Jan 20, 2006
ガラスの使徒
この映画の監督は金守珍。原作、脚本、主演は唐十郎。さらにわたしが期待をしたのは、中島みゆきが占い師役で出演するということだった。この期待をいだきながら、今冬としては比較的天候に恵まれた十七日に、恵比寿ガーデンプレイスにある「東京都写真美術館」で、桐田さんと待ち合わせることにしました。
世の中なにが起こるかわからない。わたしはいつでも約束時間二十分前には約束の場所に到着できるようにしているのですが、その日は事故のために電車の出発時間が十分遅れた。さらに乗り継ぐはずだった快速電車に間に合わず、各駅停車の電車に乗ることになってしまった。どうやら上映時間には間に合ったが、約束した待ち合わせ時間には遅れることになった。恵比寿駅東口からの「動く歩道」を走ったのは初めての経験であった。疲れた。人を待たせること、約束を守れないことはわたしはとてもとても嫌いなのだ。
・・・・・・と前置きが長いが、わたしはかなり映画を観る前からナーバスになっていた。この映画を観終った後では、さらにかなり哀しい気分になっていた。この映画に登場するさまざまな人間たちが、誰一人として救われないからなのだ。「ガラスの使徒」の「使徒」とは、イエスの福音を伝えるために選ばれた十二人の弟子たちのことである。転じて神聖な仕事に献身する人への敬称である。
原作&脚本&主演の唐十郎の一貫したテーマは「ガラスの使徒」である職人の池谷の一徹な生き方にあったのか、それをとりまく人間たちのさまざまな心の動乱にあったのか?監督の金守珍は原作者&脚本家を主役に起用するという試みをしているが、この意味はなんだったのだろうか?金守珍は、もとは「状況劇場」の役者だったらしい。ということは、この物語は、アングラ的な仕掛けがあちこちに配されているということだろう。舞台上の芝居がそのまま映像になったという感も免れない。この物語にはささやかながらの「成就」など一度もない。ただ「崩壊」ばかりが延々と続くのだ。もちろんハッピーエンドなどあろうはずもない。
小さな町工場で働くレンズ職人「池谷=唐十郎」の存在は、今の最先端の宇宙科学を陰で支えているのは、実は小さな町工場の熟練した職人たちであるという、昨今の事情をよく表している。 しかし工場は倒産の危機にあって、池谷と工場の専務の芹川は、整理屋の平手の執拗な脅しに追い詰められていた。その二人の前に芹川の幼馴染みだという少女の葉子が現れる。彼女の亡父も池谷と同じレンズ職人だったのだ。三人の「レンズ完成」への一途な情熱に、平手は束の間心を動かされるが、レンズはついに壊され、平手からやっと開放された三人が再生できるはずのないレンズを磨くシーンで、映画は終わる。奇跡はついに起きなかったのだ。
中島みゆきをわざわざ起用した「糸電話の占い師」が、この物語の大きな存在とはなっていないということは残念だった。彼女の不思議な魅力を映画全体に妖精のように存在させて欲しかった。
一つ気にかかることがある。「掌」である。レンズを磨く池谷の「掌」、レンズで光を集めて「掌」を焼く葉子、芹川の平手への怒りのナイフを「掌」で防いだ平手の愛人、平手の残酷な仕打ちによって「掌」を焼かれる芹川、「掌」が何度も表現される。そこだけが別の生き物のように。。。
ただし、この映画をまた観たいか?と問われれば、わたしは「イエス」とはいわないだろう。。。
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