Sep 30, 2005

もう秋ですね。

私はこの季節が一番好きです。
このちょうどいい涼しさに、空の感じ。
一年中秋ならばいいのにとすら思います。
常秋の国というのはないのでしょうか。
夜もいい感じです。
だもんでぼんやりして、大して書くこともありません。

最近買ったのは、ローリング・ストーンズの新譜ぐらい。
アナログ盤で買いました。
やっぱりブラックミュージックとストーンズだけはアナログで聴かなきゃ。
実は私は中一の時からのストーンズファン。
その頃既にストーンズの面々は四十歳で、じじいもういい加減引退しろとか散々言われていましたが、
それからもう二十年以上もやってるんですね。
当たり前のように。
最近の写真を見ると、みんな流石に年取ったなあという感じですが、アルバム内容は随分とラウドです。
平均年齢60歳の出す音とはとても思えません。
ただ80年代までの神がかり的なひらめきはすっかり消えてしまいました。
ミックの声にしなやかさもありません。
まあ無理もないですね。
ファンとしてはアルバムを出してくれるだけで充分なのです。
キースはジョニー・デップの父親役、断っちゃったみたいですね。
パイレーツ・オブ・カリビアンの続編ですか。
なんだがいかにもやりそうな雰囲気をかもし出しておきながら、結局は「ディズニーと仕事するなんて、考えるだけでもぞっとするぜ」なんて。
まあ、キースらしいですが。
でも見たかったなあ。
キースの海賊姿。
というわけで、今日は気持ちのよい夜風に吹かれながらだらだらと書きました。

白井さん、またまたトラックバックありがとうございます。
佐内正史さんの写真は、光の内にある世界、という感じですね。
私は写真集は持っていないのですが、雑誌なんかを見て、色々な写真を撮る人だなあと思っていました。
そういえば「俺の車」なんてのもあったりして。
最近は、女の子をたくさん撮った写真集が本屋さんに並んでますね。
「relax」からの写真でしょうか
改めて注目してみたいと思います。

で、テレビをつけたら、阪神優勝!?
え!?そうだったの!?
世の中変わりましたね…。
もう寝ます。
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Sep 27, 2005

おおっ。

白井さん、トラックバックありがとうございました。
少し安心しました。
白井さんのページも拝読させていただいてます。
日常の出来事が優しい言葉で綴られていて、
読むたびにやわらかい気分にさせてもらっています。
ディズニーシー、楽しかったようですね。
「耳波」、個人的にとても好きです。
このやり方で、もっともっと自由になっていって欲しいと思います。

それでは少し写真のことを。
最近の写真家さんでは、川内倫子さんの作品が気に入っています。
木村伊兵衛賞を受賞した「うたたね」は何度読み返しても飽きることがありません。
ページをめくっていくと、なんだか走馬灯を見ているような気になるのです。
死ぬ直前になると、今までの人生の場面が走馬灯のように次から次へと現れるといいますが、
私が川内さんの写真に感じるのは、まさにそれです。
綴られる一枚一枚の写真は、それこそ何処にでもあるような、なんでもない瞬間です。
洗濯機が回っていたり、蟻んこが腕を這っていたり、いつかの海の波だったり。
人生を左右するのは重大な出来事なのでしょうが、実は死ぬ直前に思い出すことといったら、
むしろそんな、どこで見たかすら定かでない、なんでもない場面であるような気が、
川内さんの写真集を見ているとしてなりません。
私はそういう、なんでもないつながりとしての人生が、意外と気に入っているようで、
自分で詩を書くときも、何気にそんなところに目が行ってしまいます。
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Sep 25, 2005

しかしこのブログ、

どんな人が読んでくれているのでしょうか。
カウンターは相変わらず一日に10ぐらいしか進みません。
灰皿町やPSPの方々が定期的に覗きに来てくれているようなのはわかるのですが
他にいるんでしょうか読んでくれている人。
もしいるならトラックバックに何か書いてくれると嬉しいのですが。
まあ軽く読んでいってもらうだけで充分嬉しいんですけどね。


