Sep 15, 2009
オルフォイスへのソネット・・・メモ3
順不同ではありますが、このソネットのなかで何度もわたくしが立ち止まった「第二部・24」について書いてみます。冒頭からは大分飛んでしまいますが、もともとソネット全文について書くつもりはありませんので、気付いたことから書いてゆきます。ちなみにドイツ語は全くお勉強したことはありません。赤子と同じです。翻訳者の註解を頼りにしつつ、反面ナマイキにもそれらを疑ったりしながら読んでいます。だって翻訳者同士の解釈の異論が錯綜するのですから、最後の決断はこの未熟な読者のキッパリ(?)とした判断しかないのです。
* * *
《第二部・24》
おお この歓び、つねに新たに やわらかな粘土より!
最古の敢行者たちにはほとんど誰も助力しなかった。
にもかかわらず、街々は祝別された入江にそって立ち、
水と油は にもかかわらず 甕をみたした
神々を、まず大胆な構想をもって、私たちの描く者たちを
気むずかしい運命はまた毀してしまう。
だが神々は不滅の存在。見よ ついに私たちの願いを聴き入れる
あの神の声が 私たちにひそかに聴き取れるのだ。
私たちは 幾千年も続いてきたひとつの種族――母であり父たちであり
未来の子によってますます充たされてゆき、
のちの日にひとりの子が私たちを凌駕し、震撼させるだろう。
私たち 限りなく敢行された者である私たちは、何という時間の持ち主なのだろう!
そしてただ寡黙な死 彼だけが知っているのだ、私たちが何であるかを、
そして彼が私たちに時を貸し与えるとき、何をいつも彼が得るかを。
(田口義弘訳・「オルフォイへのスソネット」河出書房新社)
ゆるく溶かれた粘土からうまれる歓喜、たえずあらたなこの悦び!
最古のころの敢行者を助けた者はほとんどなかった。
街々は、それにもかかわらず祝福された入り海にうまれ、
水と油は、にもかかわらず甕をみたした。
神々を当初われらは大胆な構想をもって設計するが
気むずかしい運命がふたたび砕いてしまう。
しかし神々は不滅だ。ついには望みをかなえてくれる
あの神々の声音を盗み聞くがよい。
われらは何千年を閲した種族。母たち そして父たち、
未来の子によっていよいよ実現せられ、
ついには、いつか、その子らはわたしたちを超え、わたしたちの心をゆるがす。
限りなく賭けられたもの、なんとわれらの時は広大なのか!
そして無言の死だけが、わたしたちがなんであるかを見通し、
わたしたちに時を貸すとき、なにを獲(う)るかを知っている。
(生野幸吉訳「世界の文学コレクション36・リルケ」・中央公論社)
* * *
恐れもなく自己流解釈をします。「粘土」という言葉からは、当然神が人間を粘土から作り賜うたというものであるという前提はあります。「祝別された入江」あるいは「祝福された入り海」というところからは、人間の集落は必ずと言っていいほど、水辺から始まったということ(これはわたくし自身の永年の確信犯的発想です。)に繋がってゆくようです。そこには粘土で作られた家、それから甕、そしてそこには水も油も満たされている。人間のいのちはそこで「幾千年も続いてきたひとつの種族」となっていくのでしょう。そして「未来の子によってますます充たされて」あるいは「未来の子によっていよいよ実現せられ」人間社会は連鎖してゆきます。ですが気むずかしい神の手によって毀されることもある。人間が堕落した時の神の怒りでしょう。こうして人間は生きながらえてきました。「何という時間の持ち主なのだろう!」・・・と。人間のいのちには限りがありますが、それを連結してゆくことは可能です。時間はこのように神から人間に賜ったものではないか?このような解釈ではいかがなものかな?(←最後は気弱だなぁ。)
《付記》 生野幸吉訳を追加しました。
Sep 11, 2009
オルフォイスへのソネット・・・メモ2
ふたたび冒頭の「第一部の(1)」の4行について、お2人の邦訳を並べてみました。
すると一本の樹が立ち昇った。おお 純粋な超昇!
おお オルフォイスが歌う! おお 耳のなかの高い樹よ!
そしてすべては沈黙した。 だが その沈黙のなかにすら
生じたのだ、新しい開始と 合図と 変化とが。 (田口義弘訳)
そのときひともとの樹が生い立った。 おお純粋の昇騰!
おおオルフォイスは歌う! おお耳のなかに聳立(そばだ)つ大樹!
そしてすべては黙っていた。そして沈黙のうちにさえ
あらたな開始、合図、変化が起きつつあった。 (生野幸吉訳)
「メモ1」では、先走りの解釈をしてしまったようですので、改めて書いてみます。まず「オルフォイス」の歌声あるいは竪琴の音色だろうか?それによって、1本の(ひともとの)樹が超昇(昇騰)するのですが、これは耳のなかに聳立つ樹なのでした。あくまでもここでは聴覚の段階です。しかしそこには沈黙もあり、その対比のなかで、なにかが起きるであろうという予感です。大変すぐれたプロローグとなっています。「うつくしい耳鳴り」と言ったら叱られるかな?
