Apr 29, 2009

おりこうな王子

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 一歳を過ぎて、王子のなんと知恵とからだの発育のよいことよ。
・・・・・・という冒頭でも書かないと、どうも最後は感傷的なお話で終わりそうですので、とりあえず予防線をはっておきます。こんな小細工をしてでも、書いておきたいという自分の気持が、よくわからないのですが。

 王子さまは「高い高い」や「肩車」をおねだりするときは父親の胸によじ登って、意志表示。おいしいものが食べたい時は、お菓子の袋をみつけて、母親に「開けてちょうだい。」と意志表示。母親がある程度まで出して食べさせてあげてから、「これ以上食べては、いけません。」と言って、かごの中に戻す。すると、今度はそれを持ってきて、ばあばに「開けてちょうだい。もっと食べたい。」と意志表示。ばあばは母親の目を盗んで、王子さまの共犯者となる(^^)。

 そうしているうちに、王子さまは、ばあばの前歯にちょっと隙間があることに気付いて、小さな指をつっこんでくる。「ぱくっ!」とやわらかく唇で小さな指をつかまえてあげたら、その遊びを覚え、おおいに気にいったようで、何度も指をつっこむ。

 そうしているうちに、母親が部屋を出て、トイレに行こうとしたら、ものすごーい「高速はいはい」で追いかける。あわてた父親に引き戻される。「おりこうアンテナ」は何本立ってるのかな?


 こう書きながら、涙が出てくる。王子は好き嫌いなく何でも食べる良い子です。体重、身長は標準で順調に育ちました。若い両親もよく頑張りました。

 わたくしは1歳半ば頃に死の瀬戸際までいった幼児でしたし、3歳まで歩くこともできない状態で、父母や祖父母の心配の種でした。さらに小学1年生の夏休みには「疫痢」にかかり、またまた死にかかったのです。当然「隔離」されるべきところを、不憫に思った祖父母と父母は主治医と相談して、自宅治療となりました。これが許されたのはおそらく主治医の法を超えた独断であったのだろうと思います。家族はすべておそらく息をつめて生活していたことだろう。小さなわたくしは殆ど意識のない状態で、記憶といえば、庭のほおずき、蝉の声など・・・・・・母はわたくしの快復とともに、過労で倒れました。ありがとう。

 小学校の昼休みには、母はこっそりと校庭の柵越しに、わたくしの様子を見にきていたそうです。みんなが元気で走りまわっているのに、校庭の花壇の縁に腰掛けてぼんやりしているわたくしを何度も、悲しい思いで見ていたそうです。ありがとう。どうにか人並みの体力となった頃には、すでに思春期にはいっていました。


 そんなこんなで子供に望むことは、ただ1つ。健康なことでした。ここまで生きていてよかった。2人の子の母となり、そして祖母ともなった。無事にいのちは引き継がれたのです。亡くなった祖父母、父母に、あらためてありがとう。
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Apr 24, 2009

桜さくらサクラ・2009―さようなら、千鳥ヶ淵―

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 (奥村土牛・醍醐)

 すでに23日午後の「千鳥ヶ淵」は桜がすべて散っていました。快晴の空の下、水辺の美しい新緑の並木道を歩いていると、桜の蘂が敷き詰められている道は足裏にやわらかく花の終わりを伝えていました。そこを歩いて「山種美術館」に行ってまいりました。そこには「桜」の絵画50点が待っていてくださったのでした。

   さまざまの事おもひ出す桜かな    芭蕉

 遠い昔から、誰にでも「桜」の思い出はあるでしょう。その思い出がたった1人で抱えあたためるものであったり、共有者がもう1人いたり、多くの人々との共有であったりと、さまざまなものとなるのでしょう。

 さらに絵画の魔術は、山一面の桜を一斉に咲かせることさえできること、また一輪一輪を丹念に描き出し、さながら浮き彫りのごとく桜を見せることさえ出来るのだと思うのでした。

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(橋本明治・朝陽桜)

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 (川端龍子・さくら)

