Mar 31, 2008
言葉-自分に向かう・誰かに捧げる
ドウルーズの『スピノザ-実践の哲学』を読んでいる。何で表現の話をする際に哲学を参照するのか。色々自分なりにも不明な点があるので考えてみたい。久しぶりにデカルトの『方法序説』を読んでいたら、面白い文章が2つ見つかったので引用する。(岩波文庫落合太郎訳 より。)
私は雄弁術を十分に尊重し、また詩をば深く愛した。しかし、そのいずれもひとしく勉学の成果であるというよりは、むしろ天賦の才能であると考えた。最も強大な推進力をそなえ、自分の思想を明快に、かつ理解しやすいように、たぐいなく見事に処理する人たちは、たとえブルターニ海岸地方の方言しか語らず、修辞学をまるで学んだことがなくても、かれらの提出する事について常に最もよく人を承服させることができる。思うがままに読者を読者を楽しませながら説得する創造力、これはすぐれた技巧と調和によって発揮しうる人たちは第一流の詩人たるを失わぬのである、かれらにして詩学をしらずにいたとしても。
デカルトというと哲学者なので、詩のことなんて考えてなかったように思われるかもしれない。しかし、思い切った見解である。しかも非常にわかりやすい。「現代詩に汚染されていない素人こそいい詩が書ける」といった雑な反論も聞こえてくるが、それは極論であり、ある命題の否定に過ぎない。素人だろうが専門家だろうが、その人がどんな人かというのは第一義的に詩とは関係ない。ある専門的な技術めいたものと常に批判的な緊張感をもたねばならない。なので、現代詩はある意味で伝承がむずかしい。しかしある点で、詩はその人の持っているものと関わる。この点を誤解している人は多すぎる。その人が彼の書く内容に対して、正確な(学問的ではない)語り方を見つけ出すことができればいい。そして何よりもデカルトが「天賦の才能」としか表現できない表現への衝動と核心をつかめれば、その人がどんな属性・職業・言語・人種的な存在であるかは関係ない。しかし、表現の衝動と核心を掘り当て更にそれに適切な形を与えるのは非常に繊細かつ困難な闘いを必要とする。しかも、必ず努力したら、人をそして自分を拡張しうるようなものにたどりつけるとはいえない。なぜか書けてしまう人がいる。その真実をデカルトは「天賦の才能」と呼ぶ。
ひとつ注釈をつけるとすれば雄弁術だろう。雄弁術とは演説や説得の技術である。ギリシャ=ローマ以来の言い回し(レトリック)の研究であるが、これがどのような言い回しや語り口や修辞を使えばよく人を納得せしめるかという風になる。アリストテレスが大きく体系化しする。人を感動させ真実を伝える最上の方法として西洋で考えられたのが「詩」であった。つまり人に伝えメッセージを伝播させること。それはスローガンやキャッチコピーに今はなっているのだが、それ以前は実は詩が玉座にいたのである。(と思う)
けれどもデカルトは当時支配的な「スコラ哲学」(スコラは学校の語源)による神学と合体した煩雑なテキスト解釈や思考の方法に異議を唱え、我に帰り自分から出発する哲学の方法とスタイルを打ち出した。そのため学問に関する著書はラテン語で書かれるのが通例であったが、彼はインテリ階級(僧侶・学者)からすれば田舎言葉に過ぎなかったフランス語でこの『方法序説』を書いた。みんなにわかりやすく書いたとか何とかインテリが降りてきたと解釈もされようが、たぶん真相はちがうと思う。「我に帰る」あるいは「我から出発する」ということが大事だ。その我がどのように形成されてきたか。旅という契機が重要になっている。もうひとつ引こう。デカルトは自己中心の哲学として批判される。しかしそういう人たちは次のようにいうデカルトをどう考えるのか。
実を言えば、よその人たちの風習を眺めることだけしかしなかったあいだは、そこに私をして確信せしめるに足るものをほとんど見いださなかったし、さきに哲学者たちの様様な意見のうちに認めたとおよそ同じくらいの多様性を私は見いだしたのであった。このようにして私がそれを引き出した最大の収穫はといえば、私どもにとってこそ甚だ異常なもの笑うべきものに思われても、他の処処方方の大民族によっては一般に受けいれられ、是認される多くの事のあるのを見、単に習慣と実例だけで自分を承服させてきたような事はこれをあまり堅く信じすぎてはならぬと覚ったことである。かくして私どもの生得の光明を暗くし、理性に耳を傾けられぬようにする多くの迷妄から、私は少しずつ抜け出していった。が、かように数年をついやして世間という書物の中で研究し、多少の経験を積もうとどりょくしたのちのある日のこと、私自身によってもまた本気に考えよう、そうして辿るべき道を択ぶために私の精神の全力を尽くそうと、私は決心したのである。このことは、私の本国や私の書物からまるで離れずにいて成功したであろうよりは、よほどよく成功したもののように私には思われる。
よその国で当たり前と思われていることが変だと感じる。あるいは不思議だと感じるということは現代でもたくさんある。民主主義国家に育った人たちにはカースト制が謎であったり。それだけでない。それぞれの家にもうちだけの習慣があるはずである。デカルトは単なる私至上主義ではない。多くの私至上主義とは一線を画する。それは「多様性」を実感した上での、「では私とは何者か」である。自分から見た他者は自分からは変なルールで動いている。そう観察する。そこで終わりだったら多くの排外主義とかわらない。つまり「俺は正しくておまえらは変わっている」である。しかしその感じをみとめた上で、じゃあ自分が自分の国や家族や世間を生きるために採用していたルールや正しいと思っていたものは何なんだろうと進むのである。自分だって「変な奴かもしれない」と。
そうするとこれだけ様々な違いが眩暈がするほどあるからには自分が生きてきたルールを「堅く信じすぎないようにしよう」というのである。ここはデカルトがすぐれているところ。たとえば、自分が生きている事実あるいは実存の正当性(あるいは当たり前さ)が様々な旅(これは具体的な旅のようにも取れるし様々な他者や世界に対する経験が変化し続けること=人生ともいえる)によって、ゆらぐ。しかし、だったら、「人生色々さ」で終わらせたり、「全ては相対的であり信じられるもんなんてない」「他の文化も尊重してやりましょう」と言ったりするだけではデカルトは終わらない。私は20代の頃この方向に大きく勇気づけられた。
どれだけ色々であり様々であっても、自分が生きていたり存在していたりする事実は変わらない。つまらない人生よりはしっかり考えて、自分をより真実に近づけようとするのである。真実に近づきたい衝動というのは解説が難しい。デカルトは「生得の光明を暗くし、理性に耳を傾けられぬ多くの迷妄」から抜け出すといっている。もちろん思索において最初に述べたスピノザや様々な哲学者より「あんたはおかしい」といわれたデカルトである。私はデカルトは全ての迷妄から逃れたとは思わない。この迷妄という言葉は、「迷信」みたいなものに近いのかもしれない。けれど、どうもそうでなくて「我を忘れる」みたいな感じに近い気もする。
私はデカルトではないから、バカになる良さは否定しない。しかし、人は意識してバカではない。私にも知らないことがある。たくさんある。あなたにもたくさんある。それ自体はちっともおかしなことではない。デカルトはだから「世間という書物」を研究するのである。知識を増やすのではなく、譲れないことを明確化させようとするのである。疑問としてはそんなことできるのかという気もする。
