Aug 16, 2009
ドゥイノの悲歌ーメモ6
リルケの「1913~1920年の詩」のなかに、「天使」について書かれた作品があります。「ドゥイノの悲歌」のなかで、度々呼びかけられる「天使」と同じ「天使」ではないか?と推察いたします。「1913~1920年の詩」たちは「ドゥイノの悲歌1912 ~1922年」の序曲と思われますが、書かれた時期の重複期間から察するに、同時進行だったのではないでしょうか?「ドゥイノの悲歌」全体の完成までの期間には、修行僧のごとき詩作が繰り返されていたように思います。「天使」という大きなキーワードから決して離れなかったリルケがいたということですね。
天使に寄す リルケ 富士川英郎訳
たくましい 無言の 境界に置かれた
燭台よ 空は完全な夜となり
私たちはあなたの下部構造の暗い躊躇のなかで
むなしく力を費している
私たちの運命は内側の迷宮の世界にあって
その出口を知らぬこと
あなたは私たちの障壁のうえに現われ
それを山獄のように照らしている
あなたの歓喜(よろこび)は私たちの世界を超えて高く
だが 私たちはほとんどその沈滓(おり)を捉えることはない
あなたは春分の純粋な夜のように
昼と昼とを二分して立っている
誰にできようか 私たちをひそかに濁らせている
この調剤をあなたに注ぎこむことが。
あなたはあらゆる偉大さの光輝をもち
私たちは区々たる小事になれている
私たちが泣くとき 私たちは可憐のほかのなにものでもない
私たちが見るとき 私たちはせいぜい目覚めているにすぎない
私たちの微笑 それは遠くへ誘いはしない
たとえ誘っても 誰がそれについてゆくだろう?
行きずりの或る者が。天使よ 私は嘆いているだろうか?
だが その私の嘆きはどんな嘆きだろう?
ああ 私は叫ぶ 二つの拍子木をうちたたく
でも 私は聞かれることを思ってはいない
私がここにいるとき あなたが私を感じるのでないならば
叫ぶ私の声もあなたの耳に大きくなりはしないのだ
ああ 耀けよ 耀けよ 星たちの傍らに
私をもっとはっきりさせるがいい なぜなら私は消えてゆく
ここで少し解説が必要ですね。
最初の一行目の「境界」は人間の世界の果て。人間の可能性の限界を言っています。
二行目の「燭台」は、天使の光り輝く燭台でしょう。三行目の「暗い躊躇」は人間の世界は天使のいる位置からすれば、ずっと下方(下部構造)の闇のなかにある。その闇そのものが落ち着きなく浮遊していることと、人間の不決断を現しているのだろうと思います。「この調剤」は人間を譬えたもので、濁って不純な混合液なのです。
《追記》
このメモを書く度に、いろいろなことを教えて下さる方がいらして、再考する機会を頂けます。恥多きメモも度胸よく書くのもいいものですよ(^^)。
あなたは春分の純粋な夜のように
昼と昼とを二分して立っている
(3連目の2行)
つまり「春分(秋分も同じですが。)」は夜と昼の時間が同じになること。ですから、その季節の夜は、大変うつくしく「昼と昼」を分割しているということです。
リルケは詩作の日々のなかで、繰り返し繰り返し「天使」に呼びかけましたが、その歳月のなかで、天使との距離が変化してきた、あるいは「啓示」を受けるようなこともあるということですね。
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