、ぶらぶら、見てきました。天気もよく、吉田山に登ったりして、気持ちいい一日だった。写真は、お寺から境内を撮ったものと門です。京大前にて、「西部講堂はどこですか?」と聞かれる。学生に見えたのだろうか、不思議である。人が多く、入った食堂はカレーが出てくるのにエライ時間がかかり、その段取りがどうなっているのかも、不思議である。
先週はほとんどブログ更新せず。犬童一心監督作「ジョゼと虎と魚たち」を見て、面白いかもと思っていた。
Apr 09, 2007
テキストを読み始める
少しずつだが、社会福祉士のテキスト(『社会福祉士養成講座』中央法規)を読み始めている。といっても、昨日からようやく重い腰を上げたような感じ。「障害者福祉論」や「社会福祉原論」。昔の仕事では、支援費制度は、習ったり、障害当事者運動のことを聞きかじった程度。初めは、どっから手をつけていいかわからず、それは今でも覚束ないのだが、とりあえずレポートとして出題されているところを読んでしまおう。社会福祉士の国家試験の予想問題が出ているサイトも今日見つけたが、問題が意味わからない。でもこれはまだ、2年後のことなので、心配しないことにする。勉強の仕方は色々模索していきたい。あーあ、勉強が始まる。けれど、独学というのは、案外面白いものかもしれない。この手のテキストは、政府に都合の悪いデータは当然書いていなくて、歴史の見方も、必ず、昔より良くなっている式なので、少しうんざりするが、こういうのも反面教師としては悪くないと思う。進歩史観に対して、いろんな見方があるだろうけど。障害者自立支援法の記述は苦しそうである。
あとは、レヴィナス『全体性と無限』を70頁ほど読む。2部にはいってから、1部の感じとは違ってきて、映画を見ているような立体感が出てきた。やはり難しいことには変わりないが。この本は、今勉強しようとしているもの=福祉と、何かつながりがあるように思う。
Apr 04, 2007
浜寺公園に
お花見に行きました。デイケアからです。南海電車に乗って、ぶらぶら。けっこういい天気でしたが、寒かったす。お弁当おいしかった。天気は晴れたり曇ったり、8分咲きでした。けど、やっぱ海沿いで風がつめたいっす!さむいっす!でもいいお花見となりました。帰り雨が降ってきました。(東京は雪、雨のようです)
帰って、診察に、行きました。電車では片山洋次郎『整体から見る気と身体』を読んでました。気の流れという観点からわかりやすくまとめてあり、やっぱり面白いです。今日、母親と、一緒にご飯食べて、話してて、年を無理せずにとることなどを話をきいていると、本の内容ともあいまって、何事もプロセスなのだと思いました。本では「経過」と云っていますが、五十肩も年老いる中で新たなバランスをとろうとする何かなのだというところを読んで、大変勉強になりました。帰って、中日ー巨人。圧倒的な落合の投手起用のうまさ、巨人の後ろの投手の弱さの対比を見るようでした。K-1も見ましたが、日本人選手の試合は痛々しい負け方…で、電話がかかってきて、話し終わったら、マサトは勝っていました。
今日は覚醒している、生きているという感じが強かった。こういう日が少しずつ増えていくことを願います。
祝い日
昨日は、いいチームだなあと思っていた、常葉菊川が終盤から逆転し、快勝。大垣日大は、負けたのに笑顔で、ベンチみんなが最後まで、笑顔で戦おうと云っていたそうな。とにかく、いいゲームを見させてもらいました!
昼から近所に「極楽浄土の庭」というのが、某寺院の中にあって、300円で、誰でも入れる庭園。小川が流れ、きれいにされており、樹の影や光や、桜を見ているととてもいい気分なのでした。
夜は、阪神戦を見ていたら、金本選手がバースデー満塁決勝アーチを打ったとか。39歳。すごいです。昨日は終盤から小雨も降り何と冷え込んで7℃くらいだったそう。 ヒーローインタビューでは、年齢を超える 40本のホームランを打ちたいと宣言していた。
あとケイン・コスギはショー・コスギに勘当されていたそうな。あと、Youtubeで、東京都知事候補のファシストを自称する(ちょっと見覚えがあるのだが外山氏がどんな人か全くわからなくなってしまった)外山恒一氏の政見放送がたくさん流れていて、見た。面白い反面笑えない感じもした。私は大阪府民なのであるが、都知事選はいい候補があんまり出ていないなーと感じるのであった。なぜだろう?
Apr 03, 2007
準決勝
今日は、高校野球の準決勝を2試合見ました。常葉菊川ー熊本工業と、帝京ー大垣日大だった。両方とも好ゲームだと思った。高校野球はあまり最近見ていないのだが、この2試合は面白くて、見た。結果は明日、常葉菊川ー大垣日大となった。両チームとも、あまり、お馴染ではないチームかもしれない。常葉菊川の攻撃的な野球も、大垣日大の粘り強い野球もどっちも見応えがあるが、個人的には常葉菊川と熊本工業との一戦は、はらはらしながら見た。気づいたら、常葉が競り勝っていた。常葉も大垣も、捕手の強さということを思った。常葉の捕手の矢のような送球は投手を勇気づけたと思った。大垣のほうも、万全とはいえない投手を最後まで引っ張った。対して帝京は、最初がまずかったが、いろんな要素が絡まってああなったと思う。ところで21世紀希望枠って不思議な言葉だなあ。ホームページご訪問の人数が10000人を超えました。感謝しています。Mar 30, 2007
個人的な断章など
行動によって、現実を変化させること。それによって、素敵なものが見えてくることがあるかもしれない。同時に、破滅というか、絶望も光るだろう。全ての有り金をかけるとしたら。そういう感覚を持てているうちは、希望がほんの少しでもあるかもしれない。僕はこれならAというふうに考えるのと同じように、みんなもAという思考の道筋をとるだろうと、勝手に仮定してしまうこと。よくあること。気をつけねばならない。彼女にいわれて、気づいた。こういう思い込みを排して、懐疑論も排して、アプリオリな形式(人間が性能として元々持つ思考・直感形式)つまり、人間の思考の初期設定を明らかにして、万人が考え議論できる地平を作ろうとしたのがカントだろうか。だとしたら大事なことと思われる。まだわからないけど。知的障害者はその外部なのか?内部なのか?わからない。
以上、個人的な断章。加藤典洋『考える人生相談』読了。けっこう面白かった。ただの人生相談と思うと、少し驚く。現実って意外とおもしろいよって、つまんないなーっていっている人に云っていると思う。加藤の本には、個人的につまんない本もあることはあって、でもよく読んできたほうだと思う。好きなのは初期の批評や、『日本という身体』、『日本風景論』、『この時代のいきかた』。
片山洋次郎『整体から見る気と身体』。これってけっこう役に立つというか、単純に、からだって、そうなっているのねーという認識の発見がいくつもあって、面白い。介護やっているとき古武道の人と、養老さんの本を読んだことがあるが、何かつうじるものがある。今読んでいる。布村さんのブログに書かれてたのをきっかけに手に取った。
カント『プロレゴメナ』。『全体性と無限』を読んでいて、やっぱ、カントを読んどいたほうがいいなーと読んでいる。(レヴィナスの方は少しお休み)今最初の70ページくらい読み終わったけど、難しいけど論理自体はシンプルでけっこういける。どこまで読めるか?