《追記》
過去ログを検索しましたらリルケの「若き詩人への手紙」について書いた日記が出てきました。リルケに拘り続けた原点をみつけたような気持でした。
Sep 10, 2009
オルフォイスへのソネット リルケ ・・・メモ1
翻訳:田口義弘
この詩集の初めには「ヴェーラ・アウカマ・クノープのための墓碑として書かれる」と記されています。
このソネットは「ドゥイノの悲歌」が書かれた時期と大分重なっているようです。ただし「悲歌」のように第一次大戦などの大きな障害のなかで、ペンが進まず10年の歳月がかかったのに比べて、比較的順調に書かれたようです。このソネットに大きな影響を与えたものは、ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」でした。この詩は手書きで紹介するのにはあまりにも長いので、ここにリンクさせていただきました。この翻訳者の方は存じ上げませんが。リルケはこの詩を独訳していますが、この「海辺の墓地」との類想と対峙が「オルフォイスへのソネット」にはみられます。
このポール・ヴァレリーの詩は、堀辰雄の「風立ちぬ」のなかで引用されている1行「風立ちぬ いざ生きめやも」でも有名な詩ではありますが、どうもこの1行だけが1人歩きしているような気がします。
「ドゥイノの悲歌」のなかで呼び出される「天使」は、彼岸でも此岸でもなく、この大きな統一体に凌駕するものとして存在しましたが、この「ソネット」のなかでの「オルフォイス」は、神話のなかに登場する比類なき楽人のことです。神ではありますが、絶対化されていながら、無常な一個の人間としての姿も見えてきます。
冒頭の4行は・・・
すると一本の樹が立ち昇った。おお 純粋な超昇!
おお オルフォイスが歌う! おお 耳のなかの高い樹よ!
そしてすべては沈黙した。 だが その沈黙のなかにすら
生じたのだ、新しい開始と 合図と 変化とが。
・・・・・・とはじまります。そこから第一部(1~26)第二部(1~29)の55のソネットが続きます。この冒頭の4行から予感されることは、1本の樹が立ち「昇った」という邦訳から、地上にこの1本の樹が在るということは、葉が繁り、花が咲き、果実が実り、ということは地下に眠るさまざまな死者からの「押しあげ」ではないか?と言うことです。梶井基次郎の「桜の樹の下には」なども思い出されます。
この「オルフォイス」はかなりポピュラーな神であって、絵画、オペラ、彫刻、戯曲、バレエなどなどさまざまな分野で表現されています。わたくしの古い記憶を辿れば、映画「黒いオルフェ」もそれだったと思います。
では序章はここまでと致します。
(2001年・河出書房新社刊)
Sep 06, 2009
若き女性への手紙 リルケ
「リルケ」と「リーザ・ハイゼ」との往復書簡は、1919年「ベルサイユ条約」調印式によって、第一次世界大戦が終息した時期の1年前の1918年から1924年まで続きました。「リルケ」はスイスにいましたが、「グラウビュンデン、ソリオ」「ロカルノ(テッシン)」「チューリヒ州、イルヘル、ベルク館」「ヴァレリー州、上ジエル、ミュゾット館」と次々に住いを変えていますが、「リーザ・ハイゼ」からの手紙はもれなく届いているようです。最後の「ミュゾット館」において、1914年以来中断されていた「ドゥイノの悲歌」が1922年に完成され、それと時期が重なるように「オルフォイスヘのソネット」も完成します。1923年、この2冊が「インゼル書店」から出版されます。
この往復書簡の始まりは「リルケ」の「形象詩集」を読んだ「リーザ・ハイゼ」が感動して、未知の詩人に手紙を書いたことから始まります。残念ながら2冊の本にあたりましたが、「リーザ・ハイゼ」の手紙は省略、あるいは簡単な説明があるだけでした。手紙好きの「リルケ」ではありますが、こうして未知の女性に真剣に優しい言葉を書き送るという厚意は稀有なことに思えます。若くして両親のもとを離れ、その後、夫はなく1人息子と共に真摯に生きようとする彼女(=自然を生きるということ。)への尊敬と危惧を抱きながら、送られた手紙でした。最終部分では「リルケ」はすでに病んでいます。
リルケの第1信ではこのように書かれています。『芸術作品と孤独な人間とのあいだに起こるこの欺瞞は、太古以来神の所業を促進するために聖職にある者が用いてきたあの欺瞞と相通ずるものがあります。(中略)ですから私の方でも、あなたに劣らず正確に立ち向かいたいと思い、ありきたりのご返事ではなしに、心に触れたありのままの体験をお話しようと思います。』・・・と長い時間をかけて続くであろう、この往復書簡の予感をすでに書いています。
最後の手紙は不安を残しているようです。これは「リーザ・ハイゼ」の転々と変わる境遇への不安、それを見届け、手を差し伸べることの出来ない「リルケ」自身への不安でしょうか?『あれほどに力を注いで素朴な、価値ある仕事をなさったあとで、謙虚に、しかしやっぱりなんらかの形で認められたいという純粋な期待を持ちながら立っておられるあなたには、偽りのものが語りかけたり、触れたりすることはできるはずがない――と思います。』
(1994年「世界の文学セレクション36」所収・中央公論社刊)
(翻訳:神品芳夫)
(平成19年・第62刷・新潮文庫「若き詩人への手紙・若き女性への手紙)
(翻訳:高安国世)
* * *
