Jan 23, 2006

ニート  絲山秋子

saboten

 これは「ニート」「ベル・エポック」「2+1」「へたれ」「愛なんていらねー」の五編からなる短編集である。一編づつ追いながら軽いメモを書いておきたいと思う。

【ニート】

 どうやら生活の安定している作家である「わたし」が、かつての恋人であり、ニートの「キミ」の困窮生活を救うために、経済援助を申し出ることからこの物語ははじまる。それはおわりの時を決めかねる約束であるが、「わたしは約束を守る女だから、絶対と言ったら絶対なのだ。」と思っている。この二人の関係は恋人でもなければ友人でもないが、この「わたし」は愛の永続性をしずかに信じていたのではないのだろうか。。。

【ベル・エポック】

 主人公の「典ちゃん」が、婚約者の突然の死によって故郷へ帰ることになった友人「みかちゃん」の引越し準備を手伝いながら、一日を共に過ごして、「みかちゃん」の思い出話を聞く物語である。いつかその友人の故郷へ訪ねるという約束をするが、見送ったあとで、主人公は友人と二度と会うことはないだろうと感じる。「みかちゃん」と「典ちゃん」の別々のかたちの深い喪失感が読み手の胸に重く残る。

【2+1】

 「ニート」の続編である。2+1とは、「わたし」が女友達と二人で借りているマンションに、ニートの「キミ」を同居させた数である。「キミ」との共同生活はやがて同棲生活となり、女友達はある日黙ってメモを残してマンションを出てゆく。「もしもキミの子供を身ごもっていたとしたら即座に殺すだろう。子供なんてニート以下だ。」と「わたし」は思っている。やがて「キミ」は郷里に帰り「わたし」は一人の生活に戻った。切れ切れの愛だ。

【へたれ】

 主人公の男性は東京のホテルマン。七歳で母親を亡くし、母親の従妹にあたる独り身の「笙子さん」に育てられる。父親の再婚の際にも、「笙子さん」との名古屋の生活を選んだ少年だった。結婚したが妻に出て行かれたという過去がある。大阪の歯科医「松岡さん」との偶然の出会いから「遠距離恋愛」が始まる。幾度目かの大阪行きの日に、彼は突然「笙子さん」の住む名古屋で下車してしまう。その名古屋までの列車のなかで彼は少年時代に飼っていた、たくさんの蛙を思い出し、「笙子さん」の書棚にあった草野心平の詩「ごびらっふ」を繰り返し思い出していたのだった。これは孤独な愛の復路ではないのか?

    ああ虹が。
    おれの孤独に虹がみえる。
    おれの単簡な脳の組織は。
    言わば即ち天である。
    美しい虹だ。
    ばらあら ばらあ。

【愛なんていらねー】

 大学教授「成田ひろみ」は、元教え子であり刑務所帰りらしい「乾ケンジロウ」と再会して、彼女は乾との異常性愛に翻弄されることになる。人間は愛によってみずからをより浄化してゆく人間と、愛の裏に潜むエゴイズムや凶暴性を表出してゆく人間とがいるのではないか?愛とは、この二つの極へ向って働きかける力を内包しているのではないか?「乾ケンジロウ」は、屈折した精神の道筋を歩いてきたか、あるいは極度の苦難を潜りぬけてしまった人間だと思える。これが彼の愛のあり方なのだろう。

【付記】

 この本を読みながら、しきりになつかしく思い出した詩は、黒田三郎の「賭け」だった。これを懐古などと言うなかれ。わたくしは絲山秋子の数冊の本のなかから彼女が描き出す現代の愛のあり方について、繰り返し考え直さなくてはならなかったということは否定しない。だが。愛に傷つくことを恐れてはならない。

    僕は
    僕の破滅を賭けた
    僕の破滅を
    この世がしんとしずまりかえっているなかで
    僕は初心な賭博者のように
    閉じていた眼をひらいたのである

 (2005年・角川書店刊)
Posted at 12:15 in book | WriteBacks (2) | Edit

二十一日の初雪

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 雪の朝の目覚め際ではこわい夢をみないものらしい。いつもよりゆったりと眠っていた自分に目覚めてから気付いた。とても不思議な気分でした。窓の外は真っ白な世界が広がり、音もなく雪は一日中降り続いた。この土地ではめずらしい大雪でした。

     肋骨はたましいの籠冬薔薇

     山越えて深雪の地獄あるそうな     昭子
Posted at 00:59 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

Jan 21, 2006

森のなかの1羽と3匹   大島弓子

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 大島弓子は大変有名な漫画家であるらしい。今年になって彼女の名前を初めて知りました。しかしこの本は漫画ではありません。童話のような、あるいは詩のような言葉と絵の絵本なのです。1羽は「カッコー」、3匹は「トンボ」「カエル」「セミ」ですが、どの生き物に対しても「いのち」をテーマにしてありました。これらの生き物が絵のうえでも言葉のうえでも擬人化された表現になっていますが、その擬人化のバランスがとてもよい。奇麗事に陥らず、さりとて生々しい残忍さにも走らず、みごとにこの生き物たちがこの絵本のなかでうつくしく息づいていました。

