Mar 13, 2008
むずかしいことばかり
昨日は高階さんや、しげかねとおるさんや、果歩さんの詩集を読んでいた。ある人に「現代詩ってどんなですか」って問われて考えたけれどわからなくて、色々ひっぱりだしていたのだ。いずれの詩も再発見があった。今日は友人の雅楽の演奏会に行こうと思う。友人は初級から上級への階段を登りつつありうれしいな。
そのついでにドゥルーズの『記号と事件』を手に入れようかな。ずっと『アンチ・オイディプス』を読んでるんだけれどなかなか手ごわい。理解の補助線を引くために。『記号と事件』は本人による入門みたいな位置づけのようだ。
『アンチ・オイディプス』は、フロイト=ラカンへの批判と資本主義に対する分析が合体している。両方とも手強い。
フロイトは心を記述しその底にある葛藤の源を『オイディプスコンプレックス』と名づけた。平たく言うと、子どもにも性欲はあって、それでお母さんが好きになるんだけど、お父さんに阻止されてしまう。だから、心のエネルギーが捻じ曲がるということのようだ。(間違っていたらすいません)
ドゥルーズ=ガタリは、心の中がパパーママー私の三角関係だけで支配されているとは到底いえない。それなのに、親との関係を第一義的に人間の心の根源に居座っているとしたら、それは治療者の刷り込みであり、その根底的な家族主義は社会制度や権力に都合がいいんじゃないかというわけです。
ドゥルーズはフランスの人なんだけれど、国を問わず「家族」って人を惹きつけ困らせるテーマなんだと思った。彼は結局、人間や生命の欲望=生命エネルギー?を家族を単位とする社会が離接(ある部分を切り捨てながら、養分だけを吸収する)する形で支配を強めるという。
今もどんどん高齢者の一人暮らしが増えているんだな。家族が壊れていく中でもドゥルーズ=ガタリの説は機能するか。でも、彼らだって家族に絶望しながら、しかしどうやってお互いがいい関係になれるかを考えようとはしていたと思う。ベースは肯定だ。単なる批判ではない。結果はともかく志しとしては。私は家族に矛盾する感情がある。そして逃げまわってばかりだった自分の欲望の検証をしたいから、ドゥルーズも読むし、水木しげるの『猫楠ー南方熊楠の生涯』も読むし、与謝野訳源氏物語も読むし、『仏教と精神分析』も読むのだ。大変です。
どれも欲望に動かされ、それに絶望しながら、生命の凄さ・儚さを感じようとしているから。
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