Dec 31, 2005
Dec 30, 2005
十二月。。。
十二月になると色々なことを思い出す。昨年十二月は「声帯ポリープ」のために、一ヶ月近く通院治療、禁酒、禁会話、禁煙草の煙、の日々であった。母が急逝したのも、父の末期癌宣告を受けたのも十二月。姉の末期癌の入院中の病院に毎日通っていた日々にも雪で電車が止まった十二月があった。
今年の十一月から十二月は、病気も、不幸な出来事もなかったが、思いがけず以前の仕事を再度引き受けることになった。さすがにここまで来ると神経がまいってくる。頭痛薬、胃腸薬のお世話になっている。寝込むほどの出来事ではないが、年末になるとさすがに苛立つ。仕事を放棄することにした。年末は笑顔で終わりたいものだ。。。
「もっとひかりを。」なんちゃって(^^;)。。。
Dec 27, 2005
師走の新宿
22日、灰皿町の面々との「ぼーねんかい」に行く前に、「紀伊国屋」と「ハンズ」で買い物をしたり、コーヒーを飲んだり。。。その途中で12月の新宿のイルミネーションを撮ってみました。遅いアップですが、初めて見たので記念に(^^)。まだこのイルミネーションはあるのだろうか?
Dec 25, 2005
折 鶴
折鶴は紙に戻りて眠りけり 高橋修宏なんと切ない句だろう。。。一日はやっと折鶴ほどの形になっても、また一枚の紙のようになって、うっすらとした哀しみのなかで眠るのだろうか。。。
この句は、今日の清水哲男さんの「増殖する俳句歳時記」で読みました。一読して、わたしは迂闊にも女性俳人の句だと思ってしまいましたが、この句は男性俳人の詠まれたものでした。しかし一旦「女性」だと思いますと、もうそこを抜けることはできません。
わたしくは以前、吉祥寺の「ゆざわや」で買い求めたまま、しまってあった和紙を探し出して、鶴を折ってみました。一旦折ってから、また一枚の紙に戻すことは不可能でした。たくさんの折跡の線がくっきりと残された一枚の紙があるだけでした。これは、さらに哀しいことになってしまった。。。かくして、わたくしの一日はこの「折鶴」に支配される結果となってしまった。。。
Dec 23, 2005
Merry Christmas♪♪♪
このクリスマス・ツリーは全部ガラス製です。ツリー全体に曲がった小枝があって、そのそれぞれの小枝に小さな飾り物をぶら下げるのです。小さなオマケ(^^;)の長靴は桐田真輔さんから頂きました。
この本は紀伊国屋に行く度に見とれていた本ですが、思い切って買いました。わたしからわたしへのクリスマス・プレゼントです(^^)。
Dec 19, 2005
いまさらながら「詩作」について。
もう大分過去のことですが、ある方から「本など読むな。詩は知識を積んだから書けるものではない。それらは詩作のたった5%ほどの助けにしかならない。詩作は自らの感性だけが力だ。」と言われたことがあります。その言葉は強烈な記憶としてわたくしに残り続けました。
数年前に詩人吉原幸子さんが逝去されて、その後に「偲ぶ会」が開かれました。その折に献杯の役を引き受けられた詩人那珂太郎さんのお言葉が大変印象に残りました。那珂太郎さんは吉原幸子さんの高校時代の恩師でもいらっしゃいます。
『詩人吉原幸子は、あふれる程の教養と知識がありながら、それを全部背後に押しやって、その澄んだ感性だけで詩を書いた人でした。』
つまり、わたくしは全く同じ言葉を、全く関係のないお二人から聞いたことになったので、大変に驚きました。すぐにその那珂太郎さんのお言葉を、前記の方に伝えましたが「そうだろう?」と微笑んで答えられました。ううむ。これはわたくしには都合がよい「教え」なのですが、反面では厳しい感性の持続を迫られることでもあるのです。