私も少しずつ老いて今より頭も堅くなるかもしれないが、最近思うことは年を重ねるのは悪いことだらけではないようだ。私の場合書くことを通じて、何か自分にとっての山に近づいているような気がする。しかし、山がそうであるようにどんどん険しくなるだろうと思うのである。
私がデカルトに引かれるのは、ある種常識や良心に敬意を払う点である。私は夢想的で非常識に実は陥りやすいからすごく参考になる。しかし、その常識の確かさや多様性を味わった上で、自分が出来ることの極点まで踏破しようとする冒険心は一方で慎重な私を駆り立てる。世の中には不条理や自分では解明が一生出来ないような他者の生や出来事があるのだ。そのわからなさに自分が打ち砕かれ、様々な誘惑に惑わされ、自分もまた他者を誘惑する。その中で、自分を深く知ると同時に自分を失う側面もある。自分が更にわからなくなり猜疑心に陥る。
想像だが私にひきつけていくとデカルトは、猜疑心との戦いに勝ったわけでもなかろう。しかし、あらゆるものが信じられずわからなくなり、勉強も何もかも通じないという形で生きていて私はなぜ死なないのか、生きてしまっているのかと考えたのだろう。しかし、考えているからにはそれは私がなぜか生きてしまっているからだ。そのなぜかはわからないけれど生きているという回路を辿ったのではないかと思う。
問題はそこからだ。その私を確認しどこに向かうかである。その手前で私はずっと詩にしがみついてきた。結果的にそういう側面は大きい。私も34になり人生の折り返し地点は近づいている。ここをどう折りたたむか。その際に詩がまたべつの役割を果たすように思う。詩は贈り物だとか自分を他者に捧げることだという人もいる。私はこの文の冒頭でドウルーズによるスピノザを引いたのだが、スピノザは悪をどう免れるか、より素晴らしく晴朗な生に到達できるかと問うているように思える。それはスピノザの生も相当しんどかったから、死なないで生きるにはどうしたらいいか考える。(ドウルーズによるスピノザはコナテュス=自己存続の努力を最上とし病気や自殺の危険の中でも生き延びることを模索する)そのために自分がどれだけちがう自分を生存の様態を取れるか考える。
予感として、おそらく私はそれとはちがう方向にいく気もしている。スピノザがダメだというのではない。しかし、なんとなくスピノザはちがうような予感があるのである。また先延ばしになってしまうがドウルーズによるスピノザ論はまた考える。
私がここでスピノザを安易に肯定すると、自己存続をより補強する形に向かわざるをえない気がするのである。スピノザはそうではないのだろうけれど。私はなんとなく自己存続のために言葉や詩があるのではないような気がしている。言葉は自分を突き抜けて誰かに捧げるもののような気がするのである。私は自分を犠牲にして他人に尽くすという考えに長らく取り付かれ、しかしそれが恐かった。結局私はあまり語ることがなかったけれど、何かのために死ぬ、その死に場所を探していたようにも思えるのだ。つまり死に取り付かれていた。しかしその考えは私には恐かった上に微かな違和感もあり、なんとなく死なないで(死ねないで)済んだに過ぎない。私はなんとかそこから回復しつつあるような気もする。死は最大の意味体験であると同時に意味の死ぬ場所である。しかし、私はなぜか知らぬが今は死ねない。死ねないほどにはこの世界で感じたことを愛しつつあるようだ。ちょっと大げさだが、その愛とも呼べるものが自己欺瞞にならぬよう注意したい。私はお人よしなのだ。甘ったれなのだ。自己中であると同時にお節介なのだ。その私のありのままに少しでも近づくことが他者・他在との距離を少しでもちぢめる様な気がする。そのようなことを可能にする奇妙な力が言葉と生との間に存在する様な気がする。言葉に自分の生命それ自体を乗せることができたら、それは最大の自由であり他者へ向かっていくだろうか。それをなんとなく「捧げ物」と呼びたい気分なのである。
Mar 27, 2008
考察メモ①の補足と反省
昨晩の考察①について。朝ちょっと考えていた。まず、なんで考察①を書いたかというと、多分次の問題が気になっていた。よく現代詩を定義する時に大まかに言われることとして、「手垢にまみれた言葉を避ける。吟味する。」というのがある。それに対する疑問。まず「手垢にまみれた」とはどういうことか。それは「古い」とか「ダサい」ということなのかな。しかし何をもってダサいとか古いとかありきたりと云いうるのか。多分そう主張する人の中にも、いろんな価値観があって、古いとかダサいとかありきたりという風に「ある種の言葉の使い方・展開・描写・イメージ・作品内世界観」を感じて批判している。
わからないのは、どういう対象=言葉の使い方に対して、なされているかということ。これも大問題なのであるが置く。もうひとつは、ある価値観がある作品を「ダサい・古い・ありきたり」というのだとしする。では一体価値観とは何なのかということ。
*ドウルーズと表現について考えるその前段階ーいかなる価値観が物を見る際の色眼鏡となっているのか。
ドウルーズに対する昨日の反駁は非常に稚拙だったので反省している。けれど、ドウルーズもあれもダサい・これも古いということで色んなものを切り捨てているのではないか。現代詩のある種の傾向と似ている。もちろんドウルーズは17世紀の哲学者(ライプニッツ・スピノザ)に多くをおうている。ドウルーズは新しい光源の中に彼らを置いているのは知っている。
ドウルーズの発想の源にはニーチェがいて、「生成の無垢」という。これは「あるがまま」みたいなととどうちがうのかな。色んなものやことが変化するその様子を「ありのまま」に肯定する。まず、それは可能なのか。可能だとしても、その「ありのまま」の追求の動機は何か。それは手放しでいい傾向だといえるのか。
また、彼らの流儀で「ありのまま」を肯定することは、果たして「ありのまま」の必要・充分な肯定足りえているのか。とりあえずドウルーズの発想の一例が見られる「スピノザー実践の哲学」が手元にあるので、この本の第4章「エチカ主要概念集」の"いいーわるい"あたりを見てみよう。平凡社ライブラリー鈴木雅大訳の80ページ辺り。また後日できたら書いてみたいなあ。できないかも。メモ的な感じにしようかな。おそらく「ありのまま」を肯定し記述するために戦術的にそれを邪魔するものを外すという感じ。しかし、誰しも価値観からは逃れられない。だとすると「ありのまま」に接するどういう態度や語り方が僕はすきなのか。
