Aug 09, 2007
地域防災無線の
スピーカーから流れる鐘の音と、テレビの長崎原爆式典の鐘の音が重なって響く間、午前11時2分から1分間の黙祷をする。ブートキャンプは苦手だが、黙祷はできる。北村西望作の男性坐像の差し上げた右手の指に白雲がかかる。テレビ画面の3日前の広島では真っ青だった空だが、昨日立秋だったせいか、思いなしか秋に傾いている。この像の足元で記念写真を撮ったことがあった。あの頃は何も思わなかった。ただ、この男性像の顔立ちに好感を持ったことだけ記憶にある。68歳の被爆者代表の男性が6歳当時の思い出を語る。わたしも同年だ。ふらんす堂のホームページの「詩人のラブレター」は今月は嵯峨さんの「ヒロシマ神話」です。http://furansudo.com/ で見てください。
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嵯峨さん
詩人のラブレター拝見しました。
ひさしぶりに嵯峨さんの詩句に触れてなつかしさとともに、生前の氏の厳しさの中に秘めたやさしさみたいなものをあらてめて思い出しました。
詩に対して迷いがあったぼくにとって、確信を持っているように見えた嵯峨さんは一種近寄りがたい恐い先生でした。詩学の会でぼくは何人かの若者に混じって、ただ嵯峨さんの言葉に耳を傾けるだけでしたが、いまでもその表情を思い出します。
今回、とりあげられた詩句も嵯峨さんの詩心の鋭敏さと的確さを如実に示すものだ思います。
英訳もよくできていると感心しました。
有働さんのお話は、「ひとは死をまぬかれないわけですが、死ぬなら安らかに死にたいものだ」ということを再認識させてくれました。
Posted by じゅうし at 2007/08/09 (Thu) 13:04:25
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