Feb 01, 2006
獄窓から 和田久太郎
大雪で国旗出すのを忘れたり (十三歳・丁稚見習い時代)
言ひ訳の為の饅頭三つかな (同上)
金魚摑み殺したる性慾の悩み (大正五年)
アナキスト和田久太郎は明治二六年(一八九三年)生まれ。昭和三年(一九二八年)秋田刑務所にて縊死。では和田久太郎の罪状とはなんだったのだろうか?
発端は、大正十二年(一九二三年)の関東大震災の折に起きた「亀戸事件」と「朝鮮人の大虐殺」、さらに甘粕大尉による「大杉栄等の暗殺事件」にある。この時の戒厳令司令官陸軍大将を務めていた福田雅太郎への暗殺未遂事件(大正十三年・一九二四年)によるものである。この暗殺計画の主なる目的は、同士である「大杉栄等暗殺事件」への復讐として、村木源次郎とともに実行されたが、「未遂」というよりは「頓馬(失礼!)」と言えるような結果だったと思う。
大杉栄等三人を暗殺したとされる甘粕大尉の刑期は二年であったが、和田久太郎の刑期は福田雅太郎に軽症を負わせたにすぎなかったが、無期懲役だった。(和田は「死刑」を望んだのだったが。)甘粕は「軍人」であり、和田は「民間人」、その時代の「法」というものが曖昧模糊としたものであり、裁判も当然ながら、その不平等な実情を見せるものだ。しかし和田久太郎は民衆がそれに気付き、その考えは熟してゆくものであることを信じていたように思えます。和田は再審請求をしなかったのです。
和田久太郎は大正十三年(一九二四年)九月から翌年の九月までは、市ヶ谷刑務所の未決監に入監するが、無期懲役と決まってからは秋田刑務所に移送されている。この和田久太郎が困難な状況に置かれていることは疑いようもないことだが、書かれた随筆、書簡、俳句、短歌、童謡、詩は実に明るいし、かろみさえあった。これは和田自身の天性のものなのか?さらに和田には多くの同士たちの温かい友情もあり、和田もまた外にいる人々への思いやりと明るさを最後まで失わなかったということは奇跡のようだ。。それはまた和田久太郎の民衆への信頼にも結びついていたようです。書かれているものの大半が、刑務所内における苦しみや寂しさでもないことにも驚かされます。
あくびより湧きいでにたる一滴の涙よ頬の春を輝け (序歌)
今日はまた網笠越しに見ゆるかな青空遠く昼の夢月 (大正十三年)
月も照らせこれも浮世の一世帯 (大正十三年)
永別の秋となり行く風雨かな (同)
もろもろの悩みも消ゆる雪の風 (昭和三年・辞世)
この本は、三回に渡って出版されています。一回目は、昭和二年(一九二七年)に市ヶ谷刑務所時代に書かれたものが「獄窓から」として労働運動社から出版されました。二回目は、昭和五年(一九三〇年)に、秋田刑務所で書かれたものを加えた形で、故・近藤憲二によって編纂され、改造社から出版されました。三回目のこの本は復刻版であり、それに秋山清の解説と、鈴木清順書き下ろしの「物語・村木源次郎」が新たに加えられています。
【付記】
それにしても、わたしは何故この本を読もうと思ったのか、今となっては理由がわかりませぬ。某大学図書館の閉架図書となっていた本を、その大学関係者から借りていただいてまで手にした本でした。おもしろいことに、この大学の閉架図書というものは半年間も借りられるのですね。期間延長も可能だとのことでした。もう三十年以上も前に出版された本です。わたしとしましては、大変に不慣れなことを書きました。こうした問題について詳しい方がいらっしゃると思いますが、誤りがありましたらどうぞご指摘くださいませ。
(一九七一年・幻燈社刊)
Edit this entry...
wikieditish message: Ready to edit this entry.
A quick preview will be rendered here when you click "Preview" button.