Dec 13, 2007
読中感想メモ『詩的分析』
藤井貞和氏の『詩的分析』を読んでいる。「複屈折修辞」の節を読み終えて、「万葉本文論」に入ったところ。「複屈折修辞」について。そもそも「複屈折修辞」という言葉を知らなかった。掛詞などが一つの歌の中で、一筋縄ではいかない意味作用と余韻の効果をもたらすもの?だろうか。無知なせいもあって説明が難しい。縷々書いて行く。掛詞などについて、僕の受けた古典の授業ではある種の「シャレ」として説明されているにすぎなかったが、藤井氏は、詩の生成に関する重大なヒントとダイナミズムをここに感じている。その記述や歌の現代語訳が誠にダイナミックかつ精妙なので、古典文学に関して不明の私もひたすら心動かされて読むことができた。
きみにけさあしたの霜の起きていなばこひしきごとに消えやわたらむ(仮名序)
藤井氏の解説を引用する。
「霜が置くことと、起きて辞去することとのあいだに、懸け橋として、同音(あるいは類音)と、朝であることとがあるだけで、ひらいた懸隔は、消えいる思いと、霜の消えることとのあいだで、ふたたび交錯する。しかし意味上、表裏二つがかさなるということはなく、あえて言うなら、表と裏とがもう一度いれかわるという感覚だろう。霜が置く、消えるという、自然な現象をまさに懸け、焦点にしたところに古代の詩があり、そこから心情にも物象にもひろがる。」(『詩的分析』228㌻)
表裏の次元の移動や、心情と物象の交感について注意したい。後学のため自分なりに反芻してみる。「起きていなば=愛人の出立」と「霜を置くこと」が同音であることで朝の情景という広がりを描く。しかし「いなば」というように仮定だから、そうなったらどうしようと思っているのだ。そのようなことになったとき、やがて昼になり霜が消えていくように、自分の気持ちも消え入るような(心細い)気持ちになって行くとしたらと。心は古い言葉で「うら=裏」という。別れのときの気持ちを想像する「うら=こころ」は、霜のように寒い朝だけにあらわれる実在(表)であると同時に消え入りそうな不確かさを持っている。(なんだかまちがっているかもしれない。)
さらに藤井氏の解説をさらに自分に引き寄せてみる。「愛してくれているだろうか」「私の気持ちは確かなものだろうか」という誰もが感じたことのある何かに、確かにアクセスしてくるものがある。このアクセス性は重要だろう。
藤井氏は述べる。
「どう受けとるか、どんな民俗や感情を盛りこんで読者が納得するかには、個人差があるものの、懸けたことばなら誰もが納得できるのではないか。」(先の引用部続き)
心理的になるかもしれないが、私なりのアクセスを試みる。この歌は全体が心の産毛のようなもので出来ていて、それを「文=綾、彩」と呼ぶのかもしれない。その産毛が私に触れることによって、私の中の心の産毛がそよぐようにも思えるのだ。私も恋をしたことがあるから、この人の気持ちはどうなんだろうとか、そう思う私は相手を本当のところで信じているのだろうかと悶々とすることがある。よく考えてみれば、産毛と霜はどちらも細く頼りないものだ。この歌に出てくる人は、「あの人が出て行ったとき、わたしの心はどうなるのだろうか」という仮定の形で、相手にたいする気持ち、関係について、それらが自分をどこに連れ去るのか思いをめぐらしている。そのときの揺れる感じや次々と浮かぶ想念は、「霜」のように頼りなく儚い。自分がふとふわふわして、しかし奥底では醒めているのだ。(霜のように)しかし、光と風と土と水と大気(朝=自然)というその大きなものに照らされて、ささやかな思いがどういう未来を迎えるのか。そのような遠景からの巨大な視点もあるのだ。とてつもなく様々な魂の面に触れてくる奇妙にありありとした幻のような時間だ。それに触発されて私は、その確かさと不確かさの間を思い出す。それはもしかしたら別れがくるかもしれないという事実性を持った恋心の時間である。霜のように信と不信という対立ほどでもない何かが繰り返し朝の光のように反射(リフレクト)しつづける。もうあなたとの時間に入っているが「決定不可能」な心の瞬間を描く。その限りない反射が私をふるわせる。藤井氏の文と歌の感動からこういう感想を抱いた。そしてこれは虚実の交錯する表現空間の謎の一端ではないかと。
