Oct 09, 2021

友人たちを描いた肖像画

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今回もモディリアーニの肖像画の紹介でいいかな。

どうせやるんでしょう。
どんどんみたいよ。

モディリアーニは親しかった友人の画家たちの
肖像画をいくつも残しているの。


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「シャイム・スーティンの肖像」(1915)

ロシア帝国(現ベラルーシ)の
村で一番貧しかったというユダヤ人家庭で
生まれ育ったというスーティン。
モディリアーニは、スーティンの才能を高く評価していて、
もっとも親しい友人としてつきあった。

「後年、スーティンは、自分に
自信を与えてくれたのはモディリアーニであった、
と述懐している。モディリアーニの描いた
スーティン像を見れば、少しも恩きせがましい
ところは感じられず、むしろ一人の作家として
尊敬していたことが感じられる。」
(キャロル・マン『アメディオ・モディリアーニ』p163)

「生き生きとしたその表現様式は、
パリに到着した頃の礼儀をわきまえない粗野な
スーティンを表すには適していた。
髪の毛をばっさりと裁ち落としたまま手入れもせず、
閉じない口から歯が見えているところなどは
スナップショットに近い。
スーティンの目に映じた光は彼のダイナミックで
直情的な性格を強調しており、モディリアニには
異例の表現だと言える。」
(アネッテ・クルシンスキー「アメデオ・モディリアニ 裸婦と肖像」p40)


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「家」(1920-1921)
この絵はセレ村で描かれたスーティンの作品。

「1920年にモディリアーニが亡くなったあたりからスーティンの
作風に変異が生じる。パリでの人間関係を避け、1920年から1922年に
かけて滞在した南仏セレで描かれた一連の風景画は構図、
タッチともに激しく歪んでおり、精神的不安が反映されている。」
(ウィキより)

「1916年には、スーティンはズボロフスキ夫妻の知己を得たが、
彼らはスーティンの人となりも、
その芸術も評価していなかったようである。
ズボロフスキはなかなかスーティンと契約を結ぼうとせず、
その面倒も見たがらなかったが、ついに1919年、
モディリアーニの執拗な説得によって意を決した。
死を目前に、モディリアーニは友人を自分の画商に託したのだ。
「心配するなよ。僕は旅立つけど、スーティンは残していくんだから。」
しかし、何年もの間、
ズボロフスキによる支援は限られたものでしかなく、
スーティンは貧困のなかに暮らしていた。」
(マリー=クリステーヌ・ドクローク
「モディリアーニ展」カタログ第四章解説より)

後年、スーティンの絵は評価され、絵が売れるようになってからは、
「豪邸に住み、運転手付きの生活を送ったという。」(ウィキ)
しかし、晩年はまた貧困に陥って1943年に病没した。


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「ディエゴ・リヴェラの肖像」(1914)

「 リヴェラはもっとも親しい友人の一人であった。
のちに彼は20世紀のメキシコにおける最も高名な
画家となった。彼はメキシコ政府の補助金を得て
1909年にスペイン経由でパリに来ていた。」
「 パリ時代のリヴェラは、乱痴気騒ぎやカフェでの
激しい論争において、いつもモディリアーニの戦友であった。
「ローレルとハーディ」を思わせる二人の取り合わせは
非常に印象的であった。
体格の立派なリヴェラは陽気で包容力があったが、
モディリアーニはほっそりとした虚弱体質であり、
酒を飲んでいないときはとても内気であった。」
(キャロル・マン『アメディオ・モディリアーニ』p127)

ローレルとハーディって、古すぎてわかんない。
トーキーやサイレントの時代のお笑いコンビね。
後の、このひとの奥さんは画家のフリーダ・カーロ。


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「モイズ・キスリングの肖像」(1915)

「キスリングとモディリアーニが
出会うのは1914年ころらしい。
キスリングとスーティンとマックス・ジャコブは、
モディリアーニが最も心を許した友であった。
彼らは皆ユダヤ人である。」
(島田紀夫「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p88)

「きちんと締められたネクタイ、滑らかな肌、
寄り目、そしてとりわけ明るい赤で描かれた
キューピッドの弓のような輪郭をもつ
上唇によって、キスリングは私たちに
無邪気な聖歌隊の少年と間違えられそうな印象を与える。」
(アネッテ・クルシンスキー「アメデオ・モディリアニ 裸婦と肖像」p40)


