May 31, 2006

詩と生活の関係

 今日もデイケアに参加してきました。ぼくは詩を書いています。そして、今リハビリ中です。ふたつの関係は、密接に関係するところもあれば、あまり関係ないところもあります。リハビリというのは生活を律するということです。自分が、失敗したり、つまずいたりしながらも、生活をし、活動し、人と付き合うことです。ぼくなりに言い換えると、普通になることであり、普通になるという言い方に抵抗がある方ならば、我に帰るということでもいいと思います。狂気とつきあうことに、エネルギーを割かなければならないというのは、大変、しんどいものです。それを何年間かしてきました。狂気の中にも学びはあります。しかし、それによって、生活は大きく支配されてきました。
 病気がある程度よくなってきた段階で、でも、それでばっちりということではありません。何年間か自分を見失ってた分のつけがあります。その過程で色々な先鋭な(他と比較してということではなく自分の中で)詩も生まれたわけですが、そして、それには狂気をもみつめようとした気概もあったわけですが、その方法とは違う形で詩を書いていかないといけない。しかも、その方法が見つかっていません。それは普通になるレッスンという迂回路の中で、手にするしかありません。
 必ずしも、作品と生活は全部重なるわけではないですが、自分の能力、これは、生活にも詩にも配分されていくわけです。そして、その能力というものは、生きていく事自体の中にあると思います。生きていく中で新たに発見し、それを磨いていくのだと思います。どこかで、詩というものと縁が切れてしまうのではという恐れもないではありません。自分はかつて才能を過信していましたが、それはだいぶ無くなりました。これはあたらしい事態です。これから、自分にとっての詩というものが本当に始まるのではないか、そう予感しています。

 今日は職員の方と話せてよかったです。少しだけ、ホンの少しだけ楽になりました。ひとの話がだいぶ耳に入りやすくなってきました。やはり固く狭くなっていたのだと思います。今はきっとつぼみの時期なのです。もちろん、将来については、どうなるか全くわかりません。でも、少しずつ少しずつやっていくしかありません。その都度、その都度確認です。怠けやすいので、職員の方が来てなかったら二週に一回電話をいれるねと云っていました。すこし背中を押してもらうくらいのほうが、プライドは高いが小心者のぼくとしてはちょうどいいかもしれないです。
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May 30, 2006

見られることを意識する

 昨日は気弱なことを書いてしまいました。でも今日はデイケアに行って、芦原橋の球場で、ソフトボールしてきました。他のデイケアの方と合同です。暑い日でした。しかし、風が気持ちよかったです。
 デイケアの人とも、久々だったけど、ちょっとドキドキしながらも、落ち着いて話せました。これなら、行けそうかなと感じました。
 家にこもっていると思考が狭くなるのを実感しました。外に出て、人の中にいるという当たり前のことがとても大事なのだなと思いました。それで、人の視線の中にいる、緊張の中にいるという基本的なことが抜けていくと、けっこう簡単に、ダサくなってしまいます。すぐ復調というわけにはいきませんが、というよりも、やはり感覚のリハビリなのだと思います。ぼくは小さい頃、人といるとひどく敏感になってしまうことがよくありました。人の一挙手一投足にナイーブになってびくびくしていました。そういうところは、今も残っています。だから再スタートなのだと思います。
 試合は負けてぼくも投げたのですが、いっぱい打たれました。悔しかった。強いチームでした。しかし、初回いい当たりでアウト、最終回に一本ヒット打ちました。うれしかったです。あの打って抜けた時の感覚は、なんともいえません。それで、必死に走りました。何年ぶりにか本気で走りました。職員さんが感覚が戻れば、いっぱい打てますよと云ってくれました。投げてるときは、すごいしんどいなあと思いましたが、帰ってきて気分はさわやかです。
 何もかもうまく行くわけではないけれど、ほんのりうれしかったです。これで詩も書ければいいなあ。帰ってきた彼女が「ちょっと男前になったね、やっぱり人に見られるのは大事やわ。」といってくれました。
 K田さんから郵便が来ました。ありがたいです。
ミッドナイトプレスのホームページを見たら岡部淳太郎さんが詩集を出されたそうです。


