Dec 31, 2007

2007年 今年の仕事

詩 「行合」ルピュール4号 1月
エッセイ 愛詩添想4 ロレンツォ・マビリス「忘却の川」 同
詩「さよなら そして チャオ」 ルピュール5号 8月
詩「六歳の夏 広島駅を通った」付英訳 原爆詩集181人集 8月コールサック社
詩「逝く夏」梨ノオト③ いわき市日々の新聞 11月
詩「深く敗れた」コールサック59号 12月
連載「詩人のラブレター」毎月1回更新 ふらんす堂ホームページ
連載「R66」毎週1回更新 ウェブマガジンあそびすとサイト
エッセイ「私の仕事」街68号 12月

ウエブマガジン「あそびすと」のコーナーは週1回更新の27行以内の小詩の連載で、日常の感想が素材。
今年のいちばん気に入った仕事はルピュール5号の長詩「さよなら そして チャオ」だった。
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Dec 01, 2007

ジョゼフ・デルテーユの『ジャンヌ・ダルク』

この秋、パリの詩人たちの主催するセミナーが相次いでいる。モルポワがフィリップ・ジャコテを読むセミナーをナンテールの第10大学でやっているし、コベールは自分の新詩集『60のキス』(「キス60コ」のほうがいいかな)を読む会と平行して、シュルレアリスムのエロティスムの見直しのセミナーをたて続けに組織している。そのプログラムの中で、「アンドレ・ブルトンとジャンヌ・ダルク」という気になるテーマに眼が留まった。ルーアンの女性研究家の講演らしい。「ブルトンはジャンヌ・ダルクが嫌いだった」とある。デルテーユは南部からパリに上ってきたおのぼりさんで、ブルトンのシュルレアリズム宣言に参加した。彼は叙事詩シリーズの第1作として『ジャンヌ・ダルク』を書き、1925年度のフェミナ賞を獲得した。露骨な滑稽趣味の文体を特徴とし、多分ブルトンと長く協働する作家ではないだろう。ラヴェルの作曲でオペラの企画もあったらしい。このシリーズで、ナポレオン、ドン・ファン、イエスⅡ世(!)など、タイトルを聞いただけでうんざりするようなキッチユぶりだ。
ところで、木曜日に市ヶ谷の日仏学院にクリスチャン・プリジャンの講演を聴きにいったら、2000年4月に来日した前回よりずっと年令を重ねた、しかしあいかわらず美しい、プリジャンがこんなことを言った。「ブルトンは論理的な人で、音楽がわからない。だから、彼の詩は美しいイマージュを持っているが、3行ぐらいで崩れてしまう。」詩は乗り越えられるものだから、プリジャンは吸血鬼のように、ブルトンの美しい血を吸い尽くして、いらないところは捨てるのだな、と、わたくしはひそかに微笑んだ。
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Nov 16, 2007

助成金を探す

詩集数冊、小説数冊、翻訳原稿を抱え込んでいる。某出版社に紹介をもらって小説の提案を持参し、検討してもらった。結果は内容、翻訳に問題なし。ただし、版権、翻訳料、その他の費用の当方負担は困難、何らかの助成金などが見つかれば引き受け可能との回答。ネットで検索したり、友人に問い合わせたり、助成金探しをしたが、今のところなんのあても見つからず。そもそもこの小説は5年ほど前から、引き受けてもらえる出版社を探していた。今回読み直してもなお面白さはうすれていない。作者にも連絡をとったが、実際的な助太刀は期待できない。版権の交渉先を知らせてきたのみ。全体として何か割りの合わない気持がつきまとう。振り切りたい気持と、もっとしんから納得できる地点にたどり着きたい気持とが入り混じっている、悩みの多い冬の入りである。
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Nov 04, 2007

マルク・コベール『60のキス』

日本にフランス文学教師として8年滞在し、帰国後はアンジェ大学で教えている詩人コベール氏から、可愛い詩集が送られてきた。 「80年代に北イタリアピエモンテ州のクネオに短期間滞在して帰ってから書いた詩」と扉にある。コベール氏はニースの出身であることを思い出した。地図を見ると、クネオという街はニースとトリノのちょうど南北に中間点に位置する。コベールは日本に来る前にはイタリアで教えていたと言っていた。ほぼ10センチ角の四角のてのひらサイズ。1ページに2行から4行の短い詩が60個集められている。 礼状でとりあげた詩:

「キスは
散歩の時間を邪魔する
アーケードの数とつり合う」

これってキリコだな、と思った。

「キスは
冬の田舎に向きを定めている
氷が藁葺き屋根でゆっくり解けて
窓という窓の曇りが取れる」

もいい。
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Oct 24, 2007

『白鯨』を返却した

昨日、貸出期限を1週間遅れて町田図書館に『白鯨』を返した。「返却期限は守りましょう」というポスターを見上げながら。前回、期限延長は1回しか出来ません。と釘を刺されていたから、確信犯なのだ。
『白鯨』は本当に読みにくい小説だ。理由はメルヴィルの過度な夢想癖にあると、解説にもある。小説というより、鯨百科辞典というほうが当たっている。だが、おもしろかった。メルヴィルという19世紀末のニューヨークに生きた人物に充分共感が持てるからだ。家が没落し、10代後半から20代にかけて商船員つぎに捕鯨船員になった。ニューヨークという町からはみだしたのだが、捕鯨が真っ盛りの時期で、捕鯨業界は常に人手不足だった。「わたしのハーバードは船上の経験だ」という言葉も素直に納得できる。結局この時期のこの経験がメルヴィルを一生涯支配したといえる。捕鯨船は辛すぎて途中の南平洋の島で脱走した。ランボーはジャワでオランダの軍艦から逃亡したという。メルヴィルとランボーは同じ年、1891年に亡くなっている。メルヴィルは9月、ランボーは11月。メルヴィルの作家としての不運。晩年に20年もサラリーマンをやった作家なのだ。このひとは読者のために物を書いていない。自分のために、というより、自分の思いを文字に変えているのだ。プルーストに似ているが、プルーストより内面的だ。独学の臭みも指摘されている。何となく素人くさい。だが、プロとアマの線はどこで引くのか。出版の当てもなく、生涯小説と詩を作り続けた男。フォスターにも似ている感じがする。
カエールの長詩に取り組む準備が出来た。
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Oct 16, 2007

『白鯨』に戻る

ようやく『白鯨』にもどった。全135章中のいま73章目だから、ほぼ真ん中。今回は一気に最後まで読み終わりたい。この小説の読みにくさは、高校時代にドストエーフスキー全集に取り付いた時のことを思い起こさせる。夏休みの大半を費やして昼間は二階の柿の木を見下ろす窓辺で、夜は布団の中でも読み続けた。夏休みの報告をした時、国語の女教師が、そんなに時間がかかったのって、原文で読んだのと聞いた。その時怒りを感じた。こいつ教育者として認識不足だ、高校生がロシア語を読むわけがないじゃないか!以後、先生を分別するようになった。良い教師と悪い教師はすぐに判別がついた。生徒は愚かだから、教師の評価をそのまま自分の態度にする。優越感のお墨付きをもらったというわけだ。先生に褒められたり、テストが上位だったりすると、トタンにクラスのやつらのまなざしが軽蔑から尊敬に変るばかばかしさ。この女教師の高飛車な質問にマイナス点が付いたわたしはますます孤立した。いじめは教師が作る。教師は教唆犯だ。でも、ドストエーフスキーは好きだった。自意識というものを教えてくれた最初の人物だった。メルヴィルは翻訳でさえ読みにくい。この作家は読者のために書いてはいない。自分の経験と意識を文字に定着しているだけだ。人の意識はこんぐらがっている。読みにくいのが当たり前だ。
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Oct 08, 2007

勘のいい大家さん

大家さんの
鱗造さんが
昨夕
ブログの
入力方法を
もう一度
教えてくださいました
勘のいい
大家さん
ひとりでないんだなって
気づきました
いつもあまり自由にさせてもらっているので
大家さんのこと
忘れてしまっていました
素晴らしい大家さんだなー
と昨夜は安心して
ぐっすり眠りました
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Oct 07, 2007

ブログの入力

少し前から、ブログの入力がおかしい。日付けを入れると、以前の年のその日付けの書き込みが出てしまって、今日の書き込みができない。仕方がないので、空いた日付けを選んで入力するのだが、成功する時と、消えてしまう時がある。そんなことが続いて、書き込もうという意欲がそがれてしまった。書き込みは短距離走をするような感じなので。
『白鯨』に再度とりかかったが、まだペースが乗らない。まとまった時間がほしいと思いながら、漫然と過ごす秋の晴天。
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Sep 09, 2007

ミシェル・ベロフ

土曜の昼下がり、退屈でテレビを漫然とつけたら、ピアノレッスンをやっていた。ラヴェルの「夜のガスパール」のスカルボ。懇切な指導で、ときどき立ち上がって生徒の腕を取って指導している。青紫のワイシャツ姿の、結構たくましい、木工所のおじさんみたいな雰囲気の人だなと思いつつ、見ていた。番組の終わりに、名前が出て、びっくり。えっ、これがベロフ? LPを持っている。ジャケットの肖像は白皙の青年。欧米人は年令が進むとものすごく様子が変わる。でも、自分だってそうなのだな、と、気がついた。上の息子を連れてコンサートに行ったことがある。めずらしく奮発して真ん中の前から10列ぐらいの席を取った。息子が退屈して騒ぐことを心配したが、逆だった。わたしよりずっと集中している様子。終ってから、「ああ、楽しかった」と言った。子供の感受性って計り知れないと、ひそかに感心した。わが人生の真夏の季節…。
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Aug 31, 2007