通信教育のテキストが送られてくる。ずっしり重い。佐々本果歩さんが、ブログにtab3号の感想を書いてくれた。ありがとう。
Mar 28, 2007
宮崎駿、「プロフェッショナル」で語る
昨日、NHK火曜夜10時に「プロフェッショナル」が放送変更されていた。何と宮崎駿。『崖の上のポニョ』の製作過程を追う。息子、吾朗氏のことを「まだまだ子どもだ」と映画を見たあといっていたのは、印象的。大変な父親をもったんだろうな。駿さんも、吾朗氏が子どもの頃映画にかかりきりで、あまり接してやれなかったという。いくつか心に残るのがあって、一つは、裸で作らないといけない。その人の思想が作品に出てごまかしがきかないと語っていた。これは、思い当たる節大有りである。二つ目は、今までの精密画路線では行き詰る、ラファエロ前派を見てすでにやられていると思ったと語ったこと。これは、今までの絵作りの先に行きたいということだろう。第一人者ならではである。三つ目は、理想のない現実主義者はいやで、理想のある現実主義者でありたいと語ったこと。多くの人を、自分で動かしていく人ならではと云う気がした。でもわかる。何かを成し遂げようとするとき必要な気概だ。また、子どもにはごまかしがきかないということ。四つ目は、半分素人でありたいと語った事。これも、僕は宮崎駿のようなプロではないが、ある世界に対して、さらであること、徒手空拳であることは、文学においても大事ではないだろうか。業界ズレしないのは、大切かもしれない。
たぶん、いかに苦しくても、楽しいものを産むということなのだろう。宮崎駿は、創作が出来上がってくるとどんどん不機嫌になる。「なるべく自分の思いに浸っていたいんだよ。そうもいかないからニコニコしている」と云っていた。握力は若い頃の半分になり、衰えは来ているが、張り詰めた顔を見て、想像力(狂気?なぜか、ギリシャ語のダイモーンという言葉が浮かんだ)があふれそうでぎりぎりの顔だと思った。コントロールには相当な理性がいるんだろうなと思った。みなぎっている。いくつかの系が彼の頭の中で立体的に形づくられる。イメージボードがコンテより先というのがわかる気がした。イメージのふくらみを生かし、それを待って捉えるのだ。(番組では脳内に釣り糸をたらすといっていた)小さい頃から好きだった宮崎アニメは、こういう人から作られているのだと思うと、何だかそう感じる自分が新鮮でした。大人で子ども。ほんものの芸術家なんだなと。
Mar 27, 2007
再生
いつも遅れたこども
わたしは
いつもはじっこ
冬空の雲
あの子がおそってきて
こどものわたしは逃げ続ける
汚れたドラえもんのトレーナー
こわれたタイムマシーン
庭の桜はかたく
ぴりぴりした朝が好きだった
悲しい雨戸
どうしようもなく過ごした
時間をどこまでもひきのばしている
わたし
みらい
にょらい
縁起
歩いている四天王寺の通り
今きみと
悲しい雨戸
冬空の雲
かんちがいして明るい気分
想像できないくらいの奇跡
硬く握り締めて生まれなおそうとしていた
瞬間のわたし
ランドセルをかついでいた
縁起かつぐ
何をかつぐ
わたしの考える未来をかつぐ
※tab1号所収
白い腹
今 テレビの画面の中でメジロがツバキの花を
ついばんでいる
昔お父さんが庭で白い息で
「ほら、和広、メジロやで」と指さした
もうだいぶメジロをみてないな
あの黄緑色の
小さく素敵なふくらみ
白い腹
ニンゲンの会話は
小鳥のさえずりみたいなもんだと
ある人が云った
そのことをよく覚えている
ぼくの声は何をふるわせているの
夜の星空をかけぬけ
ぼくのさえずりは
あの人のもとへ送信される
あくびをする
ベッドにあおむけになって
おやすみという
寝室におやすみが広がる
ぼくは冬空に光る星や
春に咲く花の声を思う
暗やみが微弱に鳴いて
ぼくはねむりにおちる
※かたつむりずむ第1号所収
お知らせ・雨のふる日には
お知らせ=詩を2編アップしました。→リンク曇っている。先週デイケアに行ったら、新しい職員さんがいて、ちょっとだけお話した。いい人だ。はきはきした人だった。でも、人が入れ替わるとデイの職員さんは忙しそうだったので、気圧された。彼女が旅行に行っていて、ここ二日、ぼーっとしていたが、今日は気持ちよく目覚める。朝から風呂に入って、高校野球を見る。詩が出来たので「索」に送ろうと思う。通信教育の教科書も買わないといけない。両方とも郵便なので、郵便局に行こう。と思って出かけたら、雨がぱらついてきた。郵送。先日の話なのだが、フィギュアで、キム・ヨナの演技は、神がかりに見えた。転んでしまったけど。安藤って、かなり力がついてきたな。
午後4時半頃加筆。
午後は読書、金森修『病魔という悪の物語』。チフスのメアリーと呼ばれた女性が、20世紀当初、公衆衛生という名の力によって、いかに隔離されたかをめぐる、短い伝記。悪という言葉に<>をつけたほうが良いかもしれない。興味深かった。排除、差別というものの、そこには必ず生きている人がいるということをもう一度再確認した。その後、晩御飯の買い物、部屋の掃除をして、一段落。前読んだ事のある詩集を再読しようかと思っている。
Mar 22, 2007
午後から
けっこう気合入ってきた。職員さんと二人だけで掃除をしたからだ。疲れたー!!と思ったら、すっきりしてきて、帰っても、くさくさ、男子フィギュアスケートなどを、おつまみに、話したり、ビール飲んだりしていた。高野五韻さんのブログで、朗読がアップされていたので、聴いたら、とても素敵だったな。Mar 21, 2007
「生き死にの問題ではないのだから」
先週金曜日、デイケアで倉田良成さんの詩集『東京ボエーム抄』を読んだ。デイケアで、というと、にぎやかだから、読みにくいと思われるかもしれないが、案外そうでもない。電車や、デイケアは僕にとって、読書が集中できる場所である。感想はというと、集中何篇か特にいいなと思える詩があって。その人の存在感情をいくらかでも感じることが出来たように思えたので、そういう時は、気持ちが、それに連れて動くので、何か懐かしい。懐かしくて新しいような気がするのです。今日はレヴィナス『全体性と無限』を読んだ。150頁くらい。これも例によって難解だ。でも、この人は何が大事だと思っているかと思って読むとけっこう面白い。哲学には、(物語化を拒否するような書き方であっても)ちゃんと物語があるのだなあと思う。
昨日今日、入学金の振込みや手続きで、頭が混乱していた。今は落ち着いている。その困りようで、彼女を心配させてしまった。診察だったので、先生に言うと、先生は「生き死にの問題ではないのだから、深呼吸でもして」と云ってて、そうだよなあと思った。もうすぐ勉強が始まるというので緊張しているのかもしれない。
Mar 18, 2007
Mar 16, 2007
○×冷熱
こないだtabが出来上がると必ず行く文房具屋があって、行ってきた。コピーの量がけっこうあるので、コンビニとかだとちょっと気を使うので。いつまで開いているのか電話したら、「待ってます」と云っていた家庭的な文房具屋だなあと思った。そこは、電気屋さんが元だと聞いた。電気屋を30云年。立替のときに、文房具屋の店舗を作って20年。「○×冷熱」というので、文房具屋なのになんでかなあと思っていたところ、こないだ店の奥さんと話していたら、そうだったのだ。時々、何枚もコピーしていく得体の知れない兄ちゃんということは、覚えていただけたのだろう。コピーしている間、立ち話していた。
近所に予備校があって、昔は、予備校生が人生相談めいた話をしていったこととか、ペンションに行ったら、古いお客さんに出会って奥さんは覚えていなかったとか、たわいもない話だけど、細々商売をやるのも味があるなと思った。そこの店に行くとなぜか安心するので、tabができたら、その店に行く。けっこうコピーするので、良客と思ってくれているんじゃないかなと思う。またボールペンをもらった。前のと同じなので、前くれたことは忘れているのかもしれない。まだ馴染みまでいっていないので、微妙な立ち位置である。
Mar 15, 2007
〝てんやわんやですよ〟で踊る・『未完の明治維新』
