Sep 29, 2006
弟の個展
今日デイケアから帰ってきて、しばらく彼女の帰りを待っていたら、小さな疲れがやってきた。ここ3日くらいずっと、仕事や何かで外に出ていたので、気の疲れが出ていたようだ。風呂から上がって、今現在は、マシになっている。それで今日は私の弟の個展を見に、谷町6丁目のギャラリーそらに行ってきた。題して「いしかわたけしごと」。いつもうまい題名をつけるなあと感心してしまう。
それはともかく、私は「本性」という2分連作(写真はそのうちの一つ)に引きつけられた。本性を隠しているようにもみえる顔の絵なのだが、本人の顔なのだろうか、好きな人の顔だろうか、嫌いな人の顔だろうか。もっと普遍的なものを感じた。それでいて、たぶん誰かではあるのだ。顔だけ描くというのは不思議な行為に思えてくる。弟の作風はどんどん変化するのだが、ここ数年は淡いタッチで、悲しみや、もっと深い感情を描いていた。今回は鋭い線が強く出ている。しかし、いずれにしてもポップといえるだろう。「顔って不思議やね」と話しかけたくなる。それでいて、突き放す強さを持っている。顔はいつだって両義的なものだと物語っているようだ。私たちは顔を見るだけではなく、顔を誰かや何かにさしむけている。見られ、感じられている。そして、顔は暴露し、隠す。隠すことで何かを訴えている。描くことで、それに近づいては遠ざかる。そうだ。それが「描く仕事」であり、「隠し事」であるかのように。「いしかわたけしごと」は小さな個展でありながら彼のまる「ごと」も少しは覗けるのではないか。作品とはそういうものかも。彼はどんどん大人になっているが、何かを覗いている少年のようだ。個展は明日で終わりです。
猫月亭さんと話していたら、村上春樹の話になり、これまで、彼の小説はほとんど読んでいたのだけれど、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」をこれまで読むきっかけがつかめなかったと私は云った。いい機会なので読んでみようかな。
電話
昨日、今日と仕事。今日は一人お休みされていたのだが、にもかかわらず、スムーズにはかどる。作業が滑らかに進む感じがする。私の仕事は2時間ばかりの建物内のトイレ掃除や、部屋の掃除だったりして、使うものもデッキブラシとか、モップなど古典的な道具が活躍するのだが、そういうものはリアルに磨り減っていくので、「してる」感が大きいのである。同僚の方と話していて、同僚の方は早く眠くというかだるくなってしまうので、少し困っているという話をされていた。私は薬の力で寝ているが、薬を飲まないと、どうなるかというと、眠りがとても浅く、次の日がだるく半日ぼんやりしてしまう。夢は十本立ての映画を見るようで、面白いどころか疲れるのである。寝言もひどいらしい。たぶん、ある種の力のコントロールが出来ないのである。薬を飲むと夢は普通に二本立てとかですむし、起きたり寝たりということもない。詩の先輩と初めて電話する。私はドキドキしていたが、気さくに話してくださっていたのでありがたい。私はずっと関西の人間なので、関東の言葉使いは不思議に聞こえる。楽しかった。しばらくウキウキしていた。でも、生駒山の方向を聞かれて、どっちだったけとわからなかったので、私が天然なのが、ばれたと思います。
Sep 28, 2006
モノガタリ
基本的に、調子は普通なのであるが、時々もの思いにふけっていることがあり、これは何だろうなと思うのです。秋だから?うーん、ちがう気がする。時々あたまのネジを巻きなおしてやらないといけません。むかしっから、ぼんやりして一人考えに走りやすいので。自分は、どんくさい人間だと思うのですが、賢いことを書いたり、云ったりしたくなることがあります。そうしないと、昔はバカにされるような気がしてたから。負けたくなかったので(何と戦ってたのかはわかりませんが)本を読みました。本を読むとどんどん一人になっていきました。それで、それではいかんと、からだを使う仕事に急に方向転換したりしたのですが、介護の仕事をしたりしてガンガン勝負していったわけなのですが、病に倒れてしまいました。いろんな人に助けられて今はかなり大丈夫になってきているが、何ごとも恐る恐るです。ちょうど自信のない状態に戻った。無知の知にはまだまだで、何を知らないか、まだわからない点があります。何を語ってもモノガタリになってしまいます。明日も仕事です。
Sep 26, 2006
武田泰淳の本についていくつか。それからお知らせです。
昨日武田泰淳について、佐々木さんから書き込みがあった。それで、武田泰淳について思い出したことについて書いてみたいと思う。忘れていることもあるので、そのあたりはご容赦ください。実家に本の大部分を置いていて、今、手元に泰淳の本があまりない。残念である。記憶を頼りに書いて見ようと思う。読んだ事実より覚えていることが大事だから。私は彼の全仕事に通暁しているわけではないのだが岩波文庫で出た、彼の評論集「滅亡について」が印象に残っている。中でも、三島由紀夫への追悼文は、これは驚くべきもので、三島がドン・キホーテだとすると、武田はサンチョ・パンサに感じられる。武田は三島の運命、その姿というものがよく骨身に沁みていて、文章から悲しみやユーモアすら感じる、壮絶なエッセーなのである。凡百の三島論はどうでもよくなってしまう。そんなことをよく覚えている。さすが僧。生死をまたぐ線というのが彼には実感されている。近代理性、世界、日本、自分、めくるめくものを見つめながら、真摯に一介の俗にまみれた僧であることはどういうことであるか。そんな私が書くということはどんな意味をもつだろう。彼は地べたから考え続けた。彼の中に、「滅亡」ということが、マクロにも、ミクロにもあって、これが彼の思想に脱構築的印象を与えている。「滅亡」は具体であると共に抽象であるのである。彼の独自の歴史思想はもっと注目されてよいと思う。「司馬遷」、小説では、倒れてからの、「目まいのする散歩」を読んだ。「目まいのする散歩」は細部が恐ろしく緻密で最後まで粘り強く生きた彼の姿を思わせる。この本は口述筆記で、その書いた人が百合子さんだということを知った。