 山種美術館が千鳥ヶ淵に隣接していたことから、千鳥ヶ淵に因んで「桜」をテーマにした展覧会は、毎年行われていました。しかし、今年10 月に広尾への移転にともない「桜さくらサクラ展」も最終回だそうです。リクエストの多い桜を描いた作品を約50 点を展示して、最後の「桜さくらサクラ」美術展でした。このくらいの作品数が1回の美術展では、とても適当な点数だと思いました。それからテーマが統一されていることも、大変に心休まる展覧会でした。

主な出品作品は、以下の通りです。

菊池芳文《花鳥十二ヶ月》
渡辺省亭《桜に雀》
川合玉堂《春風春水》
菱田春草《桜下美人図》
小林古径《清姫・入相桜》
土田麦僊《大原女》
奥村土牛《吉野》《醍醐》
小茂田青樹《春庭》
速水御舟《夜桜》
東山魁夷《春静》
守屋多々志《聴花(式子内親王)》
石田武《千鳥ヶ淵》
加山又造《夜桜》・・・・・・・・・ほか約50点 でした。
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Apr 18, 2009

哲学塾  土屋賢二

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(ソクラテスに水を浴びせるクサンティッペ)
オランダの画家オットー・ファン・フェーン・1607年の作品

 サブタイトルは「もしも ソクラテスに口説かれたら―愛について・自己について」となっています。これは土屋教授が勤務する「お茶の水女子大学」におけるゼミの実況中継のような形となっています。テキストは「プラトン」の書いた対話篇「アルキビアデス篇1・田中亨英訳」からの抜粋です。ちなみに「ソクラテス」自身は著書を持っていないようですね。これらの哲学問答は、弟子たちによって残されています。

 「アルキビアデス」も「ソクラテス」の弟子の1人で、彼は才能、容姿、家柄、人望全てにおいて卓越した人物であったようです。つまり「アルキビアデス」は「ソクラテス」の「ティーチャーズ・ペット」だったわけですか???テキストの最後の部分だけ、「ソクラテス」の言葉を引用します。


「君を恋する者は誰にしろむしろ君の魂を恋する者だね。」
(中略)
「・・・・・・クレイニアスの子アルキビアデスを恋する者は誰もいなかったし、そして今もいない。どうもそうらしい。ただたった1人いる、例外だね、その人は。その1人の人で満足しなくちゃいけない。つまりソプロニスコスとパイナレテーとの子ソクラテスでね。」



 「ソクラテス」はどうやら結論としては「アルキビアデス」に「わたしはあなたの顔も性格も嫌いですが、あなた自身の魂を愛しています。」と言ったことになるようです。ここから土屋教授と女子学生たちとの哲学問答が開始されたのでした。相対する言葉との関係性における学生から湧き出してくる矛盾、反発、疑問などが教授に投げかけられ、それらに丁寧に、時にはムキになって(^^)教授は答えています。この長い問答のなかで、学生は徐々に「日常的な曖昧な言葉のイメージ」から「哲学の言葉」としての構造と考え方を習得していったようでした。

 この本の帯文には・・・・・・

 きみって誰?
 愛にひそむ哲学の罠―
 罠にはまる方法・脱出する方法


 ・・・・・・と書かれています。ソクラテスはほとんど独力で、このような理屈の世界があることを発見し、それが「哲学」の第1歩だったわけで、ここから考えてみることも時には必要かもしれません。教授の最後の言葉は「そういう世界にちょっとでも入って迷ってみると、自分の思考力に自信が持てなくなるでしょう?そうじゃないですか?ぼくも自信がもてないんですよね。じゃあこれで終わります。」でした。これで教授の目論見はわかったなぁ(^^)。

 ソクラテスは政治家、芸術家、職人、知識人など、さまざまな人々に対してこのような問いかけを死刑になるまでやり続けました。おそらくソクラテスの脱獄と亡命を手伝おうとした弟子たち、あるいは牢獄の扉を開けたままにしておいてくれた牢番にも、同じく問いかけたのかもしれませんね。そしてソクラテスは権力者による死刑よりも、みずから毒を飲むことを選んだのでしょうか?

