Jan 09, 2007

私は人生で初めて寂しさを知った

 『思想なんかいらない生活』を読んでいて、20台の頃、「ふつうという権力」という文章(の体をなしていないもの)を書いたのを思い出した。(今はそのノートはどこへ行ったのか、たぶん実家にあると思うがとても見せられないと思う)「ふつう」がいやだった。かといって、特別な人間であることもできず、それどころか「ふつう」のみんなが恐くて、自分は「ふつう」以前ではないかと思って、ずいぶん心細かった。そんな頃を私は否定したくないのである。自意識過剰といわれようが、そんな感じで不安定であったのだから、それは肯定しておきたい。今はどうかというと、自分の考えや感じが「かけがえのないもの」か、ずいぶん心もとない。自分の考えや感じは、別に特別でもないし、思い込みが強いけど自信はないのである。変わったといえば、それが実存をおびやかすようなものではなくなりかけているということかもしれない。どうでもいいというわけでもないが、一歩退いているという感じだろうか。何も冷静だったり客観的であったりするわけではないが。
 「ふつう」の幸せや苦労は、やはりかけがえのないものであり、それを一般的な尺度にあわせる必要はないと思う。私は、「こうでなければならない」、「勉強しなくてはいけない」という内面の縛りが強くて、すぐしんどくなって嫌になるので、今日読んだ勢古浩爾『思想なんかいらない生活』は、色々欠陥はあるとはいえ、少し以上のようなことを思い出しながら読んだ。こういうわかりやすそうな本もバカにできないなあと思った。何だかわからないが勉強したくなったり、嫌になったりがふつうかなと感じた。
 中でも、エリック・ホッファーのくだりが印象的だった。ホッファーは独学者で、沖中士(港湾労働者)で思想家としてのデビューは遅かった。名前は知っていたが、その人物が素敵だなとこの本を読んで思ったので、そのことだけでも、お買い得だったと思う。『思想なんかいらない生活』より孫引き。

 「私は人生で初めて寂しさを知った。喪失感と絶望感にさいなまれた人間は、自分がどこから来たのか、そしてどこへ向かっているのか、わからなくなるものである。歴史を失うのだ」

 これは、ヘレンという女性と出会い、ヘレンはホッファーを物理学の天才とみなし、崇拝したが、ホッファーは自分の学問は偽者だと思い、自分から愛するヘレンのもとを離れたことにふれた文章である。ホッファーは学歴のない独学者であった。私はこの「寂しさ」というものに胸を衝かれた。まるで自分のことのような、いやそうではないぞと思うような、変な、それでいて、とても切ないのである。だから、この言葉に出会ってとてもよかったと思えた。私もそのように旅しているに違いないと思わされるような、深い言葉である。勢古の紹介もよかったのかもしれない。ホッファーの生涯が映画化されたら見たいと思う感じであった。そういえば「スモーク」だったか、ポール・オースター原作の映画でバフチンが挿話として出てきたのを思い出した。
Posted at 23:40 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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