「白鯨」を逃がした

まだ半分もはかどっていない「白鯨」を貸出延長してもらおうと思って町田図書館のカウンターに行ったら、更新は1回しか出来ないから、一度返すように、明日また借りに来なさいと言われたのが先週金曜日。月曜は休館日だから、火曜日に図書館に行った。ところが所定の棚にわが「白鯨」は見つからない。パソコンで調べると、貸出中とあった。土、日のうちに借りたひとがいるんだ!仕方がないからメール予約の入力をして、今日は諦め、メルヴィルの中篇集を机に持って行って、ざっと目を通した。訳者は違うが、文体、ストーリーなど、「白鯨」 のものだ。こんな読みにくいものを根気良く、読む人がほかにもいるとは。やはりカエールの詩に取り掛かるのは、「白鯨」を読み終えてからにしよう。つなぎに草野心平を2冊借りて帰ったが、これがめっぽう面白い。心平、すごい詩人だなーと感激している。 3日ばかり、冷気が入って救われている。
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Aug 16, 2007

死者に捧げる詩(4)

十字路で二つの哀れな棺を見る。

わたしは中学の友人アドリアン・B のことを思う。
亡くなってから三年になる。
ある夜、彼がひとりでバーにいるのを見かけた
カウンターの縁に。
わたしは車を運転していて
降りて行かなかった。
わたしはこの写真を覚えている
ぼくらは404の白の前にいる三人の少年――
わたしの右はY.G. 彼も自殺した――
それも知らずに奈落の上にかがみこんでいた
ぼくら三人の友だち。

つきまとう辛い思いの風に、わたしは対峙する。


404の白=une 404 blanche 中学生が一緒に写真に写りたがるもの。ゲームか、車か、バイクか、ビリヤードか、ボートか?
 敗戦日を過ぎて、ますます気温が上がる。今日は36℃と予報されている。メルヴィルの『白鯨』を読み始めた。この詩集の第1部を訳すために。分厚い小説なので、今月中に読み終われるかどうか心もとないが、詠み終わらなければ、訳を始められない。追悼詩はこれで終る。南原さん、書き込みありがとうございます。嵯峨さんの『ヒロシマ神話』の後半が読みたいとのことで、青土社の『嵯峨信之詩集』からコピーをお渡しした方もいらっしゃいました。
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Aug 09, 2007

地域防災無線の

 スピーカーから流れる鐘の音と、テレビの長崎原爆式典の鐘の音が重なって響く間、午前11時2分から1分間の黙祷をする。ブートキャンプは苦手だが、黙祷はできる。北村西望作の男性坐像の差し上げた右手の指に白雲がかかる。テレビ画面の3日前の広島では真っ青だった空だが、昨日立秋だったせいか、思いなしか秋に傾いている。この像の足元で記念写真を撮ったことがあった。あの頃は何も思わなかった。ただ、この男性像の顔立ちに好感を持ったことだけ記憶にある。68歳の被爆者代表の男性が6歳当時の思い出を語る。わたしも同年だ。
 ふらんす堂のホームページの「詩人のラブレター」は今月は嵯峨さんの「ヒロシマ神話」です。http://furansudo.com/ で見てください。
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Aug 06, 2007

死者に捧げる詩(3)

  ピエール・クネイプを悼んで

ゆっくり通り過ぎる天使の体重をきみは感じているか?
時間は長い。
聖アントワーヌ病院に、きみは眠る。
どんな苦痛のうちに?
きみの病室のそばに、きみの仲間たちがいる。
他の人たちもここに来て、そして《大の仲良し》がきみに付き添っている、
《きみは息をしている、きみはぼくたちの間
ぼくたち、生きている者の側にいる
きみは命のために闘っており、まだ息をしている。》
今朝、《哀れみについての会話》はとめどない。
わたしはきみの枕元に近づけなかった。
ここ、泣いている子供たちの間で、
きみの値打ちをどう認めようか?
そのうちの一人はピエールという美しい名前を持っている。


きょうは8月6日、殉難の日がめぐってきた。昨夜はヒロシマの原爆被災の少女の痛々しすぎる治療場面を、テレビで見た。今朝、8時15分に地域の防災無線のアナウンスで、1分間の黙祷。その1分のなんという長さ。これから9日の長崎。8月に入ってからの猛暑は「あったこと」のあまりにも辛すぎる記憶と重なって、のしかかってくる。
クネイプ=Pierre Kneip
  《哀れみについての会話》=カトリックの終油式のことを言っているのか?
ピエール=Pierre 石を指す言葉であり、聖書では聖ペテロの名である。
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Jul 19, 2007

死者に捧げる詩(2)

フランソワ=クサビエ・ジョジャールを悼んで

ここに、樫の柩に眠り
地中にゆっくりと姿を消していくのが見られる
それはわたしたちの友である。
わたしたちは彼の上に最後の薔薇を投げ
それからボース平野に視線を投げる。
埋葬されるのはわたしたちの友。
そしてすべてがつれない影絵芝居のよう。
二人の職人がきみの墓の上に身をかがめる
そんなにも正確な彼らの身のこなしがわたしたちの苦しみを吸収する。
わたしたちには死の風は見えない
わたしたちの握り締めた指は何も見ることができない。


四つの追悼詩の二番目は
フランソワ=クサビエ・ジョジャール=Francois-Xavier Jaujard に捧げられている。
ボース平野=la plaine de Beauce シャルトルとシャトーダンの間に広がるパリ盆地南部の平原。小麦の大生産地。シャルル・ペギーの長詩「ボース平野をシャルトル大聖堂に捧げる詩」が思い浮かぶ。
つれない影絵芝居=un théâtre d’ombres sans amour 中国風の影絵芝居。フランスを代表するバリトン歌手ジェラール・スゼーの歌うフォーレの歌曲「漁夫の歌」(テオフィル・ゴーチエの詩)にAh! Sans amour のルフランがある。「つれない」と訳した。
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Jul 05, 2007

死者に捧げる詩

   (遥かに崇高な君たちよ、今はすでに
    君たちの墓を厳粛な苔が覆っている。
             クロプシュトック 轡田収訳)

わたしたちに届いていたこの声、それは彼女だった
悲痛な叫びの中のわたしたちの世紀
アンナよ、きみを知っていればよかった。
きみの町の名前をわたしにくり返し言ってくれ、《ピーテル。》と
弔いの雪ひらが弔いの岸辺に降る
それ以来、地獄の町々をわたしたちは歩き回る――
この買いと売りの地獄を。
詩人の部屋で、きみは厳しい氷の上を滑る女神のようだ。
ああ、きみの名がまだ時代の苦しみではなかった時の
あなたがたの香り、いや
ツァールスコエ・セローの鶯の澄んだ歌を聞こう!


詩集の最後の章は、四つの短い追悼詩から成っている。最初の詩は詩人プーシキンに捧げられた詩。
ロシアの北の都市レニングラード(旧称ペテルブルグ)で、プーシキン博物館を訪れた際の、37歳で非業の死を遂げたロシア最大の詩人プーシキンへの思いを歌ったものだろう。
クロプシュトック=Klopstock フリードリヒ・ゴトリーブ・クロプシュトック(1724~1803) ドイツの詩人。ドイツ近代詩の祖。古代ギリシャ詩形をドイツ語の抑揚のなかへ移し変え、さらに自由律の頌歌(オーデ)を創造し、ゲーテ、シラー、ヘルダーリンらに大きな影響を与えた。叙事詩『救世主』(1748)、自由律オーデ『春の祝い』(1759)他。ここの献辞に用いられているのは「早く世を去ったひとたちの墓」と題する4行3連の詩の最終連の出だしの2行である。轡田収訳によるこの詩の全行は以下の通り。
  「早く世を去ったひとたちの墓」
まちうけた銀色の月よ。
 美しくおだやかな夜のともがら、
  おまえは逃げゆくのか、急ぐな、とまれ、冥思の友よ。
   見よ、月はとまり、雲のみが漂い去った。

春五月の目ざめは
 夏の夜よりもさらに美しく、
  露は光に似て明るく、若芽の巻毛よりしたたり、
   丘からは陽が赤味をさして昇りくる。

遥かに崇高な君たちよ、今はすでに
 君たちの墓を厳粛な苔が覆っている。
  ああ、ぼくは幸福だった。まだ君たちと
   日が赤み、夜がほの光るのを見ていたころは。

アンナ=ピヨートル大帝の姪アンナ・イワーノブナ女帝のことか?
《ピーテル》=ピヨートル大帝の名を冠した都市ペテルブルグ
ツァールスコエ・セロー=Tsarkoie Selo ペテルブルグ(現レニングラード)近郊の皇帝村。ロシア皇帝の夏の宮殿として建設された。1811年ここに開設された寄宿制の貴族学校リツェイに、12歳のプーシキンが第1期生として入学し、、6年間の在学中におよそ150篇の詩を書いた。この村は現在プーシキン市と名を改め、プーシキンを偲ぶ観光都市となっている。
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Jul 03, 2007

謎の闇

(《海上で母牛の乳を吸っている》仔牛のこと)

今朝、わたしたちは真っ暗な空の下を
スクール岬とアルジック岬の間を進んでいく
そして眼の下深くピロールの岩を取り巻く海を眺める
皆黙り込む。スターリンの罠にはまったリュドミラと
戦争の恐怖の中でパウルスを認め、エレンブルグに出会い
かの地で生涯の男、ラービと一緒になった彼女の母のことが思われる。
彼女の孫娘が仲介する
彼女は斧で斬ったへらじかを鞄に入れており
このへらじかはモスクワの地下鉄の中心で血を流している。
妹のリュシルは、ビルの前に立つ祖父のワーニャをわたしたちに見せる
この建物は彼自身がステンシルの型染めで飾って建てたものである。
わたしはプラザ・ドン・ペドロ・クアトロのことを話そうとは思わないし
ばらばらになり、暗い坂の上で生きている者たちのことも話すまい――
そうではなくて、波のうねりのようなこの地上に生れるのを
わたしたちがもう少しで見るところだった――足元のおぼつかない
おさない白い子牛のことを、あなたがたに話そうと思う。