 俳優の岡田眞澄さん、作家の米原万里さんが癌で亡くなったそうだ。惜しい人が亡くなった。ご冥福お祈りします。
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May 29, 2006

日々

 気がついてみると時間がたっているということはよくある。なんか、やる気が出なくて、寝てたら、時間がたってしまう。
 デイケアに今月は行っておりません。まずいなあという気がしてきます。気楽に参加するだけでいいのに、とか色々思うんだけど、時間が経てば経つほど行きにくくなっている。どこで、ボタンを掛け違えたのか。今週は職員さんに会いに行くとか何らかの形で、行けたらと思います。
 昨日は彼女の実家に行ってきました。犬と遊んだり、(むちゃくちゃかわいい。車が来るのを待っている。でも、通っても気づかなかった(笑))メロンをご馳走になってきました。荒本にある府立図書館に行った帰りです。昨日の昼ごはんは味付けを間違えてしまった。辛かった。
 なかなか一人で行動するのに勇気がでないのです。もっと勇気を! と思います。(叫んでどうする)
 倉田さんから本が届きました。「解酲子飲食」とてもいい感じの本です。うれしいです。
 デイケアの職員さんに電話しました。案の定、もうすぐ電話しようと思っていたらしいのです。2~3日中に参加してくださいね、約束ですよといっていました。
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May 27, 2006

ほどほど

 今日は朝から彼女がしんどそうでした。ぼくに朝ごはんを作って欲しがっていましたが、ぼくが寝たりして、作らなかったら、不機嫌になりました。
 それで、晩はぼくが買い物いって、作りました。つばすのさしみを買ってきて、サラダとみそ汁を作りました。夜になると彼女もだんだん元気になってきて、よかったです。
 巨人は首位転落です。やはりロッテは強い。原監督の顔も冴えない。
 昨日、現代詩フォーラムに散文を投稿しました。けっこういろんな方が読んでくれたみたいでした。10ポイントくらい入りました。散文を書いている方で、なぜポイントを入れるのかという根本的な?問いを発してる人や、谷川俊太郎をぼろくそ言ってる人もいました。ぼろくそに言うってことは、意識しているんだなと思いました。しかし、日常の中で、谷川さんを意識する時間というのは、たぶんぼくの場合ごくわずかで、一応キャリアのある詩人だと知っているけれども、意識しない時間が大半です。意識しない時間も大切なのではないでしょうか。それだけマジメな方なんだなと思います。それをなだめにかかっている人もいて、その方もマジメというか、まっすぐではないかと思います。
 ぼくもマジメなほうかもしれないけど、あまりまっすぐというのは、折れやすい気がします。つまり転向しやすいという気もします。
 ポイントはなぜ入れるのでしょうか?ぼくの場合、合評会などの場面と現代詩フォーラムのような場面は、分けて考えます。やはり目の前に書いている人がいるという場面をくぐらないとどうしても伝わらないものもあるのではないでしょうか。ネットでポイントを入れるというのは、いろんな意味でポストモダン的な場面ですから、深く考えれば考えるほどわからなくなってきます。だから、ほどほどというのは意外と大事かもしれません。入れるからには、マジメに入れてるわけです。それでも、合評会(これも文学特有ですけど)とは意識がちがいます。どちらがマジメかという比較はないです。

 認知症の方がNHKに出ていました。ふと母方のおばあちゃんを思い出しました。
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May 26, 2006

自分との戦い

 昨日は診察で、デイケアは、どうしたらいいですかと相談した。
 行くのが億劫になっていたので、ちょっと相談してみた。そしたら、デイケアは、そこで一日過ごしてプログラムを行い、日々のペース作りにするものだといわれた。「友達をつくるのは?」と聞くと、結果的に友達ができたり、できなかったりするもので、それがメインじゃないんですよと先生は、いっていた。
 PSWの勉強はまだ少し早いといわれました。
 日々をまだ無為に過ごしてしまいがちで、なかなか、ガッツが出てこない。彼女と過ごしたりできるが、一人で行動するのは、まだ恐いみたいだ。悩みは、そんなにない。昔から、そんなところがあった。自分の性格との戦いになると思う。
 今日は、西武の松坂がすばらしい投球をしていた。力がためられて、すばらしい回転で、ミットに納まる。14三振。すごい。阪神は手が出ない
 K田さんからメール。本をくださるということで、ありがたい。