さてさて「リルケ」の追っかけ(?)がどこまで続くことか?我が書棚には、大作「オルフォイスへのソネット」「オーギュスト・ロダン」などが、どっしりと鎮座していますが。。。
Aug 29, 2009
子どものいない世界 フィリップ・クローデル
翻訳:高橋啓
挿画:ピエール・コップ
「フィリップ・クローデル・1962年フランスのローレンス生まれ」の著書は、「リンさんの小さな子」と「灰色の魂」に続いて彼の著書を読むのはこれが3冊目です。前記の2冊とも全くタイプの違う小説でしたが、この「子どものいない世界」は絵本です。翻訳者の高橋啓氏も大いに戸惑い、かつ翻訳に苦しんだようでしたが、でも楽しんだのではないでしょうか?この著書の献辞には・・・・・・
日々驚嘆させてくれるうちのプリンセスのために
いずれは大人になる子どもたちのために
そして、かつて子どもだった大人のために
・・・・・・と書かれています。この「うちのプリンセス」とは、「フィリップ・クローデル」のベトナム生まれの養女「クレオフェ」のことでしょう。この著書のプロデュースは「クレオフェ」の養母であり、また「フィリップ・クローデル」の奥さまでもある「ドミニク・ギョーマン」です。ここには20篇のお話や詩篇が収録されています。
その第一話が「子どものいない世界」です。ある日突然世界中の子どもたちがいなくなってしまうのです。以下のメッセージを残して。
『いつもしかられてばっかで、ぼくらのはなしなんかぜんぜんきいてくんないし、あそびたくてもあそべないし、やたらにはやくねなくちゃなんないし、ベッドでチョコたべちゃだめだし、いっつもはをみがけってうるさい。おとなにうんざり、でていくからね。あとはかってにしたら! 子どもいちどう』
ここの部分の「高橋啓」の翻訳作業はさぞ楽しかったのではないかと想像します(^^)。さて、子どもたちが行ったのは、世界中の大人が知らない「マデラニア」という国の南の果てにある「ケランバラ」というオアシスでした。子どものいない世界は奇妙な眠りのなかにおちてしまったようで、教皇、ダライダマ、各国の大統領、元首、首相、親たちがテレビとラジオで必死で呼びかけ、子どもたちはようやく帰宅したものの、その子どもたちもやがて大人になって・・・・・・。お話はえんえんと繰り返されていくのです。。。
もう一話「どうかでかっぽじっとくんなさい!」という奇妙なタイトルの物語は、意味をなさない造語で綴られた作品で、フランス語の「音」の効果で出来た作品ですので、翻訳者が「ほとんど翻訳不可能に近い。」と言いつつも、匙を投げるわけにはいかず、著者とのメールのやりとりで、なんとかかたちにしたそうです。フランスの子どもたちなら大笑いするそうですが、日本の子どもにはわかるだろうか???この物語の全部がこうした言葉で翻訳されているのですから。最後はこのように終ります。わかりますか?
『では、たらっちょ、こむむすさま、たらっちょ、がりれば、よいほろんちを!』
同じ日本国内であっても、ほぼ標準語で育ったわたくしには、特に高齢者の方言は理解不可能なほどわからないことがありますが、音を聞き分けるとなんとかぼんやりと標準語に置き換えることはできます。そんなことを思いだしました。
* * *
近頃「翻訳」というものがいかに困難なことであるのかを実感(←と言ってもわたくしができるわけではありません。すみませぬ。)しています。「翻訳」ということを考える時にいつも思い出す言葉があります。それはポーランドの1996年ノーベル文学賞受賞詩人「ヴィスワヴァ・シンボルスカ」の「橋の上の人たち」を翻訳された「工藤幸雄」の言葉です。
『未知であった彼女の詩集の1冊をこのように晴れがましい形で〈試訳〉する幸福を訳者は恵まれた。あえて〈試訳〉とへりくだって、そこに拘泥する。訳詩とは、あくまでも〈試みの翻訳〉に過ぎないと思うからだ。ひとつの訳語の選択は詩想の伝達を大きく左右する。原詩の心の揺れの総量がそのまま伝達できるとは訳者は思えない。
畏れ多い名を掲げるなら、かの上田敏「海潮音」、また堀口大学「月下の一群」ほか諸先輩の訳業に及ぶべくもない。』
(2006年・みすず書房刊)
Aug 24, 2009
ドゥイノの悲歌ーメモ7
リルケの翻訳者
リルケの「ドゥイノの悲歌」の翻訳者は、今まで把握できた範囲では「手塚富雄」と「古井由吉」のお2人しかいらっしゃいませんでした。図書館から借り出した「世界の文学セレクション36・中央公論社・1994年刊」の「リルケ」では以下のとおりです。
マルテの手記 杉浦博 (大山定一)
神さまの話 手塚富雄 (谷友幸)
ドゥイノの悲歌 手塚富雄 (手塚富雄&古井由吉)
オルフォイスへのソネット 生野幸吉 (田口義弘)
オーギュスト・ロダン 星野慎一 (塚越敏)
若き詩人への手紙 生野幸吉 (高安国世)
若き女性への手紙 神品芳夫 (高安国世)
解説:生野幸吉 年譜:神品(こうしな)芳夫
やはり「悲歌」の翻訳者は2名しか見当たりませんでした。
新しく知ったリルケの翻訳者は「神品芳夫」でした。
*( )内のお名前は、わたくしの手持ちの本の翻訳者のお名前です。
Aug 16, 2009
ドゥイノの悲歌ーメモ6
