Oct 31, 2021

ハッピーハロウィン

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今日はハロウィン。


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ベーカリー前の広場では、
プチブライスたちが
カボチャの玩具で遊んでいた。


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「トリックオアトリート!」
もー、子供じゃないでしょ。
演出ですから是非。


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だいぶたまったね。
といっている。


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仮装した人たちが
くりだしてきた。


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登場できるなら
なんでもいいわ。


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やっぱり今日はこれ。


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骸骨はケイに誘われて
やってきたようだ。


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エトナは普段着で。


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忍者たちも加わって
記念撮影。


解説)
主に仕舞いこんでいた
フィギアたちに、
そのままの扮装で
登場してもらいました。
忍者たちは12年ぶり。
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Oct 30, 2021

バータイニー そのいち

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明日はハロウィンか。
街で祝うの6年ぶりだね。
この店、今日から
カクテルバーはじめるらしいよ。
夜にまた来てみよう。

などと会話している。


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夜になって
ジルがやってきた。

いろいろ作って
試しているところよ。


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それ赤ワインとコーラでつくった
カリモーチョだね。
オーガニックドライフルーツの
おつまみもおいしいよ。


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リーメントの「バータイニー」no.5
「繊細な香味のワインベースカクテル」
この他にカウンターチェアが
一脚ついています。
チェアはサイズが小さめなので省略。


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赤、白ワインと
リキュールのクレーム・ド・カシスや
コーラがあれば、家でも楽しめる。


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ウィスキーベースのカクテルもいいなあ。
ロックで飲みたいんじゃない?


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ジムがやってきた。
それ、マンハッタン?
スコッチがベースだから、
ロブロイだよね。


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リーメントの「バータイニー」no.4
「香り高いウィスキーベースのカクテル」
セットには、この他にカウンターチェアが
一脚ついています。


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なぜかジェニーたちも
飲んでいた。

ウィスキーが、お好きでしょ♪


解説)
今回はリーメントのプチサンプル、
「バータイニー」(全8種)の紹介です。
順不同で二種類づつ紹介の予定。
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Oct 29, 2021

バラとワインと

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キッチンテーブルのうえに
バラの花鉢がある。


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花陰からジェーンが
あらわれた。


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きれいな花。。。


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ジェーンは、アイスピックに
刺してあるコルクを
目当てにきたのだった。


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コルクを輪切りにして
工作している。


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なくしていた小瓶の
蓋がこれで完成。


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グラスからポートワインを
すこし借りて、
小瓶に移しかえる。


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大満足。


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あんなところに
チーズケーキが。


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ごちそうさま。
といって
ジェーンは立ち去っていった。


解説)
今回は
間借り人ジェーンの
思いつきエピソードでした。
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Oct 28, 2021

更けゆく秋の夜

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ドルフィンでは、倉庫から
運び出されたハロウィンのグッズの
点検作業が行われている。

とても6年前の中古品にはみえないね。

展覧会で展示されていた絵画は、
希望する住民たちに貸し出され、
残った絵画が立てかけられている。


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この「黒いドレスの女」は、
マンスフィールドさんから借りたんだね。
もとはアルのビストロに飾ってあった。


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アルさんも交換しないで
マンスフィールドさんから
借りればよかったのに。


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あの少女の絵、
よっぽど欲しかったのよ。
見てるとお腹がすくって、
訳わかんないこといってたし。


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ドルフィンの二階では、
ジャンヌの肖像といわれてる絵と、


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マリー・ローランサンの肖像と
いわれている絵が飾られていた。

このひと素敵。

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この絵の心臓のうえに手を置くポーズは、
ラファエロの「ラ・フォルナリーナ」に
直接由来する。って書いてあるよ。

それどんな絵なの。
ネットで見つかるよ。
と文学青年が言った。


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「ラ・フォルナリーナ」(1518ー1519)

ラファエロ・サンティによる肖像画。

偶然似たポーズを描いた、
っていうことじゃないんだ。


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喫茶ペンギンでは、
ジルがマスターのマリーネと話している。

洋酒がいろいろ入ったので、
ここでカクテルの紹介を
しようと相談してるようだ。

この店、照明がいまいちなんだけど。
居間から機材をもってこよう。


解説)
それぞれの秋の夜更け。
展覧会の余韻が
まだ続いているようです。
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Oct 27, 2021

もうすぐハロウィン

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ベーカリーの前では
飾り付けが行われていた。


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この案山子どこに立てようかな。


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あ、そのハロウィンのプレート、
前にもみたことがある気が。
うちは物持ちがいいからね。


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テーブル席では
パンプキンパイなどの試作品が
サービスで提供されている。


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展覧会終わっちゃいましたね。
もっとお話ききたかったな。


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いつでも聞いてみて。
特になにも思いつかない時(^_^)。


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誰にいってるのかな。
これおいしいよ。
とたまきがいった。


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それくりぬくの?
てんぷらのほうがいい?


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お、着替えましたね。
浴衣じゃもう寒いからね。
何か着る?
寒くないからいいです。


解説)
展覧会がおわり、
フィギアたちは
はやくも次の遊びに
とりかかっているようです。
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Oct 26, 2021

展覧会はおわっても

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文学青年さん考えすぎ。
それより、どんな作品が好き?
とたまきがいった。


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「婦人像」(1917-18)

好きっていうか、この肖像画に
なぜだか親しみを感じるんだ。


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私もなぜだか、そうなのよね。
とたまきはいった。

そうそう。
とナオミもいった。


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こうして、連日
入場者はいれかわりたちかわり。


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展覧会は盛況のうちに幕を閉じた。

もう一ヶ月たったんだ。
あっという間だったなー。
と夏木さんは思っている。


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アルのビストロでは、
マンスフィールドさんに肖像画を
交換してもらえて、
アルと探偵が祝杯をあげていた。

そこに飾ろうかな。
さすがに店の正面の窓はまずいよ。


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そのころジェーンは、
ひとりで玄関の壁の絵を眺めていた。


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ここにくれば、
いつでもあの絵が見られる。
いつからあそこにあるんだろう。


解説)
玄関正面の複製画は、
1979年の「モディリアニ展」の
会場売り場で入手したもの。
ずっと飾りっぱなしなので、
フィギアたちの反応には
訳があったのでした。

展覧会のシリーズ、
最初はカタログ解説だけで
やろうと思ってましたが、
途中からはまってしまい、
手元の資料もこんな感じに。


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掲載作品選びに悩んだり
あれこれ愉しい日々でした。
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Oct 25, 2021

空想のロセッティ

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文学青年さんも
モディリアーニの評伝、
何冊か読まれたんでしょう。
なにかご感想は?

文学関連で言うと、
モディリアーニが、ダンテから
ボードレールやランボーや
ロートレアモンに至るまで、
いろんな詩句を暗唱でき
たっていう話。

ええ。
これは驚きね。


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「ダンテの肖像」(1495)
サンドロ・ボッティチェッリによる。

評伝を読むと、幼少時からの
一種の英才教育の賜物だったんだろう
っていうことが想像できます。(注1)
なかでもダンテの叙事詩が本格的。


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「ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの肖像」(1871)
ジョージ・フレデリック・ワッツによる。

それで絵画との関係で、いうと、
14~16才の頃、
画塾の課題で、「ラファエル前派」に関する
エッセイを書いたって言う話。

これを合わせると、
ラファエル前派の中心人物だった、
ひとりの詩人、画家の名前が浮かび上がってきます。
その名もダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ。

モディリアーニは、ロセッティの書いた詩「生命の家」を
ヴッェネチア時代に翻訳で読んでいて、
パリ時代にそのことを友人たちに話していたらしい。
アンドレ・サルモンは、評伝「モディリアニの生涯」で、
ヴェネチア時代のモディリアーニと青年たちとの会話や、
ベアトリス・ヘイスティングスとの出会いの場面で、
この逸話をドラマティックに仕立てて、
うまく物語風に使っています(注2)。

なるほど。


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ここからは、それこそ
文学的な妄想なんですが、
それまで単純に絵を描くのが好きだった
モディリアーニ少年が、自覚的に
いわゆる芸術作品としての
「絵画」というものに触れはじめたとき。

14才で画塾に通い始めたころね。

最初に興味と関心をもったのが、
「ラファエル前派」の絵だったとして、
そのなかでも、自分が
日頃親しんでいるダンテと同じ名前をもつ、
ロセッティの描いた肖像画ではなかったのかと。

それって、かなり、
強引な気もするけど。


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「ジェーン・バーデン」(1858)
ロセッティによるペン画

もしかして、その説って、
モディリアーニが、肖像画ばかり描いていたことや、
長い首をもつ人物像へのこだわりも、
説明できちゃうってこと?


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そこまでいうつもりはないですが。
ふつう画風が似てる場合、
それを「影響がみられる」などといいますが、
もっとプリミティブな影響、
表現の規範に関係するような影響を
受けたんじゃないかな、と。

むつかしくて、わかんないよ。
とたまきがいった。


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「ベアタ・ベアトリス」(1877)

これはロセッティの有名な作品。
「本作品は、彼の妻を理想化した
肖像画として、彼女が1862年に
悲劇的な死をとげた直後に着手
されたもので、ほとんど耐えがたい
ほど痛ましいが、ダンテの「新生」
における達することのできない愛の
具現としてのベアトリーチェとして
描かれているため、いっそう
感動的になっている。」
(「ロセッティ展」カタログ作品解説より)

ロセッティは、この作品が
「死そのものを表現しようとしたのでは
まったくない」ことを強調し、
「一種のトランス状態あるいは
突然の精神的な変容によって象徴される
ものをこの主題の観念として」(同前)
意図したとある。


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「裸婦習作」(1908)

「この時期に描かれた作品の
様式的な典拠を明らかにすることは、
彼がその影響をよく消化しているので、
きわめて難しい。、、、。
1908年、この時期に典型的な、
苦悶にみちた不安と内省をただよわせる
裸体の習作を描いている。とくに
興味深いのは、女性を性的にとらえる
彼の傾向がはじめて明白に
現れている点である。昂揚し緊張した
裸体は表出力にとみ、伝統絵画に
みられる受け身で常套的な裸体表現から
は遠く隔たっている。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p60)

このポーズの類似は偶然なのでしょうか。


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関係ないけど、絵がすりかわってる。
誰の悪戯かな。


解説)
今回は
けっこう深みに
はまった感じでした。

絵が変わったのは、
額縁に差し込んであった絵葉書が
外れて落ちていたのでした。
偶然ですが面白かったので撮影。

注1)キャロル・マンの評伝によると、
1886年に、モディリアーニの母親、エウジェニアは、
「自分も働くことで家計を支えよう」と決意して、
「、、、文学批評家であった妹の
ラウラの助けを借りて、知的プライドに
満ちた中産階級の子弟の教育を目的とした、
実験的な学校を開いたりした。彼女の
こうした企ては、活気のない地方都市では、
実に一つの偉業であった。」
友人で地方の名士モンドルフィの援助も受けて
作られた授業のテキストには、
ダンテや、ノストラダムスも入っていて、
「これらのテキストは、デド(モディリアーニの愛称)
が生涯にわたって愛読した文献でもあった。
のちにパリに出てからも、彼は
ダンテを詳細に暗唱することができたし、
肖像画の余白にノストラダムスの予言を
引用して書き添えることもあったのである。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p12-13)
学校が創設されたのは、
モディリアーニが二歳のとき。
彼は幼少時からこの学校で一種の
英才教育を受けて育って、そうした暗唱能力
を身につけたように思える。

注2)アンドレ・サルモンの伝記、
「モディリアニの生涯」には、
ヴェネチア時代にモディリアニが、
二人の年長の青年と会話するシーンがでてきて、
そこでモディリアニがロセッティの詩集「生命の家」
を評価したところ、てきびしく批判されている。

「「きみがそれに惹かれたのはダンテという名前のせいかな?」
「そうかもしれない。」
「気をつけないと、ダンテ=ガブリエル・ロセッティは
きみをがんじがらめにしてラファエル前派に
売り渡してしまうかもしれない・・・ロセッティか!
・・・ぼくもフランス語訳のあの詩を読んだ・・・
楽しい詩だが耽美主義で・・・画家としての仕事は、
最低だね・・・。」
「ダンテ=ガブリエル・ロセッティは、
父の、いや先祖全部の時代のイタリーを思い出して
いるのだけれど、それはちょっとロンドンの通りで
イタリー人のオルガン弾きが思い出している
みたいなんだなあ。」
「耽美主義的な詩・・・耽美主義的な絵・・・
それが一緒になったら、それは目も当てられないね。
〈酷薄な美女!〉」(p47)

評伝では、結局のところ、青年たちの批判は
「女の子が好きで、まだ純心な心の持ち主の
モディリアニを翻弄したか、あるいは生身のまま
引き裂くかした。」とあって、それまで
モディリアーニが、ロセッティやラファエル前派に
心酔していた青年だという設定になっています。
ベアトリスとの対話シーンは略。
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Oct 24, 2021

モディリアーニのおいたち

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マンスフィールドさん。
モディリアーニのおいたちについて
教えてくれませんか。

そーね。
モディリアーニは1884年7月12日、
イタリアのトスカーナの地方都市
リヴォルノに住むユダヤ人家庭の
四人兄妹の末っ子として生まれたの。

育った家庭環境についても、
かなり詳しく分かっているんだけど、
十代のモディリアーニに即して言えば、
病弱で絵を描くことが好きだった子供が、
理解のある母親や親族の援助で
自分のめざす道をどんどん進んでいった。
そんな印象ね。

あっさりしてるんですね。


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「ロミティのアトリエでの写真」(1898-2000)

1898年(十四才)の8月、チフスに罹患し、
肺炎を併発する。このとき高熱の譫妄状態で、
突然、画家になりたいとの熱望を母に訴えた、
という「伝説」があった。

8月リヴォルノの美術学校ミケーリの画塾で学ぶ。
同時期の生徒だった八人の氏名も記録に残っている。
ロミティというのはそのうちの一人。

「日曜日には彼らはロミティのアトリエに
集まって裸婦の写生をするのが常だった。」
(ジャンヌ・モディリアニ「モディリアニ 人と神話」p49)


