Dec 07, 2005
幼年連祷 吉原幸子
子供は初めに大人の世界に産まれ出てくる。そこはなにもかにも子供には大きすぎる世界だった。この巨人の国で大人に守られながら、子供は少しづつ大きくなる。(守られることなく大きくなる子供もいるだろうが。。)そして大人の背丈に近づくにつれて子供は脱皮の季節を迎える。これは「自然」なことではないか。人生はそれからの時間の方がはるかに永い。その時間のなかで人間はどこまで「内なる子供」を養いつづけることができるのだろうか?それは決して「純粋性」という意味ではない。
子供が育ってゆく期間、母親も同時に二度目の「子供の時間」を生きてきたのではないだろうか?それは、かがやくような「時間の子供」を内部に育てたのだといえるかもしれない。こんなことを考える時に必ず思い出すのは、この詩集です。おそらく詩人吉原幸子のご子息の幼年期の時代に書かれたものでしょう。
喪失ではなく 吉原幸子
大きくなって
小さかったことのいみを知ったとき
わたしは〝えうねん〟を
ふたたび もった
こんどこそ ほんたうに
はじめて もった
誰でも いちど 小さいのだった
わたしも いちど 小さいのだった
電車の窓から きょろきょろ見たのだ
けしきは 新しかったのだ いちど
それがどんなに まばゆいことだったか
大きくなったからこそ わたしにわかる
だいじがることさへ 要らなかった
子供であるのは ぜいたくな 哀しさなのに
そのなかにゐて 知らなかった
雪をにぎって とけないものと思ひこんでゐた
いちどのかなしさを
いま こんなにも だいじにおもふとき
わたしは〝えうねん〟を はじめて生きる
もういちど 電車の窓わくにしがみついて
青いけしきのみづみづしさに 胸いっぱいになって
わたしは ほんたうの
少しかなしい 子供になれた――
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