リルケの「1913~1920年の詩」のなかに、「天使」について書かれた作品があります。「ドゥイノの悲歌」のなかで、度々呼びかけられる「天使」と同じ「天使」ではないか?と推察いたします。「1913~1920年の詩」たちは「ドゥイノの悲歌1912 ~1922年」の序曲と思われますが、書かれた時期の重複期間から察するに、同時進行だったのではないでしょうか?「ドゥイノの悲歌」全体の完成までの期間には、修行僧のごとき詩作が繰り返されていたように思います。「天使」という大きなキーワードから決して離れなかったリルケがいたということですね。
天使に寄す リルケ 富士川英郎訳
たくましい 無言の 境界に置かれた
燭台よ 空は完全な夜となり
私たちはあなたの下部構造の暗い躊躇のなかで
むなしく力を費している
私たちの運命は内側の迷宮の世界にあって
その出口を知らぬこと
あなたは私たちの障壁のうえに現われ
それを山獄のように照らしている
あなたの歓喜(よろこび)は私たちの世界を超えて高く
だが 私たちはほとんどその沈滓(おり)を捉えることはない
あなたは春分の純粋な夜のように
昼と昼とを二分して立っている
誰にできようか 私たちをひそかに濁らせている
この調剤をあなたに注ぎこむことが。
あなたはあらゆる偉大さの光輝をもち
私たちは区々たる小事になれている
私たちが泣くとき 私たちは可憐のほかのなにものでもない
私たちが見るとき 私たちはせいぜい目覚めているにすぎない
私たちの微笑 それは遠くへ誘いはしない
たとえ誘っても 誰がそれについてゆくだろう?
行きずりの或る者が。天使よ 私は嘆いているだろうか?
だが その私の嘆きはどんな嘆きだろう?
ああ 私は叫ぶ 二つの拍子木をうちたたく
でも 私は聞かれることを思ってはいない
私がここにいるとき あなたが私を感じるのでないならば
叫ぶ私の声もあなたの耳に大きくなりはしないのだ
ああ 耀けよ 耀けよ 星たちの傍らに
私をもっとはっきりさせるがいい なぜなら私は消えてゆく
ここで少し解説が必要ですね。
最初の一行目の「境界」は人間の世界の果て。人間の可能性の限界を言っています。
二行目の「燭台」は、天使の光り輝く燭台でしょう。三行目の「暗い躊躇」は人間の世界は天使のいる位置からすれば、ずっと下方(下部構造)の闇のなかにある。その闇そのものが落ち着きなく浮遊していることと、人間の不決断を現しているのだろうと思います。「この調剤」は人間を譬えたもので、濁って不純な混合液なのです。
《追記》
このメモを書く度に、いろいろなことを教えて下さる方がいらして、再考する機会を頂けます。恥多きメモも度胸よく書くのもいいものですよ(^^)。
あなたは春分の純粋な夜のように
昼と昼とを二分して立っている
(3連目の2行)
つまり「春分(秋分も同じですが。)」は夜と昼の時間が同じになること。ですから、その季節の夜は、大変うつくしく「昼と昼」を分割しているということです。
リルケは詩作の日々のなかで、繰り返し繰り返し「天使」に呼びかけましたが、その歳月のなかで、天使との距離が変化してきた、あるいは「啓示」を受けるようなこともあるということですね。
Aug 10, 2009
ドゥイノの悲歌ーメモ5
「サルタンバンク・大道軽業師 ピカソ」
ドゥイノの悲歌・5」について書いてみます。ここの章は、パリの広場で興行する旅の「曲芸師」たちのことが書かれています。これは「リルケ・1875年~1926年」が最後に書いた章ですが、これはもともと10番までありますが、書かれた順番にはなっていません。まずは古井由吉が、この5番を翻訳しながらつぶやきのようなメモも書いていますので、そこから引用します。
「過少」とある脇に「できない」と、「過多」とある脇に「できる」と、それぞれにルビをふろうかと思うが止めておこう。
この古井由吉のつぶやきは、曲芸師を有能な外科医と例えてみてもいいかもしれません。難しい手術を冷静沈着にやり終えて、患者の経過も良好、しかし時には外科医は悪夢をみる。そして曲芸師は時には失敗して落下することもある。見事に拍手喝采をあびることもある。「できる」と「できない」との境界線は、揺れながら存在するだけで、子供の曲芸師であれ、老練な者であれ、太った大男、小人であれ同じことだが、しかし本当に「できない」時は必ずくるのです。
そして、別の場面から登場してくる「マダム・ラ・モール」とは「死の夫人」であり、街の雑踏を歩きまわりながら、美しいモードを飾りつけたりしながら、時には「死の衣装」を纏わせたりする存在かもしれないのだった。
この街を1枚の絵画として考えてみませうか。もう1人の翻訳者「手塚富雄・1903年~1983年」の生きた時代ならば(もちろん古井由吉・1937年生まれも。)「ドゥイノの悲歌・5」と、「ピカソ・1881年1~1973年」の絵画「サルタンバンク・大道軽業師」とを連想することは容易なことです。(リルケはピカソを知っていたのだろうか?)この絵画のような人々が、パリの広場に小屋を建て、使い古した絨毯を敷き、曲芸を見せて、客の喝采を浴びたり、驚かせたりするのです。もちろん詩人リルケも驚き、喝采するのですが、この曲芸師たちから立ち昇ってくる「死のにおい」までも吸い込んで苦しむことになるのです。それは曲芸とは、組み上げられた樹のようなものでありながら、その樹の果実は「落下」しかないということに注目するからでした。わたくし的には映画「道」まで思い出しました。
「マダム・ラ・モール」、「曲芸師」・・・・・・パリの広場では際限もなく見世物小屋が建つ。客が投げ出してゆく硬貨・・・・・・それはいつか、すべて死者が隠し持っていた硬貨になってしまうのではないか?
