Jul 28, 2007

終わりのない始まり

 夕方、帰ってきて、ちょっとくらいはいいかと思って、クーラーをつけて、今日は5時半に起きてちょっと疲れたなと思って、横になった。気がつくと、外が真っ暗で、唖然とした。8時半くらいになっていた。クーラーつけたら、あかんと朝のブログで云いながら、つけるとすやすや眠ってしまったのである。ちょっとヤボ用があったのになと思いつつ、焼きソバを作って、チューハイ飲んで、ルパン三世を見る。しかし、オリジナルシリーズとちがうし、話の出来は、つまらないタイムマシーンもので、テレビを切った。そして、何かないかしらと思って、「カーヴァーズ・ダズン」を読み始めたのだった。
 これは村上春樹が訳して、セレクトしたもので、前から持っていたのだが、読んでいなかった。学生時代、カーヴァーの春樹訳の文庫を読んだ事があって、それらが手に入りにくくなったから、こういう形になったようだ。
 気の向くまま、「でぶ」、「夏にじます」、「使い走り」、それから詩の「レモネード」、「おしまいの断片」を読んだ。詩人であったことに驚いた。全集あたりを開けば載っているのだろうか。機会があれば、詩集も読んでみたい。
 短編では、「使い走り」が心を打たれた。いい小説を読んだ。文体はしまっており、抑制されているが、真実があふれだすような感じがした。カーヴァーの最期の短編のようで、チェーホフの死がテーマ。 よくぞここまで、書いたというほど細部まで見事。臨終の直前の床、ホテルの一室で、医師がチェーホフと、チェーホフの妻とシャンパンを飲む。夜中にシャンパンを持ってこさせる医師もすごいと思う。シャンパンは注意深く医師の手によって、パーティーのようにならないようにコルクが開けられ締められる。医師が去って、妻とチェーホフの亡骸が二人きりになると、コルクが飛ぶというシーンがあるが、この演出は、全然嫌味ではなく、気取っているようで、全然そうじゃない。すばらしい。
 入院中の面会謝絶の中を迷惑を顧みず、トルストイが尋ねてくるというシーンがある。トルストイの大物振りがちょっと滑稽な感じがするのだが、僕は、トルストイの『イワン・イリッチの死』(他はきちんとよんでいない、御免)という小役人が不治の病にかかって、自らを振り返るという短編が好きだ。しかし、どんなにささやかに書いたとしてもトルストイだなあと思わせてしまう、損なところがある。対して、チェーホフは、これはカーヴァー自らと重ね合わせているのだろうが、何か大きな価値が揺らいだとしてもぶれないものを書いていると、(これも数編を読んだ限りでは)思う。それは、人が、生涯の中で、持てる関係の範囲であり、その中にある無限だと思う。僕は、阿倍昭や梶井基次郎が好きなのだが、短編は小の中にある無限を書いているような気がする。気のせいかもしれないが。短編と詩のちがいはなんだろうと遠い気持ちになる。そんなに違いはないかもしれないし、あるかもしれない。
 「レモネード」(詩)から引用。

子供は川岸に並んだ捜索隊の人たちの頭上を通り越していった。その両手はだらんと広げられ、水滴をまわりに飛び散らせていた。子供はもう一度人々の頭上を通過した。前よりもっと近いところを。そしてほどなく子供は父親の前に運ばれ、その足元にこの上なく優しくそっと置かれた。息子の死体が金属製のはさみみたいなもので川からつまみ上げられ、樹上でぐるぐると回転させられるところを一部始終目にしたばかりの、いまは死ぬ以外に何も望まぬ男の、その足元に。(レイモンド・カーヴァー「レモネード」)



 この「優しく」という感覚は、どこかで感じたことがある。通ていするものを感じる。北村太郎の「終わりのない始まり」の一節。僕は詩をたくさんは読んでいないが、かつてこの詩を読んだときのことは忘れられない。以下引用。

たしかにこれで終わりです。百舌が高い樹のうえから
生きのこったものの心臓を
裂きました。そよかぜがコスモスの
草むらをなでてゆきました。遠くから
電車の走る音が聞こえます。たしかにこれで終わりました。(北村太郎「終わりのない始まり」)

カーヴァーの詩では、親が息子の死を見ている。北村の詩では、妻と子の埋葬の場面だ。見ている視点はちがうし、さまざまにちがう点を指摘できると思うが、何か、同じ普遍的な光景を描いているように感じる。死者にとってこの世界はどんな世界か僕にはわからないが、「終わりのない始まり」をわたしたちは生きる。そして、わたしたちもいつか消えるのだろう。その繰り返しの営みの結節点がある。しかも、これは一回きりだし、ちがう意味では一回きりではない。
Posted at 00:59 in nikki | WriteBacks (5) | Edit
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「?」

質問です。
「小の中の無限」ってなんですかあ?

あと、私には、「短篇小説」と「詩」って、あきらかに違ったものに思えるのですが、石川さまは、何か共通項めたものを感じられるのですか?
それは、どういう所ですか?

Posted by でぶ猫。 at 2007/07/28 (Sat) 18:37:25

失礼いたしました。

あ、「小の中にある無限」ですね。
間違えました。
失礼いたしました。
で、なんですかあ?

Posted by でぶ猫。 at 2007/07/28 (Sat) 18:44:08

私だ!