ありのままは「生まれたて」とか「純粋」とか「実在」とか「物自体」とかおそろしく色んなニュアンスがある。私の挙げた言葉も恣意的な選択によるが「物自体」はカントの言葉で、私たちは自然や物質などをいったん感覚器官(目皮膚耳その他諸々」を通して表象(音・言葉・光線など)の形でしか知ることができないという。だったら「ありのまま」なんてないのかもしれない。しかし、ドウルーズだったらどういう感覚や受容の仕方が「ありのまま」の素晴らしさをより多く素晴らしく感じられるかという風に答えるかもしれない。それが「よい」の意味だろう。だとしたら、そんなに悪くない。けれど、そこで「よい」とされている捉え方や反応の対にある「わるい」は一体何なのだろうか。詳しくは先の『スピノザー実践の哲学』の該当部分にヒントがあるのだけど。しかし、善ー悪に対してそれに汚染されない「よいーわるい」の立て方は『道徳の系譜』のニーチェと同じである。でもニーチェの方がやばいものも取り込んでいるかもしれない。本家だから。ニーチェの「わるい」に相当するものは原罪とか怨恨である。人間はもともと罪があるとか、しかし罪を感じられるから幸いだとか。ニーチェはこれを卑屈というのだが、ニーチェは個人的に「うじうじ」しているのが嫌いで、それはニーチェ自身が「うじうじしていたから」かもしれない。現代詩に対してもより戯画化された形で感じるのだけれど、ニーチェのように「ダサいという自分も実はちがう意味でダサいのだ・ダサいにこだわっているのだ」という内省がどこまであるのか。これだと悪口みたいだが、僕自身人のことはどれだけでも言えてしまうので、これは自分に言っているのだ。そして、さっきはそれが悪いことのように書いた。けれど、繰り返すが何がどんな価値観が「ダサい」と感じさせるのが重要で、哲学の議論を参照するのは無益ではない。
※ちょっとすっきりした。ついでに言うと昨晩の「考察メモ①」はレヴィナスの記述もかなり反省している。何しろ言葉遣いがグダグダ。これでは失礼である。このブログには2年前に「レヴィナス入門」について書いたものがあって、その後「全体と無限」を読んだのだが、2年まえの「レヴィナス入門」はわからないながら、ポイントを粗くではあるが書いている。http://www.haizara.net/~shimirin/blog/ishikawa/blosxom.cgi/nikki/20061017160732.htm
考察メモ①-最近のまとめ・自己表現の課題
ここんとこ、あれやこれやと考え今年の3月よりブログを再びちょくちょく更新している。それは具体的なテーマとかはなかったのだが、ドウルーズのことを書いていて「欲望」「生命」というテーマが出てきた。別にドウルーズにこだわるのではない。私は自分の「存在」(と仮に云う)の在り様を描く言葉を持たなかった。何となくの感触があり、それをとりあえず自分かなあと考えてきた。別に昨日も今日も明日もかなりの確率で自分は自分でしかありえないし、自分が石川であり、34歳であり、男であり…ということは間違いない。いきなり明日から僕は今までの石川とはちがう別の存在だ(例・宇宙人)と言い立てるつもりはない。家族にとって僕は家族だろうし、デイケアに行けばメンバーのひとりであろう。
しかし、そういう属性では語れない自分というものがあって、それは「本当の自分」とかではない。けれど、その人の属性で語れる(女性である・職業はフリーター云々)自分とはちがう自分をほとんどの人が感じているのではないか。しかし僕は僕の例しか知らないのでそれで話す。
どういう場面で僕は自分が予想外の人間というか存在だと感ずるか。つまんない話だが、僕が暴れまわっていた時には、それを自分として感じていた。おかしいのは、自分は優しいと感じていたときには、そんな自分は想定していない。けれど、暴れだしたらそれが自分なのだ。親は、大人しい子だと思ってそれが本来だと思い、回復した今を喜ぶ。僕もそうだなあと思う。ああいう時期も人にはあるよと親と話すこともある。まるっきり親の言うことも大体正しいと思う。けれども、自分の彼女からはエネルギーのある人だと云われるのである。友達にも云われる。そういうわけで、人間はなるほど多面的だと思うが、この話からすると、非常につまんないエピソードだが、「本来の自分」などという語りがあまり役に立たない。
「俺はこういう人間です」とか言うのはつまらない。けれど、僕は自分が何ものか気になってしょうがない。誰かにそれを証明せよといわれたわけでもないのだけれど。
自分が何者かについては、ある直感がある。けれどそれが言葉にしにくい。秘密なんじゃなくて、どうしてもきちんと話そうとするほど、自分の手持ちの言葉がうそ臭い。だから、自分の言葉の限界に出会い更新するため作品を書いたり考えごとしたりしている。
でも、変な言い方なんだが、自分が何者か考えることは、ある種人としての責任なのではないかと思う。正直、考えることをサボると元気が減る。親父には考えすぎるなと言われたが、考えすぎは問題ではない。というか、自分のつかんでいる何かから外れだすと「考えすぎ」ではなく単におかしな方向に話が行っているのだと思う。こういうことは、非常によくある。気づかないまま、どんどん考えがつまらなくなってて、キチガイじみた方向に怒っているのだ。
さて哲学の本を読んでみると、何かを語る際大事なことは2つあると思うのだ。①問題を固定しない②仮説を何度も立て直す③しかし、適切な問いを立てる。ここで適切と言うのは、言葉をなるべく論理的かつ感覚的に吟味することだ。扱う対象にあった言葉というものがあるいは表現がある。哲学が難しいと感じるのは、その人独自の新しい問題に表現を与えるため独特の言葉遣いや概念を作るしかないからだ。もちろん、比較的わかりやすい表現を使う人もいる。しかし、平たく述べるためにその人がどれだけ言葉を吟味して使っているか考えるといい。これらは、読者を煙に巻く不誠実でも過度に神経質なのでもない。その逆で、その人はその人が大切にしている問題をそのまま提示したいと考えているからだ。
以上のように考えると僕の語法は不安定で揺れている。これはひとえに不勉強だ。しかしもうひとつ理由がある。ぼんやりと柔らかい形、あるいはあえて舌足らずでしか表現できない事柄があった。だから、僕は今は文学を選択しているのだと思う。専門の哲学徒になっていたら、通用しない微かな直感(ドウルーズなら微分的とか分子的というだろう)は、どこかへしまうしかなかっただろう。僕はあまり厳密ではなかったし、固定されると我慢ならない程度には、怒りっぽく度し難い面がある。
ドウルーズも語の定義が曖昧であるとか、いい加減だと言われるのだが、僕はSFとか詩が混じった変な小説みたいに読んでいる。ドウルーズはパンクというか、サイバーともいうかそういう文章だましいなのだと思う。(もちろんそうでないのもある)僕はたまたま詩を書いているため、そんな読み方をする。ひとつ予感としていっておきたいのだが、そして今日のメモはこんだけにしたいのだが、最後に。
疑問:ドウルーズはなんか疲れる。焦っているから。なんでこないに焦っているのか。それは無理に答えを出そうとしている。彼はあらゆる実体化に逆らうために、つまり「本当の自分」とか「あるべき人間」みたいな語り方にうんざりしている。だから、人間も動物もあらゆる存在=森羅万象を「機械」と呼ぶのである。人間も豚もお母さんのおっぱいもそれを吸う赤ちゃんの口も機械である。国家も、親族の構造も。ほら詩的でしょう。つまり特権的なエライ「存在」を認めない。みんな機械。難しく言うと超越者=神がいない。また、物体とか自然とか存在とはいわない。みんな固定されたイメージがあり、それにひきずられるからだ。物体のように硬く止まっていない。全部流れて広がって色んなものとくっついては、離れてを繰り返す。古代ギリシャの哲学者は万物流転とかいうだろう。ドウルーズは生命や欲望の性質って、とらえどころがなくて、たぶんこれまでの普通の意味で云うと節操がない。そう思う。共感。だって、それが人の欲のいいところ。