 高野五韻さんが今日現代詩フォーラムで、すばらしい散文を発表していた。ぼくも、詩の世界について、発言できればなあと思った。しかし、自分が納得のいく作品を書く積み重ねの中から、既成の権威などを批判するスタンスが固まってくるだろうなと思った。というよりも、詩にたずさわる人が、それは、どんな人でもいいのだし、それが当然なのだが、言葉との関係をどのように作っているかなのだと思う。
 資本主義では、何にお金をかけるかが大事で、それと時間、それを割いて、いろんなものが形作られ、優先順位が決まる。それは、仕方の無いことだが、小熊秀雄賞がつぶれたり、そういうとこにお金がまわせないという感じになっているところもあると思う。
 それから、たずさわる人も限られている。
 別に資本主義に抵抗すると息巻く必要はないが、詩は、お金との関係が、もっとも、とりにくい分野になったのだと思う。一方でぼくらは、ただで、たくさん発表できるようになった。これも資本の力で、ITに資本が集まらないとそういう環境は生まれなかった。
 お金に変えられないものを守るというのではなくて、なんといえばいいか、抵抗の姿勢を守りながら、というか、資本の論理にさらされているということに自覚的になったほうがいいんじゃないか。その上で、文化は自分たちが作るもので、そこには一定の排他性があることもわきまえて、変にイベント化するのではなく、地道に書いたり読んだりするほうがいいんじゃないか。
 気になるのはこういう議論をするとき、結局、うわついてる感じがすることだ。高野さんのは浮ついてなかった。それがよかった。
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May 25, 2006

はじめての精神科

 今日は、じっくりブログについて考えた一日でした。ある方からのアドバイスで、私のブログは、自分にとっていいものになっているか、悪いおっぱい(依存の対象)になっていないか考えたのであった。いいアドバイスをいただいた。長い目でみて、自分の気持ちを大切に表現できるものであったらいいと思う。時には、というか、よくくよくよしているが、それが、不思議にいい方向にかわっていく。いきなりポジティブにならないが、生き難さが生きやすさにかわっていくのがいいと思う。表現は自分を十全に実現するためにあるものだという考えを私は捨てたくない。アドバイスいただいた方には再度お礼を云いたい。ありがとうございます。
 春日武彦氏をみなさんは知っているだろうか?彼は精神科医で、人の生きにくさというものに、きちんと向き合う本を書く。人はいろんなホンの些細なきっかけで、生きにくさを感じる。どうしようもなく、不器用であること、不幸にひかれていくこと、その不可思議に、ヒューマニズムとは違った愛情にも似た視線をそそぐ。
 私も小さい頃から被害感情が強く、ずいぶん生きにくい思いをしてきたし、それで、もう生きていけないという感覚も何度ももった。昔、知的障害者とつきあったことがあって、生きにくさというもので、彼らと完全に連帯できるわけではない。しかし、なんだかどうしても惹かれる、という感覚をもった。その両面から、つまり、援助者と当事者の両面から、かなり信用できる記述をしている。
 実際に患者として、今の精神科医に出会っても、いろんな不遇を背負った人に出会い続けるのをどこで支えているかとなると、現実感覚とどうしようもなくひかれていくことの絶妙なバランスから成り立っているのではないかと思う。
 「はじめての精神科」はわかりやすいが、「病んだ家族、散乱した室内」が実践の書としていいと思う。中井久夫氏の、詩的で知的なエッセイもすばらしいが、より身近に置けるのは春日氏の本かと思う。
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May 23, 2006