この解釈は、どこからからか猛烈なお叱りを受けるだろうなぁ。これも楽しみです。曲芸の詩ならば、読む方も曲芸なのですからね(^^)。恐るべき誤読やもしれぬ。
* * *
リルケの詩には、「悲歌」に限らず、何度も「噴水」という言葉が使われています。それはこの地上のさまざまな出来事を「詩の言葉」として、噴水のように昇りつめては、天使に届かずに落ちてきてしまうことの哀しみなのではないかと思われます。この「悲歌」全体は天使への呼びかけであり、「愛する女たち」への捧げ物であったりしますが、「愛の呼びかけ」を届け続けることをやめることはできないのでした。
噴水 リルケ
ああ 昇ってはまた落ちてくることから
この私の内部にも このように「存在するもの」が生まれでるといい
ああ 手なしで さし上げたり 受け取ったりすることよ
精神のたたずみよ 毬のない毬遊びよ
《付記》
今夜は台風が来るというので、過剰なニュースに脅えて不寝番中です。
《もっと大切な付記です。》
ピカソの軽業師の絵を買うようにと、リルケは、この悲歌5番を献呈している女流作家、Hertha Koenigに助言をしたそうです。ですから、リルケは、ピカソのこの絵を知っていたのです。これはここをお読み下さったI氏からの助言です。ありがとうございました。
Aug 06, 2009
現代詩手帖創刊50年祭
「現代詩手帖・8月号」を久しぶりに購入しました。これは大方のページをさいて、上記の大型イヴェントの報告書となっていたからです。「これからの詩どうなる」というのが、この催しものが掲げたテーマなのですが、この言葉は舌足らずで寒いですね。
この「前座←谷川さん本人がおっしゃっています。念の為。」は、「谷川俊太郎、賢作父子」の楽しい会話と朗読と音楽でした。テーマは「詩ってなんだろう」でした。
「そういうもんなんですよ。言語っつうのは。自分で出そう出そうとすると、なかなか出てこなくて。おれレモンのしぼりかすって自分で思ったことがあるんですよ。君(賢作)ぐらいの年ごろのときに。いまはしぼりかすなんて、自分がそんなに豊かだとは思わない。自分をからっぽにしておけば何でも入ってくるから、それを拒まなければいいっていう、大変にいい加減な感じですね。」←いかにも谷川俊太郎らしい言葉です。
ここから2つくらいのプログラムは飛ばして、1番気になっていた「吉本隆明」の講演の記録を読みました。テーマは「孤立の技法」です。聞き手は「瀬尾育生」です。雑誌に掲載された吉本隆明は車椅子で壇上にいらっしゃいましたが、おだやかな表情をなさっています。いいのです。誰がなんと言おうとも、人は老いる。そこまでの時間のなかでどれほど真摯に「詩」と向き合っていらしたのか?それを忘れてはいませぬ。吉本隆明を過去へ送ることは誰であろうとも許さない。
「すぐれた詩人たちのあとを追っかけて、書きつづけてゆくこと以外に、これからの詩の未来が開けてくるということはありえない。」←長い講演記録のなかから、この言葉を両手でしっかりと掬いとりました。
次は「詩の現在をめぐって」と題されたシンポジウムで、パネラーは、北川透、藤井貞和、荒川洋治、稲川方人、井坂洋子、松浦寿輝、野村喜和夫、城戸朱理。司会は和合亮一です。大分時間が押してきたようで、パネラーは3分という持ち時間でした。長い催し物によくある「おせおせ」タイムだったようです。ここで気になった言葉だけを抜粋します。
★ 北川透
「詩の孤立は絶対的に擁護されなければならない。そうしないと、詩の言葉は次の世代、また次の世代に繋がってゆかない。リレーされていかない。」
「自由詩の今日というのは、言葉が裸の状態で置かれていることでしょう。(中略)この時代に詩が自由であること、つまり裸であることは一見清潔に見える。それは言葉がノイズに近い状態ということで、これが果たして時間的に空間的に遠くに届く言葉でありうるか?」
★ 松浦寿輝
「われわれが生きている世界というものはひとつの大きなテクストであって、それを一枚の紙のながにぎゅっと握り締めて、ほんの十数行ぐらいに凝縮したエッセンス、それが詩。それが読まれるということがない限り、凝縮されたものがもとの世界の大きさにまで戻るということがない。」
★ 野村喜和夫
「凧というのは地上におしとどめようとする力とそれから風に運ばれて行こうとする力のせめぎあい、あるいはぎりぎりの均衡だと思うんですけれども、その凧の舞い狂う姿。これが今の詩、あるいは僕が夢見ているこれからの詩のあり方。」
★ 城戸朱理
「〈前衛俳句〉〈前衛短歌〉は〈戦後詩〉と同時期ではあっても、〈前衛詩〉というものはなかった。〈定型詩〉を失ったがゆえに、私たちの書く詩はつねに前衛でなければならなかったのではないか。」
★ 稲川方人