というわけで、記憶を頼りに書いてみた。武田泰淳を語る上で、外せないのが、百合子さんの存在である。彼女との出会いは泰淳 にとって大きかった。一緒にいる写真の顔がいい。彼女については「遊覧日記」(武田花さんの写真が入っていて二度おいしい。いとおしくなる景色である)「犬が星見た」とあと何冊かしか読んでいないのだが、冷徹なほど眼のいい人でありながら、暖かいのである。観察者でありながら生きている。泰淳と竹内好が一緒に飲んでいるところが書いてあって、その見つめる眼がすばらしかった。そして、この泰淳との関係は、孤立しがちな竹内にとって何よりのものではなかったかと思わざるを得ない。
お知らせです。笠間書院のホームページのブログに倉田さんの本に関する私の拙文が紹介されました。日記にもアップされていますがリンクします。→こちら。倉田さん、笠間書院の方にお礼申し上げます。
べしみ
林達夫、花田清輝、竹内好(武田泰淳はどうしよう)と並べてみたが、私はこの3人の書くものは、私が言わなくても、すばらしいのだけど、何か非知、非言葉というものを心の中に置いていた人たちだと云ってしまいたい。日本のポストモダンというのを潜り抜けても残ってほしい時間軸の人たちである。こういう人たちがいて、三島や深沢七郎がいるという風景は風情がある。3人は「抵抗」ということを深く考えた人たちである。花田清輝は吉本隆明にぼろぼろにやられたとはいえ、また、あのスターリン礼賛は困ったものだとはいえ、中世を日本のルネサンスとした上で、網野史学の先駆といえるかもしれないし、それより、歴史だって嘘ばっかりかもしれないというデタラメ主義的なことを、フーコーみたいに大掛かりではなくやろうとしたので、網野よりも、注目されなかった分、よかったかもしれないし、岡本太郎と芸術運動をすすめながら、岡本太郎より花田清輝のほうがよほど変な人だったと私は思っているのである。抵抗とは何か?一つには「言葉」に対する抵抗だろうと思う。賢そうな言葉にだまされまいとする精神はみな一貫している。今、養老孟司がオピニオンの分野で活躍しているが、あの人の批評性もきっと、言葉に向けられているだろう。理系、東大でありながら、それが批評になっているのである。花田みたいに唯物論まで飛躍する必要は全くないが、竹内は「中国」の中に、林はデカルトの中にだって、賢そうな言葉に対する警戒心があったといっているのです。武田にとっても中国の歴史というもののどこか「混沌」というものに「天」に対する何かを嗅ぎ取っていたのではないか。林は理性文明の突端で「愚者」の沈黙の巨大さを発見するのかもしれない。
歴史というものの大きさとしょうもなさをよくわかっていたのが、この3人だと思う。この3人は、世界史的な嵐の中で、主体が分裂をせまられるさまを書きとめた日本人である。背景に巨大な世界史がある。
話はかわって、先ほど養老孟司をあげたけど、彼が「無思想の発見」の中で語っていることは大事だと思いつつも、加藤典洋の「日本の無思想」に対して、うまくない読みがされているのは、見過ごせない。というのは、養老は加藤を「思想は言葉にしないと思想ではない」といっている人として槍玉にあげて、自分の「無思想」の発見をさも新しいことのように語っているが、加藤は最後のほうで多田道太郎のこんな文章をあげている。
「面の連想でいえばべしみというふしぎな面がある。べしみは口をぎゅっとつぐみ、眉をしかめ、断じてもの言わぬという表情をしている。べしみという字は唖に通じるので、何を言われても返事はしないという精神の表現である。責任(リスポンシビリティ)ということばがあるが、責任とはリスポンドする(返事する)ことである。問いに対してまともに答えることである。しかし、権威と圧力とが支配している世の中で、まともに答えることは圧力に服することにつながっていく。そこで、むかしの征服され、圧服された神々は、一切新しい神の威力にとりあわぬことにした。それがべしみの起源である」
沈黙というのがどれほど苦しくて大変でも情けなくても私たちはそれを生きる。そこから生まれるのが文学だと思う。
Sep 25, 2006
読めなくなっていた間に
今日は、大森望・豊崎由美「文学賞メッタ斬り!リターンズ」を読了した。最近の文学事情に疎かったので、というか立ち読みしてて面白かったので、昨日買った。ゲストに島田雅彦を迎えている。2004から今年にかけて、文学賞の体質、作品についてわりかた徹底的にそしてわがままに検証しているが、わがままと矛盾するようだが、こういうものは謙虚な読みというものがないと成立しない。自分の無知といったものは、あったとしても、楽しんで読むということを最近ずっとしてないなと痛感する。私の中では阿部和重あたりから、進化しているのは、数人だろうという実感しかない。そして、だいたいその通りだったのである。数人の例外を除いては。つくづく、現代文学のまともな読者ではないといわざるをえない。でも、笙野頼子さんが「レストレス・ドリーム」とか「二百回忌」なんかを出していたときは興奮した。あの人は命がけという感じがしたが。というか、何かが進歩していくという流れに私はついていけなくなった。私はどこかで立ち止まらざるを得なくて、いろんな意味で阿呆になったりしていた。良い子だったので、反動が来たのである。人間はどっかあほの部分がないと生きていけないのである。感覚が冴えている人ですら、そうだと思う。三島由紀夫は秀才だったが、彼には自分の背中が見えていなかった。そしてそれでいいのである。しかし、本物の文学というのは、どこへいってしまったのだろう。あるのかもしれないけど、この人が巨人ですといえる人はすごく少ない。そして、それでいいのかもしれないが、実際それでいいのだろうか。わからないことが多すぎるので、追っかけるのを止めたのである。というかほんまに本が読めなくなってしまっていたのである。で、こういう本でちょっとのぞいてみるんだが。島田雅彦はみんなが思っているより素敵な作家だ(だった?)と思う。「預言者の名前」とか「彼岸先生」とか帝国ものとかけっこう冴えていたのではないかと思う。みんな覚えているのだろうか?島田さんはけっこう読ませていただきました。Sep 24, 2006