    これが飛ぶということだ
    誰に教えてもらわなくても
    そのつどをクリアしてゆけば
    一生は自然にやれるものなのだ   (「セミ」より)

 わたしもこんな絵本詩集を作ってみたいなぁ~(^^)。。。

 (1996年・白泉社刊)
Posted at 18:17 in book | WriteBacks (2) | Edit

父の顔

 「ガラスの使徒」を観た帰りに、山手線の電車のなかで、わたしは一瞬立ちすくんだ。亡くなった父とそっくりの顔立ちの男性がこちらを向いている。笑顔のように見えた。その人はまるで、あの世の父の笑顔だけを首の上に載せて、そこに立っているようだった。世の中には似た人は三人いるという説を信じてもいいかもしれない。
 その男性はからだの向きを変えて、父はもういなかった。断言するがわたしは「ファザー・コンプレックス」ではない。しかし父の精神の強靭さと、看護するわたしへの思いやりを最後まで通した男だったと、亡くなってからわかった。
Posted at 03:10 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

Jan 20, 2006

ガラスの使徒

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 この映画の監督は金守珍。原作、脚本、主演は唐十郎。さらにわたしが期待をしたのは、中島みゆきが占い師役で出演するということだった。この期待をいだきながら、今冬としては比較的天候に恵まれた十七日に、恵比寿ガーデンプレイスにある「東京都写真美術館」で、桐田さんと待ち合わせることにしました。
 世の中なにが起こるかわからない。わたしはいつでも約束時間二十分前には約束の場所に到着できるようにしているのですが、その日は事故のために電車の出発時間が十分遅れた。さらに乗り継ぐはずだった快速電車に間に合わず、各駅停車の電車に乗ることになってしまった。どうやら上映時間には間に合ったが、約束した待ち合わせ時間には遅れることになった。恵比寿駅東口からの「動く歩道」を走ったのは初めての経験であった。疲れた。人を待たせること、約束を守れないことはわたしはとてもとても嫌いなのだ。
 ・・・・・・と前置きが長いが、わたしはかなり映画を観る前からナーバスになっていた。この映画を観終った後では、さらにかなり哀しい気分になっていた。この映画に登場するさまざまな人間たちが、誰一人として救われないからなのだ。「ガラスの使徒」の「使徒」とは、イエスの福音を伝えるために選ばれた十二人の弟子たちのことである。転じて神聖な仕事に献身する人への敬称である。

 原作&脚本&主演の唐十郎の一貫したテーマは「ガラスの使徒」である職人の池谷の一徹な生き方にあったのか、それをとりまく人間たちのさまざまな心の動乱にあったのか?監督の金守珍は原作者&脚本家を主役に起用するという試みをしているが、この意味はなんだったのだろうか?金守珍は、もとは「状況劇場」の役者だったらしい。ということは、この物語は、アングラ的な仕掛けがあちこちに配されているということだろう。舞台上の芝居がそのまま映像になったという感も免れない。この物語にはささやかながらの「成就」など一度もない。ただ「崩壊」ばかりが延々と続くのだ。もちろんハッピーエンドなどあろうはずもない。

 小さな町工場で働くレンズ職人「池谷=唐十郎」の存在は、今の最先端の宇宙科学を陰で支えているのは、実は小さな町工場の熟練した職人たちであるという、昨今の事情をよく表している。 しかし工場は倒産の危機にあって、池谷と工場の専務の芹川は、整理屋の平手の執拗な脅しに追い詰められていた。その二人の前に芹川の幼馴染みだという少女の葉子が現れる。彼女の亡父も池谷と同じレンズ職人だったのだ。三人の「レンズ完成」への一途な情熱に、平手は束の間心を動かされるが、レンズはついに壊され、平手からやっと開放された三人が再生できるはずのないレンズを磨くシーンで、映画は終わる。奇跡はついに起きなかったのだ。

 中島みゆきをわざわざ起用した「糸電話の占い師」が、この物語の大きな存在とはなっていないということは残念だった。彼女の不思議な魅力を映画全体に妖精のように存在させて欲しかった。
 一つ気にかかることがある。「掌」である。レンズを磨く池谷の「掌」、レンズで光を集めて「掌」を焼く葉子、芹川の平手への怒りのナイフを「掌」で防いだ平手の愛人、平手の残酷な仕打ちによって「掌」を焼かれる芹川、「掌」が何度も表現される。そこだけが別の生き物のように。。。

 ただし、この映画をまた観たいか?と問われれば、わたしは「イエス」とはいわないだろう。。。
Posted at 14:49 in movie | WriteBacks (0) | Edit