では今日は光岡明という小説家のことを。
といってもこの小説家自身のことは殆ど知りません。
何しろ去年の暮れに亡くなられたことさえ、つい最近ネットで知ったという体たらく。
しかし作品は大好きです。
特に短編。

私が最初に読んだのは97年に「文学界」に載った「鯔涙」という作品でした。
主役がボラとカレイという特異な設定で、それだけでも面白いのですが、
彼らが陸上での人間たちの騒動を聞きながら、海の底で哲学的な会話をする様子は
なんとも言えず引き込まれてしまいます。
この人は中篇や長篇では、言ってみればごく普通の設定での展開なのですが、
短編になると、とたんに変わった題材を持ってきます。
「行ったり来たり」という作品では、主役が川に棲む得体の知れない妖怪だったりします。
ちなみにこの作品は傑作です。
ちょっとジブリっぽくもあったりして、もっとちゃんと紹介されてさえいれば、
文学好き以外の人にも広く読まれていたのではないでしょうか。
そう思うと残念です。
このような特異な作品は、比較的最近、九十年代以降に書かれたものですが、
その発表数は決して多くありませんでした。
私は「鯔涙」を読んでからというもの、光岡氏の過去の作品を古本屋で探し回りながら、
新作を首を長くして待っていました。
そしてあんまり待ちすぎてすっかりくたびれてしまったところへの訃報でした。
こういう面白い作品をもっとたくさん読ませて欲しかった。
返す返すも残念です。

光岡明さんの本は、その大部分が入手困難です。
手に入りやすいのは、「薔薇噴水」という中短篇集。
これには前出の「行ったり来たり」の他、「山のおじ」「カッパ紀に」「難聴頭巾」という
タイトルを見ただけでも面白いとわかる短篇が収められています。
他は直木賞を受賞した長篇小説「機雷」が比較的手に入り安いでしょうか。
これは太平洋戦争末期の海軍中尉を主人公に据えた、男臭くて渋い作品です。
「鯔涙」は単行本には収録されず、「文学1998」(講談社)という短篇アンソロジーに
かろうじて収録されています。
あとつい最近、遺作となった「恋い明恵」という作品が文芸春秋より刊行されました。
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Sep 22, 2005

九月も終わりに近づいて、

大分涼しくなってきましたね。
久しぶりに小説を読みました。
ロバート・J・ソウヤーの「ヒューマン」
SF小説です。
面白かった!

私はSF小説が好きで、この作家はお気に入りの一人です。
私がわざわざ言わずとも世界的に有名な作家さんですから、ご存知の方も多いでしょう。
SF小説というと、ある程度の数学的な知識がないと馴染めないものが多いのですが、ソウヤーの作品はそういう堅苦しかったり難しかったりするところが一切なく、SFが苦手な人にも薦められます。

今回の「ヒューマン」は、「ホミニッド」という作品の続編です。
主人公はなんとネアンデルタール人の物理学者です。
詳しい内容を書き出すと相当な量になりそうなので省きますが、この作家さんはとにかくアイデアが奇想天外で面白く、それを次々と繰り出してきて、読み手に飽きる隙を与えません。
ソウヤーが提示してくるテーマは、誰もが子供の頃に考えたような普遍的なものです。
なぜ恐竜は絶滅したのかとか、未来は変えられるのかとか、人間の精神から死という概念を取り除くとどうなるのかとか、とにかくワクワクするようなものばかり。
今回の作品でも、人類が進化してきた道筋は正しかったのか、というテーマが提示されています。
そのような謎に対してソウヤーは、あっと驚くような答えを用意しているのです。
しかも人間ドラマあり、ミステリーあり、ラブロマンスあり、さらにスリリングな物語展開と、小説そのものの完成度も非常に高いので、読むのが遅い私でも一気に最後まで読まされてしまいます。