わははははははっ、私だ!大和路の怪人Zだ!
こんなことを言うと、気を悪くされるかも知れないが、石川君の文章は、どうも判りづらい。
いったい、どうしてなんだろう?と、いつも思っていたのだが、ははあ、文章が上手く整理されていないのだな。
たとえば、本日のブログの冒頭だが、私なら、こんな風に書く。あ、なるべく元の文章を尊重する。

夕方、部屋に帰って来て、「少しぐらいはいいか」と思ってクーラーをつけた。
今日は、5時半に起きたからか、疲れていたので、横になる。
目が醒めると、外が真っ暗なので、唖然とした。
午後8時半くらいになっていた。
いつの間にか眠ってしまった様だ。
ちょっとしたヤボ用があったのに、このせいで、こなすこと出来なかった。
そんな事を思いつつ、焼きソバを作り、それを食べながらチューハイを飲んで、テレビで『ルパン三世』を観る。
しかし、それは、オリジナルシリーズとは、全く別の物のせいか、物語の出来が良くない。
いわゆる「タイムマシーンもの」なのだが、これが全く面白くない。
あまりにもつまらないので、テレビを切り、何か読むものでもないだろうか?と思い、書棚を物色。
『カーヴァーズ・ダズン』を引っぱり出して、読み始める。

こんな感じではどうだろうか?
ダメかな?

それではまた会おう、石川君。
さらばじゃあ!
わはははははははははははははっー!


Posted by 大和路の怪人Z at 2007/07/28 (Sat) 19:28:31

真面目な答え

猫さま、ならびに、怪人さま、こんばんは。
ビールを飲んで、ちょっと酔っ払っております石川です。亀田の夏祭りはつまらなそうなので見ません(笑)
ご質問の件、いい質問だと思いました。答えになるかわかりませんが、答えてみます。
「小の中にある無限」ですが、前に
>人が、生涯の中で、持てる関係の範囲であり、その中にある無限だと思う
というフレーズがあります。人の生活を「小宇宙」ととらえれば、「大宇宙」に対して、小さなことになります。猫さまがどうお考えになっているかはわかりませんが、人がささやかな生の中で、出会う数々のものは、その表れ自体はまあ有限です。つまり、出会うもの、人には限りがありますね。人は死にますから。しかし、人に例えればわかりやすいのですが、出会った人の性質や、見た目というのは、自分の目には「こうだ」という風に見えます。それは間違いないのですが、今なぜこの時出会ったのかや、いかにして、この人が私にはこのような形で現れたのかを考えると、謎は無限にあります。もちろん、人は、見た目こうだというのは、自分の感覚として正しいのです。ですが、その人に出会ったきっかけが、偶然であれなんであれ、そこにはちょっとやそっとではわからない、あとで、こうだったのかと気づく、あるいは気づかない何かがある。それを「無限」と表しています。ある種の文学は、それを書いていると思います。
 また、「短編と詩のちがいはなんだろうと」という部分です。これも、私に再考を促していただいた、いい質問だと思います。猫さまは、ちがいがはっきりしていると書かれていて、私もそれに基本的に同意します。しかし、私の実体験なのですが、梶井基次郎は、私の意見では、優れた短編の古典だと思っています。だけど、梶井の書いている短編を、もし散文詩として紹介した場合どう感じるかというと、私は形式上の違いがあるのは、わかったとしても、すぐれた散文詩とどうちがうのかと感じます。これは、梶井だけではなく、藤枝静男さんや、私個人がいいと感じる作家に感じる事でもあります。説明が不足してわかりにくかった点があるかもしれませんが、すぐれた表現の内容は、時に奇跡的に、形式を超える場合があるということをいいたかったのです。カーヴァーの場合も詩を書いたり、短編を書いたり、これはなぜだったのかと思います。もしかしたら、詩ではあらわせないことがあるということに気づいたのかもしれません。宿題にしたいと思います。これには、賛否両論があって、当然だと思いますので、疑問は当然だと思います。

文章のことについては、私の書き方はだらっとしているところがあります。精進したいと思います。でもちょっと恥ずかしかったので、メールで送っていただくと、ありがたいですね。
私は因果関係のはっきりした文章を書くのが苦手なところがあるかもしれません。これは、言い訳ですが、まあこういう文章もあると思っていただくと、ありがたいかも。いや、でも、精進します。前にもらったアドバイスは役に立ちました。なるべく、センテンスを短くしようとは思っています。

真面目に答えすぎましたかね(笑)でも、しょうがないんですよ、固い人間なので。あと、自分ではわかっていることを、うまく説明できないというのもあるかもしれませんね。ひとりよがいにならないよう、でも、私の文章の味(?)を壊さないよう気をつけます。

Posted by 石川和広 at 2007/07/28 (Sat) 20:30:50

追記

ええと、「無限」に出した例は一例なので、もちろん、もっと色んな無限があろうかと思います。もっと明確にいえたらとも思いますが、まだまだ力が足りないです。
それと、お答えしているだけでは、何となく、一方通行的な気がしたので、質問です。猫さまが考える「短編小説と詩の違い」とは何でしょうか?個人的な見解で結構です。私は、たぶん感動の内容を優先しているため、違いは何なんだろうという疑問が湧いてきている気がしています。お互いの思考形式のちがいや、同じさがわかれば、とてもいいと思うので、質問してみました。忙しいかもしれないので、答えはいつでもかまいません。ちょっと楽しみにしています^^;

Posted by 石川和広 at 2007/07/28 (Sat) 20:53:08
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