Jul 30, 2007
『夕凪の街 桜の国』は、『はだしのゲン』とワンセットで読んだ方がいいような。
こうの史代『夕凪の街 桜の国』を読みました。うーむ、映画、どうしようかなあ。このマンガと『はだしのゲン』を比べてみると、原爆ものとしての持ち味の違いがわかるような気がします。あまり内容をちゃんと覚えていませんが『はだしのゲン』にあったものが、『夕凪の街 桜の国』にはない感じがするんですね。それは、怒りというのでしょうか。苦しめられ、奪われ、蝕まれていくことへのつらさが、怒りに変わってゆく。そこに、切なさを感じるのです。被害を受けた人間としてのまっとうな何かがある。『はだしのゲン』が時代遅れになっているというような言説があるようなのですが、私はそうは思いません。そこには、人間の宿命の何たるかが、ユーモアさえまじえて描かれていた気がするんですね。
それと、内面描写が非常によくできていると思い感心しましたが、トラウマをめぐる精神医学的な良心的な記述のようにも思いました。でも、このセリフはなかなか書けないとも思いました。精神医学から、人間の声の方に向かっているのです。すぐれたセリフ、カットはたくさんあります。構成も卓抜です。一部引用します。
誰もあの事をいわない。
いまだにわけがわからないのだ。
わかっているのは「死ねばいい」と
誰かに思われたということ。
思われたのに生き延びているということ。
そして一番怖いのは
あれ以来
本当にそう思われても仕方のない
人間に自分がなってしまったことに
自分で時々
気づいてしまう
ことだ
このような深淵があるということ。怒りとして表出されない何かがあること。そこに、冷たい風がとおっているようです。それは、ぬくもりがあるからです。生きているからです。生きているから苦しい。それをも受けとめる広がりと、行き止まりがあります。ここは、はだしのゲンとはちがう形で優れている。
「桜の国」に入って、二世、三世がどう自分の来歴を見つめていくか。しかし「このふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ」というセリフが私にはひっかかってしまった。感慨は湧きます。でも、そうでもいいんだけど、もうちょっと何か、それに至るまでに、何かないとと思いました。波乱万丈でもなんでもなくていいんですが。
つまり、既視感が強い。
自分がすごくいじわるな読者に思えてきたんですが、(好評な作品なので、袋叩きに会いそうでこわいです)全体から感じるのは、要するに、こう書けば間違いないという道のようなものが先にあるような気がするのです。でも、芸術って、最初に道をつくって、それをなぞっていくんだったら、面白くないんじゃないか。良心的で、原爆に関するある種の啓蒙書、入門書としてはいいような気がしました。非常に優れた技量の上に成り立った作品であるだけに、「収まりきらないもの」も必要だと思いました。その片鱗は充分あります。それだけにもっとと思うのです。『はだしのゲン』と比べたのは、そのためです。
あれは、やりすぎかもしれませんが、残酷描写にきちんと感情や必然があって、どうにも収まりきらない感触がありました。その分えげつない。そういうやり方に食傷気味の方は多いかもしれませんが、あちらを忘れたらさびしいなと思いました。ゲンと、『夕凪の街 桜の国』は、両方あって、それがお互いを補うという感じがいいのかなと思います。片方だけを読むと原爆を追体験するには足りないように思います。もっと読んでみます。
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