じぶん

 自分を厳しく見る第三の目を持たなければならない。そうしないと、どんどんだらけてしまうばかりだ。激しくみつめる時にだけ、安堵の時間はやってくるかも。せいしんてきに、けじめをつけていく必要がありそうだ。こんなこと書くとマジメな人に思われそうだが、そう言い聞かせてないと、ずるするので。基本的には腰がすわらない人だ。いつもあいまいにしているので、後であわてる。詩がもうすぐ〆切なので、自分に鞭を打つ。いくつかは出来ているのだが決定打が今ひとつ。ちょっと自作を辛く見すぎかな。他今後の進路というかやりたいことが何か、何でやりたいのか、明確にしていく必要がある。それ次第で、進む方向も、はっきりする。あああマジメな反省文みたいだ。
 ネットで出会った方が詩集を買ってくださるという。とてもうれしい。
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May 22, 2006

たまねぎ

 060522_1947~001



 親父の田舎の叔母さんにもらった、たまねぎが非常にうまい。スライスにしてもよし、お汁に入れると甘さと味わいがびっくりするほど、溶けていく。上記の写真がそれであるが、甘くて、しんなりして、芳醇な味です。
 あんまり自慢することではないが、昨日今日と、晩飯を作ったのだ。そして、たまねぎ。昨日はサラダとみそ汁に、今日は、トマトとあわせて生で食べた。
 彼女の友達がぼくのことを聞いて「女の子に生まれてくればよかったのに」と云っていたそうだ。今日はとうとう彼女に「私のお嫁さんになりなさい」と云われてしまったのである。ううう、喜んでいいのか!
 たまねぎはむいてもむいても、中味がないという例えに使われるが、たまねぎにも詩があるとすれば、それは、形のキュートさと、切った歯ごたえにあるだろう。だから、全部中味なのだ。
 昨年の今頃は、文字通り、「希死念慮」が迫っていた。(その前は躁状態その他もろもろ)死が避けられない現実のようにありありと感じられた。その力は恐ろしくて、自分は甘えてるのかもしれないけども、彼女にそれを云ったら、いつも泣いて真剣に怒ってくれた。しかし、怒られても、わかっているけど、強烈な感覚なのだ。医師にも入院を勧められた。それが数ヶ月で治り、寄せては返す波のように不安にもまれながら、過ごしてきたら、少しずつ薄皮を向くように、良くなっていった。今でも薬を飲んでいる。こういうといっぱしの闘病みたいだが、病気は総体的に見て軽いほうだと自分では思っている。
 これからは自分のやりたいこと、向いていることがやれればいいかなと思っている。やはり福祉ということになるのか。精神保健福祉士や社会福祉士の通信教育を調べたりしてみた。研修期間は1年7ヶ月くらいある。お金のこともある。やるなら、来年度ということになる。もっと簡単な形でもできることがあればいいかなと思う。長く社会から遠ざかっており、できるかなとか、まだ億劫感や虚無感は残っていて(これらは性格的なこともあると思う)、それらをこえて、なにかできるか、無理をしないかだと思う。そういいながら、怠惰なときも山ほどあるのだが。  
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May 20, 2006

バトン

ミクシィのフルショーさんから。



「指定型★バトン」

フルショーさんの指定は「詩」についてです。

◆最近思う『詩』

やはり、詩との関係は、一筋縄ではいかないということでしょうか。単に表現するのではなく、自然に生まれてくるものをどこまで大切に出来るかだと思います。
駅を歩いていたりして詩がやってきたと思っても取りこぼしています。そういうときは、少し時間を置いて、浮かんでくる言葉で、釣りで言うとかかった感じを大事にします。詩は生活の中から生まれてきます。そして生活を飛び越えていきます。
あまり多く人の詩は読めなくなっています。自分に必要なものだけということでしょうか。そんなに読むとは何か、書くとは何か、突き詰めて考えないようにしています。しんどくなるから。いつかまた考えなければならないときが来ると思います。あと、必ず彼女に読んでもらっています。よく嫌がられますが。

◆この『詩』には感動

やっぱり、何かその詩の核を達成している、あるいはプロセスが率直に書かれていて飛躍もある詩。自分でもそんなのが書けたらうれしいです。

◆直感的『詩』

なんでしょうか。空でしょうか。海でしょうか。大地でしょうか。
自分が歩いていく場所。帰る場所。

◆好きな『詩』

北村太郎。その人の生き様が表れている詩というよりは、多少ごつごつした表現の詩でしょうか。北村太郎は洗練されていますが、それでもくせ、ねじれがあります。

◆こんな『詩』は嫌だ

いやな詩は、直感的にわかります。
虚構じゃなくて自分にうそをついて書いてる詩でしょうか。

◆この世に『詩』がなかったら

もしかしたら無くても生きていけるかもしれない。
生きている事自体を詩のようにしてしまいたい。
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May 19, 2006