いま、自分の中でブームなのが、クレイジーケンバンド〝てんやわんやですよ〟という曲。ドラマ「今週妻が浮気します」のエンディング・テーマです。ドラマは、まあイマイチなんですが、〝てんやわんやですよ〟はメチャかっこいい!うさんくさいオヤジボーカルがたまりません。というわけで、この曲を聴くと、踊ってしまいます。僕はクラブとか全くいかないし、デタラメなダンスなんですが、腰をひねったりして、いい運動になる。とうとうシングルを買ってしまった…で、今日はインチキダンスで、踊りました。完全にアホだが、踊るというのは何も考えなくていいなあ。明治維新関係で、坂野潤治『未完の明治維新』を大体読み終わるところ。維新の始めには「政府」という考え方がなかったとか、『峠』にはあんまり出てこなかった西郷隆盛は西洋近代化に相当の理解があったなど。でも、やっぱり西郷隆盛はなぜ野に下って自分の指導してきた政府に対し叛乱を起こして死んだのか、これは難問だと思う。中江兆民『三酔人経綸問答』では、西郷らしき「豪傑」が、「自分は増殖しすぎた癌みたいなもんだ。切除してもらって、どっか遠くの国に攻めていって、死ぬしかないのだ」(これは「征韓論」のことだと思うが、『未完の…』では、西郷自身はそう積極的ではなかったと書いてある)という感じのことをいっていたと記憶している。これは『未完の明治維新』で、軍は維新を進める上で薬だが、薬が効き過ぎて毒になったという箇所と符合するのではないかな?鳥羽伏見の乱や、廃藩置県、こういうものは軍なしではありえなかったし、それによって、なんとか維新政府が形づくられた。だから、西郷は「効き過ぎた毒」や癌として、お役御免になって自分は滅亡するしかなかったんじゃないか?そこには、西郷の大局を引き受けたもののみが知る大きな感情がからんでるかもしれない。譲れない何かがあったのかな。色々想像が膨らみます。おお、漢字が多くなってきた!江藤淳『南洲残影』など、いろいろ読みたい本が出てくるがぼちぼちと。
Mar 14, 2007
祖母と同年代の人の本を最近読んでいた
昨日、司馬遼太郎『峠』全巻読み終わる。久々に、心躍る読書で、僕はかなり、はまった。これはいいですね。おススメです。侍という在り方以前に、歴史に翻弄される人間や、流れが、迫ってきました。司馬遼太郎という人の作品を単なる歴史小説と思って、避けてきたのが、もったいなかったなあと思った。でも『峠』がいいんだと思う。自分に引っかかってくるものがあった。侍というのは僕は苦手で、そんな生き方嫌だなあと思っていたのだけれど、それから、男の生き方といえば、侍を手本にみたいな考え方が苦手だったのだけど、自分の中に侍的なものを少し発見した気分です。というか、単に感化されたのかもね。でも、侍的なものっていうのは、どっか人間の何かをくすぐる気がする。あと、敗北の美学というものもあるのかも。内容は詳しく云いません。興味あったら、是非読んでください。つまんなかったら仕方ないけど。司馬遼太郎さんも含め、吉本隆明、水木しげる、鶴見俊輔、ここ最近読んだ人が、1922~23年生まれで、84、5歳くらいの人たちだと気づきました。偶然か、必然か、こないだ亡くなった祖母の享年と同じくらい。改めて、人生には、流れというものがあるのだなあと思いました。吉本さんの『真贋』を買ったのは、徳島に帰るバスの直前でした。僕は、勉強のためだけに本を読んでいるのではないなあと思った。何かが知りたいというのはあるのだけれど、そうではなくて。別に同い年の人たちの本を読んでも祖母のことがわかるわけではないですよね。それはそうなんだけれど、何か気持ちというのがあったんだと思う。同じ時代を生きたというのは大事で、戦時下を生きた人が身内では、また一人亡くなった。そういうのは、生きている感覚というか、自分なりの歴史感覚として大事だと思う。
今は、維新というのをちょっと面白いなあと思っています。今までの生きかたが通用しなくなるとき、人はどうするのかなという感じで。
今日はよしもとばなな『デッドエンドの思い出』を読みました。この人は作文体というのだろうか。気の抜けてしまう文章も多いが司馬遼太郎をあつく読んだ後なので、息抜きで。でも、案外面白かった。よしもとばなながこの本が一番好きだというのはわかる気がする。バカにする方もいるかもしれないけど、大事なことが書かれている気がします。本も人みたいなもので、とっつきにくかったり、好みがあるけど、話してみたら案外というのが、司馬遼太郎さん、よしもとばななさんの本に感じることが出来た気がした。
Mar 09, 2007
雅楽を聴きに行く
谷町九丁目の駅から降りて10分。昨日、大阪国際交流センターにて行われた「雅楽練習所発表会」を聴きに行く。練習所に通っている人の発表会。友達がそこで習ってて、彼も出るからだ。雅楽や古典芸能には疎い僕で、先入観は「退屈かも」と思っていた。しかし、すごく楽しめた。何か古めかしい音楽のように聞こえますが、感情を喚起されるというか、その日の記憶や、過去の記憶が次々と頭の中を流れて、調べに身を委ねているととても気持ちよかった。意外に快楽的であった。辛い事も俯瞰して見れるような。笛の音が何かの叫び声のように聞こえた。何だろう?管弦の入った「太食調 環城楽」と舞いの入る「萬歳楽」が特によかった。遠くからだけど友達の姿が見えてかっこいいなあと思った。
司馬遼太郎『峠』上巻を読んでいるところ。面白い。道のりは遠い。
Mar 07, 2007
共同幻想論感想リライト
猫月亭さんのことばがきっかけで、再び考え直すきっかけになりました。もう一回基礎のところから書いてみます。この本は、60年安保で活動したり、全共闘世代に大きな影響を与えたりした、吉本隆明が書いた本。基本の発想としては、いたずらに、頭で、国家を批判したりしないで、自分の実感から、日本という国がどうして成り立ったのか?そもそも国家とは何なのかを問うた本。とはいえ、「幻想」という言葉で、いろんなことを切り取ろうとしているのは、当時としては新しかったけれども、今はどうなのかなあと自分の感覚を振り返って思う。そもそも、僕らは、「国家」に対して、そんなに思い入れがあるのだろうか、「幻想」というものを「国家」に対して持っているのかわかりません。たぶん、吉本さんも、そんなことを頭の半分には入れていたと思います。「国家」は自分と関係あるのかと。それと、吉本さんは戦中派世代なので、「国家」に裏切られたという思いが強いのではないかと思います。だから、序文で、国家というのは、自分を丸ごと包むようなものだと思っていたのが、西洋ではそうではないと、西洋はシステム(という言い方はまずいのかな?)として、国家があるのだという考え方に気づいて、驚いたと語っていますね。引用します。
(国家は)わたしたちがじっさいに生活している社会よりも小さくて、しかも社会から分離した概念だとみなされている。(角川文庫版のための序)
まず、自分たちの生活があって、その上に国家と云うものがあるので、ダイレクトに国家と生活は関係ないということに吉本さんは驚いたようです。「自己幻想は共同幻想と逆立する」というテーマが吉本にはあります。吉本さんは、いろんな人間関係をもったりして、そこから生まれてくる「意識」のようなものを「幻想」と呼んでいるんですね。「幻想」という言葉に、吉本さんは思い入れがあるんだと思うし、昔の人の意識や、今の人の意識でも、性や何かまで含めた人間が持つ(心身相関的な)関係意識や無意識や観念まで含めると、「幻想」と呼べるかもしれません。「意識」と呼ぶとニュアンスがこぼれてしまうので「幻想」と呼んだのだろうと思います。吉本さんは国家に対して熱い思い入れを持っている時代に生まれた人だから、思い入れを幻想と呼べるかもしれません。でも、吉本さんの中でどこかで、国家なんてどうでもいいやと醒めた意識もあって、何で国家に自分の生活や運命を振り回されなきゃいけないのという怒りのようなものも同時に芽生えたのかもしれません。それは敗戦、高度成長をへて、国家と、個人の幸福が、矛盾していくのを、彼が見たからかもしれません。(公害とか)一方で国家に対して熱くなっている人に「国家も幻想だよ」と冷や水を浴びせたくなったのかもしれません。でも吉本さんは、国家にこだわってもいる。国家は個々の人を飛び越えて浸透し強権を発動するのはなぜか。そういう矛盾の意識が「国家は共同幻想」といいたくなった理由かもしれません。表立って「反国家」を掲げていないので、ここの読みが難しいところです。