たしかにひとつの「文」がこのような心の原初への働きを示すことを、藤井氏が語っているとすれば、(たぶんに私の想像も入っているが)それはまさに詩だといえるように思う。まだ途中なのだが、言葉と人が触れ合うとき一体何が起こるのかは、まさに文学の全身の問題であろうと思った。
※無知な上につい興奮しておおげさなところが見られますが、ご容赦ください。
※「心の産毛」という表現は精神医学者中井久夫氏が精神疾患患者(おもに統合失調症)の心の働きのデリケートさについて語ったとき使った言葉です。
※アイヌ神謡の四人称の問題も面白かったです。誰が語っているか という問題はどこの世界でも確かに見落とされがちでした。大江氏が一時ナラティブの問題について語って小説を書いていましたが少しわからないところもあったのです。
私も読んでみます
『詩的分析』面白そうですね。個人的に、今、詩に平仮名を多用し、掛詞的に使うことで、何か広がり、もしくは接点を…と思っていましたので、とても興味があります。
心の産毛をつかったアクセスの文章、ひかれました。そうした共振のようなもので、私たちは他者とふれあうことができるのではなかったかと。
うみきょんさんへ
ヒラカナというのは、すごく面白いですね。
漢字を崩したといわれるけれど
この国の言葉に、あらたな音と意味と
視覚へのアクセスを可能にしたという点で
きっと漢字が伝わってからの大革命なんだと思います。
私もヒラカナオンリーで、試しに書いてみたことが
なんどかあって、漢字仮名混じりとは違って
どこで、文を区切るかということでもすごく
面白い効果があらわれます。不確定というか。
うみきょんさんの試みに
なにがしかの力にこの文章がなれたとすれば
非常にうれしいです。
藤井さんは万葉仮名も論じておられるので
私はまだ、読みきっていないけれど
面白そうです。
(追記)
これは、読んでくれた方みなさまへの追記もかねてなのですが書いてみます。
私は古典的な歌の技術について無知なので
tabという詩誌でご一緒している倉田さんに
いろいろ後で伺いました。
私の理解がまちがっているかもしれないけれど
それをまとめておきます。
ひとつは、複屈折とあるように
二回、つまり「起き」という部分と「消え」という部分が
かかっているという理解が妥当であるということのようです。
どちらも、霜とかけているのですが
そのかかり方の持つ意味がそれぞれ、ちがうということ。
単純に考えても、
一回目は、あなたが起きるということで
二回目は、私の気持ちが消えていくということです。
同じ霜を媒介にしていますが、そこであらわれているものはちがう。
藤井さんの言うように、それが読んで見てわかる形の
「懸けたことば」になっているという点が重要だそうです。
つまりテキストとして開かれている。
その現われ=表と、意味内容=裏が
「かさなるということはなく、あえて言うなら、表と裏とがもう一度いれかわる」と藤井さんがいっているとおり
直接の反映する関係というより、もっと不思議な
内容と、表現の、自然と心象の関係になっている点が面白いと。
この面白みというのは、もっといろいろ昔の歌を読むことで
感じられるようになるのではないかと思いました。
私は、まず、素朴にというか思い入れだけで
その「心映え」に反応した心先行型の人間なわけですけれど。
うーむ、奥深いですね。
でも、思ったより古典も開かれたテキストである。
とか、字義通りに読むとはどういうことかという問いかけが
藤井さんの中にあって
それが、素人の僕の無謀な発言にも、勇気を与えてくれました。
宣長は「もののあはれ」が大切だといっているようですし
それに賛成かどうか別にして
「もののあはれ」をどう表わすかに様々な工夫が
凝らされている点も重要だと。
倉田さんの話できづきました。
いろいろこれから考えていこうと思います。
「もののあはれ」というか「心」が率直にあらわれるのは
どういうことかというのが私の最近のテーマでもあるので。
writeback message: Ready to post a comment.