 (岩波書店・2007年刊)
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Apr 14, 2009

哲学者 鶴見俊輔(続)

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 書き忘れたことがありましたので、続編を書きます。

 鶴見俊輔には膨大な著書がもちろんありますが、鶴見氏たちの大きな仕事の1つに「思想の科学」という雑誌を長きに渡り、発行し続けたことにもありました。「思想の科学」は1946年(敗戦直後!)から1996年まで刊行された月刊の思想誌でした。

 鶴見俊輔、丸山眞男、都留重人、武谷三男、武田清子、渡辺慧、鶴見和子の7人の同人が「先駆社」を創立し「思想の科学」を創刊しました。出版社はその後建民社、講談社、中央公論社と変わりましたが。

 1961年の「天皇制」特集号(1961年12月号)を、出版社が編集者の「思想の科学研究会」に無断で雑誌を断裁してしまう事件が起こりました。編集者らは抗議し自主刊行すべく1962年3月に有限会社「思想の科学社」を創立。初代の代表取締役に哲学者の久野収が就任しました。1996年3月に刊行された5月号をもって通算536号で休刊となり50年の歴史に終止符を打ちました。


刊行の歴史は以下の通り。
第一次思想の科学(先駆社版) - 1946年5月〜1951年4月
第二次思想の科学(建民社版) - 1953年1月〜1954年5月
第三次思想の科学(講談社版) - 1954年5月〜1956年2月
第四次思想の科学(中央公論社版) - 1959年1月〜1961年12月
第五次思想の科学(思想の科学社版) - 1962年3月〜1972年3月
第六次思想の科学(同上) - 1972年4月〜1981年3月
第七次思想の科学(同上) - 1981年4月〜1993年2月
第八次思想の科学(同上) - 1993年3月〜1996年5月

  *   *   *

 「アサヒジャーナル」が「週間朝日」の増刊号という形をとって、復刊の試みをしているようです。さてさて、その後はいかなるものか?
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Apr 13, 2009

哲学者 鶴見俊輔

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 12日、NHK教育テレビで、PM10:00から11:30まで放映された「哲学者・鶴見俊輔」のインタビュー番組がありました。聞き手は「黒川創」です。これは去年に収録されたものです。現在は体調をくずされて、ある3月の講演会が残念ながら、代理の方に変わったという情報もありましたので、寂しく思っておりましたが、鶴見さんのしっかりとした語り方をテレビを通して観られたことは幸せなことでした。さらに驚いたことは鶴見氏の眼光でした。決して鋭いわけではないのです。それはむしろ「明るい光」のようなやさしさのなかに、決して世界のあやふやな動静を見逃すまいという眼でした。そして少年のような笑顔、インタビュアーの質問に即答できる豊かな「引き出し」を感じました。

 哲学者・鶴見俊輔(86歳)は、自分より先に逝ったさまざまな人に「悼詞」を書いてきました。鶴見氏の著書は膨大なものですが、この番組のなかでは、その「悼詞」を中心として語られていました。1951年、銀行家・池田成彬から始まって、2008年、漫画家の赤塚不二夫まで57年間で125人にも及ぶそうです。高橋和巳、竹内好、志賀直哉、寺山修司、手塚治虫、丸山眞男、小田実などなど戦後日本に大きな影響を与えた人たちに送った「悼詞」です。この「悼詞」に登場する人々から、鶴見氏はさまざまな考え方を授かったことに感謝しながら、生きている者の使命として、まだ語り残さなければならないことが、多くあるとのことでした。それはまた鶴見氏の残された時間との戦いでもあるのでしょう。

 鶴見俊輔は、知識人の戦争責任(転向)、原爆、60年安保、ベ平連、憲法九条の会、など精力的に活動し、ふつうの市民(ここが大事な点!)と共に歩いてきました。こうして鶴見氏は「死者125人」の「戦後」を見つめ続けてきました。

 このインタビューのなかで、最もわたくしの心に残ったものは「人民の記憶が大事なものであって、国家の記憶などは意味がない。」という言葉でした。たとえばかつての戦争で、自らの意志ではなく、戦場に行かされた人民が、家族にさえその実体を隠すことなく語れた者がいただろうか?という言葉でした。
 もうひとつのお話は、アメリカ留学中に鶴見氏は実際に「ヘレン・ケラー」に会っています。お互いに大学が近かったそうですが、彼女は大学でよく学びました。もちろん鶴見氏も不良少年、自殺願望少年を経て、よく学びました。しかし大学を卒業した「ヘレン・ケラー」は、その学んだものを「学びほぐす」ということを実践したそうです。