「自己幻想(個人の意識)は共同幻想(国家)に逆立する」というのは、そういう吉本さんの感覚から出来た言葉だろうと思います。国家は自分とは直接関係ない。国家なんてなくてもよかったのに。ややこしいなあ。にもかかわらず、国家が生まれると、それに私たちは左右されてしまう。裏切られる。なぜだろう。きっと理由のあることなんだろう。それを歴史にさかのぼって、解明しようとしたのがこの本だということになるかもしれません。そもそも日本列島の原住民は国家なんて望んでいたのだろうか、いろんな紆余曲折があって、人間の意識が、変化していくにしたがって、国家と云うものが、矛盾として私たちの上にできたのではないか。成立時点まで遡らなければ国家の存在する謎は解けないと考えたのでしょう。なお、強引に他民族が侵略してきて、国家が成り立ったという説に彼は中立的です。侵略されたのだが、どのように古来の共同体の上に国家がのっかかってきたのかを見ています。
国家なんてなくてもよかったのに、国家なしでもいきていけるかもしれないというのは吉本さんだけでなく多くの人の実感を描いたものかもしれません。(本当かな?)でも事実として国家はにもかかわらず存在し、私たちの生活と関係があると。(どのように関係があるかは一口で語れません)ここは彼は詩人としての目だけでなく、リアリストとして論及しています。しかしこの本は入り口に立ったということでしょう。彼にとって「家族」がキーポイントであり、家族の中で持つ「関わり」の意識が大事だ。それは国家とは直接つながらないが、最初に暮らす集団であり、これが解明の鍵だという考えがかなり大きいです。彼にとっても多くの人にとっても家族というのは大事ですから。
単に学術というのではなく、自分の実感にこだわって、書いたり、考えたりしている本です。そこに僕は敬意を抱きます。正直、百分の一も僕は理解できていないのかもしれませんが、ややこしいとはいえ、大事な本だと思います。吉本の思想はそんなものではないと思う方もいるかもしれません。あくまで、僕なりの理解です。今回もわかりづらかったかな…
次は、司馬遼太郎『峠』全三巻に挑戦しようと思います。
Mar 06, 2007
共同幻想論
『共同幻想論』読了。難しいというか、一言ではいえんけれども。だから、これは感想ではないんだけれど。あくまで印象。個別の話がけっこう面白い。柳田國男の「神隠し」を神秘化も合理化もせず、記述しているところや、漱石の夫婦関係について、言及しているところや。「遠野物語」について書かれているところは、素直に楽しめる。少なくとも僕のようなタイプの人間にとっては。やはり、自分の発想のふるさと=ルーツみたいなものに思いを馳せられる。発想の原石を、原石のまま語ろうとしているので、概念化が不徹底との批判もあると聞く。確かに、吉本さんの中で完結してて、説明が不十分なところ無きにしもあらず。でも、学術論文でなく、「表現」なのだと思う。相当、概念化に腐心しているようにも見えるし。僕は、この本を今の時代に読むとすれば、それはどういう意味を持つかと考えるのだが、ここから延長して、ヒントにして、考えられることも多いと思う。でも、自己幻想が共同幻想に対して、逆立しているというのは、どう論証しはるんだろうか。表現と云うか実感としてはわかるが、やはりどこか、ある時代の匂いがする。だから、そこから、出てくる<対幻想>というのも然り。じゃあ、僕の国家というか共同幻想に対する関係というのはどうなのかと問われれば、ごめんなさい、あんまりわかりませんと云うことになっていく気もして。しかしその辺りの事は、本当に微妙なことなので、吉本さんの直感は尊重しますと。後は、自分でどうなのか考えます。というか、確かに逆立しているけど、ではどうすればいいのかというところまで、今の時代は来ている気がするな。でも国家の成立について、試行錯誤しながら、筆が進んでいくさまはスリリングだなあ。時間があればもう一回読みます。
Mar 05, 2007
願書提出、共同幻想論、中学生日記
今日は雨が降ったり止んだりだった。雨が小降りの間に大学へ行き、卒業証明書をもらってきた。そして、入学願書と書類を書留速達にて郵送。あとは、結果待ちである。通信教育社会福祉士養成課程、受かったらいいな。16日が合格発表らしい。
吉本隆明『共同幻想論』を昨日から読み始めている。150頁くらい読んだ。難しいのに、案外読める。内容はヘビーで、時々気が重くなるような感じも覚えながら、それでも結構読んでいる。吉本の最近の本を読んでいたためかもしれない。ヘーゲルの『精神現象学』がかなり肝のところで出てくるような気がする。『精神現象学』あたりもチェックしなきゃいかんのかな。
NHKにて、『中学生日記アーカイブス』を見る。現在、俳優の近藤芳正さんが中学生のときに出ていた、「闘争宣言」(’78作)というお話。受験戦争と階級闘争がモチーフの異色作。自分の友達がエリートになっていくのを負けてられるかといって、がんばって勉強する中学生を熱演。ちょうちん屋の父や、先生と議論するところが迫真である。面白い。迫力がある。NHKは「闘争宣言」を保存していなかったため、視聴者のビデオをもとに放映したらしい。レアものである。近藤さんは、今年、一年間のシリーズで父親役を演じる。一年間のシリーズというのは中学生日記46年間の歴史初だとか。こんなに熱い人だったのか!続きで、「あしたをつかめ~平成若者仕事図鑑」を見る。「13才のハローワーク」と「プロフェッショナル~仕事の流儀」を足して2で割ったようなお仕事紹介番組。今日は作業療法士。心身重度障害者のリハビリ風景。出ておられた作業療法士の濱瀬由加里さんを「素敵だなあ~」と云っていると、彼女にデレデレしていると云われた。確かににやけていた。
Mar 04, 2007
これから読む予定の
本は、司馬遼太郎『峠』全三巻。これは大学の恩師にすすめていただいた。それから、吉本隆明『共同幻想論』。大学時代、挫折した本。倉田さんが吉本を読むなら、倉田さんは批判的であるけれども、これが様々な問題を提出しているといってくれた。ここ最近、何度か電話のやりとりがあり、様々な話をした。そして、倉田良成『東京ボエーム抄』。現代詩手帖の詩書評欄やミッドナイトプレスのHPにも登場して、反響がけっこうあったようだ。tabも『詩と思想3月号』に海埜さんが評を書いている。昨日はドードー合評会で、急いで作品を書いた。僕の作品は賛否が分かれた。はじめは、批判が多かったのだが、徐々に肯定的な意見もあらわれ、どちらも、大事だと思って聞いた。金時鐘さんが11日に、NHKの「こころの時代」に出るそうだ。チェックしておこう。
帰ってからは、家でゆっくりお酒を楽しんだ。
詩学3月号を買った。布村浩一さんの詩「草を取る人」が掲載されていた。とても大切なことを、すっきりと書いていて、別れなのに、悲しいだけでない、深い気持ちを感じました。肉親について、なかなかこういうふうに書けないので、すごいと思った。
Mar 02, 2007
恩師
社会福祉士養成校への出願書類の中に、大学の卒業証明書とあったので、枚方にある母校に行く。月曜にまたとりにいかねばならない。それから、大学時代の恩師に会いに行く。先生は足を悪くされており、少し心配になった。僕がだいぶ元気になったのを見て安心しておられたようだった。いまどきの学生は幼くなっているらしい。大学の先生も、講義に出て後は研究したりしているというだけでなく、サラリーマン並みに出勤しなくてはいけないご時勢だそうだ。タイムカードのある大学もあるという。何でも、国の方針でやる気のない大学は補助金を削られるそうだとか。暗澹たる感じがした。先生も、困っておられるようだった。学生時代、先生が課題図書とした『イワン・イリッチの死』は素敵だった。先生はあたたかく迎えていただいて、うれしかった。
◎ここ半月で読んだものをメモする。
竹内好『魯迅』
水木しげる『ヒットラー』(マンガ)、『生まれたときから「妖怪」だった』