「謎の闇」Obscurites と中題して一篇。ベルイル島の町ロクマリアから、島の東南端を海岸沿いに歩く。このあたりは大西洋に面して岩壁がそそりたち、奇岩が波に洗われている。そのおどろおどろしい厳粛な風景に触発されて、ドイツ=ソ連戦争、スターリングラード陥落時の不思議な一件が思い起こされる。海の上の白い仔牛とは? この謎のエピソードについては、ナチとソ連崩壊後のヨーロッパ人にとってはポピュラーであるかもしれぬが、第2次大戦敗戦後のアジア人にとっては、理解が難しい。だがこの作品があることによって、詩集全体に奥行きが付いている。
アルジック岬=la pointe d’Arzic スクール岬を東に向って海沿いに北上すると、やがてアルジック岬に達する。この一帯は奇岩の多い切り立った岩壁が続く。
ピロールの岩=le Pilor 柱状にそそり立つ岩からこの名が付けられたらしい。
リュドミラ=?
スターリンの罠=1943年ボルガ川下流の工業都市スターリングラード陥落に際して、スターリンが何か策略を仕掛けたのだろうか。いずれにせよ、スターリンが反撃の末、ナチ総司令官パウルス将軍を降伏させる結果となった。
パウルス=フリードリッヒ・フォン・パウルス(1890~1957)ドイツの軍人。スターリングラード攻防戦のナチス側総司令官。1943年、9万の生残り将兵とともに降服。ソ連の捕虜として10年間抑留、スターリン没後解放されて、ドレスデンで死亡。
エレンブルグ=イリヤ・エレンブルグ(1891~1967)ロシア・ソビエトの作家。ヨーロッパ各地に亡命し、1954年小説『雪解け』でソヴィエト知識人の精神の変遷を証言した。
ラービ=オーストリア生れのアメリカの物理学者イシドール・ラービ(1898~1988)のことか? マサチューセッツ工科大学教授、レーダー及び原爆の開発に従事。ノーベル物理学賞受賞。
ワーニャ=?
プラザ・ドン・ペドロ・クアルト=?
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Jun 29, 2007

二つの詩(2)

友は道路の縁にいる そこでは空が広がる。
立って、彼は遠くを見ている
野原は空ろで、霧に包まれ暗い、
山嶺の僅かなはりえにしだが乳白色の太陽に輝いている。
彼は身をかがめ、くり返す微風に耳を傾けているようだ
《出発するべきだ!》と。
彼は道路のふちで世界の縁に立ち
孤独の井戸の上にかがみこむ。
昨日、わたしは湾のそばでも彼を見た
砂の上で光が動くのを見つめていた。
おお、世界の上のきみの母親の叫び声よ!
いつもひとりで、自然の中に座っている
かたや時は過ぎ
空は広がる。


 友の孤独を歌っているが、これほどの親友を持っているのだから、孤独とは言えまい。あるいは、この「友」は孤独な私自身か? ブルターニュ半島では乳色の太陽ほか、ここに描かれている風景はとても典型的である。この詩で気になるのは、最後から四行目の「母の声」である。O le cri de sa mere au-dessus du monde!  友が「母の声」に導かれて命を絶つのではないかと危惧を感じる。必要なだけの言葉で、必要ぎりぎりのことを書いている。言葉の清廉は、人格の清廉に通じるだろう。
友は=Mon ami わたしの友人。家族ではない親しい人。精神的に身内であるひと。自分に近しい人。
道路の縁=au bord de la route 車の通る街道、自動車道であろうが、なにぶん田舎なので、車の行き来もまばらである。
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Jun 28, 2007

二つの詩

古代に近い大型の家畜――食肉用の家畜
ここの山麓と肥えた草の中に生きている――
オーリヤックの屠殺場のために?
オーベルニュ地方は、判官館があり、厳しく、辺鄙な地方である。
《ここで生れたものはサレルス種とチーズ製造小屋に頼ることに決まっているのさ》
農夫のマーニュ・ド・マジユーは言う。
彼は老いの悲哀を耐え忍ぶ
薄れ去った季節の中で。
わたしがこの美しい牝の子牛の首の釣鐘を盗もうとしたら
角がシャツをかすり、引き裂くだろうか?
キリストが刻まれたこのブロンズの釣鐘は
幼年期の世界をもう一度生き直させてくれるだろうか?
だがあそこの群は、角をぜんぶ真っ直ぐに立て
わたし達に対峙している。


次の中タイトルは「二つの詩」。このブルターニュ出身の詩人は世界を駆け回る。今は、フランス中央部マッシフ・サントラルの放牧地に居るのだ。
古代に近い大型の家畜=この地域はラスコーの洞窟に近いので、雄牛、馬、鹿などが豊かに描かれた中の大牛のイメージを借りているようだ。
オーリヤック=Aurillac フランス中央(マッシフ・)山地(サントラル)西部カンタル県の県庁所在地。傘、家具などが製造されている。
オーベルニュ地方=Auvergne アリエー、ピュイ=ド=ドーム、カンタル、オート=ロワールの四県からなる中央山地南部の地帯。南北海岸地帯の奥部で、フランスでもっとも辺鄙な地域として、この地方の出身者は田舎丸出しの形容としてよく引き合いに出されるが、その素朴な人間性を賞賛して、往年のシンガーソングライター、ジョルジュ・ブラッサンスがつくったシャンソン「オーベルニュ人に捧げる歌」はすでに古典で、フランス国中で愛唱されている。
サレルス種=Salers 乳牛の品種。カンタル山麓で飼育される赤毛の大型品種。オーベルニュ地方で作られるチーズは《カンタル cantal》と呼ばれる。
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Jun 27, 2007

ひとり、空しく、傷ついて(4)

暮しの労働に疲れて
苦しむ友人たちのことを思う。
だが海が見える小高い丘の上に豚小屋を
建てるこの若い農夫は嫌いだ。
名のない川が汚染され
蜻蛉の住む谷は暗くかげる。
《借金をする人が豊かになる。》と人は言う。
だが息子たちの眼になにが映るかわたしは想像できない。
わたしたちの館の廃墟の向いに廃屋になった豚小屋なんて
まるで豚の殿様、地べたの殿様では ないか。


「ひとり、空しく、傷ついて」の中タイトルでくくられた四つの短い詩はこれで終る。タイトルがどんな意図を持つかはまだはっきりとはつかめないが、この詩人の詩風、詩想、あるいはひととなりを考えるとおよその推量はつく。日本の「平家物語」の上演についての示唆のなかに、《哀しい戦士》というフレーズがあったが、ゲルマンそしてローマに蹂躙された先史時代のケルトの祖先から脈々と流れ来る痛み、戦いの果てに屈服せざるを得なかった民族の誇りのトラウマが、現在五〇歳代の男盛りの詩人の心さえ、鬱屈させる。この四つの短い詩は、めずらしく透明感のある抒情に満ちている。郷土を愛する家族的な日常を淡彩で描いた絵のようだ。
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Jun 26, 2007

ひとり、空しく、傷ついて(3)

スクール岬で、きみは野生の灰色のあなごの心臓が
しだいに強く動悸を打つのを聞く。
長い間あなたは戦った。
星座の乱れた影を塗り替え
わたしは世界を組み立て直す。
銛が、いちじくの木とただ一本きりの立葵との間に 横たわっている
明日、わたしたちはあなごを食べるだろう。


前の詩に続いて、ベル・イル島南岸東端の町ロクマリアで。
スクール岬=la pointe du Skeul pointeは岬の先端の鼻と呼ばれる部分。Skeulはブルトン語ではしごの意味。ベル・イル島最南端の岬。ロクマリアの町から近い。大西洋に突き出し、奇岩が多い。
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Jun 25, 2007

ひとり、空しく、傷ついて(2)

眼の前でちらちら震えているのはどうも光のようだ。
《ロクマリア》の町はワット島、メルヴェン、リル=オー=シュヴォーのほうへとつながっていく。
「逸話というものは詩の中に生きて埋められるべきだ」ときみは言う、
わたしたちの足元で一尾のかれいが灰色の砂の中をひらひら動き回るように。
二人の息子たちは綿毛に包まって眠っている、
幼年期の穏やかさの中で。
風が立ちますように!
とかげの住む灰色の家は安穏である――
ケルドニ岬の東風が低い戸口から吹込み、
古い階段は一体の彫刻のようだ。


 ブルターニュ半島中部南岸キブロン湾沖に浮かぶベル・イル島の春から夏にかけての風景が歌われている。ブルターニュ最大の島ベル・イル島へは、キブロン半島南端ポール・マリア港から船で約45分。 このあたりはモルビアン県カルナックに近く、ケルト遺跡の多い地域である。
《ロクマリア》=le Bourg de Locmaria ベル・イル島東南端の市場町。bourg は近在の村から産物が集まる市場が開かれる比較的大きい町。ここには灰色のドームの小さな教会がある。
ワット島=Houat キブロン沖のベル・イル島の東隣りの島。巨石遺跡がある。
メルヴェン=Melven 不詳だが、同じく付近の島に違いない。
リル=オー=シュヴォー=L’Ile-aux-chevaux 意味は乗馬の島。不詳だが、同じくこの付近の島のはずである。
ケルドニ=Kerdonis ベル・イル島南岸東端ケルドニ岬から吹いてくる風。
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Jun 23, 2007

ルネ・シャール生誕百年

19年前に81歳で亡くなったシャールは今年が生れてから100年目にあたる。日仏学院に映画と講演を聴きに行った。疲れたがよい夜だった。晩年の11年を共に過ごし、死の1年前に結婚した夫人は、今、リル=シュル=ラ=ソルグ市の助役で、シャール記念館の館長として、著作や8ミリ制作と精力的だ。後を、この人に託したんだな、と思った。わたしにとってシャールは、30代にめちゃ私淑した詩人で、分からずながら、『イプノス…』を1冊まるごと訳してみたり、分からなくて情けなくて、身をよじったことも思い出す。山本功の訳が唯一の頼りだった。いま、いくつかの詩とフレーズを自分のお守りにしている。あの頃ちょっとした文学上の「事件」があって、日本でのシャールの普及が抑えられていた。それでも嵯峨さんをはじめ、自由に読んでいる人もいて、大いに啓発された。今回はそんなもろもろが払拭されて、クリアなシャール像が浮かび上がってほしい。昨夜はその予感を強くした。ボードレール、ランボー、シャール、と、8ミリに写っていたソルグ河のように透明で豊かな水流だ。夫人の聡明でシンプルな美しさと共にうれしい。
南原さん、前々回のカエールの訳への書き込みありがとうございます。とても励まされます。
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Jun 22, 2007