  *   *   *

国家はすべての冷酷な怪物のうち、もっとも冷酷なものとおもはれる。
それは冷たい顔で欺く。
欺瞞はその口から這ひ出る。「我国家は民衆である。」と。
            (ニーチェ 「ツァラトゥストラはかく語る。」)

死んだ人たちの伝達は生きている
人たちの言語を越えて火をもって
表明されるのだ。
   (T・S・エリオット「西脇順三郎訳」)

  *   *   *

記憶がホットなうちに急いで書きました。パスカルのように(^^)。
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Apr 11, 2009

国立トレチャコフ美術館展  忘れえぬロシア

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(忘れえぬ女・イワン・クラムスコイ・1883年)

 桜の散りはじめた、あたたかな9日の午後に、澁谷Bunkamura ザ・ミュージアムにて、寒い国の静かな絵画たちに会いに行ってまいりました。おだやかな空間のなかで、しばしの時間を過ごしました。

 ロシア国立トレチャコフ美術館は12世紀の「イコン」からはじまり、約10万点の所蔵作品があります。この美術館の創設者「パーヴェル・トレチャコフ(1832-1898)」はモスクワの商家に生まれ、紡績業で成功して、その利益を社会に還元しようと数多くの慈善事業を行ないましたが、とりわけ力を注いだものは「ロシア芸術家によるロシア美術のための美術館」であり、あらゆる人に開かれた公共美術館の設立でした。トレチャコフは1880年代から自宅の庭に立てたギャラリーでコレクションの一般公開を始め、1892年には亡くなった弟のヨーロッパ絵画の収集品と併せてコレクションをモスクワ市に寄贈しました。彼の死後、住居も展示室へと改装されて、ワスネツォフの設計による古代ロシア建築様式の豪奢なファサードが建てられ、20世紀初頭には現在のような姿になり、ロシア革命後、国に移管されました。

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(鳥追い・ワシーリー・ペローフ・1870年)

 国立トレチャコフ美術館の所蔵絵画のなかで、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのロシア美術の作品は、同時代を生きた創始者トレチャコフがとりわけ熱心に収集したものです。この美術展は、その所蔵作品の中からロシア美術の代表的画家、レーピンやクラムスコイ、シーシキン等、38作家による75点の作品を紹介しています。このうち50点以上が日本初出品だそうです。19世紀半ばからロシア革命までの人々の生活や、壮大なロシアの自然、美しい情景を描いた作品と共に、チェーホフ、トルストイ、ツルゲーネフ等の文豪の肖像画も加えて構成し、リアリズムから印象主義に至るロシア美術の流れを追う展覧会でした。革命までの歴史は以下のとおり。

1904  日露戦争(-05)
1905  第一次ロシア革命、血の日曜日事件
1914  第一次世界大戦勃発(-18)
1917  ロシア革命、ロマノフ王朝の崩壊

 19世紀から20世紀前期のロシアは、まさに歴史に残る偉大な芸術家の出現した時代だと言っても過言ではないような気がします。音楽では、アレクサンドル・ボロディン、モデスト・ムソルグスキー、ニコライ・コムスキー=コルサコフ、ピョートル・チャイコフスキー、セルゲイ・ラフマニノフ。文学では、イワン・ツルゲーネフ、フョードル・ドストエフスキー、レフ・トルストイ、アントン・チェーホフなどなど。

《追記》

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(冬・ニコライ・ドゥボフスコイ・1884年)

この↑絵画を行きつ戻りつしながら、何度も見つめてしまいましたが、この絵は「モネ」の「かささぎ」にとてもよく似ていました。「かささぎ」は彼がフランスのエトルタに滞在していた1868年の冬に描かれたようです。

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(かささぎ・モネ・1868年)
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Apr 08, 2009