「敵対すべきははっきりと敵対し、議論すべきは議論する、解体すべきものは解体する、破壊するものは破壊する、という意志を持った詩人が1人でもいれば、現代詩は信頼の足る文学の形式を失わないと思います。」
★ 井坂洋子
「牟礼慶子詩集《夢の庭へ》の最後の詩の最終連に《詩は次の世代のためのものかもしれない》という、オーエンの詩の1行が引用されていました。ああ、人間というものを信じている言葉だと思いました。」
以上、ランダムに勝手に選び出しました。わたくしのこれからの詩作の道標として。
また、そのほかのプログラムについては省きます。あしからず。
Jul 28, 2009
ドゥイノの悲歌ーメモ4
今日、リルケの「オルフォイスへのソネット・田口義弘訳・2001年・河出書房新社刊」が古書店から届きました。翻訳された「ソネット」の部分は、395ページのうちの最初の123ぺージまでで、あとの部分の大半は「註解」に費やされています。そして「あとがき」「索引」となっています。この1冊の大半を占める「註解」はとても読みやすい。
この「註解」では、「ドゥイノの悲歌」の書かれた時期と「オルフォイスへのソネット」が書かれた時期がわずかにクロスしていることがわかります。またさらに再度ここで言っておかなければならないことは、以前に「ドゥイノの悲歌」でも少しだけ書きましたが、「悲歌・1」「悲歌・2」が書かれた後には、第一次世界大戦の勃発、この「悲歌」の進行に大きな打撃を受けています。リルケは彼の生涯のうちで、最も苦しい日々を生きたのです。この時代背景を抜きにして「ドゥイノの悲歌」を語ることは許されないことでしょう。
* * *
無駄話をすれば(^^)、この本には「謹呈・著者」と書かれた栞がはさみこまれたままでした。さらに栞紐はページ内で折り曲げられたままだったということは、この本を贈られた方は、ほとんどお読みになっていないと言うことですね。おかげで新品同様の本でした。お値段も新品よりもお安いのでした。ラッキー♪
Jul 27, 2009
ポルトガル文・続
ポルトガルの尼僧「マリアンナ・アルコフォラド」の5通の手紙については、すでに書きましたが、これは「マルテの手記ーメモ4」だけではなくて、「ドゥイノの悲歌ーメモ3」にも書いたように、2つの著書のなかで、この女性は取り上げられているのです。リルケにとって、どれほど大きな存在だったか?が、深く理解できます。
ポルトガル文
ドイツ語訳:リルケ
邦訳:水野忠敏
これを短編小説と言うべきだろうか?「マルテの手記ーメモ4」で取り上げましたように、ポルトガルの尼僧「マリアンナ・アルコフォラド」が、彼女を置き去りにして、帰国してしまったフランスの武人に宛てて書いた5通の手紙ですので、虚構の短編小説ではありません。まずはフランス語に翻訳されて、それをリルケがドイツ語訳をしたのですが、元の手紙はフランス語訳の後で、行方不明です。リルケはこの手紙を、ドイツ語訳をする際に、この手紙を1つの文芸作品として高めることをしたように思えてなりません。
「マリアンナ・アルコフォラド」は、尼僧とは少し違う立場を生きた女性のようです。アルコフォラド家は名門であり、恵まれた環境のなかで1640年に生まれました。当時の戦乱の時代には、子女を修道院に預けることが最も安全な道だったのです。彼女は、ベジャーのクララ教会修道院に入れられました。その上、財産家の父は娘のために、修道院の敷地内に、街路に面した特別な建物を建て与えたそうです。「マリアンナ・アルコフォラド」は、今日では想像もつかないほどに自由な生活だったわけです。
彼女の恋の相手は、数々の武勲に輝く、若くして大佐となったフランス軍の「シャミリー・ノエル・ブトン・1636年生まれ」。スペインの支配から脱しようとしていたポルトガル軍を助けるために、彼の属する部隊がベジャーの町に進駐したことがはじまりでした。この時期ポルトガルの子女がフランス軍人に強い関心を抱くことは、必然のことだったのでしょう。
その美しい武人に去られた彼女の5通の手紙は、悲嘆と怨み事に終始していましたが、すべての思いを書きつくし、最後の5通目の手紙できっぱりと別れを告げています。ここをリルケは「マルテの手記のなかで「男を呼び続けながらついに男を克服したのだ。去った男が再び帰らなければ、容赦なくそれを追い抜いていったのだ。」と書いているのでしょう。
この5通の手紙が当時の社交界で話題になったことは当然のことで、彼女を置き去りにした武人の手紙があったとされたり、5通以後の手紙が創作されたりと、この手紙にはたくさんの逸話もどきが流布しましたが、おそらく「リルケ」がこの5通のみの手紙を、彼の「愛する女性像」の1人として、翻訳されたのでしょう。それにしましても、この5通の手紙が、1編の小説のごとく何故ここまで時を超えて残されたのでしょうか?