田舎

 火、水と親父の田舎(徳島の羽ノ浦、現阿南市)に父と父の姉と帰っておりました。
 おばあちゃんが50年も、住んだ住まい。区画整理。さみしい。たくさん写真や、手紙が出てくる。物持ちのよかった人だ。なつかしい。父が買った土地には、叔母がえんどう豆を植えている。
 食べ物はおいしい。寿司がおいしい。おばあちゃんの仏壇の魂をおじゅっさんに抜いてもらう。家を片付けて、いるものといらないものを整理する。父が布団などをリサイクルセンターに持って行く。
 ひさびさに働いたので気持ちよかったです。
 でも、思い出の品を持って帰ったら、「これどーすんの」と彼女に怒られました。確かに、ぼろぼろのものばかり。でも、なんとかわかってくれました。
 昨日はカウンセリング行ってきました。まあぼちぼち話せました。  
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May 15, 2006

明日

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  明日から、二日間父の田舎、徳島に行きます。父の実家の荷物の整理です。父方のおばあちゃんはもう亡くなっています。母方のおばあちゃんは健在です。認知症になっているから、ぼくのこと覚えているかわからないと父は云っていました。ひさびさに行きます。

 昨日は、弟の個展に行ってきました。弟の絵が少し変わっていってるような気がしました。「新しき言葉」展。何か新しいものが生まれる過渡期にさしかかっているように思いました。弟がどんどん大人になっていくような、置いてきぼりになるような、そんな気がしましたが、彼女は「そんなことない。大丈夫」といいました。自分は今自信がないのだと思いました。ふたりともそれぞれに変化の途上にある。そう思いました。弟がおなかを触って、「ダイエットしーや」と云いました。
 食べ物がたくさん出ていたので、パクパク食べていると彼女に「恥ずかしい」と云われました。
 ジャズ喫茶に行ったあと、ラーメンを食べて帰りました。上の写真が個展の絵です。
 今日は、ぼくは被害者意識がつよいなあと思いました。ものの見方がどうしても、「やられたらどうしよう」「あのときはしんどかったなあ」となってしまって、思い出すのも、自分が被害者だと思い込んでいるのです。実際はいろんな場面で加害者であったり、傍観者であったりするし、自分を守ろうとして、加害したりというのがあるかもしれません。特にネットでは、言葉に気をつけないといけないなあと思いました。思い返せばいっぱい失敗があるような気がします。「あんなことしてしまった」とか。怖いなあ。
 でもそうしながら、人に迷惑をかけたりしながら、生きていくことを恐れながらも、今いきているわけなのです。その事実は変わりません。今を生きるのがこわいのかもしれません。そういうことをテーマにした詩を一度書いてみたい。書けるかな。
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May 14, 2006

公開合評会

 昨晩は、ドードーという詩の同人誌の公開合評会に行ってきました。Kさんが誘ってくださったのです。同人誌が出来たら催されるもので、ぼくは昔も少し参加させてもらっていたのだけれど、久々で楽しかったです。自由にあたたかく詩論を戦わせる雰囲気がありました。KさんやBさんに「太ったね」といわれました。ぼくはKさんに、「昔よりおとなしくなった」といわれました。ぼくはむかし「理論派」だったというのです。そうです。ぼくはかつては、詩を熱く語っていました。今でもその思いは変わっていないけれど、表現の方法が変わったのと、久々にいろんな人に会うので少し緊張していました。Kさんも昔から優しかったのですけど、相変わらず元気そうで、発言もやさしく的確で素敵でした。丸くなっていました。
 ぼくは昔のような鋭さは確かになくなりました。病気で当意即妙とまでは行かなくなりました。のんびりです。もっといろんな人の意見を聞いて、大らかに表現から、立ち上ってくるものをゆっくりみつめたいという気持ちです。無知の知というのもあります。いろんなことが本当に理解できているのか、もっと多様な読みがあるのではないかと思うようになったかもしれない。まだまだ自分がわかっていないということがわかっていないというのもあると思う。それから、過激な発言で、別の場所で、過去に失敗したというのもある。自分だけに見えてくるものを語りたい。次回からは、自信を持って、もっと突っ込んで発言しようかと思います
 飲み会は文学学校時代よく行っていた、韓国料理屋に行きました。知らない人も多かったけれど、あまり緊張しなかった。
 なにより、同人のKさん、Bさん、Tさん、Iさん、Yさん(この方ははじめましてでした)に会えたのがよかったです。Tさんは休んでいました。
 「マチベン」、最終回録画したのを朝見た。真実を表す痛みを感じさせ、そこから人間の姿が立ち上がってくる弁護士ドラマでした。出ているキャストのあたたかいチームワークが感じられました。
 今日は弟の個展にいこうかと思います。
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May 13, 2006

