Aug 12, 2007
金曜日でスクーリングを終えて
夜ご飯を食べると、すぐ眠ってしまいます。夜中目が覚めて、お薬を飲んでいるような感じです。やはり疲れたのでしょうね。しかし、みなさまのご声援もあって、今年の分は無事終わりました。来年もスクーリングがある。実習もまだ日程は決まっていませんが、ひかえています。レポートも、二ヶ月に一回はあるし、今月の後半に期限のあるものもあります。大変ですが、スクーリングを受けたことで、何を勉強しなければならないかが、うすぼんやりとですが、見えた気もします。そんなに自信はないのですが。日々、労働現場は、福祉もそうですが、生き残りをかけて、サバイバルゲームが行われています。そんな中で、一生懸命生きる、自分の生活を大事にすることは当然だと思うのです。しかし、保育士の子と話していて、また教育現場等において、親御さんも、子どもの何%かも、他者を思いやることよりも、あるいはお互い様と思うよりも、自己中になっているような気もするのです。私も、自己中なのですが、別にいい子になるというわけではなく、社会はお互い様で出来ているということを忘れたくないです。すぐには、自分に還ってくるような、数量に換算できるようなものが、還ってくるわけではないのが社会です。もちろん、今の、社会の賃金格差は目に余るもので、是正していかなくてはなりませんが、お互い様ということを忘れたくないです。自分の生活を守るというだけでは私たちの社会はジリ貧になっていくように危惧を覚えています。
今書いたようなことは勉強をしているときに、思ったことです。かつての職場で、「制度について勉強しなければならない」といっていた上司がいました。そのときは何のことかわからなかった。でも、この社会が、どのように成り立ち、どのような価値観や法の下に、社会が生成しているかを知らないと、ずいぶん悔しい思いをすると思うようになりました。なぜなら自分だけの問題ではないという感性が無くなって、なんとなく悲劇の人になってしまうのです。個々の運命と共にそういうことも感じておいた方がいいかなと思うようになりました。
たとえば、今の社会は「できる」という基準で社会が作られ、そのように人を見るのです。労働現場がそうですが、労働現場でも、正社員のうつ病が増えているように、「できる」で人を見、残していった結果、大量のパートの人と、少数の正規で組み立てられ、パートが苦しむだけでなく、正規の人だって、少ない数で責任を持たされるようになったのです。誰もが苦しくなってあまりいいことはありません。
私が、スクーリングを受講して不満だったのは、老人のことが圧倒的に多かったことです。人は誰しも年を取るし、高齢社会だし、介護保険はかなりがんばって作ったシステムなのですが、「できない」として排除されているのはそれだけではないと思いました。「できない」と括られている世界には、人間の成り立ちの不可思議をもうひとつの側面から見れる、深淵があると思います。
当たり前とされていることが難しいのは、人間の老いの場面だけでなく、発達の過程や、様々な過程で繰り返し起こることです。精神障害福祉が立ち遅れているのは何も、差別だけでなく、人生の様々な過程で起こる難しさに目を向けてこなかった。人間存在をトータルに見ず、様々な形で輪切りし細分化し、消費の対象としてみてきたからではないかと思います。
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