(昭和36年初版・平成2年再販・角川書店刊)
Jul 24, 2009
マルテの手記ーメモ4
ここでは「愛する女性」について書かれたところを引用します。
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彼女たちは幾世紀もの間、ただ愛だけに生きてきたのだ。いつも一人で愛の対話を、たった一人で二人分の長い対話を続けてきたのだ。男はへたにただそれを口まねするだけだった。男はうかうかしていたし、ひどく物ぐさだったし、嫉妬深かった。(嫉妬は物ぐさの1つに違いない。)男はむしろ彼女たちの真実な愛の邪魔ものにすぎなかったと言わねばならぬ。それに彼女たちは夜も昼もじっと耐えて来たのだ。愛と悲しみをじっと深めてきたのだ。無限な心の苦しみと重圧におしひしがれながら、いつのまにか彼女たちは根強い「愛する女性」になってしまった。男を呼び続けながらついに男を克服したのだ。去った男が再び帰らなければ、容赦なくそれを追い抜いていったのだ。
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この「愛する女性」の代表的な人物として、マリアンナ・アルコフォラド(ポルトガルの尼僧)とガスパラ・スタンパ(イタリアの詩人)が登場します。
リルケの著作に「ポルトガル文」というものがありますが、この作品の元となったものは、あるポルトガルの尼僧が、自分を捨てて、遠い国へ帰ってしまったフランスの武人に宛てて書いた5通の手紙です。そのもとの原文書はすでになく、1669年フランス語に訳されて出版されたものが唯一残されたもので、武人の名も「マリアンナ・アルコフォラド」の名前もなかったものですが、大変な評判となったのでした。それをドイツ語に翻訳したのが「リルケ」でした。まだこの「ポルトガル文」には尾ひれのついたお話がありますが、それは省きます。
イタリアの詩人「ガスパラ・スタンパ」については、「リルケの手紙」のなかに登場しますが、「ガスパラ・スタンパは少なくとも1部分でも翻訳したいと常に考えています。ベネチアの女で1550年ごろ、コラルティノ・コラルトオ伯爵に愛の手紙や詩を贈っているのが、彼女の名前を純粋な永遠なものにしたのです。」と書かれています。
この2人は代表的な方たちで、リルケが思う「愛する女性」は、追い詰められた困難のなかで、ぶくぶく太った女性、意識的に男と同じになってしまった女、8人もの子供を産まされて、産褥で死んだ女、場末の酒場の女、などなど手紙や詩さえ残すことのなかった女性などを含めて「愛する女性」と言っています。
さてさてリルケ(マルテ?)は、このあとで「こんどは僕たちが少しばかり苦しい坂道を切り開き、だんだんに、ゆっくりと、少しずつ愛の仕事の一部を引き取ってゆかねばならぬのかもしれぬ。」と書いていますが、どうなったことやら。。。
Jul 22, 2009
マルテの手記ーメモ3
しつこく「メモ」を書きます。この下記の引用部分には、そのなかに挙げられている、ボードレエルの詩「死体」をみつけるために詩友からのご協力をいただきました。この大山定一訳の「マルテの手記」のなかではタイトルが「死体」となっていますが、この詩は翻訳者によってさまざまなタイトルの翻訳がなされています。ボオドレエルの詩集『悪の華』のなかの「憂鬱と理想」の章に収められた作品で、「腐肉」「腐れ肉」「腐屍」といろいろな翻訳がありますので、「踊る蛇」の次に置かれた詩編であると記憶しておきましょう、と丁寧に教えていただきました。お蔭さまでなんとかこの詩をさがせました。 ありがとうございます。まずは「マルテの手記」の引用から。。
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ボードレエルの「死体」という奇態な詩を君は覚えているか。僕は今あれがよくわかるのだ。おしまいの一節は別として、彼は少しの嘘も書いてはおらぬ。あんな出来事が起こった場合、彼はいったいどうすればよいのだ。この恐怖の中に(ただ嫌悪としか見えぬものの中に)あらゆる存在を貫く存在を見ることが、彼にかけられた負託だったのだ。選択も拒否もないのだ。
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腐肉 ボオドレエル 齋藤磯雄訳 (悪の華・「憂鬱と理想」・29)
戀人よ、想ひ起せよ、清かなる
夏の朝(あした)に見たりしものを。
小徑の角の敷きつめし砂利の褥に
忌はしき屍一つ。
淫婦のごとく、脚空ざまに投げやりて、
熱蒸して毒の汗かき、
しどけなくこれ見よがしに濛濛と
湯気だつ腹をひろげたり。
太陽は腐肉の上に照りつけて、
程よくこれを炙りし、
「自然」の蒐めし成分を百倍にして
返さむと務むるごとし。
大空はこの麗しき亡骸の
花と咲く姿を眺め、
漂ふ臭気の烈しさに、危く君も
草の上(へ)に倒れむばかり。
靑蝿(さばへ)の翼高鳴れる爛れし腹より
蛆蟲の黒き大軍
湧きいでて、濃き膿のどろどろと
生ける襤褸を傳ひて流る。
なべてこれ寄せては返す波にして、