さようなら、私の本よ!  大江健三郎

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 これは「取り替え子・チェンジリング・2000年」と「憂い顔の童子・2002年」との3部作となっています。すべて講談社刊。3部とも主人公の老作家「長江古義人」をはじめとして、その家族、友人たちとの物語です。そしてこれらはすべて「いのち」の根源を辿る道のりであり、死者への語りかけでもあり、古義人は何度も少年期に戻り、そこに置き去りにされたままでいるもう一人の分身の「童子」とのはるかな対話を続けながら、さらに老境に入った小説家としての「総括」あるいは「覚悟」かもしれません。それを建築家の「繁」と「おかしな2人組・スウード・カップル」として締めくくろうとしたのだろうか?

さようなら、私の本よ! 死すべき者の眼のように、
想像した眼もいつか閉じられねばならない。
恋を拒まれた男は立ち上がることになろう。
――しかし彼の創り手は歩き去っている。


 この詩は、老年になって、暴力事件の被害者となり、深手を負って入院した「古義人」が、集中治療室から集団快復病棟に移された夜に見た夢のなかで、若いナバコフの小説(ドイツ語)の結びとなっていた詩のような一節を「古義人」が邦訳したものだった。それが、この小説のタイトルとなっています。

 この物語の第1部の扉は、このエリオットの詩から開かれた。

  もう老人の知恵などは
聞きたくない、むしろ老人の愚行が聞きたい
不安と狂気に対する老人の恐怖心が
       ――T・S・エリオット(西脇順三郎訳)


 上記の3冊の小説のなかで、老作家は次々に大切な友人を亡くしています。映画監督、音楽家、編集者などなど・・・・・・そして残された友人の建築家の「繁」を中心としてその周囲の若い人間たちとのドラマが「さようなら、私の本よ!」だった。「繁」はアメリカの大学で教鞭をとっていたが、長い空白ののちに帰国して「古義人」とともに、深く関わる時間を共有することになります。
 エリオットの詩に「ゲロンチョン」という作品があります。ギリシャ語で、geron(old man)とtion(little)を組み合わせた言葉で、「小さな老人」の意味ですが、一般的な意味では、精神が萎縮しつつある人間と社会を象徴しているようです。主人公の老作家の軽井沢の別荘は、この「小さな老人=ゲロンチョン」という名前が付けられています。かつて設計と建築に関わったのは「繁」であり、案は「古義人」だった。

 ――ぼくの父親がいったのは、ぼくの代りに死んでくれるほかの子供ということだが、きみのお母さんがいわれたのは、ぼくがきみの代りに死ぬ、ということだね。(古義人)

 ――それでも、事の始まりは、われわれお互いの母親が、それぞれの子供をね、相手のために死ぬ人間へ育てようと、そういう密約だったのじゃないか?(繁)


 少年期に不思議な出会いをした二人の少年の、再び老齢にはいってから交わされたこの会話は一体なんだろう?

 これは、第2部の扉にかかれた詩です。

死んだ人たちの伝達は生きている
人たちの言語を越えて火をもって
表明されるのだ。
       ――T・S・エリオット(西脇順三郎訳)


 第3部の扉では・・・・・・

老人は探検家になるべきだ。
現世の場所は問題ではない
われわれは静かに静かに動き始めなければならない。
       ――T・S・エリオット(西脇順三郎訳)



 三島由紀夫の自決、「古義人」のかつての自殺未遂(生まれた長男が障害児であったことへの苦しみ?あるいは罪の意識か?)、「古義人」の大学時代の恩師の示したもの。「古義人」と「繁」を中心として会話があり、そこに集まった若い人たちの考え方あるいは1人の老作家の見方など、錯綜する対話のなかで、「古義人」は、1つの時代を終えて、あらたな老作家として、どう書いて生きてゆくのか?を模索するのでした。

 3冊をなんとか読み終えて、考えたこと。「古義人」をとりまく世界には「知的エリート」しか存在しないことだった。これがいけないことだとは思わない。こうした必然性は逃れようもないことだろう。作家「大江健三郎」が数100年後の歴史のなかを生きながらえていくことを祈る。