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「ググリエルモ・ミケーレの自画像」

ググリエルモ・ミケーレは、
画家ジョヴァンニ・ファットーリの弟子で、
後期マッキアイオリ派に属していた、と
伝記にある。

マッキアとは色斑の意味で、
フランスのバルビゾン派の影響を受ける、
とされる。自然主義的な風景画や農民画を
写実的に描いた。


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「湖の風景」(1891)

これはミケーレによる風景画。

十四才から、十六才の時期、
モディリアーニが、「画塾の課題のため、
ラファエロ前派に関するエッセイを書いた」
ということや、
ミケーリが、モディリアーニのことを、
「超人」と呼んでいた、といった話が
残っている。
これは当時モディリアーニ少年が
ニーチェに傾倒していたらしいことの、
証しになっているエピソードだ。

その早熟ぶりに驚かされるが、
「叔母ラウラの影響で、
ボードレール、ニーチェ、ベルグソン、
クロポトキン、オスカー・ワイルドや
ダヌンツィオ等を愛読する。とりわけ、
ロートレアモンに熱中する。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」年譜)
というこの時期の解説もある。

「モディリアーニは、われわれが今日知的雰囲気
と呼ぶような環境の中で、成長し、
それに対して常に郷愁を持っていた。」
(ジャンヌ・モディリアニ「モディリアニ 人と神話」p44)

「その友人で肖像画のモデルにもなった
ロシアの詩人、イリヤ・エレンブルグは、
「彼ほど詩を愛した画家はいない」として、
ダンテ、ヴィヨン、レオパルディ、
ボードレール、ランボーの詩句を
記憶して諳んじることができたと回想している。」
(島本英明「もっと知りたいモディリアーニ」p36)


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「カマイノの彫刻」

1901-02(十七才-十八才)肺結核にかかり、
転地療養。中部、南部イタリアを旅行する。
カプリ島、ナポリ、ローマ、
ミズリナ、フィレンツェ、ヴェネツアを
旅行する。ナポリ滞在中に、
ティノ・ディ・カマイノの墓碑彫刻に
感銘を受ける。


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「カマイノの彫刻」

「この時モディリアニは17歳、
美的印象の異常に強い年齢であった。
私の考えでは、この旅行で彼は、
はじめて偉大なイタリア派のある者の
影響を受けたのである。」
(ジャンヌ・モディリアニ「モディリアニ 人と神話」p58)

このナポリ旅行での教会巡りで、
ティノ・ディ・カマイノの発見が、
彼の彫刻家志望を決定づけた、
というのがジャンヌ・モデリアニの主張。

なるほどねー。


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「ジョヴァンニ・ファットーリ 自画像」(1884)

1902年(十八才)5月フィレンツェで美術学校
「スクオラ・イベテ・ディ・ヌード」に学び、
人体クラスに登録する。

「この学校では、老ファットーリが、
暖房の悪い見すぼらしい建物の中で、
若い人々を自分の周りに集めていた。
その若い人々は、末期マッキアイオリ派の
沈滞した空気を逃れて、大家の教えを
直接受けたいと欲していた人々だった。」
(ジャンヌ・モディリアニ「モディリアニ 人と神話」p58)

これまで習っていた先生の先生に
習い始めたってことだね。


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「藁積み」(1875)

これはファットーリの風景画だね。


1903年(十九才)ヴェネチアで国立美術研究所に入学。

「この学校に入るのに競争試験は不要だった
のである。他方、ヴェネチアにおける
モディリアニの友人たちが今日でも
覚えているように、彼はきちんと
講義に出席することをせず、カフェや
女郎屋でデッサンするのを好んでいたと
いうことは本当である。」
(ジャンヌ・モディリアニ「モディリアニ 人と神話」p58)

当時の友人の証言から、このころ、
「心霊主義とハシシュの快楽」を覚えたとされる。
「麻薬の使用を発見するには
パリまで行くのを要しなかった」
とジャンヌの評伝は伝えている(p65)。

この時期の作品がみつからないことについて、
モディリアニ自身が不満な自作を毀したせいだとする
説が根強くあったようで、ジャンヌは、
「これらの青年期の作品は所有者の不注意や
美術史家の無関心のために失われた」と
異をとなえている(p67)。

そして、
1906年(22才)の1月、モディリアーニは
パリに姿をあらわす。


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「ジャンヌ・モディリアーニ」(50才の頃)

今回は、主に
このジャンヌ・モディリアーニの
「モディリアニ 人と神話」という
著作からの引用が多かったんだけど、
この人はモディリアーニ夫妻の遺児。
両親の死後、モディリアーニ家に引き取られて
祖母(モディリアーニの母)や親族に
接して育ったから、父親の育った
家庭環境をそのまま実感できたし、
それまでにファン・ゴッホの
研究者としても実績のあった彼女は、
モディリアニの研究者として最適の人だった。

「モディリアニ 人と神話」は
母親の日記という当時の新資料を使って、
事実関係を究明したという意味でも
モディリアーニ研究の「基本文献の一つ」
とされる本なんだけど、
面白いのは、いかに作家の「伝説」が
つくられていくか、その心理が分析されている
ところかな。

解説)
今回は、まとめてみて、
モディリアーニの描いた絵を
ひとつも紹介していないのに
気がつきました。
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Oct 23, 2021

ピカソ、ニーナ・ハムネット

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マンスフィールドさん。
今回は?

そーねえ。
パブロ・ピカソと、ニーナ・ハムネットの肖像画
なんてどうかしら。


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これは、1916年にジャン・コクトーが
モンパルナス大通りで撮影した写真。
左からモディリアーニ、ピカソ、
アンドレ・サルモン。


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「ピカソの肖像」(1915)

「ピカソとはパリに出てまもなく
知り合ったと考えられるが、その肖像を
描いたのは絵画に専念するようになる
時期のことで、この作品を含めて2点が
確認されている。、、、。
画面の右下に「SAVOIR」、つまり
フランス語で「知」を意味する語が
描き込まれているのはその敬意の
現れであろうが、画家が画家を評する
言葉としてはシニカルなニュアンスも
こめられているかもしれない。」
(島本英明「もっと知りたいモディリアーニ」p30)


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「ピカソの肖像」(1914-1915)


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「アヴィニョンの娘たち」(1907)

これはピカソの有名な作品。

「ポール・アレクサンドルは、
モディリアーニに誘われてトロカデロ民族
誌博物館に足を運んだ時、彼が、
当時フランス領インドシナに併合されていた
アンコール地方(現カンボジア)に関する
展覧会を熱心に見ていたとの
証言を残している。
この博物館を同時期に足繁く訪れていた
ピカソが、その成果として時をおかず
生み出したのが「アヴィニョンの娘たち」
である。」
(島本英明「もっと知りたいモディリアーニ」p30)

この展覧会の時期が1907年頃だとすると、
モディリアーニが彫刻に専念する前だね。


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「座っているブロンドの少女」(1918)

この肖像画、日本語版wikiには、
ハムネットがモデルの作品として掲載されている。

wikiによると、
「ニーナ・ハムネットははイギリスの芸術家である。
第一次世界大戦まで、パリの芸術家たちの中で暮らし、
有名な画家の絵画のモデルとなった。 」
「、、、当時交流があった芸術家には、
アメデオ・モディリアーニ、ジャン・コクトー、
セルゲイ・ディアギレフやパブロ・ピカソらがいた。
自由奔放な生き方で、パリのボヘミアン・アーティストの
中で有名となり、多くの芸術家のモデルとなった。
ピカソは、カフェ・ド・ラ・ロトンドのテーブルの上で
裸で踊るのを見て、「ボヘミアンの女王」
(La reine Bohème)と呼んだ。」


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「ペンダントをつけた女性」(1918)

前の肖像画がニーナ・ハムネットを
描いたものだとすると、
同年に描かれているこの作品も
そうじゃないかな、と。


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「イブニングドレスの女」(1918)

この肖像画も同一人物のようにも見える。
でも三作が同一人物で、ニーナ・ハムネットだと
している解説は読んだことがないんだけど。

ともあれ、ニーナは、第一次大戦時の回想記も
書いているらしい。

「しばらくすると、モディリアーニは
着ている服を脱ぎはじめた。彼は、
ランスの労働者がするように、
長くて赤いスカーフを腰に巻いていた。
彼には服を脱ぎはじめる頃合いが
決まっており、誰でもそれを知っていた。
私たちは彼を押さえつけ、赤いスカーフを
結びなおして、座らせるのであった。
誰もが踊り、歌い、そして夜通し
愉快にすごすのだった。」
ニーナ・ハムネットは、こうしたパーティの
中心人物であり、自分でも裸になって
ダンスを楽しんだ。彼女の回想記「笑うトルソ」は、
戦時中の出来事を生き生きと描写した記録である。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p169)

パリが爆撃されたりして、灯火管制がはじまり、
絶望にかられた人々がモンパルナスの
「秘密クラブ」などに出かけて、
「あらゆるところで乱痴気騒ぎ」(同前)があった
とマンは評伝で書いている。


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「ニーナ・ハムネット」(1917)

これは、ロジャー・フライによる肖像画。


解説)
今回はパブロ・ピカソと
ニーナ・ハムネットの肖像画です。
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Oct 22, 2021

カップルと母子像

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マンスフィールドさん。
モディリアーニって、いつも
一人の人しか描かなかったんですか。

ほぼ、そうみたいだけど、
例外的にカップルや
母子像を描いた作品も残ってるの。


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「夫婦」(1915)

「この作品はさまざまな理由で
興味深いが、まず挙げられるのは、
モディリアニ独自の技法が見られること
である。ここでは、絵具は顔立ちと
輪郭を示すために用いられ、
顔の青白い色はカンヴァス地の
白色だけで表現されている。
、、、夫は目立たないところに
描かれており夫人の後方で
ほとんど識別できないほどである。
緑色の絵具がまるで小枝のように
厚く塗り重ねられ、彼の顔立ちを
ほとんど完全に隠してしまっている。」
(「モディリアーニ展」カタログ作品解説p98)

たしかに。
全然わかんないよ。


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「新郎と新婦」(1915)

第一次大戦下のモンパルナスでも、
「、、、いくつかの秘密のカフェや
クラブには兵役を免除された
フランス人や外国人がたむろしていた。
この作品はこうしたカフェかクラブで
描かれたものであろう。
様式化された技法が男性の尊大な
態度や女性の野卑な感じを強めている。
男性の右目の瞳は描かれていない。
歓楽の果ての疲れた表情の男女に
「新郎と新婦」という作品題名をつけたのは、
画家のアイロニーだろう。」
(「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p87)

「二人は夜会服に身をつつみ、
その赤らんだ顔は、強烈な白い照明に
よって肉づけられている。そして
二人の眼差しはこわばり、うつろであるが、
おそらく見る影もないほどに泥酔して
いるためであろう。鼻の描写は不合理なほど
であるが、とくに男性の鼻は二つの視点から
観察されたイメージが一つになっており、
その結果、彼の顔は二つに切断されたものが、
やや性急にくっつけられたかのように見える。
こうした処理は、キュビスムの手法を
用いたというよりは、歓楽を尽くした
カップルの様子を皮肉まじりに巧みに
表現するためにとられたものであろう。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p171)


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「彫刻家プリッツ夫妻」(1916−1917)

「油彩はたった一日でできあがったが、
その前に約2週間ほど、恐るべき
スピードで彼はデッサンによる習作を
行ったという。、、、
デッサンの線は、完成作とほとんど
違わない。」
(「モディリアニ展」カタログ作品解説より)


e5

「ジャック・リプリッツとその妻」(1917)

これが、完成した肖像画だね。

リプリッツ氏が、ベルダさんと結婚して、
その記念にモディリアーニに肖像画を
依頼した。ということが氏の回想録から
わかるらしい。

「制作料は「十フランと少量のアルコール」
を要求しただけだった。」
(「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p87)


e6

「二人の少女」(1918)

南仏で描かれた作品でしょうね。

母子像みたいにも見えるけど。
このタイトルは英語の「Two girls」を
直訳してみたものなんだけれど、
黒い服を着た女性だけの肖像画もあって、
そちらのタイトルにも少女、ってあるから、
たぶん少女。
そうなんだ。


e7

「子供とジプシー女」(1918)

「黒い髪と特徴ある髪の結い方が
彼女の出身民俗をしのばせるところから、
そう呼ばれているらしい。同じモデルで、
上半身だけを描いた作品がある。
子供を抱く母親の姿はモディリアーニには
珍しい。」
(「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p93)


e8

「母性」(1919)

「、、、母親の質素な身なりもあってか、
かっては「幼子を抱いた花売り娘」
というタイトルで世に知られていた。
したがって、モデルをしめさない
現在のタイトルは、モディリアーニ自身が
つけたものではないだろう。
今日では、この母子像は、
画家の妻と娘を描いたものと
考えられている。」
(島本英明「もっと知りたいモディリアーニ」p70)


e9

「母性」(1919)

色合いがかなり違う画像があったので、
比較のため掲載してみました。

どっちが実物に近いんだろう。


解説)
今回は、複数の人物を描いた作品を
選んでみました。
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Oct 21, 2021

モディリアーニの風景画

e1

モディリアーニの描いた風景画、
4点残っているって、前にいってたよね。
マンスフィールドさんに紹介してもらおうよ。

いいわよ。
他にちょっと微妙なのもあるの。
と、マンスフィールドさんの声がきこえた。


e2

「トスカーナの小道」(1898年頃)

これは「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」(1990)で、
「リヴォルノ時代の作例がほとんど知られていない
現在では貴重な作品である。」とか、他にも
島本英明「もっと知りたいモディリアーニ」(2021)
といった図版入りの紹介本にも掲載されている、
作品なんだけど。キャロル・マンの評伝(1980)
では否定的。

