Feb 26, 2006
花と古デジカメ
我がボロ・デジカメを買い換えるか否か、目下思案中です。明日は新品を買うつもりでいますが、この古デジカメの最後のテストとして花の写真を撮ってみました。おおお!結構いけるではないか!と自画自賛。ううむ。。新品を買うべきかどうか、悩む。。。
Feb 20, 2006
同人誌
個人詩誌「真昼の家」を休刊してから五年が経った。同人誌への参加というものから、なんとなく身を引いたのはもっと前の時期になるだろうか?とりあえず無所属(?)の間に、BBSを作っていただいたり、ホーム・ページを持たせていただいたり、さらにブログも持たせていただいたりと、わたしの詩作を含む活動の場はずっとネットの中だったが、どうしたことか紙版の同人誌「re Pure」に参加させて頂いた。
この、同人誌の母体となっているのは、「PSP」という詩の合評会(代表=竹内敏喜さん)なのですが、ここへのわたくしの参加そのものが「遅れてきた者」であり、同人誌への参加も創刊号では決心できず、二号からの参加という、これまた「遅れてきた者」であった。
前口上が長いが、ともかくネットから紙版への扉を久しぶりに開いた。ドアーがキーキー・ギシギシと音をたてているようだが、紙版の世界からは、ちょっと違う風が吹いてきたという感触が頬のあたりに感じる。ちょっと遅れましたがご報告です。
この詩誌の装丁と製本は水仁舎の北見さんです。画像のスキャンがうまくいかなくて残念ですが、タイトルは黒、「2」は深く輝く赤、小さなローマ字は参加者の名前ですが、これは金色です。表紙は白の厚手の和紙、素晴らしい和綴じの冊子です。
【付記】
水仁舎
↑から北見さんのブログに行けます。この詩誌の美しい画像が掲載されています。是非ともご覧下さいませ。また、ご本人の北見さんから訂正をたくさんいただきました。以下に訂正記事をコピーしておきます。北見さん、ごめんなさーい。
【表紙の紙は和紙ではありません。でもなかなか良い質感でしょ。 それから綴じは和綴じではなく中綴じの糸かがりです。】とのことでした。すみませぬ。
Feb 19, 2006
Feb 08, 2006
追悼の歌
「書の至宝」展で展示されたものを読み解きしながら、思い出したものがありました。読み解きはとても困難でしたが。。。亡父の従妹のおばさまが、父の死後にわたしに送って下さった短歌の短冊です。父が亡くなったのは平成九年(一九九七年)の八月でした。これも読み解きができなくて、おばさまにお電話をしてしまいました。おばさまは「しょうがないあっこちゃんねぇ。。」と嘆きながら、教えてくださいました。なつかしい思い出です。
ふるさとの(能)相馬の海に(仁)野に山に(爾) 美(み)たましずかにおわす(須)君かも(可裳)
ゆく夏の(能)足利の地に蝉し(志)ぐれ お(於)くつきふかく安かれと祈る
Feb 07, 2006
Feb 05, 2006
言葉のもどかしさなど。。。
四日、国立の一ツ橋大学に隣接する「佐野書院」にて、「ル・クレジオ」を迎えてのワークショップを聞きに行きました。題して「外部のヨーロッパ人 ル・クレジオを迎えて」というものです。詳しくは桐田さんの「吸殻山日記」をご覧下さい。(ずる。(^^;)。。。)
「ル・クレジオ」は一九四〇年ニースで生れていますが、彼の自称は「フランス系モーリシャス人」とのことです。幼児期に戦争があったこと、それによって国籍が数回変わったこと、さまざまな土地を見たこと。それが彼にマイノリティー的感覚を育てるもとになっているように思えました。その感覚に寄り添うように、さまざまな人々が「ル・クレジオ」との細い通路を探り出し、そこから語りかけるしかないのだが、それらはすべて「ル・クレジオ」の全体像に触れることはできない。
かくいうわたしは、まず「ル・クレジオ」の通訳の発言を待つことになる。その間にすでに理解の時間や解釈がおそらくずれているにちがいなかった。「アメリカ先住民世界」が「ル・クレジオ」に与えた影響はかなり大きいものであるらしいが、そしてそれはわたしも興味を持っていた世界だが、それをわたしからのか細い通路にしてしまうことは、なんとも短絡的で避けたい気持が働いた。
人間同士は心の形や姿や温度を見せることはできない。そこに「言葉」が働きかけるしかないのだが、それはなんともどかしい作業だろうか?「ル・クレジオ」の周辺をめぐりながら、わたしはただ「言葉のもどかしさ」を抱いて帰りの電車に揺られていたように思う。
「ぼくの真実に近づくために、ぼくは直感および言語という貧しい道具しか持ち合わせがない。だがある程度は、これらの道具でぼくにとっては十分なのだ。確実性におけるそれらの貧しさは、偶然性における豊かさである。」
立春とはいえ、快晴のとても寒い一日でした。一ツ橋大学構内にて。
Feb 03, 2006
書の至宝・日本と中国