吉本隆明『真贋』、『生涯現役』
信濃川日出雄『ファイン3』(マンガ)
佐藤秀峰『新ブラックジャックによろしく1』(マンガ)
◎読んでいる途中の本
吉本隆明・笠原芳光『思想とはなにか』
鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの』
三木成夫『胎児の世界』
◎積読多数。はへ。
吉本隆明の本が多いが、特にファンというわけではない。が、この両著は面白かった。布村さんが『真贋』のことをブログに書いていて読みたくなった。『魯迅』は竹内自身、遺書と考えてようで、その後出征したので、その思いのどれほどかが伝わってくる。ただ最後のほうは、結論と云うか、そういうものに何となく違和感を覚えた。武田泰淳『司馬遷』と並ぶ名著といわれている。祖母の葬儀に向かう車中で一気に読んだ。水木さんはやっぱりすごくリアリストだなあ。『戦争が遺したもの』は小熊のツッコミが冴えている。これも遺言に近い内容。言い残した事の幾分かでも伝えようとしている。偶然か必然か、吉本、水木、鶴見は先日亡くなった祖母と同年代である。差異と同一性。信濃川と佐藤のマンガは今日読んだ。『ブラックジャックによろしく』はもうネタが尽きたかと思ったが、新を読んだ限りでは、なんとかかんとかがんばっている気がした。でもどうやってこの人は医者になるのか、あまりわからない。臓器移植の話。このマンガは、医学の本当におおまかな勉強にもなるのでいい。『ファイン』は絵描きの主人公の話で、マンガ自体の絵はそんなにうまくないのがいい。前向きなんだけど迷って、なかなか壁が破れなくて、というとこが身につまされる。
Mar 01, 2007
タミフル
恐いニュースだ。厚生労働省は因果関係を否定しているが、タミフルを服用した中学生が、異常行動を起こし、飛び降りて亡くなったという。報道ステーションでは、他にも事例があり、被害者の会が厚生労働省に「警告」してほしいといっているようだ。タミフルといえばインフルエンザの特効薬。48時間以内に飲まないと効果が薄れる。私もお世話になったことがあるので、確かに効いたけど、恐いよ。ただ専門家では、タミフルと異常行動の因果関係がまだ特定できていないらしい。タミフルもインフルエンザも恐い。要は、インフルエンザにかからないように予防するということかな。でも罹ったら、どうしよう。ちょっと困ったな。。Feb 21, 2007
徳島から帰ってきました
無事帰ってきました。少々疲れましたが、おばあちゃんの顔が見れてよかった。一日目=朝、父から電話があり、朝起きてすぐ家を出る。高速バスに乗る。親父に、早く行ったので驚かれた。孫連中の中では一番に到着。みんな仕事あるからね。遠縁のおばちゃんは、ハイカラかつ味があるしゃべりで楽しい。ご飯やお漬物(アチャラという。帰って調べた。語源。こうらしいね。呪文みたいだ。)もおいしい。おばあちゃんの顔を見る。穏やかな顔で、安心する。オロオロしながら、親戚方の話におっかなびっくり関わる。だいぶ進歩したが情けない30台である。弟はきびきびしている。
二日目=朝5時に目が覚める。何となく緊張しているようだ。様々な出入りや準備で、タフなスケジュール。といっても、そんなに目立って仕事できるわけでないのだが。やはりオロオロしながら、人間模様に感無量。ふだん、あまり人と関わっていないので、疲れて、やばいなと思い、昼寝。夜お通夜。そしておじさん親子とスーパー銭湯に行ってリラックス。うちの親父は行くとかいっといて行かなかった。二日間おばあちゃんと夜を共にした。
三日目=朝から、葬儀の準備。やはり疲れが出ているので、10分ほど仮眠。昼前、葬儀。最後のお別れである。遺体保存用のドライアイスで、おばあちゃんの顔に霜があり、思わずぬぐう。お花を入れたり。外に出て少しタバコを吸うと出棺となる。(あとで聞いた話だが、僕がタバコに行っている間、何人か泣いたようだ。僕も胸がいっぱいだったのだろうか?)棺を担ぐ役になる。焼き場に行く。思ったより早く焼けた。おじいちゃんのときと違いいい天気。家に戻り、初七日を済まし、近くへみんなでご飯。けっこうずっと急ぎ足の一日で大阪に帰ってきた。
おばあちゃんは性格にキツイところがあったが、亡くなる前はハトぽっぽの鼻歌を歌うなどご機嫌だったと聞いた。これで、この世には、祖母、祖父という存在がいなくなったので、いろいろ進路も考えている時期であり、機縁というものを考えた。それから、正直この3日気を張ってがんばることができ、親父にも言われたが、大きいことだと思った。あの世というものがあるかどうか定かではないが、見守っていてほしい、そう感じた。親戚を見て、いろんな生き方があるなあと生々しく感じた。
Feb 19, 2007
Feb 14, 2007
たんじゅんに
今日はバレンタインデーである。仕事に行った。なぜか、ローソンで、お弁当を買ったら、おまけにチョコをいただいた。なんか空しかった。帰って彼女にチョコをもらった。勉強をするなら必要だからとペンケースをくれた。うれしかった。外は嵐である。幸いそんなにふられなかった。僕のある詩(ペチカ6号所収の)を読んで、大変感激したといってメールを下さった方がいた。こういうのには弱い。うれしいのである。鼻ふくらんでしまうのである。ありがたい。昨日、倉田さんから電話いただいて、進路の悩みを聞いてもらった。何か、僕が悩んでいると、昨日の日記でもそうだが、ちゃんとメッセージを送ってくれる方々がいるのである。感謝してます。
いくつか学校案内が届く。全部ではないけれど。
雨なのに張り切ってドカドカ洗濯してしまい、干すところが無くなって、往生した。急に、洗濯など、あまりしないのに、やるから、全然わかっちゃいないのである。
Feb 12, 2007
もがき
父の妹(私の叔母さん)のだんなさんが亡くなった。遠方なのでせめてと思い、叔母さんに電話して短い話をした。『社会福祉士になろう』を買って、読了。今とちがう形に生活をもっていきたい。だが、具体的にどうしたらいいか考えている。正直、仕事というものが嫌だった自分もいる。その気持ちと云うか感覚を忘れたくない。でも、今のままよりは、将来につながる勉強というか日課があったほうがいいだろうと思う。そのための通信教育での勉強を考えている。私の履歴書の職歴を書いたとしたら、穴ぼこだらけで、福祉で働いていたというのが、眼に見える一番長い職歴である。あれから、もう5年仕事してない。何のために資格をとるのか、気持ちはゆらゆらしている。とりあえず、資料請求してみる。資格は役に立つのかな。でも、最近が一番変わろうとして、もがいているのかもしれない。二度ねが減った。明日気持ちがどう変わるかわからない。早すぎると自分が判断すれば、撤回する。何事にも時期がある。何かやろうとしはじめている気持ちがまずは大事、と思いたい。
Feb 11, 2007
『合唱ができるまで』を見に行く
彼女が、見に行きたいというので、今日『合唱ができるまで』を第七藝術劇場に見に行った。パリの市民の合唱団(老若男女がいる)が「合唱会ができるまで」を本当に淡々と撮ったドキュメント。主観も説明も排して、ただただ、練習風景を撮り続ける。最初は、どんな物語があるんだろうと見ていたら、ずーっと練習風景で、退屈なのと合唱(賛美歌)の声、心地よく、うとうとして寝てしまった(笑)途中で起きて合唱会も終わりめでたしめでたし。みんな普通の一般市民なのがよい。歌詞も面白い。彼女によると、たぶん強固な映像哲学の持ち主ではないかと。淡々と事実だけを提示すると。そのことだけを伝えるのだと。そうかもしれないが寝てしまった。寝ても起きててもあんまり変わりないよといっていた。
帰り旭屋により、ぶらぶら。その後、登山グッズの店に行った。帰って、堀北真希のフォトエッセイ集『コトノハ、きらり。』を読みながら、ニコニコしていると、彼女に変なおじさん扱いされて、大変困りました。
福祉資格をとるための勉強をしようか思案中。そろそろ、学校説明会とかにいってみようかな。お金のこともあるので、できるかどうかは別として。何か目標がないと。
Feb 09, 2007
古本がアマゾンで1円ってどういうこと?