これを反転させて、わたくしが詩の読者にまわった時に、その知識を強要してくる作品に出会うことがあります。つまりその知識がなければ読み取れないという作品、あるいはさまざまな書物からの「引用」を入れて書かれた作品です。おそらくそれらは書き手にはとても好きな世界で、どうしてもそれを詩作の上で生かしていきたいという思いがあるのでしょう。しかし、それが読み手にうまく伝わらないものであったとしたら、それは生かしたことにはならないでしょうし、それらの知識を自らの詩作の栄養として吸収しきれていないか、あるいはその知識を超えることができない状況なのではないかと思います。もっときつい言い方をするならば、その知識に拠りかかった詩作だとも言えるかもしれません。
乞う。反論(^^)。。
Dec 15, 2005
Dec 07, 2005
幼年連祷 吉原幸子
子供は初めに大人の世界に産まれ出てくる。そこはなにもかにも子供には大きすぎる世界だった。この巨人の国で大人に守られながら、子供は少しづつ大きくなる。(守られることなく大きくなる子供もいるだろうが。。)そして大人の背丈に近づくにつれて子供は脱皮の季節を迎える。これは「自然」なことではないか。人生はそれからの時間の方がはるかに永い。その時間のなかで人間はどこまで「内なる子供」を養いつづけることができるのだろうか?それは決して「純粋性」という意味ではない。
子供が育ってゆく期間、母親も同時に二度目の「子供の時間」を生きてきたのではないだろうか?それは、かがやくような「時間の子供」を内部に育てたのだといえるかもしれない。こんなことを考える時に必ず思い出すのは、この詩集です。おそらく詩人吉原幸子のご子息の幼年期の時代に書かれたものでしょう。
喪失ではなく 吉原幸子
大きくなって
小さかったことのいみを知ったとき
わたしは〝えうねん〟を
ふたたび もった
こんどこそ ほんたうに
はじめて もった
誰でも いちど 小さいのだった
わたしも いちど 小さいのだった
電車の窓から きょろきょろ見たのだ
けしきは 新しかったのだ いちど
それがどんなに まばゆいことだったか
大きくなったからこそ わたしにわかる
だいじがることさへ 要らなかった
子供であるのは ぜいたくな 哀しさなのに
そのなかにゐて 知らなかった
雪をにぎって とけないものと思ひこんでゐた
いちどのかなしさを
いま こんなにも だいじにおもふとき
わたしは〝えうねん〟を はじめて生きる
もういちど 電車の窓わくにしがみついて
青いけしきのみづみづしさに 胸いっぱいになって
わたしは ほんたうの
少しかなしい 子供になれた――
Dec 04, 2005
無能の人 つげ義春
先日ここに書いた正津勉の著書「脱力の人」の一人として登場した、つげ義春の「無能の人」に興味を持ちました、と書きましたら桐田真輔さんが貸して下さいました。もう古い貴重な本です。この本は「連作《石を売る》総集版」となっています。この漫画は読みながら、やりきれない思いになってゆく感覚を否めない。しかしそこに人間の「死」と隣接する「生きる」ということの暗い「根」のようなものを感じてしまう。ちょっとこの感想は書きにくい。
これは、1.石を売る、2.無能の人、3.鳥師、4.採石行、5.カメラを売る、6.蒸発・・・という六章からなっている。多摩川べりで多摩川の石を売ってみる。貧しくとも平等に人間の髪は伸びるが、切った髪を有効に生かせないかと悩む。虚無僧は儲かるのかとうらやむ。妻に「マンガ書いてよ」と嘆かれる。息子と「父ちゃん、虫けらってどんな虫」「ハハハ虫けらというのはね、世の中の何の役にも立たぬ・・・」「母ちゃんがね、父ちゃんは虫けらだって」などど夕暮の多摩川べりで寂しい会話をしてしまう。ミニマムな暮らしが、ますますミニマムな暮らしを誘発してゆく。あるいは加速する。人間が働くのは何のためなのか?とみずからに問いたくなる。伊那谷の俳人井月の話を最後にもってきたのは何故だったのか?