鳴るや、鳴るや、煌くや、
そことなき息吹に五體はふくらみて、
生き、肥ゆるかと訝まる。
斯くて此処より立ち昇る怪しき樂は、
流るる水か風の音(ね)か、
はた穀物を節づけて篩の中に、
覆し、ゆする響か。
形象(かたち)は消えても今はただ一場の夢、
ためらひ描く輪郭の、
畫布の面(おもて)に忘れられて、繒師は唯
記憶をたどり筆を執るのみ。
巌かげに心いらだつ牝犬ありて
怒れる眼(まなこ)にわれらを睨み、
喰ひ残せし肉片を、またも骸より
奪はむと隙を窺ふ。
――さはれこの不浄、この凄じき壊爛に、
似る日來らむ君も亦、
わが眼の星よ、わが性(さが)の仰ぐ日輪、
君、わが天使、わが情熱よ。
さなり、亦斯くの如けむ、都雅の女王よ、
終焉の秘蹟も果てて、
沃土に繁る草花のかげに君逝き、
骸骨(むくろ)に雑り苔むさん時。
その時ぞ、おゝ美女(たをやめ)よ、接吻(くちづけ)をもて
君を咬はむ地蟲に語れ、
分解せられしわが愛の形式(かたち)と真髄
これを我、失はざり、と。
(ボオドレエル全詩集「悪の華」「巴里の憂鬱」・昭和54年東京創元社刊)
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「ボードレエル」という表記は「マルテの手記」の翻訳者「大山定一」であり、「ボオドレエル」はこの全詩集の翻訳者「齋藤磯雄」の表記です。一応出典に合わせて書きました。ううむ。これだけで疲れたなぁ。読む方々もお疲れでしょうね。では簡単にメモします。
つまりこのメモは「マルテの手記ーメモ1」に引用した文章の前の部分なのです。「フロベエル」が書いた「修道僧サン・ジュリアン」についての引用文は、上記の引用文に繋がるのです。何故、順序を前後させてしまったのか?それは「ボオドレエル」の詩「死体」を特定するのに手間どったからでした。「それなら、待っていなさい。」と言われそうですが、後者の引用を何故急いだのか?それは「癩者」という言葉に立ち止まったからでした。これについての私的な事情は省きますが、この言葉の歴史は深く重いもので、語り尽くすことはできない程です。
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リルケの10年をかけて書かれた「ドゥイノの悲歌」は、6年余をかけて書かれた「マルテの手記」執筆後、2年の空白を経て書かれたものです。ここで気付いたのですが、「ル・アンドレス・ザロメ」の言葉 『結局それは絶えざる受苦であり、殉教であり、同時にまた人知れぬ昇天でもあった。」は、この2冊の流れのなかにあるような気がします。
Jul 21, 2009
マルテの手記ーメモ2
以下に引用する文章は、名言集や定義集などでおなじみのところですが、「詩」というものの再確認のために、あえて書いてみます。
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詩は人の考える感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。詩は本当は経験なのだ。1行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣を知らねばならぬ。空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、朝開く小さな草花のうなだれた羞らいを究めねばならぬ。(中略)さまざまの深い重大な変化をもって不思議な発作を見せる少年時代の病気。静かなしんとした部屋で過ごした一日。海べりの朝。海そのものの姿。あすこの海。ここの海。空にきらめく星くずとともにはかなく消え去った旅寝の夜々。それらに詩人は思いめぐらすことができねばならぬ。いや、ただすべてを思い出すだけなら、実はまだなんでもないのだ。一夜一夜が、少しも前の夜に似ぬ夜ごとの閨の営み。産婦の叫び。白衣の中にぐったりと眠りに落ちて、ひたすら肉体の回復を待つ産後の女。詩人はそれを思い出に持たねばならぬ。死んでいく人々の枕元についていなければならぬし、(中略)・・・・・・追憶が多くなれば、次にはそれを忘却することができねばならぬだろう。そして思い出が帰るのを待つ大きな忍耐がいるのだ。(中略)一編の詩の最初の言葉は、それら思い出の真ん中に思い出の陰からぽっかり生まれてくるのだ。
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以上の言葉は自身(マルテあるいはリルケ?)のために書かれたものであって、けっして教訓として書かれたものではありません。これは自らの「詩」に対する考え方であり、さらに過去において書いた自らの「戯曲」への失敗と反省も込められています。
さらに「マルテの手記」に、あるいは「ドゥイノに悲歌」にも「リルケ」が登場させる「妊婦」という言葉は素通りできないものとなります。それは「いのちのはじめ」であり、時には天使が宿る瞬間を、あるいは生きることの「回復期」をこの「妊婦」に託したのでしょうか?