Mar 22, 2008
人間そのもの
天気がいい。午前中は眠ってしまった。洗面・トイレ・流しの掃除をする。丹生谷貴志という仏文学者が中上健次について語っているものを読んだ。すごく刺激を受ける。僕もまた自分を救うために、自分の苦しみを吐き出すために詩や文学を使ってきたのかなと思う。別に問題ではないのだが、文学があまりにも自己救済のためだけに存在している気もするのである。一方で、そんなんじゃないという声がある。つまり作者=作品内の語り手ではない。だから自分と作品、自分と文学を切り離さなければいけないのだといきむ者たちがいる。
僕には前者は開き直り、後者は自分のために文学があってはならないようである。つまり、どっちも自分を覗きこんで「何にもない」とか「かすかに何かがある」と評価することを恐れ怠っている。つまり「恐がり」なのだ。僕は恐がりなんだが、それでも自分のことをみっともないと思えばそう書くだろう。これも開き直りかもしれない。
今のところ折角先人が開いた場所が封圧されてしまった。私小説はダサいということになれば、私小説作家の苛烈な自己探求は忘れられる。またそういうのでなく、もっとスマートに構造として作品を考えるという路線もダメになったようだ。それもダサいらしい。みんなダサいことにされてしまって、みなどこに行くつもりなのか。
ダサいとか、流行とか、あるいはキモいのもいいなんていうのは、人間の存在そのものと何の関係もない。流行に対して、あるいは空気を読めという野蛮な怒号みたいなものは、もう僕が中学生の時に散々排除やいじめとして働いたというのに。つまりそこでも人間そのものは忘れられる。ないことになる。
シェイクスピアに「きれいはきたない。きたないはきれい」というセリフがあるらしい。人間はそういうものだと思う。例えば性は綺麗か。綺麗じゃない部分がたくさんある。でもそれを求める。求める働きの中に、何か綺麗なものがある。しかし、その綺麗さはどうしようもなくみっともないものとしてあらわれる。例えば、人を好きになったりすることって、肉欲も精神も、人とのつながり、空や雲や花そういうものが全部働いて、一瞬で成就したり、その一瞬後にどうしようもない空虚や破壊があるものではないか。そういう有り様を「みっともない」といえるし、我々は言うが、その最中の人間はそれに必死だったりする。
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