「、、、あるいは同じアトリエの誰かの作品で
あるかもしれない。たいていのモディリアーニの
評伝は、この時期の作品について触れていない。
研究家の多くが、初期のモディリアーニの作品は
消失して現存しないと説明するのも、
こうした不確かな作品をモディリアーニ作品集に
掲載することを危ぶんでいるからであろう。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p18)

マンの評伝が書かれた後に、
この作品がモディリアーニが描いたものだって、
確定できる資料がでてきたのか。
わからないんだけどね。


e3

「地中海の風景」(1919)

「イタリア時代を除き、モディリアーニの画業
において確認されている計4点の風景画は、
いずれも南仏で残されているが、
現地に滞在を始めて半年余りを経てからの
ことである。」
(島本英明「もっと知りたいモディリアーニ」p51)

糸杉の形やバランスが面白い。


e4

「二点の油彩には糸杉が描かれているが、
その表現は人物像の表現とよく似ている。
木の葉は細長く伸ばされた卵形をしており、
木の幹はかすかに揺らめく軸線となっている。
斜線がもたらす動感は、ややスーティンに
近いところがあるが、全体に透明な色調や、
画面における表面の仕上げはセザンヌを
思わせる。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p18)


e5

「木と家々」(1919)

「空間表現は、画家にとって
特別な存在であったセザンヌが
意識されているであろう一方で、
表情に富んだ塀や壁は、パリで
親交を結んだモーリス・ユトリロ
による表現を想起させる。」
(島本英明「もっと知りたいモディリアーニ」p50)


e6

「カーニュ風景」

「四点の風景画には人家が
描かれているが、画面を支配するのは
樹木である。この樹木は人物像の
表現にも似ていなくもない。
形態や画面構成にはセザンヌを
思わせるところがある。」
(「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p94)

「モディリアーニが珍しく風景画を描いたのは、
ここカーニュにおいてであった。
「僕は風景画を描こうと思っている。
はじめての試みだから初心者の作るものと
変わらないだろうがね。」と彼は
ズボにあてて書いている。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p245)

4つの作品、それぞれ違うようで、
どれにも人家と樹木が描かれてる。
肖像画と同じように垂直線が強調されてることや、
画面の大きさが人物像と同じだということ、
人家が必ず描かれていることなどから、
マンは「おそらく彼は、自然をモチーフと
しながらも、人間の存在を感じさせる要素が
欲しかったに違いない。」って評している。


e7

「風景」(1918)

これは、やはりカーニュで描かれたものだと
思うんだけど、詳細は不明(原題はPaysage(田舎))。
「モディリアーニ展」(2008)で
展示されてた鉛筆によるデッサンで、
カタログには図版だけ掲載されていた。

油彩にした作品は4点だったとしても、
こういう風景のデッサンは他にも
残っているのかもしれない。

荷物を手にもった女の人が
描きこまれてるのが愉しいね。
やっぱり人を参加させたかった(^_^)。


e8

「食品店の女」(1918)

モディリアーニの風景画で
描かれたカーニュには、
たとえばこんな人や、


e9

「パイプを持つ男」(1919)

こんな人たちが暮らしていた。
子供たちの絵も多くはカーニュで
描かれたんだよね。


解説)
今回は風景画です。
図版の色合いも、作品タイトルも、
ときには制作年度の表記も、
書籍や展覧会のカタログ、ネットなどの
掲載媒体によって異なります。
悩ましいところですが、
そこは勢いで。
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Oct 20, 2021

ルニア・チェホスカの肖像

e1

マンスフィールドさん。
今回はモディリアーニの描いたどんな肖像画?

ルニア・チェホスカっていうひと。
どうしてその人を?
何点も作品が残されてるし、
それを集めて紹介するのも
面白いかなって思ってね。

ルニアはポーランド出身の女性。
夫が出征していた1917年当時、
夫の友人であるズブロフスキと知り合い、
彼の紹介で、モディリアーニを知った。


e2

「ルニア・チェホスカの肖像」(1917)

「まったく自然のなりゆきで、彼女は
モディリアーニのためにポーズを
とったのだが、その背の高い細身の体つきが
理由で、モディリアーニのお気に入りの
モデルのひとりとなった。、、、。
ここには、輪郭の描かれていない澄んだ瞳、
半分開かれた口、しなやかで自然な態度といった
非常にモディリアーニらしい特質が
いくつも認められる。なかでも
特徴的な長い首は、彼女の威厳に満ちた物腰や、
高い位置にシニヨンに結い上げられた髪によって、
いっそう引き立って見える。そして、
それらすべてが美的感動をもたらす。
美と均衡こそが、この肖像画の特徴である。」
(「モディリアーニ展」カタログ作品解説p140)


e3

「ルニア・チェホスカの肖像」(1917)

「ルニア・チェホフスカは、
ポーランドの革命家の娘で、
その夫は第一次世界大戦のあいだ前線にでていた。
、、、ルニアは、ズブロフスキーの妻ハンカの
友人となり、パリのポーランドからの亡命者
サークルに移り住んだ。
モディリアニは彼女の肖像をいく度となく
描いている。」
(「モディリアニ展」カタログ作品解説より)


e4

「ルニア・チェホスカの肖像」(1917)

「、、、彼女は画面に対してやや右寄りに
体を寄せ、曲げた左肘を右手で支えながら
左手を頬にあてて、思慮深く画家を見つめている。
こうしたしぐさは彼女特有のものであり、
デッサンでも同様のポーズがしばしば見られる。
しかしモディリアーニにとって、心から
敬意を抱く女性をモデルにして、
しかも制作中に対話を楽しんでいるような
画面は、この作品が最初で唯一のものである。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p223)


e5

「ルニア・チェホスカの肖像」(1919)

「ルニアの肖像でもっともすぐれているのは、
1919年に制作された宗教美術を思わせる作品である。
本質的に、この肖像はジャンヌの横顔を描いたものと
良く似ているが、おおむねルニアを描く場合、
表現におけるデフォルメがほとんどカルカチュア
の域に達しているにもかかわらず、
この作品ではむしろルニアの貴族的容貌を強める
効果を生んでいる。ルニアは自分の内面を
見つめているようであり、その顔の目鼻立ちは
実に巧妙にまとめられていて、あたかも
古代エジプトのネフェルティティ王女像を
彷彿とさせる。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p223)

王女像って。


e6

「ネフェルティティ王女像」

紀元前1345年に制作されたと
されている古代エジプトの胸像だね。
たしかに、そういわれると似てるね。


e7

「ルニア・チェホスカの肖像」(1919)

「彼が晩年に描いたハンカとルニアの
肖像には、それぞれ大きな相違があるが、
それはモデルの二人の個性の違いに
よるものではなく、純粋に画家の
表現様式の違いによるものである。
ハンカの肖像の方がいくぶん具象的に
描かれており、画面の三次元的な奥行きも
わずかに深い。、、、ハンカとルニアの
最後の肖像を見くらべてみると、両者ともに、
その顔立ちが一段とほっそりしてきており、
全体に画面はいっそうマニエリズムの
傾向を強めている。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p223)


e8

「ハンカ・ズブロフスカの肖像」(1919)

比較のためにのせてみました。
解説読むと、よくわかるね。


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「ルニア・チェホスカの肖像」(1919)

ルニアは回想録をのこしていて、
そこには、1919年にモディリアニが
ジャンヌをニースに残して単身パリに
帰ってきた頃の出来事が記されているという。

「ルニアはいつものようにつとめて慎重に、
二人がしばしば会っていたこと、そして
モディリアーニが何度も彼女を描いたことなどに
ついて書いている。」
「実際、二人の関係はとても難しいところに
きていた。しばらくすると、こうした関係に
耐えられなくなったルニアは、表向きは
療養を理由にして、南フランスへ旅立つことになる。
このときモディリアーニは、自分も休息を
とりたいので彼女と同行したいと、
ズブロフスキーに伝えている。
こうした成り行きを知らなかったジャンヌが、
ひどく驚いたとしても、それは当然であった。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p236)


f1

今回は主にキャロル・マンの評伝から
引用したけれど、キャロルは、
1919年に制作された3点の「横たわる裸婦像」も、
ルニアをモデルにした可能性がないわけではない、
としたうえで、「しかしそれ以上にありうることは、
モディリアーニ自身の欲望(おそらく彼女の欲望
でもあった)を視覚的に表現したものではないか、
ということである。」と書いているの。

微妙な推測だね。

解説)
今回も肖像画の紹介になりました。
Posted at 21:53 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Oct 19, 2021

モー・アブランテスの肖像

e1

サラは買ってきた珈琲豆の
お裾分けに隣室のジェットを訪ねている。

どうしてそっちを向いてるの。
パソコン机の正面だからかな。


e3

ケイは珈琲豆を
挽き終わったところ。

モディリアーニの展覧会、
まだやってるのかな。
と骸骨はいった。


e2

展覧会会場では
マンスフィールドさんに
文学青年が尋ねている。

モー・アブランテスっていう
女性の肖像画について、
いろんな解説読んでて、気になるんですが。
うんうん。


e4

「女の胸像」(1908)

「モデルはその顔立ちから当時の恋人
モー・アブランテスとみられる。
宙を睨む眼差しは、画面の全体を彩る暗い青色の
効果とあいまって、世紀末のいわゆる
「ファム・ファタル(宿命の女)」に通じる
不穏な雰囲気を生み出している。」
(島本英明「もっと知りたいモディリアーニ」p7)


e5

「青いスカーフの女」(1907年頃)

「、、、パステルのようなニュアンスに富んだ
油彩表現は、トゥールーズ=ロートレックを
想起させる。」
(島本英明「もっと知りたいモディリアーニ」p7)


e6

「ほくろのある女の頭部」(1906−1907)

そしてこの肖像画。
これは、モディリアーニが
ポール・アレクサンドルに知り合い、
彼の家にもっていったというもののようですが、
「青いスカーフの女」に、よく似てますよね。

「アレクサンドルの家で催された
集まりにたびたび顔をだすように
なっていたモディリアーニは、
そこに自らの手でこの作品を持って行った。
このことからも、彼が本作に特別な
思い入れを抱いていたことが推測される。」
(マリー=クリスティーヌ・ドクローク
「モディリアーニ展カタログ」作品解説p26)


e7

「モー・アブランテス」(1907-1908年頃)

この肖像画の裏面には、
次の「帽子を被った裸婦」が描かれていたと。


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「帽子を被った裸婦」(1907-1908年頃)

解説には、
「このモデルは誰であるか分からないが、
1908年のサロン・デ・ザンデパンダンに
出品された「ユダヤの女」と同一人物である
ことは間違いない。」
(マリー=クリスティーヌ・ドクローク
「モディリアーニ展カタログ」作品解説p30)
とあります。


e9

「ユダヤの女」(1908)

ここまで見てきて、
これらの肖像画すべてが、モディリアーニが
モー・アブランテスを描いたものだと、
みなしていいのか、というのが疑問です。
個々の解説には、そうとは書かれていないけれど、
それと匂わすような感じで書かれている気もする。

見た印象では似ていても、
彼女を描いたものだという
確たる証拠がないと、作品の解説文では
そこまで言えないんじゃないかな。

モー・アブランテスについては、

「1907年の11月もしくは12月に
アンリ・ドゥーセは、デルタ通りの
アレクサンドルによる小さな「芸術コロニー」に
モディリアーニを招き入れたが、その時
モディリアーニに同伴していた女性が、
アブランテスであった。
 教養豊かな彼女は、デッサンをたしなみ、
詩の朗読や仮装パーティをして芸術家に
囲まれて日夜過ごすのを好んだ。
しかし1年後の1908年、不可解にも
アブランテスは突然彼らの元から姿を消した。
妊娠した彼女は「ラ・ロレーヌ」という
名の大型客船に乗って、
アメリカへ旅立っていたのであった。」
「モディリアーニ展カタログ」作品解説p30)

と、詳しく書いてあります。
でもモディリアーニの同時代人だった
アンドレ・サルモンの評伝には
まったく登場しないし、
ジャンヌ・モディリアニの評伝には
作品としての「ユダヤ人の女」
についてだけ触れられている。

「彼は非常にこの絵に愛着をもっていて、
この絵の各面の幾何学的構成や背景の
微妙な色調は、彼がセザンヌから学んだ
教訓を用いようとした彼独特の方法を
すでに示していた。」
(ジャンヌ・モディリアニ「モディリアニ 人と神話」p82)

ちなみに、キャロル・マンの評伝(原著は1980年刊)でも、
「ユダヤの女」という作品にしかふれられていないし、
「モー・アブランテス」という作品については
タイトルの末尾に?マークがついている。
評伝が執筆された段階では、特定できなかったのかも。

解説を比較すると、矛盾があるけど、
読者にはどっちが本当かわからない。

たとえば「帽子を被った裸婦」について、
「モディリアーニ展」(2008)のカタログでは、
この当初つけられたタイトルは、間違いで、
これは帽子ではなく、モデルの後ろに
モディリアーニが描き込んだ影である、
というポール・アレクサンドルの証言を
紹介しているんだけれど、
情報としては新しい筈の
「もっと知りたいモディリアーニ」
(2021年2月28日発行)の図版解説では、
作品タイトルが「モー・アブランテス、上半身像」
になっていて、アブランテスの肖像であることが、
特定されていて、
「鋭い描線で切り出されたかのような
裸体の輪郭に対し、アブランテスの
トレードマークというべき横長の帽子が
対照をなす。」って書いてあって、
こっちでは帽子説が採用されいる。

帽子なのか、影なのか。
なやましいところだね。


解説)
今回は、
気になっていた肖像画の人物と、
その解説について
紹介してみました。
Posted at 21:49 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Oct 18, 2021

珈琲豆買って散歩

e1

珈琲豆を買いに国立にでかけた。
赤い三角屋根の駅舎が復元されて、
多目的スペースになっている。


e2

大学通りを直進。
秋の花がきれい。


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通りに面した右手に
めざす珈琲実験室コフィアがある。
以前、「国立さんかく散歩」を掲載したのはもう13年前、
あれからお店の場所も二回変わった。