二日午後、桐田さんと上野の東京国立博物館にて「書の至宝」を観てきました。展示総数が想像以上に多くて、観にいらっしゃる方々の人数も予想以上でした。閉館時間にせかされながら観ることになってしまいましたが、わたしの主なる目的だった「良寛」の屏風に書かれた書はしっかり観てまいりました。詩人正津勉の言葉を借りれば良寛の書は「脱力」だったと思います。のびやかで、やさしい書でした。
博物館を出ましたら、もう陽は落ちていましたが、うつくしい噴水を観ることができました。
噴水の頂の水落ちてこず 長谷川櫂
「噴水」は夏の季語ですが、何故かここの噴水を観るのは冬の季節ばかりのようです。まるで白いかき氷を噴き上げているようです。昨年の二月二四日には「踊るサチュロス」を観たことなど思い出しましたが、その日の帰りの時間にはぼたん雪が降りました。あらゆる人間の時間はゆるやかに、時には激しく流れ続けているようです。
その後は新宿にて、いつもの場所で、いつもの面々で。。。
Feb 01, 2006
朝日新聞「ののちゃん」
朝刊連載のいしいひさいちの漫画である。おそらく今話題沸騰の「ホリエモン」事件を揶揄したものではないだろうか?彼の漫画は時々、時代に対してするどいつっこみを入れるなぁ~と思います。自衛隊のイラク派遣の始まった時期にも、ののちゃんのおばあちゃんに「これは、どう見ても出征やでぇ。」などと言わせた漫画家である。
わたしはこの事件と同時進行的に下記の「獄窓から」を読んでいましたので、わたしの「刑務所」に関する時代感覚はごちゃまぜになってしまって、おおいに困った。。どだいあたしの弱いおつむではねぇ。
獄窓から 和田久太郎
大雪で国旗出すのを忘れたり (十三歳・丁稚見習い時代)
言ひ訳の為の饅頭三つかな (同上)
金魚摑み殺したる性慾の悩み (大正五年)
アナキスト和田久太郎は明治二六年(一八九三年)生まれ。昭和三年(一九二八年)秋田刑務所にて縊死。では和田久太郎の罪状とはなんだったのだろうか?
発端は、大正十二年(一九二三年)の関東大震災の折に起きた「亀戸事件」と「朝鮮人の大虐殺」、さらに甘粕大尉による「大杉栄等の暗殺事件」にある。この時の戒厳令司令官陸軍大将を務めていた福田雅太郎への暗殺未遂事件(大正十三年・一九二四年)によるものである。この暗殺計画の主なる目的は、同士である「大杉栄等暗殺事件」への復讐として、村木源次郎とともに実行されたが、「未遂」というよりは「頓馬(失礼!)」と言えるような結果だったと思う。
大杉栄等三人を暗殺したとされる甘粕大尉の刑期は二年であったが、和田久太郎の刑期は福田雅太郎に軽症を負わせたにすぎなかったが、無期懲役だった。(和田は「死刑」を望んだのだったが。)甘粕は「軍人」であり、和田は「民間人」、その時代の「法」というものが曖昧模糊としたものであり、裁判も当然ながら、その不平等な実情を見せるものだ。しかし和田久太郎は民衆がそれに気付き、その考えは熟してゆくものであることを信じていたように思えます。和田は再審請求をしなかったのです。
和田久太郎は大正十三年(一九二四年)九月から翌年の九月までは、市ヶ谷刑務所の未決監に入監するが、無期懲役と決まってからは秋田刑務所に移送されている。この和田久太郎が困難な状況に置かれていることは疑いようもないことだが、書かれた随筆、書簡、俳句、短歌、童謡、詩は実に明るいし、かろみさえあった。これは和田自身の天性のものなのか?さらに和田には多くの同士たちの温かい友情もあり、和田もまた外にいる人々への思いやりと明るさを最後まで失わなかったということは奇跡のようだ。。それはまた和田久太郎の民衆への信頼にも結びついていたようです。書かれているものの大半が、刑務所内における苦しみや寂しさでもないことにも驚かされます。
あくびより湧きいでにたる一滴の涙よ頬の春を輝け (序歌)
今日はまた網笠越しに見ゆるかな青空遠く昼の夢月 (大正十三年)
月も照らせこれも浮世の一世帯 (大正十三年)
永別の秋となり行く風雨かな (同)
もろもろの悩みも消ゆる雪の風 (昭和三年・辞世)
この本は、三回に渡って出版されています。一回目は、昭和二年(一九二七年)に市ヶ谷刑務所時代に書かれたものが「獄窓から」として労働運動社から出版されました。二回目は、昭和五年(一九三〇年)に、秋田刑務所で書かれたものを加えた形で、故・近藤憲二によって編纂され、改造社から出版されました。三回目のこの本は復刻版であり、それに秋山清の解説と、鈴木清順書き下ろしの「物語・村木源次郎」が新たに加えられています。
【付記】
それにしても、わたしは何故この本を読もうと思ったのか、今となっては理由がわかりませぬ。某大学図書館の閉架図書となっていた本を、その大学関係者から借りていただいてまで手にした本でした。おもしろいことに、この大学の閉架図書というものは半年間も借りられるのですね。期間延長も可能だとのことでした。もう三十年以上も前に出版された本です。わたしとしましては、大変に不慣れなことを書きました。こうした問題について詳しい方がいらっしゃると思いますが、誤りがありましたらどうぞご指摘くださいませ。
(一九七一年・幻燈社刊)