もののけ姫

 昨夜、彼女が眠っていて、「もののけ姫」をテレビで見た。 たぶん10年ぶりくらいだと思う。前は映像のいまいちさやオチがきになって、いまいちだなと思ったのだが、これは、見せる映画ではなく、「伝える」映画なのだなと今回感じました。物語序盤の映像はきれいでアシタカと一緒に旅したくなります。いつ見てもオッコトヌシの最後は悲惨です。
 宮崎アニメはぼくの自意識の目覚めとかぶっている。初めて出会ったのは11歳くらいです。ハイジなど入れるとおつきあいは長い。成長しながら、時々見ていたという感じです。この映画は90年代後半という背景でしか伝わらない切迫した、破壊と再生のドラマがありました。たしか、パンフに今は亡き網野善彦氏がなにか書いていたはずです。なんで遠くの国から来たアシタカとタタラ場の人が話が通じるのか謎ですが。
 宮崎さんは頑固な偏屈な人だと思います。でもタイムリーな映画を作れるのは深いところで現代への認識がまちがっていないからでしょう。美輪さんの出番が少なくなってきました。
 ゲド戦記の予告を見ました。息子の吾朗さんがやるそうです。おやじを継ぐのは、内心いやじゃないのかなあと思いました。
 今日は知り合いの同人誌の合評会に行きます。  
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May 11, 2006

気持ちは高くもっていたい

 友達のブログを読む。うつが治ったようだ。すばらしいことである。ぼくもうれしい。
 今日の巨人ーオリックス戦は、オリックスの新人エースも好投したのだが、巨人バッテリーがすばらしかった。西村健太郎投手が、工藤のマメによる降板にひるまず、しっかり投げていた。巨人強しの試合だった。親は巨人ファンで、ぼくはちがうのだが、見ていて、いい試合だった。
 昨日K田さんからメールがあって、うれしかった。もうすぐ出版なされるということだ。こちらも楽しみだ。
 ぼくは調子は良くもなく悪くもなくという感じである。ちょっと落ち込みそうになるが、何かすると止まる。脳の中のもやもやはあるのだが、異常には気にしない。
 頭のいい人というのになるのを、もうあきらめかけている。本だって、以前みたいにサクサクは読めなくなった。元気なときに比べ、見た目もさえなくなった。まだまだ、かっこよくありたい年頃なのだが、鈍なくらいで、いくのがいいかなとも思いかけている。そして、あきらめたくはない。気持ちは高くもっていたい。
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May 09, 2006

つながりについて

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 今日は診察であった。3時間待ちなので、実家(クリニックの隣町にある)に昼ごはんを食べに行く。そのとき、美しく咲くツツジを撮影。父は、ボランティアを増やすようだ。どこまでいい人なんだかと思う。元気が一番とも思う。