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増田書店に寄って、ベンチで一休み。


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天気がいいので、
帰路に立川駅で途中下車して、
フィギアショップの
コトブキヤに寄ってみることにした。

この道はちょっと未来風景的。


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頭上をモノレールが通り過ぎるのだった。


e7

このビルの二階にコトブキヤが。

そろそろ入荷してるかな、
と半分くらい期待していたリーメントの
「バータイニー」が1セットだけあったので、
迷わずゲットしました(^_^)。


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損保ジャパンビルの壁にかかっている
写真パネルの、なぜかバーベルを
持っている女性がフィギアのように見えて、
ここを通るたびに気になっている。


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これは駅近くの高架の舗道。
抽象絵画のような造型作品が飾ってある。


f1

地元のJR拝島駅に帰り着いたら、夕暮れだった。
駅構内の大きなガラス越しに、
秩父の山並みがみえる。


解説)
絵画画像が続いていたので、
サラとサラっと、
気分転換です。
Posted at 21:31 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Oct 17, 2021

彫刻のことなど

e1

マンスフィールドさん。
モディリアーニの彫刻に
ついて知りたいんですけど。

そうねー。
モディリアーニは、22歳でパリに来たときから、
彫刻家を自称するほど彫刻に関心があったようなんだけど、
本格的に彫刻に専念するのは、1909年、25才の時。
美術愛好家の医師アレクサンドルに仲介してもらって、
彫刻家ブランクーシに会ってからと言われている。
住まいもブランクーシの住む家のちかくの、
モンパルナス54番地のシテ・ファルギエールに引っ越し、
1914年まで彫刻に専念するんだけど、
残されている彫刻作品は20から、25点といわれていて、
それ以前に作ったものは現存しないの。


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「頭部像」(1910)

「この木彫は、地下鉄の枕木の廃材に刻まれたという。
、、、
この作品には、ブランクーシの抽象芸術の影響と、
ブランクーシを通じてモジリアニの熱情の対象となった
アフリカの黒人彫刻の影響が明確にうかがわれる。」
(「モジリアニ名作展」作品解説より)


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「頭部像」(1911−12)

残されているのは、こうした頭部像がほとんどで、
ほかにカリアティード、カリアティード立像と
呼ばれる二体の全身像だけ。

「彼はブランクーシと会うまでは、石彫に関する技術を
何も知らなかったと思われる。、、、
それ以後、モディリアーニの素材はほとんど石灰石になった。
彼はモンパルナスの建築現場から石材を切り出して持ち運んだが
、それは作業員のいなくなった真夜中に行われた。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p80)

アンドレ・サルモンの評伝「モディリアニの生涯」p165~には、
モディリアニが深夜、建築資材置場に、
彫刻用の石を盗みに行くエピソードが小説風に描かれている。


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「椅子に座るジャンヌ・エピテリュヌ」(1918)

どうしても見比べてみたくなるね。


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「カリアティード」(1913)

高さ99.1㎝。

「1910年頃から、モジリアニは「カリアティードの連作を
開始している。、、、
「カリアティード」(女性人像柱)とは、昔、
ギリシャのラコニアのカリアの町のの女たちが、征服され
苦役に従事した故事から、「重荷を支える女」として、
建築や家具装飾において、女性像による柱を呼ぶ名称となった。
ギリシャ以来、この女性柱は多く用いられているが、
他方、モジリアニが影響を受けたアフリカ象牙海岸の
黒人彫刻にも同様の例が見い出される。」
(「モジリアニ名作展カタログ」作品解説)

「ここでモディリア二は自然の人体を歪曲しているが、
それは「原始的な」アフリカ・アジアの芸術の形体的
原理を応用したためだった。こうして女性の形から
官能的な雰囲気が取り去られると、力強い線が
入り混じる対象として眺められるようになった。
すると体のそれぞれの部分は容積をもつ形体の
一部になり、古代エジプトやミケーネ文明の
彫像によく似た様式化された顔だけが、
内面的な清澄さや歓喜の輝きを放つようになる。」
(アネッテ・クルシンスキー
「アメデオ・モディリアニ 裸婦と肖像」p88)

「モディリアーニの作るカリアティードには表情もなければ
個性もないが、それでも彼の理想とする愛のイメージが
託されている。造形的な緊張とリズムにおいて、それは
インドの輝かしく官能的な女神像に近いところがある。
彫刻的な仕上げの点ではまだ未完成ではあるが、
とはいえ、これらのカリアティードには大地から
わきおこる女性特有の生命力が溢れていることは確かである。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p105)


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「カリアティード」(1913)

残されているかがんだカリアティード像は前掲の1体だけだが、
油彩、水彩、グワッシュ、クレヨン等でえがかれた
頭部像、直立像、カリアティードと呼ばれる
かがんだ像などの、膨大な量のデッサンが残されている。
(デッサンの真贋の判定は難しいらしい)

「この頃、彫刻のための予備的デッサンや
人体の習作がどれほど制作されたのか正確に
知ることはできないが、モディリアーニは
毎日のようにデッサンによる習作を作っていた、
と伝えられる。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p80)


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「カリアティード立像」(1912)

1体だけ残っている立像。
高さ160㎝。

「モディリアーニの彫刻の主題はつねに人間である。
謎めいた微笑をとどめた、細長く無言の頭部像。
そして官能的で非人格的なカリアティード像。
これらの彫像は地面に直接立てられるか、
小さな台座に置かれる物である。背景や身振りを
必要とせず、最上の作品では主題の逸話性や
感情表現も必要としない。こうした頭部像は、特定の
モデルを必要とする肖像でもないし、男性・女性の
区別さえも必要ではない(おそらく両性であろう)」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p85)


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「頭部像」(1911)

これは「ライモンド」(1915)と、
比較してみたくなるね。


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ただ顔を図案化したんじゃなくて、
失敗の許されない石彫制作や、
大量の彫刻用デッサンの積み重ねが
背景にあったことがわかったでしょう。

微妙な目と口の位置が肝心なのは、
ちびまるこちゃんの顔みたいだね。
。。。


解説)
今回は彫刻作品の紹介でした。
Posted at 21:58 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Oct 16, 2021

婦人の肖像画

e1

若い女性の肖像画と婦人の肖像画って。
どこで区別するの。
この「女の肖像」も含まれるのかな。

目安は絵の印象や作品のタイトルかな。
かなり恣意的な区別です。


e2

「CD夫人」(1916)

このモデルは、
CDというイニシャル以外、
何も知られていないという。

「束ねられた髪や、きちんと整えられた髪型から
察するに、おそらくこの絵は注文を
受けて制作されたものだろう。」
(「モディリアーニ展」作品解説P122)


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「ミノウチャ」(1917)

若い人なのかもしれないね。


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「ジョルジュ・ヴァン・ムイデン夫人の肖像」(1917)

「正面向きに座っているが、
右側にのばされた両腕の表現が面白い。」
(「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」解説P93)

たしかに。
距離をおいて見ると、
ドジョウすくいのような動きが。
たまきさん、その形容はどうでしょう。


e5

「黒い瞳の女」(1918)

「モディリアーニ展」作品解説では、
「このモデルのみせる表情はすこし厳しく」、
ジャン=ポール・クレスペルの
『モディリアーニ、女性、友人、作品』の
中の言葉を思わせる、として引用している。

「モデルが気に入らないとき、
他の多くの画家たちのように不平をこぼすかわりに、
彼はモデルに見てとったブルジョワ風の
威厳あふれる表情を誇張することで復讐するのだった。」

またこの作品は「モディリアーニの多様性を
最もよく伝えてくれる作品である。」とも記している。

見方はいろいろだね。


e6

「アメデ夫人」(1918)

この作品もモデルに不満があったのかな。
腰に当てた手は存在感を主張してるみたいだけど、
顔はどことなく悲しげにもみえる。


e7

「美しいスペイン人」(1918)

まなざしから表情に注意が向いて、
忘れられない印象をのこす作品。

ちょっと目を黒く塗りつぶしてみて。
そんなことを。


f1

絵の印象が、表情より、全体にむかう。
色調の調和や構成がすごく
しっかりした作品だってわかるね。


e8

「ピンクのブラウス」(1919)

自分がiいま描かれているっていうことへの
自意識みたいなものがでてるのかな。
なにか別のことを思案してるようにもみえる。


e9

「イタリアの女」(1918)

「、、、モデルは、モンパルナスの
カンパーニュ=プルミエ街にあった
簡易食堂「ロザリアの店」の
女主人ロザリア・トビアだと言われている。
モディリアーニはイタリア出身の彼女の店に
足繁く通っていた。彼女の方もモディリアーニに
親近感を抱いており、ときどき彼の絵を受け取っていた。」
(「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」解説P93)

アンドレ・サルマンの評伝「モディリアニの生涯」には、
モディリアーニたちのいきつけの店だったらしい、
この店や女主人のことが親しみをこめて描写されています。

「 ロザリーの店で芸術家たちは自分の家にいるような
気分になった。そう言っているのは彼女自身だが。」
「、、、。ちょうどその時太ったおしゃべり女は、
棚の白い皿に出しておいたチーズを
試食しようと地下倉から這い登ってきた鼠を、
雑巾を大きく振り回して追い出そうとしている
ところだった。」(p172-173)

評伝では気さくで人情家だった人みたいだけど、
この絵では神妙にしてる感じだね。


解説)
婦人の肖像、というより、
表情にそのひとの性格や特徴が
でている作品を集めた感じになりました。
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Oct 15, 2021

若い女性の肖像画

e1

もっともっと
普通の女性の肖像画がみたいなあ。
マンスフィールドさん。

じゃあ今回は若い女性の肖像画ね。


e2

「クララ」(1915)

モディリアーニが、
彫刻から絵画に転じての翌年。
「ライモンド」や「ピエロ」が
描かれた時期の作品で、
鼻から口元にかけての立体的な描写や、
左右の目の描き分けなどが、共通してる。


e3

「小さな女中」(1916)

「1916年に描かれたこれらの作品には、
まだ写実的な要素が残っている。
「小さな女中」には、両手を膝の上に
置いた上半身像がある。」
(「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」解説P90)

肖像画を二つ描くことについては、
以下の解説が参考に。

「モデルの個性をできる限り把握しようと
努めたモディリアーニは、しばしば
同じ人物を二度に渡って描いた。
まず上半身をクローズアップした構図で描く。
次に、より大きなサイズのカンヴァスを使って、
同じポーズをとったモデルの足までか、
あるいは全身を描いた。」
(「モディリアーニ展」作品解説P112)


e4

「ブロンドのレネ」(1916)

モデルがキスリング夫人と同名なので、
混同されることがあるが、別人であると
「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」の
作品解説にある。


e5

「黒い服の女」(1916)

モデルは不明という。

「瞳は描かれていないが、
アーモンド型の暗い目と、
首、鼻、眉のラインは、
1920年代の流行を先取りしたかの
ような、きわめて洗練された優美なこの女性に
やや尊大な厳格さを与えている。」
(「モディリアーニ展」カタログ作品解説P184)


e6

「ストライブブラウスの若い女の子」(1917)

制作年が確認できました。


e7

「若い女性の肖像」(1918)

目の不思議。

1918年に南仏のニースに滞在して、
友人のシェルバージュ宅で肖像画を描いたとき、
自分が片目で描かれていることに気づいた
シェルバーグが、その理由を尋ねたところ、
モディリアーニは答えたという。

「なぜって、君は片方の目でしか世界を
見ていないからだよ。もう片方は自分自身を
見つめているんだ。」
(「モディリアーニ展」カタログ作品解説P108)

この作品解説を執筆した
マリー=クリステーヌ・ドクロークは
以下のように続けている。

「このメッセージの意味は明らかだ。というのは、
自身も画家であったシェルヴァージュは、
見る能力と自らを研究する能力を備えた
モデルだったからである。
モディリアーニのモデルたちも、
これと同じ能力を授けられた姿で描かれている。
、、、彫刻家のアンリ・ローランス、
詩人ベアトリス・ヘイスティングス、
詩人レイモン・ラディゲ、画商ポール・ギョーム、
画家で彫刻家のセルソ・ラガール、画材屋で
画家たちの友人であったプートルが挙げられる。
そして、ピエロに扮した自身像において、
モディリアーニは自身の姿も同じ手法で描き出したのだ。」
(「モディリアーニ展」カタログ作品解説P108)

魅力的な解釈ですが、「能力」とまで
いいきれるのかどうか。
たとえば人物像の不明な
「クララ」(1915)のような肖像画にも、
それは見られます。
ただ、何か特別なシンパシーを感じたときに
暗号のように描き分けていたのかもしれない、
というのは、興味深いテーマかと。


e8

「青い背景の娘」(1918)

あのひとににている。
ってみんなも思いそう、
って思わせる。

1968年5月のモジリアニ作品展に出展されていた作品。
マンスフィールドさんは、
その頃からモディリアーニを知ってたんだね。
。。。


e9

「ブロンドの若い娘」(1919)


「モディリアーニの全作品の中で、
明確な基準作となっており、
同時期に描かれた他の肖像画を
評価する際にも基準となっている。」
(「モディリアニ作品展」カタログ作品解説P182)


解説)
作品を選んだ基準は、
年代順と、なるべく
カタログから違うタイプを、
という目安でした。
次回は婦人の肖像画の予定です。
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Oct 14, 2021

顔と自画像

e1

モディリアーニって、
この写真見ると、すごく美男子だったんだね。
マンスフィールドさんに訊いてみよう。

というわけで、
今回はモディリアーニの顔と自画像について(^_^)


e2

これは小学生時代。
どのこでしょう?
わかる気がする。


e3

15歳のとき、1899年作の木炭画。

リヴォルノのミケーレ画塾で
風景画、肖像画、静物画、裸体画を学んでいた時期。
この絵がモディリアーニの手によるものか、
確定はされていないみたいだけど、
カタログの年譜などでは自画像として掲載されている。


「その作品には「A・モディリアーニ」と
はっきりサインされているが、
おそらくは自画像であろう。
たしかに彼の容貌とよく似ているし、
力強さと気品にみちた素描力は、
彼のすぐれた才能と将来性を示している。」
(キャロル・マン 「アメデオ・モディリアーニ」P20)


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ロミティ(画塾の仲間)のアトリエでの写真。
やがてフィレンツェではファットーリの経営する
美術学校に入り、人体クラスに登録。
ミケランジェロの彫刻に感動したり、
ピエトラサンタの採石場を訪れて、
この頃彫刻家を志望し、
夏に初めて彫刻作品を試みる、
って伝記にはある。


e5

これは21歳のときの写真とされる。
前年の3月から、ヴェネチアの
国立美術研究所に入学していた。
翌年の1月、パリに出る。

これはよくモディリアーニの紹介サイトなどに
でてくる写真。

イケメンだね。
コクトーがジェラール・フィリップより、
いい男だったといったのは、有名なエピソード(注1)。


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「ピエロ」(1915)

モディリアーニは、
肖像画ばかり描いていたのに、
自画像は描かなかったの?