特命係長只野仁
「特命係長只野仁スペシャル」をテレビでやっていたので見た。
なんかの番組(NHKゆるナビ?)でか、井川遥が出ていて、親に「人の痛みがわかる人になりなさい」といわれたことがあるそうで、それをよく覚えているそうな。私はそんなの覚えてない。っていうかそんなご立派なこと(笑)いわれなかった。そんなんじゃなくて、ご飯を食べてるとき、私が遠くのお皿に箸を伸ばすと、「近くによせてとりなさい」とよく言われていたのであった。しかし、まったく治っていない。今でもおつゆをこぼしたりしてしまうのである。そういうのは覚えているよ、リアルだから。
Sep 22, 2006
自主活動、吾妻ひでお
デイケアに行きました。昼は職員さんと仕事の話を1時間くらいしました。午後から自主活動だったので(自主活動というのは、音楽鑑賞とか自分でメニューを決めて時間を過ごすのです)、なぜか、勘で橋本治「これで古典がよくわかる」を持ってきていまして、読書することにしました。家より、なぜか集中できました。橋本治も難しい理屈を云ってない。というか中高生が読む感じ。「ひらがな日本美術史」みたいな感じ。学校で教え込まれたごちゃごちゃした歴史をぽんと再整理される感じでよかった。なぜ和漢混交文が生まれたかとか、ただ教えられたことではわからない結構な難問についてさらさら書いています。また暇なときに続きを読もうと思いました。職員さんが私の薦めたジョアン・ジルベルトを聴いたとのことでなによりでした。帰り本屋によって、吾妻ひでおの「うつうつひでお日記」と奥田英朗「イン・ザ・プール」を購入。吾妻さんのは「失踪日記」が面白かったので、買いました。文庫「イン・ザ・プール」もう六刷もいっているのですね。吾妻さんが「イン・ザ・プール」面白いと本に書いていたので、面白ければいいのですが。吾妻さんのはごろごろしながら、読むのに丁度いい。残念ながら彼の他の作品の多くを読んでいません。内容は寝れなくて、夜中に寝てちょっと働いて、笑っていいとも見てアイス食って、昼寝して、仕事があまりなくて、散歩して本屋行って、帰って寝てテレビ見ての延々と繰り返しなのですが、必ず一日一冊本は読んでます。だるーい日常が他人事に思えなくて、しかもなぜかその繰り返しの不条理にちょっと笑えて。すごいっすね。読了しました。最近笑いに飢えてます。奥田さんのもなんか笑えそうな予感がします。予感ですが。
よくあること
国民健康保険料の8月分の督促状が来た。しかし、その前に納付書が私の家に届いていない。どうやって払えというのだ。事実関係を確認したが、原因不明。納付書が再発行された。しかし、これで5~12期分まで一括納付できるのかわからないので、また市役所に問い合わせてみよう。土日明けになるな。面倒だが、よくあることか。Sep 21, 2006
倉田さんの芸術論集の覚書、いくつか書き直しました
朝に読んでいただいた方がいると思うのですが、思い浮かんだ事があり、夕方にはじめの方を直しました。原稿を倉田さんにメールしたら、喜んでいただいて大変うれしく思っているところです。あくまで覚書です。私はウィトゲンシュタインの研究者ではありません。しかし、新しい論点もいくつかあるのではないかと思ったりもします。倉田良成芸術論集を読みながらー「世界の内と外 ウィトゲンシュタイン・ノート」覚書
不意にいつか読んだ本の内容が自分にシンクロしてくる事があります。それが大事なときだと思います。ウィトゲンシュタインについては詳しくない僕ですが、純粋に覚書として書きます。
倉田良成さんが「倉田良成芸術論集」所収の「ウィトゲンシュタイン・ノート」で書いておられたのですが人には心というものがありますね。
心があるというのは神秘なんですね。
ウィトゲンシュタインは「人は死を経験しない」と書いています。それなのに死を悲しみ、死者を大切に思っている心は確かにあります。なぜでしょう。それだけではなく、まだまだ私もわかっていないことも多いと思うのですが死は色んなものを私たちに教えてくれるような気がしきりにしています。私たちは経験していませんが、語りえないところで死者は私たちに光を与えてくれるのではないでしょうか。それは、ウィトゲンシュタインのいうように「現在を生きる」ということではないでしょうか。逆に言えば、死について、思いをいたさないということは生をなおざりにすることに等しいのではないか。彼が第一次大戦の中従軍している間に『論考』が準備されたというのは、戦争の死者に向けてということもあったかもしれません。私たちは、どこでも、どんな形でも祈ることができると思います。記憶が遠くなれば思っているということは 少しずつ減っていくかもしれません。それでも、どこかで祈っているのだと思います。「方便の構造」かもしれませんが何かの「お陰」で生は輝いているのだと思います。祈るということ。親鸞においては 「南無阿弥陀仏」でしたが、そうでなくても、そうであっても。それが宗教という名で呼ばれなくても。