 終わって梅田の旭屋に行き、市村弘正・杉田敦「社会の喪失」などを買う。市村は硬派な思想家で、藤田省三などの流れをくむ人。それに杉田がばんばんツッコミを入れていく対談本。市村も応戦する。その元には、市村の「標識としての記録」という本から出してきたテキストが使われている。一粒で二度おいしい本なのである。
 対話というのは、自分の云いたいことを、徐々に明確にしあうプロセスなんだなということが実感される本だった。(まだ途中だが)云いたいことを明確にしあうということは、相手との違いと同一性をみることになる。非常に当たり前の作業だが、なかなか知的だけでなく感覚に訴える対談というのは少ないので、当たり前の作業は実は当たり前になっていない。それほどまでにマジなやり取りが続く。
 市村は「国家に抗する社会」と云っているように、社会というものの中に、ぎりぎりのところでは国家とは異なる連帯の可能性を夢見ている節がある。杉田は、社会の中にも、様々な境界線がひかれて、権力がはらまれている、それに注意せよという立場だった。でもこの二つの立場は、対立し合うものではなくて、事の両面のように思う。わたしたちは、どこかでつながりというものを関係が希薄な社会でも求めるし、また、それぞれの立ち位置、テリトリーというものに敏感でなくてはいられないという事実がそれだ。あるいは出会いと別れ、日々不断に、営まれて、わたしたちを悩まし喜ばす。たぶん、この本は現代人の根底にある関係性がテーマの予感がする。
 今日医者に、悩みながらも、なんとかやっていますというと、「それがいいんですよ。基本的なことです。悩みがないから元気ですというのは弱いでしょう」と云われた。確かに、そうやって、苦しみながらも、日々を送っているのだった。それは弱ることばかりだけど、そうやって弱りながら日々をつなぐことも健康さのあらわれかもしれない。
 関係ないが、自閉症研究で「心の理論」という言葉がある。我流に解釈すると、自閉症の人は(とひとくくりにできにくい)「心の理論」つまり、他者を想定したり認識に繰りこんだりする働きが障害されていると言われる。しかし、今までそうなのかなあ?と疑問に思ってきた。
 自閉症の人は、とても苦しいなりに、その独自の感覚世界を生きている。それを、一緒にいると、ああこういうときは気分が良いんだなと推測できる。つまり「心の理論」で、補い、ぼくも、自閉症の人になんだか補われているような、気分いいなと感じることがある。こういう感覚をどういえばいいのか、それを単純に「つながり」と呼べるかなあ。なんだかよんでいいような気もする。
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May 08, 2006

詩を2本

 けんかは一昨日におさまりました。ご心配をかけたかもしれないので、皆様すいませんでした。ブログのカウンターが14000くらいになっていて、たくさんの人に見守られているんだなとうれしくなりました。彼女は、自分が怖いといっていました。とてもよくわかりました。ぼくも底なしみたいに、気になり続けるということがあるので、自分が怖いです。業というものだろうか。
 今日は朝シャワーをしました。気分よかったです。そのまま二度寝してしまった。灰皿町はウェブ障害になっていました。原因は調査中とのことです。昨日は雨の中図書館に行き、読まねばならない辻征夫の詩集を借りました。NHKの「マチベン」というドラマ、もう少しで終わりだけど面白いです。土曜の9時です。
 昨日と今日で詩を2本書きました。少しずつ書きためていこうと思います。すぐネットに発表せずに、ためをつくる、書くことを楽しむ。夢中になってみる感じを取り戻してみたい。ぼくの生の中心課題である魂の体験をたくさん書いて、さらにノイズがありながらも、澄んだものにしていきたい。あとそのために毎日の生活が大事。やっぱり観念と具体のバランスは大事だと思う。ぼくのような思い込みの強い人間には。
 ネットでは詩を書くこと、読むことに色んな意見が飛びかっているけど、夢中になる時間を大切にしていけば、議論をしている時間が惜しくなってくるんじゃないかなと思う。
 それから、批評を書ける人は積極的にいいと思った詩をどんどん紹介していくといいと思う。すごくシンプルな意見で申し訳ないけど、紹介することは大事だと思うのです。しかも、タイムリーな詩だとか、そういうのを度外視できる環境ができればいいな。そんなの出来そうもない気もするけど。
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May 06, 2006