あ、SFなんて子供の読み物、と侮ってはいけませんよ。
それぞれのテーマの追求は、人間個人や人類全体が抱えている根源的な問題にまで達していくのです。
よくある中途半端なB級SF映画を、ストーリーや設定の細部に渡って完璧に作り上げた感じでしょうか。
変な例えだな。
とにかく本当に面白いんですよ。
と言っても「買って読んだらつまんなかったどうしてくれる」なんて言われても困りますが。

ソウヤーの作品は、これまでに十冊ほどが訳されてハヤカワ文庫から刊行されています。
ちなみに主要な登場人物に子供は殆ど出てきません。
主人公は三十代後半から四十代の科学者が多いようです。
今回の「ヒューマン」は前作の「ホミニッド」と、10月に刊行予定の「ハイブリッド」と合わせて三部作になっています。
秋の夜長の読書にいかがでしょうか。
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Sep 19, 2005

昨日は毎月恒例、

PSPの合評会に参加しました。
いつもより参加者が若干少なく、少し寂しかったのですが、その分、一人一人の詩をじっくりと論じ合う時間がとれたのは幸いでした。
うれしいことに宮越妙子さんがまた参加されました。
相変わらずのパワーを漲らせて、合評会の場を盛り上げてくださいました。
二次会では、最近あった幾つかの詩のイベントの話が出ていました。
私は詩のイベントなどにはあまり参加していないのですが、会の他の皆さんは積極的に参加されているようです。
私もそろそろ、少しずつ顔を出してみようかなあなんて思っています。

個人的連絡....

Tさん、キースのお薦めは「ブレーメン」と言いましたが、「ブレゲンツ・コンサート」の間違いでした。
失礼しました。
お酒が入っていたもので。
ブレーメン・コンサートというのは、「ソロ・コンサート」というキースの別のCDでした。
しかしながらこちらの方も内容は素晴らしいので、2枚組みですがご参考までに。
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Sep 18, 2005

何度読んでも

読み飽きませんね、つげ義春。
さっき読んでまた没頭してしまいました。
つげ義春は漫画家さんです。
シュール漫画の元祖というでしょうか、60~70年代に短編漫画を多く残し、それ以後はぷっつりと沈黙してしまいましたが、いまだに熱狂的なファンを多く持つ伝説的な人です。
竹中直人さんが「無能の人」を映画化してましたね。
私はこの人の漫画の、コマの進み方が大好きなのです。
なんだかすごくぶっきらぼうに、不連続とすら言える様子でコマが進んでいくのですが、何故か読んでいて妙に気持ちいい。
独特のリズムがあるのです。
だから内容を知り尽くしていても、あるいは意味不明のシュールな内容でも、毎回新鮮な気持ちで読むことが出来、同じタイミングでニヤリとさせられます。
私が一番好きなのは「ほんやら洞のべんさん」という作品ですが、このコマ割りの気持ちいいこと!
私は死ぬまでこの作品をニヤニヤしながら読むことでしょう。
ところでつげ漫画のコマ割りは、詩の一行一行に似ているようです。
本人が私小説や詩に興味がある人なので、意識してそうしているのかもしれません。
私は詩を読み始める前から、つげ義春の漫画を愛読していたので、自分が詩を書くときのリズムの価値観は、後に読んだ近現代詩よりむしろ、つげ漫画のリズムの影響が基本となっているように思います。
一行読むとぱっと絵が頭に浮かび、次の一行を読むとまたぱっと絵が浮かび、その連続が鼓動となって、生き生きと一つの世界を成り立たせていく、そんな詩が私は好きですし、書きたいと思う詩です。
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Sep 15, 2005

なんだか更新が

滞ってきましたね。
ネットサーフィンしていただけのときは、なんだよこのブログ全然更新しねーじゃねーかつまんねー、なんて勝手に思っていましたが、実際やってみるとなかなか大変です。
毎日更新している人はすごいですね。
私は二日に一遍になり、三日に一遍になり…。