倉田さんの芸術論集をどう読んだらいいか 色々考えたりしていたんですが、単なる芸術についての鑑賞よりも積極的なものを感じました。「ウィトゲンシュタイン・ノート」を読んでこれは自分にとって大事なことが書かれているな、自分に不意に浮かび上がってきたのでした。
それで、心があるというのは神秘なのですが、そして言葉がありますね。ウィトゲンシュタインは、彼の心というものから自分が言葉にできること、できないことについて丁寧に考えていたんですね。彼がこれは「梯子」だといっているように、在ることから無いことへのプロセスでもあり、そこで私たちは言葉を吟味しなければならないといっているようなのです。倉田さんの読みからは「論考」が重要な表現論だし、祈りの書だとわかりました。
「人は死を経験しない」と。「現在を生きる」のだと。 ウィトゲンシュタインは倫理的な人だったと、マルコムや色んな解説書程度の知識しかない僕ですが そう思うので、死について厳粛な、それでいてそれが外部から 生を裏づけていると感じていたかなと思うわけです。
永井均さんが書いていましたが「『論考』の世界は、この私の存在という(世界内の偶然とは次元のちがう) もう一つの偶然によって支えられているのだ」(ウィトゲンシュタイン入門)ということ。ここから、何か「生まれる」ということを想起します。そして『論考』は彼の全身で書かれた芸術ではないか。きちんと『論考』を読んでいないのでなんともいえませんが過去に「ウィトゲンシュタインセレクション」などを読んだ限りではそう思うわけです。世界には彼の言うようにたくさんの事実があって、そこから、世界とは独立した私というものが表現というのを欲するのではないか、そう思ったりするわけです。僕は論理学は苦手なのですが、彼なりの世界の描写で、それは彼のみならずいろんな人の 現実の「逃れがたさ」とその表現なのだ、そして、そこから離陸していく言語世界があるのだと思います。「この私」という奇跡的な存在があって、それは世界と言葉の潜り抜けられるふたつの間の通路であるということが示されています。倉田さんが「身体が裏返らされる」というのはその不思議さに驚かされる感覚ではないでしょうか?在ることから無いことへ、無いことから在ることへ、メビウスのように繰り返される通行というものではないでしょうか?それは生きている中で僕も直に感じたことがあるような感もあるのです。
覚書として書いておきます。
Sep 19, 2006
チョリ君の特集
毎日放送の一昨日の夜中、「映像’06」が流れていて昨日ビデオにとったのを見た。choriくんは、21才にして、詩の世界で様々な活動をしている。そのがんばっている姿が映されていた。たぶん低予算の番組だろうと思ったけど、丁寧に撮ってあった。すなわち、いいとこもダメなとこも撮っていたという事だ。もちろん厳密に言えばフィクションではあるのだが、ショーの世界から見た彼の位置、姿というのはわかる。(マネージャーのとこなど驚いた。志願してchoriくんのマネージャーになったという人がいたのだ)マイミクの窪さんが出ていた。chori君が清野君にあいさつのラップで呼びかけていた。それはともかく、この番組で圧巻なのは、狂言師「茂山童司さん」とのコラボで、茂山さんが「ちゃんと身銭切ってやるのがプロなんだ」といっていた。茂山さんは、choriくんと同じ伝統芸能の生まれだが、茂山さんは継いだ。choriくんはつがなかった。ダメだしをする茂山さんはやさしく誠実な人だと思った。一緒にやるからには最高のものをという気概が伝わってきた。彼は看板を背負っている。その辺とのちがいがchoriくんの選択にはあるのだけれど、choriくんなりにプロとして張り合うというのはまだまだ大変なようだった。彼自身まだ途上にあることはよくわかっているだろう。それと、やはり何を目指しているかがきっちりと問われているんだろう。私はchoriくんのような位置に立っていないし、まだまだ詩かきとして、未熟なわたしはchoriくんの「k」という詩が彼の資質を伝えていていいなと思った。死者のことを書くとき、すごくやさしく書くことができていて、それは稀有だと思った。
角川版「時をかける少女」を見る。何かねっとりしていて、アニメ版のほうはさらっとしていたので新鮮だと思った。レトロなSFは迫力あるなと思った。原田知世が白いブルマをはいていた。
うたと喪の時間についてースガシカオ「PARADE」
スガシカオ「PARADE」を聴いている。なんかすごくさらっとしている。明るくなっていて一瞬戸惑った。以前「プロフェッショナルー仕事の流儀」に彼が出ていて、ここ何年間か、父や親友が亡くなってきつかったと言っていたのを思い出した。そういうことは歌われていないが、彼が時間というものについて、かなり考えて、そこから抜け出したんだなと思った。(前のアルバムはTIME)新しい境地を手にした感じだ。というのは「タイムマシーン」という歌でうたわれているが、僕もタイムマシーンなんてなくてもいいと最近思ったのでシンクロした。過去のことがよみがえってきて、私たちは苦しめられる。やり直したいと思う。しかし、「タイムマシーン」があったって、救いがない。彼はこう歌う。"あの夜死んでしまった あいつに会いたいけど/もう一度死ぬとこなんて見たくもない"これにはユーモアすら感じる。彼は死者を大切に思っている。それと時間を飛び越えてもう一度会うことは、ちがうのだ。起こったことの大切な一回性を奪ってしまう。僕がアニメ版「時をかける少女」を見て思った感じとよく似ているのだが、「時かけ」よりも、深く考えられている。というのは、本当に帰ってこないということが歌われていて、それが瞬間、出会いを大事にするというメッセージにつながっているからだ。喪の時間を過ごしたからこそ出てくる言葉がある。”死んでしまった奴より 生きたいと願え”(Hop Step Dive)これほど倫理として強い言葉がスガから出てきたことに驚いている。深い気持ちからだ。「Progress」はNHK版よりいい気がした。彼は深い闇の中から一歩光のほうへ踏み出そうとしている。"世界中にあふれているため息と/君とぼくの甘酸っぱい挫折に捧ぐ…”あと一歩だけ、前に進もう”"
