Sep 07, 2007
何か面白いものがあったはずだし、あるかもしれない
19世紀ヨーロッパの画家の間で評判になった浮世絵っていうのは、どう日本から伝わったかっていう話を聞いたことがあります。赤瀬川原平さんの「名画読本」で知りました。ゴミだったんですね。伝わった浮世絵っていうのは。どういうことかっていうと、日本から陶器なんかを送る。陶器って言うのは割れ物です。だから、箱の中になんか詰め物をしなきゃいけない。で、もう流行を過ぎた浮世絵を丸めたり、ちぎったりして、詰めた。それで、フランス人とかびっくり!になったわけです。
この話がほんまかどうかということは、わかりません。赤瀬川さんは、尾辻克彦といって小説家でもありますから、よく出来たお話かもしれませんね。だけど、想像力を刺激します。
江戸時代には、相当な商品経済の発達があって、まあお金がある人しか買えませんけど、諸国で浮世絵を売っていた。アイドルのポスターみたいに流行の役者や、美人を画家達は腕を競って描いた。そしてどんどん刷る。この辺は消費経済で、今とあんまり変わらないかも。さらにすごいのは、流行らなくなると詰め物にしちゃうと。この辺の節操のなさというか移ろいのやすさも現代的です。今だったらお宝になるかもしれんからとっておこうとなるかもしれません。
いいのは、日本でゴミだとしても、ヨーロッパの人にはゴミに見えなかった。色だって、構図だって、新鮮。最初に発見した人はパズルみたいに必死につなぎ合わせていたかもしれません。僕は現代アートには詳しくないんで、あまり突っ込みませんが、ゴミだって芸術っていうのは、まあアリですね。便器を美術館において、芸術だって言った人はいますが、これなんかも、場所が変われば価値が変わるということかもしれません。でも、これは、あまりいい例ではないですね。一回、捨てられたものが甦るっていうドラマが僕なんかの心をくすぐります。
僕らの毎日は、何かの形でいろんなものを捨てて行きます。捨てるっていうのは、深い行為です。喜捨っていう言葉は喜んで捨てると書きますが、面白い言葉です。単に移動させてゴミ箱に入れるだけじゃなくて、自分の世界から次元を変えてしまう感じもします。
脳だって、当面必要のない情報は処理して、保存するか、どれくらい置いておくか、「忘れる」ことにするか決めます。だけど、捨てなきゃ良かったなあとか思うこともある。でも、もうゴミ収集車が持っていってる。浮世絵の場合、まさに「捨てる神あれば拾う神あり」。この場合の神っていうのは価値を与えるものって意味でしょうか。
でも、同時に誰にも拾われないまま消えていったものっていうのの、せめて痕跡だけでも大事にしたいと僕は思うことがあります。僕も忘れちゃうんですけどね。だけど、何か、あれよかったかもっていう感覚は持っていたらいいんじゃないか。どっかで聞いたのですがフーコーが、云ってました。キリスト教をつくらなかったけど、そういう発想をもって何もいわず死んでいった人がいるかもしれない、日本だったら、俳句をつくらずに放浪して野垂れ死んだ芭蕉みたいな人とか。ちょっと変わった発想ですけど。フーコーの場合は価値の土俵にさえ上っていない人ですが、いずれにしても、何か面白いものがあったはずだし、あるかもしれないっていう感覚をもつっていうのがいいかなと。そうすると歴史だって人だってものすごく、深く、面白く感じられるかもしれないから。目の前にあるものがもちろん大事なわけですが。
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