油彩では、たぶん象徴的な意味で、
自画像だっていわれてるこの作品と、
晩年に描いた1枚だけが残されている。

「《ピエロ》には画家に似た外見は
どこにもないが、作品の下方にあるPIEROT
という銘記から、私たちはそれが自画像であると
推測することができる。モディリアニには
ピエロやクラウン、あるいはサーカスの芸人に
扮した自画像の伝統に関する知識があった。
以前、特にパリに到着したばかりの時期に、
彼がもっぱら劇場やミュージック・ホールを
テーマに制作していたことは多くの素描から
明らかである。彼はまた、ピカソが描いた芸人や
曲芸師の肖像画もよく知っていた。こうしたことを
背景にして、また彼が自身について抱いていた
イメージを考慮すれば、私たちはこの作品が
自分を描いたものと推測してもいいように思われる。
彼自身、他人を芸でもてなしながらも、
その本当の性格は謎に包まれた人間に見られることを
好んでいたということも十分にありえるだろう。」
(アネッテ・クルシンスキー「アメデオ・モディリアニ
 裸婦と肖像」P106)


e7

「モジリアニ自画像」(1916)


ほとんど自画像を描かなかったっていうことと、
また友人たちにも自分の肖像画を描かせなかった
っていうのも、謎といえば謎だね。

これはその例外みたいな、珍しい素描。
「モジリアニ名作展」(1968)のカタログの解説によると、
「署名にモジリアニ、キスリングの名が
並んでいるように、これは二人の手によって制作された。
したがってモジリアニの自画像であると同時に、
エコール・ド・パリの仲間キスリングの見た
モジリアニ像でもある。」

なぜ自画像を描かせなかったのか、
キャロル・マンが評伝の中で、
興味深い見解を披瀝している。

「制作中のモディリアーニを他の画家が描いた作品は
一点も残されていない。
今日私たちが見ることができる彼の姿は、
かなり念入りにポーズをした写真だけである。
そうした写真の彼は、たいてい小粋なボヘミアンとして
振る舞っている。
他の画家に自分の姿を描かせなかった理由は、
粗野でやつれた姿のままに描かれるのではないか、
という全く根拠のない心配からであった。
生涯、彼は世間向けの自分のイメージを厳しく守り通して
きたので、そのイメージにはずれるものを、
彼は決して他人に作らせなかった。
ジャンヌが彼を描いたデッサンも、
彼の承認を得て公開された写真を思わせる。
ジャンヌにしても、あくまで超人的なまでに自由奔放な
芸術家としてのモディリアーニを愛していた。
彼に寄せるジャンヌのこうした夢想から、
やがてモディリアーニ伝説の多くが巣立っていくのである。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p266)



e8

「ベッドで読書するモディリアーニ」(1919)

これは前掲の引用文のなかでマンが指摘している、
ジャンヌ・エピュテルヌによって描かれたデッサン。

なるほどねー。
でも美化っていうより、
自分の描画スタイルで、特徴を
よく捉えようとしている感じ。


e9

「アメディオ・モディリアーニ」(1919)

これはジャンヌ・エピュテルヌによる
モディリアーニの肖像画。

ジャンヌは、自身の鋭い目をつきを強調した
個性的な自画像を何枚か残しているけれど、
それらに比べると、またデッサンと比べても、
この作品は、あきらかに系譜が違ってる。
ずっと穏やかで愛情が伝わってくる感じだね。

「彼の承認を得て公開された写真を思わせる」
っていう指摘は、
むしろこの肖像画に当てはまる感じだけど。


f1

「自画像」(1919)

これがモディリアーニの晩年の自画像だね。
この作品については、
いくつか読んだだけ、だけど、
否定的な作品批評(注2)が多かった。
それはおくとして、どうしてモディリアーニは、
これまで描かなかった自画像を晩年に描いたのか。
ジャンヌと娘のためなんじゃない?


解説)
ネットで検索すると、
モディリアーニの写真や絵画はいろいろでてきます。
撮影年次、制作年次、
時にはタイトルも異なるものもあり、
表記はとりあえずのものです。

注1)「彼は、私たちが彼と知り合ったときには、
つねに誇り高く、そして豊かであった。
文字通りに金をもっていたのだ。
そして、友人たちの肖像を描き、
カフェ・ド・ラ・ロトンドでテーブルから
テーブルへとまるで幸福を告げる使者のように
廻り歩いていた。
「彼は美男子だったろうか?ジェラール・フィリップが
彼の役を演じた映画を見てからというものは、
私はずっと疑問を感じているのだ。いや、彼は、
も少しよかったのだ。」」
(ジャン・コクトー「モジリアニ名作展カタログ」の
「モジリアニ頌」より)

注2)
「1919年に制作された油彩による唯一の自画像は、
絵画であれ文章であれ、彼が自身について語った
ものの中でももっとも消極的なものであろう。
この自画像によって彼が表現したかったものは特別に
何もないように思われる。
技量の冴えも見られない。やせた顔はうつろな
仮面のようであり、生気のない目には精神的な
集中力が感じられない。」
(キャロル・マン『アメディオ・モディリアーニ』p264)

「この人物は芸術との戦いでずたずたに引き裂かれ、
傷ついた芸術家を象徴しているようだ。
色彩や形体のよどみない扱い方と、制作中の自分を
きわめてドラマチックに表現した脚色はあるものの、
そこにはモディリアニの力強い説得力がほとんど
感じられない。
この作品が自画像として証言しているのは、
せいぜい使用された絵の具程度のものなのだ。
それはごく薄く塗られており、はかないのである。」
(アネッテ・クルシンスキー『アメデオ・モディリアニ』p106)

「、、、これまで彼が描いてきた作品がいずれも
似通っているなかで、この自画像は異彩を放っている。
画面の大きさ、「モデル」の姿勢、うわのそらで、
私たちに目を向けることなく画面の外の
どこかをみつめる視線、そして色調。
こうした要素によってモディリアーニの自画像は、
モディリアーニが1913年から描き始めたパリの
芸術的な共同体の親しい人々の肖像画と
同じ雰囲気を分かちもっている。
シエナ派の絵のように引き延ばされた顔や、
ほとんど堅苦しいまでに静止した身体。
彼のモデルとなった多くの人物たちも思い起こしているように、
そこには創作するうえでの少しの動揺も、絵画との戦いに
我を忘れて打ち込む姿も、そして夢中になって線を引く
手の動きの端緒さえも、その跡がまったく見られない。
雄弁さも、あるいは内省的な自己との対面も見せずに、
モディリアーニはうわべの無関心さによって彼自身の系譜を
閉じているように見える。それはあたかもぼかしの効果によって
自身を自分のイメージや別の作品に繋ぎ合わせているかのようである。」
(「モディリアーニ展カタログ」所収
ジャクリーヌ・ムンク「モディリアーニの「危険なる美神」」より)
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Oct 13, 2021

男性の肖像画

e1

つぎは男性の肖像画だね。
マンスフィールドさんに
話してもらわなくちゃ。

ということで。。。


e2

「チェリスト」(1909)

「1909年にモディリアニが描いたチェリストの
肖像画は習作というより大作であり、
構図や色彩の選択にはっきり見てとれるように、
セザンヌの絵画を思わせるものになっている。
、、、セザンヌに対するモディリアニの尊敬の念は、
画面の構図にはっきりと表れている(注1)。
彼が採用したのはセザンヌの遠近法や色彩ではなく、
むしろその垂直線の用い方であり、また真正面や
真横から対象をとらえる厳格さだったのだ。」
(アネッテ・クルシンスキー「アメディオ・モディリアニ 裸婦と肖像」P20)

まだ彫刻にうちこむまえの作品だね。
これ肖像画?
そこはそれで。


e3

「男の頭部」(1915年頃)

カタログの解説では、
第一次世界大戦が勃発するまで
パリに住んでいたポルトガル人の画家、
ジョセパシェコの肖像ではないかと
推測される、とされています。

「この作品は、肖像画というよりはむしろ
あるひとつの象徴に近いものである。
そのこわばった暗い表情や、単なる黒い穴として
表された目からは、モディリアーニが原型として
心に抱いていたプリミティブな仮面を
思い起こさずにはいられない。」
(「モディリアーニ展」カタログ作品解説P116)

彫刻を断念して絵画に専念しはじめたのが
1914年。その翌年に描かれた肖像画。

「男性のモデルの場合は、
のちに著名になる芸術家や文学者、
それに美術愛好家や画商などが多かった。
彼らは1910年代半ばから30年代前半にかけて、
モンパルナスやモンマントルにたむろしていた。」
(「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p90)


e4

「画家マニュエル・ウンベール・エステーヴの肖像」
(1916)
バルセロナ出身の画家。

「まさしくイベリア人的な厳格さや、やせてとがった
メランコリックな顔立ちが、背景の暗い赤褐色によって
さらに引き立って見える。モディリアーニはこの手法を、
本作を描いた1916年によく用いている。」
(「モディリアーニ展」カタログ作品解説P124)

どこかでみたことある、
と思うから、きっと似てるだろうな、
と思うのかな。


e5

「ヴェルホルスキ伯」(1917)

「表現主義的で、はっとさせる力強さをもつ
この驚くべき肖像画は、レオン・ポナの生徒であった
カジミール=ジュール・ヴィエルホルスキ伯を
描いたものだろう。
ヴェルホルスキは、世紀の変わり目に活躍した画家で、
彼の手になる油彩画がフランスのいくつかの美術館に
所蔵されている。
彼は、建築家ユルトレとともにパリのレストランの
室内装飾の仕事をしていたが、
モディリアーニと出会い、モデルとなった。」
(「モディリアーニ展」カタログ作品解説P136)


e6

「コンスタン・ルプートル」(1917)

「額装屋で画商のコンスタンス・ルプートルは、
モデリアーニに60フランを用立てたところ、
その埋め合わせとして肖像の制作をもちかけられ、
ポーズをとることを了承した。ルプートルが、
貧困にあえぐモディリアーニを哀れに思って
いたことはあきらかである。」
「ルプートルは、座って膝の上で手を組むという
伝統的なポーズをとっている。しかし、
構成の厳密さや、細部の描写、顔の表情、背景と上着の
色のグラデーションといった点にかなりの注意が
払われているにもかかわわらず、ここには
日付も書き込みもなく、署名も記されていない。
それゆえに、疲れて嫌になったモディリアーニが、
途中で描くのをやめてしまったような印象を受ける。」
(「モディリアーニ展」カタログ作品解説P148)


e7

「つえを突いて座る男」(1918)

これは、第二次大戦中にナチスによって
略奪された絵画で、
2016年に「パナマ文書」がきっかけで、
所有者が発見され、話題になった作品。
推定価格は2500万ドル(約27億円)。
!!


e8

「ロジェ・デュティユール」(1919)

「デュティユールは洗練された趣味をもつ大資産家で、
モディリアーニの初期の作品をかなりの安値で
入手したことが知られている。」
「1919年のこの作品では、抑えめの色調や
とても薄い塗りのマチエール、少し頭をかしげた
ポーズなどから、モディリアーニにとって
2番目のこの熱狂的なパトロンが、権力者でありながら
親切な心の持ち主であったところがうかがえる。」
(「モディリアーニ展」カタログ作品解説P192)


e9

「マリオ・ヴァルヴォーリの肖像」(1919)

「彼(モディリアーニ)の側にはジャンヌが黙って座り、
ただ彼を見つめているだけだった。
彼女は医者に見せようともしなかった。
マットレスには、空になった酒の壜が散乱し、
イワシの油漬けの缶詰が半分開けられたまま
置かれてあった。
彼は咳き込んで血を吐いたが、
その部屋は凍るほどに寒かった。
イーゼルには、まだ絵具の乾ききらない
ヴァルヴォーリの肖像画があった。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」P272)

これはモディリアーニの死の一週間ほど前のことで、
このあと連れてこられた医師に結核性髄膜炎と診断され、
意識不明になって病院に運ばれたモディリアーニは、
そのまま意識が回復することなく、
1920年1月24日土曜日の夜8時50分に逝去する。

ヴォルヴォーニは、ギリシャの音楽家で、
1917年に描かれた素描や、
1920年の新年を共に居酒屋で過ごした際の
素描も残されている、最後の飲み友達といわれる。

この肖像画を最後に手がけていたんだね。


解説)
黒っぽい服装の肖像画が多くなりましたが、
なるべくカタログで作品解説や
エピソードのあるものを集めてみた
偶然の結果でした。

(注1)セザンヌへの傾倒ぶりについて、
1906年のはじめ、モディリアーニは
セザンヌの「赤いチョッキを着た少年」の
水彩による模写を作り、いつも持ち歩いていて、
会話がセザンヌに及ぶと、ポケットから
そのぼろぼろになった複製をとりだして、
聖像のように掲げてキスをしたという逸話が
キャロル・マンの評伝「アメデオ・モディリアーニ」
(P65)にのっていました。
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Oct 12, 2021

女性の肖像画

e1

マンスフィールドさん。
今回はなにを?