けれど、それはいいとしても、それで何が云いたかったかイマイチわからない。もうちっと勉強しよう。ありていに言ってしまえば「何にもとらわれない」というのかな。本来の自分なんて狭いものに負けない。それは偽者だと言うような。でも、その場その場で、アレンジされていくだけが欲望や生命なのかな。だとしたら、人や自然を、あるいはこの景色を好きになる理由がわからない。少し先を急ぐと、「とらわれないことにとらわれ」(という先日の日記とつながる)すぎているのだ。いいかえれば、おこっている現象を丸ごと取り出そうとして、とりだすことさえためらったままのような。それは彼なりの良心なのかもしれない。けれど、見方を変えれば言葉で「物そのもの」(カント)をきづつけないように表現しようとして、言葉が破けている状態なのだ。
順序は逆で、「とらわれない」と宣言するからつらい。尾崎豊のように「支配から卒業」しようとして、より自分を苦しめている。ここで根本的に対立するのがレヴィナスだと思う。面白いブログを見つけた。世界に曝され、それにとらわれて悩んでいるところから、始めて、その状態を忘れないのが大事だ。苦しいから、逃げたい。逃げられない。きづつく。のんびりしたい。レヴィナスはのんびりしていいという。けれど、ぬくぬくしていたら必ず何かしたくなってくるよという。したくなる=欲望が果てしなく行きまくるだけなら、なんとなくちがうのではないかと言うのは僕の実感だ。目ざすものではないけれど、この人だから好きってなるまでに、あるいは詩がすきってなるまでに、いくつもプロセスがある。つまりいきなり芸術は爆発だではない。もちろんそうでない場合もあるんだけれど。このブログは例えば精神病で、あらゆることが気になってにっちもさっちもいかなくなって、きづつきまくるのも、人間の姿だと。なぜそういう状態があるかと言う。おそらく意味がある/ないというこの世のきつさは、ある事実を隠蔽するので、意味にとらわれない言葉で語るには、どうしてもその状態を通る。だって、いろんなものの姿は意味のあるなしだけでは評価できないし、理解も表現もできない。それだけでは苦しくないし楽しくない。自分にとっての意味がどこからやってくるかが大切なのだ。それを吟味する道がなんとなく見えてくるような気がしている。これは精神病だけじゃなくてあらゆる現代の芸術の課題と同じではないかな。
※ツカレタ!!
Mar 25, 2008
血迷う思い出
灰皿町の布村さんのブログを読んだら宇多田ヒカルの最新アルバムのことが書かれてありました。で、自分もその前の"URTRA BLUE"はMDに入れてたので聴いてみた。直に戸惑いや逡巡からある種の願いや祈りにいたる振幅と襞の表現は細密で驚く。紫式部はおおげさだけれど、世が世ならある種の典雅な歌人や舞人になっていたかもしれないと思う。ひとりの女が「あなた」を愛そうと懸命に悩んだり健気な気持ちになっていること。それは単なる夢物語にとどまらず二人の距離や関係についての極めてシビアで現実的な認識に支えられている。しかし、そのように聡明であることと、気持ちの燃え立つ感じがうまく整合せず、ぎりぎり悲鳴に近接し、それを免れて、深い祈りや願いにちかづいているのだ。宇多田がこのアルバムで、少女や聖女や女性や母や男気としてさえ現象するようには私は多様なジェンダーは持たないと思う。けれども、そんな一介の冴えない男である私でさえ、自分の中におやじや母や子どもや老人がいるような気がするのである。
このアルバムはそういう前提の上でいうと、一種の古典的な女性のあり方が見える一方、それに還元されない、裂け目というか強い圧力となってあらわれる声が苦しく迫ってくる。
なんだか偉そうに書いているわけであるが、時々音楽評のまねごとのようなことをしたくなる。実は20代前半の頃Cutという雑誌を読んでロッキングオンのアルバイトか社員に応募したことがあるのだ。何を血迷ったか、職歴のほとんどなかった私が2度ほど応募した。確か履歴書と作文で、民生のことを書いたっけ。
この頃から大した才能もないのに東京に出て一旗上げたいとでも思っていたのか。私にはそういう尊大極まりないところがありそうである。たぶん、万が一採用されても、半年でうつ病や失踪だったにちがいない。
一方で私は、ノートに雑文を書くだけで、まともな活動はほとんどしていなかった。雑誌を読んだりして、評論家気取りで反論を書いたり、あるいは詩を書いて、新聞の懸賞論文やタバコ会社の詩の賞に応募したこともある。自分の文章は人様に見せられるものではないと思いながら、あわよくばという見込みの甘い願望があったのだ。何か世に訴えたいのだけれど、何を云いたいのかもわからずに。かなり危ない人だ。
しかし、その後はいくつかの修行の場で鼻を何本かへし折られた。それでも、しつこく書いているのだからかなり図太い。今でもはっきりしたメッセージはあまりない。肥大した自意識のために書いているのかと疑う。それでも時折昔書きたかったことや、これは書きとめておこうと思うことが折に触れて浮かび上がり、書いたときは「いいかな」と思うが、あとでふつふつとあれではきちんといえてないと思えてくるのである。今は自意識の割合にわずかに「きちんといえてなかった」という痛みや申し訳なさのようなものが加わって、よりよいあり方を探しているのだと思う。それは大げさな言い方だけど、私を放さない私が逃げることの出来そうもない生命と他者のお導きでないかとも時々思う。でもカフカを例に取るとカフカが怒るだろうけれど、自分の原稿を燃やしてとはいえない。私はまだまだ文章に向かう姿勢がなってないのだ。そんな私ですがこれからもよろしくお願いします。
Mar 24, 2008
涙舟としての
泣きながら話すということが何年かに一度ある。そういうのは病気のせいかとも思ったし、そういう一面があるのは否定できない。けれど、そうでもないような気もしてきた。泣く時はどんなか。こう何だかわからない糸玉が本当に喉にあって、どれだけ引っ張ってもどうしようもない時。糸玉が球体に変わるとき。ごりごりしている。(でもないかもしれない。こういうのは嘘くさくなる。)
しかし、相当がんばって、もう洗いざらいいう。そうすると、多分ある限界に達して、どうしてもこれ以上はもう今の私の手持ちでは言葉にはならないというとき泣くように思う。ゼロになるのではない。けれど、もう泣いたら変わるしかない。けれど、変わるのに時間がかかる。いや、これだけではない。
僕は「絶対」という言葉は苦手だが、泣く時かすかに絶対に出会っている。ふだんは何かを比べてまだ大丈夫とか思っていても、逃げ切れないときは泣く。
それまでは我慢している一線があるのだろうな。というのは、僕も一応はそのように誰かの涙を見たことがあるからか。そのとき、どうしようもなくその人を思っているかどうか気づかされる。誰かが、「かつて日本人は人が泣くのを見るとき神さまをそこに見ていた」といったのはそういうことかもしれない。誰かが泣いている。と、その人が孤独であるように見える。しかし、誰か抱いてくれる、くれた者(生きている人ではなく死者でも神でもよい。そこにいなくてもよい)がいるように僕は感じる。泣けるのは誰かに抱かれたり抱くものを求めていた記憶があるからだ。ありていにいえば母ちゃんということになるが、そうでなくてもよい。本でも人形でも風でもよい。しかしかけがえのない何か。その記憶を辿る。