ひとり、空しく、傷ついて

ひとり、空しく、傷ついて
わたしは四月の風に揺すられるままになっている。
風はまだ冷たく、光は
蝶のように
深い緑色の翅を伸ばし
あわただしく浮上がり
そして落ちる。


次の章は短い4つの詩から構成されている。その第1の詩を訳した。
浮上がり=se détache 主語を光ととって際立つとするか、蝶ととって、止っているところから飛び立つとするか。後のほうに書き換えた。
富沢さん、書き込みありがとう。
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Jun 21, 2007

サン=ゲブロックの夕べの印象(3)

わたしたちは古いヨーロッパの船が通るのを眺める
錆だらけの。
巨大な川船が三本の河を航行していく――
甜菜、石炭を積んだ川船。
砂糖から商人たちの富裕がもたらされた。
彼らはその罪の埋合せに、マウリッツハウス宮殿を建築させた。
わたしたちはそこにその肖像画を見に行く
影の支配するその赤ら顔を。
苦悩に立ち向かおうと
挙げた手で作られた二つの完全な円のことを考える
ヴァン・レインよ、きみの顔はわたしたちと地獄との間にある。
自動車道の向こう側に一頭の馬が姿を現し
廃れた農家のそばの
ポプラの間で揺れている。
マウリッツハウスの館の前では
一一人のアマゾンのインディアンが踊った
羽根を広げ、思いを閉ざしたまま。


この連は内容からすると、オランダ、ハーグの印象である。北海に面する国際港湾都市で、デルフトと隣り合う。
古いヨーロッパ=la vieille Europe 年老いた、古風な。哀惜の念の混じる表現。
川船=péniches 砂、建築用材などを河川運送する底の平たい船
マウリッツハウス宮殿=Le Mauritshuis 現在の王立マウリッツハウス美術館。オランダ、ハーグの中心街にある美術館。フェルメール、レンブラント、ルーベンス、ヴァン・ダイク等オランダ美術の粋を収蔵。一七世紀に建造され、ブラジル総督ヨハン・マウリッツ公の居城だった。一八二二年に王立美術館となり、館の主の名をとってマウリッツハウスと呼ばれている。
その自画像=ses autoportraits その金満の館の、古いヨーロッパ自体の、自画像。
ヴァン・レイン=画家レンブラントのこと。フルネームはレンブラント・ハルメンス・ヴァン・レイン。一六〇六年オランダ、ライデン生れ。父はライン川の堤防沿いに住んでいたので、ヴァン・レインと名乗っていた。ここの三行で歌われている内容は、マウリッツハウス美術館の名品の一つ、レンブラントの「トゥルプ博士の解剖学講義」(一六三二)に関する詩人の思いである。
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Jun 20, 2007

サン=ゲブロックの夕べの印象(2)

この血と亡霊の劇は
物事の非永続性の感情を与える。
セーヌ川のほとりの
二〇〇人の紙の人物たちは憂愁の劇である。
わたしは今夜、ストリンドベルイの「夢」を見るのではなく
ここに別の夢が繰り広げられる
「平家物語」から生じた
紙の人物すべてが
わきあがる。
琵琶を持つ男が
舞台照明の下で哀しい戦士たちと交錯する。
蜜蜂は重い戦果を抱えて嵐の前に帰巣する。
彼らは地に落ち、驟雨の下に死ぬ。
菩薩は踊る
死んだ皇后のために。


ストリンドベルイ=August Strindberg スウェーデンの劇作家(一八四九―一九一二)理想主義と嘲笑的な反抗の間で揺れ動く劇的な生涯を送った。「夢Le songe」は自伝的要素の強い劇で一九〇一年作。フランスでは一九二八年にアントナン・アルトーが上演しスキャンダルを招いた。一九七〇年にはレイモン・ルロー演出でコメディ・フランセーズが上演した。一九〇九年には最後の韻文劇「大道」を発表。日本の武士が桜の木の下で切腹するという筋書きの諦念の強い作品。
平家物語=《Dit des Heike》 Dit は中世の韻文物語、例えば「ロランの歌」などを指す。不明だが、「平家物語」がパリで何らかの形式で上演されたとき、カエールも見たのだろう。
琵琶=biwa 日本式のリュート(原注)
菩薩=bodhisattvas 如来に継ぐ格の釈迦の弟子。悟りを求める者の意で、青年時代の釈迦の面影を写す形で表現される。菩薩は複数である。皇后は建礼門院徳子。
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Jun 19, 2007

「サン=ゲブロックの夕べの印象」

J=C.カエール『息の埋葬』の翻訳も中盤に入った。ある雑誌の発刊の試みを知って訳稿の最初の数枚を送って連載を提案したが、返事はなかった。どうしてもそこで、という強い気持ちもなかったので、それはそのままにして、ここまでひとりでこつこつやって来たが、外に出ると、取り残されたような気持が強くなるようになった。私は、今この詩集に取っ組んでいる状態を、今までになく幸せな状態だと感じている。なら、この場を活用せぬわけはない、とふと気づいた。途中からだが、一日分の仕事を載せて行けば求める風も来るかもしれない。
と、ここまでは前置きである:

「サン=ゲブロックの夕べの印象」

風はない。わたしたちは岩壁のそばを散歩する。
むこうにジプシーのキャンプがある。拡声器が
「神」の、正義の神が来ると告げている――
バプチスト派の説教師のあらかじめ録音された声が思い出される。
若者たちがふざけながら遠ざかる。娘たちは教会の裏手でおしっこをする。
わたしたちは海に沿って歩く。
風はない。日が暮れる。

共同洗濯場のそばで話をしたこのジプシーの娘を覚えている。わたしは一六歳で、友達のレストクォイは頭をヘンナで染めていた。わたしは彼らとぶどう畑の火のそばで食事を共にしたが、彼らは畑を突っ切って逃げ去った。

今夜、西でいちばん奇麗なバーから戻る。むこうの、ポルスムールの岩壁の真ん中に木質植物が揺れている。
わたしはサングラスをかけてマット・ヴェーゲウスの『余白の狩猟場面』を読む。広大な風景の中に赤い帽子をかぶっている息子を見分ける。

夕方、わたしたちはケルニック湾に沿って帰って来る。夜になる前の太陽の光が燃える――ラジオが告げる。《ルーマニアでは、ロマの人たちがしだいに虐待されてきている。彼らは森の暗がりに暮らしている。子供たちの排泄物の中には草が発見された。…》国のない人々に夜が降りる。


サン=ゲブロック=Saint-Guévroc ブルターニュ半島北フィニステール県英仏海峡西部に位置する、一二世紀コナン三世時代の古い町。ゲブロックという地名は現在この地方に四カ所あり、その一つで一九世紀にサン=ゲブロック教会が発掘されている。
ポルスムール=Porsmeur 北フィニステール県、英仏海峡に面する海岸沿いの町。
マット・ヴェーゲウス=Mat Wӓgeus 不明
ケルニック湾=baie du Kernic ケルニックの入江とも。北フィニステール県、ブルターニュ半島真北の湾。
ロマ=Roms Romanyジプシー族
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Jun 13, 2007

エルノー、ダリュセック、ウエルベック

アニー・エルノー「シンプルな情熱」、「場所」  マリー・ダリュセック「めす豚物語」、「亡霊たちの誕生」、「あかちゃん」  ミッシェル・ウエルベック「闘争領域の拡大」、「素粒子」  エルヴェ・ギベール「ぼくの命を救ってくれなかった友へ」、「憐れみの処方箋」
ギベールはこれから読む。フランス現代小説をおくればせながら7冊ほど続けて読んだ。トウーサンとクリストフはもう読んでいるから、今回の読書から省いた。自分の年令に近いのが1940年生れのエルノーで、このひとは成績優秀で、労働者階級からブルジョワインテリ階級へと、高校教師の職と、エリートとの結婚で移行を果たしたその内面を冷静に書いて、目に見えない言葉にならない階層差を、べつにインテリが○、工場労働者が×という図式をもたずに淡々と描いているところが人間性の力と言える。彼女より29歳若い世代のダリュセックとなると、自分がブルジョワインテリであるのは当然のこととして、その位置で怖気づかない奔放さを武器に世俗的幻想を展開する。水面に顔を出せるのはこの地位しかない現代、これはこれで戦いではあるのだ。ウエルベックはその男性版。一匹狼で、情報化の進む世界を泳ぎ抜こうとする。この作家たちに共通するのは、自分に対する正直さ。自分を甘やかすのではなく、自分の限界をさとり、そこから自分に可能な生をあますところなく獲得しようとする。日本の作家と大きく違うのは、瞑想生、諦念性がないこと。ぐずぐず考えていないで行動しようという、民族の成り立ちの違い。ただ、騒がしいなあ、どうして黙って静かにしていちゃいけないの?なんでそんなに他人とかかわらなくてはいけないの?といううんざりした不毛感が浮かんでくるのを避けることができない。まったくご苦労様だ、というのが私的感想。
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Jun 09, 2007

死体を診る

 谷口謙さんの新しい詩集『漁師』を読んだ。この詩人は京丹後市の警察医を長いことしていらっしゃる。15冊の詩集のほか、与謝蕪村の研究家でもあり、蕪村についての講演もたびたびされておられる。ご高齢(金曜日夜おでんわをくださり、82歳になりましたとおっしゃっていた)だが、少しも衰えを感じない。15冊の詩集の半分は警察医として検視に当たられた遺体についての記録である。わたくしは「詩学」の合評で初めて読んで以来のファンである。このデータを書き付けただけに見える詩が果たして詩か、という声も耳にしたことがあるが、もう6冊分の詩をずっと読み続けてきた私は、見事な詩業であると確信する。そこ透きとおったポエジイを感じ取るから。今回は、タイトル詩の「漁師」と「宵宮」がとりわけ心に残った。峰山町の金比羅神社内の木島神社の祠を守るのが「狛猫」だというのが、とても面白い。丹後ちりめんで生きてきた土地柄なのだ。生を終えた人を検(み)るという仕事にはどれほどの冷静さが必要だろうか。私の場合、久保覚さんも、長兄も、なきがらのそばに居ながら冷静でいることができなかった。まして遺体から血を採り、触診するのだ。そうしながら、公けの、少ないデータのみでその人の生を想像する。けしてそのための深入りはしない。最近の詩にはその人の生への敬愛が加わってきているように感じられる。もちろん警察医が診る遺体は特例の場合に限られるのだが、よい生の終えかたであるとして安らぐことも増えていらしているようだ。「漁師」は同年のひとへの、毎日海を見ていたという人への、敬愛が静かに流れていて印象深い。
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May 28, 2007

草野心平はショパンが似合う?