今日は、色々相談できて、少し気分がマシになって、ついでに髪を切ったし、本も気分よく読めて最近ではいい日だった。日高六郎『戦後思想を考える』一気に読んでしまった。アマゾンで1円で売られていたが、それも何かなあと思ってたところ古本屋にあり、買った。前から気になっていたのだった。パート労働者をどうするかとか、保守政治家が質素倹約みたいな”美しい”徳目を並べたら要注意だとか、けっこう今っぽいかも。あんまり古びてない。四半世紀前の本なのに。というか語りかけてくる感じの迫力がある。まじめに読みました。声をあげることの難しさみたいなことについて、けっこう真剣に考えた。この考えをある程度形に出来たらいいなあ。佐藤優+手嶋龍一『インテリジェンス』読了。インテリジェンスといっているのは、要は諜報活動のことです。最後のほうで、「スパイ学校を作ったら、いや佐藤さんがどうぞ」と薄気味の悪いノリで話が進んで行き読むのがちと辛かった。イラク戦争や北朝鮮の核についても取り上げられているが、まあこんなもんかって感じ。『戦後思想を考える』のほうがコストパフォーマンスも高く、ためになる。私の詩集の中古の値段はアマゾンでまた値下げしており、何と言うかやはりがっかりするであります。アマゾンは価格破壊だ!!(あんまり笑えない)いくら出回ってても、日高六郎の本が1円て何かおかしい。それならもうタダで寄付しなさい(怒)
Feb 07, 2007
福祉のお仕事のページ
昼間頭が痛かった。最近、今後のことを考えることが多く、今日は、「福祉のお仕事」のホームページを見て、求人欄を見ていた。このサイトで求人票がとれるといういいシステムになっている。試しにコピーしてみたりする。「ハケンの品格」はリアリティという点では問題ありだが、けっこう面白い。小松政夫、大泉洋なんかがいい味を出している。
NHK「ゆるナビ」を見る。面白くないコーナーもけっこうある。しかし「こぐれひでこの一日」はよかった。素敵なおうちで、いい感じの夫婦だった。凛とした人だと思った。
「春の日のクマは好きですか?」を見る。主演の女の子、かわいさ爆発である。最近ちょっとしんどいがいい気分になった。
Feb 05, 2007
世俗モード
倉田良成さんから新詩集『東京ボエーム抄』を送っていただいた。手に取った感じ、ほんと素敵な詩集です。ゆっくり読みたいと思う。歴史学者の阿部謹也さんの特集をNHKでやっていて、ついつい見た。で、変わってる人だなあと。
『「話し方」の心理学』という本を買っちまった。でも怪しげなハウツー本ではない。この手の本にありがちな妙なはしゃいだ感じがない。40年読み継がれているという事情もあずかってのことか。わりかしまともというか、いかに自己チューに自分がしゃべっているかがわかり、発見だったりする。あと最近、鈴木宗男と連座した外交官、佐藤優関係の本を読んでいる。わりかた、最近世俗モードです。だから悩むことも煩悩いっぱいです。もともととても観念的というか浮世ばなれな感じなので、世間一般のことがほんまにわかっているかというとかなり怪しいかもしれませんが。
Feb 02, 2007
『グエムルー漢江の怪物』
ツタヤで借りたDVDで、見た。わりかしシンプルな映画じゃないかなあと思った。パトレイバーのパクリといわれているらしいが、僕は詳しくないのでわからない。この監督が韓国という「国」をどう見ているかがよくわかる。韓国の今の国の空気、勢い。先進性と後進性の微妙なアンバランス。日本もアメリカに対してそういうところがあるので、なんか、身につまされる。僕はいたずらな反米論者ではないけれども。そこがいいところ。軽いところもあるし、テーマは実はわりかた重いというか、弱者への愛というものではないのかとラストを見て思った。孤児、ホームレスへの。ダメ人間であるオヤジが怪物にさらわれた娘を助けようとして家族が団結する。この家族というのが、韓国のいろんな世代を切り取ったようで、こういうものなのかなあと韓国社会の戯画みたいに感じた。河原で売店やっているということは、やはり貧しい家庭なのだろう。それにダメ人間であるオヤジのオヤジもまた、若い頃はダメぽかったことがちょっと出てきていていい味になっていると思った。ギャグも適度にすべっていて、そのトホホ感も見ものである。アーチェリーのお姉さんがかわいいと思った。CGもよくできていると思う。
昨日は頭痛で寝つきにくかった。今日はマシになっている。
Jan 31, 2007
魚雷艇学生
島尾敏雄『魚雷艇学生』をゆっくり読んでいる。主人公の特攻に志願する時、志願した後の心理描写がもののように迫ってくる。起こったことを断罪するのでもなく、切々と書き上げていく様は確かな覚悟を感じる。何か目標を作らねばと思う。今の仕事もそうであるが、がんばっていくためには、目標が必要なときがあると思う。今日診察で医師は、「あせらずにやって下さい」と云っていて、励まされた。
Jan 28, 2007
シロクマ
今日、NHKで、「シロクマピース7歳」を見た。人工保育されている北極熊のピースと飼育係の関係が描かれているドキュメント。飼育係が本当に親の感じなので、僕も一生懸命見て、一喜一憂していた。シロクマはストレスに弱く、実の母と隣り合わせの部屋になったらてんかん発作を起こしていた。動物もてんかんがあるのを知った。発作を起こしている様子で、少し昔の仕事を思い出した。Jan 26, 2007
風の音
昨日のこと。島尾敏雄『魚雷艇学生』を読んでいた。ゆっくり読みたい。
新星堂のポイントがたまったので、カウンセリングの帰り2000円引きで、CD『電気グルーブとかスチャダラパー』を買う。全然正面からがなってくる感じなく、とても心地よい。スチャダラパーのダラダラ姿勢は、90年代中盤のあの時代の中では、とても共感できた。
今日はデイケアに行って、コーラス。前回、桑田圭祐『白い恋人達』をリクエストしたつもりが、『冬の恋人達』と間違って書いてしまって、今日は歌えなかったので、次回のリクエストに書いた。終わって、猫月亭さんとお茶した。ある映画が思い出せないでいると、それは『三月のライオン』(写真)ではないですかといっていただき、思い出して、いい映画だったなあと思い出していた。主役の男優さんは10年位前亡くなった。ネットで調べたら趙方豪(チョウバンホウ)という方だった。どう読むかわからなかったので調べてみた。
帰って、奥田民生『LION』を聴く。しんどいときは聴くのが苦しかったことが思い出された。今はいい感じにのれた。ベランダに出ると雨の前兆の風の音が耳に入ってきて、いい気分だったが、ぬれた人もいるのではないだろうか。
Jan 24, 2007
二冊の本
まずは、山折哲雄『ブッダはなぜ子を捨てたか』。うーん、なぜなんでしょう?気になる。気になる。と読み進めても、答えは残念ながらないです。大げさな文章が続きます。各レヴューで、酷評されていますが、わかる気もします。興味深い問いで、意見を聞いてみたいと思ったけど、たぶん、問いが難しすぎたのだろうと思います。しかし、こういう問いでいつか誰かがきちんと(学問的でも芸術作品でもいい)書いた本を読みたいと思いました。芹沢一也『ホラーハウス社会』。触法少年、異常者をめぐる司法の歴史の概括としては、異論は色々あるかもしれませんが、ある程度勉強になりました。「社会秩序」って残酷ですねというお話として読めました。解説が重要です。大事な問題が引き出されています。藤井誠二さん怒っています。被害者家族が加害者を許せないというのも当たり前で、被害者の気持ちは様々なはずなのに「赦す被害者」のストーリーを強要している人たちがいると。芹沢さん考えてくださいと「宿題」を出しています。論争になる地点を出来た時点で解説として埋め込まれている本というのはあまりないと思います。誰も正解をもっていない、この宿題の場所。そういう地点に立つまでの準備がこの本だと思います。この世界には様々な欲望があると感じました。防犯も不安も欲望の顔をのぞかせるときがあります。秩序も度が過ぎれば欲望の顔をします。そのことを実感的に思い起こしました。
気になる本をちょこちょこ漁っています。雑読かもしれませんが、頭を動かす準備体操のようにして、本を読んでいます。まだこの世界という大海の中で考えては休み、考えては自分のヨスガとなる考えらしき何かを泳がせています。考える葦であるというのが何だか今の実感です。少し頼りない感じの後姿で行こうと思います。
後がない人
そのまんま東が知事に当選したのだけど、自民党は「保守分裂」とか民主党は「候補が擁立できなかった」とおっしゃっている。でもたぶんそんなの言い訳に過ぎない。なんで東が目立ったかというと、「後がない人」に見えたからだと思う。本当に「後がない」かは別にして、ノックや青島さんに比べても、前科、離婚、引退とくれば、ストーリーとしては、かなり勝負するには「後がない」し、「捨てるものがない」状況に近いかもしれない。また彼の顔が、本当にそんな顔をしている。「しがらみがない」ではなく「捨てるものがない」。それは訴える者の顔にいくばくかの真実を与えるにちがいない。またぞろ、腐敗がつきまといそうな、天下りさんでは困るということではないだろうか。劇場型選挙という見方も出来なくはないが、私はそんな一面もあるだろうと思うのである。