Jan 14, 2006

ターシャの本

 クリスマスに「暖炉の火のそばで」を自分で自分にプレゼントしたことは十二月の日記に書きましたが、このもう一冊の「ターシャの庭」は、娘が買ってくれました。良い子(ん?母だったかな?もう忘れました。。)にはお年玉が来ます(^^)。。

 この二冊の本は、まさに憧れ続けた生活であり、決して手に入ることのない生活です。食べるものは野菜や果実を育て、山羊を育てることからはじまり、着るものは糸をつむぐことからはじまる生活です。四季おりおりの樹木と花々にかこまれ、庭の池にはボートがあります。そしてそうして生きてきたターシャおばあさんのお顔のうつくしく、やさしいこと。。。

Tasha-garden

Tasha
Posted at 20:04 in book | WriteBacks (8) | Edit

Jan 10, 2006

愛する大地  ル・クレジオ(豊崎光一訳)

TERRA AMATA

 この物語は、太陽が煮えたぎるような夏の庭で、主人公の少年「シャンスラード」が、虫の群を殺すシーンからはじまる。よく見かける子供の風景である。少年の清らかなからだや心には「憎悪」や「殺意」も潜在していて、その双方が生き生きと息づく時間でもあるのだろう。
 この連想は奇異かと思われるかもしれない。町田康の小説「告白」に見られる少年期の重大なテーマは「喧嘩に勝つ」ということではなかったろうか?少年(少女も。)は生きてゆく場所を選んで生れてくるわけではない。生まれでたそこを生きてゆくために、少年は誰でも自らをさまざまな形で試さなければならないようだ。それが「虫殺し」であったり「喧嘩」であったり、あるいはまったく対極にある「優しさ」という場合もあるのではないだろうか?
 シャンスラードが生きた土地は、海を片側に置く地形であり、民族の坩堝のように雑多な人間世界であり、それゆえに「生」と「死」はいつでも無造作に雑居していた。シャンスラードはその世界を肯定も否定もしない。その雑多な世界のなかにみずからの存在を見ていたようだった。
   さらに、シャンスラードが大人になり、父親になり、彼は息子を通して、もう一度その世界を(あるいは宇宙も。)再確認しようとさえしていた。特別な出来事が起きたというわけではないが、世界はいつでもこのようにあるのだと、わたしはふいに気付いたような気がする。
 「愛する大地」・・・・・・「愛する」ということは美しいものだけでなく、そのすべてを抱きとめるということではないだろうか?過去においても未来においても、そこにさまざまな生命や物質が存在する限り、いつでもそこは新しく、愛しいのだ。少年時代のように。。。

 とりあえず、忘れないようにメモだけを書いておくことにする。
Posted at 21:35 in book | WriteBacks (0) | Edit

Jan 07, 2006

風邪をひいた日

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 五日夕方より発熱、六日早朝には解熱剤によって大汗とともに熱は下がった。自宅作業中の仕事は予定よりも遅れることになった。仕事先ではお正月返上で頑張っているのだろう、申し訳ないと思う。家事は熱のない合間に、だるい体を引きづりながら最低限はやる。仕事も家事も代理人はいない。七日の今日、たまった洗濯物を洗い、自分の汗で重くなった布団を干した。掃除もした。これから仕事である。

 「病む女は家の闇だ。」と思ったのは少女期だった。わたしの母は虚弱体質ではなかったが、時には寝込むこともあった。そんな日には小学校から帰宅した時の家全体が暗かったという印象が今でもある。父の帰宅がひたすら待たれた。父は夕食を作り、わたしの話相手をしてくれた。
 わたしが母親になった時に、高熱を出して寝ているわたしの布団に、夜になって幼い息子が黙って入ってきたことがある。いつもは一人で眠る子だったのだが、わたしの高熱で熱くなっている布団のなかで息子は汗をかきながら、じっと寝ているのだった。風邪をうつすかもしれない、汗をかいているという二つの心配から、息子の汗をふいてやり、着替えをさせてから一人で寝るように促したが、あの時の息子の汗を忘れない。

風邪をひいた日
Posted at 13:25 in nikki | WriteBacks (6) | Edit

Jan 01, 2006

さて。。。

Edvard Munch

 やはり放棄してはいられないのだ。元旦でも仕事なのです。
 ありがたいことです(^^;)。。。
Posted at 20:10 in nikki | WriteBacks (0) | Edit

ようこそ、2006年よ。

100nin1syu

君がため春の野に出て若菜つむわが衣手に雪はふりつゝ  光考天皇

   露にぬれた夜の花を手折る
   野末に残る遅咲きの花の
   ぼんやりとした影
   輪唱のように花は咲きつづける   昭子
Posted at 02:21 in nikki | WriteBacks (0) | Edit
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