 日曜日いわき市の草野心平文学館へ。館長のフランス文学者粟津則雄氏の朗読を聞くため。ピアノとのコラボレーションで、心平の詩14篇が独特のトーンで読まれた。伴奏の曲はすべてショパン。朗読の声との調和が素晴らしかった。これは選曲とプロデュースが優れている証拠。粟津夫人の画家杜子氏の初めての企画だとのこと。ショパンに「子守歌」というピアノ曲があるのをはじめて知ったが、優しいいい曲だ。詩は、「青イ花」というカタカナで書かれた16行の詩が幼い命の極みが詩的想像力で定着されていて(もちろん子供の蛙になぞらえてある)、胸を打たれた。「オ母サン。ボク。カヘリマセン。…ヘビノ眼ヒカッタ…」。心平の詩はいくどか読んだが、どうもなじめなかった。ショパンと調和した今回は「眼に鱗」だ。この建物は緑滴る岡の上にあり、眺望の素晴らしさは逸品。いわきの自然はなだらかで優しい。山懐の集落。女性のからだのような山の稜線。全面ガラス張りで、自然と建物の関係も優れている。駅から文学館行きのコミュニティバスでも通ればアクセスが解決するが。
   若葉風心平ショパン祖父と孫  かおる  
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May 25, 2007

きみもコクリコ

 今年は4月の半ばごろから、道のはし、アスファルトの亀裂などにコクリコの朱色の花弁が目立った。小学校の学芸会や運動会で作った鼻紙の花を思い出す、薄い一重の花弁が風に揺れているのは可愛らしい。支える茎もほっそり糸のようで、白を混ぜた緑のぎざぎざの葉っぱも好感が持てる。2、3年前から外を歩く時に気がついてちょっと不思議な気持がしていたが、今年の春は、そののんきな気持が、1種の危機感に取って代わった。その広がり方があまり激しいので。緑色のフェンスに、鮮やかな黄色の蒲公英と混ざって咲き乱れているのを見れば、ルノワールの絵を見ているような気持ちよさもあるのだけれど、何となくブラックバスを思ってしまう。
 ああ皐月フランスの野は火の色すきみもコクリコわれもコクリコ  与謝野晶子
 多摩の野をおほふコクリコ21世紀  かおる(昨年10月の『街』特集号)与謝野晶子と並べるのは恐れ多いが。
いまはもう、種になる時期で、細い茎の先にペン先ほどのしっかりした筒を付けている。割ってみると中にはけし粒(文字通り)ほどの黒い種がぎっしり。その量の多さにジワーッと寒気がしてきた。大人のはしかがはやって、学校が閉鎖されている。ひとの皮膚を覆ったぶつぶつにダブって、薄い目まいがある。
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May 24, 2007

だれか食べたひとがいる

 今日また件の薮のそばを通りかかって、木苺の黄色い実が見えたので、バスの時間を気にしながらも、ちょっと食べていこうと思って立ち止まり、枝を持ち上げると、なっていたのは1個だけ、元のほうに向かってへただけ並んでいた。へえー、誰か見つけて食べたんだなあ、と、思わず感激。1個はきっちり頂きました。甘酸っぱくておいしい!ごちそうさまです。と、また薮を覗くと、あるある、はぜ、桑、むらさきしきぶ、鼠もち、笹、やぶからし、つげ、水引、つた、しゅろ、柿の木まであった。すごいなーとこれまた感激。1山(薮?)平らにしたら、200坪ぐらいになるかしら。そしたら4軒は建つだろうな、と思うと、こんどは寒気。このままでいつまでいてくれるのだろう、と勝手なお願い。
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May 16, 2007

薮が好き

 駅までの道の端に1箇所だけ残った雑木林。クヌギや楢の雑木の下は薮になっていて。人が入らないように応急の針金が張ってある。だから踏み入ることはできないけど、覗きこむことはできる。一昨日は木苺を見つけてオレンジ色の粟粒のような実を3,4個摘んで食べました。じつは2年前、ここから忍冬を引っこ抜いてきて、フェンスの際に植えた。西側の日当たり抜群の場所なので、今年の春は蔓がどんどん伸びて良く茂り、花もたくさん付けた。今、満開で、夕方雨戸を閉めてしまうのが惜しくて、雨戸1枚分だけガラス戸にしておく。満開といっても、しょせんお里が薮の中だから、洗練された美しさとは言えない。葉ばかり繁りすぎて、なんとなくうっとうしい。薮を覗き込んでちらほらと花を見つけていたときのほうがよかったなと、少し後悔する気持もある。でもでも、いい匂いです。可愛いい花姿です。
蚊の声す忍冬の花の散るたびに   蕪村
忍冬と差向かひたる夕餉かな   かおる
と、背伸びしてみました。
 くだんの薮には、他にも、もうすぐ真っ白く花を付ける野茨や、さるとりいばらや、ガマズミや、 へくそかずら、アオキや、先日覗いたら、楠の子供まで生えていて、まるで宝島。 もう植えるところがないから、抜くのはやめたけど、鳥の声もいつもしてるし、まくなぎまで立っていて、もしまた家を持つようなことでもあれば、こんな薮の庭がいいな。
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May 14, 2007

グラマンなのか

昨日の研究会の席題は、母、見、みね(嶺、峯、峰)、花、働。 出句は3句:
 父の日や働き者の母でありし  1点
 五月晴れ峰打ちくらふ視線あり 1点
 夏服や新システムの稼働率   2点
びっくりしたのは以下の挨拶句:
 有働薫の弾んだ声や夏兆す  
飲み会で、Mさんと話した。福岡県の久留米に近い町のご出身で、大正14年生まれ、16歳で徴用工として、佐世保港のドックで軍艦の修理にあたっていた。修理が終った戦艦はそれを守る駆逐艦を従えて艦隊を組んで試運転をした。ノット数は駆逐艦の方が高いのに、しだいに戦艦より遅れていく。なぜかというと、波が荒いと、波の動きに小柄の駆逐艦は乗せられてしまうからだ。昭和19年5月からは工務兵として鹿児島の飛行場(知覧ではない。鹿児島湾の底に位置する隼人という町から1000メートル山に登ったところにある)で爆撃機の整備をされていた。その話から、わたしが6歳の時、終戦の年7月末、疎開先で機銃の攻撃に遭った米軍機は、グラマンという、羽根を切った一人乗りの小型戦闘機だったらしいことが分かった。6歳の私が見たのは確かに一人だった。グラマンは爆撃機(B29)の護衛機で、昭和20年に入ると、毎日、無数に日本の上空に飛来していた。日本の防衛力はその時にはもうゼロに近かった。かろうじて残りの飛行機を鹿児島に集めて、毎日明け方になると、まず、戦闘機(ゼロ戦)を発進させ、その後、爆弾を積んだ爆撃機(彗星)を飛ばした。沖縄を取り囲んでいる米艦までたどりつき、爆弾を命中させるのが目標だった。飛び上っても、上空では米軍機が受信機を使ってキャッチしてすでに待ち構えていた。 Mさんと私の意見の違うところは、わたしが日本の兵隊として負けたらその時点で義務は終るのだから投降して生還を図るべきだと言うのに、それは戦後の考え方で、当時は御盾(みたて)部隊といって、自分の命を救うなど考えもつかなかった。オーム・サリン事件などでも分かるが、平時では考えられない心理状態なのだと反論された。だからこそ負け方のしっかりしたマニュアルを、捕虜になるな、自決しろなどという乱暴なものではなくて、冷静に合理的に生還を図れるように教育しておくべきだろう。また靖国神社については、感情は半々だ、と複雑さを示された。飲み会での話である。
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May 03, 2007

パトリシア・カース

連休後半は、行きたいところがいくつかあったが、家にいることにした。そう決めると、すっと気持がリラックスした。パトリシア・カースはヌーベル・シャンソンのシンガーで、近頃はテレビ、ラジオによく出ているらしい。日本でアンテンヌ2を見ている人もよくあるが、わたしは見ていない。カースをはじめて聞いたのは、NHK深夜ラジオの番組だ。ふらんす堂のコーナー《詩人のラブレター》http://furansudo.com/にアップしてあるので、よかったら、見てみてください。 一言で言えば、ボーイッシュで、エネルギッシュな歌手である。シャンソンだと言うのは、現在のシャンソンがアメリカの音楽の影響を強く浴びているからで、ジャズ、ブルース、ポップスをミックスした、オールドアメリカのニュアンスの強い雰囲気の音楽。それが、ストレートに心を打つパワーがあるので、1度聞くと、忘れがたい。今年、41歳の女ざかり。ドウタンベルに共通するもの、つまり、女性の自立(この言葉いやだが、とりあえず)をテーマにもっているからだ。こんなにシャウトが自然な女性歌手もめずらしいと思う。北フランスのドイツ国境に近い街の出身ということで、どうもジャンヌ・ダルクのイメージがつきまとう。お母さんはドイツ人だそうだ。
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Apr 30, 2007

