Mar 10, 2008
とらわれないにとらわらない
春への移り変わり。けっこう心身への負担も大きいように感じている。土日はたっぷり休んだから、けっこうすっきりした。ただなんとなく肩こりが残っているような感じ。日曜は夕方に買い物に行って、帰りがけに本屋による。この本屋は仏教関係の書籍がたくさんあってうれしい。三枝充悳・岸田秀『仏教と精神分析』購入。
1980の対談のもよう。岸田秀は『ものぐさ精神分析』でヒットしてした頃だろうか、お若い。「この戒名ではダメですか」とか岸田さんが全く仏教に詳しくないため率直に質問していくので私のように仏教に詳しくない人も面白い。
三枝さんが「仏教はとらわれることを戒めるのですが、とらわれないという考えにとらわれてもダメだと仏典に書いてあります」という辺り面白い。つうか難しい。そうなのか。
関係ないけれど、時々くよくよ反省していたら、「この反省ってうわべだけだなあ」と思うときがあります。けれど、「うわべじゃない深い反省ってなんだ?」と考え出したら訳がわからなくなる。どうしたらよいのか。
仏教のとらわれって「執着」のことなんだそうだけど執着するからには何かに執着しているんだと思う。つまり、その何かとの関わり方の問題なのかもしれない。仏教では無常や空を説くわけだから、「何か」つまり対象も滅びたり変化する。だからって、どうせ消えたり滅んだりするんだから何をしても無駄って考えるのもどうなのかな。そうしてすましている人は多いように思う。そういうクールな考え方があたかもカッコいいかのような。
けど、仏教の言説が人をひきつけるものを持つとしたら、「何をしても無駄」って思っても、何か寂しい気がするのが人間だからだ。
なんで寂しいのかていうと、「欲望」があるから、満たされなくて悲しいからだと思っていた。けれど、「欲望」で済むのかな。満たされない感じって「欲望だ」と言い切っていいのだろうか。
「とらわれないという教えにとらわれるな」というのはそう考えると意味深い。「とらわれない」って力んでいるのはやせ我慢。余計欲望がつのってくるのかもしれない。というか、人間が例えば私だったら「詩を書いている」。これは「したい」ことなのだろうか。理由もわからず「やってしまっていた」のではないか。そんな闇雲でいいのかと思うけれど、その中でどうしようもなく自分が非力であったり、単に名誉欲にとりつかれていることがありうる。その「やっている」中で気づいていくのだと思う。たぶんやらなかったら、何も気づかない。たぶん何かに気づきたいから「やっている」
「とらわれない」という考えが強くなりすぎると、何に関わるのも罪深く恐ろしくなる。それは正しい。けれど、「とらわれない」ために何かをやってみないと「気づかない」のだと思う。
でも、特別何かに参加する、やってみるってことだけじゃなく、もう既に「生きている・存在している」っていうだけで、時間は動き出している。だから、何かやれば道が開けるっていうことでなくて、生きているだけでもう何かやってしまっていることになる。
診察に行ってこよう。春の嵐の日です。気をつけて。
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