Mar 24, 2008
涙舟としての
泣きながら話すということが何年かに一度ある。そういうのは病気のせいかとも思ったし、そういう一面があるのは否定できない。けれど、そうでもないような気もしてきた。泣く時はどんなか。こう何だかわからない糸玉が本当に喉にあって、どれだけ引っ張ってもどうしようもない時。糸玉が球体に変わるとき。ごりごりしている。(でもないかもしれない。こういうのは嘘くさくなる。)
しかし、相当がんばって、もう洗いざらいいう。そうすると、多分ある限界に達して、どうしてもこれ以上はもう今の私の手持ちでは言葉にはならないというとき泣くように思う。ゼロになるのではない。けれど、もう泣いたら変わるしかない。けれど、変わるのに時間がかかる。いや、これだけではない。
僕は「絶対」という言葉は苦手だが、泣く時かすかに絶対に出会っている。ふだんは何かを比べてまだ大丈夫とか思っていても、逃げ切れないときは泣く。
それまでは我慢している一線があるのだろうな。というのは、僕も一応はそのように誰かの涙を見たことがあるからか。そのとき、どうしようもなくその人を思っているかどうか気づかされる。誰かが、「かつて日本人は人が泣くのを見るとき神さまをそこに見ていた」といったのはそういうことかもしれない。誰かが泣いている。と、その人が孤独であるように見える。しかし、誰か抱いてくれる、くれた者(生きている人ではなく死者でも神でもよい。そこにいなくてもよい)がいるように僕は感じる。泣けるのは誰かに抱かれたり抱くものを求めていた記憶があるからだ。ありていにいえば母ちゃんということになるが、そうでなくてもよい。本でも人形でも風でもよい。しかしかけがえのない何か。その記憶を辿る。
僕は泣いて、誰かに抱きとめられたいと思っていたのではないか。いつもそう思う。しかし、守られたいだけでなく怒りや抗議、いかんともしがたい何かに向けて泣く。自分が情けないと思う。けれど、尊厳あるものとして生きたい。いじめられたとき、よく家に帰って寝る前に泣いていたのはそのせいかな。
今はどこかで誤魔化して黙ることができている。そんなに隠し事もない。けれど、いつか糸玉が絡まり泣く日もあると思う。糸玉はいくら泣いても冷めない。ほぐれない。僕の体の中にいつも絡まり続ける糸玉がある。大人になってきたような気もするから、冷静に記述しているつもり。だから、人から見れば素直じゃないと思われるだろう。だけど、泣いていたあるいは泣かなくても抱いたり抱きとめられる中で、僕は成長してきた。ある意味で幸せすぎた人生であるようにも思う。激しい孤独の中で泣くこともやめようとするものがあまりにも多くいて。また泣く人がたえずどこかで僕は気になり続ける。僕の狭い視野の中でも。
泣いているからって何もかもは許されない。けれど、やはり泣かない限りやってられない。あるいは、泣くという局面を味わわなければならないように人間はできているように思えてならない。それをだきとめあってかろうじて人は幽かな綱渡りを続けられる。
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