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「ルネ・キスリングの肖像」(1917)

「パリの憲兵隊司令官の娘であった
モイズ・キスリングの妻ルネも画家である。
気性が激しかったが、夫とともにモディリアーニを援助した。
モディリアーニにアトリエがない時には、
ジョセフ・バラ街にある自分たちのアトリエを提供し、
画材を貸し与えた。、、、
キュビスム風の形態感覚とするどい性格描写には、
モデルに対するモディリアーニの態度が示されているようだ。」
(島田紀夫「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p88)

髪型が。


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「ジャン・コクトーの肖像」(1916)

これはモイズ・キスリングが、
詩人のジャン・コクトーを描いた作品。
モディリアーニの描いた、
次の作品との比較を。


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「ジャン・コクトーの肖像」(1916)

これはモディリアーニによるコクトーの肖像画。
キスリングによる作品と比較した解説文がある。

「同じ頃のキスリングもコクトーの肖像画を制作したが、
そこでは内省的な詩人がアトリエのなかで
物思いにふけっている姿で描かれている。
モディリアーニの肖像画では、詩人はうぬぼれの強い
伊達者のポーズで描かれている。
モディリアーニはコクトーをやや批判的に
見ていたようだ。」
(島田紀夫「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p88)

「このときキスリングは、詩人コクトーを
感じやすく内省的な人物として捉え、
広い部屋の中でもの思いにふけっている状態で
描いているが、モディリアーニの筆にかかると、
モデルの形態は角ばって輪郭が鋭くなっており、
うぬぼれの強いコクトーに対し、あたかも
正面から挑んでいるかのようである。
モディリアーニの描く肖像に起こりがちなことであるが、
後年のコクトーはこの肖像の姿にしだいに
似てくるのであった
(コクトー自身はこの肖像画を嫌っていた)。」
(キャロル・マン『アメディオ・モディリアーニ』p134)

「そのポーズや顔つきから判明するのは、
モディリアニが紳士気取りのコクトーに必ずしも
好意を抱いていなかったということだ。
ここではぴったりしたスーツに身を包んで座っているモデルが、
椅子の背によってその垂直性をいっそう高められている。
こうして画家はモデルのうぬぼれた性格を誇張したのだった。
他の垂直線もまた人物と背景に目を誘導しながら、
モデルの気取りと痩せた体を強調するのに一役買っている。」
(アネッテ・クルシンスキー「アメデオ・モディリアニ 裸婦と肖像」p46)

もう、コクトー、さんざんだね。


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「マックス・ジャコブの肖像」(1916)

友人と言えば、この肖像もかかせない。

「マックス・ジャコブは、キスリングやスーティンと
同じように、モディリアーニが最も心を許すことができた
友人の一人である。、、、
画家にして美術評論家、魔術師であり哲学者であり
手相見もしたジャコブは、コクトーとならんで
一時はパリの王様だった。」
(島田紀夫「アサヒグラフ別冊モディリアーニ」作品解説p88)

「詩を朗読したり、演説することにかけては、
ジャコブと、モディリアーニは好敵手であった。
しかし人気があったのはつねにジャコブのほうである。
なぜならば彼は、モディリアーニがよく人前でしたように、
騒ぎを起こしたり着ているものを脱ぎ捨てるという
振る舞いはしなかったからである。」
「、、、ジャコブには気品があったことが
(実際の暮らしはどん底であったにも関わらず)、
モディリアーニが彼を一目置く理由であった。
彼は一揃いの夜会服を持っており、ロトンドのような
気楽な店へ行くときでも、ともかく外出するときには
この夜会服を着ていくのであった。
帰宅すると、彼は友人の面前でも、その上品な夜会服を脱ぎ、
きちんとたたんでトランクにしまいこみ、
そしてすりきれたぼろを着るのだった。
ジャコブとモディリアーニの二人はモンマントルでも
よく行き来していたし、やや後になって戦時下の
困難な時期においても、モンパルナスのカフェで
しばしば会った。」
(キャロル・マン『アメディオ・モディリアーニ』p134)

ピカソと共同のアトリエをもっていた人。
モディリアーニはピカソの肖像画も描いていて、
「ピカソは私たちより、いつも十年先を歩んでいる」
といっていたって。

尊敬してたんだね。
後年ジャコブはナチスの強制収容所で病死してる。


解説)
今回も、なりゆきのままの
絵画紹介です。
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