今日、ホームレスの人が、公園を住所としてみとめてほしいとして、敗訴した。つまり、大阪市が勝った。一審ではホームレスの人が勝ったらしい。天王寺にホームレスは多い。怖いという人もいるが、私は別に勇気があるわけではないが、あまり恐がるのもどうかと思うのである。公園を住所にするのは変だ。が、住所がないと、当たり前の権利が受けられなくて、結局、もっとホームレスになってしまって、職にも就けない。どうしたらいいのか。上告するから、裁判のお金が大変だ。はじめて聞いたが「あぶれ手当」というのがあるそうな。前段階としては、3000人が、一箇所に住民登録していたという件があるのだが、居場所がないというのは考えるだに恐ろしい。どういう境遇で、テントやダンボールで寝るようになったかは、ひとそれぞれだろうけれど、私は、なぜか他人事なんだけど、他人事とは思えなくて、彼らも隣人。市民的秩序の外部にいるが、排除、排除だけではすまされないといつも感じるのであった。彼らもきっとそのままでいいと思っていない人も多いんじゃないかと感じることもある。ああいう形で表現されている何かというものがあるのだと思う。きっと個別の対応が必要なんだろうな。でも、私は甘いのかもしれないね。
Jan 22, 2007
あるある大辞典、福祉ネットワーク
私は、「あるある大辞典」をほとんど見ていなかった。人を健康へと追い立てるようなものは好きではない。それは、「生老病死」という当たり前の営為にたいする、集団的な恐怖というものを感じる気がするからだ。もうそういうふうな方向にばかり、目を向けなくてもいいのではないかという知らせなのかもしれないと思う。「健康という病」という言葉が浮かぶ。もっと病とか、死についてきちんと考える番組が、民放で流れても、一定の視聴率が取れるような気がするので、もう少しそういう方向にエネルギーをさく時節に入っているのではないかと思う。超高齢化というばかりでなく様々な人の了解が得られると思う。ちなみに今日は、売れ行きが心配な納豆を食べた。彼女が「やっと置いていた」といっていた。NHKの「福祉ネットワーク」。先週は「障害者自立支援法」の特集をやっていた。障害の程度によって、グループホーム利用者への補助の額が変わるので、軽い人が多いグループホームでは経費節減のため介護人を減らさねばならなくて、11人を一人で見るということになってしまったところもあるそうだ。私も介護人だったので、番組で云っていたように、一人ひとりの話を聞けなくなって質が低下するというのは、とても深刻だと思った。国は、入所施設利用者を5年間で6万人減らして、その人たちをグループホームに入れたい考えのようだ。現実的にちょっと無茶ではないだろうか。「自立」という理念は大きくは今の現状からしてとりあえず正しいといえるだろう。「自立」という理念が本当に一人ひとりの生に配慮する、集団として見ないということであればだ。そうだとして、しかし、人は何らかのコミュニティなしには生きていけない。だとすれば、生活に対するインフラの整備というものを考えねばならない。きちんとした、制度的な裏づけがなければ、様々な人の生を保障するとはいえないのではないか。今日、「福祉ネットワーク」に出ていた人は免許も持っていて、面白い人だった。なかなか知的障害者で免許を取れる人は少ない。しかし敦賀のようなケースは本当にレアケースだろう。障害者の就労支援をきちんとしているハローワークは珍しいだろう。そこをもっと伝えねばならない。ほとんどの場所では、そんなことは行われていない事実を。
Jan 20, 2007
父親
昨日は父のことを、まったく書かなかったので、書いてみる。父はニット帽を冬になるとかぶる。本人は若い頃ショーケンに似ていたとか、今はカラオケに行くと、渡哲也に似ていると言われるといっているが、どちらもかすっているもののあまり似ていない。そんなシブくない。父はケチなとこがあるので、今回のようにおごってくれるのは、めずらしい。鶴橋の「いっぷく」という店で、彼女も行った。
父は、善良で健康な人である。単純素朴にいいことをする、ちょっとおせっかいなダジャレおじさんである。誉めるとかではなくて、全く素朴な、子どもだってもっとすねているぜと思うような人なのである。自慢話が同じパターンなので、少し疲れるが、まちがいなく、どこにでもいそうで、いない人である。
「いっぷく」は弟がポスターの絵を書いた店で、にしがいのお造りがおいしい、わりかたおじ様が多い店である。店のおねいさんが「ななちゃん」と呼ばれていた。
この話には落ちがないが、私は父のように生きられないと劣等感にさいなまれたことが昔あった。最近はない。うっとうしいともあまり思わなくなった。父は自分の実感に従うので、それがいいなあと思っているところだ。
父と呑みに行った
デイケアに行った。お喋りしながら、プログラムを過ごす。八尾市での、子ども投げ落とし事件、昔働いてた介護施設と遠くなくて、とてもショックだった。行き場のないということはあるのだと思った。詳しく経緯がわからないので、なんともいえないが…折りしも山折哲雄の『ブッダはなぜ子を捨てたか』を読んでいた。捨てる、人を社会を捨てるということ。苦しみと向かい合うということは日常であり、苛烈である。ブッダを思った。苦しみを捨てられないとしたら、向かい合うしかない。向かい合うことは出来るのか、出来たとしてどうなるのか?出来ないとしたら…この世にいるという苦しみが許容量を超えていたら…そして暴力が発動されたら…ブッダはどう思うのだろうか?悪とはそういうところから、分泌されもするのではないか?父と鶴橋に呑みに行った。『グエムル』は借りたいと思う。
Jan 17, 2007
奥田民生『御免ライダー』
奥田民生シングルベスト『御免ライダー』を聴きながら書く。聴けば、バンドから含めると、デビュー20周年だという。あの時も、この時も、民生に力づけられてきたが、やっとひとりの人間として、彼の曲と向かい合えた気持ちになった。正直少し遠ざかっていた。強そうに見えるが、強くない。繊細な男の魂というものを見る。聴くことができる。〝雨なのに過ごしやすいのはなぜ?傘さしてわざわざ出かけようとしてやめて 休みが必要だ〟(コーヒー)長くこの歌はいい歌だと聴いていたのだが、しっかり聴いたのは初めてだ。「雨」とは何であり、「傘」とは何だろうか?短い言葉の中に屈曲がこめられている。座ったり立ったり、寝ていたり、存在のうたがあると思った。
そうこうしているうちに、少し元気が出てきたような気もする。今日は「障害状況確認届」を先生に書いてもらった。
Jan 13, 2007
初心に戻って
今日はデイケアで習字教室で、ノートに睦月、如月、弥生…と、月の名前を書いていた。習字の先生が「書いてみてください」と云ったので。異常気象と言われて、妙な気温の中、新年を迎えて、大寒が間近であるが、腹に沁みない冬である。たぶん、日本的抒情の否定という前に、世界のほうが、季節を否定し始めているのではないかと思ったりする。昼からは竹田青嗣『哲学ってなんだ』が読みかけだったので、読む。岩波ジュニア新書から出ていて、中高生対象なのだろうけれど、素朴に初心に戻って読んだ。デイケアの人にも勧めた。竹田青嗣は『ニーチェ入門』から始まって、色々読んだことがある。それで、私の中では、もう読まなくても自分で考えられるカナと思っていたのだった。しかし、『哲学ってなんだ』は、とても整理されていて、自分の人生に引きつけて読むことが出来た。これは大事なことだと思った 。自由が大事なのは、どうしようもないくらい、ままならないことが人生には多すぎるからだ。不思議なもので、ままならないことを何とかしたいと人間は思うのだ。何とかしようとしてあがいたり、諦めたりしている。病気になって、再度チャレンジみたいな、今の私の感じと響いている。悔いなく生きたい。この意味で、竹田の哲学はとてもポジティブだ。何とかしようとしていることに自覚的になった歴史として近代の精神を捉えている。(微妙に進歩派?)私が共感するのは、人間個々は生きるための「物語」を書いていて、それは自分自身に対しても、世界に対しても関係しているってことだ。例えば、私があなたを好きになる。これは、きっかけはよくわからないのだけど、気づいたら、あなたと私の間に、何かのかかわり(縁)が出来てしまっていて、世界のありさまが変わる。それがさらに次のステップへ向かっていく、これは確かに自分の物語の「書き換え」だというように…本書では恋愛についてはあまり書かれていないが、竹田の「欲望」と云う言葉は「恋」という言葉がよく似合う気がする。ごく個人的な感想ですが。
Jan 11, 2007
お知らせー2号発刊
詩と散文の表現媒体「tab」2号が出来ました。編集は倉田良成。執筆者は後藤美和子、木村和史、高野五韻、野村龍、倉田良成、石川和広。(敬称略)今号に私は詩を書きました。原本をコピーして郵送するという形態をとっています。Jan 10, 2007