Sep 17, 2006
ETV特集
で、けま喜楽苑での取り組みというか、じいちゃんばあちゃんのありようというか、非常に丁寧に取材されていた。見た方はわかると思うが、けま喜楽苑は特別養護老人ホームである。ユニットケアの先駆けで、個室も多い。とてもゆったりした空間で、あんまりオシッコの匂いがしなさそうである。みんなメイクもばっちりである。僕のヘルパー実習に行ったある特養は、くさかったし、ぎすぎすしていて、ばあさんたちが「姥捨て山みたいや」というのであった。いくら丁寧といっても、みんな仕事でやっている。とはいえ取材が来たから大慌てで用意しましたみたいな顔を職員がしていなかったので、相当なレベルである。すごく丁寧なケアがされているのだが、実家に帰った認知症の夫婦はニコニコしていた。娘さんもがんばっていた。夫婦の奥さんはしっかりしてたり、そうでなかったりの落差が激しそうだった。
ふるさとへ帰れば過去の記憶が戻ると考えられていたおばあちゃんは、「(思い出したのは)半々くらい」と美談の展開を裏切る見事なリアルだった。でも情の深そうな人で、記憶が薄れても大切な感覚が残っているなと思った。おばあちゃんに育てられた弟さんはさびしそうではあったが。
とはいってもテレビはテレビであって、現場の本当のところというのは行ってみないとわかんないだろう。人間はバカにできないのであって、仔細に実際に見れば、ここは親父を入れたいかとか切実に考えるのだろう。親が嫌いな人は「姥捨て山」にということもあるかもしれないが、喜楽苑のようなところは人気がありそうだからなかなか入れないのではないかとも思うのだった。
ミスチルを熱唱
しました。この間、デイでカラオケ行ったときはThe BOOMの低めの声の歌を歌ったりして、ノドを調整していました。でも今日は声が出たので、ミスチルの”花”や”and I love you”を歌いました。歌うとすごく高揚感があって、”花”は詩が素敵というか、まさに等身大の歌だと32にもなって、感心したり同調したりしていました。その当時は通り過ぎた歌だったりしたのですが、気持ちと声の高ぶる曲線の軌跡が同じで、胸が震えます。上手いか下手かは置いといて。病気がひどかったときは本当に声が出なかったです。
ジャンカラなので昼は安いけど、連休の初日なのでじょじょに混んでいくようでした。
「マイボス・マイヒーロー」が最終回でした。面白かったぜコノヤロウ!!担任の先生役かわいいなあ。誰だっけ?
Sep 16, 2006
焼酎のほうが日本酒よりカロリーが高いらしい
だそうだ。焼酎はなんとなく健康的な気もしていた。W先生によると。日本酒お銚子一本でだいたいご飯一杯分くらいらしいのだが、そのカロリー量を焼酎は日本酒1に対して3分の2で超えるらしい。だからチューハイも痩せるためにはちょっとまずいのである。今日は恐怖を抑えて体重計に乗った。やっぱ70超えとった。まず目標は60台である。今日は外食だったが、みんなが肉食べてるけど、がんばって魚を食べた。定食屋に魚とかお野菜系のメニューがあればと思った。食べ方とかに対して、少し意識が変わってきた。眺めてみると世の中は肥満を作るマシーンみたいだ。そういう見方が自分の中にできて、みんななんであんな健康番組が好きなのかうすうすわかったが、ジャンクなものもないとさびしい。そんで、もっと野菜も取れるようになってないと環境が。二日続けて仕事して、大丈夫かと思ったけど、朝はパッチリ目覚めた。それでも緊張は残っていて、デイケアに行ったが、しばらく気分が落ち着かなかった。たぶん慣れの問題だと思う。W先生もそうおっしゃっていた。午後には落ち着いた。
ある人に「淀川さんと横尾さん」を読んでもらった。楽しそうに読んでいたので、うれしかった。あの本は人を幸せにすると思う。
今日は頭の中を宮沢和史のPerfect Loveという曲が流れていて、なんかロマンチックしていた。
「アルケミスト」読了。鷲田清一の本へ
「アルケミスト」読了。オチはナンダコリャと思った。あれはまずい気がする。クリニックに行く電車の中でずりおちそうになった。とはいえ、スピリチュアル。極端な宿命論。これはお話だなという感じがしすぎる。いいお話にはちと遠い。しかし、その論理の強引さが、いい感じになっているところを発見した。少年が砂漠をピラミッドに向かっていく時、砂漠の中で不安にさいなまれた少年が自分の「心」の声に耳を傾けるよう錬金術師からアドバイスされる。そこで、どんなネガティブな「心」の声の時も、それをただ徹底して聴く、それは少年にどんな状況になっているか知らせているというところだ。認知療法より身に沁みる。ありがちな処世ではあるけど、なかなか自分に都合の悪いこと、かっこ悪いことは、つまり自分の弱音は聞きたくないものだ。ここには客観性がある。それから、大事な予兆は、それとなく待っていて、それに集中しないと訪れないことも教訓といえばいえる。教訓くさいのが難点だ。というか教訓のすし詰め状態。主観に流されがちで、展開も強引だが、ありがちなお宝や何かを求めるというのは人を引きつけるのだろう。ロマンって奴かな。