またハイク

街の第5日曜は鍛錬句会。朝10時から夕方5時まで、3回句会をする。席題が5つ出て、出句数は自由。1回でほぼ200句くらい出る。5句選んで、うち1句は特選とする。出席者は35人ぐらい。
1回目:席題は水、机、鯉幟、時、肩。9句出した。
主宰の本選と、自分の1点でも入った句を挙げれば:
特選:あめんぼの一ミリ凹み水と空
本選:メーデーや机の下に足あそび
   君が代が騒音となり鯉幟
   休み時間回る新茶の予約票
   時の日に生まれ数学嫌ひなる
自句:更衣肩の怒りの増すごとし 1点
   開店時間前の地下街五月来る 入選
2回目:席題は青嵐、和、神、点、薬。6句投句。
特選:春雨や外階段にひだる神
本選:戦神祀りて瞑し春の滝
   点鼻薬青野の牛が動き出す
   薬袋に蛍を入れて呉れにけり
   靴紐を結ぶつむじや青嵐
自句:夕焼の窓神の国への入り口か 1点
   夕焼や神の国には入れまい  1点
   青嵐クリームソーダの値札読む  1点
3回目:席題は音。投句は1句。選句は3句。
本選:戻されし金魚音させ逆光裡
   貝殻の音の夏山削らるる
自句:音かさとプリンターより青蛙  本選
以上。
というわけで、はじめて本選をもらった。それにしても、お天気のこんなにいい日に1日中机に座りっぱなしで、疲れるなあ。
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Apr 23, 2007

余白と街、2つの句会をれんちゃんする

4月21日(土)は吉祥寺で余白句会、きのう4月22日(日)は横浜で街の句会だった。土曜日、句会後いつものビヤホールでかなり晩くまで飲んで、日曜日も、3次会まで参加して、この3次会は、女性だけのスイーツお茶会で、これが楽しかった。出席はガンバッタものの、肝心の俳句は、点がぜんぜん入らない。確かにダメだなー、と、句会前と句会後の気分の落差の激しいこと。2次会、3次会での率直な会話に救ってもらった。こもっちゃいけない、気持をオープンにして、分かってもらえないだとか、ダメだとかの妄想とたたかうのが、これからの毎日。はずかしながら、以下に投句を挙げよう。
余白3句:
蒲公英は兄貴のボタンか勲章か
たんぽぽのもとは田んぼの黄金郷
紐かわや舌平らかに山椒の香
街3句:
たんぽぽをぷつんと摘めば空虚なり
まじないや咲かずに終りさうな春
<椅子によるマドンナ>青い菫咲く
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Apr 12, 2007

《リリス》に再会――カーレン・ブリクセン『アフリカ農場』

「アウト・オブ・アフリカ」というタイトルでアメリカ映画にもなったことのある、デンマークの作家の大部な著書。1914年から17年間のアフリカ・ケニアでの農園経営者としての経験を書いたもの。ケニアの作家の中には強く反発する人もいて、わたしもどちらかといえば、正義と文化は白人側にありという尊大な態度が鼻に付く。だが、それにもましてこのデンマーク女性のアフリカへの思いの深さ、封建荘園領主じみた夢の国実現への情熱には圧倒される。どこの国の人間であれ、地球上に自分の夢見る国を実現したいという気持は究極の人生の目標になりうるだろうから。そして名訳とされる渡辺洋美の解説によれば、ブリクセンは、渡り鳥に例え得るという。農園が没落してデンマークに帰ってから作家として名声を得た。その果てのない情熱と気力をまるで伝説の「リリト」のようだと言っているのに、びっくりした。第4詩集『スーリヤスーリヤ』でわたしは「母はリリスといった」という詩を書いている。リリス(又はリリト)は聖書以前に存在した伝説で、アダムの妻で魔女。リリスが去った後、イブが後妻となったという話は、日本人には耳新しい話で、最初にこれを知った時にはぎょっとしたものだ。観念としての典型がこのように崩れていくのは面白いと思う。リリスという女(というよりメス)はアダムをしのぐ好奇心の塊で、天国を開く言葉を手に入れてアダムを捨てて飛び去ったというのだ。「しょうがないわね、あんたなんか、トロくて相手になっちゃいられないわ!」というような按配だったかも。リリスは鳥のイメージで、あくなき精力、精神力の強靭さの持ち主にかんじるあの、「うんざり感」を体現する。「自分の理想を実現しようと他人の人生を利用しようとする者の」帰結と解説者は言うが、それは究極の人間の希望ではないだろうか。ヨーロッパ人のほうが、先にその人間の本音にたどり着き、その場をケニアに求めたということなのだろう。ブリクセンはそのパイオニアであり、さらに女性であったゆえに「リリト」とよばれ、人々からうんざりされたのだろう。
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Apr 11, 2007

文京区の歌

 高校時代の親友Kちゃんに数年ぶりで会った。以前は、1月の《女正月》の頃、一緒に演劇を見たりしていた。そのいくどかは同級生だった緒形拳さんの西洋劇だった。彼にはシェークスピアやベケットは合わないわね、でも、いろんな傾向にチャレンジして偉いよね。など勝手な感想で内緒話をしながら。國分さんの会社に行くようになって数年、疲労が激しくて、約束を断ったりして会うのをやめていた。ようやくまた会えるようになった。彼女と話していると、宝の山を掘っているような気持になる。青春という宝の山。今回掘り当てたのは、小学生の頃歌った「文京区の歌」。何かの拍子に彼女が歌い始めて、わたしも付いて歌い出した。「…文読む窓のサワなれば、家おのずから平和あり、都は文化の中心地、わが区は都の文京区」。この歌が村野四郎の作詞であり、この歌の制作発表会が竹早高校で行われたのを、小学生の時彼女は聞きに行ったのだと話されて、びっくり仰天した。「えっ、そうなの、わたしも関口台町小学校でこの歌を習ったわよ、だからうろ覚えだけど、歌える。でも、村野四郎だなんてぜんぜん知らなかった。」「村野四郎は、小学校時代板橋で近所だったの。」「ああ、大江戸の昔より、ここは学びの土地にして、クレナイノチリチカケレバミドリガオカハシズカナリ」と出だしから歌い始めて、顔を見合わせて笑った。高校時代、彼女はダンスがとても上手だった。小柄で、手足が長く、ポーズを取ると、白鳥か、猫のように自然な可愛らしさが漂ってきた。歌も音程がしっかりしていて、コ―リュ―ブンゲンをすらすら歌って、ぶきっちょで音痴なわたしをとてもうらやましがらせた。だからといってけして華やかな美少女風ではなく、もの静かで、地味で控えめだった。どちらかといえばわたしのほうが、失恋やら何やらいつも問題を抱えては、泣きべそで訴える側だった。今度会ってみて、小学校の体育の女の先生に、バレエ学校に行きなさいと進められたと打ち明けられて、なるほど、と納得した。大森駅前通りで呉服店を営んでいたお父さんが徴兵で、戦死なさった。店は空襲で焼失した。お母さんが親類の呉服店に勤めていらっしゃる、と高校時代に聞いていた。「バレエ習いたいなんて、とても言えなかった、とても行きたかったんだけど。」靖国神社をヨコから入ってお賽銭を投げて参拝した。奥の社殿で人が集まっているのを彼女は見ていた。「わたしの父親は教員だったから戦争に取られていないの、学生を引率して勤労動員に連れて行っていたのよ。」初老のふたり、思い出話に泣き笑いの春のデートでした。もう1曲、家に帰ってから思い出した歌がある。「大東京の歌」。「うすみどり、澄みたる空に飛ぶ鳩の白き姿も、おのずから平和のしるし、青春の希望に燃えて…大東京、今日も明け行く。」こっちの方は改まった堅い感じ。こんどKちゃんに聞いてみよう。
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Apr 03, 2007

景観といえば

今年の千鳥ヶ淵の夜桜も素晴らしかった。ただ今年のソメイヨシノは花の色が白っぽい。冬の間充分寒くなかったのが原因らしい。アメリカ人の留学生で、日本の茶道を研究している若い女性も一緒に見物したが、紺色の空を網目のように桜の花が覆いつくしているのを見上げて、まるで空にレースをかぶせたようね、と感嘆していた。地面に立っていないような目まいがする。彼女の灰色を帯びたブルーの瞳もきれいだった。花の数も例年に比べると少ないようだったが、水面とすれすれに伸びる桜の枝との調和はえも言われない。ボートが8時まで乗れて、すっかり出払っている。ボートをこぐ人たちと首都高を行く車の灯りの流れが優雅な桜のマッスに都市の景観を合わせて見事なできばえである。
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Apr 01, 2007

多摩森林科学園

昨日、八王子の桜保存林に花見に行った。家から車で2時間。まだぜんぜん早くて、彼岸系の緋色の数本が咲いているだけだった。ベンチに座っていると、風が冷たかった。1本ごとに名札を付け、大切に、めずらしい木を集めてあるが、景観がすばらしいという感じではない。桜のお勉強風のお花見でした。
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Mar 28, 2007

市川慎一『アカディアンの過去と現在』

仏文の同級生で、学校に残った市川さんは18世紀フランス文学を「おとなしく」やっていると思っていたので、今年定年を迎えるという教授に何度かお会いしてみて、びっくりした。それは彼が大変な行動する学者だと再認識したからだった。ケベコワについては認識があったが、アカディアンについてはじめて教えて もらった。市川さんはたびたびカナダに渡って、現在のアカディアンと接触し、調査を続けていらしたのだ。フランスから最初に北米に移民した人々に苦難の歴史があったということと、現在の北アメリカのフランス語地域の事情がその歴史を抜きにしては語れないということ。言葉の面からさまざまな調査を試みておられる。面白かったのは、言葉は時代と地域によって流動して行くという指摘で、フランス革命以前はroé(王) toé(おまえ) moé(わたし) Y faut(ねばならぬ)であったものが、革命後、 roi, toi, moi, il faut と農民や地方弁が主流になった、(フランス革命がなかったら、あのデュエットの歌手は「トエ エ モエ」と呼ばれることになったのだ!)という指摘や、フランスが戦争が弱くて、せっかく定着した肥沃な土地から集団強制移住を強いられたりなど、イギリスにさんざん痛めつけられたという指摘。妥協的で徹底的に議論しない気質が災いしていたとはどこかの金持ちだが主張の弱い国の悩みの種と同じではないかと思った。フランス 人の、ことに女性はエゴイストで我が強すぎてうんざりしている自分には初耳の話だ。Y.テリオーの小説『アガグック物語』とあわせて彩流社刊。ここのところ、読書が充実している。
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Mar 26, 2007