僕は泣いて、誰かに抱きとめられたいと思っていたのではないか。いつもそう思う。しかし、守られたいだけでなく怒りや抗議、いかんともしがたい何かに向けて泣く。自分が情けないと思う。けれど、尊厳あるものとして生きたい。いじめられたとき、よく家に帰って寝る前に泣いていたのはそのせいかな。
今はどこかで誤魔化して黙ることができている。そんなに隠し事もない。けれど、いつか糸玉が絡まり泣く日もあると思う。糸玉はいくら泣いても冷めない。ほぐれない。僕の体の中にいつも絡まり続ける糸玉がある。大人になってきたような気もするから、冷静に記述しているつもり。だから、人から見れば素直じゃないと思われるだろう。だけど、泣いていたあるいは泣かなくても抱いたり抱きとめられる中で、僕は成長してきた。ある意味で幸せすぎた人生であるようにも思う。激しい孤独の中で泣くこともやめようとするものがあまりにも多くいて。また泣く人がたえずどこかで僕は気になり続ける。僕の狭い視野の中でも。
泣いているからって何もかもは許されない。けれど、やはり泣かない限りやってられない。あるいは、泣くという局面を味わわなければならないように人間はできているように思えてならない。それをだきとめあってかろうじて人は幽かな綱渡りを続けられる。
Mar 23, 2008
犬バカ
今日は犬と遊んできた。なごんだよ。
犬にも性がある。いや、性別というんじゃなく触れたりわかりあえたり、距離があることを楽しむということ。我々はなかなか久しぶりに会えてうれしいということをしっぽを振るというような明示的なやり方で示さない。それが人間の悲しみであり、楽しみである。けれど、帰り際は本当にさみしそうなので愛おしくなり、犬の目が潤んでいるように見え、そう見える私も犬バカなのではないかと思う。
しかし、いささか表し方や働きが異なるだけで、我々もこれとおなじことをやっているように思う。気持ちの回路や通路の接続の仕方、あるいは関わりの中で生まれる襞が少し違う。けれど、まさか犬の伝えていることが「わかる」というと犬に失礼だな。私たちは犬のある部分を見て、解釈して、「この犬は僕を気に入ってるのかな」と思っている。でも、ちがうかもしれない。ほとんど同じことが人同士の間でも起こっている。誤解されると人は怒る。犬だって怒る。けれど、何を怒っているか本当のことはわからず混迷は増すばかり。
犬を通じて逆にこう発見する。しかし、犬がかわいいとか、あるいは誰かが愛おしい(同列にならべてどうする)憎らしいと思うことにちがいはない。けれど、犬は基本的なところで裏切らない気もする。しかし、そっけない顔もするので、ますますかわいい。ひとえに犬バカである。
※tab9号はコピーが大体終わったので、そろそろ送付して行きたいと思います。関係各位の皆様、もうしばらくお待ちを。
Mar 22, 2008
人間そのもの
天気がいい。午前中は眠ってしまった。洗面・トイレ・流しの掃除をする。丹生谷貴志という仏文学者が中上健次について語っているものを読んだ。すごく刺激を受ける。僕もまた自分を救うために、自分の苦しみを吐き出すために詩や文学を使ってきたのかなと思う。別に問題ではないのだが、文学があまりにも自己救済のためだけに存在している気もするのである。一方で、そんなんじゃないという声がある。つまり作者=作品内の語り手ではない。だから自分と作品、自分と文学を切り離さなければいけないのだといきむ者たちがいる。
僕には前者は開き直り、後者は自分のために文学があってはならないようである。つまり、どっちも自分を覗きこんで「何にもない」とか「かすかに何かがある」と評価することを恐れ怠っている。つまり「恐がり」なのだ。僕は恐がりなんだが、それでも自分のことをみっともないと思えばそう書くだろう。これも開き直りかもしれない。
今のところ折角先人が開いた場所が封圧されてしまった。私小説はダサいということになれば、私小説作家の苛烈な自己探求は忘れられる。またそういうのでなく、もっとスマートに構造として作品を考えるという路線もダメになったようだ。それもダサいらしい。みんなダサいことにされてしまって、みなどこに行くつもりなのか。
ダサいとか、流行とか、あるいはキモいのもいいなんていうのは、人間の存在そのものと何の関係もない。流行に対して、あるいは空気を読めという野蛮な怒号みたいなものは、もう僕が中学生の時に散々排除やいじめとして働いたというのに。つまりそこでも人間そのものは忘れられる。ないことになる。
シェイクスピアに「きれいはきたない。きたないはきれい」というセリフがあるらしい。人間はそういうものだと思う。例えば性は綺麗か。綺麗じゃない部分がたくさんある。でもそれを求める。求める働きの中に、何か綺麗なものがある。しかし、その綺麗さはどうしようもなくみっともないものとしてあらわれる。例えば、人を好きになったりすることって、肉欲も精神も、人とのつながり、空や雲や花そういうものが全部働いて、一瞬で成就したり、その一瞬後にどうしようもない空虚や破壊があるものではないか。そういう有り様を「みっともない」といえるし、我々は言うが、その最中の人間はそれに必死だったりする。
Mar 14, 2008
ふかいところでつながることー水木しげる『猫楠』について
昨夕から頭痛。頭痛薬を服用したため痛みはマシになったものの、頭の重さや体のだるさはある。風邪とは異なる感じ。僕は春先が苦手だ。ここ数日で急に暖かくなり、体がそれにおいついていない。背中、肩、首筋が張っている。仕事を増やしたりカウンセリングが少なくなっている性もあるかもしれない。けれども、それはこれから慣れていくだろう。けれど、恐らく冬の間の冷えが体の中から体の表面にあらわれて「凝り」になっているとはいえないか。そんなわけで今日は家でゆっくりしている。あまり昼から寝ると夜の眠りが浅くなるので、マンガを読んでいた。
そのマンガは水木しげる『猫楠ー南方熊楠の生涯』
面白かった。ダーウィンらとネイチャーに名を連ねた学者である。けれども、イギリスから帰国後はアカデミズムからは距離を取り和歌山に引きこもり、弟の援助で粘菌の研究を続けた。破天荒というか常識のない人なのだが、友達は大切にする。水木の『ヒットラー』は暗澹たる感じだけれど、『猫楠』はひょうひょうとして明るい。
熊楠は人を見かけで判断しないようで、信頼すると頼る反面大事にする。見かけで判断しないというのは、粘菌に対する彼の研究哲学にもあらわれているようだ。粘菌は形はぐちゃぐちゃの時実は生きていて、綺麗な形の時は半分死んでいる。見かけと生命の内実はちがうというのだ。また無生物と生物、植物と動物つまりそういう区分けが通用しない存在であるというのだ。熊楠はその才覚のわりに、世慣れず日陰の存在と思っていたようで、じめじめしたところに生きる粘菌に自分を重ね合わせていたのかもしれない。
見かけで判断しないというのは、表面的なつきあいではなく、地元にずっと住んで、森や地縁を大切にしたようだ。熊楠には民俗学者としての側面もある。神社の統廃合の時猛反対した様子も書かれている。精霊や生き物や目に見えないものをも大切にするのだ。