鷲田清一『「待つ」ということ』(角川選書)が新しい示唆を与えてくれそうな気がする。大事なもの、運命をうけいれる。そういうものを「待つことなく待つ」といってる点、個人的に注目大だ。引かれる例も面白い。鷲田さん、文章がすごく硬くもなくやわらかすぎずいい感じ。いつのまにか阪大の副学長になってるし。これは読めそうかな。関西人という感じがする。
Sep 15, 2006
白い息
背がとまってしまってからもう何年もたって
ぼくはますます自分の存在の小ささを感じるのです
空を見れば、もっと
闇につつまれて、さらに
優しい人に会うと、うーんと
ぼくはこの小さな存在で
かろうじて息づいていることを感じます
まるで小さなかえるになったように
小さな葦がゆれている河原に立てば
とおくにゴミ処理場の煙突が白い煙を上げていますが
がんばって星をみるのです
星は大きいけど
目に見えるのは小さい光の粒
それらがつながって大きな家族をつくっているようです
星は魂と同じだから
ぼくが宇宙の絶対的孤独の中で
すごく小さな星になったら
大切な人や知らない人と抱きしめあって
星座になるのです
とてつもなく孤独だからこそ家族になれる
そんなことをけっこう本気で信じているのです
全ては幻だとしても
はかないことだとしても
そう思っていることは
ぼくにとって安心です
葦の河原から瞬間移動して
土の匂いがしてきます
生駒山がみえて
田んぼが並んでいて
ぼくのおじさんの小さな町工場がみえます
おじさんはもうおばさんとねむっているのでしょうか
不思議にこのあたりはなつかしく
星がさらにつよくざわめくようなのです
ぼくはそんなにからだの小さな男でも
大きい男でもありません
まあ中くらいです
中くらいで弟に背は負けるけれど
そんなぼくは根源的に小さな存在なのだと感じた今
色んなものが
やっと当たり前の大きさを取りもどしはじめて
ぼくはベットで目をつむりながら
ぼくに与えられた光と闇のことを
素直に感じます
小さい頃遊んだ冬の公園がみえてきました
人工的な沢があり
百舌が鋭く鳴いています
まだ人気のない朝
父親と歩いていて
ぼくは底知れず肩を落としたり
弟とじゃれあったりしています
そして
そこを走るぼくの白い息は
今ぼくのところまで届くようなのです
*COAL SACK55号 2006.9.15発行に縦書きにて掲載。
Sep 14, 2006
昨日、脚立が便器にまたがっていた
昨日はマジメなことを書いたけど、自作が活字になって本当にうれしい。今日も昨日に続いて仕事だった。キツイかと思ったが何とかやりこなせた気がしている。昨日脚立が掃除をする一階のトイレに、立っていたので、脚立が本当に便器にまたがっていたので、そっとしておいて、掃除しなかった。今日は清掃途中に工事の人が来ていて、なにやら作業していたが、ほどなく帰っていった。脚立もいなくなっていた。職員の方と仕事したので作業スピードについていけるかと思ったが、大丈夫だった。
帰りCD屋により、かねて気になっていた「ゲッツ/ジルベルト」を手にする。時々CDをまとめ買いするのだが、今日は気分が落ち着いていたので気持ちよく買い物ができた。食材を買って帰宅。家に電気がついていたので、彼女がいるのかと思ったら、忘れて外出したようだ。風呂に入ってメシ食って、「ゲッツ/ジルベルト」を聴く。何よりジョアンの声が若い。演奏はしびれるというか、すごいので言葉が出ない、でも気持ちいいという感じがした。両者がそれぞれに持てる力を出しながら見事なコンビネーションだった。他の演奏者もすばらしい。色んな才能の類まれな出会いで成り立っている、ある種の祝祭のように思えた。宮沢和史の「MIYAZAWA・SICK」もよいと思った。こういうスタンスでがんばっている人は日本には少ない。彼女は帰ってきて仕事をしていたが、どうもパソコンの調子がおかしいようだ。私のマシンは健康なのだが。
Sep 13, 2006
活字になってみて
仕事から帰って、郵便箱をのぞいたら、詩誌「コールサック55号」が届いていました。私の作品が掲載されています。初秋の雨の中をやってきました。コールサック55号では、原爆の詩「リトルボーイ」のことが詳しく紹介されシンポジウムが開かれた様子が克明に書かれていました。自分の詩が活字になるとなんだか不思議な感じもします。自分は幼い詩を書いているなと思いました。未熟ということもありますが、いとおしくもあります。なぜなら自分の感じたことを何かの形で残せればいいのですが、あきらめてしまったり、薄く切り取るだけみたいになったりすることがあるからです。うまく形に出来ないのは残念なものです。べつに形になるのが最高だとばかり思っているわけではありませんが。だけども、大事なことは、何か形になればと思います。他の人がどうでもいいといってもです。これは、詩のことだけではありません。がんばるのは苦手ですが、なにごとも精進というしかないです。自分をごまかしたくないです。
Sep 12, 2006
ジョアンな夜
ジョアン・ジルベルトの「声とギター」を聴いています。私が持っている唯一のボサノバのCDですが、確実にいきます。名盤です。極楽の音楽であり、一人の男の歌でもあります。声、声、声…渋い!!今年日本にくるみたい。糸井重里がジョアンについてエッセイ書いてます。思索と暖かさが、思いの強さがじんわりと空間に広がります。秋の夜にはぴったりではないでしょうか。確か、スタン・ゲッツとコラボやってたような…
買い物に行ったら偶然、友人に会いました。良いタイミングで会ったと思います。NHKの「サラリーマンNEO」が面白い。生瀬さん、いいです。私の好きな平泉成さんも出ています。
ここ最近寝てばっかだったんですが、今日は部屋の片づけをしました。↓写真=日本公演時のジョアン
Sep 10, 2006
わにとかげぎす1のレビュウ
今日外出の帰りうれしくて買っちゃいました。
確保です。
主人公男32才です。ぼくと同い年だ!
