Oct 18, 2007
人からもらうエネルギー
しばらくぶりの更新です。ちょっと前の話になりますが、ぽえざるでは、様々な方にお会いできて感謝しています。一年ぶりの方も多数いて、こういう機会でしかなかなか会えない人もいますからよかったです。交流っていうのは、しょっちゅう会うということだけではなくて、時間を隔てると温まるものもあります。ただ普段それほど私は人に会う生活を送っていないので疲れるという面もあります。個人的には「会う」っていことは「意味」や「言葉」だけを交わしているわけではないと思います。形にならないエネルギーみたいなもののやり取りが大切。自分が与えるだけでなく人からも色んなエネルギーをもらっています。しばらくぶりに会うと「この人はいい感じ」とか「元気ないな」っていうのがすごく伝わってきて圧倒されることもあります。そういうのがいろんな風に自分の中で反映してなかなか整理できないっていうのも事実でした。まあ祭りの後ってそういうものかもしれません。
こないだCD「河島英五LAST LIVE」を聴きました。さっき言った人の持つ「気」とか「エネルギー」のひとつのあり方を見ました。このCDは二枚組みで①が90年代後半から亡くなる一年前(2001年)くらいまでのものです。②が大和銀行の本店の地下ホールで開かれた亡くなる2日前(2002.4)のトークライブです。①は枚方市民会館とか小さい箱でやっていて、旅から旅へローカルなものを愛した事が伝わってきます。
②では一時間くらいのライブですが話す声はよれよれです。しかし歌うと力強いものを感じます。単なる力強さではなく温かいのです。この人は色んなアジアの国を旅していたので、その話も面白い。きっと必死に話していたかもしれない。でもうれしいからなんだろうと思います。ファンのおばあちゃんが書いた詩に曲をつけたりもしているんですね。この2日後には亡くなっていて本人も死を思っていたかもしれません。そういうときには何か謎の力が伝えられるのかもしれないと思いました。これも人から送られるエネルギーです。
この前イエスの復活を論じた本を読みました。墓参りに来たマグダラのマリアに向かって復活したイエスは「私に触れるな」といったそうです。田村隆一の「立棺」も同じテーマだと思いました。私はキリスト教徒ではないのですがこの話は一見河島英五さんのエピソードと逆の「拒絶」するような感じがあるかもしれない。しかし、そうじゃないかもしれない。うまく解釈を思いつかないのですが、様々な人にとって「今だ生きている」イエス。それをイエス自身が「私の現身は無くなった」と伝えに来たのかもしれないなと思いました。復活の中でその逆の「消滅」も起こっているのかなあなんて考えたりしました。夢枕に立って亡くなったことを伝えにくるみたいな。
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