水木の筆致が明るいのは、水木が熊楠に共鳴しているからではないか。水木は熊楠よりずっと世渡り上手だと思う。けれど、水木がラバウルで右手を失った時、地元の部族の人と遊んだような、「縁」の考えを熊楠の中にみたのではないか。
友達を大事にすることは難しい。僕はいつもそう思う。それは僕が傲慢でわがままな人間だからだろうと思う。人間の魂や精神の微細な部分について、僕は非常に鈍感なのではないかと思う。やさしそうに見える振る舞いは、刹那のものだ。ずっと長くおつきあいするには、嫌になる時期もある。けれども、常識や見かけで見ない。深いところでつながることができればいいな。そうすればどんなに離れても近くても距離の問題でなく友達でいられる。ただ晩年友人を亡くしていく熊楠は本当に寂しそうだ。彼はずっとさびしかったから友達といたかったのだと思う。僕もさびしがりだからわかる。
しかし、そういうのは非常に難しいのだ。熊楠は子ども達もかわいがった。けれど、長男は発狂して、そのあたりの記述は熊楠を超人や変人としてでなく一人の親として描いている。非常に切ない。また晩年、弟からの資金援助が絶たれ絶縁する。僕も偉そうにはいえないが、身近な人のことに熊楠は鈍感になりがちだったのか。それとも近い人だからこそ、深いところでつながることが愛憎を強くするのかもしれない。深いところでつながる。魂の深層は穏やかであり、また火のように激しい。それと折り合いをつけるのは、どんな偉い人でもできない。だから、人はせめてそれを隠したり、また親しい人だけに見せたりしているのではないか。しかし、それは見せたら見せただけ相手に苦しみも与えるのではないか。
頭痛で友人の演奏会に行けなかった。でも、メールしたら暖かいメールが来た。少しセンチメンタルである。長文を書いたら肩は凝るが少し気分はマシになりました。
Mar 13, 2008
ずつう
仕事から帰宅したら頭痛がする。出かけられるかな。急に暖かくなったからか。花粉症ではないが、空気がさっぱりしていない。思い込みかよく知らないのに偉そうにいってしまうと、スギ花粉の飛散は、国策の巨大な失敗のせいである。伐採して山に道つけて、その後、杉を植えすぎたのだろう。これくらいの規模になった今、国は知らんふりして責任をとらないなんて可能なのか。そのうち外が歩けなくなるで。むずかしいことばかり
昨日は高階さんや、しげかねとおるさんや、果歩さんの詩集を読んでいた。ある人に「現代詩ってどんなですか」って問われて考えたけれどわからなくて、色々ひっぱりだしていたのだ。いずれの詩も再発見があった。今日は友人の雅楽の演奏会に行こうと思う。友人は初級から上級への階段を登りつつありうれしいな。
そのついでにドゥルーズの『記号と事件』を手に入れようかな。ずっと『アンチ・オイディプス』を読んでるんだけれどなかなか手ごわい。理解の補助線を引くために。『記号と事件』は本人による入門みたいな位置づけのようだ。
『アンチ・オイディプス』は、フロイト=ラカンへの批判と資本主義に対する分析が合体している。両方とも手強い。
フロイトは心を記述しその底にある葛藤の源を『オイディプスコンプレックス』と名づけた。平たく言うと、子どもにも性欲はあって、それでお母さんが好きになるんだけど、お父さんに阻止されてしまう。だから、心のエネルギーが捻じ曲がるということのようだ。(間違っていたらすいません)
ドゥルーズ=ガタリは、心の中がパパーママー私の三角関係だけで支配されているとは到底いえない。それなのに、親との関係を第一義的に人間の心の根源に居座っているとしたら、それは治療者の刷り込みであり、その根底的な家族主義は社会制度や権力に都合がいいんじゃないかというわけです。
ドゥルーズはフランスの人なんだけれど、国を問わず「家族」って人を惹きつけ困らせるテーマなんだと思った。彼は結局、人間や生命の欲望=生命エネルギー?を家族を単位とする社会が離接(ある部分を切り捨てながら、養分だけを吸収する)する形で支配を強めるという。
今もどんどん高齢者の一人暮らしが増えているんだな。家族が壊れていく中でもドゥルーズ=ガタリの説は機能するか。でも、彼らだって家族に絶望しながら、しかしどうやってお互いがいい関係になれるかを考えようとはしていたと思う。ベースは肯定だ。単なる批判ではない。結果はともかく志しとしては。私は家族に矛盾する感情がある。そして逃げまわってばかりだった自分の欲望の検証をしたいから、ドゥルーズも読むし、水木しげるの『猫楠ー南方熊楠の生涯』も読むし、与謝野訳源氏物語も読むし、『仏教と精神分析』も読むのだ。大変です。
どれも欲望に動かされ、それに絶望しながら、生命の凄さ・儚さを感じようとしているから。
Mar 10, 2008
とらわれないにとらわらない
春への移り変わり。けっこう心身への負担も大きいように感じている。土日はたっぷり休んだから、けっこうすっきりした。ただなんとなく肩こりが残っているような感じ。日曜は夕方に買い物に行って、帰りがけに本屋による。この本屋は仏教関係の書籍がたくさんあってうれしい。三枝充悳・岸田秀『仏教と精神分析』購入。
1980の対談のもよう。岸田秀は『ものぐさ精神分析』でヒットしてした頃だろうか、お若い。「この戒名ではダメですか」とか岸田さんが全く仏教に詳しくないため率直に質問していくので私のように仏教に詳しくない人も面白い。
三枝さんが「仏教はとらわれることを戒めるのですが、とらわれないという考えにとらわれてもダメだと仏典に書いてあります」という辺り面白い。つうか難しい。そうなのか。
関係ないけれど、時々くよくよ反省していたら、「この反省ってうわべだけだなあ」と思うときがあります。けれど、「うわべじゃない深い反省ってなんだ?」と考え出したら訳がわからなくなる。どうしたらよいのか。
仏教のとらわれって「執着」のことなんだそうだけど執着するからには何かに執着しているんだと思う。つまり、その何かとの関わり方の問題なのかもしれない。仏教では無常や空を説くわけだから、「何か」つまり対象も滅びたり変化する。だからって、どうせ消えたり滅んだりするんだから何をしても無駄って考えるのもどうなのかな。そうしてすましている人は多いように思う。そういうクールな考え方があたかもカッコいいかのような。
けど、仏教の言説が人をひきつけるものを持つとしたら、「何をしても無駄」って思っても、何か寂しい気がするのが人間だからだ。
なんで寂しいのかていうと、「欲望」があるから、満たされなくて悲しいからだと思っていた。けれど、「欲望」で済むのかな。満たされない感じって「欲望だ」と言い切っていいのだろうか。
「とらわれないという教えにとらわれるな」というのはそう考えると意味深い。「とらわれない」って力んでいるのはやせ我慢。余計欲望がつのってくるのかもしれない。というか、人間が例えば私だったら「詩を書いている」。これは「したい」ことなのだろうか。理由もわからず「やってしまっていた」のではないか。そんな闇雲でいいのかと思うけれど、その中でどうしようもなく自分が非力であったり、単に名誉欲にとりつかれていることがありうる。その「やっている」中で気づいていくのだと思う。たぶんやらなかったら、何も気づかない。たぶん何かに気づきたいから「やっている」