この人の書くものはマンガでありながら、今小説家があまり書かないプロレタリヤものだと思う。つねに今に向けられている。
それから、青春小説だと思う。
ドストエフスキーの「地下室の手記」ほどやばくはないが、つねに自分に問い、ひとを求める心が響いてくる。
「わからない」といえる強さを持っている人が必ず出てくる。
そしてエンターテイメントだ。
いろんな意味でぼくのこれまでにシンクロしてきた。コンビニで買える所が良い。
この物語は出だし「グリーンヒル」や「シガテラ」に近い路線だ。
しかし「ヒミズ」のような決め方もないとはいえない。
いろんな意味で予断を許さない。コメディのような気配は濃厚だが。
これからなので☆5つにはしない。
mixiレビューより転載。
訳あり風のお父さんが何度も何度も謝っていた日
まずはうれしいことがあったよ。古谷実の新刊が発売されて外出の帰りにコンビニで買った。良質なマンガがコンビニで買えるのがすばらしい。プロレタリヤバンザイ(笑) それで外出というのがここんとこ出てる詩の集まりで、詩を気に入ってくれた方が御一人いた!もうね、ひとりだろうが喜んでいただけると心がかよったようでうれしくなってしまう。いろんな人によろこばれたらと思ったりもするけど、五感をフルに使って、脱力系に書いたから、悔いはあんまりない。私の支えになっている人たちに感謝です。それでね、行ったコンビニで子連れの訳あり風のお父さんがいて、あたふたしながら、買い物済まして、5才くらいの子どもを連れて出た。私も後で出たら、近くの信号が赤で、子どもが飛び出して、バスが走って来てて、ぶつからなかったけど、さっきの訳あり風のお父さんがバスに向かって何度も何度も謝っていた。運転手が「そんなに謝らなくてもいいよ」という風に黙礼して走り去った。きっと大変なのだ。だけど生きているのだ。事情はわからんが。その帰り片言の日本語で「パチンコがね生活費がね」と話している二人組みも見かけた。なんか胸騒ぎがしたけど、大丈夫。みんな一生懸命。当たり前なんだけどね。それも普通に生きてたら忘れそうになる。今日は旅の話をたくさん聞いた。旅になかなか出ない私なのだが、というか旅というものを病気してからほとんどしてない。旅という概念をあやうく忘れかけていた自分に気づいた。古谷のマンガもそうだけど将来何があるかわからん。毎日が旅だとも思うのであった。
他の人のブログに出てきたシュルレアリスト占いというのをやってみたら、私はマックス・エルンストだった。好きな人でよかった。彼の鳥が「ロプロプ」というのを初めて知った。佐々本果歩さんの詩集のタイトルはそこから来てるのかな?
