Sep 12, 2005
詩が好きな人の中には、
写真を撮るのも好きだという人が多いのではないでしょうか。灰皿町の中でも、ブログに写真をアップされている方が多いですね。
私は写真を撮ることはしませんが、写真を見ることは好きです。
それも生活の途中の、何気ない一瞬を捉えたものに惹かれます。
そういう作品から、その前後を想像するのが楽しいのです。
先日荒木経惟のことを書きましたが、この写真家の作品は実に私の想像力を刺激してくれます。
特にポラロイドやコンパクトカメラで無造作に撮られたものには、その前後はもちろん、写真の枠の外の様子、そしてカメラを構えている荒木自身までが写りこんでいるようです。
なにしろ時には本当に荒木自身が写真に写ってしまっていることすらあるのですから。
その場合、当然荒木以外の人物がシャッターを切っているわけですが、それでも紛うことなき荒木経惟の写真になっているのはすごいことだと思います。
荒木の写真は、写真という限られたものに、これしかないという一瞬だけを捉えることによって、その対象が持つ無限を表現しているようです。
その無限の中には、荒木自身すらも含まれてしまうのです。
そんな写真を実現するには、荒木自身のあのキャラクターも大いに関係しているとは思いますが、恐らくそれだけではないのが、この写真家の「天才」なのでしょう。
ところで詩が表現しようとするものも、やはりそういうものではないでしょうか。
これしかないという一行を書くことによって、その対象が持つ無限を表現する。
実は私も詩を書くとき、そんなことを思いつつ書いてみはするのですが、うまくいった試しがありません。
それどころか、詩を書くという行為によって、世界を限定してしまってすらいるようです。
これではまるで逆ですね。
凡人の悲しいところです。
作品の外側へ広がっていく力こそが表現力なのだとは思いますが、実際それを実現するには、やはり「天性」という奴が必要なのでしょうか。
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