モディリアーニが、
一般の女性を描いた肖像画
を選んで紹介します。


e2

「若い娘の肖像」(1915)

「モデルはおそらく若い使用人の娘である。」
(「モディリアーニ展(2008)カタログ作品解説」 P112)


「モディリアーニの伝記に登場する女性の名前は、
ジャンヌ・エピュテルヌと
ベアトリス・ヘイスティングスを別にしても、
十指に余る。マルガリータ、アルマイザ、ルネ、
ロロット、ジルベルト、エルヴィル、マリー、
リシェンヌ、、、、。
彼女たちは、詩人を自称していたり、
女子学生であったり、娼婦であったり、
職業的なモデルであったり、友人の妻であったりする。
たまたま知り合った彼女たちを
彼はイーゼルの前に連れてきて、
愛情と優しさをこめてキャンヴァスに描破した。」
「女性のモデルの場合は、
たとえ名前が分かっていても、どのような素性なのか、
どのような職業についていて、どのような生活をしていたのか、
ほとんど分かっていない。」
(「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p90)


e3

「ラ・ファンテスカ」(使用人の女)(1915)

「、、、画面には生き生きとした雰囲気が
みなぎっている。モデルの表情は
穏やかで時間を超越しており、
ただこの人物の職業のみが
エプロンによって表されている。」
(「モディリアーニ展(2008)カタログ作品解説」 P114)


e4

「若い娘の肖像」(ララ・ゲテの娘)(1917)

「ここに座っている女は、
モンパルナスのミュージック・ホール
「ラ・ゲテ」で歌っていた若い女、
トトトゥである。」
(「モディリアーニ展(1979)カタログ作品解説」)


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「若い女性の肖像」(1917)

「暗い色調のなかに、モディリアーニはこの女性の
近代的な性格を余すところなく描きだしている。
前髪をおろしたショートカット、
赤い唇、くっきり引いた眉、まっすぐに
こちらを見つめる揺るぎないまなざしといった要素が、
第一次大戦後の狂騒の時代(レ・ザネ・フォル)を
予感させるのだ。」
(「モディリアーニ展(2008)カタログ作品解説」 P130)


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「婦人像」(1918)

「1918年に描かれたこの美しい肖像画は、
ジャン・コクトーが1951年に出版した
モディリアーニの短い回想録のなかで、
巻頭を飾るカラー図版に選ばれている。」
「コクトーは「彼は、我々をおしなべて
自分のスタイルで描き、自らのうちに抱いていた
ある典型的な人物像に引き戻した。
彼はいつも、男性にも女性にもこの形状を
強く求め、それに似た顔を探していた。」
とつけくわえている。
この若い女性が誰なのか残念ながら分からないが、
モディリアーニのこうした探求とその応用を
まさに証明する作品となっている。」
(「モディリアーニ展(2008)カタログ作品解説」 P186)


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「女の肖像」(カフェ・コンセールの歌手)(1918)

カフェ・コンセールって、客が歌や踊りのショーを楽しみながら、
飲食ができる、いわゆるミュージック・ホール。
このひと、歌姫だったんだ。目つきや口元、髪型も、
このポスターの人に似てない?
!!


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「トーラの肖像」(1919)

「トーラは1919年の10月に美術を学びにパリにやってきて、
のちに彼女の夫となる画家のニルス・ダルデルの誘いで
ラ・ロトンドを訪れ、そこでモディリアーニと出会った。
後年トーラは、モディアーニの美しさに驚くと同時に、
彼が深刻そうな咳に悩まされていたことも
強く印象に残ったと語っている。
トーラはモディリアーニのために何度かポーズをとっていたが、
ある日、アニー・ビャーネを連れてきた。」
(「モディリアーニ展(2008)カタログ作品解説」 P194)

次のアニーの肖像画の解説文に続きます(^_^)。


e9

「アニー・ビャーネ」(1919)


「そこでモディリアーニは、
アニーの肖像画を描いたのである。
トーラとアニーは、人生を織りなす数々の偶然によって、
別々の道を歩むことになった。しかし、ほぼ同時期に、
同じサイズの大きなキャンヴァスに描かれた二人の肖像画は、
モディリアーニの芸術を物語る最後の証言のひとつとして、
いつまでも変わることなく、結びつけられるのである。」
(「モディリアーニ展(2008)カタログ作品解説」 P194)


解説)
解説文は全文の一部を抜粋して
転載させてもらっています。
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Oct 11, 2021

肖像画のフォルム

e1

マンスフィールドさん。
おつかれでは?

いえいえ。
今回は、肖像画のフォルムについて、
ちょっとご紹介。


e2

「ユダヤの女」(1908)

モディリアーニがパリに来て、
2年後に描いた肖像画。


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「ポール・アレクサンドル博士」(1909)

これは、モディリアーニが、
パリに来た翌年に知り合って友人となった
美術愛好家ポール・アレクサンドルの肖像画。
この人は当時研修医(のちに高名な外科医となる)で、
歯科医志望の弟のジャンと共に、デルタ街に
家を借りて芸術家たちのための共同生活体を
つくっていて、そこにモディリアーニを招いてくれた。
貧しかったモディリアニから
定期的に作品を買ってくれたり、
肖像画を描く仕事を周旋してくれたりもした。
モディリアーニに頼まれて、
彫刻家のコンスタンティン・ブランクーシに
引き合わせたのもこの人で、
物心両面で援助し、最初の庇護者といわれる。
(注1)

背景の壁に「ユダヤの女」がかかってるね。


e4

「ジャン・アレクサンドルの肖像」(1909)

ついでに弟ジャンのちょっと退屈そうな肖像。


e5

「乗馬服の女」(1909)

これは、アレクサンドルが知人の男爵に依頼して、
その夫人をモデルにして描いた作品。
夫人の着ていた赤い狩猟用スーツを、
モディリアーニが黄色に変えてしまったため、
夫人が気に入らず、
アレクサンドルが買い取ることになった、
というエピソードが知られている。

「モデルの夫人が気に入らなかったのは、
スーツの色ばかりではなかっただろう。
戯画化された顔の表情や大胆な筆使いにも不満だったに違いない。」
(島田紀夫「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p85)

「モディリアーニは彼女の尊大なポーズのうちに
虚栄心を示すと共に、顔を極端に明るく描くことで風刺画的な
要素を出している。すなわち、卑しくすぼめられた口、
角ばった小さな顔の弓なりの眉毛などに効果が集中するように
工夫されているのである。」
(キャロル・マン『アメディオ・モディリアーニ』)

うーん。
こんなふうに風刺されたらやだね。
これまでの作品には、
まだ彫刻の影響というか、いわゆる
モディリアニー風の特徴がでていないことにも注目。


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「赤い胸像」(1913)

アレクサンドルに彫刻家ブランクーシを紹介してもらい、
彼の住まいの近くに居をうつして、
本格的に彫刻に専念する時期が、
1911年から1914年まで続きます。

「現在知られている彫刻作品は、『立てるヌード』と
『カリアティード』と呼ばれている作品以外は、
25点ほどの『頭部像』だけである。その代わり、
彫刻に関連したと思われる多数のデッサンが残された。」
(島田紀夫「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p85)

これもそうした彫刻関連の水彩画のひとつで、
比較のために掲載。


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「アントニア」(1915)

「1915年に描かれた「アントニア」の肖像は、
彼の様式化された長い首をもつ頭部彫刻を強く想起させる。
モデルが誰であるかが判明しているにもかかわらず、
ここでモディリアニの関心が構図の問題に
集中していることを考慮すると、「アントニア」はモデルの
性格表現の研究ではなく、形の研究として分類されるべきだろう。
この肖像画は気さくで優しい女性を表しているが、
しかしその取り扱いはけっして人間的なものではない。」
(アネッテ・クルシンスキー「アメデオ・モディリアニ 裸婦と肖像」
p42)

興味深い鋭い指摘だね。
ここでは、彫刻の形の研究が、
肖像画に応用されてるのがよく判る気がする。


e8

「赤いネックレスをした婦人」(1918)

これは、「赤い胸像」(1913)の5年後の肖像画。

ずっと一貫してたのがわかる作品だね。
っていうか、理想的な形のイメージが先にあって、
そこに向かって描写していくっていう感じ。

以下はモデルになったひとのエピソード。

「1918年当時は美術を学ぶパリジェンヌだった
彼女は、育ちのよい若い娘の習いとして、
カフェに入り浸ることはなかった。
そんな彼女はモディリアーニを見かけたのは、
モンパルナスで食堂を営んでいたロザリアという
名のイタリア女性のところであった。
そこでは、腹をすかせた画家たちはデッサンや
スケッチを渡せば、食事ができたのである。」
「1959年に彼女が語った記憶は、
モディリアーニにまつわる伝説とは一致していない。
というのも、彼女の回想によれば、
モディリアーニは確かに酒を飲んでいたが、
それは不品行や悪癖によるものではなかったのだ。
当時の苦しい生活状況に追いつめられた彼は、
空腹と病を紛らわすためにアルコールに
頼っていたのだった。」
(「モディリアーニ展カタログ」作品解説 p160)


e9

マンスフィールドさんの作品紹介、
いつまで続くのかな。
まだ話したりないみたいだね。


解説)
はずみがついたままというか。

注1)このくだりについての記載は、
「モディリアーニ展」カタログの
マリー=クリスティーヌ・ドクロークの作品解説や、
キャロル・マンの評伝『アメディオ・モディリアーニ』
によっています。
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Oct 10, 2021

ベアトリスの肖像画

e1

今回はモディリアーニが
ベアトリス・ヘイスティングスを描いた肖像画の紹介。

モディリアーニは22歳でパリに来て、
画家として暮らし始めたんだけど、
20代後半は彫刻に専念していた。
彫刻を断念したのが1914年で30歳の時。
それまでももちろん絵も描いていたけど、
この頃から絵画に専念して、
様々な技法上の模索がはじまる。
そんなとき、
1914年の7月頃にモディリアーニは、
ベアトリスと知り合い、一緒に暮らし始めたの。


e2

「右手で頬杖をつくベアトリス・ヘイスティングス」(1914)

出会って間もない頃、
ベアトリスを描いた最初の肖像画、
といわれてる。

技法も面白いけど、
見ていて愉しくなるような、
親密な感じが伝わってくるね。


e3

ベアトリス・ヘイスティングス(1879−1943)の写真。

モディリアーニと出会ったのは、35歳のときだった。
南アフリカに生まれ、イギリスに移住して、
オックスフォード大学をでて、
「新時代」という雑誌の最も多作な寄稿者になった。
内容は、英語版ウィキペディアによると、
通信、パロディ、詩、論争、旅行記、
散文小説、劇的対話など、多彩だったようで
1914年パリにやってきて、
アリス・モーニングという筆名で、
「パリの印象」という見聞録を連載していた。
二人の生活は1916年まで二年ほど続き、
その間にモディリアーニは、
ベアトリスの肖像画をおよそ13点描いた。


e4

「ベアトリス・ヘイスティングスの肖像」(1915)

この絵もにこやかだね。

「「私のことを美しくスケッチしてくれる人がいる。
浮世の飾りは何も身につけていないが、
私はまるで聖母マリア像のようだ」と
アリス・モーニングの筆名で、
ベアトリスは1914年11月の記事に書いている。
ダンテの詩句をそらんじていたモディリアーニにすれば、
理想に近い形で、ベアトリスという詩的霊感を
手中にしたと思ったとしても、自然であったろう。」
(キャロル・マン『アメディオ・モディリアーニ』)


e5

「ベアトリス・ヘイスティングスの肖像」(1915)

この絵の顔の表情はちょっと微妙。

「制作中の彼はつとめて平静を装ったので、
ベアトリスの弱さや不安、
そして向こう見ずな振舞から
一人の人間としての全体性までを、
よく理解しようと努力した。
そして彼女のこうした感情の起伏を、
彼だけが察知できる暗号として把握して、
画面の中で構成している。
すなわち、微笑、ひきつった笑い、
彼を受け入れる満ち足りた眼差し、
厳しく批判的な小さな丸い眼、
物をよく見ようとして伸ばされた首、
さらには画面の背景に描きこまれた硬直した柱や
柱頭の揺れるような茎状飾りなどによって、
ベアトリスのそのときどきの心理状態を
表しているのである。」
(キャロル・マン『アメディオ・モディリアーニ』)

すごい解説だね。
たしかにいろんな感情の起伏が、
暗号のように、こめられてるといえばいえそうな、
奥行きが伝わってくる。


e6

「ベアトリス・ヘイスティングスの肖像」(1916)

こんなふうに少女のように描いたのは、
一種の理想化願望じゃないか、という
アネッテ・クルシンスキーによる評がある。


e7

「ベアトリス・ヘイスティングスの肖像」(1916)

「しかしいっそう確かに思えるのは、
ベアトリスを高慢な、というよりもむしろ
自信に満ちた優雅な女性として表している肖像画こそが、
彼女の本当の性格を示しているということだ。
、、、モディリアニはここで画面の外に目を向けている
彼女を、暗色の長方形の背景からくっきりと
浮かび上がらせている。
ベアトリスはやや後方にそり返り、上の方をボタンで
留めたコートが彼女の厳格でしかも精力的な
印象を生み出している。」
(アネッテ・クルシンスキー「アメデオ・モディリアニ」
p58)


e8

これは当時のものと思われるモディリアーニの写真。
壁にはひとつまえに紹介した作品がかかっている。


e9

これはベアトリスの写真。
書き込まれた文字によると、
1898年、19歳の時のもの。

「二人は知り合うとすぐに生活をともにし、
それは2年間続いた。
それ以前にもモディリアーニは何人もの
女性と交渉をもったが、それらは一過性の
関係にすぎなかった。
モデルや芸人、娼婦や詩人と称する女性が多かった。
ベアトリス・ヘイスティングスは芸術、
文学、詩、哲学などをモディリアーニと
論じることができ、女権拡張論者としても
一家言をもっていた。しかし、
のちに自分の考えを変えてファシズムに共鳴し、
1943年に自殺した。
、、、ジャンヌ・モディリアーニによると、
ベアトリス・へースティングスに対する評価は分裂している。
一方でモディリアーニを酒や麻薬でだめにするように
仕向けた悪女であり、
他方でモディリアーニの放縦な生活を摂生させ
仕事をさせるように務めたよき伴侶であった。」
(島田紀夫「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p86)