「とらわれない」という考えが強くなりすぎると、何に関わるのも罪深く恐ろしくなる。それは正しい。けれど、「とらわれない」ために何かをやってみないと「気づかない」のだと思う。
でも、特別何かに参加する、やってみるってことだけじゃなく、もう既に「生きている・存在している」っていうだけで、時間は動き出している。だから、何かやれば道が開けるっていうことでなくて、生きているだけでもう何かやってしまっていることになる。
診察に行ってこよう。春の嵐の日です。気をつけて。
Mar 07, 2008
肘が痛いぜ
晩寝ている時、肘が痛かった。時々目が開くと痛い。激痛とかではないです。朝、肘にサロンパスを貼ってみる。気持ちいい。しかし、肘から先に伸びている筋も痛いようだ。軽く痛む感じたが、何となく利き腕だから、ものを持つのが憂鬱です。だから肘から先にももう一枚シップ張る。
今マシになってきたので、ブログを書いている。3日続けて清掃のバイトに行った。ブラシで床を擦ったり、便器を拭いたり、掃除機かけたり。中腰も多いから、腰とかの軽い疲労は経験しているのだが、腕に来たのかな。予想外だった。もしかしたら寝ている間圧迫していたのかもしれない。
しかし、体を動かすのは悪いことではない。カウンセリングも終結に近づいている。だから清掃は今までは2日だったが3~4日は入りたい気もしている。時給は安いのだけれど、4月から日給が100円上がるので、稼ぎにもなる。あとは、体調との兼ね合いだ。
ああそうだ。一昨日友人がガーネットの最新号を持っていたので、読ませていただいた。寺西氏の遺稿が載っていて、声に出して読むと、何かがあふれそうになった。寺西氏とはほとんど接点はなかったが、大阪文学学校の先輩。先輩といっても、寺西さんは終了されていたから席を同じくしたことはなかった。
何かの形で寺西さんのことを考えたいとも思うし、口ごもる感じもある。私は寺西さんを作品を通じてしか知らないから。僭越な気がするのだ。しかし、詩学の話題は多くても(それは大切なことなのだが)作品の話をする人も少ないので、遺稿の感動の意味については私なりの宿題にしたい。主に詩人としてどうあるべきかや、詩を書くことについてのこと。
Mar 04, 2008
逃げる勇気・戦う勇気・独立
最近、なぜか「戦い」ということをふと思った。難しい名前を出すのを許していただきたいが、レヴィナスというユダヤ人哲学者がいる。リトアニア生まれで後にフランスに住む。ドイツついでフランスで勉強していた頃、第二次大戦が起こる。ナチの勃興・ヒトラーに関する論文も書いている。彼もフランス軍の兵士として戦場に向かう。そこでドイツ軍に捕虜として収容される。幸い命からがら復員する。たぶん、その頃ユダヤ人をはじめとしてナチが大量虐殺を行っていたことを知ったのかも知れない。戦後、レヴィナスはたぶんその事実に落ち込み、無力感を感じた。眠れない夜や、ベットから起き上がるのもやっとの日々もあったのかもしれない。彼の著書『実存から実存者へ』は哲学のことばで書かれていて難しい。けれど、そういう無力感の中で悶々として何も出来ないことも、心の中の「戦い」だと彼は言っているのだと思う。疲れて参ってベットからやっと起き上がる。その起き上がりも「行為」に近いと彼はいう。何も出来ない自分だが、何とか生きることで、毎日起きるということだけでも、それは生きることなのだと彼はいう。むしろわけのわからない恐ろしい暴力の傷跡を抱えて生きるにはそれしかない。わかったように戦争の原因はこうですといえないという認識が彼の思索の出発点なのだ。
もうひとつ彼の論文に「逃走論」というのがある。人は受けとめられないことに向かう無謀な勇気を無闇に美化する。それは戦争の賛美とどうちがうのか。真剣に何かに向き合うことは大切だ。しかし今の現実が変だ、受け入れられないと感じた時、己を顧みて、青ざめて退却することも大事だと彼は言っているようだ。引き受けられないで倒れるよりは、どんどん逃げてしまえ。逃げることでいつの間にかちがう道に入り込んで、いいものに出会えるかもしれない。レヴィナスはもちろん自分は卑怯かもしれないと思っているのかもしれない。けれど、今の自分では無理だと感じる勇気、それを確認して次にいく勇気もあるよとささやいている。今引き受けられなくてもいつか。なぜなら、人間は自分でこの現実を選んで生まれてきたわけではない。けれど、自分なりにこの現実を考え自分の足で立つにはどうしたらいいか。レヴィナスの考えは示唆的である。これを逃げる勇気と呼びたいと思う。
もちろんこれらのレヴィナスの解釈は専門家から見れば世俗的で笑止だろうと思う。けれど、自分が生きるために、大切なものを考え守るためにどうしたらいいか。僕はいつもそういう観点からややこしい本を読んでいる気がする。世の中には世の中的な語彙で語れば、簡単に世の中に押し流されるようなそんな罠がある。それはいやだ。もちろん無闇にややこしい言葉で煙に巻くのはよくないけれど、何回もひねらないと届かないことがある。もちろん詩もその一部である。主題が素朴な言葉にふさわしいのなら、素朴な言葉で書くのがふさわしいのは当然のことである。
それでは、この前置きと直接は関係ないかもしれないけれど、「闘い」をテーマにした曲を紹介したい。
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Primal Scream - Swastika Eyes
名前の「Swastika=鍵十字」はナチのシンボルマーク。この曲が出た頃、非常に興奮した。もちろん、ヒトラー万歳の歌ではない。曰く「おまえの魂は燃えない/暗い太陽/おまえはみんなの炎に雨を降り注ぐ/悪徳警官 政府の役人/精神を摘出された腐敗した輩たち」世の中をつまらなくしていく、どうしようもない弛緩。そこから導きだされるダメダメな命令の数々。そういうものをメロメロというか気だるい歌い方で溶かしてしまう。プライマルは出すたびに音楽の形態が変わるのだが、今度はテクノですかと思うことは当時できなかった。その前に僕が聴いたプライマルはブルーズだったりして何でこんな急にテクノになったのか見当がつかなかった。この曲は911テロのわずか1年前に出ている。
全然僕は当時世の中に対して不穏さなんて感じなかった。仕事は楽しかった。911の年には病気がはじまって、それと関係はないと思うが、小泉さんも対イラク戦争に速攻で支持した。もしかしたら、プライマルもイギリスの人なわけで、何となく妙な空気を感じていたのかもしれない。こういう露骨な海外の政治批判が日本でもヒットするわけだが、実は日本ではかつて忌野清志郎が君が代を替え歌にしたら禁止された。それ以降90年代から露骨な日本人による政治批判の歌が出にくくなったかもしれない。
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中島みゆき ファイト
世の中にある偽善やささいな暴力に心痛める人にエールを送っている。心やさしい人は他人が行う悪を見ると、なぜか自分に責任があると思う。今頃格差だなんだというけれど、この歌にある30年近く前に中学卒業と同時に上京した娘は今頃どうしているのだろう。何をやってもうまくいかないで傷ついている人がいることと、いつの時代でも格差が存在すると平然と述べる方々は、たぶん根っこのところですれちがっていると思う。そういう「平然とした」認識では言葉なんて届かない。だから、せめて世界の片隅で生きている人に歌が届くようにより徹底する。この頃の中島みゆきにはそういう力があったと思う。個人的に中島みゆきは、全部が全部好きではない。けれど、リスナーの年とか境遇とか関係なく、一人一人の暮らしの大事なところや心の襞に的確にヒットさせる作品はいい。それが出来るのが優れた表現者だと思う。