 (2005年・講談社刊)
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Apr 04, 2009

不思議な少年 マーク・トウェイン

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 マーク・トウェインはこの小説を1890年頃から書き始め、20年後に亡くなるまで何度も改稿し、それによって複数の原稿が残されている。どれも未完成ですが、「サタン」を象徴とする少年が登場する点で共通している。

①The Chronicle of Young Satan。
1702年のオーストリアの村を舞台に、サタンの甥である「サタン」が主人公。しかしこの原稿は、インド旅行中断している。

②Schoolhouse Hill。
舞台を『トム・ソーヤーの冒険』に合わせ、トム・ソーヤーや、ハックルベリー・フィンを登場させている。主人公の少年の名前は「第44号」となっている。これは残された原稿の中で最も短い。

③No. 44, The Mysterious Stranger。
舞台を1490年のオ-ストリアの古城とし、「第44号」と名乗った少年は古城の中の印刷工場で働くことになっている。この版は3つの中で最も分量が多いが、完成していない。

 現在広く知られている「不思議な少年」は、マーク・トウェインの死後、遺産管理人のアルバート・B・ペインが1916年に出版した「Mysterious Stranger, A Romance」である。これはペインが①の原稿を基に③の結末を付け加えたもの。1937年にペインが死亡し、遺産管理人となったバーナード・デヴォートが、1960年代になって「トウェイン」のすべての原稿を公開して、1916年の作品はペインの手が加わったものだと判明した。


 少年「テオドール」が語るこの物語は、1590年5月、オーストリアのエーセルドルフ(Eseldorf 、ドイツ語でロバの村、すなわち愚者の村)に、自らを「サタン」と名乗る、年齢は1万6000歳の少年が現れることからはじまる。その物語のなかで語られる下記の言葉が魅力的でしたので、そこだけ抜粋しました。


 『未開人にしろ文明人にしろ、大多数の人間ってものは、腹の底は案外やさしい。人を苦しめることなんて、ほとんどできやしないんだ。だが、それが攻撃侵略的で、まったく情け知らずの少数者の前に出ると、そういう自分を出し切る勇気がないんだな。・・・・・・戦争を煽るやつに、正しい人間、立派な人間なんてのは、いまだかつて1人としていなかった。僕は百万年後だって見通せるが、この原則に外れるなんてことは、まずあるまいね。あっても、せいぜい5、6人ってところかな。いつも決まって声の大きなひと握りの連中が、戦争、戦争と大声で叫ぶ。すると、さすがに宗教家どもは、はじめのうちこそ用心深く反対をいう。国民の大多数も、鈍い目を眠そうにこすりながら、なぜ戦争などしなければならないのか、懸命になって考えてみる。そして心から腹を立てて叫ぶのだ。「不正な戦争、汚い戦争だ。そんな戦争の必要はない」ってね。するとまた例のひと握りの連中が、いっそう声をはり上げてわめき立てる。これも少数だが、もちろん戦争反対の立派な人たちはね、言論や文章で反対理由を論じるだろうさ。そして、はじめのうちは、それらに耳を傾けるものもいれば、拍手を送るものもいる。だが、それはとうてい長くは続かない。なにしろ扇動屋のほうが、はるかに声が大きいんだから。やがて聴くものもいなくなり、人気も落ちてしまう。すると今度はまことに奇妙なことがはじまる。まず戦争反対論者たち石をもて演壇を追われる。そして凶暴になった群集の手で言論の自由は完全にくびり殺されてしまう。・・・・・・そう、教会までも含めてそうなのだが、いっせいに戦争、戦争と叫び出す。そして、あえて口を開く正義の士でもいようものなら、たちまち蛮声を張り上げて襲いかかるわけだ。まもなくこうした人々も沈黙してしまう。あとは政治家どもが安価な嘘をでっち上げるだけさ。まず被侵略国についての悪宣伝をやる。国民は国民で、うしろめたさがあるせいか、それらの気休めにこれらの嘘をよろこんで迎えるのだ。こうしてそのうちにまるで正義の戦争ででもあるかのように信じこんでしまい、この奇怪な自己欺瞞のなかでぐっすり安眠を神に感謝することになるわけだな。』
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Apr 02, 2009