Sep 09, 2006
どこまでも反省するというのはまるで反省してないようにも見える
さっき、ベランダでタバコを吸っていたら、下の階から、咳払いがして、男のものだった。怒られているような気がした。今日は夜、感想文をこりこり書いていたのだが、あんまり出来がよくない。文章が楽しそうじゃないのだ。そんなこんなで、虚しい気持ちになっていたところだった。だから何というわけではない。でも、無理にマジメモードになったって仕方ないじゃないかと思う。もう一回書いてみようかな?昨日、「年賀状に好きだと書いてしまうこと」を書いたが、別にかいたっていいじゃないかという気がしてきた。ぶっ放してしまうのも、もちろん普通に考えれば世間知らずなのだが、それでいい。私は反省が苦手なのだ。なぜなら反省というのがきりがないタチなのだ。中学時代「反省しない!」と強く思ったことがある。反省で頭が変になりそうになったのだ。そんなに悪いことした記憶はないのに。どこまでも反省するというのはまるで反省してないようにも見える。外からは内的な過程というものがわからないからだ。全然見当違いになってバツの悪い思いをする。キリの良い反省というのがあったらいいけど、それも変だし、それよりも、別のことをして答えを出すほうがそこに何かがあらわれているとすればそれでいいことなのだ。小泉さんは反省してない態度がお気に入りだがああいうのも何かちがう。あれはある種の反動でそうなっていると思う。
昨日から、大槻ケンヂの「リンダリンダリンダラバーソウル」を読んでいた。読了。何か急に詩はヒップホップに近いんじゃなくてロックじゃないかと思ったりする。バンドブームの頃のお話。読みやすい。同時に今さらみたいだが「アルケミスト」も読んでいる。どうも翻訳がよくない気がする。いい意味でも悪い意味でも強引な物語運びだ。
Sep 08, 2006
年賀状に好きだと書いてしまうこと
自分の運命って何なのかな、あまり考えない日もあり、考えるときもあり、今日というか最近はまた考えるようになってきたような気がする。自分探しってことかもしれないけど、そういってしまうとありがたみが減る。生まれるということはシオランの言うように「生誕の災厄」と思ってた節があって、今も肯定できているか怪しい。かといって、呪ってはいない。呪っている時期もあったけど。そういう中途半端という感じ。例えば自分のしたいこと、欲望、願望とは別に、わりかた冷静に徹底して事実だけ見てる自分がいる。これも誰でもそうかもしれない。昔、高校のとき、女の子に年賀状を出したとき、あろうことか「好きだ」と書いてしまった。普通書くか?書かない。でも暴走するときがある。もちろん、その子は冬休み明けから二度と口をきいてくれなかった。思いを伝えねばとなると歯止めがかからない時期がずいぶんとあったものだ。今はそんなでもない感じ。割り方、冷静な自分もいる。だから自分の思い込みだけでは行動しない。
かわって、葛藤が増えるようになった。複眼的に見るので、色んな事情とか、境目とかがわかるようになってきて、対立する自分の気持ちというものがうまく出せない事がある。でも、ぼくの彼女にも、ぼくの、彼女に対する気持ちが、実はバレバレなんじゃないかと思うことがある。これ、恋愛のことだけではないよ。自分のしたいこと、おおげさにいえば、運命というもの、そういうものに対して、もごもごしつつ目の前のことを何とかやろうとしている。
なんでも宿題になってしまうと辛い。未来にもごもごしながら向かっていくのだ。きっと色々あるだろうよ。
Sep 07, 2006
声
座ってパソコンに向かっていると、テレビをつけているような音が聞こえ、あれ?テレビつけてないんだけどなと思いながら、部屋を出ると、ちょっとこわくなった。どうも外からだなと感じたら雨の音がして、人がどうやら会話しているみたいだなと思いながら、窓の外をのぞくと駐車場でだれかとだれかがが話してるようで、しばらくすると聞こえなくなった。雷が時々ぴかぴかしているが、私は人の声のほうが怖いのだと思った。もちろん時間も時間だけど、人の声は何か私の皮膜をつきやぶってくるようで、恐いときがある。こわいけど聞きたい、むしろこわいから聞きたいと感じるのだと思う。
じぶんの気持ちの形によって、相手の声がすごく響いたり、相手の思いというか思念が強く伝わるときがある。怒られてるときなんかはわりとわかりやすいけど、日々、粛々と、真実が伝わってくる。自分の、他人の、自分と人の混ざったみたいなもの。そういうのが積み重なると何となくその人の地みたいなものが出来てくる。
病気になったときは、自分の輪郭がおかしくなっていた。センサーだけが鋭くなっていた。
Sep 05, 2006
豚汁
曇り空。まだ、高専の殺人の容疑者は身柄確保されていない。少し肌寒いような気もするがクーラーをつけてしまった。まだなんか眠い。今日は豚汁を飲む。昨日は秋刀魚の塩焼きだったので、秋である。ぼくは秋から冬にかけての季節が好きだ。
だいたい僕は身の回りの小さなことしか書かないので、これでいいのかなあと時々思うが、まあいいかと思う。今日は阪神かちそう。たけしの「本当はこわい家庭の医学」を見てしまった。口臭の特集だったのだが、あんなおどさなくてもといつも思う。東京歯科大学の口臭外来の宣伝のようにも見えた。
明日は仕事である。涼しくなってきたので、少し楽かな?
Sep 04, 2006
メディスン・コンピレーション
今週は暑いようである。ここ2~3日はやる気が出ず、寝て過ごしていた。夏の疲れだろうか。
食べ物を気にしている。これ食べたらどれくらいカロリーあるんだろうかと思う。それで油ものはなるべく避けようかと思っている。計算したら一日大体1700~2200kcalで充分なようだ。彼女が夜散歩に出ればいいといっているのだが、だらだらしている。さんまを食べた。今年初です。
今日の音楽は細野晴臣「メディスン・コンピレーション」。アンビエント。93年。BOOMの宮沢和史が昔紹介してて、何年か前に中古屋で買った。写真のがそれ。
Sep 01, 2006
書評ー「淀川さんと横尾さん」
友人と話していて、思い出した名著。Uさん、実家に帰ったらありました。今度会ったらお見せしますね。
相手を好きになるというのが、嫌味にもならず、こんなにストレートに出ている対談というのはないのではないか?
ふたりがどんどん仲良くなって、人生、映画、美術、死生観、なんでも、淀川さんが受けて立ち、横尾さんが素直にいられるというすばらしい空間。
淀川さんは、魂で話すのだと思った。そこに横尾さんもいて、難しい言葉はほとんど出てこない。これ、本当に大切なことだと思う。
アートを愛するということがどういうことか教えられる。批評としてもレベルは高い。
「二人でヨの字」も対談中に決まったタイトル。
自然をめぐって二人の感性がどんどん高まっていく光景は圧巻。7年ぶりの再読。久々に読んでます。
あんまり新刊では手に入りにくいみたい。(mixiレビューに若干加筆)