この前の日曜日の夜に、3チャンネルでマーラーの交響曲3番6楽章をやってました。
改めて恐ろしく美しい曲ですね。
指揮者ベルティーニの、輪郭を際立たせた表現も素晴らしかった。
この曲のCDは私も何枚か持っていて、しかしあまりにも長い曲なんで、殆ど6楽章しか聴きません。
何せ6楽章だけで20分以上、全部聴くと100分ぐらいあるのですから
マーラーはどの曲も長いので、一曲全部聴き通すのは大変です。
だから私は大体アダージョだけしか聴きません。
マーラーは特に5、6、9番が好きでよく聴きます。
死ぬときにはこんな感じの音楽が流れているといいですね。
あらら、湿っぽくなってしまいました。
クラシックを聴き始めた三十を過ぎてからなので、実はあまり詳しくありません。
きっかけは、まあちょっと静かな音楽を聴きたくなったんですね。
それまではロックやジャズと言った激しい音楽ばかりだったのですが、なんかこう、アンニュイな気分になってみたくて。
最初はジャズピアニストのキース・ジャレットのソロピアノなんかを聴いてアンニュイになっていたのですが、そこからアンビエントなものに行って、それならいっそクラシックを聴けばいいやと思って、ピアノソナタやチェロソナタなどを聴いて、それから段々と交響曲の方へ。
そんな流れなので、クラシックに関してはゆったりとした美しい曲を求める傾向が強いのです。
マーラーの他にはブルックナー、これもアダージョばかりを聴いて、全体を聴くことは少ないのですが、SF小説なんかを読んでいるときのBGMにいいですね。
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Sep 12, 2005

詩が好きな人の中には、

写真を撮るのも好きだという人が多いのではないでしょうか。
灰皿町の中でも、ブログに写真をアップされている方が多いですね。
私は写真を撮ることはしませんが、写真を見ることは好きです。
それも生活の途中の、何気ない一瞬を捉えたものに惹かれます。
そういう作品から、その前後を想像するのが楽しいのです。
先日荒木経惟のことを書きましたが、この写真家の作品は実に私の想像力を刺激してくれます。
特にポラロイドやコンパクトカメラで無造作に撮られたものには、その前後はもちろん、写真の枠の外の様子、そしてカメラを構えている荒木自身までが写りこんでいるようです。
なにしろ時には本当に荒木自身が写真に写ってしまっていることすらあるのですから。
その場合、当然荒木以外の人物がシャッターを切っているわけですが、それでも紛うことなき荒木経惟の写真になっているのはすごいことだと思います。
荒木の写真は、写真という限られたものに、これしかないという一瞬だけを捉えることによって、その対象が持つ無限を表現しているようです。
その無限の中には、荒木自身すらも含まれてしまうのです。
そんな写真を実現するには、荒木自身のあのキャラクターも大いに関係しているとは思いますが、恐らくそれだけではないのが、この写真家の「天才」なのでしょう。
ところで詩が表現しようとするものも、やはりそういうものではないでしょうか。
これしかないという一行を書くことによって、その対象が持つ無限を表現する。
実は私も詩を書くとき、そんなことを思いつつ書いてみはするのですが、うまくいった試しがありません。
それどころか、詩を書くという行為によって、世界を限定してしまってすらいるようです。
これではまるで逆ですね。
凡人の悲しいところです。
作品の外側へ広がっていく力こそが表現力なのだとは思いますが、実際それを実現するには、やはり「天性」という奴が必要なのでしょうか。
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Sep 08, 2005