ドナルド・キーン『渡辺崋山』

横浜に30分ほど早く着いたので、地下街の本屋に立ち寄った。平積みで、キーンさんの『渡辺崋山』が眼に入った。「新潮」連載したものが単行本になったらしい。わたしはこの連載を知らなかった。しばらく立ち読みして、カラーの絵の多いのに驚いた。「オルフェ」にいた頃、豊橋に旅行して、崋山の家の跡を見学したことがある。帰りのバス停までの遠いのがとても辛かった記憶がある。それは、崋山の死について知ったばかりの辛さと重なっていた。キーンさんが崋山をとりあげたことには、衝撃に似た喜びを感じる。豊橋の人たちは、今でも心底から尊敬しているという感触があった。その折に買った絵葉書の中で、どうしてもひとに送りようがない2枚が手元に残っている。長男への遺書と、縄を打たれている状景の素描だ。キーンさんは、優れた画家として描いているが、もちろん時代の認識者としてのするどい 知性についても触れ、あまりにも不運な人であったと悼んでいる。こういう人が前の時代にいたのだということを知ることは、自分の人生にとっても大切なことだ。それ以来、意識のうちにそういった思いがずっと沈んでいたので、暗いトンネルの先に明かりが見える思いがした。遅く帰ってテレビをつけたら蜷川演出のアヌイの「ひばり」をやっていた。岩切さんの訳で、わたしは2月の早いうちに見た。
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Mar 23, 2007

うららか

俳句の人たちと上田市の別所温泉に吟行した。遠山に雪が白く空に映えてこころ洗われる2日間でした。そして、何よりも「山かいの小さな寺の/池に浮べた常世への石の乗りもの」にかわるがわる乗ってみたこと。この詩を以前は暗記していたのだが、今はそらでは言えない。
帰った翌日の夜、イサクから電話で、会社を休んでいるという。めずらしいことだ。月曜日に勤務中に高熱が出て早引けさせてもらったとのこと。アパートで1人で熱を出して寝ているのも心細かっただろう。
けさ、庭(道よりの半分を駐車場にしたので、庭とも言えないただの空地)に下りると、先日までの寒気がすっかり取れて、うららか。うれしいことに、父の故郷の菊池市の墓参りの折1,2株崖のふちから抜いてきた、白花の菫が消えてしまわずに、葉を日にかざしているのを見つけた。花はまだ。どうしても崖が好きなようで、盛り土の崩れかけたはしにあぶなかしくへばりついている。母とした墓参りはもうずいぶん昔のことだ。
去り難き椿の岸辺石の舟   かおる
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Mar 16, 2007

A.チュツオーラ『やし酒飲み』

1920年、西アフリカ、ナイジェリアのアベオクタという町に生れた。労働者の子供で、さまざまな仕事をした後、労働局の小使いという退屈な仕事を紛らすために書きなぐった物語がこれで、知的な階層からは、ナイジェリアの恥だという顰蹙もあるという。アフリカ人の代々の血から噴出した、本来ならヨルバ語で書かれるべきところを「稚拙な」英語で書かれて恥ずかしいというのが顰蹙の理由だということだ。「英語の単語を使いながら、じつはヨルバ語を語っている」。ここに文化と言葉の大きな秘密がある。この物語の奇妙さ、インパクトの強さは初体験である。 「南へのバラード」の続編を構想するための読書の1つ。 「ジャンヌ」について何か自分自身の観点が見つかるまで休眠(と言っても、しじゅう頭の中にはある)する間、「南」への探索も怠るまい。
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Mar 12, 2007

エミリー・ディキンソン詩集とシラー「オルレアンの少女」

昨日予定より1時間近く横浜に着いたので、駅ビルの書店に立ち寄った。詩のコーナーが移動して、見つからないので、しばらく探し回った後、観念してレジで訪ねた。案内してくれた新コーナーには、金子みすずと千の風、谷川俊太郎とあと少しだけ。ショックだった。これなら町田のブックオフの方がずっと充実してるなーとつぶやく。アメリカ詩の解説本をしばらく立ち読み。足が疲れてきたので、そこを去って文庫の棚に行き、ディキンソンを見つけた。それと平積みの復刊にシラーの戯曲「オルレアンの少女」を見つけてびっくり。やはり書店には何かサプライズがある。この2冊を、緊縮財政にもかかわらず、購入した。帰宅後、夜中にテレビを音声ゼロにして、走り読みした。ディキンスンは今取っ組んでいる訳にどうしても欠かせない。伝記、代表作などを拾い読みした。共感するところ多し。「オルレアン」のほうは、なんともはや、としかいえない。脚色もここまで来るとばかばかしくて読んでいられない。やはりショウが最も優れている。ショウには品格がある。ヴォルテールとシェークスピアのいんちき魔女呼ばわりに反発して書いたというが、ただの愛国少女で、荒唐無稽。もうこのへんでいいかという先日の感想がやはり妥当に思えた。
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Mar 10, 2007

バーナード・ショウの戯曲「聖女ジョウン」

これとシェークスピアの「ヘンリー六世第1部」の2つの戯曲は敵側イギリスの側から書かれたジャンヌ・ダルクで、とくにショウの「聖女ジョウン」は極めて冷静で鋭い優れた作品であることが読むとわかる。戯曲の面白さとしては、多少長台詞が多いので、退屈かもしれないが、ショウの興味が、ジャンヌそのものよりも、ジャンヌをどう考えるか、の方に重きを置いており、一言で言えば、神と普通の人間との間に牧師や貴族が介在することに対する個人の精神の反抗であると極めて明快に整理し尽くしており、さらになぜ聖女であったかについては、命を救われても、教会の牢に囚われたままであるならば救われはしないとしたジャンヌがむしろ死ぬことを望むという結末になって、かなり近代人的な解釈になっている。わたしはこれはすとんと落ちて、もうこれでジャンヌ問題は、自分としてはいいかな、とも思わせられた。このへんでいいのではないか。他の登場人物の描き方も、極めて冷静で人間的。例えばジル・ド・レエは、《すこぶるお洒落で冷静な二五歳の青年で、みんながひげを剃っている宮廷の中で、ひときわ目立つように、…伊達男。努めて機嫌のいい振りをしようとしているが、自然に備わった朗らかさがなく、本当に愉 快なのではない。…》とト書きにある。ジャンヌについても、《体格のいい一七,八歳の田舎娘で、かなり上等な 赤地の服を着ている。顔つきは尋常ではなく、非常に想像力の強い人間にしばしば見かけるように、両目はひろく離れて、とび出している。鼻孔が大きく鼻筋の通った形のいい鼻。短い上唇。意思的で、しかもふっくらした口。負けん気のつよそうな美事な顎。…》というような具合。目の前に見えるようだ。二五歳のオルレアンの守備隊長デュノアを含めて、シャルル26歳、で、この歴史的な大事件を牽引したのは25,6の青年たちだったことがわかって面白い。活動的なロックグループという感じだ(とはいえ今で言えば30を越した分別盛り)。「ヘンリー六世」のほうは、いかさまのキチガイオンナとして描かれており、とても読んでいられない。同じ人間がこれほど別の人格に作られているのもまた珍しいのではないだろうか。
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Feb 28, 2007

青髭

青髭公、こと15世紀フランスの将軍ジル・ド・レは大変興味を引かれる人物である。ことにこの人物がジャンヌ・ダルクとともに闘い、ジャンヌの死からわずか9年後に同じような死に方をしている史実にぶつかるとなおさらのことで、20世紀の作家ミシェル・トウルニエは、この二人の間にはかなり心理的な交渉ががあったとの想定で、小説を仕上げているのだが、ここで、ジョルジュ・バタイユの「ジル・ド・レ論」を読むと、この冷静な分析家にかかると、それは作家の空想に過ぎないことになる。その理由は、ジル・ド・レは国王軍元帥であったものの、まるで「子供」(それも邪悪さに限界がない)で、歴史を動かすような人格は持ち合わせていなかった、ということになるからである。ただ、人間としてのある面を究極まで生きざるをえなかった悲劇的な人格として、バタイユの関心は情熱的である。つまり、計算や裏のある悪意は思いもよらない、軽率で愚鈍な、いま考えるような恋愛をするような成熟した人格には程遠かった。ジルが挙げられた罪は3つ、ほぼ14年間に及ぶほぼ140名にのぼる幼児の凌辱と殺害、そのスケールが人々を震え上がらせる、降魔術の度重なる実行、これは火刑に値する異端行為とされた、聖職者不可侵性の侵犯、これは具体的には財政的に窮乏して手放した土地を暴力で取り返そうとして聖職者を拉致して人質にした罪。戦争による殺戮ではない、「何人の意見に従ったわけでもなく、あくまで自らの意志から、自分の想像力の赴くままに、自分の快楽とその肉の楽しみのため」暴力を実行するこれほどのモンスターは歴史の中でもめずらしいというわけである。トウルニエとバタイユの人間の解釈の仕方は、だから、まったく正反対で、トウルニエによれば、ジルの恐るべき蛮行は人間関係の極度の断裂から頭をもたげ始めたもの、バタイユによれば、人間関係を築き上げる力のまったく欠如した幼児性の静まり返った孤独から浮き上がってきたものと考える。作家と評論家のものの考え方の違いと言ってしまい、どちらかに傾きすぎると、何か取り落とした事実が残るような気がする。必要なのは結論ではなく、考えていく過程に触れることのように思う。いま、ぼつぼつと奇怪な殺人が起こっているが、そのおおもとの坩堝のような人物。それも、裁判記録によれば、少年期の放任に原因があるようだと、ジル本人が認めている。人間というもののあやうさ、人間、このモンスター。
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Feb 26, 2007

