Oct 25, 2021
空想のロセッティ
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文学青年さんも
モディリアーニの評伝、
何冊か読まれたんでしょう。
なにかご感想は?
文学関連で言うと、
モディリアーニが、ダンテから
ボードレールやランボーや
ロートレアモンに至るまで、
いろんな詩句を暗唱でき
たっていう話。
ええ。
これは驚きね。
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「ダンテの肖像」(1495)
サンドロ・ボッティチェッリによる。
評伝を読むと、幼少時からの
一種の英才教育の賜物だったんだろう
っていうことが想像できます。(注1)
なかでもダンテの叙事詩が本格的。
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「ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの肖像」(1871)
ジョージ・フレデリック・ワッツによる。
それで絵画との関係で、いうと、
14~16才の頃、
画塾の課題で、「ラファエル前派」に関する
エッセイを書いたって言う話。
これを合わせると、
ラファエル前派の中心人物だった、
ひとりの詩人、画家の名前が浮かび上がってきます。
その名もダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ。
モディリアーニは、ロセッティの書いた詩「生命の家」を
ヴッェネチア時代に翻訳で読んでいて、
パリ時代にそのことを友人たちに話していたらしい。
アンドレ・サルモンは、評伝「モディリアニの生涯」で、
ヴェネチア時代のモディリアーニと青年たちとの会話や、
ベアトリス・ヘイスティングスとの出会いの場面で、
この逸話をドラマティックに仕立てて、
うまく物語風に使っています(注2)。
なるほど。
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ここからは、それこそ
文学的な妄想なんですが、
それまで単純に絵を描くのが好きだった
モディリアーニ少年が、自覚的に
いわゆる芸術作品としての
「絵画」というものに触れはじめたとき。
14才で画塾に通い始めたころね。
最初に興味と関心をもったのが、
「ラファエル前派」の絵だったとして、
そのなかでも、自分が
日頃親しんでいるダンテと同じ名前をもつ、
ロセッティの描いた肖像画ではなかったのかと。
それって、かなり、
強引な気もするけど。
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「ジェーン・バーデン」(1858)
ロセッティによるペン画
もしかして、その説って、
モディリアーニが、肖像画ばかり描いていたことや、
長い首をもつ人物像へのこだわりも、
説明できちゃうってこと?
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そこまでいうつもりはないですが。
ふつう画風が似てる場合、
それを「影響がみられる」などといいますが、
もっとプリミティブな影響、
表現の規範に関係するような影響を
受けたんじゃないかな、と。
むつかしくて、わかんないよ。
とたまきがいった。
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「ベアタ・ベアトリス」(1877)
これはロセッティの有名な作品。
「本作品は、彼の妻を理想化した
肖像画として、彼女が1862年に
悲劇的な死をとげた直後に着手
されたもので、ほとんど耐えがたい
ほど痛ましいが、ダンテの「新生」
における達することのできない愛の
具現としてのベアトリーチェとして
描かれているため、いっそう
感動的になっている。」
(「ロセッティ展」カタログ作品解説より)
ロセッティは、この作品が
「死そのものを表現しようとしたのでは
まったくない」ことを強調し、
「一種のトランス状態あるいは
突然の精神的な変容によって象徴される
ものをこの主題の観念として」(同前)
意図したとある。
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「裸婦習作」(1908)
「この時期に描かれた作品の
様式的な典拠を明らかにすることは、
彼がその影響をよく消化しているので、
きわめて難しい。、、、。
1908年、この時期に典型的な、
苦悶にみちた不安と内省をただよわせる
裸体の習作を描いている。とくに
興味深いのは、女性を性的にとらえる
彼の傾向がはじめて明白に
現れている点である。昂揚し緊張した
裸体は表出力にとみ、伝統絵画に
みられる受け身で常套的な裸体表現から
は遠く隔たっている。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p60)
このポーズの類似は偶然なのでしょうか。
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関係ないけど、絵がすりかわってる。
誰の悪戯かな。
解説)
今回は
けっこう深みに
はまった感じでした。
絵が変わったのは、
額縁に差し込んであった絵葉書が
外れて落ちていたのでした。
偶然ですが面白かったので撮影。
注1)キャロル・マンの評伝によると、
1886年に、モディリアーニの母親、エウジェニアは、
「自分も働くことで家計を支えよう」と決意して、
「、、、文学批評家であった妹の
ラウラの助けを借りて、知的プライドに
満ちた中産階級の子弟の教育を目的とした、
実験的な学校を開いたりした。彼女の
こうした企ては、活気のない地方都市では、
実に一つの偉業であった。」
友人で地方の名士モンドルフィの援助も受けて
作られた授業のテキストには、
ダンテや、ノストラダムスも入っていて、
「これらのテキストは、デド(モディリアーニの愛称)
が生涯にわたって愛読した文献でもあった。
のちにパリに出てからも、彼は
ダンテを詳細に暗唱することができたし、
肖像画の余白にノストラダムスの予言を
引用して書き添えることもあったのである。」
(キャロル・マン「アメデオ・モディリアーニ」p12-13)
学校が創設されたのは、
モディリアーニが二歳のとき。
彼は幼少時からこの学校で一種の
英才教育を受けて育って、そうした暗唱能力
を身につけたように思える。
注2)アンドレ・サルモンの伝記、
「モディリアニの生涯」には、
ヴェネチア時代にモディリアニが、
二人の年長の青年と会話するシーンがでてきて、
そこでモディリアニがロセッティの詩集「生命の家」
を評価したところ、てきびしく批判されている。
「「きみがそれに惹かれたのはダンテという名前のせいかな?」
「そうかもしれない。」
「気をつけないと、ダンテ=ガブリエル・ロセッティは
きみをがんじがらめにしてラファエル前派に
売り渡してしまうかもしれない・・・ロセッティか!
・・・ぼくもフランス語訳のあの詩を読んだ・・・
楽しい詩だが耽美主義で・・・画家としての仕事は、
最低だね・・・。」
「ダンテ=ガブリエル・ロセッティは、
父の、いや先祖全部の時代のイタリーを思い出して
いるのだけれど、それはちょっとロンドンの通りで
イタリー人のオルガン弾きが思い出している
みたいなんだなあ。」
「耽美主義的な詩・・・耽美主義的な絵・・・
それが一緒になったら、それは目も当てられないね。
〈酷薄な美女!〉」(p47)
評伝では、結局のところ、青年たちの批判は
「女の子が好きで、まだ純心な心の持ち主の
モディリアニを翻弄したか、あるいは生身のまま
引き裂くかした。」とあって、それまで
モディリアーニが、ロセッティやラファエル前派に
心酔していた青年だという設定になっています。
ベアトリスとの対話シーンは略。
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