荒木経惟の写真集「空事」を購入しました。

2004年の1年間に撮った写真を順に並べて構成したものですが、ページを手繰っていくと、写真家の心の動きが見えてきます。
その中心となっているのは歌人宮田美乃里です。
彼女は三十一歳の時に乳がんの宣告を受け、三十二歳で左乳房を切除しました。
そして三十三歳のこの年、一本の大きな傷跡が残る裸身を、荒木氏のカメラの前に晒しています。
美しい女性です。
写真家は恋愛をしたようです。
彼女の写真が撮られたのは1月と3月ですが、それ以後に撮られた写真のすべてに、彼女が映りこんでいるように見えます。
この作品集のもうひとつの主役は空です。
荒木経惟は2004年、空ばかり撮っていたと言います。
実際この作品集の3分の1ぐらいは、空の写真です。
捉えられた様々な空模様から、写真家の心情が伝わってきます。
それは底抜けに明るいアラーキーのイメージとは裏腹の、癒しようのない孤独です。
荒木氏の寂しさや悲しみは、モデルの身体や街の風景には写りこまず、ただ空に浮かぶ雲の形にだけ写りこんでいるようです。
その孤独を助長したのが、翌年には他界してしまう歌人との、一瞬の恋愛なのでしょうか。
「冬の旅」「東京物語」などがそうであったように、この作品集は全体が一編の詩のようです。
一枚一枚の写真は写真家の真情の吐露であり、その連なり様はむしろ詩句よりも深く語ります。
こんな詩が書ければ、私も胸を張れるのでしょうが。
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Sep 06, 2005

しっ失礼しましたっ、

有働さん。
現代詩手帖九月号の105ページに有働薫さんの第五詩集「ジャンヌの涙」の広告が掲載されています。

それでは今日は有働薫著「ジャンヌの涙」について。

PSPクラブに参加して以来、私は数編の有働さんの作品に接してきました。
それらは、長い時間と共に重ねられてきた記憶から漏れ出してくる音に耳を澄ます行為の結晶だと、私には感じられました。
その積りはないのに、いつの間にか耳を澄ましている音。
詩集「ジャンヌの涙」の冒頭章「ⅹ」には、そういった詩が並んでいます。
作者がこれまでに見てきたたくさんの風景と、それに重なる幾つかの顔。
その顔は現在作者が目にする景色にも重なり、さらには未来の景色を見通す目にも重なっているようです。
「南へのバラード」は集大成とも言える作品ではないでしょうか。

「y」はジャンヌ・ダルク他、幾人かのヨーロッパ人についての力強い詩篇によって構成されています。
作者にとってジャンヌとはどういう意味を持った存在なのでしょうか。
直接ジャンヌの名前が出てくる二編では、真の姿は違うにもかかわらず、他者の勝手な都合に合わせて作られたイメージによって、語られたり貶められたりする存在である女性の姿が描かれます。
あるいは人間が持つ強い部分と弱い部分。
女であるゆえのこと男であるゆえのこと。
そしてそうではないところ。
ジャンヌの姿を想い口にすることによって、自身を沈黙の内に再見しようとする作者の姿が見えてくる、と書いたなら、有働さんは苦笑されるでしょうか。

「z」のページを開くと、明るく吹っ切れた涼しい風が吹き込みます。
ここでも節々で過去からの音が聞こえてきますが、しかし重くならずに、笑って足を踏み出していく作者の姿が見られます。
前に進まんとする人の生命力は、いつも透明であることを感じさせられました。
「LAMENTО」と「お使いの川」は、この詩集における私のフェイバリット。
二編とも、いい空気の匂いがします。

有働さんの詩に、私は赤のイメージを持っていました。
処女の血の色に、時間の錆色が溶け込んだ、匂いたつ赤色。
この本の装丁の色は、そのイメージに非常に近い色だと思います。
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Sep 04, 2005

現代詩手帖九月号を購入。

詩誌月評に「ル・ピュール」が取り上げられていました。
やはり水仁舎の造本は注目されていますね。
それに柿沼徹さんの作品「ケヤキ昨今」が大きく取り上げられています。
さすが柿沼氏!
おまけで私も久しぶりに詩手帖に名前が載りました。(名前だけだけどね)
ほかに「第二回 詩のシンポジウム」についてのコラムを手塚敦史さんが執筆。
久谷雉さんの映画のコラムは「リンダリンダリンダ」です。