俳人井上井月はもと武士であり、伊那谷を放浪する頃から「放浪俳人」「乞食俳人」と言われるようになっているが、実は芭蕉、一茶、蕪村の流れを継ぐ俳人ではなかったのだろうか?この放浪の時期は大体が島崎藤村の「夜明け前」に重なるのではなかろうか?
世の塵を降りかくしけり今朝の雪
落栗の座を定めるや窪溜まり
何処やらに鶴の声聞く霞かな
この井月を慕って、後には山頭火がこんな俳句を残している。時代は移る。しかしひとの心になにかを残してゆく先人がいつの時代にもいるということなのだろう。
お墓撫でさすりつつ、はるばるまゐりました
(1987年・日本文芸社)
Dec 03, 2005
点子ちゃんとアントン エーリヒ・ケストナー
何故か偶然に「アントン」が続く。まぁ。名前ですから、不思議ではないでしょう。
このアントン少年は、同作家による「エーミールと探偵たち」の主人公のエーミール少年と、ほとんど同じタイプの少年である。これについて、ケストナーは「このような少年は世界にいくら大勢いても足りないし、将来いつか非常に役に立つ大人、私たちが必要とする大人であるからだ。」と解説する。
たしかにアントンは貧しい病気の母を深く愛して、看護し、家事をやり、学校にも行き、お金のために働きもした。そしてお金持の点子ちゃんにとっては最高の友であり、正しいボディーガードだった。この二人は模範的な少年少女なのだ。
点子ちゃんが空想好きのちょっとおかしな少女であり、疑うことを知らない天真爛漫さが、この物語の躍動感となっているが、全体としてはかなり教訓めいた作りになっている。それは物語の合間に、作者はたたみかけるように、登場人物の過ちや正しさについて解説してしまうからだろう。エーリヒ・ケストナーはかなり多くの児童文学を世に送り、高名な児童文学者ではあるようだが、読者に判断をゆだねないというところは「ちょっとねぇ。。。」という気持にさせられる。作者は読者を自分と同じ方向へ行くことを望んでいるようだ。
地下室アントンの一夜 尾崎翠
ある日ある時、わたしが「尾崎翠」を話題にした時、F氏が「アントンが一番おもしろい。」とおしゃったので、未読だったこの本を改めて読みました。たしかにこれは面白い短編だった。学者と詩人との「スピリット」の差異性を見事に描いているのだ。
動物学者の松木は実証派であり、「スピリット」を殺す度に一冊の著書が書き上げられるのだと、詩人土田九作は思っている。そして土田自身は一冊の肉筆詩集を持っているだけなのだ。その詩人は恋をすると恋の詩が書けない。「おたまじゃくし」の詩を書こうとする時に、松木は詩人に、失恋したばかりの少女(小野町子)に、一瓶の「おたまじゃくし」を届けさせる。
すると詩人は、少女にも「おたまじゃくし」にも心を占拠されてしまって、ますます詩が書けなくなった。松木の好意は伝わらず、松木は怒り、土田も怒る。お互いに一発お見舞いしようとするのだが、精神科医の登場でこの一夜は無事に終わり。。。
夜の火葬場の煙突はただちに星に連なっている。地上はつねに空と隣り合わせである。だから人間は「空」というものに感情移入をしてしまう生き物らしい。北風、南風によって煙も人間もおおいに影響を受ける。土田の頭も北風の日には冴えるのだが、南風の日には何度も頭を振って、ようやく肩の上に頭があることを確認するという状態なのだ。「スピリット」とはかくも困難なものなのだった。。。
「アントン」は、どこかの国の黄昏期に棲んでいて、いつでも微笑んでいるという医師「アントン・チェホフ」の名に由来するらしいのだが。。。