夜寝る前に

苦しいと思うことが近頃よくある。体調のことではなく、昼間、自分の周りがシーンと静まり返っているのを、一日が終るに当たって思い返し、切なくなるのだ。たとえば、今年の夏に、また詩の会を町田でやろうなどの話があったりするが、そんなことは一時しのぎに過ぎないと思う。この苦しさは人に訴えるものではなく、自分の中で解決するべきもの。苦しさの敵は何か?やっぱりそれは異文化だと思う。自分の身内にいる敵。敵であり、相棒であり、生きがいであり、ほとんど自分自身である敵。明け方にこんなイメージを持った。阿古屋貝は、殻の中に進入した異物を自分の内側の皮膚をふやして覆ってしまおうとする。それに目をつけた人間が、貝を死なない程度に開いて、異物を挿入する。そうやって何万個も紐につるして海に吊下げておく。貝の悲鳴が聞こえる。貝は異物を抱えさせられたまま、生かされ続ける。残酷な拷問だ。
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Feb 19, 2007

異文化を生きる

 いそいそと腐敗遠のく余寒かな
 春雷来手のひらでカスタネット打つ
 追うて来し恋猫お茶を出している
余白句会の3句。いそいそが2点、春雷がゼロ、恋猫が1点。そして、批評も、主語がぶれているというわけ。それで考えてみたが、わたしはこれでいいのだと結論に達した。やればやるほど、俳句が異文化に感じられる。自分とのそりが合わない。人に言うと、自分を捨てないからだと言われる。そうじゃない、捨てれば捨てるほど、反発が強くなる。これはいったいどうしたことだろう? 第一詩集を出した時、花鳥風月がないと、ある人から感想をもらった。文化の基礎が異邦人だということか。いいえ、わたしは日本人ですよ。わたしはそう言えるが、言えない人はどうするだろう? 2,3日前アメリカ人の禅僧の対話を3チャンでみて、ああ、と思った。この人は、座禅に苦しんだ挙句、最後に「鏡が窓になった」 と言っていた。テレビの画面で見ても、透き通るような感じだった。50代のはじめぐらいか、なんだか痛々しすぎる気がした。 異文化を生ききることの凄惨さを思った。 はじめのうち寅さんが猛烈いやだった。今は、寅さんが好きだ。 でも、なぜあれほどいやだと思ったのか、そこに自分というものの置かれた文化状況があるのだと、時々思う。
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Feb 10, 2007

訃報が続く

品田先生が亡くなられた。 12月のクリスマス会ではお元気だった。 夏に倒れられて、お元気になられたばかりだった。 先生の翻訳書を、4,5冊天沼の家で見つけて、こちらに持って帰ろうと思っているうちに、母が入院して、天沼に看護に行かなくなったので、そのままになっている。会報「レシナダ」にルイさんのことを書かせてくださったばかりだった。 わたしも、先輩方には不義理ばかりだ。しようが無い。
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Feb 06, 2007

三木宮彦さん

昨日、郵便受けから取り上げた葉書におもわず呻いた。年末に父上を101歳の天寿で送られたと知らされていた。昨日の葉書は三木さんが昨年12月11日に亡くなられたとの知らせで、奥様から添えられたメモによると、1年半の闘病だったとのこと、『ジャンヌの涙』をお送りしたのが2005年8月のこと、8月18日付けで返事のお葉書をいただいている。そこには、私が多々引用させていただいたご本『ジャンヌを旅する』についてのコメントもあり、また《「お使いの川」などたいへん身近に感じます》ともあるが、なにも三木さんご自身の健康に関することは表れていない。『ジャンヌを旅する』は2004年4月の発行なので、2006年12月から1年半さかのぼると、2005年6月、この素晴らしく個性的な本の出版からわずかに1年2ヶ月のことだ。こうして年月を追ってみると、ひとの命が瞬く間に燃えているのがわかる。あらかじめの許可なくこの本からさまざまな引用をさせていただいた(もちろん本の中では注を添えてその旨お断りしてあるが)ことに多少の危惧を感じながら、ともかくも真っ先に贈呈に添えてご挨拶とお詫びをしたためたのだったが、そのご返事があまりにも100%の燃焼を思わせる純度なのを「意外」と感じて、びっくりしたのだった。その後『星宿集』と題するお詩集もいただき(この中には忘れがたいソネット数編が含まれている)、ムーズ川のカラー写真も送っていただいている。闘病なさりながらのことだったに違いない。ひとは自らの命を語らず、愛する人の命のみ語る。たくさんの恩恵を受けながら、お眼にかかることもなくお別れし、わたくしにとってまさしく「古典」となられたという感じがする。

 道の辺に御堂かたぶき雲の峰
   「旅中即事」として
  お詩集『星宿集』の扉に書いてくださった三木さんの句である。
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Feb 04, 2007

歌劇「ジョヴァンナ・ダルコ」

ヴェルディが若い頃作曲した歌劇で、「椿姫」の名声の陰に、テレビのウラ番組的な位置に置かれてしまっている、ジャンヌダルクの歌劇である。DVDで5900円。ぜひみたい。ボローニャ・歌劇場の上演で、リッカルド・シャイーの若い頃の指揮。これも見たい。
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Jan 29, 2007

まだ子ども猫の死骸も日向ぼこ

4,5日前のことだが、ご近所から電話をもらって、オタクの猫は元気?ときかれた。ふたりとも日向ぼっこしてのびてるけど、と返事をした。電話の話だと、近くの道端に猫が死んでいて、オタクの子に似ている、というわけだった。電話の奥さんと現場に駆けつけた。まだおとなになりきれていない、灰色っぽい猫が口を少し開いて横向きに手足を投げ出し、いつかうちで死んだ子と同じ姿勢で死んでいた。体中の毛がぬれてどんな色の猫かよく判断が付かなかった。まだこどもね、かわいそうに、濡れて凍えたのね、やせてるね、車じゃないらしい、どこにも傷はないもの。電話をくれた奥さんが家に帰って市役所に電話したところ、保健所にかけるように言われて、午後2時ごろ引き取りにいくからと、現場の位置を詳しく聞かれたそうだ。奥さんの住所も教え、何もしないでそのままにして置いてください、と指示されたと、古タオルでもかけて置こうか、と言ったわたしを制止した。3時過ぎにまた二人で見に行ったら、もう跡形もなく、引き取られていた。奥さんが塩を一つまみ草の上に撒いて、手を合わせたので、わたしも一緒に手を合わせた。うちへ帰ると、上と下の日当たりのいいガラス戸のそばにふたりとものびていた。
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Jan 16, 2007

それから西へ、そしてさらに南へ

 ――みなさん、ジャンヌに言及していますが、わたしは断然「南へのバラード」ですね。極言すればこの一篇があればこの詩集はじゅうぶんだとさえいえるとおもいますね。
 上記の引用は一昨年8月に出版した『ジャンヌの涙』についてある人からいただいたはがきの一節。それをいま引用したのは、この1年あまり、「ジャンヌ、ジャンヌ」で暮らしすぎたようだと、気がついたからだ。残りの時間をどう生きるか、を考えるとき、ようやく見えてきた一すじがあって、そのイメージはわたしをとても落ち着かせてくれる。
 私は両親が農家の出身なので(一度確かめに両方の土地を訪れたことがあり、その経験が私に断定的な言い方をさせてくれる)、自分が定住型だと思っていた。今居る場所に落ち着けないことは恥ずかしいことだと、ひそかに思っていた。だが、両親の親たちがその土地に定住していたほどには、じぶんは定住すべき場所にいるわけではないと最近何となく感づくようになった。父母が動いたのだった。自分も動いていっていいのだ、その時自分の精神が活性化し、別の自分が表れて来るかもしれない。見えていなかったものがきっと見えるだろう。
 「南へのバラード」は詩誌『ミッドナイトプレス』2004年夏号に掲載された作品で、そのモチーフにはモデルがある。そしてそのモチーフは自分の6歳の時の戦争体験とどこかでつながっている感じがする。残りの時間のなかで何かを分かろうとすれば、もうテーマは出揃っているはず、ぐずぐずじっとしていてはダメ。
 一日じゅう一人で居ると、ふと「ジャンヌ、ジャンヌ」という声が聞こえる。ドンレミイ村で毎日のように聞こえたという声は、ひとり幼いジャンヌにでなくても、瞬時に時を超え、はるか21世紀になってもやってくる。伝説はいくどとなく否定され、いくどとなく蘇る。

 九分通り癒えてカイロを捨てにけり  かおる
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Jan 09, 2007

新年おめでとうございます

 今年は年初の休暇が長かったので、「実家」のがわからすると、負担が大きかった。30,40代の現役勤労層はずっとオーバーワーク続きなのを目にしているので、久しぶりにゆっくり骨休めが出来た年初だったかもしれないから、老齢家庭の多少の負担増は致し方ないのかもしれない。だが正直言って、自分のことは全て後回しになる感じ、これは小泉内閣の弱小消費者へのよりかかりがいよいよ来たなと、なんだか空元気を強いられる正月だった。いつまでも息子、娘世代が心配な60,70代の退職世代のお父さんお母さん、ゆったりした老後像が次第にぼやけてきているお祖父さん、お祖母さんに、お疲れさまと言いたい9日目である。サーてそろそろ年賀状の返事でも書こうかなと思えば、もう気が抜けている。アー疲れたと、まずは静まり返った家の中で、ぐだぐだするのがいちばん。でもこうもしていられない、去年から持ち越した仕事を終えなければと、思うよりはやくもう肩が凝っている。

松取るや猪の気もからっぽに  かおる
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