達人
今日は今年初仕事でした。カスペルスキーという会社の作ったウィルスソフトはすごいんだそうな。私は時代遅れだろうか。たぶん、そうだろう。元KGBのロシア人が開発したそうな…でもウィルスソフトってパソコンと相性が合わない場合があったような気がする。私の使ってるパソコンはウィルスバスターがダメだった。全然パソコンに詳しくないので…
高田純次が今年、年男で還暦を迎えるそうな。向かうところ敵なしの「どうでもいいこと」云い。「次の年男まで生きられるか?」と自分で云っていた。今日テレビで見たが全く衰えておらず。何の達人かはわからないが、きっと何かの達人にちがいない。記号論的なお笑いである?!存在の耐えられない軽さではなく、実生活はちがうだろうけれど、存在が良い意味で軽く、見るものに負荷をかけないというのは、ちょっと恐ろしい。その点、さんまともまるでちがう。
Jan 09, 2007
私は人生で初めて寂しさを知った
『思想なんかいらない生活』を読んでいて、20台の頃、「ふつうという権力」という文章(の体をなしていないもの)を書いたのを思い出した。(今はそのノートはどこへ行ったのか、たぶん実家にあると思うがとても見せられないと思う)「ふつう」がいやだった。かといって、特別な人間であることもできず、それどころか「ふつう」のみんなが恐くて、自分は「ふつう」以前ではないかと思って、ずいぶん心細かった。そんな頃を私は否定したくないのである。自意識過剰といわれようが、そんな感じで不安定であったのだから、それは肯定しておきたい。今はどうかというと、自分の考えや感じが「かけがえのないもの」か、ずいぶん心もとない。自分の考えや感じは、別に特別でもないし、思い込みが強いけど自信はないのである。変わったといえば、それが実存をおびやかすようなものではなくなりかけているということかもしれない。どうでもいいというわけでもないが、一歩退いているという感じだろうか。何も冷静だったり客観的であったりするわけではないが。「ふつう」の幸せや苦労は、やはりかけがえのないものであり、それを一般的な尺度にあわせる必要はないと思う。私は、「こうでなければならない」、「勉強しなくてはいけない」という内面の縛りが強くて、すぐしんどくなって嫌になるので、今日読んだ勢古浩爾『思想なんかいらない生活』は、色々欠陥はあるとはいえ、少し以上のようなことを思い出しながら読んだ。こういうわかりやすそうな本もバカにできないなあと思った。何だかわからないが勉強したくなったり、嫌になったりがふつうかなと感じた。
中でも、エリック・ホッファーのくだりが印象的だった。ホッファーは独学者で、沖中士(港湾労働者)で思想家としてのデビューは遅かった。名前は知っていたが、その人物が素敵だなとこの本を読んで思ったので、そのことだけでも、お買い得だったと思う。『思想なんかいらない生活』より孫引き。
「私は人生で初めて寂しさを知った。喪失感と絶望感にさいなまれた人間は、自分がどこから来たのか、そしてどこへ向かっているのか、わからなくなるものである。歴史を失うのだ」
これは、ヘレンという女性と出会い、ヘレンはホッファーを物理学の天才とみなし、崇拝したが、ホッファーは自分の学問は偽者だと思い、自分から愛するヘレンのもとを離れたことにふれた文章である。ホッファーは学歴のない独学者であった。私はこの「寂しさ」というものに胸を衝かれた。まるで自分のことのような、いやそうではないぞと思うような、変な、それでいて、とても切ないのである。だから、この言葉に出会ってとてもよかったと思えた。私もそのように旅しているに違いないと思わされるような、深い言葉である。勢古の紹介もよかったのかもしれない。ホッファーの生涯が映画化されたら見たいと思う感じであった。そういえば「スモーク」だったか、ポール・オースター原作の映画でバフチンが挿話として出てきたのを思い出した。
Jan 08, 2007
マザーテレサのところになかなか辿りつけない(もちろん比喩)
彼女に、「マザーテレサは、全員平等にやさしく奉仕していたんだろうか?」と云ってみた。僕の頭の中のマザーテレサだが、そこんとこどうだったんだろう。そんなたくさんの人に優しくしていたら、感情疲労が起こらないのだろうか?それとも「本物の使命感」(なんだそりゃ)なんだろうか?とか考えていた。そうすると彼女が答えた。「マザーテレサのところに行けた人はやさしくされたんじゃないの?」と。僕は、そうだなー、関わりを持てること自体有限であるなーと思ったのである。やりとりとしては、この程度だが、関わりというか関係性について考えたのである。出会うということ自体奇跡に近いが、そんな出会いとも関係なく歩いている人がいるだろうと。僕が「○○さんに嫌われてない?」と聞くと、彼女は、「あなたは、好かれたい気持ちが強いから、そうおもうんやで」と云われてしまった。そうかもしれない。僕は独占欲が強いのだ。自分が関心をもった人には、好かれていたい。しかし、人の心は変わるものであるし、濃密な関係性を求める人あらば、そうでない人もいるのである。この自分と関わってくれたかということに、僕は一番関心がいく、普通にみみっちい人間なのである。それは僕が人並みに排他的であるのでもあろうし、マザーテレサで云ったように、関わる限度というものがあって、結局何が大事かということに話はいくのである。
僕は、好き嫌いははっきりしているほうだと思うのだが、乗れる文脈と乗れない文脈みたいなのがある。なるべく色んなものを取り込んだ上でお話したいと考えているが、何しろぼんくらで、最近ではものすごく感動するということが少なくなってしまった。たぶん、僕のぼんやりした勘みたいなものが文脈を選んでいるのだと思う。迂闊には、近づくことはできないでかい問題もある。何の気なしに文脈にからんだら、とてつもなくでかかった、乃至は本質的で、考えるのに時間がかかってしまうということもあろう。しかも、たぶんどの問題も考えれば本質的なので、視野には入れるが宿題になって、そのままなりっぱなしということもあるのだ、実際。
と云うわけで、色んなことをスルーしているので、何か悪いなあと思うのだが、情報化社会というのは、そんな心境に追い込まれるなあと思った。そんなの関係なく好きなことや人にもっともっとかかわりたいと思いながら、おっかなびっくりやっていて、自分の中に何枚も壁があり、なかなか辿りつけないのであった。ネットを見ているといつもそんな気持ちになる。
この話は「作品」に対する関わりの問題とも酷似している。特にネットで膨大な作品を見る場合には。
Jan 06, 2007
誕生日
おお、33歳になりました。30代にはいってから、感じてた、30やのに、しっかりしてないなーという罪悪感のようなものは今年はありません。なぜでしょうか。不思議、本当に不思議な感じがします。何かいいことがありそうな、不安なような。今朝一番に親戚のおばさんにメールをもらい、何人かの人に、祝っていただき、こういうことは珍しかったので、ちょっとくすぐったいです。ありがとう。去年の暮れから、今年最初に読んだ本は、中島らも『心が雨漏りする日には』と坂井信夫さんの詩集『<日常>へ』でした。昔はらもさんの愛読者だった僕ですが、久しぶりに前から買ってあったのを手にとって読んでみました。躁うつ病を軸とした、自伝という感じなのですが、壮絶なものを感じました。アルコール依存症のほうもかなり深刻なレベルに達していたようですが、本格的に、依存症向けの治療をしていたわけではなかったようで、複雑な感じがしました。らもさんがきっと色んな因果というか、自分でも制御できない形で生きていたということがよくわかり、業のすさまじさが印象に残りました。昔はそんなこと気にして読んでいませんでしたが。本上まなみが追悼エッセイを文庫版では書いています。年末年始ということもあり、厳粛な感じで、やっとらもさんの死を受けとめる自分がいました。
坂井さんの詩集はとてもよかった。こういう風に書けたらいいなと感じさせられるところがたくさんあって、遅ればせながらお礼状を書きました。
Jan 05, 2007
米朝一門
お正月は大体、寝正月だった。実家に帰ってて、ブログ更新できず。お久しぶりです。皆さまどんなお正月でしたか?いくつかテレビを見たが、一番オモシロイナアと思ったのが、「米朝一門」。たぶん関西でしかやってないだろう。途中からしか見ていなかったので、米朝師匠の高座は見ていないのだが、桂南光、ざこばの高座を見たのだった。落語を見ていると、風景が想像できる、その仕方がイイナア。南光さんのいっていた、池田のシシ打ちの場面なんか、見たことないのに想像できて不思議である。天井からぶら下がっているシシの姿が思い浮かんだり。また、道中をたどっていく感じがタマラナイのだった。ざこばさんの語りはよかった。彼の不器用さが持ち味になって何ともイイ雰囲気を出しているのです。僕は語りはざこばさんのほうがすきかもしれない。
ラストでは、米朝師匠や僕の好きな喜見こいしさんも加わって、思い出話が炸裂。うわー、僕の好きな空間です。いろいろ難しいことも考えてはいたが、今日はここまで。