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Rage Against The Machine - Sleep Now In The Fire
直訳では機械に対する反抗。なにしろ反抗であるから、対イラク戦争のとき、レイジの曲はラジオ放送禁止となった。僕はレイジは苦手だった。
最近タワレコで彼らの出した代表アルバム3つがパックされて¥2300で売っていた。試聴してみたら言葉が小気味いい。刺してくる。彼らは歌詞が重要なので音はたいして重要ではないと考えているようだ。一種のアジテーションのために音楽を使う。そりゃ当局から禁止されるはずである。けど、メッセージを届かせるために仮面をかぶるってのは見習ってもいいかもな。
音楽がかっこいいから若い子が聴いているとついついはまる。けれど、その中には社会正義を訴える歌詞が仕込まれている。日本のヒップホップはなぜか親父の説教だったりするのもあって悲しい。殴り合いがいいとは思わない。けれど、こういう曲を聴いて世の中について考えるようになるのは悪くない。場末や街でこういう音楽を聴いて、真剣に考える人たちだって出てくるとしたら。もちろん破壊的な人たちも同時に出てくるのかもしれないけれど。
ちなみにこのプロモはニューヨークかなんかの証券取引街で撮影したもの。やっぱり警察がでてきて、逮捕されてしまった。けど通りがかりのビジネスマンはノリノリ。官公庁街の地下鉄に毒ガスをまく連中とは一味ちがう。
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中村中 - 友達の詩
個人的には少し気になる程度で、あんまり聴くことをしなかった。オーラの泉に出た時興味本位で見たら、エハラ・ミワ両先生よりずっと貫禄ある受け答えをしていて、快哉を叫んでしまった。スピリチュアルな過去生のお話もなかった。中村さんがいやがったのかなあとかんぐった。トークにおいても歌においても、心の中の修羅と戦ってきたんだろうと感じた。「自分と向き合え」とか「逃げちゃダメだ」とかのお説教や気合いより「大事な人は友達くらいがちょうどいい」とささやかれる方がずっと沁みるし勇気が出ると思う。
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The Beach Boys -Caroline No
あんまり戦っていない歌に聞こえるかもしれない。しかしビートルズに刺激され負けないぞと作ったアルバム『ペットサウンズ』。その中の1曲。繊細な天上空間。
今聴くと素敵。けれど当時結局売れ線の曲ではなく、レコード会社にも理解されず、ブライアン・ウィルソンは激しく落ち込んでいく。薬でふらふらになり、どんどん屈折しヒットチャートから遠くなる。けれど、幾多の波にもまれ、仲間を失いながら、今でもブライアンはしぶとく活動しているようなのだ。
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鈴木慶一(曽我部恵一プロデュース)
『ヘイト船長とラブ航海士』より「おお、阿呆舟よ、何処へ行く」
「超満員の阿呆電車とおりゆくのをずっと待ってる」すげえ歌詞である。
さっき勇気といった。心の過敏さみたいなものが、繊細さを育て勇気として実るか?逆に繊細さがあだになって、とめどもなくひねくれて堕落してしまうか?鈴木慶一はずっとこの微妙な線上を歩いてきたのかなあと思った。NHKで鈴木慶一と曽我部恵一が演奏しているのを見た。鈴木はゆうゆうと貫禄がさらにパワーアップしていた。鈴木慶一に詳しくない僕でも、うれしかった。「阿呆電車」なんていわれると人を小ばかにしているようだが、単純に素敵な電車がいいなという素直な気持ちが心の中にあるのを感じる。
ここまで書いてきて、「独立」という言葉が最近歌われているのを思い出す。ビョークの曲だ。「自立」か「依存」か。はたまた尊重しあうとか協力しあうとか。しかし、それらの言葉にない響きが「独立」にはあるように感じる。独立は英語だとindependenceだから「頼らない」というのが基本的な語の意味。しかし、基本的なものを侵害されない。権利をもつという意味も持つと思う。アメリカの革命は「独立革命」。幾人かの政治思想家は、フランス革命の暴力的、独裁的な側面を嫌い、独立革命を評価している。もちろんその前にアメリカの先住民に対する殺戮があったので我々は安易に評価できない。また大戦後、様々な小国が独立を宣言するが、逆に大国に政治経済的に左右されることになった。
そんな大きな独立ではなく、個人的な気概として「独立」を心に持つことは大切だ。自分を顧みて人に頼ろうとして裏切られ辛い思いをしたり、また逆に人にいらぬお節介をして疎まれたこともある。
そんなとき、もちろん人が信じられなくなる。けれど、それは自分は自分の人生をそれだけを生きざるをえないという認識からの逃避でもある。逃げることに意義を僕は語った。ただその先に自分でしかありえないことの事実性と揺らぎがある。どうしても自分でしかありえないこと。このことにはもうそれ以上の意味はない。けれど、だから変わっていくということを感じたり人のやさしさが感じられるのだと思う。この曲は映像も含め危機的で異様である。しかしどうしようもなく精一杯狭い部屋で叫ぶ。そういう苦しさが今ある。それをどうしたらより広い場所に出せるか。非常に真摯な呼びかけを感じるのである。
Bjork -Declare Independence
Mar 02, 2008
昨日は
テレビで周防正行監督作『それでも僕はやってない』をみました。加瀬亮すばらしい。周防さん、よくここまでがんばって作ったもんだ。やっぱり並みの人ではない。けれど見ているとずっとはらはらしたり、思うことが多く、気楽に見るというわけに行かない。素晴らしいけど、肩が凝る。説教くささはないけど、社会のなかなか変わらない苦しさをかなりがっつり描いているのだ。学生時代ともだちに誘われて「法律研究会」なるサークルに入っていた。大阪地裁?の傍聴に行ったことがある。小さい法廷で、麻薬所持の公判だった。
そこは人を裁くという堅いイメージとはちがって、法廷内は不器用だったり、少し頓馬なやりとりや人生模様で満たされていた。しかし、周防さんの映画を見てそのぎこちなさが、裁判当事者の大変複雑な現実と感情からできあがっていることがわかった。限られた情報で判断するほかない中で我々は日常を生きている。しかし、その判断が判決という形では人の人生を大きく左右する。誰かが不正を働いたら権力を発動して誰かを拘束するしか今は手がない。けれど、不正を正すはずのその権力が様々なものの思惑を受けて、毎日誰かを苦しめている。周防の映画はそういう理不尽を他人事にしないでと伝える。
しかし、その理不尽を考えるとき、目が回りそうになるのも正直な感覚だ。それくらい国って得体が知れない。