けんか

 彼女と喧嘩になった。ぼくがしつこく確認を求めるので、彼女が、きれてしまった。彼女もきついこと言った。
 だいぶマシになってきたが、ぼくはどうしてこうもくどいのか、自分でもあきれる。ぼくは、あほなので、そのまま無自覚にいってしまって懲りないのである。
 お互い気まずいときなので、ちょっとずつ、話していくしかないだろう。でも、少しずつ歩み寄れてるような気がする。
 辛抱である。思いやりである。必要なのは。これも日常の中だ。適切な距離感をぼくが自覚するよいチャンスだ。
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May 05, 2006

昨日のスケート、今日の気分

 今日は、つい先日みたいに暑くもなく天気もよくさわやかです。あんまり天気は気にかけないですが、なぜかさわやかな幸せな日というのがあります。雨でも幸せな日があります。天候はからだを大きく左右します。うちの母は気圧の変動で、頭が痛くなったりします。
 朝から彼女の実家に行って車を洗い、犬と遊んだり、お母様と話したりして、昨日の疲れも吹き飛んで、めずらしくとても気分いいです。体を動かしたのがよかったんでしょうか。ただ自分が太ってきたのが気がかりです。  詩の大先輩K田さんに詩集の感想を送ったら、返事が返ってきて、感想がよかったとのことで、うれしいです。
 昨日は友達と彼女と難波にスケートに行きました。入場料1400円が障害者手帳のおかげで無料になりました。本人と付き添いはタダなのであとはそれぞれの貸し靴代ともう一人の分の入場料だけです。その入場料はワリカンにしました。浪速スポーツセンター、タダなのはたぶん、市の施設だからです。冬じゃないけど連休中なので結構人が多かったです。子供の頃は、親父がスケートによく連れて行ってくれた。ひさびさだったから、なかなか勘がつかめなかった。でも、友達も彼女も、真剣に楽しそうに滑っていて、一緒に滑れて、うれしかった。彼女は知らないおじさんに、スケートを教えてもらっていました。みんな足は疲れたけど、彼も小説のネタをつかめるかなと思いました。
 晩は難波パークスの中の食べ放題中華の店に行きました。飲み放題、食べ放題で3000円。お得です。パークスの七階にあります。みんなで、腹がはちきれんばかりに食べました。
 そのあと、友達が本屋に行きたいというので、行きました。ぼくは梅原猛「地獄の思想」とアジカンの「ゴッチ語録」を買った。友達は、小説の参考になるものをさがそうと色々見てたけど、買わなかった。ぼくは疲れたのか、かえってすぐ寝ました。途中起きて薬を飲みました。
 
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May 04, 2006

フジロック

 フジロックに加藤登紀子、木村充揮、矢野顕子が出るらしい。特に加藤登紀子はびっくりだ。ライブ見に行ったばっかりだ。やる気満々らしい。テレビが情報源。ワイドショーのスポーツ新聞を紹介するコーナー。(あれあんまり見ないけどたまたま見た)フジロック、一回でもいいから、いつか見に行ってみたいなあ。レッチリとかイースタンユース、アジカン、UA、ソニックユースも一回見てみたい。
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May 03, 2006

祝3000人来訪

 いつもありがとうございます。このホームページ来訪者3000人達成は皆さんのおかげです☆
これからもよろしくお願いします!!

 経済学者のガルブレイスが亡くなったのを知らなかった。そういえば、ボケていて作曲家の宮川泰さんが亡くなって、もうとうに経つのを知らなかった。
 連休である。明日友人とスケートに行く。17日に帰省。ほんとしばらくぶりにおばあちゃんのところへ行きたくなったのだ。20日には読書会。その日に友達の朗読会があって、どっちに行こうかなあ。今日は中古屋に散歩に行く。彼女は墓参りでまだ帰ってきてない。
 去年の今頃は障害年金の申請をしてた。家族に昔のクリニックに初診証明をとってもらったり、たくさん助けてくれた。今があるのも家族のおかげだ。去年の今頃とでは、状態は雲泥の差である。よくなってる。詩集作りでてんてこ舞いになり始めたのも今頃か。時間のたつのは早い。でも、哲学でも議論はあるけど、過去は前向きに変えられるんだと思う。変な歴史修正は別として。
 阪神タイガース、名前が変わってほしくないもんだ。近鉄が変わったとき、切なかった。名前は歴史なのである。  
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