解説)
今回も紹介したい肖像画や
写真が多くて、
フィギア撮影はあとまわしに。
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Oct 09, 2021

友人たちを描いた肖像画

e1

今回もモディリアーニの肖像画の紹介でいいかな。

どうせやるんでしょう。
どんどんみたいよ。

モディリアーニは親しかった友人の画家たちの
肖像画をいくつも残しているの。


e2

「シャイム・スーティンの肖像」(1915)

ロシア帝国(現ベラルーシ)の
村で一番貧しかったというユダヤ人家庭で
生まれ育ったというスーティン。
モディリアーニは、スーティンの才能を高く評価していて、
もっとも親しい友人としてつきあった。

「後年、スーティンは、自分に
自信を与えてくれたのはモディリアーニであった、
と述懐している。モディリアーニの描いた
スーティン像を見れば、少しも恩きせがましい
ところは感じられず、むしろ一人の作家として
尊敬していたことが感じられる。」
(キャロル・マン『アメディオ・モディリアーニ』p163)

「生き生きとしたその表現様式は、
パリに到着した頃の礼儀をわきまえない粗野な
スーティンを表すには適していた。
髪の毛をばっさりと裁ち落としたまま手入れもせず、
閉じない口から歯が見えているところなどは
スナップショットに近い。
スーティンの目に映じた光は彼のダイナミックで
直情的な性格を強調しており、モディリアニには
異例の表現だと言える。」
(アネッテ・クルシンスキー「アメデオ・モディリアニ 裸婦と肖像」p40)


e3

「家」(1920-1921)
この絵はセレ村で描かれたスーティンの作品。

「1920年にモディリアーニが亡くなったあたりからスーティンの
作風に変異が生じる。パリでの人間関係を避け、1920年から1922年に
かけて滞在した南仏セレで描かれた一連の風景画は構図、
タッチともに激しく歪んでおり、精神的不安が反映されている。」
(ウィキより)

「1916年には、スーティンはズボロフスキ夫妻の知己を得たが、
彼らはスーティンの人となりも、
その芸術も評価していなかったようである。
ズボロフスキはなかなかスーティンと契約を結ぼうとせず、
その面倒も見たがらなかったが、ついに1919年、
モディリアーニの執拗な説得によって意を決した。
死を目前に、モディリアーニは友人を自分の画商に託したのだ。
「心配するなよ。僕は旅立つけど、スーティンは残していくんだから。」
しかし、何年もの間、
ズボロフスキによる支援は限られたものでしかなく、
スーティンは貧困のなかに暮らしていた。」
(マリー=クリステーヌ・ドクローク
「モディリアーニ展」カタログ第四章解説より)

後年、スーティンの絵は評価され、絵が売れるようになってからは、
「豪邸に住み、運転手付きの生活を送ったという。」(ウィキ)
しかし、晩年はまた貧困に陥って1943年に病没した。


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「ディエゴ・リヴェラの肖像」(1914)

「 リヴェラはもっとも親しい友人の一人であった。
のちに彼は20世紀のメキシコにおける最も高名な
画家となった。彼はメキシコ政府の補助金を得て
1909年にスペイン経由でパリに来ていた。」
「 パリ時代のリヴェラは、乱痴気騒ぎやカフェでの
激しい論争において、いつもモディリアーニの戦友であった。
「ローレルとハーディ」を思わせる二人の取り合わせは
非常に印象的であった。
体格の立派なリヴェラは陽気で包容力があったが、
モディリアーニはほっそりとした虚弱体質であり、
酒を飲んでいないときはとても内気であった。」
(キャロル・マン『アメディオ・モディリアーニ』p127)

ローレルとハーディって、古すぎてわかんない。
トーキーやサイレントの時代のお笑いコンビね。
後の、このひとの奥さんは画家のフリーダ・カーロ。


e5

「モイズ・キスリングの肖像」(1915)

「キスリングとモディリアーニが
出会うのは1914年ころらしい。
キスリングとスーティンとマックス・ジャコブは、
モディリアーニが最も心を許した友であった。
彼らは皆ユダヤ人である。」
(島田紀夫「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p88)

「きちんと締められたネクタイ、滑らかな肌、
寄り目、そしてとりわけ明るい赤で描かれた
キューピッドの弓のような輪郭をもつ
上唇によって、キスリングは私たちに
無邪気な聖歌隊の少年と間違えられそうな印象を与える。」
(アネッテ・クルシンスキー「アメデオ・モディリアニ 裸婦と肖像」p40)


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「ルネ・キスリングの肖像」(1917)

「パリの憲兵隊司令官の娘であった
モイズ・キスリングの妻ルネも画家である。
気性が激しかったが、夫とともにモディリアーニを援助した。
モディリアーニにアトリエがない時には、
ジョセフ・バラ街にある自分たちのアトリエを提供し、
画材を貸し与えた。、、、
キュビスム風の形態感覚とするどい性格描写には、
モデルに対するモディリアーニの態度が示されているようだ。」
(島田紀夫「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p88)

髪型が。


e7

「ジャン・コクトーの肖像」(1916)

これはモイズ・キスリングが、
詩人のジャン・コクトーを描いた作品。
モディリアーニの描いた、
次の作品との比較を。


e8

「ジャン・コクトーの肖像」(1916)

これはモディリアーニによるコクトーの肖像画。
キスリングによる作品と比較した解説文がある。

「同じ頃のキスリングもコクトーの肖像画を制作したが、
そこでは内省的な詩人がアトリエのなかで
物思いにふけっている姿で描かれている。
モディリアーニの肖像画では、詩人はうぬぼれの強い
伊達者のポーズで描かれている。
モディリアーニはコクトーをやや批判的に
見ていたようだ。」
(島田紀夫「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p88)

「このときキスリングは、詩人コクトーを
感じやすく内省的な人物として捉え、
広い部屋の中でもの思いにふけっている状態で
描いているが、モディリアーニの筆にかかると、
モデルの形態は角ばって輪郭が鋭くなっており、
うぬぼれの強いコクトーに対し、あたかも
正面から挑んでいるかのようである。
モディリアーニの描く肖像に起こりがちなことであるが、
後年のコクトーはこの肖像の姿にしだいに
似てくるのであった
(コクトー自身はこの肖像画を嫌っていた)。」
(キャロル・マン『アメディオ・モディリアーニ』p134)

「そのポーズや顔つきから判明するのは、
モディリアニが紳士気取りのコクトーに必ずしも
好意を抱いていなかったということだ。
ここではぴったりしたスーツに身を包んで座っているモデルが、
椅子の背によってその垂直性をいっそう高められている。
こうして画家はモデルのうぬぼれた性格を誇張したのだった。
他の垂直線もまた人物と背景に目を誘導しながら、
モデルの気取りと痩せた体を強調するのに一役買っている。」
(アネッテ・クルシンスキー「アメデオ・モディリアニ 裸婦と肖像」p46)

もう、コクトー、さんざんだね。


e9

「マックス・ジャコブの肖像」(1916)

友人と言えば、この肖像もかかせない。

「マックス・ジャコブは、キスリングやスーティンと
同じように、モディリアーニが最も心を許すことができた
友人の一人である。、、、
画家にして美術評論家、魔術師であり哲学者であり
手相見もしたジャコブは、コクトーとならんで
一時はパリの王様だった。」
(島田紀夫「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p88)

「詩を朗読したり、演説することにかけては、
ジャコブと、モディリアーニは好敵手であった。
しかし人気があったのはつねにジャコブのほうである。
なぜならば彼は、モディリアーニがよく人前でしたように、
騒ぎを起こしたり着ているものを脱ぎ捨てるという
振る舞いはしなかったからである。」
「、、、ジャコブには気品があったことが
(実際の暮らしはどん底であったにも関わらず)、
モディリアーニが彼を一目置く理由であった。
彼は一揃いの夜会服を持っており、ロトンドのような
気楽な店へ行くときでも、ともかく外出するときには
この夜会服を着ていくのであった。
帰宅すると、彼は友人の面前でも、その上品な夜会服を脱ぎ、
きちんとたたんでトランクにしまいこみ、
そしてすりきれたぼろを着るのだった。
ジャコブとモディリアーニの二人はモンマントルでも
よく行き来していたし、やや後になって戦時下の
困難な時期においても、モンパルナスのカフェで
しばしば会った。」
(キャロル・マン『アメディオ・モディリアーニ』p134)

ピカソと共同のアトリエをもっていた人。
モディリアーニはピカソの肖像画も描いていて、
「ピカソは私たちより、いつも十年先を歩んでいる」
といっていたって。

尊敬してたんだね。
後年ジャコブはナチスの強制収容所で病死してる。


解説)
今回も、なりゆきのままの
絵画紹介です。
Posted at 21:27 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Oct 08, 2021

画商たちの肖像画

e1

今回はモディリアーニにとって、
とても重要な役割をはたした、
二人の画商を描いた肖像画を紹介するわ。
とマンスフィールドさんがいった。

どういうわけで?
うーん。おもしろそうかなと思って。


e2

ポール・ギヨームの肖像」(1915)

この人は、1914年にマックス・ジャコブから
紹介され、翌年モディリアーニと専属契約を結び、
モンマントルの「パトー・ラヴォワール」に
アトリエを借りてくれた人。

絵には「新しい操縦士(水先案内人)」、「海の導き星」、
といった文字が書き込まれている。
期待してたんだね。


e3

「ポール・ギヨームの肖像」(1916)

翌年描かれたこの作品には皮肉がこめられている
という評がある。

また、この2作品には、こんな評もあるの。

「いつものお礼の意味でモディリアニが制作した
この画商の2枚の肖像画は疑いの余地なく
彼の全作品の中でも白眉である。」
(アネッテ・クルシンスキー「アメデオ・モディリアニ」p46)

絶賛してる人がいるんだね。
性格描写に画家の気持ちもこもっているというか。


e4

ポール・ギョーム(1891-1934)の写真。
撮影日時はわかわからないけど、
ギヨームがモディリアーニと知り合った
1914年には23歳だったというのに驚き。


e5

「ズボロフスキーの肖像」(1916)

これは1916年6月に、ギヨームから、
契約画商になることを受け継いだ
レオポルド・ズボロフスキーの肖像。
油彩の全作品とひきかえに、
一日につき15フランを支給するという
契約だったという。

自信ありそう。
がんばりましょう。


e6

「ズボロフスキーの肖像」(1916)

ズボロフスキー夫妻は、
自分たちの家の一番大きな部屋を
アトリエとして提供したり、
契約を継続するために、
自分の衣服を売ったりまでしたという。


e7

ズボロフスキー(1889-1932)の写真。
専属契約時には27歳ってことになる。


e8

「アンナ・ズボロフスカ」(1917)

奥さんの肖像。ポーランドの貴族出身だった。

「このポーランド出身の高貴な女性は
フランスのロココ様式で描かれており、
そこに彼女に対する画家の並々ならぬ敬意が見て取れる」
(アネッテ・クルシンスキー「アメデオ・モディリアニ」p67)


e9

「ズボロフスキー夫人」(1918)

こんな事情を指摘する評もあります。

「、、、妻のハンカがモディリアーニのモデルを
つとめたのも、ある程度経済的理由によるところがあった。
なぜなら、彼らにはモディリアーニに職業モデルを
世話する余裕がほとんどなかったからであり、
少しでも余裕があればヌードのモデルを雇うために、
その金を貯えておきたいからであった。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p219)


解説)
だんだん、
深みにはまってるような。
Posted at 22:05 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Oct 07, 2021

少年少女の肖像画

t1

あ、マンスフィールドさん。

この「少女の肖像」(ユゲット)みたいに、
モディリアーニが、子供を描いた作品のことを
知りたいんですけど。

そうねえ。


t2

「管理人の息子」(1918)

モディリアーニは、1918年から1919年にかけて、
画商ズボロフスキー氏の提案で、
ジャンヌや、スーティン、藤田嗣治と恋人のバレーたちと、
南仏に滞在していて、
そのとき、身近な村人や子供たちを描いたの。


t3

「青い上着の少年」(1918)

当時は戦時中で、パリは物価があがり、
ドイツ軍の長距離砲の脅威にもさらされていた。


t4

「帽子を被った少年」(1918)

おまけにモディリアーニの体調も悪くなって、
ジャンヌも妊娠していたから、
いわゆる疎開ね。
南仏に行けば同じようにパリから避難した人たちがいて、
肖像画の注文もみこめるんじゃないかって、
画商としてのズブロフスキー氏の計算もあったみたい。


t5

「青い服の少女」(1918)

この絵にはエピソードがあって、
モディリアーニはいつも、絵の制作と引き換えに、
モデルの子供たちに安い赤ワインの1リットル瓶を
要求していたんだけど、
この子は、間違えてレモネードを一壜もってきて
しまったんだって。

それで素面でがんばって描いたというお話(^_^)。
(キャロル・マン『アメディオ・モディリアーニ』より)


t6

「お下げ髪の少女」(1918)。
この時期の代表作といわれる作品。


t7

「膝で手を重ねる若い男の肖像」(1918)


t8

「座った若い娘」(1918)

これは、お気に入り(^_^)。


t9,jpg

たまきたちが会話している。
なんか最近、
フィギアの画像すくないんじゃない?
手をぬいてるのかな?
そんなことないと思うよ。
いま、誰が言ったの?


