Sep 02, 2005

昔話をひとつ。

私が中学二年生の国語の授業でのこと。

その授業はクラスを6、7人の班に分け、各班一人ずつが順番に前に出て、教師の出す問題の答えを黒板に書くということをしていました。
出される問題は教科書で習った内容のこともあれば、そうでない別の、想像力を試されるものもありました。

私の番に出された問題は、石川啄木の短歌で「ふるさとの/***なつかし停車場の/人ごみの中に/そを聴きにゆく」この***部分を答えろというものでした。

私は成績のいい生徒ではありませんでした。
こういった授業でも、何も答えを書けないまま帰ってくることの方が多かったと思います。
しかし私はこの問題の答えを知っていました。

訛りなつかし停車場の、です。

誰の短歌かは知りませんでしたが、そのくだりがそうであることには自信がありました。
簡単な問題にあたって良かったと胸をなでおろしつつ、私は黒板に「なまり」と書いて自分の班に戻り席に着きました。
黒板を見てみると、「なまり」と書いたのは私だけで、他の人は別の答えか、何も書いていませんでした。
私は、あれ、と言う気分で黒板を眺めていました。
班の仲間は、なんだか複雑な表情をしていました。

正解が「訛り」であり、私だけが正解であることを教師が発表すると、思いがけずクラス中から感心する声が上がりました。
そして、お前この短歌を知っていたのかと教師に訊かれ、私が頷くとまた感心の声が上がりました。
どうもクラスの殆ど誰も、その短歌を知らなかったようでした。

私は得意な気分になるよりも驚きました。
自分が当然のように知っていたその短歌を、他の人間の殆どが知らなかったことに驚いたのです。

私以外が知らなかったと言うことは、恐らく授業で触れたのではなかったのだと思います。
すると学校以外のどこかで私はその短歌を読んだのでしょうが、どこで読んだのか全く思い出せません。
何しろそれが石川啄木の短歌であることを私は知らず、それどころか石川啄木という名前すら知っていたかどうか怪しいものです。
だからその短歌を何度も繰り返し読んだということもしていないはずです。
にもかかわらず私はその短歌をはっきりと記憶していました。

それはただ単純に響きが気に入ったからだとも思います。
また子供ながらに、自分に通じた何かを感じていたのかもしれません。
私ごときが言うまでもなく、この短歌は「一握の砂」に含まれる有名な作品であるわけですが、しかしなにしろ私のような不注意な子供ですら覚えてしまうあたり、やはり名作なんだなあとつくづく思います。

短歌にしろ詩にしろ台詞にしろ、いい言葉というものは一遍読んだら嫌でも覚えてしまうものです。
言葉に力があると言うのはそういうことでしょう。
好き嫌いに関係なく、とにかく読んで頭が勝手に覚えてしまったなら、それはまず良い作品だと判断していいのではないでしょうか。
理由や意味合いは、あとでゆっくり考えればいいのですから。

私はこのときに初めて言葉というものを、特別に意識したような気がします。
と言っても人並み程度にだったのかも知れませんが、しかしきっかけと言えばそれだったのだと思います。
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