不思議な少年 マーク・トウェイン

4-2sakura-4

 マーク・トウェインはこの小説を1890年頃から書き始め、20年後に亡くなるまで何度も改稿し、それによって複数の原稿が残されている。どれも未完成ですが、「サタン」を象徴とする少年が登場する点で共通している。

①The Chronicle of Young Satan。
1702年のオーストリアの村を舞台に、サタンの甥である「サタン」が主人公。しかしこの原稿は、インド旅行で中断している。

②Schoolhouse Hill。
舞台を『トム・ソーヤーの冒険』に合わせ、トム・ソーヤーや、ハックルベリー・フィンを登場させている。主人公の少年の名前は「第44号」となっている。これは残された原稿の中で最も短い。

③No. 44, The Mysterious Stranger。
舞台を1490年のオ-ストリアの古城とし、「第44号」と名乗った少年は古城の中の印刷工場で働くことになっている。この版は3つの中で最も分量が多いが、完成していない。

 現在広く知られている「不思議な少年」は、マーク・トウェインの死後、遺産管理人のアルバート・B・ペインが1916年に出版した「Mysterious Stranger, A Romance」である。これはペインが①の原稿を基に③の結末を付け加えたもの。1937年にペインが死亡し、遺産管理人となったバーナード・デヴォートが、1960年代になって「トウェイン」のすべての原稿を公開して、1916年の作品はペインの手が加わったものだと判明した。


 少年「テオドール」が語るこの物語は、1590年5月、オーストリアのエーセルドルフ(Eseldorf 、ドイツ語でロバの村、すなわち愚者の村)に、自らを「サタン」と名乗る、年齢は1万6000歳の少年が現れることからはじまる。その物語のなかで語られる下記の言葉が魅力的でしたので、そこだけ抜粋しました。


 『未開人にしろ文明人にしろ、大多数の人間ってものは、腹の底は案外やさしい。人を苦しめることなんて、ほとんどできやしないんだ。だが、それが攻撃侵略的で、まったく情け知らずの少数者の前に出ると、そういう自分を出し切る勇気がないんだな。・・・・・・戦争を煽るやつに、正しい人間、立派な人間なんてのは、いまだかつて1人としていなかった。僕は百万年後だって見通せるが、この原則に外れるなんてことは、まずあるまいね。あっても、せいぜい5、6人ってところかな。いつも決まって声の大きなひと握りの連中が、戦争、戦争と大声で叫ぶ。すると、さすがに宗教家どもは、はじめのうちこそ用心深く反対をいう。国民の大多数も、鈍い目を眠そうにこすりながら、なぜ戦争などしなければならないのか、懸命になって考えてみる。そして心から腹を立てて叫ぶのだ。「不正な戦争、汚い戦争だ。そんな戦争の必要はない」ってね。するとまた例のひと握りの連中が、いっそう声をはり上げてわめき立てる。これも少数だが、もちろん戦争反対の立派な人たちはね、言論や文章で反対理由を論じるだろうさ。そして、はじめのうちは、それらに耳を傾けるものもいれば、拍手を送るものもいる。だが、それはとうてい長くは続かない。なにしろ扇動屋のほうが、はるかに声が大きいんだから。やがて聴くものもいなくなり、人気も落ちてしまう。すると今度はまことに奇妙なことがはじまる。まず戦争反対論者たち石をもて演壇を追われる。そして凶暴になった群集の手で言論の自由は完全にくびり殺されてしまう。・・・・・・そう、教会までも含めてそうなのだが、いっせいに戦争、戦争と叫び出す。そして、あえて口を開く正義の士でもいようものなら、たちまち蛮声を張り上げて襲いかかるわけだ。まもなくこうした人々も沈黙してしまう。あとは政治家どもが安価な嘘をでっち上げるだけさ。まず被侵略国についての悪宣伝をやる。国民は国民で、うしろめたさがあるせいか、それらの気休めにこれらの嘘をよろこんで迎えるのだ。こうしてそのうちにまるで正義の戦争ででもあるかのように信じこんでしまい、この奇怪な自己欺瞞のなかでぐっすり安眠を神に感謝することになるわけだな。』
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