解説)
紹介した子供たちの肖像画は、
この時期に描かれたものの一部で、
他にも印象的な作品が
沢山あります。
また現存する4点だけの風景画も、
この時期に描かれています。
Posted at 21:37 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Oct 06, 2021

ジャンヌの肖像 そのさん

e1

ねえ、マンスフィールドさん。
ジャンヌの肖像画について、
もっと知りたいんですけど。
とレイアがいった。


e2

じゃあ、ちょっと別の角度から。
これは画学生でモデルをしていた
ころのジャンヌの写真。
ジャンヌはモディリアーニに会うまえに、
藤田嗣治のモデルをしていたこともあった。


e3

これはネットでみつけた藤田の絵だけど、
タイトルにジャンヌの名前があって、
クレッションマークがついていた。
当時のジャンヌの三つ編みは
有名だったそうだから、
可能性はありそう。


e4

「女の肖像」(1916)
これは、藤田がジャンヌを描いた水彩画ね。

すごくデフォルメされてますね。
でも鋭い目の特徴がよくでてる。

瞳があっちいっちゃってる。
とたまきがいった。


e5

「フジタの肖像」(1919)
藤田はモディリアーニの友人で、
1918年の南欧行きにも同行してる。
藤田はモディリアーニが描いたこの素描を、
終生大切にしていたといわれてる。
これは北海道立近代美術館に所蔵されてる。


e6

はなしがちょっとそれちゃったけど、
とマンスフィールドさんはいった。


e7

今でも、モディリアーニがジャンヌと
初めて会ったのは1917年の7月というふうに
記載されている解説を見かけるんだけど、
実際は1916年の暮れだったとわかったらしいの。
ジャンヌが大切に保管していたというこの素描が、
遺族によって発見され、
「ジャネット(ジャンヌ)へ、1916年12月30日」
と書き込んであったというわけ。

この素描、最初の写真とよく似ているでしょう。
こんなの描いてもらったら嬉しいね。


e8

「ジャンヌ・エピュテルヌの肖像」(1919年頃)
この素描もすばらしいでしょう。


e9

「ジャンヌ・エピュテルヌ」(1918)
これはニースで描かれたといわれる作品。

どうしてこの作品?
もちろん、お気に入りのひとつだから(^_^)


解説)
住人たちの絵画鑑賞は
まだ続くようです。
Posted at 21:37 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Oct 05, 2021

文芸風な鑑賞

e1

たまきやジェニーたち、
和室住まいの一行が美術館にやってきた。


e2

さっそく、「女の肖像」(通称マリー・ローランサン)
という作品を眺めている。

ローランサンって、
パステルカラーの作風で有名な画家でしょう。
蓼科湖畔にあった美術館(注1)に
見に行ったことがあるよ。
とジェニーが言った。
それいつのこと?
と後ろでナオミが訊いている。

ローランサンといえば、
詩人のギョーム・アポリネールの
恋人だった人だね。
と文学青年がいった。
失恋したアポリネールは、
有名な詩を書き残したんだ。

「ミラボー橋」

ミラボー橋のしたセーヌは流れ
  そしてわたしたちの恋も流れる
 せめて思い出そうか
悩みのあとには喜びがあると

 夜は来い鐘は鳴れ
 日は過ぎ去ってわたしは残る

(飯島耕一訳)


e3

これはモディリアーニがアポリネールを
描いたスケッチ(1918年頃)。


e4

アポリネールの写真。
これをみると、モディリアーニのスケッチが
よく特徴をとらえてるのがわかる気がする。
写真は第一次世界大戦に従軍して
頭部に負傷した時のもの。
アポリネールが、スペイン風邪で亡くなったのは
1918年で38歳だった。


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「少女の肖像」(ユゲット)(1918)
を見ながら、
オルセン姉妹がアルと話している。

この絵みてたらお腹すいてきちゃった。
ほんとう?


e6

たまきたちが、「ライモンド」(1915)
を見ながら話している。

レーモン・ラディゲ(1903-1923)といえば、
夭折した天才作家。
「魔につかれて(肉体の悪魔)」(1923)が有名だね。
ラディゲが14歳の時、アリスという10歳年上の女性に出会い、
不登校のため放校処分になった。その体験をもとに、
十代半ばで執筆した作品といわれている。
と文学青年がいった。

うんうん。読んだことある。
とたまきがいった。
ナオミが、いつのこと?
と訊いている。


e7

ラディゲを描いたとされる肖像画のもう1枚。
「レーモンの肖像」(1915)。

「ライモンド」と、同じ人なの?
と、たまきがいった。
「ライモンド」は、鼻の形や口元など、
けっこう様式的な試みをしてるからかな。


e8

これは一説(注2)によると、その対になる一枚。
「アリスの肖像」(1915)。


e9

これはマン・レイが撮影したラディゲの写真(1922)。

19歳の時の写真なんだね。


解説)
注1)マリー・ローランサン美術館。2018年に閉館しました。
注2)ラディゲの才能を見いだしたジャン・コクトーと
詩人・美術評論家のアンドレ・サルモンによると、この、
「レーモンの肖像」、(1915)「アリスの肖像」(1915)の
モデルがラディゲ本人とアリスだという。
この説を紹介している、
「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」の作品解説によると、
作品が描かれた年には、ラディゲは12歳ということになり、
制作年代が一致しない、としたうえで、
「しかし、この本の草稿では、舞台はカフェ・ロトンドであり、
モディリアーニも登場し、アリスとの出会いも書かれている。
また、小説のヒロインであるマルトはモンパルナスの
グランド・ショミエール街にある画塾に通って
絵を勉強している。この二点の作品を関連づけようと
する試みを、まったく無視するのは惜しい気がする。」
とあります。
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Oct 04, 2021

会場のうちそと

g1

これはホビーオフでみつけた花籠。


e2

色合いが、この服の柄によく似てる。
とジェニーが喜んでいる。


e3

服きがえた?


e4

ええ。メアリーと待ち合わせて、
展覧会に行くの。


e5

ジェニー、みんなで展覧会に行こうよ。
早く行かないと、終わっちゃうよ。

ということで、
何人かの住人たちが
新たに展覧会にでかけていった。


e6

会場では、アルがサラに、
「少女の肖像」(ユゲット)の魅力を
力説している。


e7

みてると、食欲がわいてくるから、
ビストロにぴったりなんだ。
そうかなあ。


e8

この絵と交換するなんて
気が知れない。
とベスは思っている。


e9

これは「黒いドレスの女」の連作として描かれたと
いわれている「青いドレスの女」(1918)です。


解説)
最初の画像の花籠は、
手作り感のある小物です。
たまにこういうものがみつかるのも、
ホビーオフの楽しみ。
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Oct 03, 2021

ジャンヌの肖像画 そのに

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マンスフィールドさん。
もっとジャンヌが描かれた肖像画について
教えていただけますか。
とレイアがいった。


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そうねえ。。


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これはジャンヌの写真。
画学生になってモデルをしてた
頃のものっていわれてる。


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これは
「首飾りを着けたジャンヌ・エビュテルヌ」
1917年の作品。
二人が出会ったのは1916年の暮れで、
ジャンヌをモデルにした肖像画では、
ごく早い時期のものといわれている。

前髪の感じや首の傾斜が写真に似てるね。


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「帽子とネックレスをしたジャンヌ・エピュテルヌ」
この絵も描かれたのは1917年。

タッチがかわっている。
首を傾けたポーズや、
首飾りはこれも共通してるね。


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これは「ジャンヌ・エピュテルヌの肖像」
1918年。
前に紹介した作品と
同じ色のセーターを着てるでしょう。
ジャンヌは、この年の11月29日に女児を出産してて、
妊娠中の肖像といわれている。

瞳がなくなってる。
モジリアニ様式の完成形だね。


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「椅子に肘をつくジャンヌ・エピュテルヌ」
1918年。

椅子の桟を利用した
構成が面白いね。


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「ジャンヌ・エピュテルヌ」(1919)
しっとりとした色合い。
全体の構成もぴたりときまっている感じ。
こうしてみてくると、
作風の変化がわかって面白いね。


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「黒い帽子とほっそりした首」
この作品も1919年。
モディリアーニは翌年の1月24日に
亡くなってる。

落ち着いた色あいだね。

余談だけど、この作品は、2013年に
ロンドンで競売にかけられたの。
2690万ポンド(約40億円)で落札されたわ。


解説)
今回はモディリアーニ作品の
紹介になりました。
画像はカタログ等の他、ネットからも
転載させていただいています。
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Oct 02, 2021

会場であれこれ

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マンスフィールドさんが話していると、
アルがやってきた。

こんにちは。
私この近くでビストロを経営してるアルといいます。
とつぜんのぶしつけなお願いで、大変に恐縮でございますが、
さきほどこの展覧会の展示品を鑑賞しておりまして
あの「少女の肖像」(ユゲット)が一目見て気に入ってしまいまして、
きくところによるとあなたが所蔵されている作品とか。
ぜひともなんとか、お譲りいただけませんか。

うーん。それは。

実は私もこの展覧会に作品を貸し出しておりまして、
その作品と交換させていただく、
というのはいかがでしょう。


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これがその作品で、タイトルは
「黒いドレスの女」(1918)といいます。
作品のモデルは不明ですが、
「アール・デコ」を先取りした
ショートヘアがとくに印象的です。


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これは当時モンパルナスの女神といわれた
アリス・プラン(通称キキ)のショートヘアの写真。
キキはモイズ・キスリングやマン・レイ、藤田嗣治など、
さまざまな「エコール・ド・パリ」の
芸術家たちのモデルをつとめました。

とつぜんの写真入り解説は嬉しいですけど、
作品の交換はちょっと考えさせてください。
とマンスフィールドさんはいった。


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ショートヘアといえば、こちらもそうだね。
とサラと鷲尾翠がはなしている。

これは「ピエール=エドゥアール・バラノフスキ」
(1918)っていう作品。
モデルの名前がそのままタイトルになってる。
モデルは、モディリアーニと同じように、
当時パリのモンパルナスやモンマントル界隈に集まってきた
外国人芸術家たち、いわゆる
「エコール・ド・パリ」(パリ派)のひとり。
ポーランド人の画家で、
サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダン
などに静物画や風景画を当時何点も
出品していた記録がのこっているらしい。
男装の麗人みたいにみえるけど男性だよね。


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これは「女の肖像」(1917)っていう作品。
ドルフィンの二階に飾ったばかりだったのを
展覧会用に持ってきたやつだね。
暗い背景に黒い服で、顔と首、重ねた手の
明るさがきわだってる。

背景は暗いけど模様入りの壁紙など左右対照的に
かき分けられて変化がつけられてる。
物思いに沈んでるような表情がしぶくて、
地味だけど見飽きない作品だね。


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ねえねえ、このジャンヌの写真みて。
と、ずっとカタログを見ていたレイアがいった。


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この写真、
なにかに似てない?

なんだろう。

手の組み方、まとってる衣装なんか。


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あ、モナリザにそっくりだ(^_^)。


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たぶん、想像なんだけど、
お兄さんが画家で、自分も美術好きだった
ジャンヌがモナリザのコスプレしたんだと思う。

偶然かもしれないけど、
面白い発見だね。


解説)
もう10月!
ようやく会場に展示した作品の紹介が
ひととおり終わりました。
こういうテーマで関連画像を探索していると、
ついつい時がたつのを忘れます。
Posted at 21:37 in n/a | WriteBacks (0) | Edit

Oct 01, 2021

ジャンヌの肖像画

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レイアは、
「赤毛の若い女性」を見ている。
このひと、ジャンヌじゃなかったのね。


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モディリアーニとその妻ジャンヌの話は、
映画にもなった有名なエピソード(注1)。


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「1898年にモー地方に生まれたジャンヌ・エビュテルヌは、
中流階級のブルジョワの家庭ー父は会計士であったー
の出身で、パリ5区のアミヨ通りで両親と暮らしていた。
2歳年上の兄アンドレも画家だったこともあって、
若きジャンヌは、芸術で身を立てることに魅力を感じていた。
アカデミー・コラロッシの生徒として
モディリアーニの知己を得たジャンヌは、
この偉大な恋人に影のように寄り添い、
人生の苦楽を分かち合ったが、
その生活は常に彼女の家族によって支えられていた。
たとえば、南仏に滞在中の1918年の11月に
ジャンヌが娘を出産した時には
母が手助けにやってきて、居をともにしている。
パリに戻った時には、ズボロフスキーが
グランド・ショミエール通り8番地の
アパルトマンを貸してくれたが、
そこでの暮らしは数ヶ月で幕を閉じた。
1920年1月26日の未明に
モディリアーニがこの世を去ったその翌々日には
2番目の子供を身ごもっていたジャンヌが
自ら命を絶ったのである。」(注3)


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レイアはカタログの解説を読んで、
ひととき、もの思いに沈んでいる。


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隣に座っていたジャンが、
カタログの写真と解説文を目にして話しかけた。

その解説だと、二人が一緒に暮らしたのは、
ほぼ3年間ですね。
モディリアーニは、その間に、どのくらい
ジャンヌの肖像画を描いたのかなあ。

レイアはページをめくって、
「モディリアーニはジャンヌ・エビュテルヌの肖像画を
油彩で25点ほど描いている。
この数はどのモデルより抜きん出て多い。
次に多いベアトリス・へースティングでも、
およそ13点である。
しかし彼女たちは裸婦像として描かれたことはない。」(注3)
って、書いてあるよ。と応えた。

かなりの点数なんだね。
この展覧会には、一点しかないけど、
他の作品もみてみたい。


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側で二人の会話を聞いていた
マンスフィールドさんが言った。
ジャンヌを描いた肖像画だったら。


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「大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ」(1917)
が有名ね。


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「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」(1918)
も有名。どちらも美術展の目玉として、
カタログの表紙に使われたことがある。

卵形の顔に長い首。
瞳のないアーモンド型の目など、
ひとめでわかる特徴が共通してる。


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「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」(1918)
も印象的。モノクロ写真の表情と見比べると、
面白いかも。


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解説)
注1)「モンパルナスの灯」(1958)、「モディリアーニ 真実の愛」(2004)。
注2) 「モディリアーニ展」(2008)のカタログの、
「大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ」の作品解説より。
注3) アサヒグラフ別冊美術特集 西欧編11「モディリアーニ」作品解説より。

絵画作品の画像は、手元の展覧会カタログや、
ポストカード、画集からの転載です。
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