以前投稿していたときは、「今月は載ってるかなあ」などとドキドキしながら本を開き、その結果に一喜一憂して大変でした。
載っていなかったら、そのまま閉じて読まなかったりして。
人間が出来ていませんね。
そんなだから投稿欄のほかの作品はあまり読んでいませんでしたが、今は結構読んでいます。
作品の好き嫌いに関わらず、いろんな書き方があるんだなあと。
本当にそれぞれが独自の書き方を追求していて、そこらへんを素直に読めると、自分に足りないものも見えてきて、なんだか勉強になります。
あ、今日は眠いので、これにて退却。
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Sep 02, 2005

昔話をひとつ。

私が中学二年生の国語の授業でのこと。

その授業はクラスを6、7人の班に分け、各班一人ずつが順番に前に出て、教師の出す問題の答えを黒板に書くということをしていました。
出される問題は教科書で習った内容のこともあれば、そうでない別の、想像力を試されるものもありました。

私の番に出された問題は、石川啄木の短歌で「ふるさとの/***なつかし停車場の/人ごみの中に/そを聴きにゆく」この***部分を答えろというものでした。

私は成績のいい生徒ではありませんでした。
こういった授業でも、何も答えを書けないまま帰ってくることの方が多かったと思います。
しかし私はこの問題の答えを知っていました。

訛りなつかし停車場の、です。

誰の短歌かは知りませんでしたが、そのくだりがそうであることには自信がありました。
簡単な問題にあたって良かったと胸をなでおろしつつ、私は黒板に「なまり」と書いて自分の班に戻り席に着きました。
黒板を見てみると、「なまり」と書いたのは私だけで、他の人は別の答えか、何も書いていませんでした。
私は、あれ、と言う気分で黒板を眺めていました。
班の仲間は、なんだか複雑な表情をしていました。

正解が「訛り」であり、私だけが正解であることを教師が発表すると、思いがけずクラス中から感心する声が上がりました。
そして、お前この短歌を知っていたのかと教師に訊かれ、私が頷くとまた感心の声が上がりました。
どうもクラスの殆ど誰も、その短歌を知らなかったようでした。

私は得意な気分になるよりも驚きました。
自分が当然のように知っていたその短歌を、他の人間の殆どが知らなかったことに驚いたのです。

私以外が知らなかったと言うことは、恐らく授業で触れたのではなかったのだと思います。
すると学校以外のどこかで私はその短歌を読んだのでしょうが、どこで読んだのか全く思い出せません。
何しろそれが石川啄木の短歌であることを私は知らず、それどころか石川啄木という名前すら知っていたかどうか怪しいものです。
だからその短歌を何度も繰り返し読んだということもしていないはずです。
にもかかわらず私はその短歌をはっきりと記憶していました。

それはただ単純に響きが気に入ったからだとも思います。
また子供ながらに、自分に通じた何かを感じていたのかもしれません。
私ごときが言うまでもなく、この短歌は「一握の砂」に含まれる有名な作品であるわけですが、しかしなにしろ私のような不注意な子供ですら覚えてしまうあたり、やはり名作なんだなあとつくづく思います。

短歌にしろ詩にしろ台詞にしろ、いい言葉というものは一遍読んだら嫌でも覚えてしまうものです。
言葉に力があると言うのはそういうことでしょう。
好き嫌いに関係なく、とにかく読んで頭が勝手に覚えてしまったなら、それはまず良い作品だと判断していいのではないでしょうか。
理由や意味合いは、あとでゆっくり考えればいいのですから。

私はこのときに初めて言葉というものを、特別に意識したような気がします。
と言っても人並み程度にだったのかも知れませんが、しかしきっかけと言えばそれだったのだと思います。
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