Dec 04, 2005
無能の人 つげ義春
先日ここに書いた正津勉の著書「脱力の人」の一人として登場した、つげ義春の「無能の人」に興味を持ちました、と書きましたら桐田真輔さんが貸して下さいました。もう古い貴重な本です。この本は「連作《石を売る》総集版」となっています。この漫画は読みながら、やりきれない思いになってゆく感覚を否めない。しかしそこに人間の「死」と隣接する「生きる」ということの暗い「根」のようなものを感じてしまう。ちょっとこの感想は書きにくい。
これは、1.石を売る、2.無能の人、3.鳥師、4.採石行、5.カメラを売る、6.蒸発・・・という六章からなっている。多摩川べりで多摩川の石を売ってみる。貧しくとも平等に人間の髪は伸びるが、切った髪を有効に生かせないかと悩む。虚無僧は儲かるのかとうらやむ。妻に「マンガ書いてよ」と嘆かれる。息子と「父ちゃん、虫けらってどんな虫」「ハハハ虫けらというのはね、世の中の何の役にも立たぬ・・・」「母ちゃんがね、父ちゃんは虫けらだって」などど夕暮の多摩川べりで寂しい会話をしてしまう。ミニマムな暮らしが、ますますミニマムな暮らしを誘発してゆく。あるいは加速する。人間が働くのは何のためなのか?とみずからに問いたくなる。伊那谷の俳人井月の話を最後にもってきたのは何故だったのか?
俳人井上井月はもと武士であり、伊那谷を放浪する頃から「放浪俳人」「乞食俳人」と言われるようになっているが、実は芭蕉、一茶、蕪村の流れを継ぐ俳人ではなかったのだろうか?この放浪の時期は大体が島崎藤村の「夜明け前」に重なるのではなかろうか?
世の塵を降りかくしけり今朝の雪
落栗の座を定めるや窪溜まり
何処やらに鶴の声聞く霞かな
この井月を慕って、後には山頭火がこんな俳句を残している。時代は移る。しかしひとの心になにかを残してゆく先人がいつの時代にもいるということなのだろう。
お墓撫でさすりつつ、はるばるまゐりました
(1987年・日本文芸社)
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